田中求之的日々の雑感

このページは田中求之的日々の雑感の2003年分のアーカイブです。

ここに記されているのは、あくまでも田中求之の個人的な意見や感想です。
田中の所属する組織や田中の公的な立場の見解ではありません。

田中が購入したり読んだり気になった本の題名に bk1 やアマゾンへのリンクが付いている場合がありますが、これらのリンクにはアフィリエイト(ブリーダー)の ID は埋め込まれていません。リンクは記録や紹介を目的にしたものです。

【田中求之的日々の雑感】  【田中求之的日々の雑感 アーカイブ一覧】

03年01月02日 11時30分 着信

昨日は妻の実家に行って正月を過ごす。『ブートストラップ』をのんびりと読もうなどと思っていたが、酒が入るとすぐに寝てしまった。雪が降って積もったのも気がつかなかった。

妻の実家に出かける前に近所の寺や神社に初詣でにいく。このあたりの集落には日吉神社が多いので、3つの日吉神社にお参りする。今年やりたいこと(昨年のうちにやれなかったこと)を、妻の実家から帰る車の中でぼ〜っと考えていた。研究関連としては、

  • チューリングとサールの論文の精読。チューリング・テストのコミュニケーション論的な意義を自分なりに解釈する。
  • ルーマンの「理解」の理解。『社会システム理論』を、各種英訳を参照しながら読み込むことで、理解と差異そして主体について、自分なりに考えること。特に、受動的/触発的にコミュニケーション主体が立ち上がるという理論構成でどこまでいけるかを見極めること。
  • ドゥルーズの読解。『差異と反復』と『スピノザと表現の問題』は読み込みを行ないたい。また、『経験論と主体性』を、上記のコミュニケーション論との関連で再読するという作業もぜひやってみたい。さらに、できれば、『ミル・プラトー』と『哲学について』も。

また、講義に関連して

  • 経営組織論の講義ノートの深化と展開。コミュニケーション論を軸に据えて原理論の深化を図るとともに、通年講義に備えて、一般的な教科書の内容も取り込むこと。
  • 情報システムの講義ノートの改訂。『コンピュータのきもち』あるいは『あなたはコンピュータを理解していますか?』などを参考にしながら、もう少し深みを持ったものにしたいと考えている。

そして、素人プログラマー&サイト運用に関連して

  • Tanaka's osax のドキュメントの完成。これによって一区切りつけることができるのではないかと思う。
  • MacHTTP の設定解説。ソースを読み込みながら、各パラメータの意味等を追っかけて解説したもの。書きかけのままだ。
  • mboxer の改良。やりかけのままになっている分だけでも切りを付けたい。
  • WSM の運用体制の見直し。おそらく、今年はこれが一番大きな問題になってくるのではないかと思っている。OS X の時代を迎え、今のままでいいのか。そもそも LC475 がいつまでもつのか。考え出すと色々な問題がある。OS X が主流になれば、ゆっくりと消えていってもよいものだとは考えているが、その前に、過去の発言をきちんと検索できたり、簡単に参照できるようにしておくことは、やっておくべきだろうと考えている。過去の記録としての意味しか持たないのであればそれはそれでいいが、せめて、記録として使いやすいものにはしておきたいと思う。自分としては、おそらく、今年も MacOS の方をメインに使い続けることは間違いない(なんてったって、今の作業環境を OS X 上では構築できないことが明らかなんだから、今の OS でいいじゃないかと思う)。そういう意味では、MacOS を味わい尽くすためにまだやれることがやまほどあるんじゃないかと思う。そういう自分のスタンスに合わせて、WSM などのサイトの運用も考えていかないといかないだろうな。
  • 雑感システムの改良。約2年にわたって、このメールで投稿できる日記(雑記)システムを使ってきたのだが、自分としては、メールで書き込めるってのは、けっこういいと思うので、このシステムを、もう少し改良してみたいと思っている。REALbasic の SuperSopcket がフリーウェアとして公開されたということもあるので、やれるのなら、サーバ機能込みのシステムとして作り込んでみるのも面白いだろうな。

ざっとこういうことを考えてみた。もっとも、「人生は出たとこ真剣勝負」ってのをモットーにして、その時、その場での出会いに対して自分を開いておくこと(これが Jazz のエッセンスだと自分では思うんだけど)、それだけは譲れないので、実際には、何をするのかは、わかんないんだけどね。計画を立てるのはいいとしても、その計画で自分を縛ってしまうのはつまんないからね。

さて、今日は、これから、のんびりと、読書三昧だぁ。

03年01月03日 22時30分 着信

一日、家でごろごろとして過ごす。『子どもと始める囲碁』(安田泰敏)なんかも読んだりする。夜になって娘がいきなり立ち上がる。このところつかまり立ちする姿がしっかり直立の姿勢になってきたなぁと思っていたのだが、突然、急に思いついたように、よいこらしょと立ち上がったのには、ちょっとびっくり。もうすこし立ち上がる練習というか移行段階があるものだと思っていた。歩くのはまだという感じだが、でも、そういうものなのかと。何でも中間段階があると思うのは間違っているのかもしれない。まぁ、確かに、たとえば、ある本に書かれていることが「分かる」っていうのも、いきなり「!!」ってくるみたいなところがあるもんな。

『ブートストラップ』は、なかなか手応えのある本で、簡単には読み進められないのだが(ましてアルコールが入っていると (^_^;; )、コンピュータと人間の接し方(ひらたく言えばインターフェースなんだが、いわゆるインターフェースというのが、今では GUI の設計みたいなものになっているんで、かえって違和感がある)に関して、そして、これは著者とエンゲルバートの思想のポイントでもあるだろうが、コンピュータを前にして人間の側もどれだけ変われるかといった観点が面白い。ベイトソンなどのサイバネティクスとも繋がっているしね。そういう意味では、エンゲルバートはサイバーパンクの先駆者ということになるだろう。

03年01月04日 12時10分 着信

『ブートストラップ』第六章より

エンゲルバートの研究は、もしも人間の操作する記号をコンピュータが操作できるようになれば、コンピュータはそのユーザーに創造的思考、コミュニケーション、協力における新しいモードをも たらすことにより共進化を遂げ、強力な人工器官の役を果たせるのだという前提に基づいていた。この期待された共進化の核はブートストラップの概念に基づいており、それは互いに順応しあう学 習経験であると考えられ、その主な設計基準には使い易さは入っていなかった。「私は、ゼロックスの一味があれのすべてを完全に捨ててしまったという、強い印象を持った。」彼ら(ゼロックス PARC)が拒絶したものは、ユーザーと機械の共進化であり、それに伴ってユーザーが学習プロセスの苦しさを経なければならない必要性であった。「私はこれがとても重要だと思うんだが、覚えるのは簡単でなければならないという盲目的な方針があるけれど、それじゃそれは誰のためだと聞きたいね。初めてのユーザーのためだと言うのなら、それはいいだろう。しかし、そのデザイン方針が組み込まれてしまっていて、用意されたインターフェースが、もっとスキルを向上させて、もっとうまく飛び回るように操作したいと思っている人たちには融通がきかないものだとすれば、それは将来に対して害をなしているのだと言いたいね。」
(「」は同章のエンゲルバートのインタビューより)

やっぱサイバーパンク(それはサイバネティクスの孕んでいた一つの方向性だが)の思想だよなぁ。

03年01月05日 12時08分 着信

『ブートストラップ』を読了。最後にはしっかりとギブスンが出てきて、やっぱそうだよなぁという感じであった。"rest of us" によって失われてしまったもの(見えなくなってしまったもの)を考えるという点で、刺激的な本であった。

『差異と反復』を読んだりする。

nettime と sociocybernetics の ML の溜まっていたメールの整理などを行なう。もっと普段からまめに目を通しておきたい ML なのだが、やはり英語なので、気楽にというわけにはいかない。AppleScript 関連の ML のメールの整理も行なったのだが、やはり、ほとんどが OS Xの話になっている。

昨夜から本格的な雪。かなり積もってきているので、夕方には雪かきをしておく必要があるだろうな。今も、窓の外は吹雪いていて真っ白だ。しかし、こういう風景を目にすることになるんだから、まぁ、人生の縁なんて不思議なものだよな。松山の頃なんて、雪が降っただけでお騒ぎだったんだから。

03年01月06日 08時34分 着信

本格的な雪。昨日は久しぶりに雪かきをしてから買い物に出かけたが、除雪ができてない SC の中の道など、もうぐちゃぐちゃであった。今日も出かける前には雪かきが必要だろうと考えて、先ほど、軽くかいてきたのだが、次々と雪は降ってくる。やれやれ。

アルチュセールの自伝『未来は長く続く』を読み始めたら、ぐぅ〜っと引き込まれてしまう。異様な緊張感に満ちている本である。

家の AriMac Basestation の調子がおかしい。壊れたのかなぁ〜。修理できるものなのだろうか?

03年01月07日 08時11分 着信

雪は峠を越えたようだが、今日も降り続いている。公舎の駐車場がもうぐちゃぐちゃである。

昨日は卒論の指導。今日も。今週が指導の山場だ。

『未来は長く続く』を読み続けているが、内容が内容だけに、なかなか一気に読み流すというわけにはいかない。ただ、一つ思うことは、これはあくまでもアルチュセールという一人の哲学者の自伝的回想録であり、そしてそれ以上のものではないということだ。つまり、彼の名前で発表されたテクストの読解の鍵とか、秘められた思想といったものを、この本の中に求めてはいけないということ。変な言い方だが、こんな人だからあれらのテクストが書けた、という読みを行なってはいけないだろう。もちろん、彼自身による自分の著作や哲学に関する言及がある以上、どうしても影響を受けてしまう点があるのは、どうしようもないことではあるが。 そんなことを思いながら読んでいる。

AirMac BaseStation は、どうやら、症状から察するに、有名な(?)、コンデサの劣化の問題のようだ。修理に出しても丸ごと交換で、けっこう値段と時間がかかるようなので、買い替えたほうが早いようにも思う。やれやれ。このへんがアップルなんだよな。コンデンサの交換ぐらいだったら自分でもできるのだが(まだハンダ鏝は錆びてないぞ)、規格に合うコンデサがすぐに入手できるかどうか… 

03年01月07日 21時55分 着信

自宅の AirMac BaseStation を取り換える。壊れたほうは部品を探してきて自分で修理してみるつもりだが、部品が入手できるかどうかという問題と、ハンダ鏝の腕が鈍ってしまっているリスクがあるので、思いきって新しいものを購入した。卒論指導がすんなり終わったので、早めに自宅に戻って、さっそくセットアップを始めたのだが、まずデフォルトで 10.0.1.1 という IP アドレスになっているので、G3 の IP を変更しなければ Admin で設定できなかった。まぁ、これはたいした問題ではなく、いったん設定が終われば、TiBook からも問題なく接続ができた。ところが、妻の Win のノートの方が、BS を認識しなくなった。Corega のカードを差しているのだが、Scan をかけても電波をつかまえない。仕方がないので、ドライバー類をいったん Uninstall し、ついでに新しいバージョンのドライバー(前に落としてあった)をインストールしなおし、再設定を行なうと、ようやく認識。やれやれ。無線 LAN の部分はもっぱら妻が使うので、これにてようやく今回のトラブルも一段落というところである。

夕食の買い物に行った際に、ジョニ黒が安売りされていたので、購入。ジョニ黒が安売りの対象になるってのに、ちょっと感慨深いものがあった。学生の頃、友人達と、一度うまいウイスキーを飲んでみようと金を出し合ってジョニ赤の方を買って飲んだことがあるのだが(ジョニ黒は高くて無理だったのだ)、今では、ジョニ赤なんて、国産もの並の値段で売られている。そういう意味では、酒類のディスカウントストアのおかげで、海外の酒が安く飲めるようになったというのは良いことではある。オールド飲むくらいなら、もうちょっと頑張ってスコットランドのシングルモルトを買うなり、バランタインの12年ものあたりを買って飲めるもんなぁ。最近の学生はウイスキーを飲まないようで、「だるま」っても全然通用しない。自分が学生の頃は、ウイスキーといえばオールド、それも金に余裕があるとき。余裕がなければ RED だったもんな。リザーブなんて飲んだ日には、なんとなくリッチな気分になったもんだ(だからこそ、ジョニ赤を共同購入するなんてことにワクワクしたわけだけど)。久しぶりのブレンディッド・ウイスキーを味わってから、『未来は長く続く』を読むつもりである。

03年01月08日 09時04分 着信

今日は一転して朝から快晴。一面の靄がかかっているけれど。Mac Expo SF で新しい PowerBook の発表などがあって、その話題がネットを駆け巡っているという感じ。確かに、最小の 12 インチの PowerBook G4 には惹かれるものがあるなぁ。

03年01月09日 12時00分 着信

昨日は臨時教授会と学部の新年会。教授会の終了後、新年会までの時間、注文していた『言語学フォーエバー』(千野栄一)が届いていたので読みふけっていた。言語学の面白さ、あるいは言語そのものの不思議さみたなものに触れられるエッセーが並んでいる本である。言語学をやるほど語学の習得能力は高くないが、それでも、言語学というのは気になる分野のひとつである。

新年会は神明にて。久しぶりの宴会という感じであった。1次会で切り上げて帰ってきてすぐに寝る。

今朝は、起きて、娘と妻を送りだしてから、『未来は長く続く』を読んでいた。「未来は長く続く」の部分は読了。悲痛とも言える緊張感に引っ張られ続けたという感じである。

03年01月09日 23時03分 着信

夕食の買い物のついでに「ヒカルの碁」20 と『路上の神々』(赤瀬川原平)を買ってきて読む。赤瀬川のトマソン〜路上観察ものはいいよなぁと改めて思う。『誘拐の果実』(真保裕一)も購入。これを読んで、ちょっと気分転換ってとこかな。

03年01月11日 21時44分 着信

一昨日の夜〜昨日の午前中で『誘拐の果実』を読み上げる。一気に読み切ってしまえるストーリー展開の本であった。

昨日の午後は卒論指導。1名が完成するなど、山場。そのぶん、読んで指導するのは疲れる。

昨夜は布団で新書を読もうと思っていたのだが、例によってすぐに寝てしまう。やれやれ。

今日の午前中は買い物へ。『航路』(コニー・ウィルス)と『新語はこうして作られる』(窪薗晴夫)、それに F1 Club を購入。F1 Club は終刊号。出たころから、割と気に入っていた雑誌で、まめに買っていただけに、ちょっと残念ではある。でも、最近はいまひとつ面白くなくて、買ってない号もあるという状態だった。最初の小さな版の頃や、版を大きくした直後が、なんか雑誌らしい突っ込んだ特集などがあって、毎回楽しみだった(研究室にとってあるはず)。予告通りには出なくて、それが困った(いつも雑誌の棚をチェックしてないといけないので)。個人的には、モータージャーナリズムってのはこういうもんなんかもしれない、というのを実感させてくれた記事に出会えた雑誌である。

セナがマクラーレンに移籍した年に F1 を見だしたんだから、もう、ずいぶんと見ていることになる。その後、BSで WRC とか CART も見るようになったんだが、WRC は NHK がやらなくなったし、CART は見なくなったなぁ(オーバルのレースは面白いんだけど)。オートバイの GP も見てたんだけど、やっぱ日曜の昼間や夜に、6時間近くなる放送をのんびりみてる時間はなくなってしまった。でも、GP の 125cc クラスのレースの面白さは、一時期、かなりハマっていた。

そういえば、NFL も見なくなってしまったなぁ。今年はパッカーズがプレーオフに出てきたようなので、ディビジョナル・プレーオフからは見ようかなと思っていたら、ワイルドカードで破れてしまった。う〜ん。残念。でも、スーパー・ボウルだけはちゃんと見ようと思っている。今の生活のリズムなら、生中継でも全然OK だしね。

『若き女職人たち』を読み上げてから『プルーストを読む』へ。『失われた時を求めて』は、一度は読み通してみたい小説なのだが、いまだに読んだことが無い。でも、フランス系の思想家は皆これに言及するものなので、ずっと気になっている。マドレーヌでコンブレーの記憶が甦る部分は、確か、大学1年の時のフランス語のテキストの演習問題の中にあったのを覚えている。また、今回、『プルーストを読む』を読み始めて思いだしたのだが、『失われたとき』にはフェルメールの研究家が出てきてフェルメールへの言及がある。で、この部分の朗読を、高校時代に聴いたのが、フェルメールという画家との出会いなのであった。朗読を聴いたのは、文学とかそういうのには全然関係ない、SONY の録音技術かなんかに関するデモテープだった。フェルメールという名前だけが強烈な印象として残っていて大学に入ってから、始めて、その作品を知った。新潮社から出ていた画集も買ったなぁ。ポストモダンは、プルーストだけでなく、フェルメールも一つのキー・パーソンという感じだったし(浅田さんのフェルメール論が現代思想に載ったりした、そういう時代だ)。以前、ゼミで、無人島で一年間過ごすなら何をするかというテーマで学生達と話し合ったときに、ドイツ語の教科書と『資本論』を持っていって、ドイツ語で『資本論』を読むのがいいかなというようなことを言ったのだが、『失われた時を求めて』も持っていくってのはいいかもしれない。ただし、自分の能力では翻訳じゃないと無理かな。まぁ、無人島じゃなくても、どっかの温泉旅館みたいなところに1週間ぐらい泊まって、『失われた時を求めて』とドゥルーズのプルースト論を読むってのは、いいかもしれない。

03年01月13日 18時03分 着信

学内の停電のため昨日の午後よりサーバを落としていたのを、立ち上げにきた。

1台もコンピュータの動いていない研究室は、不気味なほど静かであった。普段、どれだけファンの音がしているか、そしてそれに慣れきっているのか、を改めて感じる。

幸い、LC475 は問題なく起動した。

今回から、この雑感に HTML でも文章を投稿できるようにしてみたのだが、はたして、うまくいくかな?

03年01月13日 22時13分 着信

今日は学内の電源施設の点検のために昼間は停電であった。そのため、昨日の午後に研究室に行ってサーバのメンテナンスを行なった後、サーバをすべてシャットダウンした。そして、今日の夕方に立ち上げのための再び研究室へ。

『プルーストを読む』を読了。『失われた時を求めて』を読みたくなった。また、ドゥルーズのプルースト論でドゥルーズが展開していたテーマが、いかに『失われた時』の中に書かれている問題群(概念)であるのか、その一端が分かったような気がした。やっぱ、ドゥルーズの各論は、論じている相手を知っていてこそ、そのすごさがわかるもんだな、と改めて実感。

読みかけのままになっていた『子どもと始める囲碁』も読了。囲碁の面白さというか、面白さのエッセンスみたいなものが分かる良い本だと思う。入門書の場合、読者への動機づけをどういうふうにやってあるのか、それが重要だと思うが、このへんは講義と同じものかもしれない。相手が学んで(学ぶ姿勢をとって)当然と思って書かれている入門書は、確かに内容は正確だったり、役に立つ内容になっていたりはするのだが、読んでいて楽しくない。そういう意味では、パソコンの入門書といわれる数多くの書籍は、パソコンぐらいは身につけて当たり前みたいな世間的な強迫観念に動機づけを委ねている部分があって、内容が貧しいように思う。もちろん、自分の講義も、同じ批判が返ってくる可能性はあるんだけどね。

03年01月15日 09時05分 着信

冬休みあけの最初の授業の日。外書は学生が少なかったので雑談になってしまった。まぁ、そういうのもいいだろうと思う。テキストをまじめにこなす だけが授業ではないと思う。少なくとも、大学の授業とはそういうものではないか(とくに少人数の場合)と考えている。

ゼミは自己PRにかんすることなど。就職活動対策と言うと大げさだが、そういうネタを集中する時期になった。最近の学生は就職活動がだらだらと長 引いてしまって大変だとは思う。また、かつてのように(こういう言い方をすること自体が歳をとったってことかなぁ)「これが本道」みたいなコースが曖昧 になっている状況で、社会や自分のこともよく分からないままに就職活動を続けなければならないというのも、ある意味で、ストレスが大きいだろうな。

大学の同級生達(特に大手の銀行やらに就職した連中)は、今、どうなっているんだろう? たぶん、思いもつかないような展開を経て今に至っている んだろうな。まぁ、それを言うなら、自分だって、雪かきをしないといけないところで大学教員をやっているとは、たぶん、誰も思ってないだろう。そういう もんだね。

『航路』にはまっている。予想していたことではあるが、読み出すと止められない。臨死体験という際どい(?)テーマを扱いながら、読ませる展開に なっている。

03年01月16日 09時21分 着信

ようやく『航路』を読了。たしかに、最後まで一気に読ませる読ませる。臨死体験そのものに関して、どういうケリをつけるつもりなのかも気になっていたのだが、納得できる(納得させられる?)ものになていた。

昨日は卒論指導を行なってから教授会。今日も卒論指導。山場である。

DVD Ripping についてちょいとしらべてみたら、Mac でも一通りのツールは揃っていることがわかる。音楽ものからサウンドを抜きだして CD に編集して聴く、なんてのは簡単にできるもんなんだと感心。

03年01月16日 22時24分 着信

『物理学と神』を読み始める。思っていたよりは面白いかもしれないという感触。

今日も卒論の指導など。けっこう疲れる。

03年01月17日 09時44分 着信

チューリング・テストに関する覚書1

人々に流布してしまった説と、オリジナルの文章(文献)に書かれていた内容が異なってしまうということは、決して珍しいことではない。というか、社会的な影響力を持った説が登場した場合、常に、原典に帰れというある種の原理主義(?)のような動きは常に起こっている。マルクス主義とマルクスのテクスト、ダーウィン主義と『種の起源』、フロイトと精神分析、等々。

こうしたことは、人間のコミュニケーションにおいては、必然的ともいえる現象である。差異が孕まれているものを、「何かを伝えているもの」という形でとらえようとする限りは、常に、「それではなかったもの」が残るのは当たり前のことだ。古典が(テクストが)常に未来の読みへと開かれてあるというのは、そういうことである。

そうした差異を孕んだもの(ものといっていいのかどうか?)だからこそ、新たな読みを誘発して止まないし、引き込まれてしまうわけだけど。

そうした、世間一般(というか、限られた領域内の話ではあるんだけど)に流布している説と、オリジナルの文書に書かれている内容とが食い違っている(と少なくもと思える)ものの一つに、チューリング・テストがある。

チューリング・テストというのは、イギリスの数学者のアラン・チューリングが提唱したコンピュータに知能があるかどうかを判定するための方法の一つである(とされている)。人工知能の分野においては、行動主義あるいは工学的アプローチによる「知能」の判定方法とされている。

もともとは、チューリングが 1950 年に発表した論文 "Computing Machinery and Intelligence"の中で提唱しているものなのであるが、現在は、その論文に書かれている内容とはやや異なった形で定式化されたものが受け入れられている。というか、それが「異なっている」ということにこだわってみたいわけである。

まず、一般的に言われているチューリング・テストの内容について確認しておこう。人工知能に関係するさまざまな文献において取り上げられているものであり、個々に微妙に異なっていたりするのだが、ここでは、例として人工知能学会のホームページに書かれていたものを見てみよう。これは「人工知能の話題」の中の「チューリングテストと中国語の部屋」というページに書かれているものである。

ページにはイラスト入りで説明が書かれているのだが、ここでは、文章の部分だけを引用しておく。なお、読みやすいように、改行を追加してある。

1950年に数学者チューリングはチューリングテストという、知能があることに関する実験を提唱しました。
それには、2台のディスプレイの前にテストをする人がいます。
1台のディスプレイには隠れている別の人が、もう1台は人間をまねるように作られたコンピュータが受け答えした結果がそれぞれ出てきます。
テストする人はどんな質問をしてもよいとします。
(省略)
こうして、テストする人がどちらが人間でどちらがコンピュータか分からなければ、このコンピュータには知能があるとするのがチューリングテストです。

…この文章自体が不明瞭さをはらんでいる(だからこそ人間が書いたものだってことか?)のだが、ようするに、テストを行う人間が、コンピュータ端末で2人の相手と会話を行い(チャットを行うというのがいちばん分かりやすいだろう)、相手のどちらがコンピュータか区別ができなければ(判別できなければ)、その会話に加わったコンピュータには知能があると言ってもよいのではないか、ということだ。

つまり、「知能とは何か」という定義を行ってそれをコンピュータが満たした場合に知能を認めるというのではなく、「知能があるもののように振る舞える」ということでコンピュータに知能を認める、それがチューリングテストによる知能の判定ということだ。ここには、知能というのもを、内在する属性としての能力ととらえるのではなく、コミュニケーションにおける振る舞い方(関係性)からとらえようとする考え方が込められている。そして、そうした考え方に対する反論として有名なのが、先程引用したページのタイトルにも出てきた「中国語の部屋」という反論(言語学者・哲学者のサールが唱えたもの)である。このサールの論文については後で詳しく検討することにしたい。

さて、私がここでこだわってみたいのは、チューリングがオリジナルの論文で述べた内容は、はたしていわゆるチューリングテストなのか、ということである。「チューリングテストは知能の判定につかえるのか」ということではない。この問いに答えるためには「知能とは何か」という哲学的な問題に踏み込むことになるわけだが(だからこそ論争の種になるわけだが)、そのこと自体を論じたいのではない。

"Computing Machinery and Intelligence"でチューリングが述べたことは何だったのか、彼自身は知能についてどう考えていたのか、といった、チューリング自身の考えを確認しておきたいと思うのである。

チューリングテストという名称自体、チューリングが自ら命名したものではなく、後に彼の論文の中で触れられているテストに言及するために付けられたものである。そういったことも含めて、チューリングが論文の中で何を語っているのかということを確認する作業から、まず始めよう。そして、チューリングテストと必ずといってもよいほど対になって語られるサールの中国語の部屋についても触れることにしたい。

03年01月18日 21時24分 着信

昨日は卒論の指導。センター入試の準備のために午後の講義は休講。今年はセンター試験の監督はしなくて済むことになった。

駒場のセンターでどきどきしながら時間を過ごしていたあの時から、もう2年がたつのだなと思うと、ちょっと不思議な気もする。

今日は午前中に研究室に行ってサーバのメンテナンスを行う。A-Train で遊びながらバックアップなどルーティンのメンテナンス。帰りの買い物のさい、田渕由美子『オトメの悩み』が出ていたので買ってきて読む。田渕由美子は田渕由美子だなぁという作品。

チューリングテストに関する覚書2

"Computing Machinery and Intelligence"(以下CMIと略記する)において、チューリングが述べていることを確認していくことにする。ここではhttp://www.loebner.net/Prizef/TuringArticle.htmlで公開されているものをテキストとして読んでいくことにする。なお、この論文は、新山祐介氏による日本語訳が「計算する機械と知性」として公開されている。この日本語訳も参考にしながらテキストを見ていくことにする。以下の CMI からの引用は、原則として、私訳である。

「機械は考えることができるか?」という問い、これが CMI でチューリングが考察する問いである。そして、チューリングは、「機械」、「考える」といった言葉の定義に踏み込むことは避け、この問いを「模倣ゲーム」(imitation game)によって表し考察しようとする。

しかし、チューリングが提案している模倣ゲームとは、そのゲーム自体はコンピュータと人間の間のゲーム(模倣ゲームといけば、たぶん、多くの人は、コンピュータに人間を模倣させるゲームのことだ、と思うに違いないが)ではない。チューリングが CMI で模倣ゲームと呼ぶものは、まずは人間どうしで行われるゲームなのである。

(「機械は考えることはできるか」という)問いの新しい定式は、我々が「模倣ゲーム」と呼ぶゲームの枠組みを使って記述することができる。そのゲームは、男性(A)、女性(B)、そして性別はどちらでもよい質問者(C)の3名によって行われる。質問者は、他の2人とは別の部屋にいるようにする。質問者にとって、このゲームの目的は、他の2人のうち、どちらが男性で、どちらが女性かを判定するというものである。

このゲームでの A の目的は、質問者である C に誤った判定(wrong identification)をさせることである。

声のトーンで質問者が答えを分かってしまうことがないように、A,B の二人からの返答は紙に書くようにするべきだ。タイプライターで印字するようにすればなおよい。理想的な実験環境(arrangement)は、2つの部屋(=質問者がいる部屋と、A,B の2人がいる部屋)の間ではテレタイプで通信を行うようにすることだ。

3人目のプレイヤー(B)のこのゲームでの目的は、質問者を助けることである。

以上のような、3人で行われる性別当てゲームが模倣ゲームなのである。書かれた文字だけによる対話によって、相手の性別を判定する(男女のペアであることは質問者に分かっているので、正確には、性別判定とは言えないのだが)、そういうゲームである。男性側が騙す役を受け持ち、女性側が助ける役を受け持つ。とはいえ、文字だけによる対話であるから、言葉遣いや文体あるいは内容が女性的な方を手がかりにすれば答えがわかるというほど単純なものではない(ちょうど、芸達者なネットオカマを相手にしている場合のように)。相手の返答が女性的であることと、「女性的であるふりをしている」こととの判別が質問者には要求される。男性側には、質問者を騙すという役割上、女性のふりをする=模倣することが求められることになるわけだ。

このような人間3名によって行われる「模倣ゲーム」というものを提示したのちに、チューリングは、「機械は考えることができるか?」という問いを、以下のように定式化しなおすのである。

ここで我々は次のように問いを立ててみよう。「このゲームにおいて、機械が A の役割を受け持ったら、何が起こるだろうか?」 A を機械に演じさせるというこの形で行ったとき、質問者は、人間の男性と女性とによってゲームを行うときと同じ程度には判断を間違うだろうか? これらの問いが、我々のもともとの問い「機械は考えることができるか?」に取って代わるものとなる。

つまり、チューリングは、性別判定ゲームの男性側(騙し役)を機械に置き換えたときに、人間がプレイするのと同じ程度に質問者を騙せるものかどうかで、「機械は考える」という問題を考察しようというわけである。言い換えるならば、人間の男性と同じ程度に機械が質問者を騙すことができるなら、その時は、その機械は「考えている」と言ってもよい、というわけである。

以上が、CMI の冒頭部分の The Imitation Game でチューリングが定式化した、模倣ゲームで機械が考えることができるかどうか判定しようということである。

さて、ここで一つの疑問が生じる。それは、なぜ、チューリングは、このように手の込んだ定式化をおこなったのか、ということである。人間によってプレイされる模倣ゲームというものを想定し、そのゲームの男性側=騙し役として機械が通用するかどうか、という2段構えのものにする必要性があったのか。その必要性は何なのか。

チューリングが述べた模倣ゲームによる定式化は、暴力的に単純化するなら「機械が人間を騙せるか」という形に、確かに、定式化できる。そして、このように定式化するのであれば、一般に言われているチューリングテストのように、質問者は人間と機械(コンピュータ)を相手にして、どちらが機械であるかを判定できるか? というものでもよいはずだ。実際、CMI で述べたことが、この単純化された形で受け止められたからこそ、チューリングテストは、現在のような形で広まったのだと想像される。

チューリングが模倣ゲームに込めたメッセージは何なのか? これが問いである。この問いに取り組む前に、CMI の内容を、もうすこし確認しておくことにしよう。

03年01月19日 20時43分 着信

そういえば、丸善に予約してあった Sage Library in Business and Management の"System Thinking" (全4巻)が届く。システム論、システム思考の古典的論文をおさめた論文集である。定価 \137,950- ということで、すでにマイナス残高の今年度の研究費では購入できないので (^_^;; 、新年度の予算で購入ということにしてもらう。ベルタランフィ、ボールディング、ウィーナー、アシュビー、ベイトソン、サイモン等、そうそうたる面々の論文が収められている。とはいえ、全部英語だもんなぁ。ざっと目を通すだけでもどれだけかかるやら。しかし、今年度の研究費は、Sage Library in Business and Management のシリーズと、マルクス=エンゲルス全集 CD-ROM 版で使い切ってしまったという感じである。ここ何年かでは珍しくコンピュータ関連機器は購入してないな。

チューリングテストに関するメモを書き留めておくことにしたのだが、ここにも投稿しておくことにした。そうすれば、いつでも、Web さえ使えれば読み直せるからである。HTML での投稿をできるようにしたのは、自分のメモの記録としても使っていくためなのであった。

今日は家族で買い物へ。妻の誕生日プレゼント(クリスマスプレゼントと合算)を購入したりする。例によって本屋へと出向き…

  • 『ママの恋人』陸奥A子
  • 『表現を味わうための日本語文法』森山卓郎
  • 『ケジメのない日本語』影山太郎
  • 『ラカン 哲学空間のエクソダス』原和之
  • 『愛と経済のロゴス (カイエ・ソバージュ III)』中沢新一
  • 『デリダ』(林好雄、廣瀬浩司)
  • 『偶然の宇宙』伊藤邦武

…を購入。岩波の<もっと知りたい!日本語>のシリーズが2冊。日本語本ブームに乗っかった本だとは思うのだが、このシリーズは切り口が面白そうなものが並んでいるように思う。また、講談社選書メチエが3さつ。この選書も、けっこう気になる内容のものがならんでいる。中沢のカイエ・ソバージュは、I と II はあまり惹かれなかったのだが、今回のは贈与論が論じられているようなので読んでみようかという気になった。『偶然の宇宙』は、宇宙論ということで、ちょうど今朝読み終わった『物理学と神』の中の宇宙論のことが頭にあったので手に取ってみたら、ヒュームの哲学を論じた部分があったので購入することにした。ヒュームの『自然宗教についての対話』が取り上げられている。修士論文でヒュームの『人性論』に取り組んだとき、ヒュームの著作には色々と目を通したが、『人性論』の第1巻の次に面白いと思ったのが、この『対話』だった。今となっては、内容などは忘れているけれど。そういうこともあって、ヒュームの宗教観(自然観)と宇宙論とがどうからんでいくのか、楽しみである。もっとも、『物理学と神』を読んでいると、物理学の宇宙論というのも、けっこういかがわしいという感じもするので、宗教論とは遠くないとも思える。

03年01月19日 23時23分 着信

チューリングテストに関する覚書3

The Imitation Game において「機械は考えることができるか」という問いを模倣ゲームによって再定式化したチューリングは、続く Critique of the New Problem において、この再定式化した問いで考察することのメリットを論じている。主だった文章を拾っていくことにする。

新しい問は、人間の身体的能力と知的能力との間に、極めて明確な線引きを行なうという利点がある。

質疑応答という方法は、我々が(考察の範囲に)含めたいと望んでいるほとんどすべての人間の諸活動(the human endeavour)の領域を(検証対象に)持ち込むのに相応しいもののように思われる。

このゲームは、機械の方に圧倒的に有利すぎるという理由で批判されるかもしれない。もし人間が機械のふりをしようとすれば、極めて情けない結果になろうことは明らかだ。算数の計算の遅さと誤りによって、すぐに馬脚を現してしまうだろう。機械は思考しているとしか言い表しようがないようなことを実行するかもしれないが、それは人間が行なっていることとは非常に違ったものではないのか? この反論はきわめて強力なものではある。しかし、少なくとも、次のように言うことはできる。(確かに違うのかもしれないが、それでも)もし模倣ゲームを問題なくプレイできるように機械を作ることができるのであれば、この反論に悩まされる必要はない。

この文章を読むかぎりでは、チューリングは単純なチューリングテストを想定しているようにも思える。機械は人間のふりができるか(人間と機械の区別がつかないこと)という問への反論に答えているからだ。また、この文章の後半部分は、やや分かりにくいが(うまい訳ができてないのもあるけど)、ようするに、機械が「行なっていること=内部の処理」(表面的な結果ではなく、ということ)は人間の「行なっていること」とは違うのではないかという反論に対して、模倣ゲームをうまくこなせるように機械を作ることができる(ということは、当然のように、そのように振舞うための処理を実装することができるということであり、それは「何をやっているのか」を具体的に定式化できるということなわけだ)ならば、その反論に対する答えになる(=「何をやっているか」は明らかになるわけだから?)と言っている(と読むべきだろうと思う)。

チューリングが、「機械は考えることができるか」という問いを模倣ゲームをうまくプレイするという手の込んだ再定式化を行なっておきながら、結局のところ、機械は人間を模倣できるかということがポイントだと考えていたのかもしれないということは、続く次のような文章を読んでも感じられる。

模倣ゲームをプレイする場合の機械にとって最良の戦略は、おそらく人間の行動をまねることではない何か別のものではないのか、という主張もあるだろう。そうかもしれない。しかし、私は、この種の戦略にはたいした効果はないと考えている。いずれにせよ、ここでは模倣ゲームの理論を探究しようという意図は全く無いし、(機械にとって)最良の戦略とは人間が普通に答えるような答えを(質問者へ)返そうとすることだと仮定できるだろう。

この文章を読むかぎりは、やはり「機械はどこまで人間の真似ができるか」というのが模倣ゲームだと読めなくもない。さて、どうなのだろうか?

なお、1点、気になる点を。それは、例えば、上の文章の「人間が普通に答えるような答」というのは、原文では answers that would naturally be given by a man となっており、普通であれば「一人の男性が普通に答えるような答」とするべきかとは思う。模倣ゲームにおいて機械が担当するのは男性の側なので、常に man という言葉で人間の側に言及されているのだと読めるのだが、それ以上の、性的な意味合いのようなものは、全く無いのだろうか? 読解にあたって伝記的要素を参照する必要性はないと考えている(テキストを前にして、どのような差異=呼びかけを読み取れるかが問題だと考えているので)が、それでも、若干、気になることではある。

03年01月21日 09時00分 着信

昨日はほぼ一ヶ月ぶりの経営組織論の講義。権威とコミュニケーションということで権威受容説の部分の講義である。ただ、権威という問題に焦点を絞って話そうとするとかえって話が抽象的になり焦点がぼやけてしまうような気がするので、組織内の命令というコミュニケーションの問題として講義しているのだが、はたして、「ここまで論じる必要があることなのか?」という気が強くした。特に、ルーマンの公式化の図式(いわゆる無関心圏の成立は、メンバーという身分の問題とリンクすることで成立している)を導入すると、バーナードのこだわりが、単に貢献者という枠組みにこだわった(それは現実的とは言いがたい)ものでしかないということになるからだ。もちろん、職場(組織)において、上の立場の人の命令や指示をきくのは当然と思っている、その当然の裏にあるからくりを、コミュニケーションという枠組みで解き明かして見せるという点では面白いとは思うのだが、そういう流れの講義としては、まだまだうまくまとめきれていないと実感。やはり、ルーマンの公式化の図式を用いるのであれば、徹底的に講義全体を組立直す必要があるな、と実感した。

卒論の指導も終了。1名が脱落し、4名が提出できた。まぁ、しょうがないか。

今日は朝から雪が降り始めた。前回の積雪はほぼ解けていたのだが、これでまた積もることになりそうだ。

『表現を味わうための日本語文法』を読んでいる。いろいろと気づかされることが多くて面白い。中で、愛媛の方言(ほかの地域にも同様の表現があるようだが)に触れているところがあって、そういえばそうだよなぁ、と改めて感じたことがある。それは、ちょうど今のように雪や雨が降っているときに、「雪がふりよる」という言い方をするということだ。それに対して、朝起きてみたら雪が積もっていたようなときには「雪がふっとる」(こちらは普通の「雪が降っている」と同じだと思う)という。状況が進行中の時には「〜しよる」という言い方をする。自分の中に、この表現がなじんでいること(なんの違和感もなく「雪がふりよる」を受け止められること)を実感。

今年のスーパーボウルはバッカニアーズとレイダースの対戦になった。これは面白そうである。自分が NFL を本格的に見出したのは、福井に来て、テレビを買い替えて(大学院の時に大阪の日本橋で千円で買った回転式チャンネルのテレビが壊れた) BS を見るようになってからなのだが(何せ福井は民放が2局しかないという地域なのだ)、見出した頃はバッカニアーズがスーパーボウルに出てくるなんて信じられないという状況だった。カウボーイズの全盛時代、それに続くパッカーズの時代というあたりだった。結婚してから、あんまり見なくなってしまったのだが、プレーオフとスーパーボウルだけは見るようにしている。昨日も、パッカニアーズとイーグルスの試合の生中継の後半部分は見ていた。

アメフトに関心を持ったのは、やはり大学というものの影響が強い。ちょうど京大が初めて関学を破って甲子園ボウルに出場したり、QB 東海の活躍でライスボウルを制したりという時代だったというの大きい。その後、NFL を見るようになってからは、日本の試合はあんまり見なくなってしまったんだけど。

経営学というものをやるようになって、しみじみ、アメフトっていうのは、アメリカ流の経営学の実例みたいなところがあるな、と実感した。また、考えられる限りのことは考えた上で、それでも最後はフィールド上の出来事の偶然性(まぁ、各選手の能力とその場でのクリエイティブなプレーを偶然と呼ぶのは不謹慎かもしれないけど)に左右されるというあたりが、けっこう面白いと思う。

03年01月21日 10時18分 着信

チューリングテストに関する覚書4

続く3節 The Machines Concerned in the Game において、チューリングは模倣ゲームを試すにふさわしい機械の条件を考察している。どんな技術を用いてもよい、処理内容が実装する技術者が完全に記述できなくもよい(論理的根拠が明らかでなくとも実験的にうまくいくからという理由でアルゴリズムを選択してもよいということのようだ)、機械と人間とは区別がつくようにしておく、といった条件をあげているのだが、最終的に彼が機械として指名するのはデジタル計算機(digital computer)である。

現在の「考える機械」への関心が、ある特定の種類の機械、「電気計算機」あるいは「デジタル計算機」と通常呼ばれる機械によって提起されてきたという事実を考慮するならば、我々はそうすること(=どんな技術を用いてもよいとする制限を捨て去ること)はもっともだとして受け入れる状況にある。このことから、我々が模倣ゲームに参加することを認めるのはデジタル計算機だけであるということになる。

この制限は一見すると極めて思い切った制限(大きな制限)のように見える。実際にはたいした制限ではないことを私は示すことにしたいと思う。そのために、まず、これらの計算機(デジタル計算機)の性質と属性について簡単に説明しておく必要がある。

模倣ゲームに参加する(参加できるほどの?)機械はデジタル計算機であるとすることは、我々の「思考する」ということの判断基準(criterion)同様に、もしデジタル計算機が模倣ゲームで良い成績を収められない(=人間を騙せない)ことが明らかになった場合にのみ、不適切であることになるだろう。そういうことはないと私は信じているのだが。

この文章の中に、デジタル計算機であれば模倣ゲームをうまくこなすことができるはずだというチューリングの信念が、さりげなく述べられている点は注意。言うなれば、彼は、最初から、デジタル計算機であれば模倣ゲームをうまくこなせるということを述べる魂胆だということが示されているともいえる。やや分かりにくい表現だが(訳がうまくないということもあるんだけど)、考えるということの定義(=模倣ゲームをうまくこなす)も、その機械がデジタル計算機(デジタル・コンピュータ)であることも、いずれもうまく行くはずだという表明が、反語(「うまくいかなかったときには間違っていたということなんだろう」)によって述べられているのである。

ただし、チューリングは、彼の同時代のデジタル計算機が、模倣ゲームをうまくこなすとは考えていない。あくまでも、理論的にはデジタル計算機であれば模倣ゲームをうまくこなせると考えている。そのことは、続く、以下の文章で、ある種の保留として述べられている。

(なぜ実際の計算機でさっさと実験しないかというツッコミに対して)これに対する簡単な返答はこうだ。我々はすべてのデジタル計算機が模倣ゲームをうまくこなせるかどうかを問題にしているわけではない。また、現時点で利用できる計算機が模倣ゲームをうまくこなせるかどうかを問題にしているのでもない。我々が問題にしたいのは、模倣ゲームをうまくこなせるような計算機が想像上であれ存在しうるかどうかということなのである。しかし、これは簡単な返答でしかない。このツッコミに関しては、後で、別の角度から検討することにしょう。

この文章で明らかなように、チューリングは、彼の同時代の計算機が模倣ゲームをこなせるかどうかを問題にしているのではい。デジタル計算機が、理論的には(=いつの日か)、模倣ゲームをうまくこなせるはずだということを論じようとしているわけである。極論すれば、模倣ゲームを実際にうまくこなす計算機(コンピュータ)が登場するかどうかということよりも、理論的/論理的にはデジタル計算機であれば模倣ゲームぐらいはうまくこなすのだということ(実装のコストや制限は無視すれば)を論じたいようである。

では、彼の言うデジタル計算機とは何なのか? デジタル計算機が模倣ゲームをうまくこなせると彼が考えるのはなぜなのか? 論文は、続いて4節 Digital Computer へと進み、デジタル計算機の考察が行われる。

03年01月22日 08時47分 着信

このページに HTML で投稿できるようにプログラムを変更したのだが、昨日はミスってしまった。HTML での投稿かどうかはメール(このコーナーはメールで投稿するようになっている)の Subject で切り替えるようにしておいたのだが、Subjectを HTML 用に付けるのを忘れて投稿してしまい、タグがまんま表示されたものが書き込まれてしまった。戒めのための置いておくのもいいかなと思ったが、やっぱ恥ずかしいので、大学に行って削除したけど。

ただ、言い分けめいたことを言うなら、OS X の Mail (アップルのヤツ)と普段使っている Eudora では、メールの CC と Subject の欄の配置が違っていて、いつものEudora のつもりでメールで書いていたら、Subject のつもりで cc 欄に記入していたのだった(送信直後にすぐにエラーメールが返ってきて、気がついたわけだ)。まぁ、ソフトのこういうちょっとした違いというのは、思わぬミスを生むわけで、そういう意味ではインターフェースの統一というのは重要かなと。

もっとも、メールの Subject で処理を切り替えるというプログラムの組み方(発想)自体も、考えてみれば問題はあるわけで、スペルミスも含めて、今回のようなミスが発生する可能性は当然最初からわかっていることではあった。それでも、自分だけが使うものだからと考えたところ(まぁ、間違うことはないだろうと安易に思ってしまったところ)に問題はある。やはり、人間というのはミスをするものだということを前提の上でプログラム(というか広義のインターフェース)は作るべきだと痛感。今度のメンテナンスの時に、メールの本文の冒頭部分にタグが入っているかどうかで自動判定を行うように作り替えるつもりである。もっとも、タグのチェックまでも含めるのが本当だとは思うが、そこまではやってられない(…で、いつの日かミスしちゃうんだろうな)。

4月からの授業に備えて、なるべく OS X にも触れておこうということで、この雑感はOS X を入れた TiBook で書くようにしている。AirMac カードを入れてあるので、自宅でホットカーペットにごろんと寝転がりながら書けるというのは便利ではある。メールは.mac のアカウントを使って発送している。AirMac の故障と買い替えの直後に新しいモデルの発売予告と、旧モデルの値下げがあったのはちょっとショックだったが、まぁ、そういうことでくよくよしていたらパソコンとは付き合っていられないわな。壊れた方のBaseStation の修理(まぁ、修理できなかったら、中に入っている PC カードを抜いて、研究室の winXP に差してやろうと思っている。そうすれば、研究室に放置されたままの Win のノートも自宅で使えるから)は、春休みのお楽しみというところか。

昨日は外書とゼミの日。建国記念日が今年は火曜日なので、残された授業の回数が少ないため、今読んでいる外書のテキスト(現生人類の進化に関する話で、個人的にはとても面白いと思っているのだが)を最後までやり遂げるのは無理そうだ。ゼミでは学生達に大学生活を振り返って総括させるというテーマであったのだが、やはり、自分の自由になる時間(それは言い換えると、自分でやることを見つけないと無意味な時間)のこと、アルバイトでの社会経験、生まれ育ち(文化的背景)の全く違った人との出会い、といったあたりがテーマになるようだ。

卒論指導が終わったので、今日は、久しぶりにゆっくりと時間が使える。金曜日の社会思想の講義に備えて、19世紀の思想状況の確認などを行うつもりだ。

03年01月22日 11時45分 着信

チューリングテストに関する覚書5

4節 Digital Computer で、チューリングはデジタル計算機について解説している。

デジタル計算機の背後にある考え(idea)については、次のように言うことで説明ができるだろう。つまり、これらの機械は、人間計算機(計算を行うオペレーターの人たち→かつては機械式計算機を回しながら計算を行うオペレーターの人たちがいて、そういう人たちが Computer つまり文字通り計算を行う人と呼ばれていたのだった)によって実行可能などんな操作であっても実行できるようになっているのである。人間計算機は固定されたルールに従うものとされている。どんな些細なことでも、決められたルールから逸脱することは認められていない。

デジタル計算機は人間計算機と同じ振る舞いをするという説明だけでは定義としては不十分(循環論法に陥る)として、チューリングはデジタル計算機の仕組み(アーキテクチャー)の解説へと進む。

デジタル計算機は、1:記憶装置(store)、2:実行ユニット(Executive unit)、3:制御装置(Control)の3つの部分から成り立ち、これによって、記憶装置に与えられた命令表(table of instructions)に従って処理を行っていく。処理内容は、演算、入出力、分岐、条件判断などである。

デジタル計算機は、これまで述べてきた原理によって作ることが可能であり、また実際にそのように作られてきたのだということ、そして、デジタル計算機は実際に人間計算機の動作をとても上手に真似(mimic)できるのだということ、これらのことを読者は事実として受け入れなければならない(The Reader must accept it as a fact)。

ここでは、デジタル計算機は人間計算機を真似(mimic)できることが強調されているのだが、mimic であってimitate ではないこと(「模倣ゲーム」は imitation game だったことを忘れないように)、このことには、何らかの意味を読み取るべきなんだろうか? それとも、単に別の単語を用いたというだけなのだろうか? この点についてもさらに考察が必要かもしれない。

チューリングの論文に戻ろう。デジタル計算機に命令表を与える作業、つまりプログラミングについては、次のように述べている。

機械に複雑な操作を行う人間計算機の行動を真似させたいときには、計算機である人にどのように行っているのかを尋ねたうえで、その回答を命令表の形に翻訳しなければならない。命令表を組み立てることは通常は「プログラミング」と呼ばれている。「機械が操作Aを実行するようにプログラムする」というのは、機械が操作Aを行うように適切な命令表を機械に入力するということである。

チューリングは、ランダム素子(random element)を持ったデジタル計算機、つまり乱数発生(装置)を持った機械に注意を向けている。

このような機械(乱数発生装置を持った機械)は、時に、自由意志を持っているように言われる。もっとも、私は自分ではこのような言い方はしないのだが。

乱数発生機構をもっているだけで、あたかも自由意志を持っているかのように見られることがあること、つまり、自由意志と言われているものは、その程度で真似できるものだということ、そういうことだろうか。

記憶容量についても触れている。現実の計算機は有限の記憶容量しか持ちえないが、無限の記憶容量をもつ計算機、それを特に無限容量の計算機(infinitive capacity computers)と呼んでいるのだが、それを理論的に想定することは難しくないとする。彼自身の関心が、あくまでも、模倣ゲームをこなす機械は理論的に存在しうるかどうかにあることを示していると読めるだろう。

この節の最後の2つのパラグラフでは、デジタル計算機の歴史ということで、チャールズ・バベッジの解析機関(Analytical Engine)を取り上げている。バベッジの解析機関に触れることで、機械の現実の実装の形態の問題ではないということを強調している。

バベッジの分析機関がすべてメカニカルなものだった(つまり電気的/電子的ではなかった)という事実は、我々の中にある思い込み(=電気的でなければならないということ)を取り除くのに役立つだろう。現代のデジタル計算機は電気的なものであること、そして我々の神経システムもまた電気的なものであること、このこと(=ともに電気的であるということ)が重要であるかのようにしばしば言われる。バベッジの機械は電気的なものではなかったし、すべてのデジタル計算機はある意味で等価である以上、我々は、電気を使用するということは理論的には全く重要なことではないということが分かる。…。電気を用いるという特徴は、(デジタル計算機と神経系との)極めて表面的な類似でしかない。もしデジタル計算機と神経系との間の類似性を見いだしたいのであれば、我々は、(両者の)機能の数学的なアナロジー(類似性)を検討するべきである。

このように、チューリングは、デジタル計算機の実装形態にとらわれることを拒否する。電気だろうが歯車と蒸気だろうが、デジタル計算機であればよい、というわけだ。では、デジタル計算機が数学的(理論的)にもっている性質とはどんなものなのか。それが、続く5節 Universarity of Digital Computer で考察の対象になる。

03年01月22日 21時22分 着信

チューリングテストに関する覚書6

5節 Universarity of Digital Computer (デジタル計算機の万能性)を見ていく。この節で、チューリングはデジタル計算機の特質を、離散状態機械(discrete-state machine)として、そしてあらゆる離散状態機械をまねることができる機械として論じている。この節は、彼のデジタル計算機というものの考え方など、面白い見解が述べられている部分であるので、なるべく原文を訳しながら見ていくことにしよう。

まず、デジタル計算機を離散状態機械として位置づける。

前節で考察したデジタル計算機は、「離散状態機械」に分類されるだろう。離散状態機械というのは、あるきちんと定まった(範囲が限定された)状態から別の状態へと、カチコチと飛び移っていく、そういう機械である。機械のそれぞれの状態は十分に異なっており、状態を混同する可能性は無視できる。厳密に言うならば、そのような機械は存在していない。すべての物事は実際には連続的に動く。しかし、離散状態機械であると考えたほうが有益な種類の機械も多く存在している。たとえば、電灯システムのスイッチを考察する場合には、それぞれのスイッチは完全にオンの状態と完全にオフの状態の間のどちらかしかあり得ないという仮構で考えるのが都合がよい。

ここでいう離散状態機械というのは、個々が明確に識別できる不連続な状態(discrete-state)の間を推移していく機械だ。たとえば、オンとオフのように、はっきりと異なった状態のどちらかにしかならないようなものである。ようするに、我々が、普段、デジタルと呼んでいるもの(アナログに対比して)のことなのだが、デジタル(Digital)という言葉自体は「数字の、数値の」ということであって、必ずしも不連続状態をとることを意味しない。もっとも、アナログなもの(連続量)を数値化するということは、ある一定の誤差を切り捨てて数値にしてしまうわけで、その時点で、不連続化されているわけではあるけど。

このような離散状態機械は、入力によって内部状態が推移していき、それが出力される。それゆえに、初期状態と、その後の入力信号のリストがあれば、機械の状態(と出力)はすべて予測可能ということになる。この点をチューリングは離散状態機械の特質として取り上げる。

初期状態と入力信号が与えられるならば、すべての未来の状態を予測することが常に可能であるように思える。このことは、ラプラスの見解を思わせる。ラプラスの見解というのは、ある瞬間の宇宙の完全な状態(それはすべての粒子の位置と速度によって記述される)がわかれば、すべての未来の状態を予測できるはずだ、というものである。しかし、我々が今考察している予測(=離散状態機械の未来の予測)は、ラプラスが考えたものよりは、実際に行えるものに近い(nearer to practicability)ものである。「宇宙全体」のシステムは、初期条件の極めて小さな誤りでも後になって絶大な効果をもたらしうる、そういうものである。ある瞬間にたった一つの電子の位置を何十億分の1センチずらしただけで、1年後にある人が雪崩で死んでしまうか生き延びるかという違いを生み出してしまうだろう。我々が離散状態機械と呼ぶ機械システムの本質的な特質(essential property)は、このようなこと(初期条件の違いが大きな結果の違いを引き起こす)が起きないということである。理想化された機械ではなく現実に物理的に存在している機械を考察する場合であっても、ある瞬間の状態に関して十分に正確な知識があれば、それ以降の何段階後の状態であれ正確な知識を得ることができるのだ。

離散状態機械に関するチューリングの考え方、また、宇宙の複雑性に関する見解が述べられているので思わず長く引用してしまったが(チューリングは創発性に関する論文も書いている、複雑性の先駆者としても扱われているのだ)、離散状態機械の予測可能性を重要視しているのがよくわかる。

続いて、離散状態機械としてのデジタル計算機の考察へと進む。そこでチューリングは、デジタル計算機は、とりうる内部状態の数が極めて大きいことを指摘する。そして、そのようなデジタル計算機は、離散状態機械をまねることができる離散状態機械であるとする。

ある離散状態機械に対応した表(=入出力と内部状態の推移の対応関係を記述した表)が与えられるならば、その機械が将来何をするのかは予測できる。この計算(表をもとに予測を行うこと)をデジタル計算機で行ってはいけないという理由はまったくない。もしデジタル計算機が十分な早さでこの計算を実行することができるとしたら、デジタル計算機は、どんな離散状態機械であっても、その真似をすることができるだろう。この場合、模倣ゲームは、対象となる機械(B)と、それを真似しようとするデジタル計算機(A)とによって行われ、質問者は両者を区別することはできないだろう。もちろん、デジタル計算機は、十分な記憶容量と高速の処理能力を備えていなければならない。さらに、真似しようとする機械が変わるたびに、新しい機械に合わせてプログラムし直さなくてはならない。

ここにも模倣ゲームが出てくるのだが、ここでは、離散状態機械と、それを真似ているデジタル計算機との間の区別がつくかどうかというゲームになっている。この点からすると、チューリングの模倣ゲームとは、あるプレイヤーと、それを真似ているプレイヤーと、この両者の区別ができるかどうかというゲームだということになる。

上記のパラグラフに続いて、デジタル計算機の模倣能力についての考察が続く。

デジタル計算機のこの特殊な性質、つまりデジタル計算機はどんな離散状態機械であっても真似ることができるという性質、これは、デジタル計算機は万能の機械(universal machines)であるということで表現される。このような性質を持った機械が存在しているということは、次のような重要な帰結をもたらす。それは、処理速度の考慮は別にして、さまざまな計算処理を行うために、それに合わせた新しい機械を設計する必要はないということである。それぞれの処理に合わせて適切にプログラムされれば、一台のデジタル計算機にすべての計算処理を行わせることができるのだ。このことをふまえるなら、すべてのデジタル計算機は、ある意味で等価だということがわかるだろう。

このように、デジタル計算機が万能の離散状態機械であること(あらゆる離散状態機械を真似る能力をもっているということ)を確認した上で、チューリングはもともとの問題、つまり「機械は考えることができるか」という問いを再び取り上げる。

さて、ここで3節の終わりで提示した論点を再び考察することにしよう。「機械は考えることができるか」という質問は「模倣ゲームをうまくこなせる想像上のデジタル計算機は存在するのか」という問いに置き代えられるべきだということを、仮のものとして提示しておいた。この表面的な言い方を、もっと一般的なものにしたいならば、「模倣ゲームをうまくやる離散状態機械は存在するのか」と問うのがよいだろう。しかし、デジタル計算機の万能性という観点から見るならば、これらの問いのいずれもが、次のような問いと等価であることがわかる。「ある特定のデジタル計算機 C について考えることにしよう。次のことは正しいだろうか?:この計算機に、十分な記憶装置を備えさせ、実行速度も十分に速くなるようにし、そして適切なプログラムを与えるという改良を加えたならば、C は、人間の演じる B といっしょにやって、模倣ゲームの A の役割を満足にこなすことが可能である」

これが、「機械は考えることができるか」という問題に関するチューリングの最終的な定式化である。最後の問いがやや回りくどい言い方になっている(つまり「模倣ゲームを満足にこなすことができるか?」ではなく、「模倣ゲームを満足にこなすことができるというのは正しいか?」になっている)のは、デジタル計算機が模倣できるかどうかということよりも、そのように考えることは理論的に正しいかどうかを問題にしているためだろう。先にも述べていたように、チューリングの関心は、あくまで現実に存在するかどうかではなく、理論上(「想像上」)存在しうるかどうかという点にあるからだ。具体的な機械の実装上の制約などによって、理論的には存在しうるものでも現実には存在しえないこともあるわけだから(たとえば無限の記憶容量と高速/光速の処理速度のデジタル計算機)。

この最終的な定式化を行っておいてから、彼は、自分の意見に対して予想される反論を検討し、自説をのべていく。それが、続く6節 Contrary Views on the Main Question である。この節が、CMI の中でもっとも分量のある節である。

03年01月22日 22時50分 着信

ちょっと風邪気味でもあったので、今日は自宅で研修ということにした。チューリングの読解などを行なう。…というか、午前中にこの作業を行なっていたら、面白くなって(論文の前半の山場だったので)、そのまま作業に没頭してしまったわけだ。

金曜日の社会思想に備えて以前に購入してあった『ジェントルマンと科学』(大野誠)という山川出版社から出ている世界史リブレットというシリーズの一つを読む。期待していたほどの内容ではなかったが、科学というものが科学技術として成立して来る時期の出来事の概略はつかめたかな。

中沢新一の『愛と経済のロゴス』のまえがき(カイエ・ソバージュについての説明)の中に、講義というものに関する次のような文章が載っていた。

あまり準備をしすぎると、よい講義はできない。インプロビゼーションの闊達さが消えてしまうからである。素材を選び、だいたいのコード進行を決め、語りだしのキーの高ささえ決めておけば、あとは主題が(うまくいけば)自動的に展開していってくれる。そういう信仰が揺らがなければ、その講義時間は幸福である。しかしひとたびそこに動揺が忍び込むときには、むなしさに淀んだ気持ちを抱えながら教場を後にすることになる。

…まったくだ!

Tanaka's osax のパラメータに関する質問のメールが届く。辞書情報の中ではちゃんと説明していない機能に関係することだった。やっぱ、何かの形で早いとこ解説文書を公開したほうが良いようだなぁ。

03年01月23日 23時13分 着信

TiBook の OS X で色々な作業を行なうために、どうしてもシステムソフトの辞書のビューワーが欲しくなったので、シェアウェアの Jamming を購入することにした。非常に良くできたソフトである。

チューリングの Computing Machinery and Intelligence の読解をやっているのだが、それとの関連というか、読解の参考にしようと思って、Turing DegitalArchive から、彼の原稿のいくつかをダウンロードする。変色したタイプ打ちの原稿をスキャンした画像が JPEG でとれるだけなので、落としてから Photoshopでグレースケールに変換してレベル調整を行なって、なんとか読みやすいものにして印刷した。"Intelligent Machinery, A Heretical Theory" (「知的機械、ある異教的理論」)(レクチャーの原稿)と "Can Digital Computer Think?"(「デジタル計算機は考えることができるのか?」)(こっちは BBC のプログラムの原稿らしい)の2つである。手書きで書き込まれた修正の文字がほとんど読み取れない筆記体であった。CMI の後に読み込むのを楽しみにしている。

Tanaka's osax に関する覚書を WSM に投稿し始めた。とりあえず書き始めておかないと、なかなか取り掛からないからだ。まずは先日の MT List Filesへの問い合わせのメールへの返事を載せ、MT List Files の解説から入ることにした。

明日の社会思想の講義に備えて、中沢の『森のバロック』の粘菌の部分(ここには博物学から生物学への転換期の話が書かれている)や、バベッジの伝記("Charles Babbage and the Engines of Perfection")、そして真打ち登場とばかりにフーコーの『言葉と物』を読んでいる。19世紀の思想史を講義するのだが、特定の人物というよりも、全体的な状況を話そうかと思っている。

中沢の『愛と経済のロゴス』は、期待外れ。というか、個々の話は面白い部分があるのだけれど、なんで交換・贈与・純粋贈与の図式が、ラカンの図式に重なるのか、いまひとつ説得力がない。また、量子論うんぬんも、おいおいという感じの比喩の上滑りに思えて仕方がない。

03年01月25日 09時47分 着信

昨日は社会思想の講義。センター試験準備のための休講を予定に入れるのを忘れていたため、2回で講義するはずだった19世紀の思想を1回でまとめてやることになってしまった。そこで、個々の思想家の思想にあまり深く立ち入らず、19世紀のトピックスみたいな感じで講義を行う。1:資本制(生産資本)とマルクス、2:生物学と進化論、3:「科学者」の誕生、この3つのトピックを取り上げた。試験は、メールによるレポートの提出にした。提出専用のアカウントを作って、そこにメールで送らせる。こういうのが簡単にできるのは、やっぱ自分でメールサーバを運用している強みだなぁ。

講義の後、サーバのメンテナンスや、雑誌に目を通してから、夕食は卒論を書いたゼミ生と打ち上げということで焼き肉を食べに行く。久しぶりに、ひたすら肉を食ったって感じであった。

帰宅後、『愛と経済のロゴス』を読み上げ、『デリダ』に取り掛かったところで寝てしまった。

今日はじっくりとチューリングの読解や、Tanaka's osax のメモ書きなどを行う予定。

03年01月25日 14時23分 着信

チューリングテストに関する覚書7

6節Contray Views on the Main Question を見ていく。この節は分量が多いので、なるべくポイントを整理し絞り込みながら見ていきたいと思うが、冒頭部分で彼自身の考えがストレートに表明されているので、まずはそこは丹念に見ておくことにしたい。

さて、これで議論の土台は明確にすることができたと考えてもよいだろう。そして、我々の質問「機械は考えることができるか?」と、先程の節の最後で述べたその変形(variant)とについての論争へと話を進める準備が整った。この問題のもともとの形をきっぱり捨て去ることはできない。というのも、いろいろな意見は、(我々の提案した)代替案がどれくらい適切なものかによって異なってしまうであろうし、この(もともとの形と代替案との関連という意味での?)つながりについて何が言われるべきかということには、少なくとも耳を傾けなくてはならない。

最後の部分は we must at least listen to what has to be said in this connexion なのだが、この connexionをどう解釈するべきなのか、ちょっと迷うところである。オリジナルの質問である「機械は考えることができるか?」と、チューリングによる定式化である「デジタル計算機が模倣ゲームのAの役割をうまくこなすということは正しいか?」という二つの形の間(つながり)を指していると取るならば、この定式化そのものに関する意見(つまり質問の内容そのものへの意見ではなく、チューリングの定式化のやり方への意見ということ)にも耳を傾けなくてはいけないという意味になるだろう。たぶん、そういう解釈でいいんだとは思うが。

いずれにせよ、チューリングは、ここで、「機械は考えることができるのか」というもともとの問いと、自分の定式化した問いの両方に対する反対意見の検討を行うことを述べているわけである。

続いて、チューリングは自分自身の考えを述べている。この論文の中で、彼自身の知性とデジタル計算機に関する考えがもっともストレートに表明されている部分である。

最初に、この問題についての私自身の信念を説明しておけば、読者はここでの話が簡単になる(見通しがよくなるということ?)だろう。最初に、質問のより正確な形(つまり、チューリングが定式化した形)について考えよう。私の信じていることはこうだ:あと50年ほどの間には、だいたいの質問者が5分間の質問を行っても 70% 以上の確率で正しい判定ができない(どちらがどちらかを正しく同定できない)、その程度には模倣ゲームをうまくこなすようにコンピュータをプログラムすることが可能になるだろう。そのコンピュータは 10^9(=1G)ほどの記憶容量を備えたコンピュータだろう。「機械は考えることはできるか?」というもともとの質問は、議論するまでもないほど意味がないものになっていると信じている。今世紀の終わりには言葉の用法や教育を受けた人たちの意見というものが大きく変化してしまい、反対されるかもしれないなどとは思うことなく機械が思考しているということを口にすることができるだろうと信じてはいる。こうしたことを信じているということを隠したところで、なんらかの役に立つような目的が達成されるわけではないということも私は信じている。科学者は動かしがたい事実から別の動かしがたい事実へと頑なに(研究を)進めるもので、どんなに練り上げられたものであっても推測には影響など受けない、そんなふうに普通は思われている。でも、これは間違いだ。なにが事実であり、なにが推測であるか、このことが明確に区別されているならば、どんな害も生じない。推測は非常に重要なものである。なぜなら、推測によって有用な研究の道筋が示されるからだ。

ここでチューリングが述べていることは、50年も経てば模倣ゲームをうまくこなせるデジタル計算機が登場するだろうということと、同時に人々の考え方や言葉の使い方が変わって「機械が考える」という表現(この場合は、たんに比喩的な意味で「考える」というのではなく、知的な営みとしての思考を行っているという意味での「考える」ということだ)が何の違和感もなく人々に受け入れられるだろうということである。と同時に、このようなことを自分が述べることの意味(弁護?)も行っており、このようになると推測することによって、考える機械の研究が進むことを期待してもいるようである。

チューリングが行っている50年後、あるいは世紀の終わりは、すでに過ぎてしまった。しかし、残念ながらチューリングが予想したようにはいかなかったようだ。もっとも、彼のこの論文がチューリングテストという人工知能に関する一つの大きなトピックを作り出し、人工知能のあり方に光を投げ掛け、人々の研究意欲をかき立てたという意味では、チューリング自身の予測は、まさに彼が述べた役割を果たしたといえるだろう。

自分の信じる内容をストレートに述べた後、反対意見の検討にはいる。検討される反対意見は、彼自身によっていくつかの類型に分類されており、それぞれのパターンの典型的なものに答えていくというスタイルになっている。彼が取り上げる反対意見は以下のものである。

  1. The Theological Objection (神学的異論)
  2. The "Head in the Sand" Objection (聞かなかったことにする立場の異論)
  3. The Mathematical Objection (数学的異論)
  4. The Argument from Consciousness (意識に関する立場からの議論)
  5. The Argument from Various Disabilities (様々な能力の欠如を指摘する立場からの議論)
  6. Lady Lovelace's Objection (ラブレス夫人の異論)
  7. Argument from Continuity in the Nervous System (神経システムの連続性を重視する立場からの議論)
  8. The Argument from Informality of Behavior (行動は形式化しつくせないという立場からの議論)
  9. The Argument from Extrasensory Perception (超感覚的知覚 ESP を信じる立場からの議論)

以上の9つのパターンの反論や意見について、検討を加えていっているのである。

03年01月25日 21時18分 着信

チューリングテストに関する覚書8

では、さっそく、最初の神学的な異論(The Theological Objection)のパートから見ていくことにしよう。ここでいう神学的な異論というのは、ようするに、「思考とは人間の永遠の魂の機能である。神は動物や機械には魂を与えていない。だから機械は考えることなどできない」というものである。これに対して、チューリングは、この意見のどんな部分も受け入れることなどできないと述べた上で、まずは神学の土俵にたって反論を論じて見せている。

動物と機械を一緒に扱うよりは、動物は人間と同じグループに入れておいて、命を持つもの(the animate)と命を持たないもの(the inanimate)の違いとして話をしたほうが説得力が増すんじゃないのか、まぁ、それをいうなら、正統派(orthodox)の見解なんてのは恣意的なもんじゃないか(宗教上のいろいろな区分けというかカテゴライズは恣意的なもんじゃんか)、というツッコミを最初にしておいてから、チューリングが指摘するのは、この神学的な異論は、全能者である神の能力を制限するという大きな問題を孕んでいるという点だ。全能者である神には動物には魂を与える自由があるんじゃないのか、つまり、神は動物や機械に魂を与えることができないわけじゃない、という指摘である。もし象が魂をもつのがふさわしい存在なら神は魂を与えることができるだろう。

神が魂をお贈りになるというこのご自身の能力を(象に対して)お使いになる場合には、お贈りになる魂に仕えるのにふさわしいよう適切に改良された脳もいっしょに象にお与えになるという突然変異を伴う場合に限るだろうと、我々は予想することができる。まったく同じ主張を、機械の場合にもとなえることができる。機械の場合には「飲み込む(swallow)」のが難しいために、議論が違うように見えるかもしれない。しかし、実際には、次のようなことを意味しているに過ぎない:「神が、(問題となっているものの)環境(状態)が魂を贈るのにはふさわしいとお考えになることは、それほどありそうもないと我々が考えている」。問題となっている環境については、この論文の残りの部分で議論する。(神が魂を贈るのがふさわしいとお考えになるような?)そのような機械を我々が作ろうと試みることは、神の魂をお作りになる能力を、我々が不遜にも奪おうとしているわけではけっしてない。生殖で子供を作ることが神のその能力を奪う行為ではないのと同じである。神の能力を奪おうというのではなく、(思考する機械を作ることも、子供を作ることも)いずれの場合も、ご自分がお作りになる魂が住まう館、それを提供なさろうとする神の意志の道具なのが我々なのである。

やや分かりにくい文章(訳がうまくないのもあるんだが)が並んでいるが、ようするに、魂を持つ(=つまりは思考という能力をもつ)のに相応しい存在であれば、神は魂をお与えになるだろう(神は魂を与える自由を持っているんだから、魂を持ってもおかしくないものに魂を絶対に与えないと考える方が不敬である)。そして、考える機械を作るということは、子供を作るのと同じように、魂が住まう場所に相応しいものを提供しようとしているだけであって、魂を与えるという神の能力を奪い取ろう(わが物にしよう)というのではないんだ。そういうことである。このように、神には自由に魂を与える自由があるということ、思考する機械を作ることは(魂を作ることではなく)魂が住まうのにふさわしい入れ物をつくるだけだということ、そして、魂が住まうに相応しいものを作ることは神に挑戦することなどではないこと、という論点で、神学的な反論を組み立てているのである。

で、やや込み入った神学的な議論を展開した後で、あっさりと、チューリングは「こんなものは、ただの空論(mere speculation)でしかない」と切り捨て、神学的な議論なんてのは相手にするほどのものではないとするのである。

個人的には、ここでのチューリングの神学的な議論(っていうか屁理屈)は、けっこう笑えるもんだと思う。ただ、その感じを、うまく日本語に訳すのは難しい個所ではある。新山氏の日本語訳も、このパートは、訳し忘れている部分もあったりして、かなりわかりにくいものになっていると思う。

続いて The "Heads in the sand" Objection を見ていこう。まず、heads in the sand というのは、hide one's head in the sand というイディオム(見なかったふりをして、直面している物事から逃避する)をひいたものだろうが、ようするに、機械が思考するなんてことはあり得ないとして相手にしないような立場である。これに対してチューリングは、人間が他の存在よりも優位にたちたがるもんであり、その優位性の支えが思考能力であるといったことを指摘した上で、この手の意見には、真剣に反論する必要はないと斬って捨てる。このパートは短い。

(3) The Mathematical Objection は、ゲーデルの不完全性定理によって離散状態機械には限界があるという意見を取り上げる。ゲーデルと同様のことをチューリング自身がチューリングマシン(無限の記憶容量をもつデジタル計算機)に関して明らかにしており、それによれば、無限容量のデジタル計算機には実行できないような事柄が存在しているということが明らかになっている。模倣ゲームの場合に当てはめるならば、計算機に無限の時間が与えられたとしても、計算機は答えを間違うか全く答えられないかどちらかになってしまう、そういう質問が存在しているということを意味する。チューリングが具体的な例として示すのは、以下のような質問である。

「"ある条件"に従って組み立てられた機械を考えよう。この機械は、はたしてどんな質問にも『Yes』と答えるだろうか。」"ある条件"(原文では ... と書かれている)には、機械についての標準的な形式での記述、ちょうど5節で我々が用いたようなものが入るとする。(質問の中で)述べられている機械が、質問を受けている機械と、比較的単純な関係をもっている場合(bears a certain comparatively simple relation to)、回答が間違っているかあるいはいつまでも回答が返ってこないか、そのどちらかになることを示すことができる。

実行不可能性に関するチューリングの論文を読んでいないので、いまひとつ論点がクリアに把握できないのだが、単純に自己言及が生じる(あるいはメタレベルの記述とオブジェクトレベルの記述の分離が不可能になる)ということでよいのだろうか? いずれにせよ、機械にはきちんと答えることができない質問が存在することは数学的証明されている点をチューリングは指摘する。このような数学的な観点からの反論に対する彼の答えには彼の人間観というものがよく出ているように思われるので、丹念に読んでおくことにする。

この議論に対する短い回答は次のようなものだ:どんな特定の機械であれ能力に限界があるということは確証されているが、しかし、人間の知性にそのような限界は課せられていないということは、どんな証明もなされたことがないまま、ただ言われ続けられてきたことに過ぎない(=機械の限界は確証されているが、人間知性の限界については単にそんなものは無いと言われてきたにすぎない)。とはいえ、私は、(人間の知性には限界がないという)この見解をそう簡単に退けることができるとは考えていない。ここで言っている機械の一つが、まさにクリティカルな質問(=機械が間違うか答えられないことが明らかな質問)を訪ねられ、それにはっきりとした答えを返した時にはいつでも、我々はその答えが間違っているに違いないことが分かるし、このこと(=機械が間違ったということ)が、我々にちょっとした優越感を与えてくれる。この優越感は錯覚に過ぎないものだろうか? その優越感は疑いようも無く純粋な心からのもの(quite genuine)だ。とはいえ、私としては、そのことにあまり重きをおくべきではないと考える。我々人間は、自分たちだって質問に対して誤った答えをすることがかなり頻繁にある。そうである以上、機械の側が誤るという証拠にとても喜ぶということを正当化することはできない。さらに、我々が優越感を感じることができるときというのは、我々が些細な勝利を収めることができた一つの機械にかかわる場合でしかない。すべての機械に同時に勝利を収めることができるような質問は存在しないだろう。端的に言えば、人間(men)は自分が相手をするどんな個々の機械(any given machine)よりは賢いかもしれないが、その機械のほかにもっと賢い機械があって、じゃあと次のその機械と相手をすると人間の方が賢いが、それよりも賢い機械があって…と、そういうことだ。

機械に限界があることは数学的に証明されているが、人間の知性に限界が無いことは証明されてない(単にそう言ってきただけじゃん)。また、ある機械に対して、その機械が間違うような(ちゃんと答えられないような)質問をして勝てるからといって、すべての機械を相手に同時に勝てるわけじゃないやろ、と、そういうことである。ある特定の機械に解答不能な問いが存在していることと、すべての機械が解答不能な問いが存在することとは違うという指摘も含まれていると思うが、このへんの指摘は、けっこう鋭い。とはいえ、やや持って回ったような議論になっているようにも思える。いずれにせよ、チューリングは、以上のようなことを述べた上で、数学者は、模倣ゲームを議論の土台にすることは了承してくれるだろうと、このパートを括っている(つまり、チューリングによる問題の定式化=変形自体には同意してくれるだろう→数学的に正しい変形だと認めてくれるだろう、ということ)。

03年01月25日 21時51分 着信

自宅でチューリングの読解にどっぷりとはまっていた。

「ブラックジャックによろしく」4巻を読んだ。

ネットワークの障害が日本や韓国で起きていたらしい。どうりで、昼間、.mac につながらなかったわけだ。

さて、これから『デリダ』を読みながら寝ることにしよう。

03年01月27日 00時18分 着信

チューリングテストに関する覚書9

続いて The Argument from Consciousness の検討に入る。この反論というのは、端的に言うと、自己意識を機械は持っていない(自分が「思考」しているという意識を持っていない)というのがポイントである。チューリングが、この立場の代表としてあげているのは Professor Jefferson の Lister Oration for 1949 (Lister の解釈ができないが、何かの式典の式辞のようだ)である。その Jefferson 教授の言葉のポイントとなる部分をまず見ておく。

機械が、偶然によってシンボルを並べるのではなく、(なにかの)思考や感情を感じたことがきっかけでソネット(14行詩)を書いたりコンチェルトを作曲することができる、そうなるまでは、機械が脳と同等だという意見に同意することはできない。脳というものは、ソネットやコンチェルトを書いたりすることができるだけではなく、それを自分が書いたということを知っているものなのである。

ようするに、機械は自意識(反省的意識)を持っていないという点を問題にしているわけである。この論点は、チューリングテストでは知性を検証できないとする立場、とくに哲学者の立場からの反論として、ある種の典型的なものだと言えよう。いくら模倣ゲームを機械がうまくこなしたところで、その機械が、思考しているということ自体を理解できていないのであれば(=つまりは、我々と同じ思考を体験しているのでなければ)、それは思考していない、というわけである。これに対して、チューリングは、この教授の考え方がチューリングテストの正当性を否定するものであることを確認したうえで、この教授の考えを突き詰めると唯我論になるという点を突く。

この議論は我々のテストの正当性を否定するもののように見える。この見解の極端なものに従うなら、機械が思考しているということを確信できる唯一の方法は、機械になって、自ら考えているということを感じることである。そうすれば、その人は自分の感情を世界に向かって述べることができるだろう。しかし、当然のことながら、どのような表示を行っても正当化されないだろう(原文は no one would be justified in taking any notice なのだが、これを普通に訳すと意味が不明になってしまう?)。同様に、この見解に従うならば、ある人間が思考しているということを知る唯一の方法は、その人そのものになるということである。実際、これは唯我論の見解である。この立場は、考え方としては最も論理的ではあるが、この立場は、アイデアの伝達を困難なものにしてしまう。…。この点について延々と議論を続けるよりは、誰もが思考しているとする真当で世間的な慣習(politeconvention)に従うほうが有益である。

チューリングの反論は、唯我論の立場にたつならば、機械だけでなく、他者が思考しているということすらも確証できなくなるのだから、そういう不毛な議論に踏み込まないでおこうよということになるだろう。

端的に言うなら、意識の立場からの反論を支持するほとんどの人たちに対しては、(厳密な議論によって)唯我論の立場を無理やり引き受けさせるよりは、意識の立場の意見をすてるように納得させる方が可能性が高いと私は考えている。そうすれば(=意識の立場を捨てるなら)、おそらく、我々のテストを喜んで受け入れるだろう。

意識には不可思議なところなど全くないと考えている人間だと私のことを受け取って欲しくはない。現に、意識のありかを突き止めようとするどんな試みも引っ掛かるパラドックスめいたものがある。しかし、我々がこの論文で扱っている問いに答えるためには意識の謎を解決する必要がある、とは私は考えない。

端的に言うなら(暴力的にまとめるなら)、思考してる意識を持ってないとだめだなんてことを言い出すと、他人が思考してることすら認められなくなるけど、それでもいいわけ? ってな感じのツッコミをチューリングはしてるということだろう。日々の交わりの中で我々は他人が思考しているということを当然のこととして受け入れて振る舞っているわけだから、同じように、機械との交わりの中で思考するということを受け入れてもいいんじゃなか、ということだ。対象が思考するということは、コミュニケーションを通じて得られる認識であるということの主張と読める。

03年01月27日 00時19分 着信

昼間は『デリダ』を読んだりして過ごす。この本は、デリダに関する解説書(というか、入門書)として、よくできていると思う。

チューリングの論文の中にラブレス夫人、つまり、あのエイダ(Ada)の発言が出てくるのだが、論文中ではエイダの memoir の中の文章としか書かれていない。そこで、(例によって (^_^;; )読みかけのままになっている "Ada, The Enchantress of numbers" (Betty Alexandra Toole) の中に、元になった文章が載っていないか見ていたら、しっかり載っていた。もっとも、チューリングが引用しているのとはちょっと文章が違ってはいるのだが。こういうのがあるから、本というのは買っておくものだと思う。

夕食後、チューリングテストに関する覚書の作業を少しする。もっとも、やりだすと2時間ぐらいはあっという間に過ぎてしまう。やはり英語を精読していきながら日本語に置き換えていく作業(既存の日本語訳は、どうも大ざっぱな部分や、日本語として意味がよく分からない部分があるので)は時間がかかる。

03年01月27日 13時26分 着信

朝からスーパーボウルの生中継を見る。なかなか荒れておもしろい試合ではあった。タンパベイ・バッカニアーズが優勝。確かにディフェンスがアグレッシブであった。NHK の解説者が下手すぎ。巨泉を出せばいいのになぁ。

一昨日来の MS SQL サーバのウォーム騒ぎが収まっていないのか、ネットが重い。大学関係の管理の甘いサイトがやられて、サイネットにパケットがあふれかえっているのかしら?

さて、経営組織論の講義である。

03年01月28日 11時05分 着信

昨日の経営組織論の講義では、期末試験の問題の一つを予告した。組織論では初めてのことである。記述式の問題を3つ出す予定なのだが、そのうちの一つは、自分が考える理想の組織とはどんなものかを述べさせてみることにした。理想といっても、いろいろな観点から述べることができるわけで、どういう解答が出てくるか、ちょっと楽しみである。

講義が終わってからネットを検索していたら、やはり、エイダ・バイロンの、分析機関に関する記事、いわゆる memoir と呼ばれているものの全文が掲載されているページを見つけることができた。便利だよな、やっぱ。

夜に、少しだけチューリングの論文の読解の作業を行ってから、寝た。

今日からしばらく雪が続くみたいだ。今はまだそんなに降っていないが、風が強い。

03年01月29日 00時50分 着信

外書とゼミの日。外書は実質的な授業は今日が最後である。切りが良いところでテキストの授業は打ち切って、最後に、進化論とか、経営学で使われる生物学用語のいいかげさ(企業の DNA なんていう憤死ものなど)の話をして終わる。個人的には、あらためて、進化論を語ることの難しさというか、人間中心主義の視点に落ちる危険について、感じた。ゼミでは、この1年間のゼミの活動の総括など。学生達の意見を聞いていて、反省しなければならない点もいくつもあった。まぁ、そうはいっても、やりたいようにしかやれないんだけど。

夜になって本格的な雪。積もり始めている。明日は真冬日になるとの予報。

チューリングの読解を続ける。もう少しでエイダが出てくる部分までたどりつけるのだが、だいぶ彼の文章に慣れてきたせいか、細かなところがどんどん気になり始めて、なかなか先に進めない。訳してしまう部分が増えてきている。自分で言葉を置き換えていく(訳していく)作業をしながら考えるというのは、疲れるけど、楽しい。

03年01月29日 22時20分 着信

一日荒れた天気だった。真冬日ということもあって、雪かきが寒かった。でも雪は軽い。大学からの帰りに買い物へ行く途中、九頭竜川の橋の道の融雪装置の水が車のフロントガラスにあたった瞬間に凍りついて、氷の幕が視界を遮ってしまったのには、ちょっと驚いた。ウォッシャー液をガンガンかけながらワイパーを動かして、なんとかすぐに氷の幕はとれたけど(ウォッシャー液を濃いめにして凍結しにくいようにしておいてよかった)。

デリダの『有限責任会社』が届く。オースティン&サールとの論争に関連するものをまとめたものである。以前に、現代思想の増刊号で読んだ覚えはあるのだが、その時は、何がなんやらという感じであったことだけしか覚えていない。読むのが楽しみな一冊である。

…といいつつ、チューリングの読解にすっかり時間をとられている(っていうか、没頭してるんだけど)最近。

午後の学内システムのオンライン化のモニターの会議(日経コンピュータの「動かないコンピュータ」に出てくるようなシステムが、実際にできあがっていく過程を体験しているような感じもちょっとあったのだが… F社のパッケージを入れるんだけどさ)の前に、これまでに書いたチューリングテストの覚書をまとめたページを作ったりしていた。ついでに、サイトの授業と研究のページの中に、研究ノートのコーナーも作っておいた。これからも、おそらくこの雑感にメモやノートを投稿するってのは続くだろうから。あとは、自動的にページを登録するソフトウェアを作ればおもしろいだろうな。

03年01月30日 08時39分 着信

今日も雪。昨夜はチューリングの読解がほとんどできなかったので、今日は朝からどっぷりと取り組んでいる。ようやくエイダの出てくる部分へとたどりつく。

チューリングの読解は、ずっと TiBook で OS X を使いながら行っている。メールで投稿するので、Apple の mail をエディタがわりにしながら文章を書き、Jamming で辞書を引き、Safari で落としておいた原文を参照する、という感じで作業を続けているのだが(iTune で音楽を聴いたりしながら)、一つ、OS X の動作として、これは便利だなと感じたことがある。それは、クリックによるウィンドウの切り替えを行った場合、クリックの対象になったウィンドウだけが全面に出てきて、同じアプリケーションで開いている他のウィンドウは背後になったままだということだ。Dock で切り替えた場合には、アプリケーションが開いているウィンドウがすべて出てくる。これは、たとえば、Jamming で辞書ごとに別々のウィンドウを開けておいて、必要になったものだけを浮上させて検索するなんて作業が簡単にできるので、便利である。クリックした辞書のウィンドウだけしか出てこないので、文章を書いている mail のウィンドウや、原文が表示されている Safari のウィンドウが隠れない。TiBook のような限られた画面サイズの中で複数のアプリケーションを同時に使いながら作業するのには、なかなか便利な動作である。ちょっと感心している。

03年01月30日 09時03分 着信

チューリングテストに関する覚書10

Arguments from Various Disabilities では、「機械には〜ができない」という議論の検討が行われる。この議論にはさまざまなものがありうるため、Arguments と複数になっているのだろう。

これらの(機械の欠点を論う)議論は、次のような形をとる:「君が述べたことをすべてこなす機械を作ることができるという点は認めるとしよう。でも、その機械が、Xをこなせるようには作れっこないよ。」このXに当てはまるものとして様々な特徴(features)が挙げられている。

ここでチューリングはいくつかの人間的と言われるような特徴の羅列を行っている。そして、この手の意見に対して、それがこれまで存在していた機械との経験からの帰納的な意見(induction)であることを指摘する。

…。私は、これらの主張は、そのほとんどは、科学的な帰納法の原理に基づくものだと信じている。人間というものはその人生において何千という機械を目にすることになる。無数の機械を見てきた経験から、人はあれやこれやの一般的な結論を引き出すものだ。機械というのは醜いものだ、個々の機械というのは非常に限られた目的のために設計されている、ちょっと目的が違ってしまうだけで役に立たない、機械のどれをとってみても振る舞いの幅は非常に貧しい等。人が、これらの特徴が機械というもの一般の必須の属性だと結論づけるのももっともではある。

こうした、人が機械の経験一般から引き出した結論(経験の一般化)を、同じ機械からといってデジタル計算機にそのまま当てはめることはできないのだということをチューリングは言おうとする。

数年前であれば、デジタル計算機についてほとんど耳に入ることなどなかったわけで、デジタル計算機について、それがどのように作られるものかを述べずにおいてデジタル計算機の属性(性質)について話そうとするなら、それまでの機械の経験から帰納的に考えを引き出すこともありがちなことであった。そうしてしまうことは、私が思うに、ほかの事例と同じように当然のように科学的な帰納法を用いて見解をまとめたということだろう。帰納法をもってする(=過去の経験を一般化する)というのは、もちろん、多くの場合、無意識的に行われることである。…。人間の作ったものや習慣というものは、科学的な帰納法を適用する対象としては、それほど適切なものとは思えない。もし(人間の作ったものや習慣について)信頼にたる結論を得なければならないのなら、広大な時間と空間を調査しなければならない。そうしなければ、多くの英国の子供たちが実際にやっているみたいに、みんなが英語を話すものだと、そしてフランス語を学ぶのは愚かなことだと、そう決めつけてしまうかもしれない。

チューリングがここでのべているのは、人が「機械というものは何かしら欠点があったり融通が利かないものだから、(なんだかよくわからない)デジタル計算機だってきっとそうだろう」と考えてしまうのは、帰納法(経験の一般論化)の間違った働きによるものだ、ということである。機械のような人が作ったものとか人間の習慣とかについては、普段の体験に帰納法を適用しても、正しい認識には至らない(本当にやろうとすれば、すべての地域と時代について調べる必要があるだろう)、ということを論点にしている。英国の子供が周りの人たちがみんな英語をしゃべっているからといって、人は英語をしゃべるもんだと考えてしまうのは、認識としては正しくない。ようするに一般化の元になっている経験が限られていることに、その誤りの原因はある。地球上のすべての土地、そしてすべての時代を調べて(チューリングの言い方を使うなら「広大な時間と空間を調査」して)、初めて、人は英語をしゃべるものかどうかを認識できる。まぁ、そういう感じで、偏った経験論を批判するわけである。そのうえで、そうした経験に頼った議論ではなく、デジタル計算機はどんなものかという原理によった議論が重要だと主張している。なんてったって、英国はベイコン〜ロック〜ヒュームの流れの経験論(帰納法)の本場だから、よけいに経験論に難癖付けているって感じがするなぁ。

なお、あれやこれやと機械にできないことがあるじゃないかという議論に対して、チューリングは興味深い指摘を行っているので、それを見ておく。

しかしながら、先程触れたような機械の不能性(能力が欠けていること)の多くについて、述べておくべき特別な意見がある。(先に挙げてあった)機械はクリームのかかったイチゴに舌鼓を打つことができないという指摘は、それがあまりにばかげているのに読者の皆さんはあぜんとしたことだろう。おそらく、(イチゴのクリームかけという)このおいしい料理を味わって楽しむように機械を作ることはできるだろうが、しかし、機械にそんなことをさせようとするどんな試みもばかばかしいことだ。この不能性(=イチゴクリームが味わえないこと)に関して重要なことは、それが、別の不能性のいくつかを強めてしまう(原文は contributes to some of the other disabilities)ということである。別の不能性というのは、たとえば、機械と人間の間である種の友情を打ち立てるのが難しくて、白人と白人の間の友情や黒人と黒人の友情のようには簡単にはいかない、というのがあげられる。

この部分は、思考との関連で言うなら、ようするに、機械が思考するということと、機械が人間と同じである(人間同様に付き合える相手である)ということは別だと言ってると読める。思考するからといって人間のように付き合えるものになるわけじゃないってことか。

これまで論じてきた「機械は〜ができないじゃないか」という意見への反論に区切りをつけたところで、、チューリングは「機械は間違うことができない」という主張を取り上げて、それに対する反論を述べる。確かに、機械が算数の計算を間違うことはないから、模倣ゲームでこの点に注目すればすぐに機械かどうかわかるだろう。でも、機械を人間らしく間違うようにプログラムすることだってできる、と指摘しておいた上で、「機械は間違うことができない」という意見は、2つの誤り方を混同していると指摘する。その2つの誤りというのは、"実行上のエラー"(errors of functioning、直訳するなら"機能する際のエラー"ぐらいか)と、"帰結のエラー"(errors of conclusion)である。

実行上のエラーというのは、計算を行う際の機械的あるいは電気的な欠陥によって発生するエラーのことである。実在の計算機であれば、このエラーが生じる可能性はある。しかし、この論文でチューリングが想定している数学的な仮構としての抽象機械であれば、確かに、そういう機械は決して誤りを犯すことができないと言える。

一方の帰結のエラーは、機械の出力信号に何らかの意味を持たせた時に発生するエラーである。チューリングが言おうとしているのは、信号の処理としては正しく機能しているが、そもそも処理の仕方(それはプログラムによって与えられる)が間違っているがゆえに、出てきたデータの意味が間違ってしまうというものだ。つまりはプログラムしたアルゴリズムのミス(というか、選択したアルゴリズムが不適切ということ)である。

間違った命題が機械によって印字された時には、われわれは、機械は帰結のエラーを犯したと言う。機械というものはそのようなエラーを犯すことができないと言う明らかな根拠などまったく存在していない。機械が 0=1 を延々と印字するだけということもあるだろう(=それにしたって、機械の中の処理は正しく行われているが、処理の指示が間違っているわけだ)。そんなにひねくれてない例を挙げるなら、機械が、科学的な帰納法を使って結論を導くようななんらかの方法を持っているというものだ。我々は、そんな方法は、時々間違った結果を導くということを、当然のこととする。

機械に実装されている方法(プログラムされたアルゴリズム)がおかしかったら、機械は、当然、間違った結果を出してくる。人はそれをみて、機械が間違ったと言う。でも、実際は、機械は、指示された通りに正しく機能したわけで、機械が間違えたわけではない。機械への指示が間違っていたのだ。その点をはっきりさせておこう、ということだろう。ここでも帰納法をやり玉にあげているところみると、やっぱチューリングは経験論が嫌いだったんだろうな。まぁ、数学者だしね。

で、このパートはまだ終わらない。「〜はできない」という主張のいろいろなパターンの議論に反論していっているわけだが、次にチューリングが俎上に載せるのは「機械は、自分の思考の主題になることができない」というものである。これは、先の自意識の議論とも重なる部分がある。

機械というものはそれ自身の思考の対象(主題、Subject)になることができない(=自分を主題とした思考はできない)という主張に応えることができるのは、当然のことながら、機械がある主題について何らかの思考を抱いていることを示すことができる場合だけである。それでも、「機械の演算処理(operation)の主題」というのは、少なくとも機械を扱っている人には、ちゃんと意味がとおる表現に思える。たとえば、機械が x^2-40x-11=0 という方程式の解を見つけようとしている場合なら、この方程式を、それを解こうとしている瞬間の機械の主題の一部だと言いたくなるだろう(=機械が自分が何をしているのか分かっていると言いたくなるだろう)。この意味で、機械というものは、確かに、それ自身の対象になることができるのである(=機械は、自分がなんのために処理を行っているのかを把握することができる)。このことは、機械が自分自身のプログラムを作り上げる手助けをしたり、自分の構造を変化させるとどういうことになるのかを予測したりする、そういうことに利用できるだろう。機械が、自分の出した処理の結果を観察し、目的をより効率的に達成するように自分のプログラムを変更することができるわけだ。これは夢物語などではなく、近い将来にそうなる可能性はある。

まず問題になっている Subject というのが、なかなかクリアには把握しにくい概念ではある。主題、対象、そして主体といった意味をもった言葉だからだ。「自分の subject である」という言い方は、自分自身を対象にする(=反省的に自己を観察する)、自分のやっていることがわかる、あるいはやや強引ではあるが、自分が主体性を持つ(主体であることの中に、自己観察だとか、反省だとか、あるいは自己関係だとかいったものが包摂されているわけだが)ともとれる。ここでは、あげられている例を見る限りでは、機械が自分が何の処理をやっているのか分かっているということのようだが。ここで語られている、自己構築あるいは自己修正する機械というのは、大ざっぱに言えば、チューリングの同時代と言ってもよいサイバネティクスの考え方(フィードバックによる制御)につながるものであると思う。サイバネティクスそのものが、情報(信号)という観点で、人間と機械の差異をとっぱらうような視点を持っていた(だからサイバーパンクへとつながる)ものだからだ。マウスの発明で有名なエンゲルバートが、人間とコンピュータのcoevolution を考えていた文脈にもつながるかな。

続いて、このパートで取り上げる最後の議論として、「機械というものは行動の多様性を持つことができない」という批判を取りあげ、それは、記憶容量が足りないという問題にすぎないと反論している。そして、最後に、このパートで取り上げて論じた批判全体へのコメントが入る。

ここで我々が検討している緒批判は、しばしば、意識からの議論(=機械には自己意識がないじゃないかという批判)の形を装ったものになっている。機械がこうしたこと(=機械にはできないと言われたあれやこれやのこと)のうちのあることがちゃんとできるんだと主張し、そのために機械が用いる方法のようなものを述べる、そういうことをしてみても、普通は、他人にはたいして感心されないだろう。(機械が用いる)方法は、それがどんなものであれ、機械的なものであるには違いないわけで、実際のところ、卑しいもの(=人間の優雅さに欠けたもの)と考えられている。先に引用したJefferson の発言の中のカッコの中の文章と比べてほしい。

「Jefferson の発言の中のカッコの中の文章」というのは、意識の立場からの議論の冒頭部分の Jefferson 教授の言葉の中の "No mechanism could feel (and not merely artificially signal, an easy contrivance) pleasure atits successes, ..." のカッコの部分を指している。「簡単にそれらしいものに作られた、そういう人工の信号なんかではなく」という言い方に、機械に何らかの動作をさせる(=人間のように自己意識をもって振舞っているかのように機械を動かす)ことは簡単だが、そういう「見せかけ」ではなくて、ということが述べられており、チューリングはその言い方にこもっている、動作そのものへの軽視(蔑視)を問題にしているわけである。つまり、「機械は〜ができない」という批判に対して、いや、それはXXのように機械を組み立てれば(プログラムすれば)できるよ、と反論したところで、その反論で相手は納得しないだろうということを、この最後の部分でチューリングは言っているわけである。いくら機械だって〜はできる(できるように作れる)と言ってみても、「そんなの、振りをしてるだけじゃん」というツッコミを受けておしまいになってしまう(これが Jefferson のカッコの中の表現のポイント)。だからこそ、ここで展開したような、回りくどいと言うか哲学的と言うか、そういう議論をするしかないんだと、チューリングは述べているわけである。

というわけで、ようやく、このパート、「機械なんて〜ができないじゃないか」という批判への反論のパートが終わる。

03年01月31日 01時14分 着信

雪の峠はこえて、今日は昨日よりは暖かかった。そのため、雪が解け始めてぐちゃぐちゃになり、公舎の駐車場で車がスタックしてしまった(雪かきを十分にしてないのが原因ではあるが)。とはいえ、週間天気予報では、しばらく雪が降る天気が続きそうである。

娘が幼児園で熱を出してしまい、夜はドタバタしてた。風邪やインフルエンザが流行っているからなぁ。

午前中はチューリングの読解をして、午後は会議。今日の会議は比較的早く終わった。

チューリングの読解の関連でエイダの文章にも取り組んでみたのだが、なかなか分かりにくい。というか、論点は理解できるのだが、日本語にならないという感じ。

03年01月31日 01時14分 着信

チューリングテストに関する覚書11

Lady Lovelace's Objection の検討に入ろう。ここで議論の対象になっているのは、ラブレス侯爵夫人、つまり、史上初のプログラマーとかハッカーと褒め称えられ、プログラミング言語の名前にもなった、Augusta Ada Byron King,Lady Lovelace のことである。彼女は、バベッジの解析機関(Analytical Engine)の理解者として有名であり、チューリングがここで取り上げるのも、彼女の解析機関に関する発言(と、それに対する Hartree のコメント)である。

バベッジの解析機関に関するもっとも詳細な情報は、ラブレス侯爵夫人の memoir によるものである。その中で、彼女は次のように述べている。「解析機関は、なにかを創作すると気取ったりはしない。解析機関は、実行させるにはどうやって命令したらよいか我々が分かっていることなら何だってできる」(斜体はラブレス侯爵夫人)。この表明は Hartree によって引用されていて、以下のようなコメントが付け加えられている:「彼女のこの発言は、『自分自身について考える』ような電子装置、生物学的に言うなら条件反射=反省(それは『学習』の基礎となるだろう)を行うように組み立てられた装置、そのような装置を作ることは不可能だろうと言っているのではない。このようなこと(自己反省する機械を作ること)が原理的に可能かどうかということは、刺激的でワクワクさせられる問題であるが、この問いは最近の進歩によって提出されたものだ。しかし、(バベッジが解析機関を作ろうとした)当時に制作されたり計画された機械には、このような性質(自己反省=反射の能力)があるとは思えなかったのだ。」

以下、チューリングによる議論が展開されるのだが、ここで、若干(?)の寄り道をしておく。

まず、Hartree というのは、マサチューセッツ大学とケンブリッジ大学の数学物理学者(応用数学者)であった Douglas Hartree のことである。彼は、物理学の分野では有名らしいが、その業績については、私はコメントできない。他方で、初期のコンピュータ開発者(関係者)としても知られている。アメリカにあのバネーバー・ブッシュが開発を行っていた微分分析機(a differentialanalyzer)を見に行って戻ってきて自分でも組み立てたりしている(メカニカル式のものだったようだ)。後にエニアック(ENIAC)が作られたときには、アメリカに招かれて、ENIAC を何に使うべきかアドバイスを行ったりもした(雑誌 nature にENIAC の紹介記事を書いている)。イギリスに戻ってからは、プログラム記憶式のコンピュータの作成を熱心に支援した。そういう人物である。チューリングによって引用されている論文の原文にあたることはできなかった(ネットでは読めないみたいだ)。

そして、ここからが寄り道の本題(?)なのだが、上の文章の中で触れられている「ラブレス侯爵夫人の memoir」について、解説しておこう。

この memoir というのはエイダの書いた論文である(回想録ではない)。"Scientic Memoirs, Selections from Societies and from Foreign Journals" という紀要誌の、1843年に発行された Vol.III に掲載された論文(正確には論文の翻訳+解題)である。そこから Ada の memoir といえば、この論文のことを指すようになった。この雑誌に掲載されたのは、1841年にバベッジがイタリアのトリノを訪れて解析機関に関する講演(?)を行った際の内容を、イタリアの Captin Luigi Menabrea (後にイタリアの首相になった人物らしい)が出版し、それがフランス語の雑誌に翻訳されて掲載されたものを、エイダが解題付で英語に翻訳したというものである。ScienticMemoirs に掲載された際の論文のタイトルは、"Sketch of the Analytical Engine invented by Charles BabbageEsq. By L.F. Menabrea, of Turin, Officer of Military Engineers [From the Bibliotheque Universellede Geneva, No.82 October 1842] With notes upon the Memoir by the Translator" となっている(翻訳者の名前として ADA AUGUSTA, COUNTESS OF LOVELACE がクレジットされている)。この論文の原文は http://www.fourmilab.ch/babbage/sketch.html で読むことができる。

チューリング、バベッジ、エイダと、役者は揃った!って感じである。おまけに、元になった講演がトリノ(Turin)で行われているとのはできすぎだな。

で、この論文は、Menabrea がバベッジの解析機関について解説したもともとの論文に、翻訳者による解題(Notes byThe Translator)として、AからGまでの膨大な(翻訳された論文よりも分量が多い)解説がエイダによって書かれている。チューリングが引用しているエイダの発言は、その解題の中の Note G の冒頭部分に書かれているものである。

参考までに、チューリングが引用している部分が含まれる、Note G でエイダが解析機関について述べている部分を見ておこう。Note G の冒頭で、解析機関の能力に関する誇張に用心する必要があること、新しい主題に対しては、人はとかく過大評価か過少評価に陥るものだ、といったことを指摘しておいてから、解析機関の解説がなされる。やや長文になるが、まず原文を引用する。なお、文中のイタリックはすべてエイダ自身によるものである。

The Analytical Engine has no pretensions whatever to originate anything. It can do whatever we know how toorder it to perform. It can follow analysis; but it has no power of anticipating any analytical relationsor truths. Its province is to assist us in making available what we are already acquainted with. This itis calculated to effect primarily and chiefly of course, through its executive faculties; but it is likelyto exert an indirect and reciprocal influence on science itself in another manner. For, in so distributingand combining the truths and the formula of analysis, that they may become most easily and rapidly amenableto the mechanical combinations of the engine, the relations and the nature of many subjects in that scienceare necessarily thrown into new lights, and more profoundly investigated. This is a decidedly indirect, anda somewhat speculative, consequence of such an invention. It is however pretty evident, on general principles,that in devising for mathematical truths a new form in which to record and throw themselves out for actual use,views are likely to be induced, which should again react on the more theoretical phase of the subject. Thereare in all extensions of human power, or additions to human knowledge, various collateral influences, besidesthe main and primary object attained.

パラグラフの冒頭部分に、チューリングが引用した文章がある。ざっと訳しておくことにしよう。よく分からないところがあるので、日本語として読める文章にはなっていないが。

解析機関は、なにかを創作すると気取ったりはしない。解析機関は、実行させるにはどうやって命令したらよいか我々が分かっていることなら何だってできる。解析機関は、解析の道筋をたどることはできるが、しかし、分析的な関係や真実に関して何らかの予想を行う能力はまったくない。解析機関の領分は、我々がすでに理解していること(=解析の手法)を、我々が実際に利用できるものにするのを助けることである。解析結果は、解析機関の実行能力によって、なによりもまず答えを出すべく計算されるものである。しかし、別のやりかたで、科学自体に、間接的で互恵的な影響をふるうということはありそうだ。真実と分析の公式とを配置し結びつけることによって、両者は、解析機関の機械的な組み合わせを、もっとも簡単にかつ迅速に適用できるものになり、そのことで、その科学(解析学?)の多くの主題の関係や本質に、必ずや新しい光が投げ掛けられ、さらに深い探求がなされるだろう。このことは、(解析機関の)発明というものの、あきらかに間接的であり、いくぶん理論的でしかない、結果である。しかしながら、一般的な原理に従って、数学的な真理のために新しい形式(それは実際の使用のために記録され投げ出される)を考案することによって、緒見解が導き出され、その見解が、再び主題のより理論的な局面に反応するはずだということ、そういうことはかなり明らかである。主要な基本的な目的を遂行すること以外に、人間の能力の拡張、あるいは人間の知識増大への貢献という点において、様々な付帯的な影響がある。

**訳文をもっと推敲する必要が大いにあり!!**

ようするに、エイダがここで述べていることは、解析機関は単に計算を行うだけであって、何か新しいものを考案する能力は無いが、解析機関によって様々な計算を実際に行えるようになることは、間接的にではあれ、科学の進歩には役に立つ、といったことである。

さて、CMI へ話を戻そう。

チューリングは、エイダの発言に対するハートリーのコメントに全面的に同意する。エイダやバベッジは、当時の技術的な制約などもあって、解析機関に自己反省=反射を行うような特性があるとは思えなかったのだろう、ということだ。

問題になっている機械が、ある意味では自己反省=反射を行うという性質を手に入れていたということは、かなりの率でありそうだ。ある離散状態機械が、この性質を持っているとしてみよう。解析機関は万能デジタル計算機なのだから、記憶容量と処理速度が十分にあれば、うまくプログラミングすることによって、解析機関に問題の機械(=自己反省する機械)の真似をさせることができる。おそらく、このような議論は、バベッジもエイダも思いつかなかったのだろう。いずれにせよ、彼らには、解析機関に関して言い得ることをすべて述べなければならない義務などなかったのだ。

最後の文章が、エイダあるいはバベッジの解析機関に関する意見に対するチューリングの立場がよく出ている。つまり彼ら2人は、解析機関であるデジタル計算機について、そのすべての特性を語った(明らかにした)わけではなくて、当時の技術的な制約によって、彼らにも思いつかなかったようなことがあったのだ、というわけである。この意見には、チューリングのエイダやバベッジに対する敬意(引用されていたハートリーも同じだと思う)が現れているように感じる。しかし、見方を変えれば、バベッジやエイダは、デジタル計算機の理論的な可能性について十分には把握していなかったと言っているのに等しいわけだが、その点は、チューリング自身が自ら考え抜いて見せたという自負があるのかもしれない。

エイダの反論に関連する問題は、学習する機械というテーマで再び取り上げることをチューリングは言っておいて、エイダの反論の変形として「機械というものは、本当に新しいことなど、決してできない」という意見についての考察へと進む。

03年01月31日 12時06分 着信

チューリングテストに関する覚書12

ここで訂正。

エイダの memoir の成立の経緯について、イタリア語ーフランス語ー英語という流れで翻訳されたと書いたが、もともとの記事は、Menabrea 自身がフランス語で書いてスイスの雑誌に投稿し掲載されたものだった。このあたりのことや、エイダとバベッジの関係なんかを "Charles Babbage And the Engines of Perfection" (Bruce Collier,James MacLachlan) からひろっておく(この本はバベッジの伝記と、差分機関、解析機関に関する解説書として、読みやすくてよい本だと思う)。なお訳文は私訳である。

 エイダ・ラブレスは、オーガスタ・エイダとして生まれた。詩人のバイロン卿のたったひとりの子供であった。彼女が生まれて一月後の1815年の12月に、両親は離婚した。エイダは1842年に死亡した父に会おうとはしなかった。バイロン夫人は数学の心得があったので、娘のエイダにも数学を学ぶことを勧めた。1832年にエイダは Mary Somerville と出会う。Mary はエイダの数学の学習を手助けしてくれた。Mary はまた、エイダに William King を紹介した。彼はその後すぐにラブレス伯爵(the Earl of Lovelace)になった。彼とエイダは1834年に結婚し、3人の子供をもうけた。恵まれた環境の中で、エイダは、子育てよりは、数学者や社交界の活動に時間を費やした。彼女の母親や使用人達が子供の面倒はみた。
 エイダ・ラブレスは1833年にチャールズ・バベッジと出会った。出会ってすぐに、エイダはバベッジの計算機械に深く心を奪われてしまう。二人は生涯にわたる友人となった。エイダは、バベッジの娘である Georgiana よりも2つか3つ年上なだけである。バベッジの娘が亡くなると、エイダとチャールズは、互いに欠けていた、娘−父親関係を結ぶ。二人は互いの家を頻繁に訪ねあっていた。1840年代の初め、エイダは、バベッジの解析機関を広く知らしめるための、ある重要な貢献を行うことになる。
 1840年、バベッジは再び大陸(今で言うヨーロッパ諸国)への旅にでかけた。フランスのリヨンでは、ジャカード織機を使っていた絹の織物工場を訪ねている。バベッジは、24000枚のパンチカードが自動的に極めて精巧な肖像画、発明者である Joseph Jacquard の肖像画を織り上げていく織機を、魅入られたように観察した。バベッジは、織られた肖像画を2枚購入した。後に、その内の1枚を、自宅の製図室の壁にかけ、訪れた友人達を驚かせた。彼は次のように記している:この「織られた絹の布は、縁取りと艶出しがなされていて、完ぺきに描かれており、そのため、[画家と彫刻家の]ロイヤル・アカデミーの二人のメンバーの作品と間違えられたこともあったほどだ。」このことは、パンチカードによるコントロールシステムの精巧さによるもので、そのシステムをバベッジは解析機関に用いた。
 バベッジは旅を続けてトリノを訪れ、イタリアの科学者の第2回学術大会に出席した。バベッジは、数年前から、その会議の開催を科学者達に強く働き掛けていたのだ。会議では、バベッジは、何時間にもわたって、イタリアの数学者達に自分の解析機関について語った。イタリアの数学者達からの質問に答える際、他人を満足させるような説明をしようと苦闘させられたことで、バベッジは自分の考えを明確にすることができた。このセッションの間、一人の若い数学者である Luigi Menabreaが、詳細なノートを取っていた。その後のバベッジによる手助けをへて、Menabrea は、1842年にスイスの雑誌に、フランス語で書いた24ページからなる解析機関に関する記事を発表した。後に、Menabrea はイタリア統一のための闘争に積極的に身を投じ、1860年代には2年間にわたって、新生イタリア政府の総理大臣を務めた。
 イギリスに話を戻すと、Charles Wheatstone が、エイダ・ラブレスに、彼女が Menabrea の記事を英語に翻訳することを提案した。彼女は同意し、バベッジは追加のノートを加えるべきだと言い張った。そのノートは、翻訳された記事の2倍の長さにまで膨れ上がった。ノートを付された翻訳記事は、1843年に、ロンドンで出ていた Scientic Memoirs という雑誌に掲載された。エイダは、自身のノートの中で、バベッジの指導のもと、解析機関の能力を示すために、翻訳よりも多くの説明とより詳細な実例を提供した。
(From Chapter 4 (pp.68-70) of "Charles Babbage and the Engines of Perfection")

思わず長文を引用してしてしまったが、エイダがバベッジの解析機関に関する memoir を書くに至った経緯は、これでクリアになったと思う。

03年02月01日 11時15分 着信

USB のバスパワーで動くポータブルハードディスクを購入。MO でのデータの受け渡しがかったるくなってきたところだったので、電器屋でふと目に付いて、買ってしまった。Mac も Win もつなぐだけで OK ってのは確かに便利。20G もあれば、バックアップなんかにもつかえるかなと思うが、USB の転送速度が遅いのがちょっと難点か。

『電脳広辞園』(泉麻人)、『趣味は読書です。』(斎藤美奈子)、『オンデマンド 〜IBM eServerの軌跡〜』(岩山知三郎)を購入。チューリングの読解に疲れた頭を休めるのに、いいかなという感じ。

いよいよ試験目前になってきたので、この週末は色々とやらなければいけないことが多い。

03年02月01日 21時46分 着信

チューリングテストに関する覚書13

エイダの反論の変形として、機械は本当に新しいことなど決してできない、という意見を取り上げる。これに対しては、人間だってそうじゃないのか?という反論、つまり、オリジナルなことをしたつもりでも、教育や一般的な原理などによって、そのきっかけとなることは与えられているのではないか?という反論をぶつけている。続けて、やはり変形された反論として、機械は決して人を驚かすことはできない(a machine can never 'take usby surprise')という意見をチューリングは取り上げる。これに対しては、機械はしばしば自分を驚かしていると反論する。この「機械が自分を驚かす」理由として、チューリングは、どのような結果になるか十分に計算できていなかったこと、あるいは、事前に誤った仮定をしたうえで結果を予測してしまうことをあげている。これはチューリング自身の体験であり、ある意味で、チューリングがうっかりしているから機械に驚かされるようなことになるということを言っていることになる。チューリングもその点は認めており、以下のようないいわけをしている。

このような告白は、私の実験のやり方に欠点があるという点に関してお説教されることになるかもしれないが、しかし、私が経験した驚きの証言をする時、それが当てにならないという疑問を投げ掛けるものではない。

とはいえ、やはり、反論としては弱いものであることはチューリングも認め、続けて次のように言っている。

この返答が私への批判を黙らせるとは思っていない。私が経験したような驚きというのは、私の側の創造的な精神の活動によるものであって、機械が人を驚かす性質を持っていないということの反映だ、こう言う人もおそらくいるだろう。この指摘は、先程の自己意識に関する議論へと我々を連れ戻すものであって、機械が人を驚かすという考えからは遠ざかるものだ。詳細に検討しなければならない議論のつながりではあるが、おそらく、次のように言っておくのがよいと思う:何かを驚きとして受け止めるということは、その驚きの出来事を引き起こしたのが、人だろうが、本だろうが、機械だろうが、あるいは他の何かだろうが、とにかく「創造的な精神の活動」が必要になるものだ。

機械は驚きを呼び起こすことはできないという見解は、私が信ずるに、哲学者や数学者が特に陥りがちな誤謬によるものである。この誤謬というのは、事実が精神に提示されればすぐ同時に、その事実のすべての帰結が精神へと沸き起こってくると仮定するものである。多くの状況において、このような仮定はきわめて有用である、がしかし、人は、その仮定は誤っているということをいとも簡単に忘れてしまう。忘れてしまう結果として、データや一般的原理からの帰結から取り出された成果なんかに何の価値もないと考えてしまうのは当然である。

つまり、驚くということは、いうなれば人間の計算能力(知性)の限界の方に関係する問題であって、原因となったできごとを生み出した側の問題ではない、というような指摘である。ある事実がどんな帰結を生じるかをすべて把握しておくことなど、人間にはできない、というわけだ。この議論は、直接は、機械は人を驚かすことはできないという意見に対する反論ではあるが(=機械を動かす前に、その機械がどのような結果を出してくるか、完全な予想などできない)、先程のエイダへの反論と同じ論点である。つまり、人間知性には制約がある、ということだ。AI という言葉の生みの親といわれるサイモンの、限られた合理性(満足人仮説)にもつながるし、見方を変えれば、どんな結果が出るかコンピュータを動かしてみて実験しようというコンピュータによる物理学や数学の実験にもつながる考え方であるとも言える(そういうコンピュータの利用が、複雑系の科学を可能にしたわけだ)。

やや寄り道が入ってしまったが、このパートは、これで終わり、次に、神経システムとの比較の問題へチューリングは議論を進める。

03年02月02日 08時18分 着信

昨日は風邪気味でなんとなくだるい一日だった。泉麻人の『電脳広辞園』と、斎藤美奈子の『趣味は読書。』を読んだりして過ごす。泉麻人の本を買ったのは、考えてみればずいぶん久しぶりのことである。いろいろなキーワードをネットで調べてどんなページや情報にたどり着くかをエッセーに書いたもので、適度に楽しめる本だった。斉藤の方は、期待通りのブイブイ言ってる書評集。

で、続けて『オンデマンド』(岩山知三郎)を読み出したのだが、まずマイクロソフトに対する露骨な嫌悪感がここそこに出てくるのにへきへきさせられる。また文章も、脈絡なく話が飛ぶ(というか、流れを無視してディテールにこだわるようなことを書く)のに、やれやれという感じ。著者紹介を見ていて、『ビル・ジョイの冒険』の著者であることに気がつく。あの本もひどい本だったが、これもやっぱりという感じがする。個々に記述されている事実は面白いのだが、人に読んでもらうために書いているのか?という感じがする。自分の覚書としてなら、まだわかるけどさ。しかし、マイクロソフトを叩くため(?)に、IBM について語る、そういう時代になったんだなぁと、改めて思う。パソコンが IBM へのカウンターだった、そういう時代はもはや歴史ってことだな。なんか、自民党と社会党が手を組んで政権奪回をした、そんな時期の国会を見ているような気がする。まぁ、もっとも、IBM への反逆の旗手を気取っていたアップルだって、IBM と組んじゃったのは、もう結構前のことであるから、今更なに言っているんだという感じではあるが。

03年02月02日 15時02分 着信

チューリングテストに関する覚書14

Argument from Continuity in the Nervous System では、連続機械(continuou machine)と離散状態機械の差異について語られる。デジタル機械はアナログ機械を模倣できるか、という問題が考察されているわけである。

まず、人間の神経システムは、離散状態機械ではないという点が確認される。しかし、チューリングは、離散状態機械は、神経システムのようなもの(彼は、離散状態機械でないものを連続機械と呼ぶ)であっても模倣できるとする。

離散状態機械が連続機械と異なるはずだであるというのは真実である。しかし、模倣ゲームの条件にこだわるならば、質問者は、この違いをうまく利用することはできないだろう。神経システムとは違うもっと簡単な連続機械を考察してみれば、このこと(=離散状態機械と連続機械との差異は模倣ゲームにおいて質問者に何の利点ももたらさないこと)は、もっとはっきりさせることができる。微分解析機(A difference analyser)は、模倣ゲームをうまくこなすだろう(微分解析機というのは、ある種の計算に用いられる、離散状態機械ではないような、機械である)。この機械のあるものは、答えを印字して出力するので、模倣ゲームに参加するのに相応しいものだ。微分解析機がある問題に対してどのような答えを返すかを、デジタル計算機で完全に予想することはできないだろうが、しかし、デジタル計算機は、だいたい正しい答えを出すことはちゃんとできるだろう。たとえば、πの値(だいたい 3.1416 が実際の値である)を求めるように命令すると、デジタル計算機は、3.12, 3.13, 3.14, 3.15, 3.16 の中から、それぞれ(例えば) 5%, 15%, 55%, 19%, 6% の確率で、ランダムに数字を選びだすと考えるのが筋が通っているだろう。このような状態では、(模倣ゲームの)質問者が、デジタル計算機と微分解析機とを区別するのはきわめて難しいだろう。

例に出てくる微分解析機というのは、先に Hartree の説明の中でもちょっと触れたが、バネーバー・ブッシュ達が開発してした、アナログ式の計算機械である。微分解析機については、MIT のページ(MIT Differential Analyzer)など、多くの解説ページが存在している。また、映画の中で使われた differencail analyser が動いている様子のムービーを、このページで見ることができる。まさに計算機解という感じで動いていたということがよくわかる。

ここでチューリングが言っているのは、デジタル計算機がアナログのシステムを完ぺきに模倣する(今ならシミュレートするというところだろう)ことはできないかもしれないが、そこそこ正しい(実用上差し支えない)程度には真似ることができるということである。確かに、音楽 CD にみられるように、アナログのデータであっても、サンプリング周波数を高くすることで、ほとんど違いが分からないほどにデジタルのデータによって「模倣」できている。デジタル計算機の万能性(他の離散状態機械を完全に真似ることができる)は、やや劣るとは言え、アナログ(continuous)なものにも適応できるというわけだ。

このパートは、これで終わる。

続いて "The Argument from Informality of Behaviour" に進もう。

このパートで問題になっているのは、人間の振る舞いや行いの規則(ルール)を定式化することはできない(だから、デジタル計算機に模倣させることもできない)という論点である。様々な出来事に対して人間がどのように振舞うかをすべて規則化することなどできないという点に関して、チューリングは同意する。しかし、そのことから、我々は機械ではあり得ないという論点を導くことには異議を唱える。そして、そのような考えを導き出す論理に潜む誤りを指摘する。

このこと(=人間の振る舞いのすべてを規則化することはできない)から、我々は機械ではあり得ないという主張がなされる。私は、このような主張がどのように導かれたのか、その過程を再現して見せようと思うが、うまくやれないんじゃないかと不安ではある。だいたい以下のような展開になるだろう。「すべての人間が、自分の生活を律しているような限定された(有限の)行いの規則を持っているならば、人間は機械と同じようなものだろう。しかし、そのような規則は存在しない。だから、人間は機械などではありえない」。誤った三段論法(the undistributed middle)が目に付く。(人間は機械ではあり得ないという)議論がこの通りに展開されているとは考えてはいないが、しかし、それでも、これが見解を導いている論拠になっていると私は信じている。しかし、この論理の展開には、「行いの規則」と「振る舞いの法則」との混同がある。「行いの規則」というのは、「赤信号を見たら止まる」という教訓のようなもののことである。我々は、その教訓にしたがって行動するし、その教訓を(教訓として)意識することができる。「振る舞いの法則」というのは、「人をつねれば、その人は悲鳴を上げる」というような、人間の身体に適用される自然法則のことである。さきほどの(人間は機械ではないという)主張の中の「人の生活(生命)を律している行いの規則」の部分を「人の生活(生命)を律している振る舞いの法則」に取り換えたならば、あの誤った三段論法はもはやくずれさる。なぜなら、振る舞いの法則によって律せられているということはある種の機械であるということだ(その機械は離散状態機械である必要はないが)ということ、さらにそれだけでなく、逆に言えば、何かが機械であるということはそれが法則によって律せられている存在だということ、この2つのことはいずれも真実であると我々は信じるからだ。しかしながら、「完全な振る舞いの法則は存在しない、それはちょうど完全な行いの規則が存在しないのとおなじことだ」、この主張にはとうてい納得できない。そのような法則を見つけ出すために我々が知っている唯一の方法は、科学的な観察である。そして、「十分に調査を行ったけど、そんな法則なんて無かったよ」と言い得る状況などないということが分かっている。

上の引用文のうちの「振る舞いの法則」は laws of behaviour、「行いの規則」は rules of conduct である。behaviour の方は、言うならば動物的な次元での動作であり、一方の conduct というのは社会的な意味を孕んだ行為のことである。チューリングは、この両者の混同があることを指摘した上で、振る舞いの法則という観点からすれば(つまり我々は本能という自然法則に従っている存在であるということ)、人間だって機械(有限の法則に律せられるもの)ではないか、という反論を行っているわけである。引用文の最後の部分は、ややわかりにくいが、次のような主張だと読める:人間が機械でないと言い得るためには、人間を律しているような有限の振る舞いの法則などないことを明らかにしなければならないが、振る舞いの法則など存在しないという科学的な結論は出てこない。だから、(振る舞いの法則によって律せられている限りは)人間は機械なのだ。さすがに回りくどいとチューリングも思ったのか、続けて次のように言う。

(人間は機械ではないという)そのような主張が根拠のないということを、もっと力ずくのやりかたで証明することは可能である。もし振る舞いの法則が存在しているなら我々は確実にそれを発見することができる、こう仮定してみよう。そうすると、離散状態機械が1台あれば、十分な観察で法則を発見し将来の振る舞いを予想することができ、それもほどほどの時間、千年ぐらいの間にはそうなる、ということは確かだということになる。しかし、この場合は、そういうことではないようだ(そんな大げさな話ではない?)。私が、記憶容量のうちの1000ユニットしか使わないような小さなプログラムをマンチェスター計算機上にのせて、そのプログラムによって機械は16桁の数値を与えられると2秒以内に別の16桁の数値を返すようにしたとする。そのプログラムが返してくる値をもとに、プログラムについてしっかりと理解して、まだ試したことがない数値を入力したらどんな値を返すか予想できるようになるか? 私は、だれに対しても、やれるもんならやってみろ、挑戦するだろう(=誰だってできやしない)。

たかだか1000ユニット(ステップ)のプログラムを動かしても、その処理の法則性を理解することなどできないだろう。まして人間の振る舞いとなればなおさらだ、という主張だろう。やれるもんならやってみろと啖呵を切ったところで、このパートは終了する。

続いて、批判の検討の最後に、超能力による議論をチューリングはとりあげる。

簡単に言うならば、人間には超能力があるが、機械には超能力など無い、だから、超能力の有無で機械と人間の判定は可能になる、そういう立場の意見に対して、チューリングは反論を試みる。

興味深い記述として、「少なくともテレパシーについては、(その存在を示す)統計的な証拠が、否定できないほどある」とチューリングが述べている点である。当時、そのような超能力に関する研究がいろいろと行われていたのだろう(今でも、否定されていないと考えている人はけっこういるのかもしれないが)。チューリング自身も超能力の存在を信じていないようだが、何せ統計的な証拠が見つかっているだけに、笑い飛ばしてしまうわけにもいかないようだ。そこで、以下のような、やや回りくどい議論を行うことになる。

この(ESPの)議論というのは、私の考えにとって、きわめて手ごわいものである。多くの科学的理論は 、ESP とはぶつかるかもしれないが、依然として現実に用いる点ではちゃんと使い物になるようだ、と答えておくことはできる。実際、ESP のことなど忘れていても、研究はきわめてうまくやることができる。とはいえ、これでは慰めにもならないし、思考というものはまさに中でも ESP が関係している現象ではないかという恐れがある。

そこで、チューリングは、ESP を前提とした模倣ゲームの変形版を提示する。つまり、質問者が対する相手として、一方にはテレパシーを感じることができる人間、もう一方にはデジタル計算機をおき、質問者が手にしているカードは何かを当てさせるテストを行うというものだ。人間の方はテレパシーやら透視やらで400回のうち130回ぐらい正答し、機械の方は当てずっぽで答えるから104回ぐらいだろう、だから質問者はどちらが人間かを判定できるというわけである。これに対するチューリングの解答は、結局は ESP なんてものを認めたらどんなことだって起こりうる(With E.S.P,anything may happen)という主張に行き着く。機械が念力の影響で純粋なランダムな回答を行わないかもしれないじゃないか、など、けっこうおかしいことを言ってたりするのだが(機械も超能力の影響を受けるのなら、ランダムよりも正答率が上がって人間との区別がつかなくなる)、確かに超能力がどんな能力なのかはっきりしない以上は、あらゆる可能性を考慮しなくてはならなくなり、結果として、わけわかんなくなるということだ。

で、結局、チューリングは、もしテレパシーの存在を認めるのであれば、「防テレパシー室」(telepathy-proofroom)に質問を受ける方を入れるようにすれば、模倣ゲームの条件を満たすことができるだろう、と述べて終わっている。

これで、ようやく、長かった6節は終了である。この後、7節として学習する機械に関する考察が展開される。

03年02月04日 09時52分 着信

昨日は経営組織論の講義の日。講義のポイントのページの改定に取り組んでいるのだが、思っていたよりも時間がかかってしまい、昨日の講義には間に合わなかった。まぁ、今週中にはまとめられるとは思うが。講義は組織文化とリーダーシップということで進めたのだが、今年度から組織文化の話を多めに取り入れた関係で、ややバランスを欠いた(というか、リーダーシップの話を十分に展開しきれなかった)ものになってしまった。

風邪の影響か、頭が重い(鈍い痛み)が続いている。鼻の調子が悪いのが原因だと思う。

ゼミのレポートしてマイナスイオンというテーマで学生達にまとめてもらったものに目を通していたのだが、いわゆるマイナスイオンというものがどういうものなのかはよいとしても、やはり怪しいとしか思えない。

なんか『オンデマンド』を読む気になれなかったので、『ケジメのない日本語』(影山太郎)を寝床では読んでいた。日本語と英語の比較によって、日本語の表現の特質をみていくという内容なのだが、なかなか刺激的というか、言われてみればそうだよなぁと思う点が多い本である。

03年02月05日 08時34分 着信

4月からの Mac に関する授業に備えて、OS X をなるべく使うようにしているのだが、経営組織論の講義ノートを改定するのにあわせて、使い易いエディタがいいかなと思い、Jedit4 へのアップグレードを起こった。Jedit は、ずっと愛用しているエディタである。もっとも、Jedit3 になって機能が豊富になったぶん、最初のころに感じていた最低限必要な機能がしっかりしているという感じが薄れてしまい、ずっと Jedit2 を使い続けていた。今回、改めて、新しいバージョンを使い始めたが、なかなかいい感じである。それと、OS X でも、ゴシック系の文字をデフォルトで使えば、画面の読みにくさもなんとか気にならない。

エディタとしては、BBEdit もずっと使い続けているし、常に最新のバージョンを使うようにしている。BBEdit が日本語対応になったときには、これからはこのエディタだけで十分かなと思ったが、やはり、そうはいかないのであった。

昨日は、外書のテストと、今年度最後のゼミ。外書のテストは、抗生物質への抵抗力をつけてきたバクテリアに関する記事を要約&部分訳させるという内容にした。ゼミは、学生達がまとめてきたマイナスイオンに関するレポートの総括。全員のレポートを冊子にまとめる予定だったのだが、一人だけディスクが読めないということがあったため、冊子は作成できず。総括的なコメントをおこなって、短めで終了した。

丸善に注文していた『Web 系の仕事』(システムエンジニア篇とプロジェクトマネージャ篇の2冊)が届く。デリダの『友愛のポリティックス』が翻訳されたようなので、さっそく注文した。2冊本になっているらしい。

今日も雪が降っている。

03年02月05日 23時23分 着信

チューリングテストの関する覚書15

最後の節である Learning machines では、学習する機械の構想が語られることになるのだが、その話に入る前にチューリングは、原子炉の臨界と、タマネギの皮という2つの精神のアナロジーについて触れている。

まず原子炉の臨界の方であるが、これは、原子炉(atomic pile)のサイズによって、臨界未満(sub-critical)と臨界超過(super-critical)とに別れることを精神あるいは機械の比喩として用いようとするものである。臨界未満の原子炉は中性子を注入されても連鎖反応が起きずに臨界には達しない。臨界超過の場合には、注入された中性子によって連鎖反応が次々に起きて、炉が臨界に達することになる。これと同じように、あるアイデア(考え)が注入された時、普通の精神は別のアイデアを一つ返すか返さないかという程度でのものであるが(これが臨界未満に相当)、少数の精神は、アイデアの注入をきっかけとして次々と新しい考え(アイデア)が沸き起こり、一つの理論を作り上げるまでになる(これが臨界超過にあたる)。そして、動物の精神というのは臨界未満の精神で、臨界超過の精神は人間のものであるとチューリングは位置づける。つまり、思考というのは、精神が注入されたアイデアによって臨界に達するということだというわけである。そのうえで、チューリングは「機械は思考できるか」という問いを「機械を臨界超過なものに作ることはできるか?」と問い直している。ただし、新しい問いの形式を提示して見せるだけで、チューリング自身、それ以上の考察や展開は行っていない。

この議論で面白いのは、精神(mind)を動物一般が持っているものとし、そのうちのわずか(smallish proportion)のみが臨界超過であり(=これが人間の精神)、他は臨界未満(=人間以外の動物)であると述べていることだ。動物が精神を持つのか、ということ事態、論争を呼びそうなテーマであるが、チューリングはそれについては、何の説明や補足などなく、「Animals minds は確かに臨界未満だと思える」と述べている。このあたりにも、チューリングの精神や思考に関する考え方が現れていて面白い。

続く「タマネギの皮」に関する議論では、機械と精神の差異が問題になる。つまり、端的に言えば、機械化できないものこそが精神だ(機械化できない部分にこそ重要なものがある)ということになってしまうと、どこまでも本質を追いかけていく(=タマネギの皮を剥いで「実」を取り出そうとする)ことが続き、最後には何も見つからないということになるのではないか(言い換えると、結局、皮こそが精神だったということになる)、とチューリングは述べている。

精神(mind)や脳の機能(functions)について考察すると、ある種の動作は純粋に機械的な枠組みで説明できることが分かる。この機械的に説明できるようなものは、真実の精神をとらえたものではなく、真実の精神を見いだすためには剥ぎ取らなければならない皮のようなものである、と言う。しかし、残っているものの皮をむいていっても、さらに剥かなければならない皮が見つかるということが繰り返される。(皮を剥くという)この方法を続けていけば、いつかは「真実の」精神にたどり着くのだろうか? それとも、何も残らなくなるまで延々と皮にぶつかるだけなのだろうか? 後者の場合は、精神全体は機械的なものということだ(とはいえ、すでに議論したように、離散状態機械ではないだろう)。

こちらの場合も、チューリング自身は、はっきりとは結論を述べていない。その点に関して、この2つのアナロジーを述べたことは、自分が正しいことを説得するための議論ではなく、正しいと信じてもらうために唱えてみた文章だと述べている。

いよいよ本題にはいる。6節の始めに自分が述べたこと、つまり50年も経てば模倣ゲームをうまくこなすデジタル計算機が存在しているはずだという予想、それを実現するためにはどんなことが必要になるのかという点を考察しようとする。

6節の始めに述べた見解にたいして提出できる、唯一の皆を実際に満足させられる支持となるものは、今世紀の終わりまで待って、先の述べたような実験を実際にやってみる、そのことによって手にすることができるものだろう。しかし、それまでの合間、我々は何を言うことができるのか? 実験は成功するものだとして、今、我々が行っておくべきことは何なのか?

結局、チューリングは、自分の正しさは、実際に実験(模倣ゲーム)を行ってデジタル計算機が模倣ゲームをうまくこなすという事実によってしか、最終的には示せない(皆を納得させられない)と考えている。そこで、デジタル計算機が今世紀の終わりに模倣ゲームをうまくこなせるようになるために、今から何をしておくべきか(考えておくべきか)という議論へと話題を移すのである。そして、そのための鍵を握るのがプログラミングだという。必要になる記憶容量を 10^9 すくなくとも 10^7 と見積もった上で、その膨大な容量をプログラミングして行く作業というのは、まともに人海戦術でやったりすると手間がかかりすぎる。チューリングの試算では、1日に1000ステップ(彼の表現では digit)のプログラミングが行える人間60人が50日間働き続けて完成することになる。もっと迅速にこなす方法が必要だとしてチューリングが提示するのが、子供の脳をシミュレートしたデジタル計算機に学習を施して大人をシミュレートできるものにする、という方法である。これが、この節のタイトルでもある学習する機械だ。

まずチューリングは、成人の精神の成り立ちを考えることから始める。

我々は、成人の精神を模倣しようとする過程で、成人の精神を今ある状態にまでもってきた過程について十分に考えなければならない。3つの構成部分を取り出せるだろう。

(a) 精神の最初の状態、つまり生まれたときの状態
(b) (大人になるまでに)受けてきた教育
(c) 教育以外で、(大人になるまでに)影響を被ってきたもの

成人の精神をシミュレートするようなプログラムを作ろうとするかわりに、子供の精神をシミュレートするものを作ればいいのではないか。子供の精神をシミュレートするプログラム(が載ったマシン)が、しかるべき教育の課程を受けるならば、大人の頭脳を手に入れることができるだろう。子供の頭脳というのは、文房具屋で買ってくるノートブックのようなものだと思う。メカニズムはほとんど無くて、空白のページがたくさんあるわけだ(メカニズムと書きとめられたものは、我々の観点からすれば、ほとんど同じことを意味している)。子供の頭脳にはほんの少ししかメカニズムがなくて、簡単にプログラムできるようなものであることを期待している。教育の手間の総量は、最初の概算としては、子供の教育にかかる手間と同じだと見積もることができる。

このように、チューリングは、大人の精神を、初期状態+教育+その他影響、としたうえで、そうならば、初期状態=子供の状態の機械を作って、それに教育を施せば、大人の頭脳を持った機械を手にすることができると言うわけである。そこで、この子供の頭脳を持った機械に教育を施すという方法を2つにわけて考察する。

我々は問題を2つの部分に分けたわけだ。子供似プログラムと教育課程である。これらの2つの部分は、きわめて密接につながっている。最初の試みで良い子供機械が見つかるとは思えない。我々は、子供機械(=子供似プログラムを搭載した機械)の一つに教育を行ってみて、その機械がどれほどうまく学んだことを身に付けるかを調べる、そういう実験をしなければならない。そして、次に別のプログラムの機械で試してみて、結果が最初の機械よりも良いか悪いかを調べる。この子供似プログラムを搭載した機械の比較選抜の過程は、以下のように同じと思えるものを結びつけてみれば、進化というものと明らかな関連がある。

子供機械の構造=遺伝因子(hereditary material)
子供機械の変化=変異(mutations)
自然選択=実験者の判断

しかしながら、(自然界での)進化よりも、この機械の比較選抜の過程の方が、迅速に進行すると期待できる。(自然界で見られる)適者生存は、優位性を計るのには、時間がかかる方法である。実験者は、知性を働かせることで、この選択の処理をスピードアップさせることができるはずだ。同じく重要なこととして、実験者は、変異をランダムなものに限る必要はないということがある。ある弱点の原因を突き止めることができたなら、その点を改良するような変異を考えることができるだろう。

ここでチューリングが述べていることは、発想としては進化プログラミングと同じことだと思われる。いろいろなバリエーション(異体)を習得能力という点でふるいにかけて、良いものを探し出すというものである。変異を起こさせるのは実験者の役割のように読めるが、先に自分自身の効率化を図るような計算機械だってありうるとチューリングが述べていたことを考えるならば、自分自身で変異を起こしていく機械で実験してもよいだろう。

この後、チューリングは、教育課程について論を進めていく。

03年02月07日 23時00分 着信

久しぶりに晴れて暖かい一日だった。チューリングの読解などを自宅で行っていた。あと少しで論文の読解は終了する。

3時頃に仕事に一区切りをつけて、夕食の買い物など。帰宅後、夕食の準備をしてから、娘を迎えに幼児園に。娘に夕食を作って食べさせ、一緒に遊んだりして妻の帰宅をまつ。妻が帰宅して娘と風呂に入っている間に夕食の準備。そして夕食、食後のコーヒー… ってな感じで、一区切りつくと9時前になっている。なかなか濃い時間ではある。

03年02月08日 11時08分 着信

チューリングの Computing Machinery and Intelligence の読解を終了。.mac 経由で覚書を送ったのだが、どういうわけか配送されない。信頼できないメールサーバって最悪なんだけどなぁ、インターネットでは。

03年02月08日 13時56分 着信

チューリングテストに関する覚書16

子供機械に施す教育のあり方に関する考察へと進む。まず、最初に、チューリングは、身体的な動作を伴うような教育は子供機械には向いていないことを述べる。そして、ヘレン・ケラーを引き合いに出しながら、教育というものは、コミュニケーションによって行われるものであって、身体を必ずしも必要としないことを確認する。

ヘレン・ケラー女史の例は、教師と生徒との間に双方向のコミュニケーションが何らかの方法で成り立つならば、教育を行うことができるということを示している。

続いて、教育の際の罰とほうび(いわゆるアメとムチ)の用い方についての考察へと進む。子供機械を、アメとムチに反応して学習を行うように作ることは可能である。罰を受けたようなことは繰り返さないようにし、褒美をもらったことは繰り返す度合いを高めるようにすればいいわけだ。つまり、行動パターンの選択の際の重みづけとして罰とほうびを用いるわけである。チューリングは、ここで、アメとムチの教育方法に伴う感情の問題に言及する。

アメとムチの方法の使用は、せいぜい教育の過程の一部でしかあり得ない。大ざっぱに言って、教師から生徒へのコミュニケーションの手段が他にない場合には、生徒が受け取ることができる情報の総量は、アメとムチによる訓練が行われた回数を越えることはできない。一人の子供が詩の "Casabianca" を暗唱させられるとき、もしこの詩の文章が、'20の質問'式、つまり間違うごとに殴られるという方法で教えられたとしたら、その子供は。詩を暗唱できるようになるまでに、とてもしゃくにさわることだろう。それゆえ、(教師と生徒の間の)コミュニケーションに、他のなんらかの'感情的ではない'チャンネルが必要になる。そのようなチャンネルが使えるのであれば、何らかの言語、たとえば記号言語(symboliclanguage)によって与えられた命令に機械が従うように、アメとムチの方法で教育を行うことが可能になる。機械が従うべき命令は、'感情的ではない'チャンネルを通じて伝送されるべきものだ。('感情的ではない'チャンネルを通じた)記号言語の使用は、アメとムチの方法を必要とする回数を劇的に減らすことだろう。

ここでチューリングが述べていることは、実際に行われている教育に対する批判として読めるだろう。つまり、教師が間違った生徒を叱りつけるといったことは、余分な感情的振る舞いが含まれているということだ。何かを学んでいるときに間違ってしまった場合、情報として必要なのは「間違った」という事実だけであり、間違ったという振る舞いに対する教師の怒りといった感情的なことは余分だというわけである。やや強引な解釈になるとは思うが、「間違う」ことが惨めな体験(ムカツク体験)を生徒に強いることは、学習して身に付けるということに対してマイナスであると言っていると読める。情報の伝達にまとわりつく感情的なものを排除することで、より効率的な学習が、少なくとも子供機械の学習の場合には、可能になるというわけである。

なお、上のチューリングの文中に出てきた Casabianca というのは、Felicia Hemans (1793-1835) という女性の詩人によって書かれた詩である。全文は以下のページなどで読むことができる。こののページではチューリングのこの論文に言及しているコメントがついている。

http://www.cs.rice.edu/~ssiyer/minstrels/poems/1000.html

また、Elizabeth Bishops によっても 1946 年に発表されている作品らしい(Hemons の詩へ言及した詩?のようだ)

http://www.cs.rice.edu/~ssiyer/minstrels/poems/999.html

この詩の内容と、チューリングが述べていることの間の連関については、自分としては、なにかを読み取ることはしたくない(というか、詩なので、深読みすれば、なんとでもつながりを読み解くことができてしまうような気がする)。上記のページでチューリングのこの論文に言及しているコメントも、「そうかなぁ?考えすぎでは?」という気がする。とはいえ、チューリングが、アメとムチの教育方法について論じる場面で、あえて(他でもない)この詩のタイトルを持ち出してきているのは事実で、そのことは、もちろん、チューリング自身の何らかの選択・判断を示している。しかし、そこに孕まれている差異(可能性)を読み解いていくだけの知識が自分にはない(当時の英国の小学校ではこの詩を暗唱するのが普通だったのか?なんてことは、考えていても分からないことだし)。

アメとムチの教育方法について述べた後、チューリングは子供機械(子供似プログラム)がどの程度の複雑さを備えているべきかという議論を行う。なるべく単純に作っておいて学習で様々なことを身に付けさせるべきなのか、それともあらかじめ一定の命題などは組み込んでおくべきなのか、という議論である。これは AI をどのように作るべきかという議論と重なっているように思う。いわゆるエキスパートシステムというのが後者の場合にあたるだろう。

子供機械がどの程度複雑なものであるべきかということに関しては意見が分かれるだろう。一般原理だけに則した形でなるべく単純なものとして作ろうとする人もいるだろう。別の立場の人は、完全な論理的推論のシステムを「組み込む」ようにするだろう。後者の場合、記憶領域のかなりの部分が定義と命題によって占められることになる。命題は、様々な種類の状態のものが含まれるものになるだろう。つまり、十分に確定した事実、推測、数学的に証明された定理、権威に裏打ちされた声明、論理的命題の形をしてはいるが真偽は定かでない表現(式)などである。いくつかの命題は命令の形で書かれたものだろう。与えられた命令が確定した事実に分類されるものであった時には、すぐさましかるべき行動が自動的になされる、そんなふうに機械が組み立てられるべきである。…。機械が用いる推論の過程は最も厳密な論理学者をも満足させるようなものである必要はない。たとえば、論理の型などないものでもいいだろう。しかし、だからといって、論理の型の誤りが頻繁に起きるということではなく、我々が柵のない崖から落ちてしまうようなことが起きるのと同じ程度にしか起きないだろう。適切な命令(諸システムの内部で表現されたものであって、システム構成している規則ではないもの)、たとえば「クラスは、それが教師によって言及されたことがあるのサブクラスではない限り、使ってはならない」というものは、「崖の方に近づきすぎてはいけない」という命令と同様の効果をもたらすことができる。

最後の部分が分かりにくいのだが、めったにそんな命令が意味を持つような事態にはならない、ということだと思われる。命令(imperative)についての考察が続く。

手足を持っていない機械が従うことができる命令は、先の例(「宿題をしろ」)のように、知的な性格のものに限られることになる。そのような命令の中でも特に重要なものは、論理システムのルールを適用する場合の順序を規制するものである。論理システムを用いる場合、各ステップにおいて、選択可能な次のステップはきわめて膨大な数にのぼり、論理システムの規則に従っている限り、その選択可能なステップのどれもが適用可能なのである。そういうときにどのような選択を行うかということが、才気走った優れた論者とばかげた論者の違いを生み出す(しっかり根拠を持った論者と、推論を誤った論者の違いではない)。このような種類の命令(=適用するべき論理を指示する命令?)を与える命題としては、「ソクラテスについて触れられた時には、Barbara の三段論法を用いよ」とか、「ある方法が別のものより早いことが証明されていたなら、遅い方の方法は用いるな」といったものになるだろう。こうした命題のいくつかは「権威によって与えられたもの」になるだろうが、別のものは機械自身が作り出したもの、つまり科学的帰納法によって得たもの、になるだろう。

文中に出てくる「Barbara の三段論法」というのは、アリストテレスの三段論法として有名なものをさす。次のようなものだ:

すべての人間は死ぬべき運命にある
すべてのギリシャ人は人間である
それゆえ、すべてのギリシャ人は死ぬべき運命にある

これを一般化したもの(それが Barbara の三段論法と呼ばれるものなのだが)は:

もしAがすべてのBの属性であり(If A is predicated of all B)
BはすべてのCの属性であるならば、(and B is predicated of all C)
AはすべてのCの属性である(then A is predicated of all C)

となる。三段論法のうち正しいものは、中世においては名前で呼ばれており、そのうちのひとつが、Barbara なのである。他に Celarent, Darii, Ferio がある。これらの名前は、三段論法の中で用いられる命題を表す母音を折り込んだものになっている。寄り道ついでに整理しておくと、

  • A: Universal affiramtive (全称肯定命題?) すべてのAはBである
  • I: Particular affirmative (特称肯定命題?) あるAはBである
  • E: Universal negative (全称否定命題?) すべてのAはBではない(BであるようなAは存在しない)
  • O: Particular negative (特称否定命題?) あるAはBではない(BではないAが存在する)

それぞれの命題に付されている母音は、いずれもラテン語からきているものである。で、4つの名前は、以下のように、含まれる母音が、三段論法を構成する命題の種類を示す。

Barbara (a a a)
A: All A are B
A: All C are A
A: All C are B

Celarent (e a e)
E: No A are B
A: All C are A
E: No C are B

Darii (a i i)
A: All A are B
I: Some C are A
I: Some C are C

Ferio (e i o)
E: No A are B
I: Some C are A
O: Some C are NOT B

なお、チューリングは「ソクラテスの名前が出てきたときには Barbara」と言っているが、たぶん、これは、以下のような三段論法の実例を想定していると思われる(誰もがどこかで一度は見たことがあるやつだと思うのだけど)…

すべての人間は死ぬべき運命にある
ソクラテスは人間である
それゆえソクラテスは死ぬべき運命にある

「ソクラテス」を「すべてのソクラテス」に置き換えれば、この三段論法が Barbara であることが明解になる。

寄り道が長くなったが、本題に戻ろう。チューリングは、推論の仕方を指示すること(プログラムであればアルゴリズムの選択にあたるだろう)の重要性を述べている。そして、論理的に思考している場合でも brilliant と footling の差が生じるのは、数多くの選択肢の中から何を選ぶかの違いだという。このへんは、数学とか論理学での才能の差はどこで生じるのかという議論として読めるだろう。

続いて、学習するということ(=行動様式を変えていく)と、規則に従う(=行動様式は固定)との関係について論じている。

読者のうちには、学習する機械という考えがパラドックスのように思える人もいるだろう。その機械の操作の規則は、どのようにして変えることができるのか? 操作の規則は、その機械の経歴がどんなものであれ、あるいはその機械がどんな変化を被っていようとも、その機械がどのように反応するかを完全に記述するべきものである。このように、規則というものは、まさに時間による変化がないもの(time-invariant)である。これは紛れもない真実だ。パラドックスの説明は次のようになる:学習の過程で変化を被る規則というのは、さほど物々しいものではなく、とりあえずの正しさを主張するようなものでしかない。読者は、アメリカ合衆国憲法との類似点に気がつくだろう。

最後の部分で合衆国憲法を引き合いに出しているのは、合衆国憲法が、憲法の条文は変えず、修正条項を追加することで、その時々の状況に対応してきているということを指していると思われる。たとえば、修正第18条で禁酒法(ちなみに、これは飲酒そのものを禁止したものではなく、酒の販売や運搬などを禁止したものである)を定め、第21条でそれを廃止している。このように、修正条項を次々と適用するようになっている(アプリケーションに次々とパッチをあてて不具合に対応し最新の状態に保つようなもの)。このように、コアとなる規則は学習の過程で変わることはないが、そのコアに付されるような規則(運用規則)は変化していくということだろう。

続いて、学習する機械のブラックボックス性(っていうのも変な表現だが)などについて論を進めている。ここにも、チューリングの知性というものへの考え方が現れていて、興味深い部分である。

学習する機械の重要な特徴の一つは、教える側の人間は、機械の内部で何が起こっているのかということに関しては、たいていの場合、ほとんどわからないままだろうということだ。とはいえ、内部で起こっていることが分からなくても、教える側の教師は、生徒の行動をある程度は予測できるだろう。このこと(=内部が分からないこと)は、試行錯誤を重ねて設計された(つまりプログラムされた)子供機械から成長してきた機械の、ある程度進んだ段階の教育(later education)の場面で、最もはっきりと言えることである。このこと(学習する機械の内部状態が見通せないこと)は、機械を計算処理に用いる通常の手続き(procedure)とは好対照である:通常の手続きの場合は、やるべきことは、計算の各段階(瞬間)における機械の状態を、明確なイメージとして精神に描くことである。(学習する機械の場合は)これ(内部状態を思い描く)は、かなりの苦労をへてやっとできることである。「機械は、我々がどうやってやり方を命令したら良いか分かっていることしかできない」という見解は、この事実を前にすると、奇妙なものに思える。学習する機械に入力できるプログラムの大半は、それが実行されると、我々にとって全く意味不明のことを機械が行うとか、まったくでたらめ(ランダムな)行動を行っているとしか思えないことを機械がするという結果になるだろう。知的な行動というのは、おそらく、計算処理に含まれている完全に規定された行動からの離脱、でたらめな行動や無意味な無限ループには陥ったりしない程度のちょっとした離脱、それによって成り立っているのではないか。機械に、模倣ゲームに参加できるように教育と習得の過程を施すこと、そのことが持っているもう一つの重要な結果は、「誤りを犯すという人間の性質(human fallibility)」は、自然な成り行きで(たとえば、特別な「指導」がなくとも)取り除かれていくものだということである(読者は24-5ページの見解と、ここで述べたことの折り合いをつけなくてはならない)。習得される過程は、100%確実な結果を生むものではない。もし過程が100%確実な結果を生むのであれば、その過程は生得のもの(習わないで得たもの)のはずがない。

最後のセンテンスの解釈が迷うところである。原文は if they did they could not be unlearnt. である。このパラグラフの後半でチューリングが述べていることが、人間の過ちを犯す性質というのは、体験を重ねることで、だんだんと直っていく(誤りを犯さなくなる)ということであるならば、100% 正しいものというのは、経験の積み重ねで得られる行動であって、生得的なものではない、そういうことを言っていると読める。また、習得の時点では決して完全なものではなく、習得したことをもとに経験していくしかないとすれば、全体としては、意味が一貫していると思うのだが、さてどうなのか?

いずれにせよ、このパラグラフの前半でチューリングが述べていることは、学習という要素を機械に持ち込むと、その機械の振る舞いは、ある種のブラックボックスのようになっていくということである。それは、入力に対して思いもかけなかったような結果を返してくるという振る舞いである。そうした振る舞いの中で、あるもの、つまり無茶苦茶ではないが、決まり切ってもいない、そういうものが「知的」なものだとされるのだ、という意見は、創造性に関する議論として面白い指摘である。

続くパラグラフで、チューリングはランダム素子(乱数発生装置)を組み込むことのメリットを述べている。端から順番に解決方法を探していくという方法よりも、ランダムにピックアップしたものを調べていくほうが、選択肢(探査領域)が幅広い場合には有効ではないか、という意見である。ランダムにそのつど選んでいく方法ならば、前回どこまで調べたかを記憶しておく必要もないからいいんじゃないかといったことまで述べている。「ランダムに行うという方法は進化の過程でも同じように用いられているということに注意するべきだ」と述べていたり、先の自由意志の議論とあわせて、チューリングはランダムな振る舞いというものに魅せられていたのかもしれないと思わせる記述である。このあたりは、やはり、進化的プログラミングの発想につながっていると思われる。

ようやくこの節の、そしてこの論文の最後の部分にたどり着いた。論文を締めくくる言葉としてチューリングが語っていることに耳を傾けてみよう。

いつの日か、すべての純粋に知的な領域で、機械が人間と競い合うことを、我々は望んでいる。しかし、何から始めるのがいちばん良いのだろうか? これは難しい判断である。多くの人は、チェスをするといった非常に抽象的な活動に取り組むことから始めるのが最良だと考えている。機械に、お金で手に入れることができる最良の感覚機器を取り付けて、英語を理解し話すことができるように教育する、それがいちばん良いと主張することもできる。この英語の教育であれば、その過程は、子供に英語を教える普通の過程に従うことができるだろう。何かを指し示して、名前を教える、といったことなどである。繰り返すが、私は何が正しい答えなのかは分からない。しかし、両方のアプローチは試されるべきだと考える。

われわれは、ほんの少し先のことしか見通せない。しかし、やらなければならないことは沢山あること、そのことはわかるのである。

これをもって、"Computing Machinery and Intelligence"は終わる。最後は、人工知能の開発の方向性にかんする議論である。人間らしいことを追及するのか、知的であるということを極めるのか、どちらのアプローチもチューリングは否定しない。チューリングが、模倣ゲームで人間同様に機械がうまくやれるようになっていると予想した21世紀になったが、チェスは IBM の Deep Blue が世界チャンピオンのカスパロフを破るまでになった(でもチューリングからすれば、エレガントな解法とは言えないような気もするが)。また、音声認識もけっこうなレベルにまで来ている。そういう意味では、チューリングの未来、チューリングの夜空ノムコウに、我々は立っているのかもしれない。

ということで、ようやく、チューリングの CMI を読み通す作業は終了である。我々の当初の問い、チューリングテストの奇妙な設定(模倣ゲームの回りくどい定式化)の意味はなんなのか、について考察する前に、チューリングの手稿を読んで、彼の機械と知性に関する考え方を確認する作業を行うことにする。

03年02月08日 20時37分 着信

やれやれ。.mac 経由で送信したメールが、無茶苦茶遅れて配送されている。おかげでこのページは覚書がダブったりして変なことになってしまった。明日にでも、よぶんなもんを削除しなければ。

それにしても、メールサーバが信用できないってのは、致命的だぞ。まぁ、普段は、自分専用と言っても良いメールサーバを使っているから、余計にそう感じるのかもしれないが。

今日は、チューリングの論文の区切りが良いところまでようやくこぎ着け、午後は買い物やらサーバのメンテナンスなど。溜まっていた雑誌にも目を通している(NIKKEi DESIGN と「デザインの現場」から読み始めるのであった)。

03年02月09日 22時49分 着信

自宅でじっくり読書。買い物に出かけた際に購入した新書3冊、『インフォアーツ論』(野村一夫)、『癒しの楽器パイプオルガンと政治』(草野厚)、『囲碁の力』(石井妙子)を、午後は読んでいた。3冊の新書を一気に読んだのはずいぶんとひさしぶりである。それぞれが、読み出すと止められなくなる内容の本だった。新書の醍醐味を堪能。

『インフォアーツ論』は、「ネットワーク的知性とはなにか?」という副題が付けられた、ネット論である。情報教育の工学的偏差の批判の部分などは、ややへきへきとさせられるところはあったが、全体の論旨などは自分が普段感じていることに近いものがあり、共感できるものであった。実際にハマっている(いた)人間だな、わかってるよな、といった感じ。

チューリングの読解の方は、Turing Digital Archive から落としてきた、'Intelligent machinery, a hereticaltheory' と 'Can digital computers think?' に目を通していた。どちらも、ストレートにチューリングの考えが語られており、文章も分かりやすい。チューリングテストについても簡単に触れた部分などもある。

経営組織論の講義ノートの整理もなんとかめどがついた。明日の最終の講義までには公開できるだろう。

03年02月11日 20時09分 着信

昨日は経営組織論の今年度最後の講義。倫理と責任の根本についての話で終了した。このテーマは、まだまだ展開の余地があるのだが、組織論からは外れてしまいそうなので、原理的な話だけに留める。

今年度の組織論は、これまで以上にルーマンのコミュニケーション論あるいは公式組織論にシフトしたものにしたのだが、同時に、色気を出して、一般的な経営学のテキストの内容も取り込もうとしたため、ややちぐはぐなものになってしまった。なにより、自分が面白いとは思っていない内容(教科書的な話)を織り交ぜたため、講義のリズムというかノリがいまいちなものになってしまったところがある。このあたりは反省しなければならない。教科書的なことをちゃんと伝えるのも授業としては大事なことだもんなぁ(…でも、やっぱ教科書的な経営学って、ひたすらケース分類に走っているみたいなところがあって、面白くないんだよなぁ)。

昨日、そして今日で『オンデマンド』を読了。しかし、この本は、本というにはあまりに記述の流れがぐちゃぐちゃである。それに、縦書きの本で横文字(アルファベット)の表記がバンバン入ってくるから、読みにくいこと! 岩山知三郎って、本のライターとしては、失格ではないかなぁ。ただ、内容は、IBM の、特にメインフレームや半導体開発の経緯などが述べられており、そういう資料として、興味深いものではあった。もう少し、人に読ませるということを考えた内容の整理を行なうべき本(編集者は何してるんだろ? このコンピュータエイジ社って、編集者はいないのか? と思うような本だった)。

03年02月12日 10時44分 着信

チューリングテストに関する覚書17

チューリングが残した手稿を Turing degital Archive で読むことができる。ここには、講演やラジオ放送の原稿として書かれたものが残っている。スピーチの原稿ということもあって、比較的ストレートにチューリングの考えが述べられている。そこで、Archive で読むことができるものの中から、デジタル計算機と知性の問題について述べたものを2篇読んで、チューリングの考え方を確認しておくことにしよう。

とはいえ、すでに CMI を読むことで確認できたように、チューリング自身のこの問題に対する考え方は

  • デジタル計算機は、理論上は、知性(思考すること)をシミュレートできる
  • それは、デジタル計算機が持つ万能性、つまり他の計算機械をシミュレートできるという性質による
  • 十分な記憶容量と実行速度を備えたデジタル計算機であれば、「思考する」ことをシミュレート可能
  • ただし、そのためのプログラミングの問題(手間)を考えると、大人の知性をシミュレートするプログラムを作るよりは、子供の脳をシミュレートす るプログラムに「学習」を施すほうがよいだろう
  • 創造性あるいは自由意志といった人間らしさを持たせるためには、乱数発生装置を備えさせることが有効
  • 20世紀の終わりには模倣ゲームをうまくこなせるデジタル計算機が出現するだろう

といったことにまとめられるであろう。そして、我々がこだわっている、模倣ゲームの形式であるが、CMI を読む限りでは、チューリング自身は、最初の定式化(女性の真似をする男性の役割を機械に担わせる)にはこだわっておらず、一般に流布しているチューリングテスト、つまり、「人間と機械が相手をしている状況で、どちらが機械かを判別できるか」という形でよいと考えていたようである。この違いについては、後ほど、きちんと考えてみたいと思う(チューリングの意志/考えに逆らっても、その差異についてこだわってみたい)。

以下で検討するチューリングの手稿についても、あらかじめ述べておくなら、上記のチューリングの立場(考え)を裏書する(新規な視点や矛盾する論点は現れない)ものではある。しかし、CMI のやや回りくどい表現に比べると、明解にチューリングの考えが述べられており、そのあたりを、確認ということで、見ていくことにしたい。

手稿の検討にはいる前に、資料の出典というか、ネットでの参照先を整理しておく。

まず、我々がすでに読んできた CMI つまり "Computing Machinery and Intelligence" であるが、以下のホームページのものが、より正確な資料としては良いものだろう。ただし、このページの配色などのセンスは、到底、「読むこと」を許容するものとは思えないので、テキスト部分だけを抽出するか、HTML をダウンロードしておいてから、スタイルシートの色の指定の部分を書き換えて自分が読みやすいものにする(私はこの方法を用いた)のがよいだろう。

http://www.abelard.org/turpap/turpap.htm

また、チューリングに関する情報が集められたホームページとしては、以下の Alan Turing Home page が一番良いとは思うが、このページのセンスも、ちょっとかんべんしてくれよぁと個人的には思う。チューリングに関する伝記(確か翻訳が進んでいるらしいが)の作者が作成しているページである。

The Alan Turing Home Page (Maintained by AndrewHodges)

チューリングの手稿は、以下のサイトで読むことができる。ただし、変色したタイプ原稿のスキャン画像の形で掲載されているので、実際に読み解くためには、プリント用の画像(TIFF をわざわざ? JPEG に変換したもの)を、画像処理ソフトで加工して印刷したほうがよいだろう(ちなみに、私は、Photoshop でグレースケール変換とレベル調整を行ったものを印刷して読んでいる)。

Turing Digital Archive

このアーカイブに残されているものから、今回読んでいくのは、以下の2つである。

1つ目は 'Intelligent machinery, a heretical theory' (分類番号は AMT/B/4)で、マンチェスターで行った講演(a lecture given to '51 Society' at Manchester)の原稿である。1951 年のもので、2つのバージョンが一緒になっている。

2つ目は 'Can digital computers think?' と題されたもので、BBS の放送の原稿(a talk broadcast on BBC ThirdProgramme)である。1951年5月15日の放送のもののようだ(分類番号は AMT/B/5)。

いずれも、CMI よりは後のものである。そういう点では、CMI で述べたことをを、言い直している(言い換えている)ものとして読むことができるだろう。

03年02月13日 09時04分 着信

昨日は、午前中、『新語はこうしてつくられる』を読み上げ、午後は試験監督の応援など。その後、ネットで色々なニュースなどを読んでいた。それにしても、Blog がアメリカで盛り上がったこともあってか、日記系も含めて(まぁ、人のことは言えないわけだが)、色々なページが錯綜するようになってきていて、見ていてあきない。個人的には Blog 系のページは、文字が読みにくい、でかいサイズの画像をがんがん貼り付けてあるといったこともあって、読みにくいものが多いと思っているが、考えてみれば、個人が自分の好きなように書いているのだから、どうこう言うべきものではないと思う。それと、HyperText の登場以来、とかくリニアに話題が展開されることは古くさく、ハイパーなリンクで相互に、それこそリゾーム状態になっているのが先進的(開放的)という雰囲気があるように思うが、少なくとも、その錯綜ぶりや意外なリンクの張り方などを楽しめる点はあるにせよ、「読む」という点では、かえってマイナスではないかなぁと思う。もちろん、自分が、書籍という、情報がリニアに展開されていく形式=装置にどっぷりとはまっている人間であるからこその意見であることは否定しないが。錯綜したものを錯綜したままの形で表現できるということは、表現の技術の問題としては進歩であることは事実だが、それが表現力(喚起力とういうか、まぁ、あんまりこの言葉は使いたくないが伝達力かな)としては、どうなのか? テッド・ネルソンの本を最初に手にした時の、おおぉって感じと、その後の「読みにくいなぁ」という感じ、あの時の感じの問題は、いまだに、表現のあり方の問題を問い掛けるものとして、自分の中には残っている。

コミュニケーションは、3重の差異が「感知」された時に発生する。内容の差異(他でもない「そのこと」をとりあげること)、表現の差異(他でもない「そのようなやりかた」で表現すること)、そして、内容と表現の差異(「そのこと」を、「そのようなやりかた」と結びつけること)、この3つの差異である。2つの層(内容の層と表現の層)が重なっていると「感知」されることと言っても良いわけだ。簡単に言ってしまうと、そういうことをいうのか! そういう表現をするのか! そういう表現でそのことをかたるのか! というそういう3重の驚きに巻き込まれるということではないかと考えている。どんなコミュニケーションにも、この3重の差異は孕まれている(驚きを生まないということも含めて)。そういう意味では、もしコミュニケーションがコミュニケーションの可能性全開(?)の形で現れてくるときには、「驚き」に振り回されて、何が何やらわからんという状態になりかねない。だからこそ、たとえば、書物のような、コミュニケーションの差異を限定する装置が意義を持つ。そうした装置による「制約」によって、何が起こったのか(「何が伝えられたのか」)を、同定し、固定し、記録し、そして再帰的に参照すること、あるいはその「記録」と同時並行の形で「行為」の主体の確定、あるいは主体の属性へと差異を送り届けること、そうしたことが可能になる。で、自分も含めて、内容の層にこだわる人間にとっては、やはり、書物型(あるいは文章型というか)のリニアに、かつ「無色に」、文字が読める形式が、なんだかんだいっても、「なじんで」いるんだよなぁ。すっげぇかっこいいデザインのページとか、そういうのを見るのも嫌いではないし、デザインというものは好きなんだけど、たぶん、自分の中には、そこで受け取った差異を処理するだけのポテンシャルが低い状態なんだろう。

そういえば、先日読んだ『インフォアーツ論』(野村一夫)の中に、ネットでの日記系のコンテンツが増大していく点を論じた部分があって、そこは面白かった(自分がこんなページを始めてしまったということもあるだろうが)。

個人サイトの社会学的意義と題された節の中に次のような文章が載っている。

…。けれども、個人的サイトの社会学的な意義は、そのコンテンツの価値にではなく、語る人を語ってしまう「自己言及型メディア」であるところにあるのだ。
 たえず更新されている活動的な個人サイトを眺めていると、たいてそこにはプロフィールがあり、冗長な日記的記述がある。もちろん主題そのものは別にあり、それはそれで追及されているにしても、こうした「自分を語る」ということが副旋律のようにサイトのもう一つの主題になっている。対象主題とそれを語る自分についての言説がポリフォニック(多声的)に鳴っている。だれもが知っている企業や組織と異なり、たいていは無名の人による個人サイトでは、たえず「信頼」の問題が突きつけられる。「なぜ自分がこんなことを言うのか」を説明しなければならない。つまり「自己言及のパラドックス」に向き合うことになる。こうして、人気ウェブの作者は、いきおい日記系の記述を増やし、過剰に自己言及し始める。つまり「自己主題化」がついてまわるのである。
 ウェブの作者に生じる以上のような自己言及性は、別の言い方をすれば「送り手効果」と呼ぶべきものである。送り手になることが、とりもなおさず「自己をさらす」ことになるため、パブリックな自己を意識的に構築(役割演技)しなければならない。それは「ネット上の自己」を演じるということでもあるが、同時に「反省的モニタリング」(一種の自己監視)を常態化させることでもある。
(野村一夫『インフォアーツ論』洋泉社、pp.30-31)

この後にも面白い分析が続くのだが(市民=大人へのなりかたの話など)、ポイントになる部分は、上記の部分。信頼の問題と自己言及の肥大化(自己目的化)という点である。

この分析には、基本的には同意できる(自分自身の体験も含めて)。ただ、この傾向(自己言及というか、語ることが語る人の表現でもあること)は、何もネット上特有の問題ではなく、人間のコミュニケーション一般に孕まれている問題だろう。装置による制約によって、普段の他のチャンネルのコミュニケーションでは顕在化することはあまりないが(たとえば、そこに一つの肉体が存在しているだけで、その存在を担保として差し出しているわけだし)、普段の我々を取り巻いている装置が利かなくなった場所では、顕在化してくるということだと思う。先程の、差異と書物という装置の問題と同じようなものだろう。

なお、野村氏の文章の中に「自己言及のパラドックス」とあるのだが、本当にパラドックスなのかな?主題を真摯に受け止めてもらいたければ、それだけ(主題とは関係ない)自己表現による誠実さの提示を行うしかない、ということだとしたら、これ、パラドックスではないような気がするのだが?

さて、今日は、買ったままになっていた『ラカン 哲学空間のエクソダス』(原和之)を読む。

03年02月13日 22時34分 着信

『ラカン 哲学空間のエクソダス』を一気に読み上げる。クリアで刺激的な本であった。ラカンという名前と共に自分の中に転がっていた様々な概念(というほどちゃんとしたもんではないんだが)が、一つの風景を描いて見え始める、そんな感動を味わえた。また、自分がこだわり続けているコミュニケーション論との関連でも、得るところが非常に多かった。「聞き・為し」という表現/概念(コミュニケーションの受け手側の行為、ルーマンの言う理解)は秀逸だなぁ。

このところずっと使い込んでいる TiBook に Eudora 5.1 をインストールし、普段のメールも OS X 上で読み書きできるようにした。最初、メールボックスを先日購入した USB のディスク経由でコピーしたのだが、ディスクのファイルシステムの関係で、うまく移せなかった。結局、AppleShare (ファイル共有)を使って、G3 からそのままコピーした。これで、とりあえず、自宅で普段行う作業は、すべて TiBook の OS X で行えるようになってきた。大学のメールサーバにアクセスするには、大学にダイアルアップするしかなく、普段 TiBook で使っている民間プロバイダ経由では無理なので(VPN が使えるのだが、プロバイダがポートを開けていないようだ)、TiBook の IP アドレスを切り替えることで、ルータの接続先を変えるようにした。

03年02月14日 22時44分 着信

組織論の試験問題の作成やサーバのメンテナンスなどを行う。その間に、TiBook のシステムを 10.2.4 にアップデートしたり、Safari や X11 のアップデートを行っていた。

『ラカン 哲学空間のエクソダス』の言語論関係を中心にノートを取っていた。ノートを取りながら読み直すというのが、やはり自分には一番すっきりとする。改めて、ルーマンのコミュニケーション論との接点が見えてきたような気がする。他者の問題を、欲望する他者の存在の問題でみるか、ルーマンのようにスペンサーブラウンの指し示しが為されたこととしてみるか、というその違いと、通底している視点のようなものはつかめたような気がする。

夕食の買い物のついでによった本屋で、いわゆる選書のコーナーをあたっていた(『ラカン』は講談社選書メティエだったので)のだが、『フォン・ノイマンの生涯』(ノーマン・マクレイ)(これは朝日選書)、『<ものづくり>と複雑系』(斉藤了文)(メティエ)、それに『ライプニッツ』(山内志朗)を購入。昨夜、寝床で読み始めた『偶然の宇宙』(伊藤邦武)も面白いのだが、とりあえず、ノイマンの伝記を読むことにしようと思う。

03年02月16日 23時57分 着信

チューリングテストに関する覚書18

まず "Intelligent Machinery, A Heretical Theory" (「知性を持った機械、ひとつの異端の理論」)をみていくことにする(アーカイブ番号 AMT/B/4)。先に書いたように、このペーパーは講演(講義)の原稿である。

「あなたのかわりに思考するような機械を作ることはできない」(You cannot make a machine to think for you.)、この主張に反論し、思考する機械について述べるのが、このペーパーのチューリングの目的である。

数理論理学者には、この主張は通用しない。というのも、思考することに極めて近いようなことをする機械は理論上は存在しうることが証明されているからだ(it has been shown that there are machines theoretically possible which will do something very close to thinking)。

このように、論理式の真偽を判定することができるような機械(つまりチューリングマシン)はすでに理論上は存在することを述べておいてから、

私が主張したいことは、人間の精神の振る舞いをほぼそっくりシミュレートするような機械を組み立てることが可能である、ということである。その機械は、時には間違いをやらかしたり、新しい興味深いことを述べたりもするだろう。そして全般的には、その機械が出力することは、人間の精神が生み出すものと同じ程度には、注目するに値するものとなるだろう。

と、自分の主張を定式化する。そして、この主張については、

機械が状況に対して実際に行う反応によって(=相応しい反応を実際に示すということによって)、私の主張が正しいことは証明されるだろう(もし実際に証明できるというのであれば)。

とする。このペーパーでは CMI のような理論的な考察(離散状態機械の万能性など)には踏み込まず、あっさりと、実際に、機械がそういうふうに動くところを見せるしかないだろうと言っている(CMI でも、最終的には、同じ主張になっていたわけだが)。そこから、チューリングは、では、実際にどのような反応を機械が示せば、自分の主張が正しいことが「証明」されるだろうか、という点へ考察を進める。いうなれば、機械がどのような振る舞いを示せば、それが「人間の精神をほぼシミュレートしている」と認められるのか、という問題を考察しようというわけである。このように、知性をもつ(思考する)ということを、内部動作の問題ではなく、人間の受容の問題として(広く言えばコミュニケーションにおける属性帰属の問題として)論じるという点は、CMI と同じである。

さて、自分の主張が正しいと証明されるような機械の振る舞いの考察では、すぐに「学習する機械」を論じている。

もし機械が、何らかの方法で、経験から学ぶことができたならば、そのことは、きわめて強い印象を(=チューリングの言っていることが正しいという印象を)与えるだろう。

そして、機械が「経験によって学ぶことができる」という場合、簡単な機械を作って、それに教育を施せばよいという、CMI での「学習する機械」と同じことが述べられる。ここで、教育(機械に経験させること)のあり方について、面白い言い方をしているので拾っておく。

(あらかじめ一定の選択を行った経験を機械に与えること)これは「教育」と呼べるだろう。しかし、注意しなければならないことがある。機械に施す経験を、それらを機械が経験することによって、機械の内部の構造があらかじめ決められていた形へと自動的に組み上がってことが起きる、そういうものにしておくことは極めて簡単なことである。でも、そんなことをするのは、明らかに、まったくのいかさまであって、機械の中に人間を入れておくのと同じようなインチキだ。

ここでチューリングが述べているのは、学習というのは、「何を」経験したか、その内容から学ぶことであって、「経験した」という出来事があらかじめコースの決まった内部変化のトリガーにしかならないものはだめだ、ということである。つまり、内部状態とは無関係に、ちゃんと入力されたものから学んでいくことが求められる、というCMI での主張と同じことなのではある。

これに続けて、チューリングは実際の例として、機械にチェスや碁あるいはブリッジをやらせながら教育することをあげている。会話はテレタイプのようなインターフェースで行い、機械の内部状態を知らない教育者と、機械が壊れたときだけ修理する機械工とによって行われるのがよいと述べている。そして、

先ほど見たように、この教育の過程は、そこそこ短い時間の間に、それなりに知的な機械を製作するためには、事実上、欠くことのできないものだろう。

と述べて、CMI 同様に、教育というプロセスが、知的な機械の作成には欠かせないことを述べている。

続いて、機械の動作(such a machine might be expected to function)へと話を進めている。具体的には記憶のあり方についての話が展開される。

知的な機械は、さまざまな情報(それは記述 statement の形になる)を蓄える記憶をもつことになるが、その記憶は、"index of experience" (経験の索引)をも蓄えたものになるだろう、ということである。つまり、記憶されている事柄に、シーケシャルではない方法でアクセスする方法が必要になるということである(全文検索なんかやってたらとてもじゃないけどやってられない、だから index が必要だってこと)。

次に何をするべきかという選択を為さなければならなくなったときには、現在の状況の様々な特徴が、利用可能な index を使って照らし合わされ、過去の同様の状況での選択も index を通じて探され、そして、良いか悪いかは別にして、結果が発見される。新しい選択はこのように為される。

だが、この索引によって素早く過去の経験を参照することで、新しい判断を行うという方法にも欠点がある。それは、価値判断の問題である。ひとつは、参照するべき(模範とするべき)過去の事例が複数あった場合に、そのうちのどれを選択するか、という問題である。もう一つは、機械自身の行為の結果の評価の問題である。前者の場合(記憶されている事例の価値づけと、指針の導出)については、チューリングは、最初は望ましさの度合いがもっとも高いものを選択するという単純な方針から出発し、やがて機械自身が洗練された選択を行うようになると言っている(経験則のような、原理的な裏付けが無いものの重要性も認めている)。また結果の価値判断については、教師役の人間が、快と苦痛の信号の形で機械にフィードバックすることを提案する。そのフィードバックによって、機械が自分の行動の結果について予想できるようになる(「快」を得られるような行動を望ましいと判断するようになる)というわけである。これは CMI の中で教育の際のアメとムチの用い方について論じた部分と同じ趣旨である(教師の「怒り」の不要を説くことも忘れていない)。

教育の話の後に、チューリングは、ランダム素子(乱数発生機構)を機械が備えるべきだと言う。これも CMI での議論と同じである。ただし、ここでは、テープ上に同じ数だけの 1 と 0 をバラバラに並べておいたものを、機械が選択の際に用いるという具体例が述べられている。乱数が入り込むことで、経験によってすべてが決定されてしまうことから逃れることができるというわけである。また、CMI では述べられていなかったこととして、ランダム素子によって機械の発達の進み具合(degree of development)をある程度コントロールできるようになるという。この部分は、やや読み取りにくいのだが、ようするに、実際に選択を行うかわりに乱数に基づいて行動させて経験を積ませることによって、機械の学習を進展させうるということのようである。CMI での議論を引っ張ってきて、乱数によって行動させることを繰り返して、その中からうまく行ったものを選んでいけば、手っ取り早く上手に振舞うものを選抜できる、という読みをすれば理解できるのだが、原稿からはそこまでは確信が持てない。

このような議論を経て、ペーパーは最後のパラグラフになる。若干意訳ぎみになるが、ざっと訳しておこう(意訳が混じることを示すために「です・ます」調で書いておく。超訳ってやつかな。CMI を超訳するってのも面白いかもしれないな)。

これまでの議論によって、皆さんが、思考する機械というものが本当に存在しうると認めて、実際にそのような機械を作ってどうなるかを見てみようなじゃないか、と思ったとしましょう。思考する機械を作った結果を見るまでには、もちろん、強力な反発にぶつかることになります。私たちの宗教的寛容が、ガリレオの時代にくらべて十分に広いものへとなっているなら話は別なんですけどね(まぁ、まだそんな状態ではないでしょう)。自分の仕事を奪われるかもしれないと恐れる知識人の人々からの強い反発にもぶつかるでしょう。でも、そういう知識人は、たぶん、思考する機械の影響について、勘違いしてるんだと思われます。機械が何を言おうとしていたのかを理解しようと、するべきことはいっぱいあるはずなんですよ。つまり、機械によって生み出される規範とかに自分の知性が置いていかれないようにするのが大変になるってことです。というのも、ひとたび機械が思考し始めたら、われわれ人間の乏しい能力を追い越すのに、そんなに時間はかからないと思うんですよ。機械は死なないというのは疑問の余地はないでしょう。そして、機械たちは、自分たちの知力に磨きをかけるために、互いに話し合うことができるようになるでしょうね。ですから、ある段階にまで達すると、サミュエル・バトラーが『エレホン』の中で述べたみたいに、機械が支配力を握るってことを予想しなくちゃいけないでしょうね。

最後のバトラーの『エレホン』というのは、いわゆるユートピア小説の系譜に位置づけられる小説(エレホン= Erewhon はnowhere を後ろから綴ったものになっている)。機械の支配を恐れた人々が機械をすべて壊してしまうという話(らしい)。以下のページで原文を読むことができる。

Samuel Butler's Erewhon

けっこうブラックな終わり方ではある。機械が思考し始めたら人間なんて置いてかれるよって平気で言ってしまうのは、よっぽど機械の可能性を信じていたんだろうな。あるいは、人間に愛想を尽かしていたのか。CMI を読んできた我々には、このチューリングの発言が、彼にしてみれば、決して誇張やこけおどしではなく、むしろ思ったままを素直に述べた文章だと思える。チューリングのアンチ・ヒューマニズムの爽快さみたいなもんを感じる。まぁ、タイトルで異端を名乗るだけのことはあるというところか。

ということで「知性を持った機械、ひとつの異端の理論」の内容を駆け足で確認してみた。チューリングテストという我々の中心的な問題に対して、直接につながるような記述(発言)は見られないのだが、チューリングの機械と知性に関する考え方を再確認できた。また、記憶の index (索引)のような、具体的なあり方への記述などは CMI の内容を広げたものとして、面白いところである。

なお、この "Intelligent Machinery, A Heretical Theory" の Digital Arcive の手稿(AMT/B/4)には、2つの版が収録されているが、ここでは、その2つの異同の検討などは省いた。ほとんど同じ内容になっているからである。

03年02月16日 23時57分 着信

昨日は、娘が咳込むので、病院に連れていってから、買い物に出かけたり、新しくなった県立図書館を見に行ったりしていた。布団で『フォン・ノイマンの生涯』を読んでいたのだが、読み切れずに寝てしまっていたところ、娘が夜中に起きてしまい、その相手をしていて眠れなくなり、結局、今朝までに読み切ってしまった。

今日は娘の相手などしながら、合間を縫って、チューリングの手稿の読解など。

03年02月18日 23時27分 着信

昨日は朝から試験監督や、自分の経営組織論の試験など。今年は、記述式の3問の試験にしたのだが、そのうちの一つは「理想の組織」について論じさせるもの、そして昨年と同じく桃太郎の組織的問題を論じさせるもの、それに内部告発について考えさせるもの、という3問にした。論述問題が3問ということで、学生達はかなり時間がかかっていたようである。採点結果がどうなるか、楽しみ。

今日は、朝から会議。午後は、学生の就職サポート(エントリーシートの記述の添削)など。

OS X を入れた TiBook を、このところ、ずっと使い込んでいるのだが(4月からの講義に備えるということもあって)、JIS キーボードにいらいらする(こんなキー配列を考えたやつの顔がみたいぞ!)という点はおいとくとして(OS の問題ではないかね)、アプリケーションだけを使うということであれば、確かに、これはこれで使い易い OS かもしれないと思う。MacOS の流儀に馴染んでしまっているので、ある程度の違和感はいまだに抜けていないのだが、その点を差し引いて、割り切ってしまえば、こんなもんかな、と思う。たとえば、ハードディスクのすべての階層(ディレクトリ)が自分の好きになる=コントロールできるということも、最初からそういうものだと思ってきた人間には UNIX 流の制限が加わる OS X は、「不自由さ」を感じるわけだが、マルチユーザーの OS ってのは、自分が好きになる領域は限られている、ってことを受け入れるなら、別に OS X でもいいじゃないかとは思う。

ネットや ML を見ていると、Mac を名乗るからには MacOS の流儀を引きつべきだといった意見も見られるが、個人的には、そういうことはどうでもいいという気がしている。初心者にとっては、OS X のような制限がきつい方が、かえって使い易いかもしれないとも思う。

とはいえ、MacOS に見切りをつけて(捨て去って)、OS X に乗り換えるのが「進歩」(というか「進んでいる」というか、とにかく「良いこと」)だと考えている人が多いのにはヘキヘキしてしまう。自分が、いまだに 68K のマシンをサイトのメインとして使っているということはあるのだが、それとは別に、「OS を使うのがコンピュータを使うことじゃないだろ?」と言いたくなってくる。重要なことは、OS がどうのこうのということではなくて、目の前にあるパソコンを自分なりに納得いくように使うってことじゃないの?と言いたくなる。

なんていうか、マルクスの言う道徳的摩耗(陳腐化)に躍らされて、それが楽しいか?ってことだよね。よく言われることではあるけど、最初のファミコンと、今のゲーム機を比べて、最初のファミコンの方がゲームの本質的な部分でそんなに劣っていたのか?ってことにもつながるだろう。もちろん、この議論を厳密に展開するには「本質」論をやんなきゃいけないわけだけど。

自分がもっているマシンは MacOS しか動かない(それしかまともに動かない)って時に、でも、それで道具としてちゃんと機能しているのだから、使い続けて何が悪い?ってことだよね。

OS X と、それに Apple が標準で添付するソフトは、良くできていると思う。昨日から iCal でスケジュールの管理も始めたのだが、たとえば web で確認できるなんてのも、たしかに、すごい。でも、それを「使うこと」が「進歩」だと能天気に考えるのは、やっぱ抵抗があるんだよね。もちろん、G4 搭載のマシンを購入できない者の僻みだと言われたら反論できないんだけど。

明日は朝から会議やらが連続。やれやれ。チューリングの読解をじっくりやりたいとこなんだけど、とりあえず『ライプニッツ』を読みながら寝ることにする。

03年02月20日 11時09分 着信

昨日は朝から入試監督者の打ち合わせ会議。今年度は監督者マニュアルが改定されており、関係者の方の苦労が忍ばれるものになっていた。

昼過ぎから、聴講生・科目履修生の希望者の面接。中国とモンゴルから来日している希望者(最終的には留学生試験への合格を目標としてる)の面接。

そして教授会。やれやれ。終了後、夕食の買い物に行ってから娘のお迎えに。6時前になってしまった。

高校からのつき合いの友人からメールが届く。松下系(っていうか、今では松下本体に吸収されてしまったんだけど)の会社に勤めている友人だ。仕事が大変そうだった。「会社が左前になるというのは、こういうことなのかと身をもって体験している感じかな。」という文面に、改めて、今というものを感じる。もちろん、明日は我が身って感じである。受験者の数は確実に減ってきているわけだし、国立大学の独立法人化が一段落したら、次は公立大学の独立法人化は、ある意味、必然だろうし(独立法人化が、すぐに問題になるわけではないんだが)。

風邪を引いたみたいで、ちょっと咳がつらい感じになってきている。来週はゼミの飲み会やら商工会議所の会議、教務委員会、そして座長を務める FD (授業改善)検討会などが並んでいるので、寝込まないように、この週末はおとなしくしてないといけないな。

03年02月20日 11時09分 着信

チューリングテストに関する覚書19

まず前回の補足。サミュエル・バトラーの『エレホン』の原文は、ネットの色々なところで読むことができるようになっている。全文をまとめて読める(1ページになっている)ものとしては、グーテンベルクプロジェクトのものなどがあるが、以下のページが個人的には便利だと思う。

The Naked Word electronic edition of Erewhon by Samuel Butler, 1901

『エレホン』の中に「機械の書」と題された章があり、そこで機械と生命体との比較考察が行われているのだが、ざっと読み流してみたが、なかなか面白い内容であった。一度、しっかりと読んでみたいとは思う。機械論あるいはダーウィニズムといったものが俎上にあげられた小説のようだ。そういう意味で、チューリングが気にしているのも分かる。

さて、手稿読解の2つめ、BBC の放送原稿とされる "Can Digital Computer Think?" に取り掛かろう。この手稿では、デジタル計算機は脳とみなせるかという問題が論じられている。なお、チューリングの文章は今回は、やや意訳(超訳?)でいくことにする。解釈が微妙な部分は原文を併記する。

デジタル計算機は、これまで、しばしば、機械的な脳だと表現されてきました。ほとんどの科学者は、おそらく、この表現は単に新聞が人目を引くためにつかった表現でしかないと見なしているでしょうが、そうでもないと考える科学者もいます。…。デジタル計算機は脳とみなせるかという問題に対して色々な立場から意見することが可能なわけですが、そうした色々な立場の人がどのような考えを基にしているのかを、この講演で、私は説明しようと思います。もっとも、それぞれの立場をまったく公平に扱うことにはならないのですが。そして、私自身の見解、それはデジタル計算機を脳と見なすのはそれほど間違ったことではないというものなのですが、この見解をじっくりと展開することに時間をかけたいと思います。

このように、デジタル計算機を脳と見なすことは妥当かどうかという問題に対する、いくつかの立場の意見をとりあげて、それを検討していきながら、チューリング自身の立場の説明を行おうというわけである。CMI での反論の検討部分(それが CMI では一番分量が多かった節なのだが)と重なるものである。実際、取り上げられる意見や人は、CMI と同じものが使われたりしている。

まず普通の人の意見というものが取り上げられるのだが、この場合は、自分ができないような計算の早業などを計算機が行うといったことを伝え聞けば、まぁ、脳みたいなもんかもしれないとは言うだろうが、それを信じるわけではないだろうとする。

2番目の意見としてチューリングが取り上げるのが、CMI での触れていたエイダの「機械は命じたことをするだけであって、新しいものを生み出すわけではない」という意見であり、大半の科学者がこの立場だとする。

科学者達の大半は、デジタル計算機が脳であるという考えを、迷信を信じてるのと同じようなものだと、軽べつしています。科学者達は、計算機がどんな原理に基づいて作られており、どんなふうに使われているかといったことについては少なからず分かっています。そういう科学者達の見解というのは、ラブレス伯爵夫人が、100年ほど前に、バベッジの解析機関について述べた意見に集約されるでしょう。ハートリー氏がすでに引用されていますが、ラブレス伯爵夫人は、次のように言ったわけです。「解析機関は、何か新しいものを生み出すことができるかのように振舞ったりすることは決してない。解析機関は、我々が実行の仕方を命令できることを、なんでもやるだけだ。」この発言には、現在、あるいはこれから先の何年間にもわたって、デジタル計算機がどのように使われるのかが非常によく表現されています。どのような計算業務であっても、計算機がやりとげるべきすべての処理手続きは、数学者によってあらかじめ計画されたものなわけです。予想してないようなことが起こる恐れが少ないほど、数学者は喜ぶわけです。軍事作戦の計画と同じですね。このような状況では、機械は何も新しいものは生み出さないと言うのは、まぁ、至極当然なことです。

しかしながら、3番目の立場の意見というものがあります。これが私の意見です。私は、ラブレス伯爵夫人の断定にある程度は同意します。しかし、彼女の意見が正しいのは、デジタル計算機がどのように使われうるかという点(可能性)を考えるのではなく、どのように使われているかという点(現実)で考える限りのことだと、私は信じています。デジタル計算機が脳であると表現することが違和感の無いような振る舞いをみせるような仕方、そういう仕方でデジタル計算機をで使うことができるはずだと、私は実際に信じています。また、次のようにも言っておきたい。「何かの機械が脳であると違和感なくできる表現できるのであれば、どんなデジタル計算機も、脳だと表現しうる」。

最後の言葉には、ちょっと説明が必要ですね。なにやらびっくりさせるようなものになっていますが、どうしても避けて通れない事実について述べたものなんです(It may appear rather startling, but with some reservations it appears to be an inescapable fact)。デジタル計算機のもっている特性の一つ、私はそれを万能性(universality)と呼んでいるんですが、その特性によって、先程の私の発言が正しいということをお分かりいただけるんです。デジタル計算機というものは、あるけっこう広い範囲に分類されるような機械にとって変わるように作ることができるという意味で、万能機械(a universal machine)なんです。ブルドーザーや蒸気機関あるいは望遠鏡に取って代わることはありません。でも、計算を行う他の似たような機械、つまりデータを入力すると何かの処理を行ってその結果が後ほど出力される、そういう機械であれば、デジタル計算機はそれにとって代われるものなのです。目の前に1台の機械があるときに、その機械が与えられた状況でどのように振る舞い、どのような結果を出力するか、そのことを計算するようにデジタル計算機をプログラムするだけで、デジタル計算機は、その機械の真似をするんです。機械と同じ答えを出力するように計算機を仕立てることができるというわけです。

ある機械が脳と呼ぶに相応しいものであったならば、その機械の真似をするようにデジタル計算機をプログラムしさえすれば、デジタル計算機も脳と呼ぶのに相応しいものになるわけですね。もし、実際の脳、つまり動物や、なによりも我々人間の頭の中にある脳、その脳がある種の機械のようなものだということを認めるならば、我々のデジタル計算機は、ちゃんとプログラムすれば、脳と同じように振舞うということになります。

やや引用というか超訳が長くなってしまったが、チューリングがこの講演で述べようとしていることのポイントはクリアーである。デジタル計算機のもっている可能性を、デジタル計算機の万能性(メタ−マシンになりうるという性質)から述べていこうというわけだ。そして、脳というものも、ある種の計算機械みたいなものだという点が、その論点のコアにあるというわけである。もちろん、この考え方は、いくつかの問題になる仮定をふまえたものでしかない。その点をチューリングは考察していく。

03年02月21日 08時24分 着信

昨日は卒業生に関係する採点を済ませる。

丸善に注文してあったデリダの翻訳の新刊、『フィシュ』と『友愛のポリティクス』が届いていた。でも、読み始めた『ライプニッツ』が面白いし、昨日の夕食の買い物のついでに買ってきた『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』(近藤史人)が面白そうなので、そちらへシフト。う〜ん、このずれていく感じというか、本に引き寄せられていくのがたまらない快感である。

チューリングの手稿の2つめの読解を始めた。意訳(超訳)するのが、けっこうハマっている。

03年02月21日 10時37分 着信

FD(授業改善)に関して、ある先生からいただいたメールに対する返答。

FD に関するご意見、ありがとうございました。FD については、教務委員会での他の先生方の意見などを伺うかぎりは、実現へのハードルは高いと感じています。教務委員会で最初に FD の話が出たときに「今の学生がなっていないんだ、勉強が足りない」といったことをストレートに述べられた先生もいらっしゃいました。そうした先生の認識を変えようということになれば、ほとんど宗教戦争のような泥沼が待ち受けているようにも感じます。

検討会でどのような意見書をまとめることになるのかは、まだまだ今後の会合の経過次第だとは思いますが、「理想としては分かるが、現実としては難しい」という、総論賛成各論反対ということになる気はしています(正直なところ)。

ただ、先生が今回のメールで

>色々と見えてくるものもあり,興味深かったです.

とおっしゃっていたように、私自身、学生からのフィードバックがあるということの「面白さ」を、自分でアンケートを実施してみて、ずっと感じています。

私自身は、自分の組織論の講義の中で、コミュニケーションとは、つたわってなんぼのもんなんよ、という話をしている(組織内の命令伝達の問題などで)こともあって、同じ理屈で、講義かて伝わってなんぼやなぁということで、学生のアンケートを始めました。また、自分が教育方法に関してちゃんとした訓練など受けたことがないということもあって、自分の講義のやり方は本当にこれでいいのかという迷いがずっとあったわけです。

実際にやってみると、学生達は、彼らなりの鋭い評価を返してきます。それを学生のわがままと斬ってしまうのは簡単ですが、彼らだって講義に出るからには少しでも分かりたい/できれば面白がりたいと思っていることは、確実な手ごたえとして得られたように思います。学生が、そういう姿勢(単位のためだけではない)で自分の講義に望んでいる、それが感じられるだけでも、ずいぶんと講義に張りがでてきます。

ですから、授業評価(あるいは学生アンケートでもいいですが)をやってみると面白いものだよということを述べて、自主的に試される先生を増やしていく、試してみる先生を一人でも増やす、それができれば FD 検討会をやった意味はあるかもしれないと思っています。つまり、草の根(?)の運動の契機になればいいかなと。

まぁ、そう考えると、制度的な導入はむしろ逆効果という気もしないではありません。少し前に話題になっていた、学校教育にボランティア活動を取り入れるみたいな、「形をとって中身が空洞化」ということなってしまうかもしれません。

たぶん、どの先生も、自分が講義で語られたことが、少しでも学生達に「伝わって」欲しいという思いはもっている。その気持ちにどこまで届くものとして FD というものを形にできるか、それを考えてみたいと思っています。

何か意見などありましたら、これからも、遠慮なく、お聞かせください。

03年02月21日 22時06分 着信

チューリングテストに関する覚書20

デジタル計算機によって脳をシミュレートできるという主張を成立させるための条件の考察が続く。その中で、十分な記憶容量と実行速度が必要といった、CMI を読んできた我々にはお馴染の話題が語られている。

続いて、計算機の複雑性について興味深い発言を行っている。

使用する計算機の(機械としての)複雑性を増す必要などないということは、ぜひとも言っておかなければなりません。(It should be noticed that there is no need for there to be any increase in the complexity of the somputers used.)複雑な機械、あるいは脳、そういうものを模倣しようとするなら、そのためにはより大きな(larger)計算機を使用する必要があります。しかし、だからといって、より複雑なもの(complicated ones)を使う必要はないのです。こういうと、なにやらパラドックスのように聞こえるかと思いますが、それがパラドックスではないことを説明するのは、そんなに難しいことではありません。計算機に何かの機械を模倣させるためには、計算機を作成しなければならないのはもちろんですが、その計算機をちゃんとプログラムするということも必要になります。模倣しようとする機械が複雑になるほど、それに応じて複雑にならないといけないのはプログラムなのです。[つまり、計算機そのものではなく、プログラムの複雑性が増すことになるのです。]

[]で囲った最後の文章は、原文には無い、私が補足のために追加した文章である。ここでチューリングが述べていることは、模倣対象の複雑さには、計算機という機械の複雑さではなく、プログラムの複雑さで対応する(できる)のだということである。プログラミングで様々な複雑さに対処できるということにこそ、万能機械としてのデジタル計算機の特質があるわけだ。

続けて、チューリングは、アナロジー(譬え)で、プログラムの複雑さに関する説明を行っている。

このこと(プログラムが複雑になるということ)は、たとえ話によってはっきりと分かってもらえるのではないかと思います。二人の男がいて、それぞれが自伝を書きたいと思っているとしてください。片方の男の方は、波乱に満ちた人生を過ごしてきており、もう片方は波風の無い人生を過ごしてきたとします。波乱に満ちた人生を過ごしてきた男の方は、もう一人の方に比べて、2つの大きな困難に悩まされることになります。つまり、書くことが沢山あるために紙が沢山いるということと、自分の体験をどのように言葉にすれば良いかということに悩まなければならないというわけです。紙が沢山いるという問題は、彼が砂漠の孤島に居るのでもなければ、それほど深刻な困難ではないでしょうし、いずれにせよ、技術的あるいは資金的な問題ではあります。もう一つの困難、つまりどう表現するべきかということは、より根本的な問題ですし、深刻なものです。まして、彼が自分の人生についてではなく、彼が何も知らないこと、たとえば火星における家族生活なんてものについて書かなければならないのだとしたら、どう言い表すべきかという問題はいっそう大きなものとなるでしょうね。計算機に脳のような振る舞いをさせるようプログラミングするという我々の問題は、ちょうど、砂漠の孤島で火星の家族生活についての論考を書こうとするようなもんなんです。必要となる記憶容量も手に入らない、つまり論考を書くための十分な紙もない、そればかりか、たとえ紙を手にしたとしても、何を書いたらいいのか分からない。これはもう散々な状況ですね。とはいえ、先程の比喩を続けるなら、書き記す方法を見つけたいこと、書きたいことはある。また、大半の知識は本の中に表現できるという事実は分かっている。[表現するべき対象ははっきりと分かっているし、それが表現できるだろうということも分かっているわけです。ただ、じゃぁ、具体的にどうするんだということがよくわからないというのが問題なわけですね]

このように、実現の問題(実装の問題)が大きなことをチューリングは認める。特に、2つの困難のうちの後者の方、つまり具体的にどのようなプログラムを書けば良いのかという点が分からないという点は、大きな問題であることを認める。そのことを認めながら、自分の信念を語る発言が続くのだが、その中で、模倣ゲームへ言及している。

こうした点からすれば、デジタル計算機を「機械的な脳」とか「電子的な脳」と呼ぶことを批判するための最もするどい理由は、「たとえ計算機を脳と同じように振舞うようプログラムできるのかもしれないが、現時点で、そのためにはどうするべきなのか分かってないじゃないか」、そういうのだと思われます。この見解に対しては、私は完全に同意します。[確かに、我々は、どうしたらいいのか分かっていません。]しかし、脳のように計算機を振舞わせることができるプログラムをやがては見いだせるのか、それとも見いだせないのか、ということ[つまり、この先、ずっと無理なのか、それとも実現の可能性はあるのかということ]、その問いは、決着がつかないままに残ります。私は、個人的には、そのようなプログラム、デジタル計算機を脳のように振舞わせられるプログラムが見つかると信じたいのです。たとえば、今世紀(20世紀)の終わりまでには、質問に答えるように計算機をプログラムすると、その答えは、人間が答えたものか計算機が答えたものかを判別するのが極めて難しいものになる、そういうことができるだろうと考えています。機械に対して口頭試問のようなものを受けさせることを考えての話なのですが、それを行う場合には、人間らしい声が正確に真似できるかといった本質とは無関係の点を気にしなくて済むように、質問と答えはすべてタイプライタ−で印字したものになるでしょう。これは私の意見を表したものでしかありません。他の人は、別の考えがあるでしょう(there is plenty of room for others)。

このパラグラフの中で、チューリングは20世紀末までには模倣ゲームにパスするようなプログラムを作成することができるだろうと述べており、それは CMI で述べられていたことの繰り返しではあるが、この文章では、「質疑応答を行った際に、その回答の主が人間か計算機(機械)か分からない」というのが、模倣ゲームの問題となっている。つまり、一般に流布しているチューリングテストの形式そのもので書かれているわけだ。そういう点で、チューリングは、 CMI で回りくどい定式化を行っているが、結局のところ、「人間と区別できないような振る舞い(出力)ができるかどうか」で判定する(できる)というものだということになるだろう。

03年02月22日 08時52分 着信

昨日は、午前中はチューリングの手稿の読解など。午後、サーバのメンテナンスなどを行ってから早めに切り上げる。帰りに家電店に行き、新しい 12 inch PowerBookG4 に触ってくる。さすがに G4 だとOS X がきびきび動くなぁとか、キーのストロークが iBook よりもあって、感触がいいなぁとか、そういう感じ。これの ASCII 配列のキーボードのマシンが欲しくなってしまう。携帯の調子がいまひとつなので機種変でもしようかとカタログをもらって帰る。最近のヤツはカメラ付になってしまってサイズが大きくなったのが気に入らないのだが、中に、カメラで撮影した画像のアドレスを読み取れる機種なんてのが出てきているのにちょっと驚く。でも、カメラの使い方としては面白いよな。

自宅に戻ってからは『藤田嗣治』を読み上げる。藤田の絵にそれほど接したことはないし、何より、絵のことは正直いってよくわからないのだが、それでも、絵を描く/絵を描きたいという欲望と、それが一人の人間の行為として為されるということとのせめぎ合い、そして人間の行為ゆえに巻き込まれざるをえない状況との関係など、面白く読めた。

03年02月22日 12時02分 着信

チューリングテストに関する覚書21

続いて、自由意志の問題へとチューリングは論を進める。脳と同じように振舞うのであれば自由意志を持っているべきではないかという問題である。プログラミングによって振る舞いを規定される計算機は、自由意志とは対局の決定論のものだということになる。ここには「自由意志と決定論」という古くから議論されてきた問題があるわけだ。それに対するチューリングの解答を見てみると:

解決案は2つあります。一つは、我々だれもが感じている自由意志をもっているという感覚は錯覚であるとするものでしょう。あるいは、我々が実際に自由意志を持っているのだとしても、我々の行動から我々が自由意志を持っていることを明らかにする方法はない、というものです。後者の考えにたつなら、機械が人間の行動をどれほど上手に真似したところで、それはただの見せかけにしかすぎないと考えることになります。[我々の自由意志というものは行動からは計り知れないものだというのですから、いくら行動が似ていても、自由意志そのものを持っていないとだめなわけです]この解決案のどちらを選択できるのか、私には分かりません。しかし、人間の自由意志の考え方としてどちらが正しいものであろうとも、確実に言えることは、脳を真似するように作られた機械は自由意志を持っているかのように振舞う必要がありますし、どうすればそのような振る舞いができるのかはじっくりと検討されるだろうということです。一つ考えられる方法としては、計算機を、ルーレットを回して出た目とか、乱数を与えて、それに基づいて行動するようにするというものですね。こうした場合、[起こりうる事象の数はそれでも有限ですから]確かに計算機の振る舞いは原理的には予想可能なわけですが、それでも、我々は予測する方法は分からないわけです。

お馴染の乱数の話が登場するわけである。CMI や前の手稿でも出てきた話題である。ただ、自由意志の問題に対するチューリングの考えかは、一番クリアーに述べられているように思える。つまり、計算機が人間と同じ自由意志を持つかどうかということ自体は、自由意志とは何かという哲学的な問題に解答することになるので踏み込まないが、乱数を持ち込んで、実際の人間にとっては予測不可能な振る舞いをするような計算機を作れば、振る舞いという点では自由意志を持っているかのように見える/思えるだろうというわけである。このように、自由意志も関係性においてとらえること、つまりコミュニケーションにおいて相手に認知させる属性という次元で考えること、そういう立場をとるという点で、チューリングは一貫している。

ただ、乱数を組み込むことが本質的なことではないことをチューリングは釘を刺している。

とはいえ、実際にそのようなことをする必要はないでしょう。機械の仕組みを詳しくは知らない人から見ればきわめてランダムに振舞っているように見える、そういうふうに機械を設計するのは、難しいことではありません。もちろん乱数装置を組み込むというので十分なのですが、それでも、[自由意志を持つかのように振舞わせるのに]たとえどんな技術を使おうとも、我々の本来の問題、つまり機械を脳を真似するようにプログラムする、あるいはもっと端的に言うと、やや正確さには欠ける言い方ですが、機械が思考するようにプログラムする、それにはどうしたらよいのかという問題が解決されるわけではありません。とはいえ、計算機の中のプロセスがどのようなものになるかという点について、なにがしかの見通しを与えてくるものではあります。我々は、計算機が何をするか分かると、いつも期待してはいけないんです。機械が我々を驚かすようなときには喜ぶべきなんですよ。それはちょうど、生徒が教えてもないようなことをやり遂げたときには喜ぶ、それと同じことなんです。

「驚かす」という話が出たところで、チューリングは、再びラブレス伯爵夫人(エイダ)の意見をとりあげて論じる。

ラブレス伯爵夫人の意見、「機械は、我々が実行の仕方を命令できることを、なんでもやるだけだ。」という意見をふたたび考察することにしましょう。この意見の後半部分の意味していることは、機械は我々がやり方を命令する方法を知っていることだけしか実行できない、そういうことであると言いたくなります。しかし、私は、それは正しくないと考えます。確かに、機械は、我々が実行するように命令したことだけしかできません。それ以外のことを機械が行ったとしたら、それは機械的な誤りでしょう。しかし、我々が機械に何をするのかはっきりしている命令を与えたからといって、その命令を実行した結果がどういうことになるのかまでも分かっていると考える必要はありません。命令が機械にどのような具体的な振る舞いを起こさせることになるのかまでも理解する必要がないということは、ちょうど、種を地面に蒔くときに、その種の発芽のメカニズムを理解している必要がないのと同じことです。種を蒔いた人が発芽のことを理解していようがいまいが、そんなことには関係なく種は成長します。機械にプログラムをあたえて、そのプログラムの実行結果が我々の予想もしてなかった面白いことになったとします。その時、そうした予期しないような機械の行動は、プログラムの中に暗黙に含まれていたもので、創造性はすべて我々人間の側のものだという主張することもできるでしょう。しかし、私は、そのように主張するよりも、機械がなにか新しいことを創造したと言うほうがよいのではないかと思うのです。

ここで述べられていることは、プログラムが計算機のすべての実際の振る舞いを規定するのではないということである。この議論は、最近の複雑性(複雑系)の議論のエッセンスと同じだ。生物の形態発生(morphogenesis)に関する論考も発表しているチューリングとしては、決定された系からの創発現象が生じうるという点は、譲れない論点だろう。

以上のような議論を展開したところで、チューリングは、このペーパーの総括に入るのである。

03年02月22日 21時34分 着信

チューリングテストの関する覚書22

最後の部分で、チューリングは、機械が考えるということに対する人々の反発、それも非合理な(理屈では割り切れない)反発について述べて、このペーパーを終わっている。やや長くなるが(って、今更だけど)、超訳でいく。

「機械を思考するようにプログラムする」にはどのようなプロセスを踏めばいいのかということについて、ここで多くを語るつもりはありません。その方法について我々が分かっていることはとても少ないし、研究もまだほとんど為されていない、それが実情です。色々な考え方がありますが、そのうちのどれが重要なのかも分かっていない。推理小説(探偵小説)のことを思い浮かべてくもらうとよく分かると思うのですが、調査を開始した時点では、どんな些細なことでも謎解きをする人間には重要に思えるわけです。探偵小説の場合、いったん問題が解決されてしまうと、本質的な事実だけを陪審員に告げれば良いことになります。しかし、現時点での我々の状況は、陪審員に語るようなことは何も無いという状況なわけです[調査を始めたばかりで、何が本質なのか皆目検討がつかないという段階でしかないわけですね]。私が、今言えることは、計算機を脳と同じように振舞わせるプロセスは、教育というものに密接に関係があると私は信じているということだけです。

機械を思考するように作ることはできる、この主張に対する、理論的・理性的な賛成あるいは反対の理論について説明しようとしてきました。しかし、非理性的な、理屈では割り切れないような意見についても、触れておかなければなりません。多くの人たちは、思考する機械という考えに激しく反発します。でも、私は、そうした反発は、私が説明してきたような理由だとか、その他の理論的な理由によるものではなくて、単に、思考する機械という考え方自体が嫌いだという、それが理由だと信じています。不快感を感じるような多くの特徴を機械に見いだせるわけです。もし機械が思考できるのであれば、機械は我々よりもずっと知性的に思考するでしょうし、そうなれば我々には立つ瀬がないじゃないか。たとえ、我々が機械を、いざという時には電源を切っちゃえるというように、我々の言いなりになる立場に留めておくことができたとしても、人間という種としての誇りは痛く傷つくことになります。同じようなことになる恐れ、矜恃を傷つけられる恐れというものは、豚やネズミが我々よりも優れた存在へと進化する可能性によってももたらされるものではあります。豚やネズミが我々よりも優れたものに進化しうる可能性は、理論的にはありうることで、そのことへの反論の余地はほとんどないことです。しかし、私たちは、豚やネズミ達が我々よりも知的になるという恐れなど抱くことなく、長年にわたって、共に生きてきていて、そんなことが起こる心配などして無いわけです。もし豚やネズミが我々よりも知的に進化するようなことが万が一あったとしても、それはこの先の何千年という時間を経たその先のことことだろうと感じています。しかし、機械が我々の知的存在の座を脅かす危険は、もっと差し迫ったものなのです。もし本当に機械が人間の知性を追い越すようなことが起きるとしたら、それは次の千年紀のうちには起こるのは確実でしょう。次の千年紀というと今からずいぶんと離れてはいますが、天文学的に離れているわけではありません。また、機械が我々の知性を上回るかもしれないということは、確かに我々を不安に陥れることができる予想ではあります。

このような話題を取り上げた講演や記事は、ちょっとは慰めになるようなことを述べるのが普通でしょう。人間のなんらかの特性は決して機械なんかに模倣されることなんかあり得ないといった意見を述べるなんてことをするのが普通なわけです。それに倣うなら、例えば、機械は上手に英語を書くとか、性的魅力で人を虜にするとか、パイプで煙草を吸うとか、そういうことは機械はできないと言ってもよいでしょう。でも、私は、そんな慰めは、いっさい述べることはできません。というのも、機械に、何かはできないというような限界を課すことはできないと信じているからです(I believe that no such bounds can be set)。人間ならではの特徴、それも知性とは無関係な特徴を、機械に備えさせようとする、たとえば姿を人体に似せるとか、そういうことに力を注ぐことは無いと私は願っていますし、そんなことはあり得ないと信じています。機械を人間に似せるなんてことをしてみても、それはあまりにもむなしいことですし、造花のようなどこかしら違和感にみちたものになってしまうのは目に見えている。私にはそう思えます(*手稿のこの文章の部分にはチューリングの手書きによる修正がかなり書き込んであるのだが、残念ながら、正確には判読できなかったので、判読できた部分から想像した文章にしてある)。思考する機械を作る試みは、人間に似た機械を作ることとは、違った次元の話だと私には思えます。思考のプロセス全体は、いまだ、我々にとって神秘のベールに隠されたものです。しかし、思考する機械を作るという試みは、我々自身がどのように思考しているのかということを明らかにするのに非常に役に立つものであると、私は信じています。

このように、現状ではすぐに実現することは無理だとしながらも、チューリングは、機械(計算機)によって脳をシミュレートする(思考する)ことは可能になることを確信しているということが述べられて、この講演は終わる。

CMI と2つの手稿を読んでくることによって、チューリング自身の計算機と知性に関する考え方は、ほぼ明らかになったといえる。それをふまえて、我々の本来の問題、チューリングテストの形態の問題を考えることにしよう。

03年02月23日 22時18分 着信

昨日はチューリングの読解に夢中になってしまった。

夕食の買い物のついでに「バガボンド」16巻と、前から気になっていた「ドラゴンボール完全版」1〜6を買ってしまう。ドラゴンボールの最初のころは、大学時代、下宿でジャンプを買っていたやつがいて、それで読んでいたのだが、改めて読むと、なんか懐かしい。

日経バイトのパッケージソフトの特集がなかなか面白かった。

今日は、これまでのチューリングテストに関する覚書を、まとめ直す作業などを行う。「チューリングテスト再考」という題名にして、少しだけ手を入れていた。

家族で買い物に出た際に、本屋によって、『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』(森川嘉一郎)、『ネットコミュニティビジネス入門』(松岡他編)、『来るべき世界のために』(デリダ+ルディネスコ)の3冊を購入。『ネットコミュニティビジネス入門』は、日経BPの本。コミュニティスキルがどうこうっていう本のようだが、コミュニティスキルって言葉自体がうさん臭いよなぁと思いつつ、でも、この手の本は買ってしまうのであった。

デリダの本が溜まっちゃったなぁ。

03年02月26日 08時14分 着信

月曜日はゼミの飲み会。学生達と話していて、「コンパ」という言葉は「合コン」と同じ意味なんだそうだ。普通に酒を飲むのは「飲み会」という。なんか面白い。

昨日は商工会議所の「IT活用地域活性化推進委員会」に出席。最後の報告会である。少ない回数の会議ではあったが、色々な分野のかたがたと話を交わせたのは面白かった。

午後は、アメリカでポスドクをやっている卒業生、といっても学部が違う、Mac仲間なんだが、彼の訪問。

かみさんも自分も風邪気味で体調がいまいちなので、このところ、あんまり本が読めない。「チューリングテスト再考」の細かな手直しをしたりしていた。もっとも、妻が「モンスター」を読み返し始めたのだが、つい、自分もはまってしまったのだ。

03年02月27日 23時07分 着信

朝から教務会議。また、午後からは、FD (Faculty Development)に関する講演会と会議。東海大学の安岡先生に来ていただいて話を聞いたのだが、なかなか有意義なものであった。

デリダの『友愛のポリティクス』2が届く。またまたデリダが溜まったよぉ。とはいえ、『来るべき世界のために』を昨日の寝床から読み始めたのだが、やはり刺激的である。

03年02月27日 23時07分 着信

チューリングテストの関する覚書23

さて、チューリングの論文を一通り読み終わったところで、改めて、チューリングテストそのものに立ち戻って、考えてみることにしよう。なお、ここからは、computer は、これまでの計算機ではなく、コンピュータという訳語でいく。

まず、基本的なことではあるが、チューリングテストとは、「コンピュータが、人間と同じ程度には模倣ゲームをうまくこなすならば、そのコンピュータは『思考している』と言ってよい」と定式化できる。もちろん、チューリング自身が「チューリングテスト」という名のもとで定式化したものではない。CMI の中では、「機械は考えることができるか」という問いを、いかに判定可能な形(日常言語の曖昧さに振り回されない形)のものに定式化し直すか(置き換えるか)が焦点になっている。つまり、「思考している」かどうかの判定方法が問題になっている。

そこでチューリングが提案したのが、まず人間によって行われる「模倣ゲーム」という形式のゲームを考え、それをコンピュータが人間同様に行えるか、ということで判定できるだろうというものであった。まず最初のポイントとして、模倣ゲーム自体は、人間が行うものになっているわけだ。

別室に男性と女性の2人がいて、彼らがターミナルを通じて文字だけによって質問者と通信を行う。そして、質問者は、文字による通信から、どちらが男性でどちらが女性かを判別することを要求される。さらに、男性は、質問者を間違わせることを目的として振舞う。一方の女性は、質問者が正答を得るのを助けることを目的として振舞う。これが模倣ゲームの枠組みである。

チューリングによって「模倣ゲーム the imitation game 」という名前が付けられていることから、上記の枠組みでは男性は質問者を惑わすために女性であることを装うのだとすぐに思ってしまうのだが、厳密に考えれば、男性がとりうる戦略は、それに限らないはずだ。過剰に男性らしく振舞うことによって、質問者に、「男性の振りを一生懸命している」と受け取られるように振舞うという方法だって可能だろう。あるいは、女性の側(基本的には真実を伝達しようとするはず)の態度や情報に不信感を抱かせるように仕向けることができればいいはずだ。それはなにも女性の振りをしなくとも可能である。中性的なスタンスをとることで、相手の「女性である」という情報が、「女性であると過剰に主張している」かのように質問者に受け取られるように仕向けるという戦略だってある。もちろん、質問者は、直接性別を尋ねるとか、身体的な特徴について尋ねるとか、そういうストレートな問いを発することが可能である以上、男性にとっては、女性であることを装うのが「自然な」戦略であると言えなくはない。ただ、けっこう微妙な部分があり、チューリングは CMI では髪の長さを尋ねるという質問の例を出しているのだが、たとえば、これが、スリーサイズを尋ねるとか、身長と体重を尋ねるといった質問だった場合だとどうだろう。実際の数値を返すのと、「その問いは失礼では?」という返答と、どちらが女性らしいのか? あるいは女性のふりをしているのはどちらなのか? このように考えると、模倣ゲームだからといって、単純に、男性(騙し役)が女性のふりをするとは言えないように思われる。

このような男性と女性と質問者の3者からなる模倣ゲームというものと、男性の役をコンピュータが行う模倣ゲームの2つの模倣ゲームの結果を比較して、質問者の正答率に有意な差がなければ、その時は、コンピュータは人間同様に思考していると言ってよい、これがチューリングの考えである。つまり、コンピュータが思考できるかどうかの判定方法として、2つの模倣ゲーム(男&女の場合とコンピュータ&女の場合)を比較するという方法を提案しているわけである。CMI の中のその部分をもう一度引いておく(文中のAとは男性の側をさす)。

ここで我々は次のように問いを立ててみよう。「このゲームにおいて、機械が A の役割を受け持ったら、何が起こるだろうか?」 A を機械に演じさせるというこの形で行ったとき、質問者は、人間の男性と女性とによってゲームを行うときと同じ程度には判断を間違うだろうか? これらの問いが、我々のもともとの問い「機械は考えることができるか?」に取って代わるものとなる。

このように、2つの模倣ゲームの対照実験によって検証するというのがチューリングの提案である。厳密な意味でのチューリングテストとは、模倣ゲームのことではなく、2つの模倣ゲームの対照実験のことなのだ。

さて、ここで考察するべきことは、なぜ男性(騙し役)の方をコンピュータにするのか、ということである。女性(補助)の側をコンピュータにしないのはなぜなのか? チューリングは、この点に関しては何も語っていない。さて、どう考えるべきなのか?

03年02月28日 10時13分 着信

チューリングテストに関する覚書24

CMI の読解の中でも触れておいたように、チューリング自身は、模倣ゲームにおける性差の問題には、こだわっていないように思われる。また手稿の Can Digital Computer Think? の中での模倣ゲームへの言及では、現在、一般に言われているようなチューリングテスト、つまり、人間とコンピュータの2人を相手にしたとき判別がつくかどうかというもの、になっていた。

「機械は思考できるか」という問いの、CMI における、チューリング自身による最終的な定式化は、以下のようになっていた。その部分を再度引用するが、今回は a man を人間ではなく男性と訳す。また原文もつけておく。

「ある特定のデジタル計算機 C について考えることにしよう。次のことは正しいだろうか?:この計算機に、十分な記憶装置を備えさせ、実行速度も十分に速くなるようにし、そして適切なプログラムを与えるという改良を加えたならば、C は、男性(a man)の演じる B といっしょにやって、模倣ゲームの A の役割を満足にこなすことが可能である」

'Let us fix our attention on one particular digital computer C. Is it true that by modifying this computer to have an adequate storage, suitably increasing its speed of action, and providing it with an appropriate programme, C can be made to play satisfactorily the part of A in the imitation game, the part of B being taken by a man?'

チューリングは、デジタルコンピュータの万能性を考えるならば、この問いが、「機械は思考できるか?」あるいは「模倣ゲームをうまくこなせる想像上のデジタルコンピュータは存在するか?」という問い(これが先程の、模倣ゲームのチューリング自身による要約にあたる)と等価だと考えている。

だが、上の定式化では、模倣ゲーム自体の設定が変わってしまっている。つまり、Bのポジション(質問者を助ける役)にも男性が置かれている。ということは、模倣ゲームは、もはや性別を同定するものではないわけだ。どちらが人間か、少なくとも本当の男性かを、判定させる、そういうゲームになっている。とすれば、このコンピュータが参加したほうの模倣ゲームと、人間だけによって行われる模倣ゲームとを対照することで判定することも不可能になる。2つは異なった設定のゲームだからだ。この時点で、最初にチューリングが模倣ゲームを持ち出してきた際の厳密性は崩れてしまっているのではないか。

もちろん、あくまでも性別判定を目的としたゲームであるとするならば、コンピュータと男性のどちらもが女性の振りをする役を演じ、どっちが上手に質問者を騙せるかを争う(当然、質問者には両方が女性でないことは伏せておく)、そういうゲームであるとも取れる。2つの模倣ゲームを対照させるのではなく、一回にやってしまって、騙しあいをやらせて判定させる、というわけだ。しかし、これはAは騙し役、Bは補助役というチューリングが定めた役割規則には反する。

いずれにせよ、模倣ゲームのBのポジションを男性にすることによって、では模倣ゲームとは何をするものなのかという点が曖昧になっている。模倣ゲームという名称によって、我々は、コンピュータが人間の模倣を行うものだと、暗黙のうちに、読み込んでしまう(もちろん、ここに至るまでの議論や、もともとのテーマが思考という人間の活動をコンピュータが行えるかという、人間とコンピュータとの問題であることもふまえて)。だが、模倣ゲームの議論としては、論理的な整合性を欠いてしまっていると言わざるを得ない。

この a man は、もしかしたら、a woman と書くべきところをタイプミスしたとも考えられる。だが、CMI のその後の議論や、手稿を読む限りでは、チューリングは、人間とコンピュータとの同定ができるかというのが模倣ゲームと考えていたとするのが正しいだろう。

それをふまえて模倣ゲームを再定式化するならば、模倣ゲームとは、

  • 質問者と二人の(二つの)被験者によって行われる
  • 質問者の目的は、文字による会話を通じて、ある属性(性差、思考能力等)を本当に持っているのは被験者のうちのどちらかを判定することである。
  • 被験者のうちの一人は、質問者を騙す役割を演じることが求められる
  • 被験者のうちのもう一人は、質問者を助ける役割を演じるが求められる

こういうものであるということになるだろう。

模倣ゲームの「変更」によって、コンピュータ自身のやるべきことも変わってしまっている。最初の模倣ゲームにおいては「女性だと騙そうとしている男性の振りをする」ということであったものが、最終的には、ストレートに(?)「人間であると騙そうとする」というものへとなっている。この2つの振る舞いは、果たして「等価」なのか?

03年02月28日 16時29分 着信

久しぶりに穏やかに晴れた一日である。

大学でサーバのメンテナンスなど。相変わらず LC475 は快調なのだが、やはりそろそろ潮時かなと思わないではない。というのも、検索機能の強化を考えるとき、今のままでは、どうしても無理があるというか、いびつなものになってしまうからだ。PowerMac に移行して Shaerlock をつかった検索の CGI を組んでしまうというのが、今の状況ではベストな解だと思う。どうしようかなぁ〜〜〜〜〜〜 やっちゃおうかなぁ〜〜〜。

学部内のくだらないごたごたに巻き込まれている。基本的な対立軸は経済学科と経営学科なんだが、そこに、短大の問題も絡んできているだけに、話がややこしい。経済学科帝国主義に対抗して経営学科の砦をまもるべく団結するための策/柵を云々、みたいな、もう不毛限りないことを、形だけはきれい事として主張するのでたちが悪い。やれやれ。経営学科だろうが経済学科だろうが関係ねぇだろーと、もともと怪しい領域でやってきた自分などは思うのだが。社会思想史(京大は経済学部にあったが、文学部の哲学科や倫理学科にあってもおかしくない/実際そうだと聞いている)を専攻した実にしてみれば、まぁ、自分がボーダーをうろうろしてたということもあるが、学科のアイデンティティになんでそこまでこだわるのか、全然理解不能。まして、修士号は経済学科だけど、博士課程で経営学に移ったなんていうやつだから、経営学にも全然思い入れがない。自分がやりたい研究の面倒を見てくれた先生が経営学の先生だっただけの話。そういうこともあって、なんだかやってられないなと思う。学科主任や学科会議を設置するかどうかなんていう不毛な議論をやってるぐらいなら授業評価や FD の問題をどうアクションプランにしていくかという問題のほうが、よっぽど実りがあると思う。学部の自治というものが、一定の歴史的経緯をへて勝ち取られてきたものであるのは事実かもしれないが、くだらない政治ごっこに振り回されるぐらいなら、さっさと専門の管理者(間違っても経営学の研究者から選んではならない)に任せちゃえば、とすら思ってしまう。

『ライプニッツ』(山内志郎)を読了。かなり癖があるが、ライプニッツへの入り口としては面白い本だと思う。モナドについても、自分のこれまでの理解とは違った側面を見ることができた。

『ネットコミュニティビジネス入門』を読み始めたのだが、予想にたがわず(?)、ひでぇ本だと思う。ネット上でホームページで読めるようなものなら、それなりに楽しんで、スカってな感じで許せるのかもしれないが、これを書籍にして売ろうとするかね?(って思うあたりがオールドタイプの書籍信仰派なんだろうけど)。もちろん、所々に、鋭い意見や考察は散見される。しかし、コミュニケーションとかコミュニティとかを論じるとか言いながら、全然論じてないというか、結局、生身の人間が対面で話しあうのが一番ですよみたいな、ネット=代補の図式を振り回していたりして、うんざり。ネットにホーム(ホームページではなく自分が居心地が良く開放されて癒される場所としてのホーム)を作れ云々みたいな松岡裕典「ネットコミュニティビジネスを解剖する」を読んだ時点で、もう読み進める気力がなくなった。研究室に持っていって、本棚につっこんでおこうと思った(もっとも、研究室の本棚は、もう一杯になっているので、床に積み上げるしかない状況になってるんだが… 勤務校は研究室の広さだけは日本トップクラスで、まして自分の研究室は、もともとは助手が3人入れられてた、他よりも広い部屋なんだが)。

夕食の買い物に行ったついでに、例によって本屋によって、講談社現代新書の新刊を2冊購入。『キャラクター小説の作り方』(大塚英志)、『私はどうして私なのか』(大庭健)を購入。どちらも読むのが楽しみ。とはいえ、デリダの本とか読みたいのが溜まってるんだけど。

研究室で飼っているクワガタ(ヒラタの♂、オオクワの♂と♀)、それと自宅のコクワ(♂)のいずれもが無事に冬を越したのを確認。そろそろ暖かい時には動き出しているようなので餌を与えないといけないかな。自宅のコクワの方は、2度目の冬眠をのりこえたことになる。クワガタがこんなに生きるもんなんて、なんか、改めて感動する。

03年03月01日 22時57分 着信

『キャラクター小説の作り方』を読み上げる。予想に違わず刺激的な本であった。文芸−文学論としても、けっこう共感できる。ちょうど学生の履歴書(エントリーシート)の自己紹介の文章を添削していたりしたこともあって、ストーリーとしてまとめたり、自分というキャラを表現するということなんかを考えていたところだったので、余計に面白く読めた。来年度のゼミでは、ストーリーを作らせる練習をやるというのも面白いかなと思う。

続いて『私はどうして私なのか』を読み始める。大庭健の本はすべて読んできているので、すっと入っていける。新書だけあって、エッセンスがキリっと書かれている感じはする。

チューリングテストに関する考察も少し。チューリングの模倣ゲームの定式化の問題点は、自分なりに見えてきたかなという気がする。

03年03月01日 22時57分 着信

チューリングテストに関する覚書25

模倣ゲームという枠組みにこだわって考えるならば、チューリングの変更は、ゲームをプレイするコンピュータの戦略に大きな変更をもたらすことになる。最初の定式化、つまり、二つの模倣ゲームの対照によって判定するという場合であれば、Critique of the New Problem でチューリングが述べているように、コンピュータの取るべき行動は、人間の振る舞いを真似ることだといってもよいだろう(もちろん、チューリングが述べていたように、そうでない戦略だってありうるわけだが)。模倣ゲームをプレイしている騙し役の男性と、同じ程度には、質問者を騙せないといけないということは、うまく騙しすぎてもいけないわけである。ちょうど人間と同じ程度に騙すことが必要なのだ。とすれば、やはり、最良の戦略は騙し役の男性を真似ることになるだろう。

しかし、最終的にチューリングが定式化した模倣ゲーム(コンピュータと男性が被験者となる方)では、コンピュータにとっての最適な戦略は、必ずしも人間を真似ることではない。先に述べたように、男性と女性がゲームをプレイする場合でも、男性の最適の戦略は、必ずしも女性を真似ることではないように。ゲームの目的は、質問者がどちらが人間と思うかを被験者が競う、というものになっている。それゆえ、コンピュータにとって、プレイの目的(やるべきこと)は、自分を人間と思わせることであって、人間を模倣することではない。二人の被験者のうちのどちらが人間らしいかを競うゲームになってしまった以上、コンピュータは、もう一方の被験者が人間とは思われないようにするという手も打てるわけである。つまり、コンピュータがやるべきことが、完全にもう一方の被験者との駆け引きになっているわけである。その意味で、もはや模倣ゲームにはなっていないと言ってもよいだろう。

このように、チューリングの最終的な定式化においては、模倣ゲームと呼ぶには相応しくないものになってしまていると言ってもよい。

もちろん、チューリングの CMI のそもそもの目的は、コンピュータが思考できるということを述べることにあり、それを厳密に検証する方法を提示しているわけではない、という読みも可能である。チューリングテストを述べた論文として読もうとするということは、そこにチューリングテストの厳密な提示を求めてしまうことになるが、そもそも、チューリングは、CMI で、コンピュータが思考できるかどうかを検証する厳密な方法を述べるのを目的とはしていないとも考えられるわけだ。その意味では、チューリングの模倣ゲームのポイントは、コンピュータが思考するかという問題を、思考能力という属性を内在させることができるかではなく、思考しているように振舞うことができるか(思考をシミュレートできるか)という点へとずらしてみせたこと(そしてその上で、コンピュータの持つ万能性(万能チューリングマシン)で思考がシミュレートできるということ)にあるわけで、その点を了解すればよいということになる。

03年03月02日 16時03分 着信

今日も穏やかに晴れた日となった。窓を全開にして車で走るのが気持ち良い。

午前中、のんびりしながら聴くための CD を作って、これを聴きながら『私はどうして私なのか』を読んでいた。ちなみに、以下のような選曲。

01Naneティエリー・ラング トリオ
02A Song For Youアンディ・スニッツアー
03Recuerdos De La Alhambraトリオ モンマルトル
04Theme from "Proof Of The Man"アーチー・シェップ&ダラー・ブランド
05Do You Remember?ソルト・カルトネッカー&デス
06Bohemian Rhapsodyティエリー・ラング
07Tears In Heavenニールス・ラン・ドーキー
08Lift Every Voice and Singチャールズ・ロイド
09The Water Is Wideチャールズ・ロイド
10Ode To Lifeドン・プーレン
11Cantabileミシェル・ペトルチアーニ トリオ

02 は D.D. Jackson と迷ったのだが、今日のところは A Song For You という曲のよさで入れてみた。アルバム全体の流れとしては Jackson の Summer か New Beginnings の方がいいかな、という感じだ。11 は DVD からリッピングしたもの。

ひさしぶりに、最近の娘の写真(デジカメで撮影したもの)の中からいくつか選んで印刷してた。印刷にはハガキサイズの光沢紙を使うようにしているのでが、メーカーによって微妙に色合いが変わるような気がする。プリンターが Canon なので、やはり Cannon の用紙がしっくりくるように感じるのだが、まぁ、半分は気のせいというか、思い込みもあるかもしれない(純正品の威力ってやつ)。

「ギャラリーフェイク」27巻を読む。こいつもいつの間にか長い連載になったなぁ。

03年03月02日 20時13分 着信

そういえば、4月に村上春樹の新訳で『ライ麦畑でつかまえて』(サリンジャー)が出るらしい。

『ライ麦畑でつかまえて』は、自分にとっても、色々な思いでが絡んでいる本である。たぶん、ムーミンのような児童向け文学を除いて、高校時代に読み通した原書が Catcher In The rye である。もしかしたら、サローヤンの『人間喜劇』の方が早いかもしれないが。どっちにせよ、高校2年の時のことだな。白水社から出ていた翻訳は読んでからではあったが、自分なりに、原書に触れることで得られる感触(感覚)ってものがあるということを実感させてくれた本だ。単語集がついた教材も出ていたと思うが、それを購入した覚えもある。今でも、部屋の片隅には、高校、そして大学に入ってから購入したサリンジャーのペーパーバックが転がっている。

また、大学に入って、サリンジャー選集が発刊されているのを知り、購入して読んでいた。やっぱ、サリンジャーってのは特別な作家の一人だったのだ。

吉田秋生の『バナナ・フィッシュ』の、バナナ・フィッシュが、サリンジャーの小説からきていることにすぐに気がつくのは、たぶん、自分と同じ世代だろうな。よくわかんないままに、なんとなくサリンジャーは読むべき作家だと思っていた、そういう時期があったんだよな。新潮文庫に入っていた『フラニーとゾイニー』なんてのは、よくわかんないけど、読んでおくべき本だったわけだな。もちろん、それを読んだことで得たものが何も無かったとは思わないが。サリンジャーの連作の主人公たちになっていた兄弟一家なんてのも、なんだか懐かしい。

そういえば、サリンジャー以外に、ロレンス・ダレルとか、ブローディガン(『アメリカの鱒釣り』などなど)のように、高校から大学にかけて読んでいた作家たちの作品というのもなつかしい。大学の合格発表を見て、そのまま下宿を決めてから、京都からの帰りの列車のなかで、ダレルのアレキサンドリア・カルテットの第1部、ジュスティーヌを読んでいたのを思い出す。アレキサンドリア・カルテットは、時間というか機会があれば、もう一度読み直してみたい作品の一つである(個人的には、やはり第4部のクレアが一番好きなんだが)。しかし、あれがついこの前のような気がするのだが、もう20年以上たっているわけだ。それまで生きていた時間より、それから生きていた時間の方が長いなんてねぇ。やれやれ。

03年03月04日 11時04分 着信

チューリングテストに関する覚書26

CMI の中で、チューリングが模倣ゲームの図式を微妙に(だが決定的に?)ずらしてしまった個所というのは、最終定式化を行った Universality of Digital Computer なのだが、デジタルコンピュータの万能性を論じる場面で模倣ゲームを使い、それが、そのまま模倣ゲームとして彼の中では定着したと考えられる。再度、その個所を抜き出しておく。

もしデジタル計算機が十分な早さでこの計算(ある離散状態機械の入出力の対応表をもとにその動作を予測する計算)を実行することができるとしたら、デジタル計算機は、どんな離散状態機械であっても、その真似をすることができるだろう。この場合、模倣ゲームは、対象となる機械(B)と、それを真似しようとするデジタル計算機(A)とによって行われ、質問者は両者を区別することはできないだろう。

この時点で、すでに、チューリングにとっては、模倣ゲームとは、先程確認したような、二人(2つ)のプレイヤーがある属性を巡って駆け引きを行うゲーム、となっている。この時点でのチューリングの議論は、デジタル計算機はどんな離散状態機械であっても原理上は模倣可能であるということを述べることにある。そして、上記の発言で述べられた対象となる機械(B)の位置に、人間(男性)を持ってきても、デジタルコンピュータは模倣できるだろうということを、最終的には述べたいわけである。つまり、チューリングは、少なくとも思考(知性)という人間の営みは離散状態機械とみなせる、ということを主張したい(というか、彼自身は確信していた)のである。

その意味で、上記の文章こそが、いわゆるチューリングテストの原点となるべきものだといえるだろう。CMI を読む限りでは、人間が行う模倣ゲームをコンピュータがうまくこなせる、というストーリーの展開をみせているわけだが、チューリング自身にとって、模倣とは、何にもまして、デジタルコンピュータ(チューリングマシン)の万能性=模倣能力であったわけだ。デジタルコンピュータは、離散状態機械(デジタル機械)であれば、どんなものでもシミュレートできる。であれば、人間の思考(少なくとも論理的なものであれば、真/偽の2値を取る離散的な命題によって組み立てられる)もシミュレートできる、このことこそが、チューリングの主張の根幹にあるものだと言えよう。

そういう点からすれば、CMI での模倣ゲームの大げさな舞台設定は、結局のところ、"Can Degital Computer Think" の中でチューリングが述べていた次の言葉に集約されてしまうと言っても良い。

私は、個人的には、そのようなプログラム、デジタル計算機を脳のように振舞わせられるプログラムが見つかると信じたいのです。たとえば、今世紀(20世紀)の終わりまでには、質問に答えるように計算機をプログラムすると、その答えは、人間が答えたものか計算機が答えたものかを判別するのが極めて難しいものになる、そういうことができるだろうと考えています。

03年03月04日 11時04分 着信

今朝起きてみたら雪が積もっていた。今は薄日も射しているので、雪かきが必要になるほどの雪ではないようだ。このところ春めいた日々が続いていたので、ちょっと逆戻りって感じではある。

このところ経営組織論の答案の採点をしているのだが、けっこう学生たちがちゃんと理解しているというか、ここまで感じ取ったのかぁと感心するものがたまにある。もちろん、講義の中で述べたこと(講義ノートに書いて公開したこと)を継ぎはぎして答案を作り上げている学生がほとんどなのだが(授業中には取り上げなかったことを問うという、応用問題を出題してあったので)、中に、粗削りながらも鋭いところを突いている答案がある。こういう答案に出会えるっての、教育の楽しみというか悦びだよなぁと思う。

昨日の夕食は鮨にしようとうことで、帰りに海鮮アトムの本店に寄って持ち帰りで鮨を握ってもらったのだが、ひな祭りということで、持ち帰りの予約が山のように入っていた。娘の保育園でも、おじいちゃん・おばぁちゃんを招いてのひな祭りの行事があった。昨年はひな人形は飾らなかった(というか買いもしなかった)んだが、今年は、かみさんのひな人形を実家から持ってきて飾ってある。だが、娘は、特に関心を示さない。まぁ、そういうもんか。

デリダの『有限責任会社』を読みはじめた。学生時代に現代思想の増刊号の特集で読んだときにはなんだかわからんかったということしか残らなかったのだが、今回読んでみると、デリダがこだわっていることが結構ストレートに伝わってきて、面白い。コミュニケーションがそもそも前提としている反復=反覆可能性ということ、非在(不在)の問題、そういうことが丹念に論じられていく流れに身を任せる快感すら感じる。翻訳の違いかな?

03年03月05日 13時28分 着信

昨日は大学に行く前に大和屋にコーヒーを買いに行ったのだが、ついに電動ミルを買ってしまった。据置タイプのやつ。これで、水立てコーヒー用も必要な時に自分で引ける。大学では会議など。

妻がインフルエンザで寝込んでしまったので、夕方からは娘の世話などに追われていた。一息ついたところで、デリダの『有限責任会社』やサールの中国の部屋の論文などに目を通す。でも、すぐに寝てしまった。

ゼミの3年生からのメールで、もう内定を出した県内企業があることを知る。おいおい、まだ3月だぜと思うが、就職活動に時期とかそういうのが無くなったんだなぁと改めて思う。

03年03月06日 23時52分 着信

経営組織論の採点が終了。そこそこ書けている学生は多かったが、これは!という答案は昨年よりは少なかったような気がする。もっとも、こちらの出題が、学生たちの考えや感覚をうまく引き出せなかったのかもしれないが。

「ドラゴンボール 完全版」07, 08 「頭文字 D」26 を読む。また、研究費で購入している雑誌が溜まっていたのに目を通し始める。Software Design と NIKKEI DESIGN から。

デリダの『有限責任会社』を読み進めている。デリダのしつこいような、それでいてどこかしらおかしみを感じるサールの対する反論は、やっぱ楽しめる。これを読んでいると、サールってマヌケに思えてしまうのだが、そのまま中国の部屋を述べている "Minds, Brains, and Programs" を読むと、どうも、こいつの言ってることは、どっか強引なんじゃないかという目で読んでしまう。

インフルエンザで寝込んでいる妻が、寝床で、氷室冴子の『なぎさボーイ』、『多恵子ガール』、そして『中里マドンナ』を読んでいる。そういえば、最近、氷室冴子を読んでないなぁ、と思う。そんなに熱心な読者ではないのだが、この3冊のシリーズは、青春小説として、やっぱよくできた作品だと思う。もっとも、「りぼん」がアイビーロマンとかいって陸奥A子、田渕由美子、ちょっと遅れて小椋冬美あたりを月ごと交代で載せていた頃の、あの「青春もの」のパターンなのかもしれないが。OD の頃、塾で中学生に数学を教えていたころ、教え子に氷室冴子の『多恵子ガール』はいいよ、と言ったら、主人公がうだうだと悩んでいるのが好かんとあっさり返されたのを思い出す。彼ら(彼女ら)は、今、どうしているのかな? 今でもコバルト文庫を読んだり(読んでいた頃を思い出したり)するんだろうか?

青春小説というのもへんだけど、橋本治の桃尻娘のシリーズは、もう一度読み直してみたいのだけど(学生に貸したら、返さないままに卒業されてしまった)、今、手に入るのかな?

03年03月08日 10時56分 着信

昨日はサーバのメンテナンスなど。帰りに電器店で『CSS2 スタイルシート大辞典』(佐藤和人)を購入。この手のガイドブックを購入するのは久しぶりである。CSS については、実例が示されてないと分かりにくいなぁと思っていたので(W3C のドキュメントでは)、思いきって買うことにした。テキスト関連の表示方法を確認して、講義ノートなどのレイアウトを、少しでも見やすいものにしたいと考えたからだ。また、このコーナーにもスタイルシートを導入してもよいかなと考えている。

03年03月08日 10時59分 着信

Safari で見たら、このページのアーカイブのリンクを書いてあるテーブルが変に表示されちゃうんだねぇ。やれやれ。まぁ、いいか。

03年03月08日 11時23分 着信

表示が変になるのは、なんのことない、自分のミスだった。タグの閉じ忘れがあって、それでおかしくなってしまっていたのだった。修正しないといけないなぁ。どうせなら、ついでにスタイルシートの導入に踏み切ろうかな。

03年03月09日 16時06分 着信

昨日は公舎の歓送会。

今日は朝から娘の世話。元気に歩き回るようになってきたのはいいのだが、目が離せない。ようやく一息というところ。妻がインフルエンザで寝込んでいたということもあって、このところ、ほとんど、本も読めていない。デリダの『有限責任会社』が面白いのだが、読み流すという本ではないので(中身もついついじっくり読んでしまうものなんだが)、ほんとにゆっくりとしか読み進められない。

今日から F1 である。色々とルール変更もあり、どうなるか。

03年03月11日 08時01分 着信

今日も朝から雪。それも重そうな雪がけっこう降っている。このところ、冬の最後の悪あがきのような天気が続いている。

昨日は成績の入力など。また、ネットで文献探し。もっぱらサールの言語行為論関係のページを読んでいたのだが、デリダとの論争に関するページがアメリカには多い。サールの中国語の部屋とチューリングテストに関するものも少なからずある。

チューリングが主要な登場人物の一人である『ケンブリッジ・クインテット』という小説(?)がある。これはチューリングやスノウ、ホールディン、シュレーディンガー、ヴットゲンシュタインが人工知能の可能性について議論するという架空の対談が書かれたものである。サンタフェ研究所などにも所属しているジョン・L・キャスティが書いたものだが、久しぶりに読み返し始めてみて、チューリングの論文の内容をかなり正確に反映したものになっていることに気がつく。ちょっと本腰入れて読み返そうかと思っている。

ルーマンの『近代の観察』の翻訳が出たようだ。英語版ですでに読んだものではあるが、やはり読んでみたい(訳者が馬場氏のようだし)。

さて、これから明日の入試の監督に備えて金沢へ移動である。本屋には行けるだろう。

03年03月12日 21時45分 着信

今日は後期試験の試験監督を金沢で。昨日は、早めに金沢に行き、香林坊などで買い物。

初めて行く本屋、あるいはめったに行かない本屋の楽しみは、普段、自分が出会わないような本との出会いがあることだ(そういう本屋に行くと、まずは、店内をすべて見て回るようにしているので)。今回の金沢でも、そういう出会いがあった。建築のコーナーに置かれていた『光の教会 安藤忠雄の現場』(平松剛)である。安藤忠雄の設計で「光の教会」(建築に疎い自分でも知っているという有名なもの)を建築する過程のドキュメントである。設計者サイドだけでなく、依頼人や現場の人間など、色々な面を丹念に追った、読み始めたらぐいぐいと引き込まれてしまう本であった。昨日の宿、あるいは今日の時間待ちの間などで、それこそ時間を惜しむように読みふけってしまった。こういう出会いがあるから、本屋回りはやめられない。また、この「モノ」に出会う悦びは、まだ、ネットでは味わえないような気がする。自分が探していたり調べていたりする本に関連する意外な本との出会いはネットでも味わえるのだが、普段の自分なら足を向けないような分野の本との出会いというのは、ネットではないよなぁ。その本を手に取った瞬間に、「ああ、これだぁ」と、それこそ本のほうから誘われているように感じる、あの瞬間がたまらない。

『光の教会』以外には、ルーマンの『近代の観察』、『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』(ドウニ・ゲジ)、『L文学完全読本』(斎藤美奈子編)、そして、これは福井に戻ってバスの待ち時間に寄った勝木書店で購入したのだが『ブックストア』(リン・ティルマン)。あ、そうそう、買いそびれていた『コモンズ』(レッシグ)も購入。まぁ、比較的おとなしい買い物だったかな。

金沢へ向かう列車の中で『ケンブリッジ・クインテット』(ジョン・L・キャスティ)を読み直していたのだが、この本は、チューリングの「計算する機械と知性」、それにサールの中国語の部屋の論文を、巧妙に小説に仕立ててあることを、改めて確認した。チューリングの論文の中の議論が、そのまま登場人物たちの会話となって出てきていたりもする。また、サールの役をヴットゲンシュタインが受け持っていたりする(ヴットゲンシュタインの描き方がやや薄っぺらいような気もする)。論文の読解の中で出会ったチューリングの言葉が、そこここに出てくる(特に最初の3章は、ほぼ、チューリングの論文の内容のままといっても良い内容)。そういう楽しみ方が今回の再読では出来た。チューリング、サールの議論が終わってしまった後の部分は、あまり面白いとは言えなかったのだが。

Tower Records に行って CD も買い込んできた。個人的に、一番の収穫は深町純の Heart of the country かな。インディーズレーベルから出ている関係で、なかなか発売されることに気がつかない。なんだかんだいっても、彼のピアノは好きだ。今、これを書きながら聴いているのだが、予想を裏切らない出来だと思う。最近では、New York All Stars のライブの再発が売れたりしているようだが、深町純の80年代の作品を、是非とも CD で再発して欲しいと思う。特に、『月下の一群』は、ぜひとも。まぁ、アルバム自体が企画モノだけに難しいかとは思うのだが。それに、タイトルは忘れたが、学生時代にレンタルレコード屋で借りて気に入っていたソロの作品(電子ピアノの演奏だった)も聴きたい。New York All Stars のライブを再発するのなら、ついでに、その前にスタジオ録音で作られた Departure in the dark も出して欲しいなぁ。タイトル曲は、Keep のライブ版で演奏されていたが、オリジナル(?)もやっぱ聴きたい。

その他には、Zoot Sims の Cookin! 、Christian McBride Band の Vertical Vision 、Lars Jansson の At Ease 、Ryan Kisor の The Sidewinder 、Maceo Parker の Made By Maceo 、それに the Corrs の Live in Dublin を購入。まずまずの収穫といったところ。

03年03月13日 08時50分 着信

チューリングテストに関する覚書27

チューリングの論文に関する考察は、これでいったん区切りを付ける。そして、チューリングの論文の意訳(超訳?)という作業に取り掛かり、再度、論文自体を読みながら考えていきたいと思う。

その前に、いくつかの疑問点を記しておく。

まず、タイトルの Computing Machinery and Intelligence の Machinery という言葉が、最初からずっと引っ掛かっている。もちろん、普通に訳するなら、「機械」でよい。しかし、論文や他の手稿などでも、具体的な機械を指すときには machine という言葉を使っているのに、なぜ論文のタイトルが machinery になっているのか? 細かいことを気にしすぎなのかもしれないが、machinery と machine という言葉の差異、これを考えると、前者には、からくりとか機関といった、システムを指す(物体ではなく)意味がある。この点を考えると、このタイトルの Computing Machinery とは、単にコンピュータのことを指すのではなく、人間の計算能力をも指していると考えられるのではないか。つまり、このタイトルは、人間の持っている(行っている?) Computing Machinery =計算機関を機械でも実装できること、あるいは、知性の根幹には、実装の物理的形態には関係ない、計算システムがある、そういうことを述べているのではないかということだ。machinery という言葉で、人間と機械とに共通している(少なくとも理論上は)ものを指しているように思われるのである。もちろん、これは、チューリングが論文の中で主張していることを無理やりタイトルにも読み込もうとした解釈ではあるが。

もう一点は、チューリングは「機械は考えることができるか?」という問いに、そのまま答えるというよりも、問いを変形していって、最終的に、「機械は考えることは出来るか」という問いを発する視点(状況、根拠)自体をずらそうとしていたのではないか、ということだ。思考を人間の精神の属性として考える限り「機械は考えることができるか?」という問いは、いつまでも、ナンセンスとして却下されるものになる。そこで、「考える」ということ、思考ということ、それを精神から切り離して用いるのが自然に感じられる状況とはどんなものか、それを述べようとしていたと考えられないだろうか? 手稿では脳を万能チューリングマシンでシミュレートできることを述べていたりするので、チューリングは精神もシミュレート可能(行動主義的な観点からは)と考えていたようではあるが、CMI の中での議論は、最終的には、「考える/思考」というもののあり方(捉え方)を拡張するべきだという議論として読める。人間とは別の形の思考する存在があり得ることを示したということではないのだろうか?

ここで一つの小説(フィクション)を取り上げておく。ジョン・L・キャスティ『ケンブリッジ・クインテット』("The Cambridge Quintet" John L. Casti)である。原著は1998年に出版され、同年に翻訳も新潮社から出ている(藤原正彦・美子訳)。この本は、物理学者の C. P. スノウがケンブリッジにチューリング、ヴィトゲンシュタイン、ホールディング(遺伝学者)、シュレーディンガーをディナーに招き、そこで人工知能の可能性について議論を戦わせるという架空の状況を描いた小説になっている。この小説のチューリングの発言は、基本的には CMI で彼が述べていることを、そのまま発言したようになっている部分も多く、また、前半部分(第一章〜第三章)では、反論自体も CMI で検討されている議論をなぞっている。つまり、この小説は、CMI を小説仕立てにしたものとして読めるのである。また、第四章でヴィトゲンシュタインがヒエログリフ(エジプトの絵文字)の操作という例で反論を述べているのだが、これはサールの中国語の部屋の議論そのままである。そういう意味で、チューリングテストへの関心をもつものにとって、楽しめる小説となっている。なお、この小説のなかでのチューリングテスト(模倣ゲーム)は、人間とコンピュータを相手に質問者が同定を行うという、チューリングの最終的な定式化のもの、つまり、普通に知られているチューリング・テストになっている。

03年03月15日 13時13分 着信

昨日は教務関係の面接など。その後、サーバのメンテナンス。

この3月で定年退職される先生から、昔のデータを取り出せないかという相談を受ける。10年ほど前に98の一太郎4で書いたデータだという。まず、フロッピーが現在のパソコンでは読めない。NEC フォーマットになった 2HD であった。最近では NEC のパソコンでも読めなくなっているとは思わなかった。そこで、研究室に置いてあった古い98のノートパソコンを持ち出して起動し、FD を使ってフロッピーが読めることを確認し、本体のハードディスクにコピーした。DOS で FD を使うなんて久しぶりなので、最初はかなり戸惑ってしまった。でも、作業自体は軽快に処理される。なんか MS-DOS ってのも悪くないよなぁと思う。

『ブックストア』を読了。こだわりの書店をやっていくことは、アメリカでも難しいという現実がよくわかった。でも、なんだか幸せな本屋だったんだろうなぁと。そういえば、作家が自分の作品を読むリーディングというお催しは日本ではないよな。続いて『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』を読み始めたが、こちらも書店が舞台。なんだか本屋づいている。

結婚記念日だったので、夕食は海鮮パスタとサラダにシャンパンで乾杯。

今日は朝から娘の世話。風邪気味だったので医者につれていき、帰ってきてから讃岐うどんのぶっかけをいっしょに食べる。今は昼寝中。ちょっと一息というところである。

03年03月17日 11時03分 着信

昨日は宮崎村の陶芸村に退職される先生への贈り物を買いに行く。焼き物というのも自分には分からないものだと思い込んでいたのだが、陶芸祭りに行ったり、いつもコーヒーを買いに行く大和屋で見たりしているうちに、自分なりに、ある種の感触というか感覚というものが出てきたように感じる。絵画などもそうなのだが、「わからない」と思い込むと損をするなということが、今更のように感じている。「何かを、そのような形/色/質感で、わざわざ作った/描いた人がいる。その『わざわざ』のこだわりがそこには現れている」、そのことを土台として観れば、自分なりに受けとめることができるのだということ、そういうことが、ようやく分かってきたってところか。ルーマンの芸術論を読んでいて「そうだよなぁ」と実感したコアには、そういうものがあるような気がする。

昨夜は芦原温泉の芦泉荘に、妻の両親、妻の祖父母の3家族で宿泊。ゆっくりと温泉に入れた。陶芸村から芦原へは越前海岸を経由して行ったのだが、まぁ、どこもカニの売り出しって感じではあった。もうすぐシーズンも終了だしね。途中で、越前町の「ひもの館」によって、鯵と鰯の開きを購入したのだが、「ひもの館」もカニが中心という感じであった。この時期は、水ガニがうまそうだった。娘が店の人にカニの足を一本もらって、うまそうに食べていたのが、うらやましかった(笑)

『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』を読み続けている。数学史とミステリーを絡めた小説で、面白く読んでいる。ただ、原作者がフランス人のせいか、妙に気取ったせりふ回しとか、登場人物たちの妙なこだわり方(普通は、こういう反応/せりふはでてこないよなぁって感じ)があちこちに感じられる。それが少々鼻にはつくが、面白い小説である。

今日から、チューリングの意訳に取り組む。

03年03月18日 15時55分 着信

『フェルマーの鸚鵡はしゃべらない』を読了。最後は、妙にドタバタしたわりに、おいおいという感じであった。数学史のエピソードなどを織り交ぜてあった部分は楽しく読めたのだが、小説としてのできは、イマイチだと思う。やれやれって感じ。

チューリングの意訳の作業を、このコーナー同様にメールによる投稿で行いたいと考えて、スクリプトを書いていた。CGI やらリストサーバが絡むスクリプトなんで、デバッグがちょっと面倒だった(というか、自分が安易なスクリプトを書いてバグが入ってたんだけど)が、なんとか動き始めた。大げさなタイトルではあるが

異本 「計算する機械と知性について」

ということで作業を行っていくことにした。この雑感とは違って、メールによる投稿が着信するたびに、HTML のページ全体を書き換えていくようにした。このほうが、読むためにアクセスしたときの表示が早いからだ。

TiBook に Mozilla 1.3 をインストール。確かに処理が圧倒的に速くなっている。でも、PPC 版すらなくなってしまったんだな。

丸善に注文してあった『達人に学ぶ Perl/CGI 道場』(小飼弾)が届く。筆者とはUG のオフ会で2度ほどあったことがある。最近では Perl の開発絡みで名前を聞いたりする。ということで、中身は外してないだろうということで読んでみることにした。

03年03月19日 08時58分 着信

昨日の夕食の買い物のついでに、いつものことながら、本屋をのぞいてしまう。ネットなどで話題になっていた『阿修羅ガール』(舞城王太郎)を購入。ついでに、目に留まった『天上の歌 岡潔の生涯』(帯金充利)も購入。『フェルマー…』を読んだところだったので、数学者の伝記ということで手を取ってしまった。さっそく読み始めたのだが、やや岡潔の天才ぶりを美化しようとする記述が多いように思われて、それが白けてしまう。だが、彼の教育問題や宗教への取り組みなど、そうだったのかという発見がある本である。

そういえば、/.J で YahooBB の無線LAN付ルータがデフォルトの設定のままあちこちで動いているということが話題になっていたが、昨夜、TiBook で自宅の AirMac に接続しようとしたら、接続先の中に YBBUser が出てきていた。どうやら公舎の人が YahooBB の ADSL を導入したらしい。なるほどねぇと関心した次第。しかし、住んでいる公舎は局からの距離が長いので ADSL は使い物にならないと聞いていたのだが(サポートエリア外になっていたはず)いつのまにか OK になっていたんだ。実測でどれぐらいの通信速度が出るんだろう? ISDN にしているし、メール程度の処理で十分だと思っているので、ADSL にしようという気持ちはないんだが、ちょっと気になるところである。

今日の午前中はチューリングの意訳作業。午後は教授会と歓送会である。

03年03月20日 23時06分 着信

もっぱらチューリングの訳に取り組んだ一日であった。午前中は「計算する機械と知性について」の作業を行う。その後、Turing Digital Archive にあった手稿の "Can Digital Computer Think?" の翻訳(私訳)をまとめる作業を行う。読解の作業中に大半の訳を行っていたのだが、訳していなかった部分を補って、とりあえず、第1稿は完成である。

あ〜あ、アメリカが戦争を始めちゃったよ。

夕食の買い物にいったついでに寄った本屋で(毎度のパターンだけど)、「火消し屋小町」(逢坂みえこ)の3巻と『三葉虫の謎』(リチャード・フォーティ)を購入。三葉虫の方は、進化がらみの生物学の本。こういうのはついつい手がでてしまうんだよな。

03年03月22日 20時39分 着信

久しぶりに京都に出かける。いつもの床屋に行ってから河原町の Tower Records に行ってケニー・ギャレットの新作を購入。その後で駅前に出てアバンティの本屋へ。アバンティの地下のラーメン屋で腹ごしらえをしたのだが、なかなかうまかった。百年屋とかいうところ。麺が堅めでうまいし、スープもばっちりって感じで、ひさしぶりにラーメンをむさぼり食ったって感じだった。

買いそびれていた『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(金水敏)、『倫理とは何か』(永井均)を購入。本屋をぶらぶらしていて、早川の SF 文庫の棚にきたときに、ギブスンの『ニューロマンサー』が目に付いて、久しぶりに読み返したくなって、『カウント・ゼロ』、『モナリザ・オーバー・ドライブ』の3冊を購入。いずれも学生に貸したら返さないままに卒業されてしまった本である。また、デューンの続編をフランク・ハーバートの息子のブライアン・ハーバートとケヴィン・アンダーソンが書いた『公家アトレイデ』の翻訳が完結していたことに気がついて、3冊をまとめて購入(完結を待って買うつもりだったのだ)。訳者は矢野徹というのがうれしい。しかし、肝心のデューン砂の惑星の方は、第1作の『砂の惑星』はあっても、その後のシリーズは棚には無かった。う〜む。なんかちょっと悲しい。SF をそんなに読むほうではない(というか、ほとんど読まないといった方が正しい)自分が、それでも、おりにふれて読み返している(読み返したくなる)のが、デューンのシリーズだからだ。最初に出会ったのは中学1年の時で、その時は、それなりには面白かったのだが、むしろ、後になってはまったという感じである。手元にある文庫本(最初の3部作の)の表紙が石森章太郎が描いたものだもんな。大学に入って、新作をペーパーバックで読んだりもしたんだった。神皇帝のやつだったかな。いずれにせよ、自分としては思い入れのある作品がデューンなのだ(まぁ、だから、息子たちによる新作にはすぐには手を出さなかったんだけど)。

ということで、明日は、たぶん、早川文庫づけの一日になりそうだ。チューリングもやりたいんだけどね。時間がないぞ。

03年03月23日 14時25分 着信

福井にきて11年が過ぎた。これで、一ヶ所にずっと住んでいたという土地としては、自分にとって一番長い土地になる。これまでは京都の11年(学生−院生−OD)だったから。ただ、あんまり実感としてこの11年という長さを感じなかったりする。確かに、思い返してみると、色々なことがあったのは事実なんだけど。結婚して子供も生まれたわけだし。それでも、まだ、どこか自分の中に、福井を「自分の土地」とは思えない部分がある(もっとも、他のどこかが自分の土地なのかというと、そういうわけではないんだが)。たぶん、それは、自分の「生活」を福井だけでは満たせないということからくるもののような気がする。具体的には、本屋の貧しさが一番大きいかな。もちろん、県全体でも人口が80万人程度のところに、京都や大阪のような本屋が成り立ちえない(商売としてやっていけるはずもない)ことはよくわかっている。資本主義の社会においては、人口(商業圏の人口規模)が、実は、けっこうクリティカルな問題になることは言うまでも無い。千人に一人ぐらいしか買わないような本(一回の刷りの部数が千単位の本)など、いくら返本が可能だからといって、福井の本屋で「出会える」ことを期待するほうが無理というものだ。それが資本主義というものだ。そして、それが哀しいわけだ。今どきの本屋に、仕入れのこだわりとか、店のポリシーを求めても仕方がない。どこに行っても、いくら大型ショッピングセンターの中にあっても、雑誌、漫画、文庫、新書、ベストセラー、それらが並んでいるだけなのは、仕方がないことなんだろう。それが「貧しい」ということだと感じる自分がおかしいのかもしれないが、それでも、どこかで、やりきれないものを感じるのだ。

03年03月24日 20時53分 着信

まぁ、当然のことではあるが、ギブスンにどっぷり。ようやく『モナリザ・オーヴァドライブ』にたどり着いた。集中して、そして連続して読むと、確かに3部作がつながっているのがくっきりと見えてくる。しかし、昨夜はF1があることもすっかり忘れて『カウント・ゼロ』を持ってさっさと布団に入ってしまった。で、夜中に目が覚めたときに、F1があったことを思い出して(とっくに終わってしまっていた時間)、苦笑してしまった。

昨日は、昼の買い物に出たついでに研究室によってサーバのメンテナンスなどを行う。チューリングの Can Degital Computer Think? の私訳のページも公開する。

明日は卒業式。

03年03月27日 00時20分 着信

昨日は卒業式。ゼミ生全員に声を掛け、デジカメで写真を撮ることができた。さっそく iPhoto で整理したりムービーの編集を始める。

『モナリザ・オーヴァドライブ』を読了。3部作一気読みは、なかなか充実していた。

03年03月27日 21時49分 着信

今日はどっぷりとチューリングの意訳作業を行った。意訳とは言いながら、チューリングの原文を訳した文章はかならず折り込むようにして、それに補足の文章を加えていくということにしているので、結果として、丁寧に読んでいく作業を伴う。すると、前に読んだときには気がつかなかった細かなこと、たとえばある単語の冠詞が a になっていて、ある特定のものを指していると読むべきことなどが見えてきたりして、それはそれで面白い。やはり、訳しながら読んで行く作業というのは、それなりに収穫があるものではある。

携帯の調子がいまひとつなので、家電店に行ってみたが、ドコモの機種はほとんど予約受付、つまり持ち帰り不可の状態だったので、機種変更は見送る。まぁ、新学期を控えた春だからしかたがないんだろうな。今の機種をもう少し騙しながら使い続けることにする。カメラやカラー画面あるいは派手な着メロの必要性は全く感じないので、今の機種の機能でじゅうぶんなんだけどな。

Software Design を読んでいたら、情報教育に触れた文章が載っていて、ちょっと考えさせられた。

03年03月29日 21時19分 着信

昨日、買い物のついでに寄った本屋で(毎度のことではあるが)、森博嗣『森博嗣の浮遊研究室』を購入してしまい、今日は一日、これを読んでいた。彼の推理小説は全く読んだことが無いし、読みたいとも思わないが、こういう本には弱いんだよな。日記サイトを読むようなものかな。

アップルルームの seed 流出ソフトの紹介リンクを巡って、あれこれと騒ぎが起こっているようで、WSM にも関連した書き込みがあり、対応にちょっとドタバタした。なんせ、アップルルームなんて知らなかったから。色々な情報の収集を行ったが、どう考えても、サイトの運営者の意識の幼稚さというか、想像力の欠如が問題の核心だと思う。

ただ、このことを取り上げて、ネット社会が云々という意見を述べていた人がいたが、それはおかしいと思う。ネット社会が健全だとか不健全だとか暴力的だとか平和的だとか、そういう議論がナンセンスであることに気がついていないのだろうか? 社会とは、そこにいる人々とは別の、人を含まない、システムである。それに健全性とかなんかとかいう道徳性を語ること自体がナンセンスなのだ。ネットという環境の特異性が、そこに集う人々のある種の傾向を、日常生活とは異なった形で発現させるものである、そのことは否定しないし、そこにこそ、自分は惹かれているわけだ。肉体とか生身の対話とか、そういう「装置」が」外れたときの人間のコミュニケーションの様相が、ダイレクトに現れると考えているから。まぁ、コミュニケーションを意思伝達と信じて疑わない人に分かってもらえるスタンスだとは思わないが。とにかく、ネット社会、あるいは、日常の生身の人間の社会でもいいけど、そういうシステム自体に、健全だとか暴力だとか、そういうこと言っても、な〜んにも意味がないと思える。システムはシステムで、人は含まれないんだよ。人々と社会を混同しちゃいかんよなと思う。

03年03月30日 19時59分 着信

ようやく『浮遊研究室』を読み終わる。かなり分量があったなぁ。けっこう頭を刺激して面白かったという感想である。その後、『トマトとイタリア人』(内田洋子、S.ピエールサンティ)を読む。トマト一つとっても、色々な歴史や文化、あるいは商品社会がからんできていて、面白い。

午後は家族で買い物。娘が歩きたがるようになってきていて、けっこう手間がかかり始める。でも、純粋に歩くということを楽しんでいる姿を見てると、そういう悦びってもうないよなぁとは思う。

買い物の際に本屋にも寄ったのだが、さすがに未読の本を山ほど抱えているので、新しいものを買うことはなかった。とはいえ、新書の何冊かに気が引かれたのは事実。

03年03月31日 18時40分 着信

『システム管理者の眠れない夜 新装改訂版』、『暗黒のシステムインテグレーション』を続けて読む。こういう業界ものにはとかく弱いんだよなぁ。そして、『バーチャル日本語 役割語の謎』へ。予想通り、すっごい刺激的な本である。日本語について新しい観点で見ることを可能にしてくれる。

自分のメールを管理しているメールサーバソフトを EIMS 3.2 へアップデートする。

電球を買いにいったついでに BSD Magazine 15 を購入。OS X 絡みの記事がけっこう載っていたからである。また BSD 入門みたいな記事もあってお買い得という感じではあった。ただ、ムックということもあってか、やや不満が残るものではあった。Net Boot の記事は秀逸だった。4月からの Mac の授業もできれば NetBoot でやりたかったのだが、OS X server を動かすマシンもないしなぁ。

03年04月01日 08時59分 着信

最近、このページへの投稿へは Apple の mail (OS X 付属のヤツ)を使っている。メールを書くエディタ部分(というか、エディタ機能?)が、Eudora なんかよりは使いやすいからだ(Command + 矢印でカーソルが移動とかそういう微妙なことが、書き心地には影響する)。で、先ほど、過去の送信メールの一覧を表示させたら、4日ほどまえに送ったメールだけが違った色で表示されていたので、なんだろ?と思って開いてみたら、「迷惑メールのようです」との表示。う〜ん、送信したメールまで判定するのか?ということや、なんで迷惑メールなんだぁという疑問が。まぁ、迷惑メールの判別機能はまったく当てにしてない(原理的に考えて 100% の判別は無理なんだから、だとしたら、かえって手間がかかるだけじゃないのかと思うので)、それで反撃されたのかしら、と思ったりする。

確かに、迷惑メール(Junk Mail)は、このところ毎日20通は来てるという状況なので、なんだかなぁと思うのは事実だけど(でも、せっせとコレクションしてたりする)。

03年04月02日 07時44分 着信

昨日はチューリングの意訳作業に没頭。読解の時には流し読みしていたデジタル・コンピュータの万能性の部分を訳する。前半終了って感じである。この後は、読解の際にけっこう訳文を作っているので、作業のペースをあげられるかな?

『公家アトレイデ』を再び読み始める。デューンの前史ということであるが、しっかりとデューンをふまえてあるので、すんなりと入っていけ、けっこう楽しんでいる。

03年04月03日 23時32分 着信

やれやれ、『公家アトレイデ』を読み上げた勢いで、『砂の惑星』まで読み返してしまった。ちゃんと違和感なく読み続けられたというあたり、『公家アトレイデ』が良くできているなと、あらためて関心。

父親がカンボジアのアンコールワットで骨折して、タイの病院に入院。先ほど電話で話した様子では元気そうであった。

卒業式の写真やムービーの整理が終わる。あとは CD-R に焼いてゼミ生に送るだけである。

03年04月05日 23時05分 着信

メールサーバが珍しくハングアップしていたようで、メールがうまく流れていなかった。どうやら停電があったようである。ひさしぶりに夜に研究室に駆けつけてリスタートの作業(サーバ起動前にはディスクのチェックなども当然のように行って)をする羽目になる。大学のリモートアクセスサーバがおかしくて接続できないものだと思い込んでいたので、気がつくのが遅れた。しかし、こういうトラブルの時、ターミナルをあけて ping を打ったりするのがすぐできる OS X は確かに便利ではある。

昨日は、退職された先生のパソコンの買い物につきあった。Windows のノート型を希望ということだったので、カタログを色々と見ていたのだが、結局、NEC のがよいのではないかということになった。これといって特徴があるわけではないのだが、無難にまとまっているという感じであった。

昨日、卒業生に写真などを収めた CD-R を発送した。今日には届いたようでメールが来ていた。

『レヴィナス 何のために生きるのか』(小泉義之)を読み始める。彼のドゥルーズ論にも出ていた生命へのまなざしが刺激的である。

03年04月06日 19時56分 着信

昨夜は『レヴィナス』を読み上げてから、デリダの『フィシュ』に取り掛かる。

住んでいる公舎の共用電気系統がおかしくなった(おそらくブレーカーが切れてる)ため、朝から TV が見られない状態になる。分配器(&ブースター)の電気が供給されなくなったためだ。普段、そんなに TV を見るほうではないのだが、それでも全く見られないとなると、さすがにちょっと調子が狂う。「鉄腕 DASH」のスペシャルは見たかったんだけどなぁ。そういや今夜は F1 の中継もあったんだった。もっとも深夜の生中継なんで、とてもじゃないが生では見てられないのではあるが。それに昼間は MOTO GP の開幕戦までやってたじゃないか… てなかんじで、見られないとなると気になってしまうものではある。

車のスノータイヤをノーマルに交換する。ノーマルがけっこうすり減ってきてるんだが、今年いっぱいぐらいで車を買い替える予定なので、タイヤを買い替えるかどうか、微妙なところではある。長距離の移動は妻のスパシオを使うことになるので、シビックは自分が普段乗るだけだしなぁ。タイヤの交換後、ちょっと買い物へ行ったのだが、グリップの感触なんかが違っているのが自分でもわかる。

チューリングの意訳の作業を行う。神学的な議論の部分など、やっぱ言葉を選んでいくのが難しい。なかなか納得のいく文章にならないものである。一通り訳し終わったら、丹念に手を入れる必要があるなぁ。こんなことに時間をかけていて何になるんだという思いがよぎったりするが、それでも、自分がやりたいし、やっていて楽しいんだから、それでいいじゃないかと思う。このワクワクする感じが、やっぱコアだと思うのだ、研究にせよ何にせよ。

03年04月08日 08時34分 着信

昨日はオリエンテーションの打ち合わせなど。カリキュラムの改革や新しい制度の導入によって、いささか混乱気味ではある。やれやれ。

ゼミ生に送ったメール:
おはよう。田中です。昨日の電話で言ってた組織論のことだけど、考えたら、何も難しい話をしなくても、あなたならわかることがあるのに気がつきました。それは Jazz です。人間の組織のあり方の一つの理想的なモデルが、Jazz の演奏だということ(組織論の問題は Jazz とアメフトですべて分かるってのが僕の持論だったりする)。一人ひとりが、自分のパートを、自分の能力の限りを尽くして受け持つ。と同時に、他の人たちの演奏に全身で耳を傾けて、他の人たちがその場その場で生み出していく演奏に自分も音で応えていく。一人ひとりが自分なりにやっていこうとしながらも、徹底的に対話的な(他人に耳を傾ける)姿勢を保つことによって、全体が創造的で刺激的な音楽を生み出す。これこそが Jazz なわけで、それは人間の組織のあり方の一つの理想的な形だと思う。一人ひとりが自分の個性を発揮しつつも、対話という姿勢を保つことで、そこから新しいものを生み出すってわけやね。ということで、今度組織論の話をしなくちゃいけなくなったら、「組織論の極意は Jazz にある!」と断言しちゃってください(笑) 自分らしさを他人とのコミュニケーションや協働の「中で」(ここがポイント)発揮しようとすることで、創造が可能になる、ってことです。

03年04月10日 08時37分 着信

8日は学生のガイダンス。50分程度の話とはいえ、3つをこなすとさすがに疲れた。それに講義をしばらくやってなかったので、のどにもちょっときたという感じであった。大講義室であろうとマイクを使わずに地声で話すことにしているので、まぁ、余計にしんどかったってのはあるな。

昨日は学生の就職活動のサポート。履歴書やエントリーシートの文章の添削やまとめ方の指導。ゼミの学生の就職活動のサポートとして自分に出来ることはその程度のことではある。文章を書き慣れていない彼らの言いたいことや表現したいことをヒアリングして、それをどのような言葉にしたらいいのかを指導する。

03年04月11日 16時46分 着信

このところ、ずっと『倫理とは何か』(永井均)を読んでいる。来週から始まる哲学の非常勤の授業で、今年度は倫理についてもう少し掘り下げた話をしようと思っていたところに永井が書いた倫理の本ということで買って読み始めたところ、これがなかなか面白い。オーソドックスな感じの倫理思想の講義と、それを対話で検討するという構成になっているのだが、知識と考え方の両方で得るものが多い。

チューリングの意訳の数学の議論の部分の作業を行う。やはり平易な日本語にしていくのは難しい。また、自分自身がよくわかっていない内容の議論なので言い換えもままならないというもどかしさもある。ここの翻訳の準備として、ここしばらくネットで計算理論(情報科学)のページを色々と読んでいたのだが、やはり付け焼き刃って感じはぬぐえないなぁ。そういう反省もあって、今日の買い物の時には『中国人郵便配達問題=コンピュータサイエンス最大の難関』(西野哲朗)を買ってしまう。

午後から研究室へいってサーバのメンテナンスや書類の整理。

で、先ほど書いたみたいに、夕食の買い物に出かけて、例のごとく、本屋で買い物までしてしまった。他に買ったのは「妖魅変生夜話 3」(岡野玲子)、『陰陽師 太極ノ巻』(夢枕漠)、『それでもSEになりたいか』(葵沢速人)。漫画、陰陽師、業界ものと、ツボにはまったってとこかな。

桜がちょうど見ごろになっているのだが、午後から風が強くなり雨がぱらつき始めている。花散らしってところか。大学の周囲に植わっている桜もきれいだ。開学当初は桜の木であることすら分からない程度の貧弱なものだったんだがな。まぁ、11年もたてば、景色だって変わってくるわな。

03年04月12日 14時43分 着信

昨夜は『陰陽師』を読む。今日の午前中は『それでも SE になりたいか』を読み上げる。で、夕食の買い物(このところずっと晩ご飯の買い物と調理は自分の役目だったりするので)を早めに済ませて、チューリングの作業を行うつもりだったのだが、買い物に出かけて妻の雑誌を買おうとしたら、村上春樹の翻訳による『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が出ていた。ということで、今日はこれで決まり。

村上春樹で、サリンジャーで、おまけに The Catcher In The Rye (ライ麦畑でつかまえて)だ。何はともあれ、何はさておき、これを読まずして何をするんだ、というところである。

03年04月13日 18時52分 着信

昨夜はどっぷりと『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読みふける。途中で寝てしまったのだが、夜中に目が覚めてしまった時にも読み続け、読み終わった(そのせいで、今日は一日、なんとなくリズムが狂っている感じだったのだが)。ずいぶんと読んでいなかったので、こういう話があったんだという感じで、ほとんど新しく読んでいるのに近かったのだが、所々で記憶に残っていた場面とか表現に出会い、なんか「やぁ」って感じでもあった。自意識が台風のように哀しく?疾走していくのに付き合うという、けっこうヘビーな本ではあるが、やはり名作だなぁと改めて思う。こういう本に高校時代に出会えたこと、そして今村上春樹の訳で読めたこと、これは自分にとってラッキーだったと感じる。

午前中は布団でごろごろしながら『中国人郵便配達問題…』を読んだりする。

昼過ぎに、選挙に行き(知事選と県議選)、夕食の買い物に出かけて(今夜は昨日のモグモグCOMBOで見た春キャベツのミルフィーユを作るのだ)、帰ってきてからはチューリングの意訳作業など。もてぎのインディレーシングの中継を観たりした。かつて CART にいた連中は、今、Indy の方に移ってるのに気がつく。アル・アンサー Jr の名前が懐かしかった。分裂前のインディーを NHK BS で見出した頃は、アル・アンサーは強かったもんなぁ。マイケル・アンドレッティが、次回のインディ500で引退とのことにも、ちょっとしみじみ。そんなことを思いながらレースを観てたが、途中でやめてチューリングの訳に取り組む。

チューリングの文章は、余分な言葉/表現をできる限り削ったようなものになっているので(まるで記憶容量の限界を気にしながら書いたプログラムみたいな感じ)、そのまま訳していったのでは、滑らかに読んでいけるものにはならないし、冠詞とか代名詞の意味をしっかりおさえないと、軽く読んじゃうと「なんでここでそんなこというの?」って戸惑ってしまうことが多い。今日のところは、ジェファーソンのリスター記念講演が出てくる自意識に関する議論の部分をこなす。

03年04月16日 10時11分 着信

授業が始まった。

14日は今年度から開講することになった情報処理D、Mac 講座の1回目。開店休業になるかなと予想していたのだが、10名の応募があった。マシンが5台しか用意できないので、仕方なく5人に絞ることにした。きちんと使い方をマスターしてもらうためには、一人1台で、実際に操作してもらいながら覚えてもらうのがよいだろうと思う。もちろん、Mac とか OS に関する講義も織り交ぜる予定ではあるが。

15日は外書購読とゼミの初日。どちらも参加学生の写真撮影を行ったりする。ゼミの方では初回恒例の自分を食べ物に喩えて話すという課題をやってもらう。来週の課題は、今回初めて試みる、ストーリーの創作の課題。はたしてどうなるか?

金曜日の情報システムの講義に備えて、山形の『コンピュータのきもち』を読み直す。また、日経バイトで特集されていた、パソコンの価格についての記事も再読。今年の一回目は、コンピュータを構成しているパーツと価格の話から入ろうかと考えている。

春休みのうちにやっておきたかったけど、結局できなかったこと、読めなかった本が、いっぱいだぁ… やれやれ

03年04月18日 14時11分 着信

昨日は看護学校の哲学の今年度最初の授業。恒例の、各自、自分を食べ物にたとえて語るというのをやってもらう。今年度は、読み方が分からない名前の学生が増えたなぁという印象。その後、大学に戻ったところで、ゼミの4年生の就職のサポート。エントリーシートなどの自己PR欄の書き方の指導などを行う。文章を書き慣れていないため、なにが言いたいのか、なにを伝えたいのか、いまひとつ分かりにくい(というか、自分の頭の中で整理できてない)文章を書いてくるので、ヒアリングしながら書き直してやる。なんか、卒論指導の続きをやってるみたいな感じ。

今日の情報システムの授業開始に合わせて、講義ノートの改定作業にかかる。今日はイントロなのだが、パソコンの価格の話なんかを軽くしようかと思う。

夏のような天気が2日ばかり続いている。

03年04月19日 17時42分 着信

昨日の情報システムの授業は、予想以上に受講者が多いようで、教室一杯で立ち見が出ていた。専門科目で重複するものがないためらしい。とりあえず、来週から大きな教室へと変更することにした。もっとも、出席をいっさい取らないので、そのうちに人数は減るとは思うのだが。立ち見の学生が目に入ると、おちついて講義する気になれず、イントロダクションと、パソコンの値段の話をさっさと済ませて、早めに終了した。このへんは、自分でも気が小さいなぁと思う。

丸善に注文していた『世界は常識と想像力でできている』(仲田誠)が届いたので読み始める。世界は「あること」と「あるべきこと」という2層でできているという視点から、リアリティの問題などを論じた本である。けっこう面白い。

今日は研究室でサーバのメンテナンスと、月曜日の Mac 講座の準備。TiBook 5台を、すべて最新の状況にアップデートし、授業用のアカウントを作る。ソフトウェア・アップデートは簡単で便利なのだが、システムのアップデートなどは時間がかかるなぁ。なんだかんだで、ようやく準備は終了である。1台だけ OS X 10.1 のままになっていたマシンがあったのだが、触ってみると無茶苦茶遅かった。やっぱ 10.2 になってパフォーマンスは改善されていることを実感。これらのマシンを、受講生一人に1台割り当て、基本的な操作方法などを教えたら、好きにさせようと思っている。

03年04月22日 10時02分 着信

昨日は情報処理D mac 講座の実質的な1回目の授業。とりあえず Mac の感触みたいなものを分かってもらうように、各自で mac に触ってもらったり、自分のアカウントの作成を行ってもらう。今週になって申し込みができるかとやってきた学生が何人かいたところをみると、Mac に関する授業を受けてみたいと感じた学生がそれなりにいるみたいだ。

『世界は常識と想像力でできている』を読んでいるのだが、IT バブルの批判が中心の話題になってくると、けっこう陳腐な議論に終始していて、イマイチである。IT を「あること」の世界、生活世界を「あるべきこと」の世界、として、後者から前者を「還元論」だとか「部分知」だとか批判するわけだが(ハーバマスの議論の俗流って感じ)、そもそも、そうした IT に関する見方(や当時の期待)が「あるべきこと」の次元の話であることを見ていない。ちょっとでも、コンピュータに向かい合いプログラムの一つも書いたり、ネットワークやルータの設定でもやったことがあれば、IT バブルの頃に高らかに謳われていた IT なるものが、実際の情報技術の次元での話といかに乖離したものであるかはわかるはずである。情報技術だって「モノ」であり、その「モノ」は、カントの物自体ではないが、こちらの思惑を裏切り/すり抜け/悩ませる、精神を襲う物質性をもったものである。そういう感触を知らない人間がきれい事を言っている、それが IT バブルだとしたら、同じ構図が『世界は…』の仲田氏にも当てはまるように思える。彼がどれくらいプログラマの体験を持っているのか知らないが、なんていうか、「こいつはしょせんアプリケーションをちょいと使ってるくらいでパソコンを使ってるつもりなんだろ」という気がするというか、そういう観念論的(モノとしてのコンピュータと接した体験が無いという意味で)な批評家の匂いがする。こういうの、多いんだよな。

03年04月22日 20時56分 着信

ゼミと外書の日。外書の授業ではモニターを持っていって TiBook をつないで、Python を実際に走らせて見せたりする。プログラミングに関することは、自分でも言いたいことが結構あったりするので、思っていたよりはテキストは進まなかった。でも、いいことが書いてあるなぁと思ったりしながら授業を進めていた。もっとも、学生たちは、次々と出てくるコンピュータ用語(プログラミング関係の用語)に振り回されているという感じではあった。

ゼミでは、ストーリー構築の演習。同級生の男女二人の別れ話の場面を中心に、キャラクターの設定(創造)や、セリフなどを考えてもらうという、これまでにない課題をやってもらう。各人各様の面白いものが出てきていた。妙にディテールが細かかったり、性格の設定がリアル/あるいはステレオタイプだとか、色々あって面白かった。次回は、GW をはさむことになるので、毎年恒例の、新書を一冊買ってきて紹介するという課題である。

『ストレス知らずの対話術』(齋藤孝)を読んでいる。ストレス無しにコミュニケーションを行うためのハウツー本ではあるが、そこに書かれていることを「なぜそうなのか?」という観点から、ルーマンのコミュニケーション論をもとに考えるという、ちょっと屈折した読みをしている。改めて、コミュニケーションとは「間で起きる出来事」であって、受け手がどのような差異に反応するのかが重要なのだということを確認できたように思う。ハウツー本の原理を自分なりに考えるという読みはけっこう面白いので、そういうこともあって、新書にはついつい手を出してしまうわけである。

自分にとって手放せないソフトの一つが Inspiration なのだが、これの OS X 版のオリジナルのバージョン(アメリカで販売されているもの)の Trial version を落としてきて試してみる。メニューが英語である点などは、かえってすっきりしていていいのだが、肝心の文字入力が日本語には対応していない。インライン入力ができない、全角文字を消すには delete を2回押す必要があるなど、割り切ってしまえば使えなくもないのだろうが、実際はストレスが溜まりそうなもの。やっぱ日本でのサポートが無くなったのは哀しいよなぁ。それと、このソフトの持っている真価がいまひとつ評価されていないってのも(少なくとも日本では)あるんだろうな。IdeaStorm と Inspiartion という、自分にとってこれだけは手放せないというソフトのどちらもが OS X には対応しない(移行しない)ってのは、少なくとも、今のまま MacOS 中心でやっていく大きな理由になる。G3 400MHz で MacOS 9.2.2 であれば、少なくともストレス無く作業ができるわけで、そういう意味で、自分に必要なものは何かを見極めて、それを使い込んでいくということである。そういえば、『ストレス知らずの対話術』の中で大げさに言われているマッピング・コミュニケーションの方法ってのも、ようは Inspiration のダイアグラム(このモードでしか使わないんだが)を使って、って話だよなぁと思う。

かつてのゼミ生から久しぶりに連絡があったと思ったら、ガソリンチケットの購入のお願いだったりする。まぁ、そういうもんだろうね。

03年04月24日 22時53分 着信

看護学校の哲学の講義の日。コミュニケーション論の前半部分を講義。「伝わる」という体験はどういうことかに焦点を絞って話した。思っていた以上にスッキリと話が展開したように感じる。ああ、そうか、こう言えばよかったんだなという、自分なりの手ごたえを感じた。もっとも、学生たちにはどうたったのかは、ちょっと分からないけど。次回は「分かる」という体験に焦点を絞って、コミュニケーションの3要素などを講義する予定。特に「理解」に焦点を当てるつもりだ。

大学に戻ってから経済研究所の産業ビジョンに関する委員会へ顔を出す。

ふと思い立って、研究室に置いてあったベージュの Mac Plus を起動してみた。外付けフロッピーポートから電源を取るポータブルハードディスク(ヤノ電器の 40MB のやつ)をつないで電源を入れてみた。最初は、内蔵のリチウムが切れていたためか起動しなかったが、リチウム電池をゴシゴシこすったりして再度試みると、見事に起動した。System 6.0.8 である。ああ、こうだったよなぁとちょっと感慨深いものがあった。HyperCard を立ち上げて、メッセージボックスからコマンドを打ち込んだりしてみたのだが、けっこう忘れているもので、エラーになりまくりではあった。MacPaint なんかも動かしてみて、ちょっとしみじみしたのであった。しかし、メモリが4M で HD が 40M おまけに CPU は 8MHz で、それでもこの程度は動くんだよな。これで大阪府の研究所の客員研究員をやってころは、統計の処理とか、報告書の原稿書きをやってたんだよなぁ。

「どっちの料理ショー」の次回の予告でネギ焼きを目にしたら、猛烈に食べたくなった。福井はお好み焼きの店がやっぱ関西よりは少ないように思うし、ネギ焼きやベタ焼きをやってるところは本当に少ないという気がする。大学院から OD の頃、下宿の近くのお好み焼き屋にはけっこう行ってたもんな。ベタ焼きとかネギ焼きもよく食べていたもんな。

03年04月25日 22時12分 着信

昨夜は寝床で『Hoot ホー』(カール・ハイアセン)を一気に読み上げる。少年向け小説ってことで読みやすいというものあったが、なかなか読ませる展開の小説であった。例によって夕食の買い物ついでによった本屋で買ってしまった本である。『立花隆秘書日記』(佐々木千賀子)、「ブラックジャックによろしく」の5巻、それにマイクル・クライトンの新作などを買ってしまった。今朝から『立花隆秘書日記』を読み始めている。

今日は情報システムの講義。今日から大講義室に教室変更。大講義室で講義するのは久しぶりなので、ちょっと調子が出ない部分はあった。視線がやっぱ普通の教室とは違うし(後ろの方に座った学生からは見下ろされることになるし)、広い分だけ声を出さないといけないし。とはいえ、授業開始から2週目にはいったので、講義をしても咽がつらくなることはなくなった。今日は気温が高めということもあったがけっこう汗をかいた。

この週末は松山に帰省する予定ということなどもあって、サーバのメンテナンスを行う時間がとれそうもなかったので、とりあえずサーバのリスタートだけは行っておく。リスタートする必要はないはずなのだが、1週間に1度はメンテナンスでリスタートしており、なんていうかおまじないみたいなもんである。Mac ユーザーとして染みついてしまった習性とでもいうべきか。

夕食は妻の両親と共に、自宅で鮨を食べる。

チューリングの意訳作業を少し行う。授業が始まると、さすがに時間がとれないし、やるぞぉという気分になりにくかったりする。セクションの途中で区切りをつける。

03年05月01日 09時26分 着信

27日の日曜日から松山に帰省していた。娘を連れての初めての帰省である。27日は小浜のマリンプラザに一泊。海沿いの静かなところであった。翌日は、小浜西のインターから開通したばっかりの高速にのって、松山まで。新しい高速道路は気持ちよかったが、山の中ばかりで景色はいまひとつであった。夕方には松山に。妹夫婦も来る予定だったのだが、息子が急に熱を出してこれなくなったとの連絡。松山の実家では、娘は最初のうちはおとなしかったが、そのうち歩き回っていた。29日の夜は道後温泉の鮒屋に泊まる。ゆっくりと温泉に入って食事。そして、30日は松山から福井へと一気に走って帰ってきた。さすがに運転は疲れた。旅行中にマイクル・クライトンの『プレイ』は読み終わる。帰りにリカーワールド華によってワインを買ったのだが(ゆっくりとワインでも飲んでと思ったわけ)、このワインが無茶苦茶痛んでいて、とても飲めたものではなかった。やっぱ安いワインの品質管理はいい加減なのかなぁ。

まぁ、そんなこんなで、疲れたけれど、楽しかった帰省ではあった。

今日は看護学校の哲学の授業。明日は情報システムの講義。GW の間ではあるが、平日なので講義をすることにした。学生は少ないかもしれないなぁ。

03年05月02日 12時16分 着信

昨日は看護学校の哲学の講義。コミュニケーション論の2回目。「わかる」ということに焦点を当てて、差異を関知するということについて論じる。ようやくスムーズに講義が展開できるようになってきた。

研究室に戻って4年生のゼミなど。また、TiBook の iTune や QuickTime のアップデートも行う。

03年05月04日 08時16分 着信

金曜日は情報システムの講義。ハードウェアの概略だったのだが、今年度から半導体ディスク(メモリカード)の説明も含めるようにした。デジカメや携帯を中心に普及しているからである。大講義室での講義に、まだ自分でもすこし戸惑っているというか、本調子ではないなぁという感じである。

TiBook に ATOK15 をインストール。やはり変換効率は素晴らしいものがある。長年つきあってきた EGBridge の場合、ユーザー辞書のこととか、変換の微妙な癖までわかってるとか、そういうこともあって馴染んではいるのだが、ATOK もさすがという気がする。といいながらも、遅ればせながら EGBridge と EGWord のアップデートを申し込んだりした。

昨日は会議室のアーカイブの再編成に取りかかった。コメントができなくなった発言のページを、投稿年ごとのフォルダーに分け、これまでの URL でアクセスしてきた場合にはリダイレクトがかかるように RAW ファイルを作成し(といっても、新しい場所へファイルをコピーした後、古いファイルを RAW! に書き換えるだけの話なんだが)、とりあえずの移動は完了。しかし、AppleScript での処理に時間がかかること! 思わずハードディスクを取り外してG3 につないで処理しようかと思った。不要なトラブルが起こるのは避けたいので踏みとどまったが、しかし、メンテナンスに時間がかかるのはなんとかしたいなぁとは思う。

自宅では Software Design や日経 Windows Pro など、雑誌を読んでいた。

03年05月04日 19時33分 着信

NIKKEI DESIGN 、日経Internet Solution、日経システム構築など、雑誌を続けざまに読む。この3紙は比較的面白いと思う。だが、やっぱ、一番刺激を受けるのは NIKKEI DESIGN である。何がどうというのは説明できないのだが、ビンビンくるものがある。

サイトの画像サーバ&検索エンジンを再構築する予定だったのだが、昨日のページ大移動の影響か、検索エンジンがずっと処理中の状態が続いていたので、今日の作業は諦めた。

久しぶりにチューリングの意訳の作業。膝の上のキーボードにすっかり体が馴染んでいることを実感。あぐらをかいて膝の間に TiBook を置いて作業するというスタイルが、なんだか自分にとって自然なモノになっている。う〜む。後はこの Fucking JIS Keyboard だけなんだけどな。こういつが ASCII 配列になったらなぁ。そういうことを考えていると、ふと、PowerBook G4 を英語版キーボードにして AppleStore で購入するっていうのもいいよなぁと思ってしまうのであった。

03年05月06日 12時13分 着信

昨日はごろごろと家で休日を過ごす。チューリングの意訳をしたり、『砂漠の神皇帝』を再読したり。

WebSTAR の RAW! ファイルで、301 Moved Permanently をステータスとして返すものを試してみたら、最近のブラウザはちゃんと指定されたロケーションにアクセスし直すことが判明。以前は 302 にしか反応しなかったように覚えているのだが、いつのまにか、ちゃんと対応していたらしい。

ということで、朝、研究室に来てから(8時半に研究室に来ちゃうような生活をするようになったんだねぇ)、会議に出ている間に、先日のアーカイブの移動の際に作成した大量の RAW! ファイルを、すべて 301 Moved Permanently に書き換えるスクリプトを走らせた。

また、サーチエンジンの Phantom のデータのうち、古いほうのディレクトのページのものはすべて削除の指示を出したのだが、さすがに 6000 近くあるページのデータだけに、削除の処理を延々とやっている。まぁ、それでも落ちないのはエンジンに使ってある 4D がよいからなんだろうな。

これから、午後は外書とゼミである。

ふらふらと立ち寄った Amazon で廃虚関連の写真集を3冊ほど購入してしまう。

03年05月09日 08時46分 着信

水曜日は今年度最初の教務会議。帰りが遅くなると思ったので、午前中に買い物に出かけておいてから大学へ。

昨日は看護学校の哲学の講義。コミュニケーション論の3回目。3回に分けて講義したのは今年度が初めてだったが、自分としては、けっこうスムーズに展開できたように思う。午前中は Inspiration で講義ノートを作っていたが、やっぱいいソフトだよな。哲学の授業ノートは Inspiration に限るなぁと実感。OS X の日本語版が出る予定がなさそうなのは、ちょっと残念。

研究室に戻ってから、卒業生の訪問。ガソリンチケットを購入したのだが、仕事の愚痴など聞く。

『廃墟遊戯』(小林伸一郎)が届いた。ちょっと抒情的過ぎるような気もするが、写真は刺激的で楽しめた。廃墟ものはあと2冊届く予定なので、楽しみ。

03年05月10日 20時26分 着信

昨日は情報システムの講義。OS やファイルの互換性についてざっと講義する。PDF とか XML の話も昨年までよりは多めに話す。

今日の午前中はチューリングの意訳に取り組む。エイダに関する部分だったので、補足的な文章がたくさん混じってしまった。全体としてかなりの分量になってきている。

午後から研究室に出かけてサーバのメンテナンスや月曜日の授業に備えて授業用の iBook の整備など。システムのアップデートなどを行うが、さすがに5台同時に 10Base-T の回線にぶら下がるときついものがあった。ケーブルの不良などもあって、おもわぬ時間がかかり、当初予定していた検索エンジンの再構築には手を出せなかった。サイトの管理に思い切り時間をかけたいのだが、なかなか事情が許してくれない今日この頃である。

午前中のうちに近くのショッピングセンターに夕食の買い物に出かけたのだが、その際に、例によって本屋によって何冊か購入。講談社選書メチエから『日本語に主語はいらない』(金谷武洋)、『地図の想像力』(若林幹夫)の2冊。それに NHK ブックスの新刊から『ジンメル・つながりの哲学』(管野仁)、『自由を考える』(東浩紀・大澤真幸)である。『日本語に主語はいらない』からさっそく読み始めることにする。

03年05月13日 08時01分 着信

昨日は Mac の授業。2週間ぶりでログインのアカウント名を間違う学生も。Finder の基本的操作や、言語設定や拡張子表示のオプションによるファイル/フォルダ名の見え方の違いを説明。ネットワークにうまく接続できない機種があったので、ネットワーク関連の説明は次回へ回す。自宅で使っていたハブを使っているのだが、どうやらそれがトラブルの原因のようだ。すべてのマシンを研究室のスイッチング・ハブに直結するように変更することにきめる。

で、ケーブルを購入するために、帰りに家電量販店へ。そこで『CODE コードから見たコンピュータのからくり』(Charles Petzold)を購入。手に取ってみたら、バイナリのロジック回路の説明などを丹念に行っている本のようだったので、おもわず購入してしまう。中学生の時に、アマチュア無線の雑誌の CQ で、マイコン入門として TTL によるロジック回路の解説の記事を読み、マイコンって面白そうだと思ったのを思い出す。TK-80 がマイコンブームを起こしていたころだ。まだ薄かった I/O とかRAM という雑誌もあったな、そういうのを買って読んだり、CQ の別冊として出ていた(んだと思う)マイコンに関する解説書を一生懸命読んでいた。そんなことを思いながら『CODE』を読み始めた。

EGWord & EGBridge のアップデートが届いたのでインストール。このところ ATOK だったのだが、EGBridge に戻す。やっぱ馴染んでいる感じがする。まぁ、気のせいかもしれないが。

携帯の方へ、話題(?)の勝手に料金請求のメールが届く。自分宛に届くのは初めてなので、そうかぁ、これかぁ、と珍しいものが手に入ったなぁという感じ。さっそく普段のアドレスの方へも転送して、Junk Mail コレクションにも追加。ちなみに、メールの内容は:

送信者 大和商事
この度、アダルトサイト運営業者より貴方の料金未納の債権を譲渡しました。支払期日5月15日までに入金して下さい。支払い期日までに入金確認なき場合は登録情報および個人情報を含めて私共から各地域の債権関連業者及び最寄りの関連事務所へ債権譲渡を致します。最終的に勤務先、自宅などに訪問をします。その際上記の合計支払額に交通費と人件費を加算し請求します。振込名は携帯番号を入力。 合計支払金額:17860円 運営業者: KTTI.com振込先:東京三菱銀行:天満支店  口座番号:普)0790307 名義:トヨダ シンイチ

…こういうの、やっぱ引っ掛かる人もいるんだろうなぁ。さっそく情報システムの講義のネタにしようと決める。

03年05月13日 08時50分 着信

そうそう、『日本語に主語はいらない』(金谷武洋)は予想通りの刺激的な日本語論の本であった。ようやく自分の中で日本語の文法がすっきりとしたという感じがする。有名な三上の「象は鼻が長い」の話も分かって、収穫の多い本であった。このところ日本語論の本が増えてきているような気がするが、こういう本に出会えるのであればブームも悪くない(もっとも日本語ブームとは無関係に出版された本のようではあるが)。岩波が出しているシリーズの役割語のやつと新語のやつ、それにこの本は、自分の日本語に対する見方を整理してくれたり、これまでなんとなく引っ掛かっていたことをすっきりさせてくれたという意味で、良い本だった。

日曜日に買い物に行った際に、久しぶりに CD 屋に行って CD を購入。

  • Right In My Soul (Candy Dulfer)
  • Bridge Over Troubled Water (Hubert Laws)
  • Misty (Manhattan trinity)
  • 1, 2, To The Base (Stanley Clarke)
  • Can't Help Falling Love (Cello Accoustics)

日本企画のものが多いかな。Candy Dulfer と Stanley Clarke の新作を買うのが目的だったのだが、それ以外のものも買ってしまったのであった。Candy Dulfer の新作は、自分としては、イマイチという感じ。もっと、ストレートに吹きまくる(歌いまくる)演奏の方が好みなんだよな。

今日は午後から外書とゼミ。午前中は、買った CD を聞きながらチューリングの意訳に取り組むつもり。

03年05月14日 08時07分 着信

昨日は外書とゼミ。外書はちょっとした言語論みたいな部分であった。ゼミでは毎年恒例(といってもゼミ生にとっては初めてになるんだけど)の家族、友人、恋人を喩えてみるという課題:

問:つぎの[  ]に、語群から語を選んであてはめ、文章を作れ、

  1. :私にとって、家族とは[   ]のようなものである。なぜなら(以下は自分で)
  2. :私にとって、友人とは[   ]のようなものである。なぜなら(以下は自分で)
  3. :私にとって、恋人とは[   ]のようなものである。なぜなら(以下は自分で)

語群:ラーメン、パソコン、バス、大学、新聞、アザラシ

たまちゃん騒ぎがあったということで、今年は語群の中にアザラシをいれてみた。この課題を与えて、まず最初に全員に順に発表させておいて、次に、自分が使わなかった語群(残り)をつかって再度考えさせて発表させるという2ラウンドで行う(各語は1度しか使えないとする)。今年もなかなか面白いもの、切り口が鋭かったり鮮やかなものがあった。

暑くなったり肌寒かったり、気候の変化が激しい。そのせいか、ちょっとしんどいというか、とにかくよく寝てしまう。夜、全然本が読めない。眠くないと思いながら布団に入っても、すぐに眠ってしまって全然本が読めない。やれやれ。読みたい本は例によって山積み状態なんだが。

03年05月15日 09時22分 着信

Amazon というか、アマゾンに注文してあった廃虚ものの残りの2冊が届く。『廃虚探訪』と『廃虚をゆく』。『廃虚をゆく』の方は、先に届いていた『廃虚遊戯』と同じ小林伸一郎の写真集。『廃虚探訪』は中田薫が雑誌に連載していた記事をまとめたもの。二つを続けて読んでみると、小林の方は、廃虚に叙情的な思い入れが濃く出ていて、2冊目ということもあるのか、やや食傷気味である。探検記という趣のある中田の作品の方が、新鮮で面白かった。廃虚に美学を見いだそうとする視線と、廃虚に人間の営みの残骸を見る視線の違いというところかな。発作的に購入した3冊の廃虚本ではあったが、なかなか楽しめたのは事実である。

『CODE』を読み続けているが、やっぱ面白い。こういう本に中学生や高校生の時に出会っておきたかったなぁと思う本である。中学3年の技術の時間の電子工作で、RAM を使って(たぶん 64byte 程度のすっごい限られた容量のものだった)、スイッチを押すごとにアドレスが一つずつ上がっていくようにして、それで各ステップ毎のスイッチの状態(4つのスイッチに LED をつないでおいたはず)を記憶させるという単純なものを作ったのだが、それがうまく動いたときの感激は今でも覚えている。電子パーツが記憶するというそれだけのことに興奮したわけだが。スイッチのチャタリングでアドレスのインクリメントがとびとびになってしまったりしたことや、いい加減なハンダ付けが原因でなかなかうまく動かなかったことなど、どきどきしながらやってた感触は、今でもけっこう鮮明である。部品は秋葉原のパーツ屋から通販で取り寄せたんだった。そういえば、TTL の規格表を買ったりもしたんだよな。…『CODE』を読んでいると、そういうことが芋づる式に思い出される。

03年05月15日 11時38分 着信

あ、廃墟の漢字が間違ってた。変換ミスだなぁ。廃虚ではなく廃墟が正しい。

そういえば、『廃墟をゆく』の中に香川県仁尾町の仁尾サンシャインランドの廃墟の写真があった。そうか、あのサンシャインランドも今では廃墟になってるんだなぁと、ちょっと感慨深いものがある。自分が行ったことがある場所が廃墟になっているという事実は、確かに、ある種の感慨というか、なにかをゆさぶるような力がある。

中学生の時、アマチュア無線をやっていた。香川県の丸亀市に住んでいたときに、無線で仲よくなった友人が仁尾町に住んでいた。50MHz SSB で、自作のアンテナなんかをいじくり回していた。年齢は自分よりも一つ上ということで、毎週どうかしたら毎日のように、無線であれこれと話していた。業天さんという名字だった。春休みに仁尾町まで遊びに行ったことがある。高瀬からバスで峠を越えて仁尾町に行ったように記憶している。また、彼が友人と一緒に丸亀まで遊びに来て、一緒に城山に登って無線をやったりしたこともあった。たしか、その時、デューンの3巻を譲ってもらった(読みたかったけど書店に無くて困っていた)。その後、自分が松山に移ってしまったので交流は途絶えてしまった。高校の時ぐらいまでは手紙がたまにやり取りしていたと思う。それが仁尾町とのファースト・コンタクトである。

大学に入って、1年生の夏休みに帰省する際、香川出身の友達と遊ぼうということになって、丸亀の駅で途中下車して落ち合い(まだ瀬戸大橋は架かっていなくて、宇野から連絡船で高松に渡って、高松から松山まで JR に乗っていたころだ)、彼の車でドライブがてら出かけたのが、仁尾サンシャインランドだった。太陽光発電の実験施設+ささやかな遊園地といったものだったと記憶している。国のサンシャイン計画とかいう太陽光発電のパイロットプラントという位置づけだったはずだ(あの実験の総括はどうなったんだろう?)。大学生だったので遊園地の方は記憶してないのだが、太陽光発電を行うための鏡群やタワーがあって、なんとなく未来ぽいというか、すげぇなぁという感じだったのは覚えている。それが仁尾町とのセカンド・コンタクト。

そしてそのサンシャインランドの廃墟に『廃墟をゆく』で出会ったわけである。

ま、それだけのことではあるが、たとえば街がすっかり変わってしまってサンシャインランドの面影は少しも残っていませんというのであれば、そんなもんだろうなと素直に納得できるのだが、20年以上たった今、廃墟になっているとなると、ちょっと何かが引っ掛かる感じはする。

03年05月18日 12時06分 着信

昨日の午後は研究室でサーバのメンテナンス。サイトの古いページなどを MO に移してから削除して、サイトの再構築を始めた。昔に書いたページのタグなどにも修正を加える。

バックアップ機として控えていた PM7600/200 上に Phantom を入れて試運転を開始。最新版の 2.2.5 を落としてきてセットアップ。Maxum では扱わなくなっていたが、別の会社がしっかり今でもサポートしていたのに気がついた(もともとの開発チームが独立した会社のようだ)。さすがに処理が速い。最新版は検索結果のページ内容表示の部分の日本語の表示が全くダメという欠点があるのだが、それを表示させないようにすればいいと割り切って(どうせページの内容の要約といっても不十分なものではあるので)、むしろ検索結果を高速化させようと考えたわけである。Phantom が落ち着いたら、画像送り出しサーバもこちらに移して、サブサーバは PM7600 にしようと考えている。

『女子大生会計士の事件簿』(山田真哉)を買って読む。2まで出ているので2冊とも読んだ。話題になっているだけに読みやすい。ニュースがよく分かるシリーズに続いて、この手のものがブームになるのかもしれない。

『CODE』はチップの原理的な話が終わったあとは、チップの歴史という感じのコンピュータ史の話になり、それはそれで面白い。インテルの 8080 とモトローラの 6800 の比較なんて、なんか懐かしいぞ。

03年05月20日 13時01分 着信

昨日は Mac の授業。Mac Plus で System 6.0.8 を動かして見せて、軽く Macの歴史やら Mac OS に込められたアイデアみたいなものを話す。とは言え、今の学生達は、対照が Windows だから、あんまりピンとはこなかったかもしれない。MS-DOS の時代のインパクトは無理だな。まぁ、これが 1990 年の OS だよということで、時間的な重みみたいなもので感じてくれたらいいのだが。その後 TiBook でMacOS 9 をブートしてもらって触ってもらったり、OS X 内で Classic 環境を動かしてもらったりしてから、ターミナルで BSD UNIX のレイヤーにも触れてもらう。cat でテキストファイルを作るとちゃんとホームにファイルができることや、Word で書いたテキストファイルが less で読めることなどを体験してもらい、ターミナルを通じて触れているのが、確かに Mac の OS のもう一つの顔であることを感じてもらう(というか、感じてもらえたらいいな、と授業した)。

サブのサーバである mtsub.ecn.fpu.ac.jp を PM7600/200 に切り替える。Phantom のカスタマイズを行ってこれまでの検索ページと同じように検索できるようにした。しかし、ページの内容要約は表示しないように設定する。さすがに検索速度は速い。それにメンテナンスの処理も速い。もっとも、100Base-T の PCIカードを刺した PM7600 なので、研究室内部なら通信速度も速いということはあるだろうが。

画像送出用の Web サーバも WebSTAR4 に切り替える。ライセンスは購入してあったのだが、これまで実践投入をしたことはなかった。ようやく(今ごろ)出番。ファイルキャッシュとデータキャッシュを多めにとって、KeepAlive 接続でつながるように設定した。さすがに速くなった。

現役を退いた Quadra840AV は、とりあえず、LC475 の緊急時の交代要員として控えておいてもらうことにした。これまで交代要員だった Quadra800 はどうしようかなぁ。

『ジンメル・つながりの哲学』(管野仁)を読み始めたが、予想通り?面白い。哲学の授業でのネタとして活用できそうでもある。

03年05月20日 13時08分 着信

そういえば、調子に乗って ListSTAR の One Year maintenance を購入する。旧バージョンからのアップグレードということで $69 である。さっそく 2.3 もダウンロード。Subject Preffix が入れられるようになっていたりするなど、細かな改良が行われているようだ。こいつを mtsub に乗っけて、と思っているんだが、乗っけたところでどうするんだ?というのが、実は一番の問題かもしれない。でも、なんとなく、サーバ構築/サイト構築の楽しさを久しぶりに味わっている。

03年05月21日 11時16分 着信

昨日はゼミ。外書は身体検査のために休講。ゼミではここ1週間の新聞の記事から、世間的に重要だと思われる出来事の記事と、個人的に関心引いたものとを選んでくるという課題。SARS を取り上げた学生が多かったのだが、りそなHDへの公的資金注入/国有化を取り上げたのは一人もいなかった。まぁ、そんなもんかもしれない。福井にはりそな銀行の支店なんてあったっけ?って感じだし。個人的に関心を持ったマイナーネタの方は、面白いものが続々。やや堅めの課題だったせいか欠席者が多かったのだが、それでもゼミは時間オーバーであった。ついつい色々とつっこんだりコメントをしたくなる自分のせいなのだが。

HMV に注文してあった CD が届く。

  • When October Goes (Chihiro Yamanaka trio)
  • Ricochet (Richard Elliot)
  • Evolution Revolution (Headhunters)
  • 97th & Columbus (Doc Powell)

フュージョン系(今ならスムース・ジャズと言うべきか)が中心。Richard Elliot が "You Make Me Feel Brand New"をカバーしているのが気持ち良かったりする。

丸亀での中学時代の無線友達だった仁尾町の業天さんの消息が、ひょんなことから ML の仲間を通じて分かる。実家のお寺を継がれているそうだ。ML 仲間(色々と趣味とかがダブってる人なんだが)の先輩とのことで、メールで知らせてもらった。う〜む、「繋がってる」って感じだなぁ。

午前中はチューリングの意訳。そして今日の午後は教授会。その後、学部の歓迎会。

03年05月23日 09時26分 着信

気がつけば、朝、妻と娘が出かけてからメールなんかを書いたりするという生活のリズムになっている。最近、娘が早起きなので、ちょっと眠かったりするんだけどね。

昨日は看護学校の哲学の講義。道徳と倫理というテーマで、コミュニケーションの話の時に導入した「世間」とか「普通」という枠組み=規範の話あたりから道徳へつなげ、安心の基盤となっている相互監視=相互拘束の体制の話などへ展開。そして「力を正しく使うこと」という命令(同時に信頼の基盤)としての倫理といった話をする。自分としてはスムーズに議論が展開できたとは思うのだが、聞いていた学生達には、ちょっと話が分かりにくかったかもしれない。

『自由を考える』(大澤&東)を読み始める。予想していたよりは面白い議論になっている。昨夜、寝床でゆっくり読もうと思っていたら、すぐに寝てしまった。

Keith Jarrett と David Sanborn の新作が出ているということで、さっそく HMV に注文する。しかし、HMV のページは重いなぁ。それに Mac 版 IE だとレイアウトが崩れまくり。やれやれ。これで結構商機を逃しているんじゃないかな。今回は Keith と Sanborn を注文するというのがはっきりしていたから、たいしてブラウズもせずに注文の入力って感じであったが、間違ってもホームページであれこれ見て買うというサイトにはなってないように思う。もっとシンプルに、気持ち良くブラブラできるサイトになれば、今以上に利用するだろうにな。同じように感じている人は少なくないと思うのだが。まぁ、HMV にとっては、ネット販売は付け足しみたいなもんかもしれない(と感じる)。

今日は情報システムの講義。

03年05月24日 17時08分 着信

午前中は日経バイトを読んだりして過ごす。午後から研究室に行ってサーバのメンテナンス。PM7600に移行した mtsub のバックアップの設定などを行ったが、さすがに 100Base-T でファイルサーバと繋がっているとバックアップも速い! Phantom のデータファイルは、自分のサイトの分で 20M を越えるサイズになるのだが、ネットワーク経由でファイルサーバにバックアップを行ってもあっという間だった。

昨日は情報システムの講義。CATV や PHS でのネット接続の話をしてから、IP アドレス、ドメイン名、DNSサーバなどの話。暑くなってきたせいで、講義を始めるとすぐに汗が噴き出してくる。大学案内のパンフレット用ということで講義風景をカメラマンが撮影に来ていた。ジーパンに綿シャツ、サスペンダーといういつものラフな格好だったのだが、いいんだろうか? でも講義はやっぱこの格好に限る。

『自由を考える』を読み進めているのだが、大澤の人間性へのこだわりみたいなものに違和感を感じる。たとえば、次のような発言がある:

…、コミュニケーション、言語的なコミュニケーションこそ、もっとも人間的なことだと、普通考えられていますよね。その2ちゃんねるの内容のないコミュニケーションというのは、コミュニケーションをそれ自身として享受していると解釈することもできるわけです。そうだとすると、2ちゃんねるのコミュニケーションの例は、もっとも人間的であるはずのコミュニケーションを、コミュニケーションとして純化したときに、その人間性を否定してしまう、ということを示しているわけです。

(『自由を考える』p.109)

その程度で否定される人間性であれば、そもそもコミュニケーションというものに過剰に人間性を読み込みすぎていたというだけじゃないのか? ここには、やはり、無媒介的な透明なコミュニケーションを人間のコミュニケーションの理想として設定するような、コミュニケーションのヒューマニズム?があるように思う。無媒介で透明なものの方が非人間的なんだってばぁ、と思う。

03年05月25日 22時15分 着信

朝から一日娘の世話。こってりと一緒に過ごすのは久しぶりではある。ただ、鼻のアレルギーがひどくて、かなりつらかった。毎年、この時期になると、無茶苦茶厳しい日がある。今年は今日がその日に当たったようで、午後になると、鼻水、鼻詰まり、くしゃみがローテーションって感じでこたえた。夕方、薬を飲んで一眠りしたら、ようやく落ち着いた。

HMV に注文してあった David Sanborn と Keith Jarrett の新作が届く。Sanborn の方は、レコード会社を移籍したということもあってか、かなりごきげんなアルバムになっていた。ドラムは Steve Gadd、ベースは Christian McBride という強力なリズムセクションである。取り上げられた曲も Comin' Home Baby とか Isn't She Lovely, Sugar など、外さない曲が並んでいる。気持ち良く聴けた。 Keith の方は、ライブではあったが、Someday My Prince Will Come とか Autumn Leaves などスタンダードを演奏していて、これはこれでご機嫌ではあるのだが、かつてのような才気走ったところがなくて、ちょっと寂しい気もする。DeJohnette と Peacock の方がビンビンって感じであった。

ドイツの自動車産業に関する NHK 特集を見る。労働者の経営参加など、労働者の権利保護にあつかったドイツでも、EU 加盟によって体制に変化が生じてきているのを見ると、色々な意味で世界の経済体制が変わりつつあるなぁという気がする。

03年05月27日 11時06分 着信

アレルギーのせいだとおもうのだが、だるい。

昨日は Mac の授業。ネットワーク関係の機能の解説。ファイル共有や web 共有あるいはリモートログインの機能の実例を解説し、体験してもらう。また iTune 4 のネット共有などもとりあげ、色々なソフトが今やネット前提で動き始めていることを体験してもらう。

授業後にターミナルなんかをいじっていて、思い立って DarwinPorts をインストールする。今のところ、これといって BSD でのソフトの必要性は感じていないのだが、BSD の port システムが動くということが楽しかったりする。

今日の午前中はチューリングの意訳作業。読解の際に訳文を作っておいた部分が多いのだが、直訳の文章はそのままでは使い物にならないので、色々と手を入れる。あと1日の作業で、最後まで訳文ができあがるだろうと思う。その後、文章の手直しと、簡単な解題のような文章を書く予定である。6月になるまでには第1稿を完成させたいなと考えているが、さて、どうか。なんだかんだで、年が明けてからずっとチューリングに関わっているので、そろそろ一区切りしたい気分である。デリダやルーマンの読み込みが全然できてないもんなぁ。

そういいつつも、丸善で生物学関連の書籍をまとめて注文。どれだけ読めるんだぁとか思いながらも、欲しいって気持ちが先走って発注してしまう。

今日の午後は外書とゼミである。

03年05月28日 12時21分 着信

チューリングの意訳が、一通り完了。やれやれ、ようやく終わった。もっとも、これから推敲に入るわけで、読みやすいものに仕上げるための作業はまだまだ続くのではあるが。

アレルギーが引き続きひどい状態。昨日の外書やゼミもちょっとしんどかった。

03年05月30日 13時31分 着信

相変わらず鼻のアレルギーの状態が良くない。風邪を引いたみたいになっている。昨日の看護学校の授業も、直前まで、休もうかと思っていた。授業を始めてしまえば、ハイテンションになって、なんとか無事に授業をこなせたのであった。授業では、ジンメルの話などもふまえつつ、自分であることの違和感、居心地の悪さみたいなものに焦点を当てて、自分と他人というテーマで話す。

授業の中で、何気なく口をついて出た言葉、「とかく、人間関係というのは、パーフェクトを求めるとろくなことがない」っていうのが、自分として、妙に納得であった。100%でも0%でもないところで、いかに折り合いをつけるかという話。

仁尾町の業天さんからメールをいただく。うれしい再会である。

チューリングの意訳の本公開に向けて、著作権者である Oxford Univ. の著作権管理部に許可を申請。

今日は情報システムの講義。今日から電子メールの話。

03年06月01日 21時11分 着信

金曜日の情報システムの講義では、メールの配送の仕組みなどを説明する。鼻の状態も相変わらずで、おまけに講義室は暑くて、ちょっとぐったりであった。

土曜日はサーバのメンテナンスなど。チューリングの意訳作業用に設定しておいたメール投稿システムを削除したりする(今後はページのファイルを直接編集するので)。研究室が暑かったので作業が済んだらさっさと帰宅して、読書。溜まっていた未読の本を片づけるということで、ローレンス・レッシグ『コモンズ』を読み始める。前作の『CODE』以上に面白いと思う。今日も読み続けて、夜には読み終わった。色々と考えさせられる内容であった。

チューリングの推敲もぽちぽちとやっている。自分の訳文だけを読んで、日本語としてなるべく不自然さがないものへと修正するということにした。原文(英文)を見ていると、どうしても、それに引っ張られてしまうからである。

夕食は、妻の両親を招いて、いっしょに豚のしゃぶしゃぶ。わが家では、しゃぶしゃぶというと、もっぱら豚になった。妻の母親が育てたニラを山ほどいっしょに食べる。何度食べてもうまい。自分の相手をしてくれる人間が多かったせいか、娘もご機嫌で大はしゃぎであった。

自宅近くの九頭竜川の河川敷で九頭龍フェスティバルという祭りをやっていた。その関係で、夜には花火が上がった。自宅の窓から、ほぼ正面に見ることができ、楽しめた。

さて、このあと、F1 である。

03年06月03日 08時37分 着信

昨日は Mac の授業の日。メールサーバに各自のアカウントを作成し、同時に ML も作成した上で、OS X のMail を触ってもらう。リッチテキストのフォーマットだと、色々と表現力が豊かなメールが作れることなどを確かめてもらう。その後、強制終了や強制リスタートのやり方、シングルモードでのブート、コンソールでのログインの方法などを解説。これで操作に必要な知識は一通り教えたとは思う。

OS X の Mail でリッチテキストのメールを書いたり読んだりしていると、確かに、こういうメールを使いたくなるのは分かる。最近、色々なところで HTML メールでもいいんじゃないかという論旨の記事を見かけるようになってきたのも、たいていのメールソフトが対応してんだから、そろそろ文字だけのメールにこだわらなくてもいいんじゃないかということだろう。でも、やはり、個人的には、メールはテキストのみを基本とするべきだとは思う。そして、相手がそれなりの環境を備えていることが分かっており、相手の了解があるなら、HTML なりリッチテキストなり、好きなフォーマットを使えばいいと考える。ちょうど、相手にデータを渡すときには、テキストファイルを原則としながらも、相手も同じソフトを持っているのが分かっているなら Word でも一太郎でも AppleWorks でも好きにすればいいだろう、というのと同じだ。コミュニケーションは伝わってなんぼ、という原則からして、そうするのが「正しい」と、今はまだ、思っている。

丸善に注文してあった生物学がらみの本のうち『生物学! 新しい科学革命』(クレス+バレット編)と、『進化と経済学』(ジェフリー・M・ホジソン)が届いた。『進化と経済学』は諸経済学説における「進化」という概念を検討する、なかなか面白そうな本である。常々、社会科学における進化論がらみの概念の用いられ方には違和感を持っていたので(経済学より経営学の方が節操なしだと思うが)、そういう意味でも、読むのが楽しみである。そういえば、訳者の一人に、滋賀大学の吉川さんの名前を見つける。そうか、こういうのにかかわっていたのか、でも不思議はないよな、と思う。東京で一緒に作業してた時から、もう2年はたつのか、とちょっとしみじみ。

で、帰りに、ハヤカワSF文庫でちょっと見て見たい本があったので、二宮の勝木書店まで足を伸ばす。肝心のハヤカワSF文庫は品ぞろえが悪くて見たい本はなかったのだが(やはり郊外型の書店にハヤカワSF文庫が揃っているのを期待するほうが間違っているのだろう)、かわりに?、橋本治の『双調 平家物語』10(4月には出ていたようなのだが、見逃していた)、『出版と知のメディア論』(長谷川一)、それに『コンピュータはなぜ動くのか』(矢沢久雄)を購入。『出版…』は、たまたま目に付いた本なのだが(みすず書房から出ている本なのだが、同じみすずから出ていた山本義隆『磁力と重力の発見』全3巻、全部買うと\8,600-なんだけど、内容は科学史として無茶苦茶面白そうで、さっきの『進化と経済学』とあわせてどっぷり思想史っての悪くないよなぁと思ったんだけど、とにかくそれを買うかどうかで迷っていた時に、結局は買わなかったんだけど、同じみすずということで目に付いたのだ)、こういう出版界をめぐる本というのは、ちょっとしたブームなのかもしれない。『コンピュータ…』は、日経BPの原理解説本シリーズ?の4冊目。ちょっと話題が色々と広がりすぎているようだが、まぁ、読んでおくにはよいかな、というところ。

自宅に戻ってから、さっそく『平家物語』を読み始める。が、夜はあっさりと寝てしまった。

Oxford Univ Press からページ公開に関するメールが届いたのだが、どうやら原文を掲載すると勘違いしているようだったので、そうじゃなくて、自分が翻訳したものだということを書いたメールを返信する。こういうときに、どういう表現をしたらよいのか、英文を書き慣れてないと迷う。

Adobe Acrobat のアップグレードの案内が来ていたので、Mac 版だけ申し込むことにした。とはいえ、新機能の一覧を見ていると Windows 版のみというものが少なくない。まぁ、しょうがないけどね。でも、Windows 版は使うこともないようなので、今回はバージョンアップしないことにする。

03年06月04日 08時23分 着信

昨日の午前中は『平家物語』にどっぷり。読み上げてから大学へ。午後は外書とゼミ。外書の授業は、テキストの内容の補足的説明が増えてきていて、英語の授業というより、プログラミングの授業のようになってきている。まぁ、そういう授業を予定していたのではあるが。

『出版と知のメディア論』を読み始める。コミュニケーション論として展開されており、コミュニケーションを情報伝達として解釈する図式の批判など、面白く読める。思わぬ収穫の本かもしれない。

03年06月04日 08時30分 着信

このところ、メールは OS X の Eudora 5.1 をメインにしているのだが、こいつは、受信したメールをメールボックスに振り分ける処理にバグがあるようで、届いているメールが表示されないことが多々ある。Eudora を再起動したり、新たな受信処理でメールを取り込むと、あわてて以前に取り込んでいたメールも表示するといった動作をする。やれやれ。受信したメールを表示しないなんて、メールソフトとしての根本的な部分でもバグだと思うのだが、いまだに修正されない。そろそろ Eudora とも縁を切る時かなとは思うのだが(メールのソートの動作もおかしいし)、MacOS の方では相変わらずメインでつかってるし、馴染んでいるソフトだけに愛着もある(いざとなればデータが取り出せるという安心感もあるし)。困ったものである。

03年06月06日 10時26分 着信

昨日は看護学校が休講ということもあって(鼻のアレルギーも相変わらず良くないし)、自宅で読書など。

『出版と知のメディア論』を読了。日本における「人文書」というものの特異性を明らかにして見せるなど、色々と考えさせられる内容で、面白く読めた。コンテンツとメディアを分離して考えるという考え方自体が囚われている図式などがはっきりとした感じである。コミュニケーション論としても得るところが多かった。今取り組んでいるチューリングの作業が一段落したら、やはり、コミュニケーション論をまとめる作業に取り組みたいと思う。

勁草書房でルーマンの貨幣論を論じた本が出たようだ。注文して読まなければ。なんか夏になるとルーマン関連の読み込みを行うってパターンになっているような気がする(昨年は英訳版を読みあさった)。

チューリングの意訳版の公開について、Oxford University Press より $100 の fee を払えば許可を与えるとの連絡が来る。$100 ってのは、個人的に趣味で作成した文書の公開に支払う(それも無料で公開するわけだし)ものとしては安くないとは思うが、legal に公開したいので、支払うことにする。

NIKKEI DESIGN、日経 Windows Pro、日経システム構築等の雑誌の新着分を読みあさる。

今日の午後は情報システムの講義。電子メールの2回目になる。暑くなりそうなので、講義も疲れそうだ。

03年06月08日 16時21分 着信

昨日は朝から公舎の草刈り。汗だくになる。午後はだら〜っと過ごして、夕方から公舎の懇親会。

小泉義之の『生殖の哲学』が届いたので、さっそく読んだ。基本的には、生殖テクノロジーを開放せよ、ということにつきると思う。あれこれと細かな論争的なことが書かれてはいるが、メッセージはクリアである。そして、確かに、現在、巷で語られている生命倫理に対する異議申し立ての議論として、けっこうパワーがあるとは思う。また、個人的にも、基本的なスタンスには同意できる。ただ、まだまだ議論が粗いようにも思う。批判理論としては有効だとは思うし、彼の提示したパースペクティブで考えることは重要だろうが、そこからどれだけポジティブなものへと展開できるのか?という点に疑問が残る。

『コンピュータはなぜ動くのか』は、Z80 を使ったワンボード・マイコンの配線図なんかまで載っていて、嬉しくなってしまった。先に読んだ『CODE』にも繋がる本だととも言えるだろう。「はじめに」で、現在40歳前後のコンピュータ・オタクは、「数少ない技術の中で、ゆっくりと時間をかけてコンピュータの基礎知識を学ぶことができた」という記述があるのだが、自分のことを振り返ってみても、なんとなく納得できる。もちろん、自分がどれだけのことを学べたのかということは別にしても。

今日は、午前中は豚バラの下ゆでをしながら、雑誌を読んだり、チューリングの意訳の改定作業。午後から研究室に行ってサーバのメンテナンス。帰ってきてから、豚バラカレーを作りながら読書である。

チューリングの意訳に手を入れながら、色々な資料を改めて読み返したりしているのだが、AlanTuging.net に"Intelligent Machinery"と題されたレポートの原稿が掲載されているのに気がつく。1948年という早い時期に書かれたものだ。さっそく印刷して読むことにする。わくわく。

03年06月09日 18時00分 着信

Mac の授業。Software Update によるアップデートなどを行ってもらったのだが、サーバの調子が今一つのようで、なんかドタバタしてしまった。そうじゃなくても 10Base-T の回線に5人がぶら下がってUpdate ってのは無理があるんだけどね (^_^;;

早めに切り上げて大和屋へコーヒーを買いに行く。それから松木屋によって CD を購入。綾戸智絵の新作を買うつもりだったのだが、見逃していたり、保留していたものまで買ってしまう。で、結局:

  • To You (綾戸智絵)
  • Plays The "Standard" (Yuji Ohno trio)
  • A Chorus Line (Parhythm)
  • One Quiet Night (Pat Metheny)
  • Rendezvous In New York (Chick Corea)

と買い込んでしまった。ま、いいか。

キリンから氷結21ストレートとかいうウォッカ(チューハイ用のリキュールなのになんでウォッカなんだ?というのはおいとくとして)が出ていたので買ってあって、で、冷やそうと思って冷凍庫へ入れておいたら、バリバリに凍っていた。混ぜ物がいっぱいということだよなぁ。ウォッカなんだから冷凍庫でキンキンに冷やせるだろうと考えた自分が甘かった。まぁ、融けかけたやつをシェイクして飲んだら旨かったからいいとしよう。

午前中はチューリングの Intelligent Machinery を読んでいたのだが、スキャンの具合が悪くて読み取れないところもあったりしたのだが、このレポート(1948 年、マンチェスター大に移って Mark I に関わる前)の時点で彼自身の考えというのは、ほぼ、Computing Machinery and Intelligence のものと変わらないことが確認できた。お馴染のネタみたいなのがバンバン出てくる。

03年06月11日 00時24分 着信

娘が熱を出したので、ドタバタしてしまった一日であった。

外書とゼミの日。外書ではいよいよ Function call の説明などに入っていき、プログラミングの原理の解説っぽくなってきた。もっとも、学生達は???ってな感じではあったが。ゼミでは、専業主婦と代理母出産に関する意見をまとめてきて発表させた。意見をまとめる際には、自分の意見/立場に対する反論を想定した上で、それに対する再反論も組み込むように指示していたのだが、論理的にうまく展開できていない学生が多かったように思う。「反対意見として色々あるのはわかるが、それでも自分はXX!」といった、自分の立場を強調することで「反論」したつもりになっている意見である。こういうのをみると、実りのある議論をするのって難しいよなぁと思う。立場が同じことを確認しあう儀式みたいになってしまう(反対の立場には耳も貸さずに、ただ否定する)のもしょうがないか、という感じ。もっとも、自分が偉そうなことを言えるか?とは思うのだが。

学部〜大学院の指導教官であった平井俊彦先生が亡くなっていた。普段はあんまり目を通さないのだが、たまたま日経新聞の死亡欄を見ていたら飛び込んできた。5日に心不全で亡くなっていたとのことだ。告別式は近親者だけで済まされたらしい。

今では経営学とか社会システム論をやっている自分が平井先生の弟子だと名乗るつもりはない。それでも、学部〜大学院を通じて、平井先生のもとで社会思想史の研究をしていたことは、今の自分にとって、多くのものを背負っている。自分なりの問題意識を持って原典と会話すること、そのことの意義と面白さを教えてもらった。たとえば今チューリングの論文を読んだり訳したりするのも、とりあえず原典にあたって、それと対話することから始めてみることの大切さみたいなものが、自分の中に染みついているからだ。

学部のゼミで最初に読んだ本が、ハーバーマスの『公共性の構造転換』だった。ちょうど、平井先生がハーバーマスに取り組んでおられ、『コミュニケーション行為』の翻訳に取り組んでおられた時期でもあった。何かにつけてハーバーマスについて論じられていたという記憶がある。そして、その当時は、ルーマンは、ハーバーマスの論敵のシステム論者として、何やら悪役のように感じていた。まぁ、それが、今では、すっかりルーマンの社会システム論にハマっていて、ハーバーマスには、むしろ反発していたりするというのも、ある意味で皮肉な感じもする。それでも、今でも、『公共性の構造転換』だけは読み返したりはするのだが。そういう意味では、もともと先生はロックを研究されていたのに、自分はヒュームに取り組むことにしたというのも、今にして思えば、スタンスというか、テイストの違いみたいなものが現れているようで面白かったりもする。その後、哲学や社会思想の講義のためにロックを読んだりもしたのだが、やっぱ好きになれないもんな。

3回生の頃、ちょうど浅田さんの『構造と力』がブームになったこともあって、ゼミで何ページにもわたるレジュメを書いて発表したこともあった(浅田さんを招いてのゼミであった)。平井ゼミに入った3回生の4月から、同時に浅田さんや市田さんがやってた現代思想の自主ゼミにも参加していた。大学院へ進学したことは、平井ゼミに入ったことよりも、浅田・市田さんの自主ゼミに参加したことの影響の方が大きいようには思うが、それでも、平井先生がいらっしゃらなかったら、大学院へは進学しなかったかもしれない。平井先生自身は、いわゆるポスト・モダンについては、決して全面的に肯定という感じではなかったが、それでもドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の翻訳が出ればそれをマーカーでラインを引きながら読むなど、常に、新しい物にもオープンな姿勢を持たれていた。

大学院時代は、なんといっても、社会思想史学会の事務局員という仕事をやったことが残っている。大学院のゼミの授業がどんなもんだったかはあんまり憶えていないのだが、社会思想史学会の事務局として、学会の準備をしたり、振込用紙やニューズレターの印刷・発送にドタバタしたり、あるいは学会の発表のテープおこしをやったり、そういうことに駆けずり回ったことは、今でもくっきりと憶えている。なんせ唯一の事務局員として、会費の振り込みの確認とかなにかと仕事が多かった。パソコンも使えなかったしね(自分で買ったブラザーのワープロ専用機を使っていた)。平井先生が3年間の代表幹事を務められたあと、阪大におられた徳永先生が代表幹事を引き継ぐことになり、その引き継ぎに徳永先生の研究室へうかがい、帰りに一杯やりながら、徳永先生が当時取り組んでおられたアドルノ&ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』の翻訳の苦労などをうかがったのも、今となっては懐かしい思い出である。全体としてはしんどかった事務局の仕事ではあったが、その他にも幹事会で著名な先生方にお会いできたことなど、貴重な体験ができたのも事実ではある。

…その他にも、思い出すことは、色々と、山のようにある。そうしたことが、何らかの形で、今の自分につながっていると思う。平井先生が退官された後には、飯野先生のもとでシステム論や組織論の研究をすることになり、ある意味でその時に社会思想史に「きりをつけた」のではあるが、たとえ、たしかに、今の自分は社会思想史の研究者ではないにしても、平井先生から与えてもらったものは、今の自分の土台となっているのは事実だ。

福井に移ってからは、年賀状で挨拶するだけになってしまい、阪神大震災で苦労された時にも何もお手伝いしなかった。そういう意味でも、自分はけっして「良い」教え子ではない。今さら、あれこれと思いでを語ることすらおこがましい、とは思う。

平井先生は(そして飯野先生もだが)、けっして何かを強制したりすることはなかった。研究とは自分がやりたいことを自分の力で、そして自分の責任でやるもんだということ、他人に言われたことをやるようなもんじゃない、そういうスタンスで「指導」してくださった。たぶん、「何をやってるんだかな」というような思いで見られていたようには思うのだが、それでも、自分でやるしかないということを、色々なことを通じて示してもらったように思う。そういう先生に指導してもらったこと、それを今は素直に感謝したいと思う。

平井俊彦先生のご冥福をお祈りします。

03年06月12日 10時36分 着信

昨日は午前中は教務関連の会議。午後は自宅に戻って娘の看病をしていた。

アマゾンに注文してあった『重力と古典的世界 古典としての古典力学』(山本義隆)、それに "Alan Turing the enigma"(Andrew Hodges)が届く。the enigma はアラン・チューリングの評伝。やっぱ読んでおくかということで注文したものである。今進めているチューリングの意訳作業では、自伝的な観点からの解釈は入れ込まない、あくまでもそこに書かれたものを対象にすることにしているのだが、それでももう半年近くチューリングと付き合っていると、それなりに彼の人生に対する関心も出てくるので、読むことにした。600ページ近いペーパーバックなので、読むといっても、そんなにすんなりとは読めないとは思うが。

『重力と古典的世界』は、『磁力と重力の発見』3巻の筆者によるもの。これが予想通りの面白いものだったら、『磁力と重力の発見』全3巻を購入しようと思う。

『Web セーフカラー・デザイニングノート』(山口敬)を購入したので、チューリングの意訳のページの配色などをいじっていた。もともとアート関係のセンスがない人間なので、こういう色に関する基本的な原理の説明も含めたサンプル集のようなものが欲しいと思っていたのだ。サイトのトップページなども、そろそろリニューアルしたいと考えている。

03年06月13日 09時37分 着信

北陸も梅雨入りしたとかで、朝からうっとおしい天気である。昨日も無茶苦茶暑かった。

看護学校の哲学の講義では、今年初めて冷房が入った。それでも汗だく。講義の内容は商品社会論ということで、貨幣論などを論じる。

研究室に戻ってからは4回生のゼミ。とはいえ、就職活動中なので、都合のつくものだけが研究室に顔を出せば良いということでやっている。昨日は1人。就職活動の状況を聞いたり、愚痴を聞いたり、ちょっとした相談に応じたりと、ゼミというよりはカウンセリングみたいなかんじ。でも、それはそれでいいかなとは思う。

the enigma を読み進める。さすがに英文はスピードが上がらない。でも、面白い。論文を読んで感じていたチューリング像と、いまのところ、そんなに違わないかなぁという感じ。もっとも、自分がそういう目で見ているというバイアスがかかっているのは避けられないだろうが。

今日の午後は情報システムの講義。4コマ目だし、まだ講義室にはエアコンは入らないので、汗だくになるだろうなぁ。ま、そういう講義をやるってのが自分のやり方だから(ある意味でライブコンサートみたいなもんだと思ってるし)、しょうがない。

03年06月15日 14時23分 着信

ページのレンダリングの方法を変更したので、ちょっとテスト。

03年06月15日 15時22分 着信

サーバのメンテナンスの際に、この雑感のページの作成方法を根本的に変更した。これまでは、着信ごとに作成されていたファイルを、その都度 CGI で読み出すという仕様にしてあったのだが、新しい書き込みの着信時に、ページを一気に作成してしまう方式に変更。つまりページを静的なものに変えたわけである。それにともなって、URL も変更することになったが、こちらはもとの CGI に 301 のステータスを返させてリダイレクトがかかるようにした。

最初にこのページを始めたときには、あとからコメントや補足を追加したりできるものにする予定だった。それで、表示速度が遅くサーバに負担をかけるのを承知で、動的にページを生成するものにしてあったのだ。だが、続けていくなかで、そのような余分な機能の必要性を感じなくなったのと、やっぱ CGI での表示だともたつくのが嫌になって、仕様の変更を行うことにした。LC475 サーバは軽さが第一ってところかな。

たとえば、LC475 上でも快適に動いてメモリーなどの負担も少ないデータベースがあるならば、それを使って、最近増えてきている blog 系のページのようなものを作ることは可能だとは思うが(WSM をデータベース上で構築したっていいわけだ)、そういう手ごろなソフトもないし、そこまでは必要ないかなと思う。

03年06月15日 16時58分 着信

どうやら新しいページ作成も無事に機能しているみたいだ。ところで、この雑感のページの更新の状況をチェックしているアンテナサイト(ページ)がいくつかあるようなのだが、それらのアンテナのプログラムは 301 Moved Permanently のステータスコードをちゃんと解釈するんだろうか? そのへんは設定次第なのかな?

メールでメモを投稿するページというのが、この雑感とかチューリングの時のノートのように、使ってみると結構便利である。仕組みがシンプルな分、LC475 でも全然問題なしで快調!だ。ただ、現在は、その都度、リストサーバの Processor プログラムを作らないと使えないという点が面倒である。投稿ページを作りたいと思ったら、ページのファイル名と投稿用のアカウントを記入するだけで、自動的に諸設定をこなしてくれるような、汎用のプログラムを作ってしまおうかと考えている。そうすれば、色々なテーマごとに、好きなだけ、メール投稿ページを作れる。授業に関するお知らせのページなんかも、今はいちいち手動で書き換えているが、メールを投げておけば OK ってことになると楽だなぁ。ゼミに関する連絡なんかは、ゼミ生の携帯向けに配信しているメールをそのままページにしちゃってもいいわけだし。今の自分のサイトは LetterRip というリストサーバと密接に結びつけた形でシステムを構築しているのだが、いっそのこと、SuperSocket を使ってメール受信のサーバ機能までもプログラムに持たせたら、けっこう使える、少なくとも MacOS それも 68K の Mac のサイトでも使えるものになるようには思う。まぁ、EIMS と連携する AutoShare のような形式の方が作るのは簡単なんだけど。

…あ〜あ、好きなだけプログラミングして、好きなだけ本を読んで、それだけしてればいいよという生活をしてみたいなぁ。2ヶ月でいいんだけど。そういう時間が2ヶ月あれば、Tanaka's osax の OS X 対応とか EasyBBS の OS X 移植とかもできちゃうだろうし、読みたいままになっている本も片づけられるだろうと思う。もっとも、そういう時間がとれない現状だからこそ、意欲だけは盛り上がっているんであって、実際にそういう時間が与えられたら、ぼ〜っと日々を過ごしてしまうのかもしれないけれど。それに、何より、そういう休暇を請求できるほど日々仕事しているのか?と問われたら、すみませ〜んって感じではあるが。

the Enigma を読み進めている。チューリング・マシンなどの、チューリングの業績についても、丹念に解説がしてあって、やっぱすごい本だと思う。

今夜は F1 である。カナダ GP の生中継?ってことか、夜中に放送されることになっている。さすがに視れないなぁ。まぁ、それでもしょうがないかと思う(ビデオを録ろうとも思わない)のは、自分の中で、F1 への関心が少し薄れてきたのかなぁと思う。 …っていうか、時間が足りないンだ、基本的に。F1 と、机に積み上がっている未読の本のどちらを取るかと言われたら、迷わず本を取る。

明日は Mac の授業の日。デジカメを持っていって iPhoto や iTune で遊ぶことにする予定。

03年06月16日 17時57分 着信

Mac の授業の日。iTune で音楽の取り込みを行ったり、iPhoto で遊んだり。iPhoto 用にデジカメを持っていってあったので、ついでに研究室のサーバの写真もとって、新しいページを作る(キャプションを日本語で書いてしまったので、古いページも残した)。

Macs in my ofiice

ジュンク堂池袋店の田口久美子さんという方が Web で連載している「池袋風雲録」 が面白くて(今日初めて気がついた)、これまでの掲載分をすべて印刷。今夜のお楽しみである。

そういや、なにげで、アマゾンで「"ウェブログ入門-BloggerとMovable Typeではじめる」の予約注文しちゃった。

03年06月18日 08時05分 着信

「池袋風雲録」は、まとめて読むと分量がかなりあったが、リブロの動きを中心に、自分が学生を過ごした、「ニューアカ」ブームの出版の動向や、西武の文化展開の動きなど、そうだったよなぁと思い出されることも多くて、一気に読んでしまった。同時期のアニメなどの動きにはとんと疎い自分だが、人文書を中心とした本の状況は、まさにその波の中にいたって感じなので、当時の雰囲気とか話題になった本など、自分の体験を振り返るとともに、その裏側で起こっていたことを知るってところである。

昨日は外書とゼミ。外書では関数の定義などの話。ゼミでは大学に関する不満などを述べてもらうというテーマを設定したのだが、色々と参考になる意見が出てきて、自分としては面白かった。

このところ、平日の夕方は、娘の食事と自分たちの食事を作るのは自分の役目になっている。大学での仕事を終えてから近くの SC に夕食の材料の買い物に行くわけだが、自分にできる料理のレパートリーなんて限られているし、そんなにじっくりと時間をかけて料理ができるわけではないので、どうしてもパターンが限られてしまうなぁと最近感じる。昨日の場合、マーボー茄子を作り、惣菜売り場で買ったエビチリと生春巻きにしたのだが、まず中華の材料(レトルトで売っているやつ)の中から何を作るかを選び、それに合わせて他のものも選ぶ、という組み立て方になる。昨日は蒸し暑くあんまり凝ったことはしたくない気分だったので、惣菜を組み合わせたし、迷うといってもマーボー豆腐、マーボー茄子、マーボー春雨のどれにするかという程度である。こういうとき、なんか、もうすこし自分でできることがあればなぁと思わないではない。もちろん、時間があれば新しいものへ挑戦するのは好きなんだが、毎日の限られた時間では、どうしても手堅くいこうとしてしまう。そんな自分が、ちょっと悔しい。ちなみに、娘はほうれん草と豚肉をだしで煮たものを載せたぶっかけうどん。娘は(そして自分もなのだが)カトキチの冷凍さぬきうどんがお気に入りで、最近は冷たいぶっかけうどんにすると、一玉をほぼ食べきっている。このメニューも、最近、困ったとき/迷ったときの定番っぽくなってきいて、もうすこし何とかしなければなぁと思う。

03年06月19日 17時28分 着信

チューリングの評伝である the Enigma を読み続けている。ようやく半分まできた。ノイマンとかシャノンとの交流など、色々と興味深い話が次々と出てきて飽きない。それにしても、よく調べたなぁと関心する。みすずで翻訳が出るらしいが、これの翻訳っていうのも大変だろうな。

チューリングの意訳のページを正式に公開する(現在はオープンな形で作業を進めていると自分では考えている)ために Oxford Univ Press に許可のための手続きをとっているのだが、フィーの $100 を払うから手続きの方法を教えてくれとメールしてから2週間、なんの返信もなかった。そこで今日、「フィーを払うって言ったのに何もいってこないけど、どうなってんねん・チューリングの誕生日の6月23日ぐらいまでには公開したいんやけど?」というような内容のメールを担当者に送ったら、「21日まで休暇でいないのよん」という返事が返ってきた。やれやれ。

the Enigma の箸休めに『美しい日本の掲示板 インターネット掲示板の文化論』(鈴木淳史)を読み始める。2チャンネルを論じるのが中心のようだが、従来のコミュニティー万歳とか新しい民主主義の場だとかそういう大げさな構えではないところが好感が持てる。最近の blog 騒ぎもそうだけど、妙に大げさなリクツを付けたがる議論が多すぎるので、そういう意味でも、気持ちの良い(?)本だと思う。もちろん、自分だってリクツを振り回す側の人間なんだけど。

BS で StarWars の最初の3部作を連続して放送している。ビデオにとって、ひさしぶりに見ようと思っている。

今日の娘の夕食は、豚肉と白菜の煮込みを載せたぶっかけうどん。自分はかき揚げ&アナゴ天を載せたおろしぶっかけ。妻が仕事の関係で夕食がいらないので、色々と考えたのだが、暑い(台風が来てる関係らしい)時にはやっぱこれでしょう。大根おろしをかけるというのは、福井に来ておろしそば(こちらでは、冷たいそばに、大根おろしと花かつおをかけたおろしそばが、そばの主流)によって知った食べ方なんだけど、うまい。

03年06月20日 13時58分 着信

ふと思い立って、久しぶりに Rio500 を引っ張り出してきた。携帯 MP3 プレイヤーである。東京への出張を頻繁にしてたときには愛用していたのだが、その後、とんと出番なしの状態であった。TiBook に USB ケーブルで繋いでみたら、ちゃんと iTune は認識した。さすがに開発者を吸収しただけのことはあるな。ファームも新しいのが出ていたようなのでアップデートしたら、日本語の曲名も表示するし、サンプリングレートまで表示されるようになった。ちゃんとしたヘッドフォンを繋いで聴いてみたが、けっこう良い音だな。ちょっとうれしくなったけど、でも、使い道は… FM トランスミッターを繋いでクルマで聴くかなぁ。

これから情報システムの講義。今日は携帯電話を解説する。

03年06月21日 15時30分 着信

昨日の情報システムの講義は、さすがに汗だく。携帯電話の話だったのだが、昨年とは違って3Gがけっこう展開してきているので、具体的に各社の動向などにも踏み込む。

丸善に注文してあった『貨幣論のルーマン <社会の経済>講義』、『経済システム −ルーマン理論からみた経済』(ともに春日淳一)、『超クルマはかくして作られる』(福野礼一郎)が届く。『超クルマ…』は、クルマの色々な部品が作られる現場を訪ねたルポ記事(雑誌連載)をまとめたもののようだ。クルマを支えている一つ一つの部品にも、当然のことながら、そこに物作りの物語があるってところか。もう少し荒っぽいものかと思っていたら(文字が少なく写真集みたいなものかと思っていた)、予想以上に記事が丹念に書かれているので読みでがありそうだ。

ひたすら the Enigma を読み続けてます。

TiBook で nvram boot-args="-v" を設定して、起動時にメッセージを表示させる(cmd-V で起動するのと同じ)ようにした。インジケータがぐるぐると回っているだけのグレーの画面を見ているよりは、よっぽど気分が良い。とはいえ、起動に時間がかかるので、普段はシャットダウンせずにもっぱらスリープさせるようにしているので、この起動画面を見るのはシステムのアップデートのときぐらいになるだろうな。

03年06月22日 17時32分 着信

夕食の買い物(今日は牛モツをたっぷり入れたキムチ鍋)にいったついでに、CompactFlash カードとUSB 接続のリーダーを購入。USB のハードディスクを持ち歩いて自宅⇔研究室のデータの持ち運びなどに使っているのだが(USBからの電源で動く 20G のやつなので、これはこれでとっても重宝している)、ちょっとしたデータのコピーなどにはメモリカードなんかの方が便利だなと考えてのことである。128M のカードを購入。スマートメディアよりは安いので CompactFlash にしたわけだが、これで両方のメモリカードを使える環境になった。しかし、このサイズに 128M で、それも5千円を切る価格ってのは、すごいなぁと思ってしまう。Mac SE を 2.5M から 4M に増やすのに数万円かかった(金額を精確に記憶していないのだが、どうかしたら10万近い金額だったはず)のに比べたら、この手のものの容量の増加と価格の低下には、今さらながら関心する。ちょうど the Enigma で、チューリングがNPLでのコンピュータ開発をしてたころには記憶装置をどうするんだってことでドタバタしていたのを読んでいたこもあって、余計に感慨深かったりして。まぁ、128M をポケットに入れて持ち運べる時代になっても、彼が夢見ていた intelligence は実現していないわけだけども。

サーバのメンテナンスを行う予定だったのだが、研究室に行くのがおっくうになって、自宅で夕食の準備(牛モツの下茹でなんか)をしながら the Enigma を読んで過ごす。リスタートなしでどこまで無事に動くか試してみようかしらなんて気にもなってくる。

03年06月23日 13時04分 着信

早めに研究室に来てサーバのメンテを行う。ついでにトップページをちょっとだけ変更し、ついでに先日作った Mac のページに MacPlus が動いている写真を追加。トップページに手を加えたのは久しぶりだなぁ。

the Enigma の中に、次のような文章があり、しみじみしてしまった:

Already by 1950, Alan Turing was un unperson, the Trotsky of the computer revolution.

今日はチューリングの誕生日。

03年06月23日 13時04分 着信

学内のメール配送がおかしいみたいなので、ちょっとテストで投稿。

03年06月24日 09時57分 着信

学内のメールサーバが死んでる?みたいで、全然メールが配送されないよぉ

03年06月24日 14時02分 着信

Mac の授業。今日は iPhoto など。AppleWorks で書いたタイトルを挟み込むことでスライドショーをより凝ったものにする方法なんかも説明。授業が終わったところで、新任の先生からの Mac に関する相談(っていうかレスキューの要請)。PowerBook G4 はやっぱ速いねぇ。

明日の外書に備えてテキストの印刷など。

どっかのページからリンクされてたのをたぐっていって「創発民主制」(伊藤穣一)なる文書を見つけたので読む。創発 emergent とか自己組織化といったタームが、ビジネス啓もう書のような浅はかさで使い回されているのにクラクラっとしてしまったのは、授業で疲れていたからではないと思う。やれやれ。

Oxford University Press から公開許可に関するメールの返事が届く。Fax 番号を教えろということなので、おそらく書類が Fax されてくるんだろう。

03年06月24日 22時23分 着信

大学のメールサーバ(メールゲートウェイ)がメンテナンスで停止していた関係で、メールの配送が停止していた。まぁしょうがないか。セキュリティの関係で、学内に個別に設置したメールサーバは、すべて配送は大学のメールゲートウェイを経由することになっている。そのため、このサイトのリストサーバや、自分のメールサーバのメールが、すべて配送は一時中断になっていたのだった。

WWDC でのジョブズの講演のストリーミングを見る。G5 はよさそうだぁとか、新しい OS X 10.3 はすごそうだけど重そうだなとか、Finder のインターフェースを思いきって変えてきたなぁとか、色々と楽しめる内容であった。それと、当たり前のことではあるが、Jobs も歳をとったな。講演とデモでは眼鏡を換える(老眼鏡に換えるんだと思うのだが)のを見ていて、そう思った。

今日は外書とゼミの日。ゼミでは「自分に足りないもの」というテーマで各自に発表をさせる。こういうテーマなので、当然のことながら、学生達は自分の欠点などを述べるのだが、それに対して、自分の「弱さ」を強くするという発想ではなくて、その弱さを認め・受け入れた上で、その弱さを「豊かにする」方法を考えたほうがいいんじゃないのといったことを話す。弱さの豊かさ、弱さゆえに分かる/体験できる豊かさもあるといったこと。

昨日「創発民主制」を読んでからずっと感じていた違和感というか怒りにも似た感じというのは、結局のところ、創発はマネージメント/コントロールできないからこそ創発なんだろうがぁ、このバカやろー!ってのに行き着くように思う。論理的な厳密さを欠いた(もっとも『創発』を読んでどうこういうのなら、蟻じゃなくて粘菌の話をしろよとは思う。粘菌に触れないセンスの悪さへの批判もあるかな)プロパガンダじみた文章であること自体はどうこういう問題ではないと思う。ただ、あまりにも概念を粗末に扱うのはいかがなものか、ということだ。それぞれの概念やコンセプトに対して、もう少しリスペクトする姿勢があってもいいんじゃないか。キャッチコピーと概念/コンセプトを同じに扱うな、ということかな。で、創発や自己組織化という概念に託されたものをまじめに受け取るならば、間違っても、マクロなパースペクティブなんて語れないはずだ(もっとも、この点では『創発』という本も怪しいところがあって、アメリカ人的なというべきような能天気な管理の発想が入り込んでいるんだけど)。あくまでもローカルな状況で各自が己なりの振る舞いを行うことが、結果的に神の視点、あるいは地図的な視点から、事後的に見るならば、マクロなパターンなりオーダーなりが見いだせるということに、創発や自己組織化の真髄はあるはずだ。Linux のムーブメントは、今や、オープンソース云々という大げさなものになってしまっているが、エリック・レイモンドが「伽藍とバザール」などで述べたことは、あくまでも後付けにすぎない。Linux という出来事を、なんとか納得できるものにするために、あれこれとリクツをひねり出しているにすぎないとすら言えるだろう。実際に起きたことは、ある人が Just for Fun で始めたことが、Accident =事故的に革命ともいうべきムーブメントを引き起こしたということだけだ。この Accidental であることにこそ創発や自己組織化の醍醐味があるのだ。実際に行動している個々のオペレーターにとっては、創発は、事故的に生じたことでしかないはずだ。間違っても、意図的にオーダーやムーブメントは作り出せない。partial なものが impartial であることを指向する限りにおいて、疑似的な俯瞰する視点(地図的な視点)から語りたくなるのは分かるのだが、あくまでも impartial なのであって total とか genereal ではないことを踏まえる必要があるだろう。

Oxford Univ. Press からチューリングの論文の公開許可に関する書類が Fax されてくる。Fee を送らないといけないのだが、その前に、書類を熟読して、公開に伴う制限をどのように記すかを考えないといけないだろうな。

03年06月25日 22時52分 着信

Oxford University Press から公開許可の書類が Fax で送られてきていた。$100 のフィーは3ヶ月以内に支払えばよいということだ。さっそく意訳ページに Copyright や利用条件を明記する。これでグレーな状態ではなくなったというところである。

銀行に行って $100 への両替を依頼して5千円札を出したら、おつりの中に2千円札が入っていた。なんか久しぶりに見た。おお、まだ生きてたかぁというような驚きがあった。

『ピラニア・クラブ F1マネーに食らいつけ』(ティモシー・コリングス)が届く。予想通り面白そうだ。

FD に関する議論のたたき台になる文書を作っていたのだが、細かなことを考えると、色々と大変だなぁと改めて感じる。今週中には仕上げないといけないな。

03年06月27日 11時00分 着信

昨日の看護学校の授業では情報化社会とコミュニケーションってことで、生身の対面のコミュニケーションこそ「自然」で「本当」のものだと考えるのはおかしいぞ、という話を展開する。文字だけのコミュニケーションには、文字だけだからこその「つながりかた」「つたえかた」があるわけで、それは生身の対面コミュニケーションでは成立しえないものだってある。そういう話に携帯電話の技術的な話なんかも織り交ぜ、最後は人間のコミュニケーションになにかを「自然」とみなすという発想を持ち込むこと自体が間違っていることなんかを話す。仮想現実と virtual reality の視線のベクトルが反対になっているという持ちネタなんかもおりまぜつつ。比較的涼しい天気だったが、やはり汗だくになった。

Software Design とか日経コンピュータ、日経インターネットソリューションなど研究費で講読している雑誌に目を通す。

EIMS をメール送信用のツールとして使えるよというコメントを WSM に書き込んでいて、そうか、この部分を AppleScript/AppleEvent で制御するソフトを作れば、Web サーバと EIMS を同じマシンで動かしている人なんかはメール送信を利用する CGI が作りやすくなるなぁと思う。RFC822 形式のデータに変換しておいて Incoming Mail フォルダに入れておけば EIMS が送信を行ってくれるわけだが、日本語のメールの場合、漢字コードの変換、それとヘッダ内の漢字の MIME 形式への変換が面倒なわけだ。で、ここの部分は UVJ Mailer ですでに作りこんであるので、ようは UVJ Mailer の送信部分を切り放して、メールのデータを調えたら EIMS の Incoming Mail フォルダへファイルとして書き込んでしまうようにすればいい。UVJ Mailer では、Spool へバックアップを作る関係で、送信時に整形している部分があるのだが、そのあたりを書き換えればなんとかなるなぁ。もっとも、今の UVJ Mailer に手を加えるのではなく、UVJ Mailer で用いているメソッドやモジュールを再利用して新しいものとして作った方がすっきりしたものになるだろう。 …そんなことを考えていると、久しぶりにプログラミングをどっぷりとやりたくなった。

03年06月27日 13時32分 着信

昼ご飯食べながら UVJ Mailer の EIMS 版(ってのもへんだけど)についてつらつらと考えていたら、重大なことに気がつく。REALbasic 1.x って STR# リソースを STR# として扱えないじゃん。STR# のデータを無理やり文字列で作ってぶち込むしかないってわけか… やれやれ

今日の午後は情報システムの講義。今日はウイルスの話。最近のウイルスの状況をちょいと調べていたのだが、相変わらず HTML メール絡みのトロイの木馬型が流行りのようだなぁ。

03年06月28日 09時49分 着信

やれやれ朝9時に大学に来てサーバのメンテナンスをしちゃう自分がここにいるよ。しんじらんな〜い、って感じ。おまけに、これから昼間の混雑を避けるために開店直後に SC へ行って夕食の買い物をしようってわけだし。今日はパスタと決めているが、ソースが決まってない。

『ピラニア・クラブ』をつらつら読んでいるのだが、F1 界を彩ってきた人物列伝って感じで面白い。

03年06月29日 17時50分 着信

今日から一週間、妻は東京へ出張。週の前半は娘は妻の実家に預かってもらうことになった。娘にとってははじめての「お泊まり」である。はたしてどうなることか、ちょっと心配。

妻を JR の駅まで送ってから久しぶりに駅前の紀伊国屋書店へ。『公家ハルコンネン』(ブライアン・ハーバート&ケヴィン・アンダースン)全3巻と『クリプトノミコン』(ニール・スティーヴンスン)全4巻を購入。ともにハヤカワ文庫。『クリプトノミコン』は、チューリングが出てくるということだし、同じ作者の『スノー・クラッシュ』は面白かったので、読んでみることにした。

"Alan Turing the enigma" をようやく読了。最終章はややうっとおしいという感じもあったが(だが筆者が一番書きたかったことなんではないかとは思うのだが)、それでも600ページ弱の英文を一気に読んだのは久しぶりではある。チューリングの評伝の決定版だろう。さて、意訳の方の仕上げに取り掛からねば。

03年07月01日 07時36分 着信

昨日は Mac の授業の日。来週は休講なので、学生達に Mac を貸し出して、思う存分遊んできてもらうことにした。この授業もあと少しで終了だが、やっぱ難しいもんだと感じている。というのも、パソコン自体が好きだとか、プログラミングをやってみたいといった関心があるのであれば、それなりに突っ込んだ話や解説ができるのであるが、そうではない「普通」の学生を相手に、何をどこまで教えたらいいのか、正直、自分でも戸惑う。Finder でのファイル操作だとか、ユーザーごとのホームディレクトリというものの意味(マルチユーザー環境)、コントロールパネルの各項目の設定内容、あるいは緊急時の対処の仕方、この程度のことを教えたら、あとはどうするんだ、って感じだ。ターミナルで BSD に触れてもらうっていっても、普通のアプリケーションを使うユーザーにそれがどこまで「役に立つ」知識なのか疑問だしなぁ。Inside mac の System Overview あたりを読んだりするのも面白いとは思うが、単なる自己満足になりそうだしねぇ。まぁ、学生達は楽しそうに Mac に触っているので、初年度としてはこれでよいかなという感じ。

卒業生が研究室に遊びに来る。トヨタ系列のディーラーに勤めている学生なのだが、元気そうに仕事をしているようだった。話す内容が、それなりに社会人してる。

ボーナスが出た。ボーナスで買いたいものがあるわけでもないので、とりあえずは貯蓄かなぁ。

妻の実家に預かってもらっている娘は、元気にやっているみたいだ。

『クリプトノミコン』を寝床で読み始める。チューリングがからむ話の部分は the enigma に書かれていた事実とちゃんと符合するようになっている。ところどころ、やや冗長とも思える暗号に関する説明が入るのがちょっとうるさいが、気持ち良く読み進めることができる。

03年07月02日 13時16分 着信

回線の障害が起きているようで、ネットの速度が無茶苦茶遅い。やれやれ。研究室に来たら、いくつかのページをチェックするのが日課になっているのだが、それができない状態だ。

昨日は外書とゼミ。ゼミでは「おやじ、おばさんの定義」というテーマ。皆、細かな特徴を並べ立ててきて面白かった。ゼミが終わってから FD の書類を書き上げて、夕食の買い物をして帰宅。帰宅してからは、ねっ転がって『クリプトノミコン』を読み続けていた。

03年07月02日 14時23分 着信

研究室でサーバを動かしていることの利点?として、サーバのモニター画面を見ていれば、ネットワークの調子がだいたい分かるというのがある。先ほどから学外へのアクセスが無茶苦茶遅い(ということは学外からこのサイトへのアクセスも遅い)状態が続いていたのだが、それが解消されたことが、サーバのログウィンドウのスクロールの速さでわかったりする。また、同時アクセスがどれくらいになっているかといったこと、そしてもちろん、個々のアクセスのデータ転送に要した時間、こういったことを、なんとなく眺めていると、ネットワークの調子がわかるわけだ。このサイトは、現在では、CGI と HTML のデータの送出しか行っておらず、画像データなどは全てサブのサイトが行うようになっている。また、昼間は1時間にせいぜい400ヒット程度のアクセスであり、同時アクセスが4以上になることは、まずない。だから、同時アクセスが立て込んでいる状態(これはWebSTAR のログ画面ではすぐに確認できる)が起きているようなら、どっかのユーザーがサイトのデータを丸ごとコピーするようなアクセスをかけているか、たまたま検索サイトのエンジンが複数かち合っているか(昔に比べたらみんなお行儀がよくなったと思う)、それかネットワークの障害がどこかで起きているということになる(もちろん、例外はいくつもあるのだが)。そんなわけで、サーバの処理速度が多少遅くなる(画面の作画処理が入るから)のは覚悟の上で(って言ってもそれがクリティカルになるような状況ではないが)、ログのウィンドウは表示し、ぼーっと眺めていたりするわけである。ホストの逆引さえもう少しはやく処理できるのなら、ホスト名も表示したいところであるが、さすがに DNS 周りの処理は遅くて影響が大きいので、それはあきらめている。

で、やっとネットがまともに使えるようになったら、これから会議だ。やれやれ。

03年07月03日 15時59分 着信

看護学校の授業から帰ってきて一息ついたところ。今日は「科学と物語」ってテーマで、実感と科学的事実との乖離に怪しい物語が入り込む隙があるといったことを話す。進化論(進化は進歩ではない)と血液型(性格判断の非科学性)といった、毎度のもちネタをここで使うのであった。

『クリプトノミコン』を読了。なんか最後はいまいちだったなぁという感じ。あれだけの分量読まされて、この結末かよ? もっとも、個々のエピソードは面白く読めたので、まぁ、それはそれでよしとする。

今夜から娘と2人の生活。ここ3日ほど久しぶりの一人暮らしだったわけだが、まぁ、確かに気楽な部分はあった。自分のことだけやればよいという生活はシンプルではあるしね。食事も結局、全部自宅で作って食べたし。もっとも、出来合いの惣菜を買ってきたりもしたのだが。そういえば、今日の新聞に、全国の主要都市の中で、食費のうちで惣菜の占める割合は福井市は全国一だったという記事が載っていたが、たしかにスーパーの惣菜売り場の充実を見てもうなずける。共働きが多いからだと解説があったが、たぶん、そうだろうな。ご飯さえ炊けばすぐに食事ができるというのは便利。また、たとえば天ぷらのように、自宅でするとちょっと面倒なものが食べたくなった時にも便利だしね。このところの一人暮らしの間にも、惣菜でひれカツとチキンカツを買ってきておろし味ポンで食べたりもしたし。もっとも、個人的にヒットだったのは、あさりを山ほどぶち込んだ和風味のパスタだったりする。市販の和風味のパスタソースを少し薄めて煮立てて、そこに砂抜きしたあさりをぶち込んでさっと茹でて、それにパスタをぶち込んで食うというもの。あさり2パック分を一人分にぶち込むもんだから、あらかじめ貝殻を外さないと器に盛ることができないというものだが(パスタをゆでている間に貝殻をせっせと外すのだ)、これがうまかった。

Jedit 4 の新しいバージョンが出ていたのでダウンロードする。ついでに、マニュアルにも少し目を通す。とくに初期設定の項目でいくつか気になっていた(というか、どういうことやねん?というもの)があったりしたので、この機会に読んでみることにした。自分としては、いまだに Jedit2 でも十分だったりする。エディタがスタイル付きテキストを扱うことに違和感があるってのはおかしいのかな?スタイルを扱いだしたら、そりゃワープロだろうって気がする。そういうこともあって Jedit3 はほとんど出番がなかったんだが(妙に落ちてたし)、OS X でのエディタということで TiBook では Jedit4 なのであった。まぁ、チューリングの意訳のように HTML を直接編集する形で作業するときには高機能なエディタは確かに便利だなぁとは思う。BBEdit が日本語を扱えるようになったらエディタはこれ一本だなと昔は思っていたのだが、いざ BBEdit が日本語をサポートしても、どうもしっくりこない(日本語の文書が開けられないこともあったし)。で、今のところは Jedit4 に落ち着いているのだった。

03年07月04日 13時10分 着信

昨夜は、娘を迎えに行って、いっしょに夕食を食べ、風呂に入って、いっしょに寝てしまった。日経 WindowsPro なんかをポチポチと読んでいたら、気がついたら寝ていた。最近、ほんとに夜が早くなったなぁ。

今朝は、みそ汁を作って娘と一緒に朝ご飯を食べて、娘を幼児園につれていき、帰ってきてから不燃ごみ/資源ごみを出して、新聞を読んで一息ついてから、大学で会議。やれやれ。朝の娘の世話を一人でするのは初めてだったが、やっぱ慣れてないこともあってドタバタという感じであった。

Acrobat 6 が届く。まだインストールしていないのだが、考えてみたら、単にPDFを作るだけだったら、OS X では Acrobat はもう不要なんだよなぁ。文書管理の色々な機能がついているが、ほとんど使ってないし。このソフトも、そろそろ改めてマニュアルをしっかり読み直す必要があるかもしれない。

この後、情報システムの講義。今日のテーマは Web なのだ。

03年07月06日 22時18分 着信

昨日は朝からこってりと娘と過ごす。さすがに一日中一緒に過ごすとなると大変ではあった。まぁ、こっちもはじめてのことなので気合いが入りすぎていたということはあるかもしれないが。疲れが出たのか、夜は食欲がなく、何も食べずに寝てしまった(昼食にこってりとパスタを食いすぎたという気もするが)。

今日も体調がいまいちだったので、布団でごろごろと『重力と力学的世界』(山本義隆)を読む。読み出すと入り込んでしまった。数式の部分はさすがについていけないのが残念だが、重力というものが持っていた(孕んでいた)問題の面白さに、あらためて気がつかされたという感じがする。また、ガリレオ−ニュートン−デカルトによる近代科学の夜明けといった図式が、いかに大ざっぱでイデオロギー的なものかを改めて確認できた。今日は、このままこの本を読み続けることにする。

03年07月08日 16時09分 着信

40歳になった県職員の定年齢1日人間ドックということで、朝から福井県健康の森にある県民健康センターで検診を受ける。人間ドックにかかるのは初めてで、バリウムを飲んで胃の撮影をしたり、超音波による検査を受けたり、初めての体験であった。バリウムを飲むのは初めてだったが、バリウムはそんなに飲みづらいとは思わなかったが、胃を膨らませるための発泡剤を飲んだ後でげっぷが出そうになるのが大変だったという感じ。最近ではバリウムも飲みやすくなっていると聞いていたので、確かにそうだなぁと思ったりしながら、ぐるんぐるん振り回されながら撮影を受けたりした。検査結果の速報では、酒の飲み過ぎでやや肝臓に負担がかかっているということであった。まぁ、やっぱりそうだったかなという感じ。精密検査などが必要というほどではなく、毎日の生活に気をつけろとのこと。酒を減らして運動しろってことであった。福井健康の森に行ったのは初めてであったが、健康センター(ここはもっぱら検診を行う施設のようだ)を始めとして、立派な施設(温泉なんかもあった)が、小高い山の中に散在していて、なかなか素晴らしい施設であった。問題は、けっこう市街地から離れており、車を持っていないと行けないロケーションだということかな。まぁ、福井は車社会になっており、成人は一人一台が当たり前といってもよい状況なので(学生に聞くと祖父母、父、母、兄弟、自分で家に車が4,5台あるっていうのも珍しくない。もっともそれだけの車を置けるような家に住んでいてこその話ではあるが、兼業農家が多く、けっこう3世代同居はある)、しかたがないかもしれないが、こういう施設の利用が意味を持つ高齢者なんかにとっては、この場所は行きやすい所とはいえんよなぁと感じた。

定期健康診断の代わりなので、授業などの職務は一日免除になり、外書やゼミは休講になった。しかし、検診そのものは午前中に終了したので、帰りにショッピングセンターによって夕食の買い物をしてから、自宅に帰る。

自宅に戻って一休みしてから、『重力と力学的世界』を読み上げる。人間の営みとしての物理学の物語として、非常に面白かった。自分の中での「物理学」というものの捉え方が変わったという感じである。この本の大きなテーマとしては、最終章である第15章ケルヴィン卿の悲劇の最後に書かれている:

科学のある時点での現在高は,いかに精巧で完備に見えようとも,その概念や道具立ては歴史的・社会的に制約されたものでしかなく,その科学にもとづいて形成された世界像が超時間的・絶対的に妥当するというのは迷妄にすぎない.

という記述に集約されるだろう。ごりごりのマルクス主義的な社会史観がところどころに顔を出すのには閉口するが、その点を抜きにしても(というと筆者には失礼かもしれないが)、十分に刺激に満ちた本であった。たとえば、大学の1年生ぐらいの時に、この本と、この本に書かれている古典物理学のモデル(数式)を解説してくれるような授業に出あっていたら、自分の人生も少しは変わっていたかもしれないと思わないではない。少なくとも、大学1年の6月のよく晴れた日に数学に別れを告げるようなこと(って、ようは数学の授業はさぼることにしたんだけど。それでも外積の計算問題が解けたおかげで単位だけはもらったのを憶えている)はなかったかもしれない。…そうすると、今ごろは、バリバリの新古典派経済学をやってたりするのかもしれないが。

山本義隆氏の近著も読もうかなという気になってきている。でも3巻本だしなぁ…。

WSM での書き込みに昨日コメントしながら思ったのだが、最近の日記サイト(ページ)は、blog に代表されるように(って言っても詳しい仕組みは分かってないのだが)、ブラウザでオンラインで記入するタイプのものが主流になってきているようだ。しかし、自宅では ISDN のダイアルアップ接続である自分にとっては(なんせ ADSL のサポート対象外っていうか、おそらくリーチでの 1.5M タイプがかろうじて使える程度だと思われる地域に住んでるので、常時接続したいなら光ってことになると思っている)、メールで投稿できないと意味がないということで、このページのスクリプトをリストサーバとの連携で組んである。メールサーバやリストサーバを自分で動かしている環境なら、このページのような仕組みを組み上げるのは、それなりのスキルがあれば、難しいことではない。色々と制約がある分、かえってメールを使うシステムの方がシンプルになるようにも思う。とはいえ、確かに、メールに関する知識や、メールサーバの動作に関する知識、あるいはそれをスクリプトで処理できるためのスクリプティングのスキルといったものが必要なわけで、決してハードルが低いとは言いがたい。EIMS あるいは SIMS と連携して動くメール日記ソフトを作れば、使ってくれる人も少なくないのかもしれないなと思った。ただ、それぞれのユーザーのサーバ上で要望を聞きながらスクリプトを書くのなら話は簡単なのだが、誰もがインストールしただけで使えるような汎用のツールに仕立てるのは難しいだろうなぁ。こういった点は、いつも感じる。WSM に相談を投稿してくる人たちの、その人のところへ行って、具体的な解決策を示す(作る)方が、会議室で一般的なレベルでの回答をしたりするよりは、ずっと簡単(たとえ作業量は多くとも、するべきことが具体的に見えていて、自分で実際にやってしまえばいいだけの話なので)だと思うことが多々ある。道具の持ち腐れっていうと失礼なんだが、そこにそれだけのツール(ソフト)や OS があって、なんでそれを使わないの、とじれったくなることがあるのだ。このへんは、MacOS はもう古い云々って話ともつながっていて(少なくとも自分の中では)、MacOS でやれることをやってみろよぉと言いたくなることがあったりする。まぁ、市販のマシンでは動かなくなった OS に固執する気はないだけど。

そういうことを思うとき、やっぱ、コンピュータを使うに当たって、プログラミング(パソコンを自分のイニシアティブで使いこなすという広義の意味で)ってのができるかどうか(やる気があるかどうか)は大きな問題かもしれないなと思わないでもない。もっとも、このように感じること自体が少数派であることなのかもしれないが。

さて、チューリングの意訳なんかをぽちぽちとやることにしよう。

03年07月09日 10時14分 着信

山本義隆氏の『磁力と重力の発見』全3巻を丸善に発注する。その際に気がついたのだが、彼はカッシーラーの『実体概念と関数概念』の訳者でもあったのだった。この本、買ったまま読んでない本の1つなんだが…。とりあえず、訳者あとがきだけでも読むことにしよう。

どうも Phantom が不審な動きを見せる。Robot が OT 絡みの処理でバグっている感じがする。やれやれ。

03年07月10日 08時00分 着信

昨日は午前中は会議。カリキュラム移行に伴うごたごたが多くて困ったものである。午後は研究室に溜まっていた書類などの整理をして雑用をこなしていたら幼児園から電話で娘が熱を出したとのこと。とりあえず自宅に戻って娘を迎えに行き、家で絵本を読んでやったりして寝かせていた。夕方、妻の母親に病院に連れていってもらう。自分の車にはチャイルドシートが付いてないので、こういうときには身動きがとれないのだ。熱はあるのだが、娘は元気で、食欲も十分であった。

『生命40億年全史』を読み始めて、なんかこの文章のノリは読んだ気がするなぁと思って著者紹介を確認したところ、読みかけで止めてある『三葉虫の謎』の筆者であることに気がついた。なるほどねぇ。こちらの方が、翻訳がこなれている感じで読みやすい。こういうちょっと文学的なノリの科学読み物を書くのは、やっぱ自然哲学の伝統があるイギリスの特徴かなぁと思う。

アマゾンでプラネタリウムを自作した人の本なんかを購入。またもや未読の山が増えることになる…

03年07月10日 08時53分 着信

そういえば、昨日は研究室の Windows XP のマシンから OKI Microline12N を使えるようにするために、ドライバーのインストールやらプリンターの設定やら、ドタバタしていたのだった。ML12n は Win からはネットワーク経由での印刷をする時には lprプリンターとして動かすことになるので、まず ML12n が DHCP で IP アドレスを取得できるように設定し、学内の DHCP 利用申請を行い(アドレスはスタティックに割り当ててもらうようにして)、で、Win にドライバーのインストールなんか。Win 2000 用のやつを使うことになっているらしい(OKI Date の web サイトによると)のだが、Win 95 用のドライバーを入れて、接続ポートを TCP/IP の lpr に割り当てたら、とりあえずは動いた。これでいいんかいな?という感じではあるが、まぁ、動くんだからよしとしよう。

03年07月11日 14時03分 着信

昨日の看護学校は人権の思想史。ホッブスとロックの社会契約論の比較といった社会思想史の講義のネタを話す。

娘は妻の母親に預かってもらっていたのだが、自宅に帰ってからしばらくは寝ようとせず、絵本を全て読まされることになった。

今日は朝から教務関係の会議。その後書類作りなど。そしてこの後、情報システムの講義。

Sony の StoreStation も DHCP で IP を取るように設定を変更した。これで研究室の WinXP などと同じサブネットに入ることになり、アクセスが簡単になった。Win XP に OKI の LPR 管理用ソフトを入れて、これでほぼ、研究室内の各パソコン機器の連携もスムーズに行えるようになった。大学の書類は Word のファイルなので Win で作業を行っていたのだが、確かに Win 上の方が Word はスムーズに使えるかなぁという感じではある。もっとも、比較できるほど Mac 上で Word は使っていないのだが。

かつてバカスタックで有名だった EV さんこと細馬さんが blog /日記に関したコメントをある掲示板でしていたのが、仲間の ML で話題に上がっていて、それにコメントとして書いたものを再録しておく。細馬さんの意見は The Beach : 日記メニューの7月7日の日記で読める。細馬さんらしいコメントではあると思う。

[以下、ML に送ったメールより]
私自身は、日付の問題よりも、等好内容にタイトルを付けるかどうかって方が大きな差異をはらんでないか?と思ってます。日記の場合は、基本的には、日付だけ(書き込み時にせよ着信時にせよ)が普通だと思っているのですが(色々なものが時系列だけで並べられるのが日記)、最近は、タイトル付で書き込まれているものが多いでしょ? ああなると、日記ではなくて、書き込みって感じがするわけです。blog はそれが明確に出てる一つの形態ですね。

日記と blog がどうこうという論争(?)は不毛だと思いますが、書き込みにタイトルが付くのか、それとも単に日時だけなのか、という違いについては、ちゃんと考察すると面白いものがあるんではないかと思ってます。

個人的な感触だと、タイトルを付けるってことは、第3者が読むことを前提に書いている、すくなくも自分の中で第3者的なちょっと距離をおいた視点から見て記述する、そういう動きを生んでると思う。反省の契機があるってところかな。それが、疑似的な客観性というか、私的な思いではなくて他人を誘うスキを生んでるようにも思います。連帯・連携をどこかで指向してるって感じ。

日付だけで並んだ古典的な(?)日記は、書いたことに対する共鳴や共感を求める指向はあっても、連帯はないような気がする。

03年07月11日 20時38分 着信

アマゾンに注文してあった『プラネタリウムを作りました』(大平貴之)が届く。超高性能のプラネタリウムを個人で作ってしまった人の記録である。さっそく読み始めたが、すごいわ、やっぱ。なんていうか、作りたいという気持ち一つでここまでやれるもんなんだなぁという感動がある。もちろん、都会に住んでいたとか、良い助言者に巡り合えたとか、いくつかの条件が恵まれていたのは事実だろうが、それでも、作ってみたいという気持ち一つで個人がここまでやれるものなんだという感動がある。

夕食の買い物に行ったついでに、電器量販店で USB ハードディスクの 60G を購入。ささやかなボーナスの喜びってところかな。以前に買った USB 外付けのものの最新版ってところのものである。こっちはバックアップ専用に使うつもりなんだが、60G もあったら余りまくりだなぁ。ただ、このメーカー(メルコのバッファローのやつ)は、USB のコネクタが貧弱だという問題点があって、今回新たに購入したのも、これまで使っていたやつのコネクターが痛んできてたというのもあるのだ。miniB の USB 端子ということになっているが、事実上はこのメーカの製品のコネクタみたいなもんだろう。確かに小さくするには独自規格(?)のコネクタにしたいのは分かるのだが、ケーブルのプラグが貧弱な作りにするのはやめろよなと言いたくなってくる。こういう妙なところでコストダウンを計るのが最近の日本製本の特徴のような気もしないでもない。決して良いことだとは思わない。

今晩の夕食はカレーうどんということで、帰宅後、タマネギと牛肉をだしで煮込んでいる。これにカレールーを入れて、うどん(もちろんカトキチの讃岐うどん)にかけてたべるわけだ。

03年07月11日 20時42分 着信

Apple の ADC Select の期限切れが近づいていたので、更新する。年間 $500 は安いとは言えないが、最新の OS や Seed が得られるというメリットがあるので、今年も更新することにした。

03年07月12日 16時17分 着信

昨夜は『プラネタリウムを作りました』を読み上げる。

今日は妻の実家に出かけて昼ご飯をご馳走になる。その後、研究室に来てサーバのメンテナンス。研究室のイーサーケーブルの接続を整理したりもしていた。16 ポートのスイッチングハブが、なんで個人使用のパソコンだけで埋まってしまうのだろう(笑)まぁ、サーバとか動かしているとはいえねぇ。

長年愛用している Nisus Writer の OS X 版が出ていた。さっそくダウンロードして明日にでも使い心地などを試してみる予定である。インターフェースの大幅な変更等がないといいんだけどなぁ。

03年07月13日 08時01分 着信

Nisus の OS X 対応版である Nisus Writer Express のデモを使ってみた。ワープロとしては使い易いかなという感触であるが(日本語の入力なども問題ない)、ルーラーに名前を付けて管理できるという Nisus で自分が一番頼っている機能が欠けている。やれやれ。画面表示サイズなどをスライダーで直感的に設定できるなど、気に入った機能もあるし、何より Word のような重いソフトに比べて、すっきりしていて見通しが良いとは思う。う〜ん、アップデートするかどうか、思案のしどころではある。

今日は自宅でチューリングの作業などを行う予定。

03年07月13日 18時34分 着信

ようやくチューリングの論文の意訳である異本「計算する機械と知性について」の最初の公開版の完成にこぎ着けた。全部で 153K にもなってしまった。まぁ、あれこれと補足なんかを書き加えていったからなぁ。最後にチューリングの模倣ゲームには2パターンがあるということを簡単にコメントして書いておいて、完成とした。やれやれ、これでようやく1月からずっと付き合ってきたチューリングとも、一区切りできる。なんか思いもよらなかったとこまで来ちゃったなぁという感じではあるが、楽しかったからよしとしよう。Just For Fun ってやつね。

03年07月14日 14時41分 着信

午前中は福井テレビの取材が入った。自宅に電話がかかってきて、ちょっと話をしていたら、コメントを撮影したいということで、研究室にて取材撮影ということになった。昨日に福井市内で起きた爆弾事件の犯人が、インターネットで爆弾の作り方の情報を得たということで、インターネットについてコメントが欲しいということであった。インターネット自体を良いとか悪いとか言っても仕方がないこと、情報の完全な規制はもはや困難であること、色々な情報があふれていることを前提にした社会のあり方を考える必要がある、こういう事件があるとすぐにインターネットが悪いかのように言われるがそれはおかしいということ、なんかを話す。カット&編集されて夕方のローカルニュースの中で流されることになるようだ。

Mac の授業の最終回。学生達に感想なんかを聞いていたのだが、おおむね、皆、Mac の体験を楽しんだようで、これはこれでよかったかなという感じである。自分としては、もう少しシステマティックに授業が行えればよかったかなということや、もっと早い段階から貸し出しを行っても良かったかなという気がしている。夏休みが終わるまでは、そのまま Mac を貸し出すことにする。

昨日完成させたチューリングの意訳がプロジェクト杉田玄白に参加できるかどうか、主催者の山形氏にメールで尋ねたところ、問題ないとの返事(すでにプロジェクト内に翻訳が存在することや、意訳であることから難しいかなと思っていたのだが)。Oxford University Press から得た公開許可による制限があるので、協賛テキストという位置づけになると思うが、近日中に登録されることになると思う。

03年07月14日 16時44分 着信

お、さっそく杉田玄白に登録されている。ということで、自分のページにもその旨を書いておいた。

03年07月14日 22時01分 着信

福井テレビの取材は、結局、テレビでは使われなかった。テレビ局の取材担当者からお詫びの電話がかかってきたのには、かえって驚いてしまったけど。

コンテンツ料金という名目の詐欺のメールが再び届く。これで二本目だぁ。以下に転記しておく:

From : mail.nakamura.5501@ezweb.ne.jp
Subject : 中村総合事務所通達
弊社は貴殿が利用されたコンテンツ事業者(アール)より未払金回収を任された者です 何か事情がお有りの事と思いますので延滞 違約金の減免処置を致します 最終約定期限内に必ずお振込下さい [平成15年7月14日15:00 \51,520 みずほ銀行王子支店普通8061036ナカムラユタカ]入 金頂けなかった際は弊社に対する挑戦と判断し正規額\83,420+IP調査料\150,000+実費(通信交通費等)での請求となり積極的な回収を行います

IP調査料ってのが笑わせるねぇ。15万円もかけないと IP 分かんないのか(笑)で、使ってるのは Docomo の携帯なのに ezweb から来てるよ。

03年07月14日 22時15分 着信

そっか、別に詐欺メールの差出人のアドレスが ezweb だってことは、別に何でもないことだな。それと、IP調査料っていうけど、そもそも携帯で web にアクセスした時って、ゲートウェイの IP しか分かんないもんじゃん。

Nisus Writer Express へのアップグレードを申し込んでしまった。今後、機能を充実させていくということなのでちょっと期待してるが、それよりも今のシンプルさは無くさずにいて欲しいかな。Nisus (Nisus Classic) も、結局、色々と機能を欲張りすぎたと思う。

03年07月16日 10時38分 着信

昨日は外書とゼミ。外書はこれで前期の授業が終了。条件判断の話まではたどり着いたが再帰と繰り返しには届かなかった。ゼミでは新書を読んできて紹介するやつの今年度2回目。このテーマの演習で同じ本を選んでくる学生がまだ出てないというのは不思議ではある。個々人の関心がけっこう違っているということか、あるいは新書がそれだけ数が多いということか。

丸善に注文してあった『ベルクソンの哲学』(檜垣立哉)が届く。ドゥルーズのベルクソン読解に沿ってベルクソンの哲学を解き明かした本。序論に目を通したのだが、さっそく引き込まれている。う〜む、これを読むべきか、それとも『生命40億年全史』(こっちも面白くなってきたところ)を続けるべきか。いずれにせよ、チューリングが一区切り付いたので、これからはコミュニケーションと哲学に比重を移して、ルーマン、デリダなどの未読の山に突入する予定ではある。

先日買った 60G の USB バスパワー駆動のハードディスクが Mac では作動しないことが多いので、外付けの電源を接続してみたところ、きっちりと動くようになった。20G のやつではこういう問題は全然起きてなかったので、バスパワーのやつでも安心して使えるもんだと思っていたのだが、60G のディスクではそうもいかなかったようだ(内部の USB ブリッジの仕様が違うのかもしれないけど)。いずれにせよ、この 60G はバックアップ専用にしようかと思っているので、普段は電源を持ち歩かなくてもいいわけではあるが。ちなみに、外付けの電源は、同じメーカーの USB 接続の MO ドライブ用のもの。バスパワーの USB ディスクを持ち歩くようになって、すっかり MO の出番がなくなってしまったなぁ。

今日の午後は教授会。

03年07月18日 09時09分 着信

昨日の看護学校の授業は、夏休み前最後の授業。学生達に書いてもらったテーマにその場で答えていく(語っていく)という毎年恒例の内容で授業を行う。やはり、恋愛、結婚、浮気/不倫みたいなテーマが多くあつまる。でも、同じテーマでも、年ごとに自分の語っていることは違っているような気もするなぁ。なんせ、その場で、ぱっと閃いたことを展開していくことにしてるので。

結局、『ベルクソンの哲学』を読んでいる。差異とか持続に関して、クリアーに整理されていて、読んでいて面白い。あとちょっとで読み終わる。

水曜日の教授会が終わると、娘を迎えに行く時間が迫っていたので、買い物に行くのをあきらめて、車で自宅へ向かいつつ、冷蔵庫のストックなんかを思い出しながら、娘と自分たちの夕食をどうするかを考えていたのだが、ふと、お〜、なんか家事してるなぁという気になった。途中のコンビニでベーコンだけ買って、あとはなんとかストックをやりくりして済ませられたのだが、こういうときは、ちょっと嬉しい。自分が書いたプログラムが思った通りに動いたときの快感に似てるかな。

今日の午後は情報システムの講義。その前に試験問題をどうするのか決めないといけない。あ、授業評価(アンケート)もやんないと。

03年07月18日 12時15分 着信

アマゾンに予約してあった『ウェブログ入門』が届いたので、『ベルクソンの哲学』に割り込みをかけて(スタックはもう一杯なんだけど)、さっそく読み始める。読みやすい感じの入門書かな。

あら、細馬さんの日記に先日の書き込みへのコメントが。なるほど、こういう時に、Trackback があると面白いわけね、とさっそく『ウェブログ入門』のお勉強の成果。まぁ、Trackback 自体は、本質的には、リンク貼ってコメント書いたよ通知機能だと思うので、ページ単位で Trackback ping を受け取るような CGI 作っちゃっても面白いかなと思うのだが、ウェブログのツールを使ってないとあんまり意味はなさそうだな。

情報システムの試験問題作りなどをポチポチやることにする今日の午後。

03年07月18日 14時04分 着信

授業準備の合間に、久しぶりに上海 II をやっているのだが(MacOS 9.2.2 でもちゃんと動くのだ、音はしないけど)、最後まで全然たどり着けない。う〜む、すっかり鈍ってしまっているな。

03年07月19日 07時58分 着信

『ウェブログ入門』を読み終わらないうちに、また割り込みがかかる。『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(村上春樹・柴田元幸)、それに『ミニチュア庭園鉄道』(森博嗣)である。いやぁ、イベント・ドリブンな読書って楽しいな。

ウェブログは情報システムの試験問題の一つに取り上げることにした(自分たちで調べてきておいて答える選択肢の一つ)。

03年07月19日 14時03分 着信

『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』と『ミニチュア庭園鉄道』を読み上げてから、研究室に来て、サーバのメンテナンス。読みたい本が待っているので、メンテナンスが終了したら、さっさと買い物へ行って帰宅することにする。

03年07月19日 17時37分 着信

自宅に戻って『ウェブログ入門』を読み上げる。後半の様々な付加機能の説明部分は、やや見通しが悪いものになっている(どうすればいいかということと、どういう原理なのかということのバランスがとれていない)とは思ったが、楽しく読み終えることができた。こういう本を読むと、EasyBBS とか、WSM で使っているCGIの改良とかをやりたくなるんだよなぁ。とりあえず、RSS をかき集めてきて自分用に表示するツールなら REALbasic 2 あたりで簡単に組めそうなので(Google API を利用するツールを書き換えるみたいなもんだろう)、やってみようかなと思っている。月曜日は研究室で試験問題の作成や授業ノートの公開版の仕上げなどを予定しているのだが、なんか寄り道してしまいそうな…

久しぶりにグレン・グールドの CD を取り出してきて、iTunes で取り込みながら読書をしていた。「イギリス組曲」、「パルティータ・プレリュード&フーガ」のバッハのやつ2つと、ベートーベンの交響曲5番をリストが編曲したやつ(きわものぽいように思うが、けっこう好きなのだ)。ひさしぶりに聴くと、やっぱグールドのバッハっていいなぁと思う。

日経バイトが届いていたので目を通す。

というわけで、『ベルクソンの哲学』に戻り、これを読み上げたら『生命40億年全史』なのだ。

03年07月21日 11時59分 着信

昨日は昼前から妻の実家にでかけて昼食をご馳走になり、その後もまったりと過ごして帰ってきた。夜は久しぶりに最後まで F1 を見た。面白いんだか、つまらないんだか、よくわからないようなレースだった。

今日は研究室で試験の準備や授業ノートの整理など。

03年07月21日 15時30分 着信

研究室でグールドの取り込みを続けながら、せっせと情報システムの講義ノートの更新作業を行っているのだが、やっぱ OS X は安心して色々な作業を同時に行えるよなぁと思う。ちょいとページを検索してみたり、あれこれとやりながらでも、iTunes は黙々と取り込みを続けてくれるし、原稿を書いている反応速度が鈍ったりすることもないもんなぁ。そういう意味では、確かに進歩だわな。

パソコンやネットワークに関する技術の基本的な原理などの解説を行うのが情報システムいう授業なんだが、毎年の状況の変化が大きいので、年度ごとに内容を更新していくのが大変ではある。それに、自分自身の関心次第で講義で重点的に触れるところが変わったりするからなぁ。前回の授業で恒例の授業アンケートを行ったのだが、例年通り、板書に関する注文が多く出てきていた。あと、授業が一方的に進んでいくことに対する批判などもあって、毎年のことではあるが、反省させられるものになっていた。ちゃんとした集計を行ってみないと、これまでとの違いははっきりしないのだが、登録学生数が多かったせいか、意見に幅があったようにも思う。総合評価はやや下がったかもしれないなぁ。大講義室でやることになった(どうしても物理的に学生との間に距離ができてしまうのは、自分の講義スタイルには合ってないようにも感じながらの講義ではあった)こともあるかな。

03年07月22日 16時39分 着信

午前中は『生命40億年全史』を読み続ける。

午後は外書とゼミ。外書は期末試験。テキストとは別の問題を解かせて、これを出席点に加算することにした。問題は Oxford University Press から出ている Practical English Usage の may/might の項目を読ませて、そこの例文を説明の用法にふさわしいように訳させた。ゼミでは夏休み前恒例の「無人島で1年間過ごすとしたら何をするか」。学生ぞれぞれに想定する状況や発想の視点が異なっていて面白かった。

RSS の書式などを調べて、このサイトや WSM の RSS を発行しようかと考えていたのだが、文字コードを UTF-8 にしなければならないのがネックになりそうだ。飯森さんの osax を使えばいいやと思っていたのだが、PPC でしか走らないのでLC475上では使えないのであった。さて、どうするかね。

03年07月23日 15時37分 着信

先日の健康診断の結果、胃の再検査が必要との連絡が来たので、あわてて、福井済生会病院へと出かけて、検査の予約をおこなうことにした。内視鏡、いわゆる胃カメラによる検査ということになるのだが、診察を受けると、予約無しでも受けられたことがわかる。しかし、今日はしっかりと朝食を摂っていたので、週末の土曜日に検査してもらうことにする。済生会病院に行ったのは初めてだったのだが、なかなか素晴らしい環境であった。受付やロビーなどは、ちょっとしたホテルのような雰囲気で、フルートの生演奏が行われていた。しかし、すっげぇ混んでた。ゼミの卒業生が事務で働いているのに会うことができ、軽く話をして帰ってきた。

研究室では情報システムの公開用の講義ノートの作成。過去の講義ノートにその年ごとの新しいテーマなどを書き込んだものを授業では使っているのだが、改めてまとめるとなると、けっこう大変。それに授業中にどんなふうにしゃべって解説したのか、自分でも忘れている部分があったりする。

今年もゼミ生などを中心としたワープロ検定3級の講習会と検定試験を行うことにする。今年は自分の授業の学生(ゼミ、外書、それに情報D)で16名になったので、追加募集は行わないことにする。9月の講習会の準備をやんなきゃ。

丸善に注文してあった『磁力と重力の発見』(山本義隆)全3巻とドゥルーズの『無人島 1969-1974』が届く。ちょうど『生命40億年全史』を読み上げたところだったので、『磁力と重力の発見』へと突入かなぁ。そういえば、この本の山形浩生氏の書評が朝日新聞に載って、いくつかのページで話題になっていた。今日になってネットで読めるようになっていたのだが、山本氏に予備校で接したことがある人には共感できるものなんだろうなという内容になっていた。もちろん、紹介もうまいのだが。

書評『磁力と重力の発見』 山形浩生(BOOKアサヒコム)

03年07月25日 11時32分 着信

昨日も今日も、もくもくと情報システムの講義ノートの書き直しを行っている。

SoftwareDesign と日経コンピュータが届いていたので、昨日は自宅で読んでいた。

FTP を使ったサイト管理にでも役立てようと Active Mounter を購入したのだが、Rumpus で動かしている FTP をマウントすると、なぜか、フォルダーが表示されない。なんでかな?

03年07月25日 13時36分 着信

やれやれ、やっと情報システムの講義ノートが完成したよ。10p のフォントで打ちだして A4 37ページ。多少は削ったが、それでも年々増えていくなぁ。

試験問題と合わせて Web ページで公開することを予告していたので、学生による学内からのアクセスがバンバン増えている。講義ノートも、公開してすぐにアクセスがあった。

03年07月26日 13時06分 着信

朝から済生会病院へ行って胃の内視鏡検査を受ける。8:30 から受付ということで15分ぐらい前に行ったのだが、さすがに受付は人がいっぱいであった。検査自体はすぐに済んだのだが、その後の診察までに2時間以上待たされた。まぁ、しょうがないとは思うけどね。胃炎ということで、とりあえず薬を飲むことになった。

胃カメラを飲んだのは初めてだったが、まぁ、確かに気持ちの良いものではない。初めてでこっちも緊張して妙に力が入っていたのだと思うが、最初はけっこう苦しかった。自分の胃の中をリアルタイムで見るというのは貴重な体験ではあった。のどの麻酔が切れるまでに2時間ほどは違和感が残るということであった、診察の待ち時間でそれが解消されてしまった。

どうせ待たされるだろうと思って『磁力と重力の発見』を持っていって読んでいたのだが、12時間以上何も食べていないせいか、頭がうまく動かないという感じで、せっかく2時間もあったのに、思ったほどは読み進められなかった。やっぱ病院で読むには、もっと軽いものの方がいいみたいである。

研究室に戻って、食事をして、これからサーバのメンテナンスである。

03年07月26日 14時44分 着信

昨日は情報システムの講義の最終回であった。試験に関する注意事項と行ったお約束の話をしておいてから、「ネットとうまく付きあうためには」ということで、利用の心構えみたいな話をする。野村一夫氏の『インフォアーツ論』なんかを参考にしながら、以下のようなことを話した。

情報に対して批判的な目を持つこと

情報は、必ず、誰かが、何らかの意図をもって発信するものである。情報は人為的なものであり、自然に流れることは絶対にない。そして、発信という行為の際には必ず編集が加わっている。「誰が/どんな人が、どんな意図をもって、いかなる立場から発信した情報なのか」ということを立ち止まって考えるようにすること。

調べること

どんな事件や出来事であっても、それに関する複数の情報がかならず見つかるのが今のインターネット。関心を持ったことについては、様々なページに載っている情報を比較吟味したりして、自分で調べるようにすること。特に社会的な出来事については、海外での報道などを調べるのも有意義(そのためには語学力が必要だが)。

コミュニケーション能力を磨くこと

言葉だけによって、的確に誤解されにくいように自分の意見を表現する力、相手の言葉から要旨をつかみ取る力、それを磨くこと(ある程度場数を踏まないと身に付かない能力ではあるが)。論理や意見に対する批判と人格批判とを混同しないだけの討論能力を身に付けること(特に趣味判断はとかく人格批判とごっちゃになりやすいので注意)。

社会感覚をもつこと

ネットのむこうには「他者」がいるということを忘れないこと。自分とは違う考えや感じ方を持った人間がそこにいるということ、自分の「あたりまえ」や「普通」は通用しないかもしれないことを心しておくこと。また、会議室や ML ごとに、その場の慣習やならわし、雰囲気がある。それを理解して行動すること。

情報システム活用能力を鍛える

自分のプライバシーを守る、自分のパソコンをウイルスから守る、あるいは自分のネットでのプレゼンスを確保する、こういったことが自分の手で行える程度には、情報機器を使いこなせるようになること。

実際には、もう少し砕いた表現で話をしたのだが、だいたい、こういう内容の話をした。 …本来は、情報システムの講義は、こういうネットワークでのコミュニケーションの問題や、そこでの振舞い方などを論じる講義にした方が面白いとは思うのだが、現状では、技術的な解説(それでも時間が足りないのでかなり端折るのだが)で手いっぱいである。技術的な解説無しでコミュニケーション論を展開するという手もあるのだろうが、現在のパソコンやインターネットは、一定の基礎知識を持たないと活用しにくい道具であるから、そちらをフォローすることを中心とした授業にしてある。まぁ、そういう実践的とは言わないまでも、パソコンやネットと少しでも仲よくなるための知識、下手の振り回されないようになるだけの知識を講義する目的で始めた授業だからね。

来年度からカリキュラム改革にともなって、経営組織論の講義時間が増えるのだが、そちらでは、組織論/コミュニケーション論的問題のケーススタディとしてネットの掲示板とかMLを取り上げてみるのも面白いかなと考えている。まぁ、その前に、きちんとしたコミュニケーションの原理を理論的に展開するようにしておかないといけないのだが。これに向けた作業が、この夏の課題かな。

03年07月28日 12時40分 着信

学内のネットワーク関連の工事に伴って、外部との接続が断続的に落ちているという状況なので、それを利用してサーバを止めて、このページの表示形式の変更を行う。これまでは TABLE の中に TABLE を入れ子にする方法でメッセージを表示していたのだが、1つのメッセージにつき1つの TABLE を使うシンプルなものに変更した。また、表示幅も、ピクセルで指定してあった部分をウィンドウ幅で指定(100%)にした。やっぱシンプルが一番だよなぁと思ったからだ。

で、このメッセージは、処理プログラムの動作テストを兼ねて投稿しているわけである。

03年07月29日 12時51分 着信

とりあえず研究室の G3 B&W に P ちゃんを入れてみた。TiBook よりももたつくのは 400MHz だからしょうがないね。ま、ぽちぽちと遊ぶ予定。

ワープロ検定の講習会のためのテキストの準備などを行う。また、商工会議所の Web ページに掲載されている情報などをチェックする。やっぱ3級は、とにかく入力をしっかりやることだなぁ。

日曜日の福井新聞に、勤務校のビジネススクール構想について、地域経済研究所(これも勤務校に付属の研究所)の教授がコメントを寄せていたのだが、まぁ、ようするに大学も地域社会(っていうか地域経済)に役に立つものになれ、あるいは経営学科を独立した学部にしろ、みたいなことが書いてあった。まぁ、こういう意見が出てくること自体は不思議ではないのだが、ただ、学生のことが何も考えられていないことが気になる。具体的には女子学生である。福井の地元の産業界が望むような、役に立つ教育を行う体制ができあがったとしよう。しかし、その半分を占めることになるであろう女子学生達を、ちゃんと福井の産業界は活用できるのか?地方の公立大学は、たぶん、どこでも似たようなものではないかと思うのだが、県外への進学を親に許してもらえなかった女子学生が進学してきて、彼女達はけっこう優秀だったりする。しかし、就職活動になると、苦労するわけだ。福井は共働きが多いというと、なにやら女性の社会進出が進んでいるかのような印象を受けるが、実体は、女性のパート労働が多いに過ぎない、旧態然とした男女差別構造の残る社会である。「いまつきあっている彼氏はいるのか? どんなつきあいなのか?」といった質問を平気で面接時に学生にする、そういう会社が特殊ではない、そういう土地だということに、就職活動を始めた女子学生達は気がつかされるわけである。で、こういう状況のまま、ビジネススクールなり経営学部なりを作って、「画期的な」教育を行ったら、女子学生はどうなるのだろう? まさか男子のみの大学にしてしまうのか? 女子学生向けには公務員受験講座でも開設するんだろうか?

03年07月29日 15時40分 着信

D. D. Jackson の新しいアルバムが発売されていたのにようやく気がついたので(Suite For New York)、HMV とアマゾンで調べたら、アマゾンの方が 24 時間以内に出荷とあったので、こちらで購入することにした。HMV の Jazz と Fusion の週間ランキングはメールで読んでいるのだが、ランキングに上がってくるようなアーティストではないので気がつかなかった(Web サイトもこのところ見てなかったし)。日本でもっと人気が出てもいいように思うのだが、やっぱ Justin Time というマイナーなレーベルから出てるからかな?

商工会議所の人に来てもらって日本語文書処理技能検定の受験の申込みや夏休みの課題の説明などを行った。講習会は9月1日からで、試験は10月2日に設定した。さてどうなることか。

03年07月30日 09時28分 着信

山本義隆『磁力と重力の発見』を読み続けているのだが、たとえば、次のような指摘に出会い、これまでの自分の考え方/モノの見方が浅いものであったことを痛感させられることが、こういう本を読む悦びでもある。

人間は欲することにより一切を認識し万物に君臨しうる、あるいは自然の主人にして支配者になりうるというこの想念は、中世における神と人間の関係を根本的に改めるものである。…。すなわち人間中心説は、それと裏腹に魔術の復権をともなっていたのである。実際、自然との関係において人間のこの能動性・主体性を保証する論理を提供してくれるものこそ、他でもない魔術であり、古代人の知恵のうちに隠されていたものであると考えられたのだ。

魔術=中世という図式が自分に染みついているがゆえに、この一撃はかなりきたぁ〜って感じであった。魔術思想が 15 世紀後半に復活したものであり、それは中世ではないということ!

03年07月30日 23時39分 着信

大学の同僚達との飲み会。会場に行くのに、久しぶりにバスに乗った。車の免許を取るまでは、バスを使って買い物などに出かけていたのでが、最近はすっかり乗らなくなっていた。久しぶりに乗ると、道筋の街の風景などがけっこう変わっていた。早めに大学を出て、本屋によってから飲み会に出かけたのだが、時間に余裕があったということもあって、しっかりと本を買い込んでしまった。本当は服部真澄の『GMO』が今日が発売ということで、それを買う予定だったのだが、本屋には上巻しかなかったということもあって、それは買わなかったのだが、替わりに(?)、

  • 『数の論理』保江邦夫
  • 『ウィトゲンシュタインはこう考えた』鬼界彰夫
  • 『教養主義の没落』竹内洋
  • 『コンサルタントの道具箱』G・M・ワインバーグ
  • 『アンチ・ハウス』森博嗣+阿竹克人

を購入してしまう。『数の論理』は、自然数とかたし算、引き算の論理を説明した本(数論ってやつか?)のようなので買ってみた。ワインバーグは、とりあえず買うことにしてある筆者の一人なんで、これも迷わず購入。でも、『磁力と重力の発見』がようやく3巻に入ったところなんだが、どう時間のやりくりをするんだと思ったりもする。まぁ、なんとかなるでしょ。

同僚の飲み会では、先日の福井新聞の記事(ビジネススクールに関する経済研究所の教授の意見)も話題になっていたが、自分の保身をにらんだコメントだという読みがやっぱ正解だという感じではあった。大学の人事というのは訳の分からないことが起きるというのは、自分のことを振り返ってもよくわかるのだが、今回の記事のタイミングや内容から察するに、どう考えても自分の保身という動機で書かれたものとしか読めないということがよく分かった。まぁそうだろうなとは思っていたけどね。

03年07月31日 15時33分 着信

朝から情報教育に関する会議。

Active Mounter について、アクティヴオープンの山田さんからメールをいただく。このページに書き込んだものを読まれたとのこと。Rumpus の FTP サーバでフォルダがうまく表示されない場合の Active Mounter のログなどを書いた返事を出す。山田さんからのメールにも書いてあったのだが、Rumpus でフォルダが表示されないのは、ディレクトリの権限の問題のようだ。Rumpus は、ソフトが独自でユーザーやアクセス権限を管理・設定するのだが、その設定に則した権限の情報を FTP の LIST コマンドで返していないと思われる。ただ、Rumpus 2.0.2という古いバージョン(なんせ LC475 で動かないと意味がない)なので、maxum に修正してもらえる可能性はないだろう。やれやれ。まぁ、Active Mounter は他の FTP サーバでは快調に使えているし、FTP 以外のプロトコルにも今後は対応していく予定のようなので、将来を楽しみにしながら使い続けることにする。…あの山田さんから直接メールをいただいて、ちょっとどきどき。

03年07月31日 17時26分 着信

丸善に注文してあった『人工市場 市場分析の複雑系アプローチ』(和泉潔)が届く。これもすぐにでも読み出したい本なんだが… …それなのに、夕食の買い物のついでに、『GMO 上・下』服部真澄、『そのフェラーリください!』清水草一を買ってしまう。 …山ごもりでもしてひたすら読書の日々を送りたいなぁ。でも、この週末は FD に関する報告書をまとめる必要があるのだった。

さて、娘を幼児園に迎えに行くとするか。

03年08月01日 08時37分 着信

D. D. Jackson の Suite For New York が届く。やっぱアマゾンは早いなぁ。さっそく聴いているのだが(夜はゆっくり Jazz なんか聴いてられない生活になってしまったのだ)、予想通りのゴキゲンなできである。タイトルから、たぶんso far に入っていた Suite New York を膨らませたものじゃないかと思っていたのだが、Hopes And Dreams という曲名で組み込まれていた。バンドで演奏すると、聞き慣れた曲もまた新鮮である。

Active Mounter と Rumpus について、アクティヴオープンの山田さんから再びメールをいただく。ディレクトリ権限の問題だと思い込んでいたのだが、どうやらサーバが返すディレクトリ情報のフォーマットの問題のようだ。UNIX の標準的な FTP サーバのものとは、フォーマットが異なっていることが問題だったらしい。さっそく Active Mounter の方で対応していただいたようなので、研究室に行ったら試してみる予定。Active Mounter でのサイトの管理はあきらめていただけに、ちょっと嬉しい。

03年08月01日 11時55分 着信

『アンチ・ハウス』を読み出したら、面白くてやめられなくなって、結局読み上げてから研究室に。

Active Mounter 1.2.1 で Rumpus 2.0.2 のサイトが問題なくマウントできることを確認。Finder で透過的にサイトの管理ができるのはやっぱ便利。さっそく報告とお礼のメールを出す。

03年08月02日 14時38分 着信

昨日は情報システムの講義。あらかじめ問題を公表してあったこともあって、何のトラブルもなく終了。230人分の答案を採点するのは大変そうだなぁ。やれやれ。

今日の午前中は『そのフェラーリください!』清水草一を一気読み。それから研究室にきてサーバのメンテナンスである。それから FD の報告書のまとめをやんないといけない。

これまで、自宅では、TiBook で普段はメールを読み、週1の割合で G3 の方にサーバに残してあったメールをすべて回収させるということでやってきていた。普段は落ち着いて読めない ML のメールなどを、とりあえず G3 の方に溜めておいて、時間ができたらまとめて読むつもりだったのである。また、 Junk Mail のコレクションを行っていたということもある。しかし、今日、この方式をやめて、TiBookだけでメールを読む(TiBook のメーラーがメールを落としたときには、サーバから削除する)ようにした。また、読まないままになっていた ML も unsubscribe した。さらに Junk Mail のコレクションも中止(このところ毎日の Junk mail が多くて、整理するだけでも時間をとられる状態だったので)。ちょっとすっきり。

03年08月02日 16時22分 着信

情報システムの試験の採点のポイントなどを書いておこうと、さっそくActive Mounter でサイトをマウントして作業を行ったのだが、Finder で普通のハードディスクと全く同じ感覚で扱えるのはやっぱ便利だぁ。ちょっとしたテキストファイルであれば、保存(更新)なども全然もたつかない。

FD に関して、各大学が実施している授業評価に関する事例報告などを読んでいるのだが、各大学、それぞれに考え方の違いがあって面白い。勤務校で授業評価を導入するにあたって議論の対象となりそうな項目としては、

  • 学生の評価は記名か無記名か
  • 集計結果を公開するべきかどうか、公開するとすればどこまで公開するか
  • 学生へのフィードバックをどうするか
  • 評価結果の利用
  • 教員の授業改善の取り組み方、そのサポート

といったところかな。全学的な意思統一なんて無理やろなぁ。

03年08月03日 12時39分 着信

今日は高校生とその親のための大学説明会であるオープンキャンパスが開催されている。学部紹介で、経営学科の紹介ということで15分ほど話をした。話した内容は:

  • 大学は答えを見つけるところではなくて、答えを見つける力を身に付けるところ
  • How には What や Why の支えがいる(ようは原理的な考察のみが見通しを与えるってのをいいたかったんだが、表現を変えた)
  • 経営学ってのは、モノ・カネ・ヒトの問題を扱う

といったことだ。わりとオーソドックスな内容になったと思っている。

午後は研究室で FD に関する中間報告のまとめ。

03年08月03日 17時03分 着信

FD に関する中間報告書をまとめあげて、ようやく夏休みというか、一区切りついたという気分。今週はまだ会議があったりするが、それはそれ。

FD に関する報告書をまとめているうちに、自分がやってきた授業アンケートの問題点なども考え始めた。授業方法に関する意見は、学期の途中に聞いて、改善すべきところは途中からでも改善したらいいわけだ。後期の組織論の講義では、授業アンケートのやり方を変えようと思い始めた。学期途中と終了時の2回にわけて聞くべきだな。

大和屋へ行ってコーヒーを買い、夕食の買い物をして帰ってくる。今年になって初めて帰宅後にすぐシャワーを浴びた。シャワーの後には安物の白ワインに炭酸を入れたものをぐぃっとやって、これがうまい。そういう夏本番という天気である。で、服部真澄の『GMO』を心置きなく読めるわけだ。うれしぃ〜。

03年08月05日 08時56分 着信

講義や試験が終わったので、昨日はひさしぶりにゆっくりと自宅で読書。『GMO』を読み上げ(面白く一気に読めたのだが、もうひとつって感じのできだったなぁ)、その後、日経コンピュータ、NIKKEI DESIGN などを読んでいた。NIKKEI DESIGN の携帯電話の特集はよかった。

『コンサルタントの道具箱』をぱらぱらと読み始めたが、相変わらずのワインバーグ節というか、うまいねぇという感じである。こいつは、今読みかけの本が片づいたらじっくりと読もうかというところ。

今日は「デザインの現場」(印刷技術の特集で、これも面白い。今月はデザイン誌が当たりってところ)を読み、『磁力と重力の発見』(いよいよケプラーの話になってきたところ)を読んでいる。午後は研究室で授業評価の整理などの予定。

それにしても、一気に暑くなったなぁ。

03年08月05日 15時04分 着信

研究室で授業連絡用のページの整理などを行っていたのだが、デザインの変更を始めてしまって、しっかりとはまってしまった。このページも画像や配色をいじってしまった…。

03年08月05日 16時03分 着信

このサイトと同じマシンで運用しているバーチャルホストであるtanaka.ecn.fpu.ac.jpの方のトップページ(研究と授業に関するページ)を全面的に変更した。これまでずっとフレームを使ったページにしてあったのだが、それにも飽きたので、1つのページにしてしまい、代わりに無意味に大きな画像を使ってみた。主に学内から学生達がアクセスするページなので、ま、いいかと思った次第である。

このホストは、いずれは別サーバに移して、そちらで学生向けの会議室とかコンテンツを充実させようと思って登録したドメインである(現在は WebSTAR 3 のバーチャルホストの Plugin を使って、このページと同じサーバが担当)。でも、結局、ページの更新が精いっぱい(それもけっこう遅れがち)で、まだ、独立を果たせていない。このドメインとは別に AppleShareIP 上で shared.ecn.fpu.ac.jp というドメインも運用していて(こっちはトップページからはいっさいリンクが無くて、必要なときに必要なページなどを作っては関係者にURLを知らせてアクセスしてもらう形をとっている)、それとの役割分担がまだ明確になっていないということもある。

03年08月06日 12時02分 着信

このページをまた少し変更した。画像がイマイチだったので取り換えて、ついでに仕組みの説明のページへのリンクも外す(古いままで現在の仕組みとは異なった内容になってしまっていたので)。こういうのって、いじり始めたらきりがないんだよな。とりあえず、これで一区切りということにしておく。

午後には教務会議。その前に先日の情報システムの授業アンケートの集計を行う予定。

朝から空調の点検と整備ということで、研究室に来てみたらエアコンがすでに入っていた。おかげで快適である。なんせ何も遮ることがないビルの8階の西向きの部屋なので、午前中にある程度冷やしておかないと、午後はまったくエアコンが効かなくなる程である。窓ガラスに断熱シート(?)を貼ってしまいたいぐらい。 …もっともサーバのパソコンが何台か動きっぱなしなのも原因なんだろうが…。

03年08月06日 12時43分 着信

このところ blog のページをいくつか見てたりするのだが、それらのページでよく使われている MovableType というソフトがある。で、これを「モバイルタイプ」とカタカナ表記してるところがポチポチ現れてきてるのだが、これってなんか違和感を感じる。モバイルなら Mobile だろし、そもそも movable type って金属製の活字のことで、こちらはムーヴァブル・タイプと呼んでいたように思う。最初にMovableType って名前を見たときに何で可動金属活字が話題になるの?と思ってしまった。で、それが blog のソフトだと知ってからは、たぶん、このソフトの作者はグーテンベルクを気取ってるんだろうと思っているんだけど。まぁ、でも、mobile だって、アマチュア無線は「モービル」だったもんなぁ。この手の表記はけっこう揺れ動くというかいい加減なとこあるから。でも、変な日本語を当てるよりはマシなこともあるしね。

03年08月07日 21時19分 着信

昨日は教務委員会。FD 推進に関する中間報告を行ったのだが、来年度から試行するつもりだった、有志による授業評価の試みを、繰り上げて後期に実施することになる。それにあわせて、各学部の教授会で配付するためのレポートをまとめないといけなくなった。やれやれ。

情報システムの授業アンケートの集計を行った。今年度はファイルメーカーPRO の v6 を使ってみた(これまではずっと v4 だった)。集計していて感じたことは、今年は、やはり、準備が不十分というか、新しいネタを持ち込んでバランスがとれてなかった(うまくまとめきれなかった)という気がしていたのだが、学生達もそれをしっかり感じ取ったようだった。板書の内容のつながりや区分がわかりにくいとか、講義の進行が速すぎる(内容を詰め込みすぎが原因か?)といった意見が出ていた。コメントをつけたページを明日にでも公開する予定。それと、授業方法に関するアンケートは、やはり学期半ばに行うべきだということを強く感じた、講義の内容はともかく、板書の仕方やしゃべりかたといったテクニカルな点については、学期半ばに意見を聞いて早めに修正をかけたほうがよいだろうと思う。もっとも、講義のスタイルを大幅に変更するのは無理だとは思ったりもするのだが。後期の経営組織論の授業アンケートは、この点をふまえて、方法を変更してみようと考えている。

今日は久しぶりに京都に出かけた。馴染の床屋に行って、河原町のタワーレコードに行き、駅周辺をブラブラという毎度のパターンである。プラッツが招待客のみの販売の日だったため、旭屋書店とソフマップに行けなかったのは残念だった。こうしたこもあって、本は『リスク論のルーマン』と、ドラゴンボール完全版だけしか買わなかった。CD の方は:

  • Live at Jazz Standard (The Lonnie Plaxico Group)
  • Into My Soul (Kirk Whalum) ←これだけは絶対に買うつもりだった
  • Peace (George Robert & Kenny Barron)
  • At The Blackhawk, Complete (Miles Davis)
  • Bach, Cello Suites Nos.1-6 (Pablo Casals)
  • Bach, 4 Sonatas & Partita for Flute (Aurele Nicolet)
  • Bach, The Great Organ Works

を購入。このところグレン・グールドのバッハを聴いていたので、バッハの作品を3枚購入する。あとはやっぱマイルスのブラックホークの完全版を思いきって買ったことかな。「いつか王子様が」が入っているとなると、買うしかないだろうと思った次第。

Mac の使い方などを教えた情報処理Dの受講生からのレポートが届き始めているのだが、楽しかったとか Mac が好きになったということが書いてある。また、Mac は難しくなかったともある。こういうのを読むと授業をやってよかったなと思う。5人という少人数(それだけしか Mac のハードが都合がつかなかったからなのだが)でやったことも、結果的には良かったのかもしれないと思っている。ただ、Mac 好きを増やすのが目的の授業ではないんだがなぁ(笑)ま、いいか。

03年08月08日 13時39分 着信

情報システムの授業アンケートの集計ページが完成。エクセルでグラフを作って貼ってみた。また、ここ4年の推移もグラフにしてみた。う〜む、やっぱちょっと気が緩んできているのかんぁという感じ。忘れないうちにコメントも書いておいた。

集計ページ作成の作業をしながら Kirk Whalum の Into My Soul を聴いていたのだが、予想以上によくて、ちょっとびっくり。Kirk Whalum は In This Life を聴いて好きになったのだが、あのアルバムにも似た感触がある。続けて聴いた George Robert & Kenny Barron の Peace も味わい深くてあたりって感じ。

午前中に研究室に来たので、さっさとサーバのメンテナンスも行ってしまう。また久しぶりに AppleShareIP のファイルサーバのメンテナンスも行う。

03年08月08日 14時16分 着信

丸善に注文してあった『ドゥルーズへのまなざし』ルネ・シェレールが届いていたのだが、これの翻訳者の篠原洋治さんって、たぶん、学部の頃出ていた浅田・市田さんの現代思想の自主ゼミで一緒で、大学院の入試もいっしょに受けた篠原さんだろうと思う(学部は早稲田大学で、院試のために京都に勉強に来きていた)。その後、慶応大学の院に進まれて、院生の頃に社会思想史学会で確かお会いしたことがある。フランスへ行かれたりしてたんだな。

03年08月10日 08時29分 着信

昨日は、朝、妻が幼児園の行事の準備の手伝いに行っている間に、娘を病院につれていく。風邪気味ということであった。愛育病院が新しくなってから行くのは初めてだったが、きれいで感じの良い病院になっていた。その後、家族で買い物に出かけ、帰ってきてから午後はのんびりと本を読んで過ごす。夕方から幼児園の夕涼み会にちょっとだけ出かける。

『ドゥルーズへのまなざし』を読んでいる。ドゥルーズは、自分にとって、何かを揺さぶるものをもっている思想家である。彼の思想/哲学が理解できているとは思わないのだが、彼の著作や彼の思想の解説書に触れるたびに、頭の中に詰め込んでおいた(というか入れっぱなしになっていた)色々なものが、ふつふつとうごめき始めるのを感じる。今回のこの本も、本を読んでいると、何度となく、沸き上がってきた思いに読書が中断されてしまうという感じ。ただ、それがクリアな形にはならないもどかしさがある。だからこそ余計に考え込んでしまうわけなんだけども。読むほどに読むことが中断されてしまう本というのは、ある意味で、良い本と出会っているということだとは思う。

あんまりその必要はないかなとは思ったが、TiBook のディスクのジャーナル機能をオンに設定してみた。

03年08月10日 14時40分 着信

『磁力と重力の発見』を読了。う〜ん、満足。堪能したって感じ。

「チューリング・テスト再考」に久しぶりに手を入れた。「計算する機械と知性について」が完成したことによる文章の修正、スタイルの変更、それに "Can Digital Computer Think?" の読解部分に私訳をすべて折り込むように変更した。

陸奥A子「パーシモンの夢」を読む。テーマを十分に活かしきれていない、いまいちな作品だなぁ。やっぱ、この人は、よくも悪くも「恋愛」を描くのが一番だろうなぁ。

『ウィトゲンシュタインはこう考えた』鬼界彰夫を読み始める。冒頭の文献に関する情報に、まず驚く。これは期待できそうだ。

Miles の In Person (complete) はやっぱゴキゲンだぜ。

03年08月11日 13時16分 着信

『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を読み続けているが、これはおもしろい。新しいウィトゲンシュタインに出会えたような気がする。

このところ授業と研究に関するページを続けざまに更新している。オンラインでしか見ない(だろう)ページなので、背景をブルーっぽいグレーにして、文字を白という、これまでなら絶対にやらなかった配色にして、せっせと統一している(もちろん、内容にも細かな修正は入れたりはしてるのだが)。こういう作業ってやりだすと楽しくて、熱中してしまう。以前に購入してあった版権フリーの画像CD-ROMを引っ張り出してきて画像を探したり、テーブルのタグのパラメータをいじってみたり。ただ、あくまでも全てのページをエディタで書く(タグは自分で書いていく)という方針は崩さないのであった。

03年08月13日 11時40分 着信

ひょんなことから、Eudora の <x-eudora-setting> に関する文書に、せっせと日本語版の訳文をくっつけるという作業にハマってしまった。もともとは Eudora 5.1 の色々な設定を調べているうちに、ML の仲間に教えてもらって X-Eudora-Settings.txt を入手。それを調べているうちに、自分用にこの文書の日本語版を作っておこうと考えたわけである(日本語版の販売元のサイトでは文書は見つからなかった)。X-Eudora-setting で設定を行う場合、ダイアログに設定の説明や現在の値、デフォルトの値などが表示される。ということは、設定の説明部分(これが先の文書に英語で書かれていた)は、Eudora が持っているわけ。で、Mac の場合は、この手のメッセージはリソースに保存されているはず。ということで ResEdit で調べ始めたのだが、STR# や STR あるいは TEXT といった標準的なリソースには保存されていない。しょうがないので、他のリソースをあたってみたが、それらしきものはない。おかしいなぁ?と、アプリ本体以外に起動時にオープンされるものとして何があるか考えていたら、Eudora Stuff フォルダのファイルがあることに気がつく。その中でも、もうこれしかないってのが Eudora Help だなということで、開けてみたらビンゴ! STH# リソースに入っている。ただ、設定番号ごとのリストのような分かりやすい形になっておらず、またリソースのフォーマットを解析するのも面倒だったので、AppleScript を使って(自作の osax に組み込んでおいたリソース操作のコマンド群を活用)STH# を全部テキストファイルにダンプ。それを Jedit で開けて、中身を確認しながらもとの英語のドキュメントに挿入していくという、非常に泥臭い作業をやることになってしまった。でも、こういう作業ってやりだすとハマるんだよね。それに、Eudora の色々な設定項目とか見ていくのは、それはそれで楽しかった。

で、もともと Eudora の設定を調べていたのは、5.1 からの新機能であるはずの署名のインライン編集が自分の Eudora では利かないことに気がつき(っていうか、5.1 にそういう新機能があったことをようやく思い出したんだけど)、どうすればいいのか調べていたのだった。x-eudora-setting の中に、確かに署名のインライン表示/編集を行うかどうかを設定する項目があったのだけど、これは全然利かなかった。で、結局、ML で仲間に教えてもらったのが、初期設定ファイルを捨てて(バックアップもろとも)、新たに設定をやり直せばよいということであった。 …そんなことやってられない!ということで、署名のインライン表示/編集は見送り(これって明らかなバグじゃないのか?)。やれやれ。

『ウィトゲンシュタインはこう考えた』は、いよいよ『探求』の部分。ようやく彼が言語ゲームと呼んでこだわったものがクリアになってきたような気がする。

03年08月13日 11時49分 着信

昨日届いたジャンク・メール:

はじめまして、突然のメールに御詫びさせて頂きます。
突然ですがこちらのサイトを見てください。
日本一安全なサイトであります。

私の名前は XX XXXといいます。
あなたと友人になりたくてメールを出しました。
私の考えは、消費者の味方になり、
中小企業のサポートを行います。

私という人物は、真面目で誠実に行い
そして、日本一の安全なサイトを目指しております。
サイトはまだまだですが、これからだと思っています。
時間はいっぱいあるので、日々営業しています。
日本一安全なサイトで日本一のサポートビジネスをします。

…こんな変な日本語(間違った日本語と無意味な内容)のメールも珍しい。

03年08月14日 14時29分 着信

『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を読了。ウィトゲンシュタインの『探求』に関して新たな読み方を示してくれた、刺激的な一冊であった。その後、昨夜から今朝にかけて布団でごろごろしながら『教養主義の没落』(竹内洋)を読む。日本における教養主義の変遷と構造を論じた、これまた面白い本であった。

今夜は妻の実家にお世話になるのだが、もつなべを作ってもっていくことにした。しかし、夏のこの時期、もつなべのスープ(だし)をどこにも売っていない。なんでかなぁ、夏でも旨いのに。というか野菜が旨い夏のスタミナ料理としてばっちりなんだけどなぁ。しょうがないので、昆布だしやら醤油やらでそれっぽいスープを作り、キムチナベのもと(これだけは夏でも売ってる)を少し足して、そこに予めボイルして油抜きしたモツを加えることにした。そこそこ旨いものにはなったと思う。これをもって、これから妻の実家へ。盆のお楽しみにとっておいた『公家ハルコンネン』全3巻をもっていって読み始めることにする。

03年08月15日 16時13分 着信

昨夜は妻の実家でゆっくりと過ごす。今日の午前中に自宅に一人で戻ってくる。明日の夜までは一人である。『公家ハルコンネン』をごろごろしながら読んでいたのだが、ふと、今日は金曜日だということに気がついて研究室に来てサーバのメンテナンス。

そういえば、先日 Eudora をツンツンしていたときに、Eudora の中に、英語のメールで使われる省略語(単語の頭文字だけ拾ったもの)の主なものを収めたリソースが入っていた。おそらく、読み上げの際に置き換えて読むためのものだと思う("ACRY" = acronym リソース)。おもしろかったのと、知らないのもいっぱいあったので、例によってこのリソースも AppleScript でダンプして抜いてみた。以下に収録。

BTWby the way
IMOin my opinion
IMHOin my humble opinion
WYSIWYGwhat you see is what you get
AFAIKas far as I know
FAQfrequently asked questions
FWIWfor what it's worth
FYIfor your information
IYKWIMif you know what I mean
NPIno pun intended
RTFMread the fine manual
YMMVyour mileage may vary
AKAalso known as
ASAPas soon as possible
IDKI don't know
OICoh, I see
OTOHon the other hand
RSNreal soon now
TIAthanks in advance
TPTBthe powers that be
TTFNta ta for now
WRTwith respect to
IHJI hate Jello
YWIAyou're welcome in advance
AAMOFas a matter of fact
CFVcall for votes
HTHhope this helps
IMNSHOin my not so humble opinion
IRLin real life
ISTRI seem to remember
LOLlaughing out loud
RFDrequest for discussion
ROTFLrolling on the floor laughing
AIUIas I understand it
CYLcatch you later
IAEin any event
IOWin other words
IYSWIMif you see what I mean
TIFNthat's it for now
TTYLtalk to you later
WIPwork in progress
IMCOin my considered opinion
TLAthree letter acronym
LMKOAPlet me know of any problems
FYAfor your amusement

…省略されてない文章で書かれていても、ニュアンスがよくわからん表現もあるなぁ。

03年08月15日 23時13分 着信

『公家ハルコンネン』を読了。しかし、こういう前史ものってのは、登場人物がいずれどうなるか分かってるわけで(少なくとも、こいつは何があっても死なないとか)、そういう意味では、これだけあれこれとドラマを書き込まないと面白くないんだろうなと思う。ま、面白いからいいんだけど。

アマゾンに注文してあった『ゲーデル、エッシャー、バッハ』と『計算理論の基礎』が届く。『ゲーデル、…』の方は、翻訳が出たときに買って読んでたんだけど、学生に貸したら、返さずに卒業されてしまったので、買い直したものである。とはいえ、十何年ぶりに読み返すことになるわけだが。『計算理論の基礎』の方は、計算理論におけるチューリングの業績とかを理解したくて購入したもの(『ゲーデル』もそのからみで読み直すことにしたのだ)。チューリングがコンピュータが思考できると確信していたのは、彼が計算(computation)の本質を把握していたからだと思うのだが(computation の機構=machineryという点で脳とコンピュータは等価だと考えていた?)、彼が把握したcomputationとはどんなものか、自分なりに知りたいと思うわけだ。とりあえず、『ゲーデル、…』の方から読み始めるとする。

03年08月17日 22時27分 着信

午前中に家族で買い物に出かけた以外は、自宅でごろごろとして過ごす。

『ゲーデル、エッシャー。バッハ』を読み返していたのだが、改めて読み返してみると、やっぱ縦書きは読みにくいということと、柳瀬が担当したと思われる訳(アキレスと亀の対話の部分)が、ちょっとくどいというか鼻に付くという感じ。原文自体も、妙に凝ったものにはなっているのだとは思うが。それと、最初に読んだ時には、色々な分野の話題が絡み合っていくのが面白かったと記憶しているのだが、今回読み直すと、ちょっとあれこれ詰め込みすぎで、かえって焦点がぼやけてるんじゃないかなぁと思ったりもした。まぁ、これについては、この本で触れられているような色々な分野についての自分の知識が多少は増えていることもあるかなとは思うが。とりあえず、チューリングがらみの部分を中心にざっと目を通した。チューリングの Computing Machinery and Intelligence もけっこう詳しく触れられているのだが、単なる紹介で終わっている。

『計算理論の基礎』の方も読み始めたのだが、これはこれで面白い。有限オートマトンや正規言語、正規表現といった話を今読んでいる。この後、いよいよチューリングマシンの話へと入っていくので、楽しみではある。

山本徹さんから『スクイークであそぼう』(Play with SQUEAK)を贈ってもらったのが届く。丹念な入門書という内容の本である。アラン・ケイのメッセージが載ってた。

03年08月18日 15時59分 着信

WSM にメールによるコメント機能を実装したのだが、ページ登録関連の処理が複雑になったせいか、新しい話題の投稿やコメントを Web で投稿したさいに、コネクションが切れてしまうというエラーが生じる(頻発する?)ようになってしまった。やれやれ。CGI を全面的にチューンナップする必要があるかなぁ。

SilverKeeper 1.0.1 を使って TiBook のホームディレクトリを USB 60G のディスクにバックアップ。ついでに、ターミナルから Picture ディレクトリだけを tar Zip してバックアップしておいた。ホームディレクトリの単純コピーは5Gあまりのサイズになっている。原因は5000枚の iPhoto の写真だろうなぁ。

03年08月18日 16時17分 着信

また料金詐欺のメールが携帯に来た:

From: rtt-company@ezweb.ne.jp
Subject: 料金督促

RTTカンパニー事務局よりお支払いのお願いです。前回ご利用頂いたサイトのご利用料金の入金確認ができておりません。金額は■ログイン 62000円■事務手数料3500円■消費税 3100円■合計金額 68600円
お支払い期日は2003/08/18日、15:00迄です。担当小林09081743422又09081743404まで必ずご連絡下さい。なお営業時間は午前九時から午後四時までとなっております。午後は混雑しますので午前中のご連絡をお待ちしております。これ以上ご連絡がない場合現在お使いの携帯電話パソコン等のご使用停止とさせていただきます。

「ログイン」ってのが利用料金のつもりか? 今回は携帯電話に連絡させるってのが新しい手法だな。

03年08月18日 17時22分 着信

キャッシュが利き始めると、WSM への書き込みのエラー(おそらくタイムアウト)も出なくなるなぁ。ということは、やっぱ速度の問題かな。でもここで G3 とかにひよってはだめだな(笑)

03年08月19日 13時22分 着信

会議室の書き込みなどに伴う処理を少しでも速くしようと思って、久しぶりに osax の新作を作った。MT Bulk Write と名付けたのだが、ようするに、複数のファイルをまとめて書き込んでしまうものである。osax 呼び出しのオーバーヘッドを減らすのが目的。それと、FlushVol を呼ぶのは止めてみた。色々な osax のコードを切り貼りして作ったので作り初めて1時間でテスト完了まで一気にいけた。さっそく研究室に持ってきて LC475 にインストール。CGI のスクリプトの変更などを行って、先ほど正式に運用し始めたが、今のところ問題はないようだ。肝心の処理速度は、気持ち早くなった?かな??というぐらいではある。ま、そんなもんでしょう。

丸善に注文してあった『レイアウトの法則』佐々木正人が届く。『計算理論の基礎』が、もうじきチューリング絡みの話が終わるので、そうしたら読み始めようかと思う。

03年08月19日 23時10分 着信

メールソフトは Eudora を使っている。フリーウェア版を使っていた時からの永い付き合いで、慣れているというのが一番の理由かな。フィルタもそこそこ便利だし、なによりメールをテキストファイル(いざとなったらエディタで開ければ中身が読める)で保存するところが気に入っている。独自形式で保存するメーラーはいまひとつ信じられないのである。しかし、MacOS X 版の Eudora 5.1 には致命的なバグがあり、それがいまだに解消されない。取り込んだメール(サーバからダウンロードしたメール)が、メールボックスに表示されないことがあるというバグである。Eudora をいったん終了して再起動したり、新たにメールを取り込むと、それまで表示されてなかったメールが一気に表示されるといった動作をする。今日もその症状が出て、あやうく仕事関係のメールを見逃すところだった。

メールソフトが、ダウンロードしたメールを表示しないというのは、はっきり言ってメールソフトの基本的な機能がおかしいということである。フィルタとかジャンクメール対策とか、そういう「便利な」機能が充実するのは確かに素晴らしいことではある。しかし、取り込んだメールが表示されないなんて、メールソフトの根本的なところがダメってことでしょ。ようするに、今の OS X 版の Eudora ってクズってこと。これまでなんだかんだと問題があっても Eudora を使ってきたが、さすがに、今日は、もう使うのをやめようと真剣に思ってしまった。 …でも、これといった代替メールソフトがないんだよな。OS X と MacOS の両方で使えるもんじゃないと困るので、選択肢は限られるんだよね。やれやれ。

03年08月20日 14時31分 着信

今日は自宅で読書でもと思っていたのだが、サーバがハングアップしてしまったので研究室に駆けつける。どうやら CGI のトラブルっぽいので、サーバを再起動後、CGI のスクリプトに再び手を入れる。これまで会議室の処理は複数の CGI が担当するようにしてあったのだが、思い切って1つに再統合した。そのかわり、少しでも処理速度を稼ぐために、細かくスクリプトの修正を行う。いったん完成して動かし始めたら、ちょっとしたバグが残っていて、再びサーバを止めてスクリプトのデバッグを行う羽目になったが、なんとか完成した。やれやれ。しかし、コードは少しすっきりとしたものになった。

研究室に来る前、朝から妻の Windows 98 に Excel 2002 をインストールしていた。OS 自身はアップグレードしないまでも Excel は新しいものが使いたいという希望だったので、昨日、アカデミーパックを購入したもの。インストール自体はすんなりと済み、うわさのオンラインでのアクティベーションも完了。その後、Windows Update でいくつかの修正パッチを当てようとしたら、これがえらい時間がかかってしまった。ついでに OKI の LPR 用のユーティリティも最新のものに取り換えておいた。

そんなこんなで、パソコンのメンテナンスに追われる日なのであった。

03年08月20日 14時41分 着信

そういえば、今日もまた料金詐欺のメールが来ていたんだが、これが先日のやつと文面はそっくり(会社名が RTT から ROO に変わって、担当者名と電話番号が違う)。テンプレート使って詐欺メールをばらまいているのかな? 今日のやつは以下のとおり。

From: roo-comapny@ezweb.ne.jp
Subject: 料金督促

ROOカンパニー事務局よりお支払いのお願いです。前回ご利用頂いたサイトのご利用料金の入金確認ができておりません。金額は■ログイン 62000円■事務手数料3500円■消費税 3100円■合計金額 68600円
お支払い期日は2003/08/20日、15:00迄です。担当木本09067124962又09067124965まで必ずご連絡下さい。なお営業時間は午前九時から午後四時までとなっております。午後は混雑しますので午前中のご連絡をお待ちしております。これ以上ご連絡がない場合現在お使いの携帯電話パソコン等のご使用停止とさせていただきます。

「現在お使いの携帯電話パソコン等のご使用停止」ってどういうことだろ?サービスの利用停止ということなら、こんなメールを送るより、さっさと利用停止にすればいいわけだし、パソコンや携帯自体を使えなくするなんて不可能だろう。意味不明である。 …って、こんな詐欺のジャンクメールにツッコミをいれてもしょうがないんだけど。

03年08月20日 16時17分 着信

相変わらず CGI が不安定な動きを見せる。書き込みがあった時点で、処理の途中でハングアップしてしまう。これは、やはり、新たに投入した osax が引き起こしている可能性が高いので、新しい osax を利用していた部分を全面的に書き直す。その後は落ち着いているようだが、まだ油断はできんなぁ。やれやれ。

ここまでしてメールによる投稿をサポートしなくても良いとは思うのだが、いったんやりだしたらきちんと動くまでやり通さないと気が済まない。はっきり言って、もう意地である。挑戦状を叩きつけられているような気分になる。バックアップしてある以前の CGI に戻すぐらいなら、何度ハングアップされても、今の CGI をきちんと動かしたい。それと、こういうトラブルの時こそ、色々と考え、試し、悩まされるので、結果として得るものが大きいということもある。トラブル自体を楽しんでいたりするわけだ。

…まあ、自宅の G3 では何の問題もないからといって、LC475 でうまくいくとは限らない、というのが(分かってはいたことだけど)教訓というところ。

03年08月21日 14時43分 着信

よせばいいのに、会議室の CGI のための osax をまた1つ新たに作る。タグで囲まれた部分を抜き出すものである。メールでの投稿やiMode 用のページなどでタグで囲まれたメッセージを抜きだす処理があるので、その部分を少しでもすっきりさせたくなって作ってみた。さっそくインストールして、スクリプトの書き換えも行う。これが新たなトラブルの幕開けにならないことを祈ろうっと。

日経バイトがパソコンの体感速度に関する特集を載せていた。このところの日経バイトの記事は、けっこう目のつけ所が面白くて、また、内容が、ちょうど授業などで講義している内容とも重なったりするので、読みでがある。一時期は、こんな内容で金取って平気なんか?と言いたくなるほどレベルが落ちていたが(雑誌の焦点を見失っていたという感じ)、ここにきて持ち直したかな。

このサイトの画像データの加工について尋ねたメールが届く。画像関係は、基本的には Photoshop で加工を行っている。でも Photoshop でやっているとはいえ、はっきりいって Photoshop でなくても十分にできることだとは思う。ただ、「Web 用に保存」は重宝している。ImageReady を呼びだして画像の保存のオプションを目で確認しながら調整できるものなんだが、軽さと見た目の妥協点を探りながら JPEG の圧縮率をいじったりできるからだ。ま、基本的には、アート関係のセンスはいまいちなので、シンプルにするようにはしている。

03年08月21日 22時32分 着信

今日の料金詐欺メール:

From: 58221net-tky-endmail@ezweb.ne.jp
Subject: 重要通達-最終支払勧告

最終支払勧告です。貴殿のコンテンツ利用(Love2-69)料金未納分につきまして減免処置を取りますので最終期限までに必ず下記へ送金下さい。{とみん銀行/新宿支店(普)4045110/アマノマコト/金額\30,000-/最終期限H15年8月22日15:00}
送金頂けない場合は関連機関へ情報開示を行い全額(正規額+延滞違約金+端末IP調査料<一律\150,000>+通信交通実費)一括回収作業(東京地裁法的含)を開始します。NET債権回収関東本部

「NET債権回収関東本部」って、まんまやんけ。

03年08月22日 12時46分 着信

チューリングの意訳にちょっと手を入れる。『計算理論の基礎』を読んで仕入れた停止問題の判定不可能性について加筆。

教務委員なので新しいカリキュラムの移行に伴う開講科目の調整なんかをやらないといけないのだが、問題点が山積み状態… やれやれ。

03年08月23日 21時39分 着信

午前中は家族で勝山の平泉寺へ。ソフトクリームを食べ、平泉寺の境内を少し散歩して帰ってくる。昼食には8番ラーメンへ。その後、一休みしてから、買い物などにでかける。そういう何となく慌ただしいような感じの一日であった。

買い物のついでにユニクロに行って、前から買いたいなぁと思っていたキース・ヘリングのTシャツとズボンを購入。やっぱキース・ヘリングっていうのは、自分の中でインパクトのあった存在である。学生時代にポストカードのコレクションをやっていたのだが(今でも200枚ぐらいは残っている)、もっぱらポップアートやモダンアートのものを集めていたので、キース・ヘリングの描いた絵のものもたくさん買っていた。個展に行ったり画集を買ったりしたことは一度もないが、ポストカードという「窓」を通して、やっぱ80年代を代表するアーティストの一人だったなぁという実感はある。そういうこともあって、Tシャツは2枚買ってしまったのであった。

CGI もようやく安定したようだ。よかったよかった。

日本経済新聞の北陸経済欄に、勤務校の福井県立大学について、設置者である県が中心になって、経済界の人間などが参加した、大学のあり方に関する検討会を設置するという記事が載っていた。以前から話はあちこちで伝え聞いていたものだが、マスコミに発表する段階まで来たらしい。その記事の中に、ビジネス・スクール構想とのからみで学部学科の再編も必要になるといった記述があった。経営学科を経営学部として独立させるという、研究所から出てきた意見を踏まえたものなんだろう。日経の記事にまで書かれるとなると、一部はマジでやるつもりなんだろう。今後、大学運営(学部運営)は波乱含みの展開になりそうだ。 …しかし、こんなことを思うのは時代錯誤の保身だと思われそうだが、「役に立つ」とか「貢献」だとか、なんか貧しい議論しか出てこないなぁ。今の日本で田舎であるってことはこういうことなのかもしれないが。来館数や貸し出し冊数で図書館の貢献度を計るような「貧しさ」がある。100人に一人、いや1000人に一人しか読まないような本であっても、読みたいと思った人が読むことができる、その懐の深さを備えることが「豊か」であるということだと考える自分は、田舎には実は文化などない、経済活動しかない、という現実が見えていない(見たくない)のかもしれないけどね。

03年08月24日 15時59分 着信

オープンキャンパスジュニアということで、高校生達に大学の授業などに触れてもらう催しが開かれ、学部の情報演習の模擬授業を担当した。初心者むけを担当ということで、講義中心に行くことに決め、インターネットの仕組みとか、検索サービスの特徴などを話した後に、ブラウザで Web ページを見てもらったりした。高校生達が触っているのを見ていたら、初心者とは言えキーボードでの入力やマウスの操作など、基本的なことはまったく問題がないようだったので、もう少し実技よりの授業にした方がよかったかもしれない。この手の授業を行うのは初めてだったので、こちらがドタバタしてしまったという感じで、何かと反省点が残るものになってしまった。

今乗っているクルマ(ホンダの Civic Ferio SIR)を、来年の車検前に新車に買い替えようとずっと思っていたのだが、最近になって、まだ乗り続けてもいいかなぁという気になってきた。中古で買って乗り出して6年目のもので、走行距離も7万2千Kといったところで、エンジンなんかはまだまだいけるだろう。燃費もリッター10Kは割ってないしな。塗装がちょっとはげたりして、古びた感じにはなってきているのだが。自分が最初に買って乗ったクルマなので愛着があるのは事実だが、それとは別に、なんていうか、今一つ、これに買い替えようと思うクルマが見当たらないんだよなぁ。今の Civic Ferio sir の、ちょっとスポーツ系のセダンっていう感じがけっこう気に入っているのだが、こういう、ある意味で中途半端なポジションのクルマが最近は見当たらないように思う。3ナンバーのには乗る気がしないしね。さて、どうしようか、もうしばらく、思案のしどころである。

03年08月25日 17時56分 着信

午前中にまたひとつ osax を作る。久しぶりにプログラミングをやりだしたら、面白さを思い出してしまったって感じである。今日の osax なんてことにならないように気をつけよう。やりだすと時間を思いっきり忘れてしまうからなぁ。

ここ何日かに作った osax を入れた Tanaka's extra 1.0.4 を登録公開した。とはいえ、MacOS 専用の osax には、もうそんなに需要はないと思うが。

で、そのことを知らせる WSM の書き込みは、先日仕掛けた、メールによる新規話題の投稿の機能を使ってみた。バッチリ動く。よかったよかった。

採点のために答案を学籍番号順に並び替えたり、その他の雑用をこなしたりしながらPちゃん44号をダウンロード。また Software Design にも目を通す。

読みかけになっていた『地図の想像力』を読み続けている。すばらしい権力論の本であると実感。

03年08月26日 11時15分 着信

WORM_SOBIG.F のメールが山ほど来る。また、自分のメールアドレスを騙られたものがバウンスされてきたりもしてる。うんざり

03年08月27日 12時30分 着信

勤務校の第1期の卒業生で落語家になったやつがいる。まだ二つ目なのだが、彼を学園祭に呼んで口演させようという企画を教員有志で行うことになっており、昨日はパンフレットの原稿の打ちあわせを同僚や、イラストを描いた学生と行った。学生が描いてきたイラストをスキャナで読み込んで、Photoshop で調整し、文字をのせて印刷することになる。

『レイアウトの法則』を読んでいるのだが、佐々木正人のこだわりというか、ギブソンの視覚論というか、それがいまひとつしっくりと受け取れないもどかしさがあって、なかなか読み進められない。

小人閑居して不善をなすというわけではないが、午前中にちょっと時間があったので、また CGI のスクリプトに手を入れてしまった。

そういえば、福井にもスターバックスが出店するらしい。自宅から近い大形ショッピングセンターの駐車場の一角に、ドライブスルー対応の店を出すそうだ。郊外の大型ショッピングセンターに、ドライブスルーの、というあたりが、いかにも今の福井の状況を現しているなぁ。

03年08月27日 12時53分 着信

今日の料金詐欺メール:

From: christaloffice@docomo.ne.jp
Subject: 料金未納督促通知

貴殿が以前ご利用頂いた、有料サイトの使用料金が未だに未納であり、支払いの意思が確認出来ません。下記連絡先まで問い合わせの上、至急入金をお願い致します。入金確認が出来ない場合、各情報機関に問い合わせの上、強制執行なども辞さない考えであります。
(株)クリスタル 06−6630−6676
なお、本文は送信専用メールの為、メールにての問い合わせは致しかねますのでご了承下さい。

ドコモのアドレスで来たのは初めてかな?

03年08月29日 16時34分 着信

昨日は娘の病気に振り回された一日だった。前日からちょっと発疹のようなものが出ていたのだが、たいしたこともなく本人も元気だったので保育園へ行ったのだが、すぐに保育園から電話があり、痒がっているみたいだし飛び火かもしれないので病院で診てもらった方がよいとのこと。そこで私が迎えに行ってつれて帰り、愛育病院に電話して診察してもらうようにお願いし(休診日だったのだ)、病院へ連れ行く。結局、飛び火ではなく、手足口病の軽いもののようで、感染などの心配もないとのこと。かゆみ止めなどの薬をもらう。病院からの帰りにショッピングセンターによって昼食と夕食の買い物を済ませ、自宅に戻って、午後はずっと娘と過ごしていた。娘本人はいたって元気だし、痒がるのは蚊に刺されたところで湿疹ではなかったりするのだが、念のため自宅で様子を見ることにしたわけである。 …で、一日つきあっていると、さすがに疲れた(予定外だったというのが大きいか)。 昨夜はすぐに寝てしまった。

卒業生の落語家(昔昔亭健太郎)の学園祭での口演のパンフレット原稿を仕上げる。

また osax を新しく作ってしまったのだが、ついでに今の自分の osax の開発環境(開発過程)を紹介したページを作る。かなり変則的なものなので自分の記念(記録)もかねてページにしてみた。

午後はサーバのメンテナンスを行ったのだが、新しい osax を活用したスクリプトへと CGI を変更する。あんまり速度向上には役立っていないようにも思う。なんか、osax を作るために CGI をいじってるみたいな、変なことになりそうなので気をつけよう。

…試験答案の採点を仕上げないといけないのだが、逃避行動に走ってしまい、WSM に書き込みをしていた。

ようやくルーマンの『近代の観察』を落ち着いて読めそうだ。9月はルーマンどっぷりにしたいなぁ。

03年09月01日 11時31分 着信

土曜日は、前日に osax 作成のページを作った勢いで(?)、かつて購入して使っていた(今でも使っているものも含まれるのだが) HyperCard の開発ツールの自分のコレクションを並べたページを作ってしまった。HyperCard Developer Tools Museum というたいそうな名前のページで、1ページなのにダンプした画像が60近く並んでいるというかなり変則的なものになってしまう。しかし、どれも、自分なりの思いでがあって懐かしいものばかりである。その内のいくつかは MacJapan や Macintosh Developer Journal のレビューや記事を書いたものもある。また、購入しなかった印象の強かった(ようするに購入するかどうか迷いに迷ったってことだけども)ツールも入れておいた。ハードディスクの中のバックアップの中の HyperCard の昔のバージョンも、ついでに立ち上げてみたりしていたのだが、HyperCard 1.2.5 が MacOS 9.2.2 でもちゃんと立ち上がったのにはちょっと感動(って、考えてみたら感動するほどのことでもないのかもしれないけど)。

ルーマンの『近代の観察』を読了。英訳版で目を通していたものではあるが、馬場氏のしっかりとしたクリアな翻訳で読むと、やっぱ良く分かる。観察、区別、指し示し、偶有性など、キーとなる概念が丹念に語られている。その後、続けて、『ルーマンの貨幣論』へと読み進んだのだが、こちらも貨幣に即しながらルーマンのシステム論のコアを論じた本となっており、分かりやすい。ひさしぶりにルーマンに浸っていると、やっぱ頭の中がぞくぞく・わくわくしてくる。

昨日は妻の両親と昼食を食べに出かけ、その後はのんびりと。読まないままになっていた『理想なき出版』を読む。アメリカの出版業界の変遷、収益性の重視がもたらしたもの等、出版と書籍を巡る状況の変化は、アメリカでも大きなものがあることを実感。

03年09月02日 11時53分 着信

先日作った HyperCard の開発ツールのページに Double-XX の開発過程のダンプを追加した。バックアップを収めてあった CD-ROM からプロジェクトを引っ張り出してきて、Double-XX を使ってビルドした。ちゃんとビルドできて、アプリケーションが動く。

今年もゼミ生を中心とした学生にワープロ検定(日本語文書処理技能検定)3級の講習と受験を行うのだが、明日から講習を開始するので、その準備などを行う。さて、今年は何名が合格するかな。

HotWired の白田秀彰「インターネットの法と慣習」という連載の4回目が、ネットにおける名の問題を論じていた。名をかけた覚悟と矜持が自生的ルールが生成する基盤となるだろうというような趣旨である。そうかもしれないなとは思うが、しかし、匿名を否定するのは無理があるだろう。とはいえ、じゃあ、どうするんだという点については、すぐには考えつかない。確かに、名の問題はネットワークでは大きいし、名(そしてネット内でその名に帰属させられるもの)が定常的・安定的な関係(コミュニケーション)の基盤になることは間違いない。だからといって、その枠組みをかく乱し破壊しかねない匿名を排除していいのか?匿名の持っている可能性を封じ込めていいのか? ちょっと考えなくてはいかんなぁと思う。

03年09月02日 12時52分 着信

今日の料金詐欺メール:

From: mejwu.dmwmxdjtg@docomo.ne.jp
Subject: サイト料未納の告知

当社でご使用頂きましたアダルトサイト料(延滞金等含む)が、未納になっています。今回当社規定期間内に入金頂け無かった為、下記業者への債権嬢受をお知らせします(尚、これより当社は一切関知いたしかねます) ハッピークロス    譲渡先有)エイト企画 03-5745-1392 お客様指定金額*お振り込み先¥32800-UFJ銀行 赤羽支店普通3893175 名義人コシケンジロウ  尚、入金無き場合和解の余地なしとみなし、強制回収に入ります。回収手段としては、譲渡先の方針にお任せしております。振り込み期限は、メール受信後翌日2時までとさせて頂きます。

「債権嬢受」ってなんやねん? 債権替わりに娘をもらい受けるぞってことかしら(笑)

「こわいお兄さんにまかせちゃうけどそれでいいんか?」という新しいパターンだな。

03年09月02日 16時52分 着信

情報システムの試験の採点の仕上げ。みな、良く勉強している… っていうかあらかじめ問題を公表してあったから、「よく暗記している」というべきか。この出題方式も改めたほうがいいかんぁ。こうやって覚えてくれたことが、少しでも学生達の記憶に残ってくれるのだったら、意味はあるとはおもうのだが。しかし、同じような内容の文章を延々と読んでいくのは疲れる。講義では取り上げなかった内容に関する問題を選択している学生がけっこういたのは採点を甘くするということに魅かれてのことだとは思うが、ブログについて調べて書いていた学生が少なからずいたのはちょっと意外だった。あと、カメラ付き携帯電話の社会的問題は、さすがに多い。ちょうど「デジタル万引き」が話題になっていたこともあるだろうな。ネットの無責任な情報を規制すべきかどうかという問題に対しては、規制すべきと考える学生の方が(この問題を選択して回答した学生の中では)多かった。あと少しで終わる …そう思うとこうやって気を抜いて逃避してたりする。

採点を行いながら、これまで自分で焼いた音楽 CD を手当たり次第に鳴らしている。フュージョン系のコンピレーションの場合は、かなりダブって使っている曲が多いなぁ。あと、キース・ジャレットのブルーノートのライブからセレクトしたものを久しぶりに聴いたが、やっぱいいよなぁ。個人的には、この時期のキースのトリオがやっぱすごいと思う。それと、アラン・パーソンズ・プロジェクトのセレクト版も久しぶりに聴く。これもいいわぁ。確か、これが自分で作ったコンピレーション音楽 CD の第1号のはず。大学のパソコンに CD-R が付いたということで、試してみたもの。等速書き込みという、今では信じられないような規格の CD-R ドライブで、えっちらほっちらと焼いたものだったけど、それでも自分のオリジナル CD が作れるのに感激したんだった。アラン・パーソンズの CD は全部揃っているので、改めてコンピレーションを作り直そうかなという気になっている。ちょうど、今、アラン・パーソンズ・プロジェクトのがかかっているのだ。この後は、松岡直也のコンピレーション。久しぶりに夏らしい天気の今日にぴったり。松岡直也が終わるまでには答案の採点を終わらせなくっちゃ。

どういうわけか google の bot が大量にこのサイトに押し寄せてきている。

03年09月03日 16時38分 着信

ワープロ検定の講習を開始。今日の出席者はタイピング速度に関してはまぁ問題ないというところであった。ただ、肝心の時期に集中講義が重なっていることが判明し、今後のスケジュールの立て方が難しいところ。また、夏休みなので帰省や旅行に出かけてしまう学生もいるようだ(やれやれ)。ちょっと前途に暗雲が立ちこめてきたというところか。

WSM のトップページの内容を RSS としても配信するようにしてみた(って、ようするに RSS のファイルを作ってサイトに置くようにしただけだけど)。CGI で動的に生成する方が良いのだろうが、これ以上 CGI に負担をかけたくないので静的なページとして作成。データは割と頻繁に更新されるはずだが、サーバのキャッシュがフラッシュされないと新しいものが配送されないはずだ。このへんは問題点かな。UTF-8 をあきらめて EUC-JP を文字コードとして用いることにしたのと、会議室のトップページ用に CGI が作成するキャッシュファイルを利用すれば簡単なスクリプトで RSS のフォーマットに変換できることに気がついたので、実装してみたわけである。もっとも、RSS のリーダーを使っていないので、WindowsXP に NewsGlue というソフトのお試し版をいれて読んでみたのだが、一応、ちゃんと表示される。description を省いたのだが、本来は、この部分に最新の書き込みのダイジェストを入れるといいんだろうな。ま、今後、ポチポチと充実させて行くことにしようかと。

03年09月03日 19時41分 着信

すっかりコレクターと化しているが、今日の料金詐欺メール:

From: winkclub@ezweb.ne.jp
Subject: (無題)

あなたのお使いの携帯電話で、自動登録された有料サイトの料金が、未だに確認が取れておりません。至急下記連絡先までご連絡のうえ、解除手続きを行ってください。
(代)03-3845-8513
(代)03-3845-8548
(株)ウインククラブ
尚連絡なき場合、貴殿の発着信データをはじめあらゆるデータを元に、強制執行させていただきます。

とにかく電話をかけさせるというのが、最近の流行の手法なのかな? で、いったん電話をかけてしまうと、しつこく請求(というか嫌がらせだな)の電話をかけ続けて、お金を払わせるってわけだろうな。番号通知のサービスによって、相手に電話番号が知られてしまうってことを利用した手口だよなぁ。

03年09月04日 22時11分 着信

看護学校の哲学の講義の日。講義をするのは最後なので、日本の状況の変化などを阪神タイガースの優勝にからめて話したりする。誰かが言っていたと思うが、18年前の1985年というのは、プラザ合意で円高不況へ突入することになった年であり、その後、反動のようにバブル経済へと、日本経済がドタバタすることになった転換と言えなくもない年だからだ。そういう話も含めて、色々な安心の構造が壊れた難儀な時代になったというようなことをとりとめも無く話した。

サイトの会議室の RSS に少し手を入れる。と同時に、WSM Watcher 用(と iMode 用)に使用している、投稿ごとの発言ファイルと、通常の会議室のページのファイルとの関連づけを行える仕組みを実装する。テキストファイルを利用して関連づけを行うようにしたのだが、確かに、こういうのはデータベースを使えばむちゃくちゃ簡単に実装できるよなぁと思いながら作業していた。まぁ、それでもちゃんと動くようになったからいいんだけど。これで RSS の description に最後のコメントの冒頭部分を入れるといった処理が簡単に行える。

『リスク論のルーマン』を読み出したら、面白くてぐいぐいと引っ張られるように読んでいる。

03年09月05日 11時41分 着信

午後はワープロ検定の講習会なので、サーバのメンテナンスを午前中に繰り上げて行う。なんか Finder がもたつくなと思っていたら、ファイル共有が ON になっていた。いつ入れたんだろ?

Tanaka's osax の URL の Encode と Decode の処理について Walter さんから問い合わせが来る。昨日のうちにメールが届いていたようなのだが、Junk Mail に埋もれて気がつかなかった。やれやれ。スパムのフィルタリングを真剣に考えた方がいいかなぁ。

03年09月07日 16時51分 着信

昨日は家族でのんびりと。午前中に買い物に行き、午後は娘と散歩にいったりして過ごす。

『リスク論のルーマン』を読了。ここ何冊か読んだルーマン関連の本をノートを作りながら整理することにし、『法理論のルーマン』を読み返したりし始める。また、ルーマンのリスク論の英訳である "Risk: A Sociological theory" を読み始めることにする。後期の経営組織論は、いよいよ来年の4単位(30コマ)化にむけて、大幅にルーマンのシステム論をベースのものに組み替えるつもりであり、そのための作業を開始というところ。

会議室の CGI の新しい構想などがふつふつと沸いてきているのだが、もう少し寝かせて熟成(笑)してから取り組むことにしよう。

03年09月08日 16時55分 着信

今日もワープロ検定の講習会。今日から文書作成の練習。やはりテーブルツールは使い慣れていない(使ったことがない)学生が多いようだ。まぁ、なんとかなるかなぁ。

『法理論のルーマン』を読み返していたら、面白い議論がいくつも転がっていたのに気がつく。『貨幣論のルーマン』も再読。あとは『リスク論のルーマン』を再読したら、ノート作りだな。

会議室の RSS を CGI に担当させるように変更。やはりサーバのキャッシュを頻繁にフラッシュしてしまうのはもったいないと考えたからである。

03年09月10日 08時45分 着信

昨日は8月の冷夏を取り繕うとするかのような暑い一日だった。夜中に蚊に刺されて起きてしまった(福井に来て初めてだ)ので睡眠のリズムが狂って眠かったし、体調もよくなかったので、自宅でルーマン読み込みなどを行っていた。『リスク論のルーマン』の再読。日経 Windows Pro や NIKKEI DESIGN にも目を通す。

今日の午後は、地元の勝山高校で開放講座の講義をすることになっている。高校1年生が対象ということで、

田中先生ご自身の高校時代の様子や進路選択を決めた時の経験などを交えて,勉強することの意義やすばらしさ,勉強のコツなどを教えていただければ幸いです。

といった要望が出ているのだが、正直、難しいなぁと思う。高校1年生の時に自分の進路なんて真剣に考えてなかったからなぁ。全員がほぼ大学進学という進学校にいたこともあって、とりあえず大学へ行くっていうのはデフォルトで決まっていたようなもんだし、進路については、大学へ行ってから真剣に決めるもんだろうぐらいにしか考えてなかったはずだ。自分が理系か文系かなんてことすら考えてもなかった。まぁ、これは実際に進路別のクラス分けになる3年生の進級の際に迷ったことでもあるし、いまだに自分はどっちでもないというか、どっちも適当にかぶっているとは思うが。高校1年の時には、高校の合格祝いに買ってもらったプログラム関数電卓でバイオリズムの計算のプログラミングをしたり、放送部の機械機器担当でドタバタしたりって感じで、どっちかといえば理系だったもんな。緩やかな方向性(大学進学)だけはあったなかで、あれこれと寄り道しながら歩いていた、という感じが強い。その後、今の自分になるまでも、いくつかの分岐点はあったにせよ、その都度の真剣勝負でやってきたという感じがある。そういうことを、そのまんま高校生に話して良いものなんかなぁ?

03年09月12日 11時57分 着信

10日の水曜日の勝山高校の開放講座は、体育館ということもあって、暑かった。汗だくになって話していたので、聞いていた学生達も余計に暑かったことだろう。内容も、やや焦点がぼやけたままのものになり、どれだけ高校生達が進路などを考える際に参考になったのか… まぁ、大学に行けばいいってもんじゃないということと、先が見通せないときには自分をひろげておくしかない、ということは言ったのでよしとしよう。

昨日の午前中はルーマン論のノート作り。ノートをとりながら再読すると、色々と考えが広がり、あれこれと思い浮かぶ。けっこうみっちりと作業をして、昼前から研究室に。ローソンで買ったおろしそば(大根が全然辛くないおろしそばなんだけど、けっこう好きだったりする)をたべて、さて、夕方の教務課の人との打ち合わせまで時間があるなぁなどと思っていたら、看護学校から電話。非常勤の授業をすっかり忘れていた。自分でも不思議なくらいに、きれいさっぱりと。あわてて4コマ目へ変更してもらい、自宅に戻って試験問題を印刷し、看護学校へ。今年度の最後の授業なので、学生達に看護というものについて意見発表をしてもらう。昨週で自分の講義は終了していたので、それで授業も終了した気になっていたのかな。ドタバタとした一日であった。

今日は午前中に研究室に来てサーバのメンテナンス。その際、会議室絡みのCGI などにまた手を入れる。午後はワープロ検定の講習である。

ルーマンの観察、特にシステムの自己観察というものが、たとえばネットの会議室の運用者(ホスト)の役割の問題ときれいに重なる。以前、ホストとリーダーシップについては書いたことがあるが、システムの自己観察という観点で、あのときの自分の議論は整理できるな。もっとも、あの論文は”経営学”の論文を書かないと行けないということで、やや強引(というかやっつけというか)な部分があるので、自分なりに納得のいくけりは付けておきたい。いずれにせよ経営組織論のリーダーシップの問題をシステム論的に位置づけるということにはなるわけだし。

03年09月13日 17時45分 着信

台風が日本海を通過中ということで、南風が強い一日。北陸で南風というとフェーン現象が起きるわけで、むちゃくちゃ暑い一日。

今週のワープロ検定の講習会でビジネス文書作りを学生に取り組ましたのだが、何の指導をしなくても行頭揃えにインデントとタブを使う学生はほとんどいない。みな、スペースを打ち込んで整形しようとする。確かにそれでも悪くないのだが、ワープロ検定のように修正指示書によって作った文書の修正が入る場合には、スペースでの整形は面倒な作業を強いられるわけで、非効率きわまりないわけだ。そういう文書成形の基本的な技能を身に付けさせるだけでも意味があるかなと、毎年思う。テーブル(作表)機能でやってしまうという HTML 仕込みの技(笑)もあったりするので、そちらも教えておいた。

今日は自宅でみっちりとルーマン論のノート作り。頭の中に色々な想いが沸き上がってきてぐるんぐるんの星雲状態である。ある意味で幸せなひととき。この興奮が味わえるから/味わい続けたくて研究者をやってるようなもんではある。

自宅の近くには2つの大型の郊外型ショッピングセンターがあるのだが、そのうちの一つが今週改装したということで、夕食の買い物に言ってみた。惣菜が大幅に増えていた。やっぱ福井では惣菜というのが大きな売れ筋なんだろうな。実際、おいしそうなものが並んでいた。といはいえ、夕食は焼きビーフンを作ることになっていたので、その材料を買って帰ってきた。

In-Reply-To ヘッダと Reference ヘッダを読み取ってスレッド表示するメールソフトが増えてきているようなので(だましだまし使っている Eudora は先日発表になった新バージョンでも対応してないみたいだけど)、会議室のメール配送の一つの WSM Express を、このスレッドに対応させようと考えている。Message-ID と In-reply-To、Referece ヘッダを適切に設定すればよいようなので、明日にでも試験的に実装してみる予定である。これまで Message-ID はメールサーバに任せてあったのだが、CGI 側で発行することになる。ID は一意になる必要があるのだが、話題のページのファイル名と各コメントのシリアル番号(WSM watcher などで使用している書き込みごとの管理番号)を組み合わせればなんとかなるだろう。

メールによる会議室への書き込みも安定して利用できるようなので、こちらも仕様を一般に公開しようかと考えている。

明日は研究室でプログラミング三昧の休日かな?

03年09月15日 17時46分 着信

昨日は会議室のメール配信にスレッド対応のヘッダを組み込む作業などを行う。UVJ Mailer をちょっと手直しする必要があったので、ひさしぶりに UVJ Mailer のコードに手を入れたりする。その後研究室へ行って CGI のスクリプトの変更などを行う。スクリプトは無事に機能したようで一安心。また UVJ Mailer に SMTP Submit に対応させるためのポート番号指定の機能も追加したのだが、EIMS での実験ではばっちりいった。もう少しテストしてからリリースしようと思う。

ルーマンのお勉強の方は、昨日も今日も『社会システム理論』の読み直し。以前に読んだ時には分からなかった(重要性が気がつかなかった)個所が見えてきたりして、そうかぁという感じで、思わず読み進めてしまっている。

昨夜の F1 は見ようと思っていたが、やっぱ途中で寝てしまった。もう夜中のTVは見られない身体になってしまったなぁ。

妻の友人に貸してあった ONE PIECE 1〜25巻が帰ってきたので、おもわず読み返していた。やっぱ、こういうのをたまに読むと気持ちいいな。

03年09月16日 14時56分 着信

詐欺メールではないのだが、今日、携帯に届いたアヤシイやつ:

From: 0ps742033251z1c@ezweb.ne.jp
Subject: 警告※ウィルス感染しています

お客様のお持ちの携帯電話がウィルスに感染している恐れがあります。至急以下からご確認ください
http://madjp.com/

《送信元》
tk企画部
tk_kikaku0302@hotmail.com

パソコンのウイルス騒ぎに乗じて、ということだろうな。ためしにパソコンで上記のアドレスにアクセスしてみたら、Forbidden が返ってきた。携帯からのアクセスだけに限定をかけているのだろう。でも、こういうのにひっかかる奴もいるんだろうなぁ。

ちなみに、このメールの送信元になっているところからは、2日ほど前に以下のようなメールも届いていた(発信アドレスを控えるのは忘れた)。

Subject: 警告※即刻連絡せよ

極めて重要なお知らせがございます。即刻以下のURLよりご連絡ください。
http://madjp.com/

《送信元》
tk企画部
tk_kikaku0302@hotmail.com

ま、海外からの Junk Mail では良く使われる手法(文面)ではある。しかし、hotmail のメールアドレスを載せちゃうってあたりで怪しい業者であることを自ら明らかにしているようなわけで、そういうオマヌケぶりもふくめて、2つともなんだかなぁという感じのメールではある。

03年09月17日 09時38分 着信

丸善に注文してあった、美術出版社から出ている「デザインの解剖」シリーズが届く。

  1. ロッテ・キシリトールガム
  2. フジフィルム・写ルンです
  3. タカラ・リカちゃん
  4. 明治乳業・おいしい牛乳

の4冊である。これまで出ているのをまとめて購入したことになる。製品の成り立ちやデザインを解剖的に分析・解説した本ということで、おもしろそうなのでまとめ買いしてみたのだが、予想に違わず一気に4冊を読みふけってしまった。発見に満ちた本だった。まぁ、この分量で一冊1800円というのは安くはないが、本自体もちょっと凝った作りなので、個人的には高いとは思わない。

今日の午後はワープロ検定の講習なのだが、集中講義とダブったので、2本立てである。なんか疲れそうだが、今週が山場なんで、まぁ、がんばるしかないか、という感じ。

03年09月18日 09時11分 着信

/.J で匿名( Anonymous Coward )での投稿に関して制限を加えることになったようで、そのことに関する議論のスレッドを、ちょっと関心を持ってすべての発言を読んでいた。/.J の場合は、匿名による自作自演(それによる見せかけの盛り上がり)を排除したいというのが、制限の主たる目的のようだが、いずれにせよ、匿名による発言に対する制限が加わることには違いがない。また、確かに、/.J では匿名(AC と略称で呼ばれているが)による投稿がけっこう多いのは事実ではある。

匿名の問題を考えるとき、名前の持っている二つの機能をわけて考える必要があると思う。一つは、ネットワーク外の本人と発言を結びつける機能と、もうひとつは発言主体の識別機能である。

前者は、その名をもとにネットワーク外の個人を特定できる(あるいはその可能性をもつ)もので、その名を担うことによる信頼や責任の担保がネットワーク外部の「資産」へと結びつけられる。たとえば、私は自分の会議室では「田中求之」という名前を使っているが、これによって、サイトの管理者であり、福井県立大学の教員であるという、その会議室のコミュニケーション自体にとっては外部にある状況への参照を示しており、よくもわるくも、そのことを担った上で発言している覚悟の表明にもなっている。田中という名字の場合、本名を名乗っていても匿名性が高いわけだが(笑)、求之という名の方の特異性が高い。これまで、小学校から今の職場に至るまで「田中」という名字の人間とずっといっしょになっているが(高校の英語のクラスでは田中が5人いたし、今の職場では田中*之が私を含めて3人だ)、同姓同名に出会ったことはない。ネット調べたかぎりでは鹿児島に同姓同名の方がいるようだが、まぁ、その程度である。であるから、田中求之という本名をネットで使うことは、ネットの外部の自分とのリンクを示していることだと言っても良いだろう。NIFTY などで使っていた「田中(UVJ)」あるいは UVJ-Tanaka にしても、UVJ がアマチュア無線時代のコールサインだったりするし、今では自作のソフトウェアの名前に UVJ という文字列を折り込んでいたりするので、ネット外部との人格と切り離すための名前という機能はそんなにない。

自分の場合は、ネットワークもそれ以外も、さまざまなチャンネルでのコミュニケーションや、そこで生成される人格も、すべてひっくるめて自分だと考えているし、そういう複数のチャンネルでの様々な「人格」が交錯することが面白いと思っているので、基本的には本名か、それに類するハンドルを使うが、だからといって、それが「良い」と思っているわけではない。あくまでも、個々人のコミュニケーションの戦略の問題であり、個々人が好きに判断すればよいと思っている。自分の場合は、ネットワークでのつながりで得た「資産」を、あわよくばそれ以外のチャンネルでも活用してやろうという魂胆もあるので、すべて同じ名で通しているだけだ。そして、今のところは、それで不都合がないというだけにすぎない。もし、地下に潜行しなければならないとか、非合法なコミュニケーション活動を行う必要が生じた場合には、もてる知識を総動員して、この自分だとは同定されない方法で、匿名で活動を行うだろう。

つまり、ネットワークの外部への参照の有無という点での名前の使用方法については、個々人の戦略的判断によると思うし、その自由が得られることに、ネットワークという新しい社会システムの面白さと可能性があると考えている。だからこそ、自分の運用指定している会議室では、名乗ることは求めていても(「名前」欄に何かを記入することは求めていても)、それが本名であることは求めていないし、メールアドレスの記入なども求めていないのである。この点は、今後も絶対に変えないつもりであるし、もしそれで不都合が生じるのであれば、その時は会議室の運用はやめてしまうつもりである。

本名などの情報は一切不要としながらも、何らかの「名乗ること」を求めているのは、名というものが、コミュニケーションの成立にとって、必要不可欠な機能を担っていると考えているからだ。簡単に言えば、冒頭で述べた発言主体の識別機能ということなのだが、この場合の「主体」とは、あくまでも、そこで生じているコミュニケーション内部での主体であって、その外部の何かの実体を指すものではない。

単に発言を書き込むことがコミュニケーションなのではない。それを読み、反応する受け手があって初めてコミュニケーションは成立する。その意味で、コミュニケーションとは、あくまでも人と人の間で起きる出来事であって、本人にもコントロールできない外在性を孕んでいる。そうした出来事ではあるが、それを受けとめ応答していくためには、発言の識別と、それの帰属先が必要となる。「誰か」が「何かを」言ったという形で理解することによって、受け手(読み手)は反応を起こすわけであるし、その反応としての発言の宛先として「誰か」を名指すことになる。また、いかなる時点であっても、過去の行為を参照して「あの時、XXがYYYと言ったのは…」と再帰的に参照可能であることによって、コミュニケーションのプロセスは継続の基盤を作り出している。そうである以上、個々の発言が、少なくとも、発言者によって識別できることが、コミュニケーションの進行を確保するためには重要であると考える。そうした発言の識別機能として、名が重要だからこそ、何らかの名を名乗ることを、自分の会議室では求めているわけだ。

もちろん、そうした「名乗り」には、その発言を行ったものとしての原初的な責任(問い返しに応じる可能性)を引き受ける覚悟がいる。それすらも逃れたい状況がありうるとは思う。無責任というと非難しているようだが、覚悟とか責任から逃れた状況で(それは誰にも相手にされなくてもよいということではあるが)、とにかく表明したいということもあるだろう。だからたとえいったん何らかの名を名乗ったとしても、その名を名乗り続けることを求めるつもりはない(だから、発言/コメントの度に名を記入させているのであって、これを Cookie などで自動化したり登録制にするつもりは全くない)。しかし、単に表現することではなく、少なくともコミュニケーションを指向するのであれば、同じ名を名乗るしかないことは、誰もが理解していることではあると思う(すくなくとも同じ話題/スレッドのなかでは)。まぁ、簡単に言えば、「名乗り」において、コミュニケーションへの指向(=原初的な責任を負う覚悟があるのかどうか)が明らかになるという感じかな。

…そんなことを考えながら、/.J の議論を読んでいた。

03年09月18日 12時35分 着信

VeriSign の騒ぎの影響なのか、特定のドメインの DNS の逆引ができず、つなげられない状態が続いている。何が原因にせよ、DNS 関係の調子が狂っているのは間違いないようだ。やれやれ。

さっきのネットにおける名の問題を書いてから、1つ、大きなポイントに触れていないことに気がついた。それは自分が自分で運営している会議室に実名で発言するということの意味(機能)だ。それは明らかに、他のどこかの掲示板や会議室の場合とは異なる。つまり、管理者(権力者)としての介入であることを、その気が無くとも、示すことになるからだ。

実際に管理や運営上のことについて発言する場合は、極力、管理者として発言しているということを「 as 管理者」という表記を名前に付けることで明示するようにしている。しかし、そうでない場合であっても、田中求之のサイトの会議室に田中求之が発言しているのなら、それは管理者(ホスト)の発言であることは明らかであるし、こちらがどんなつもりでいようが関係なく、そう受け取られてしまうことは避けられない(もちろん、気がつかないことだってあるだろうが)。その意味では、田中求之は、他の投稿者と対等な立場でコミュニケーションしているわけではない。

で、自分の場合には、それで構わないと考えている。むしろ、積極的に、自分が参加できる話題には参加しようと思っている(とはいえ、最近ではその時間がなかったりするのだが)。そのことによって、自分のサイトの会議室がどのような場であるのか、つまりどのような発言であれば応答があるのか、またどのように応答があるのか、あるいはどのような発言が放置されるのか、そういった接続のあり方、識別を示すことが重要だと考えているからだ。そのことによって、会議室の「場」(この言葉は好きではないのだが)を、具体的に参照可能な形で示すことによって、持続させていけると考える。もちろん、発言内容や発言の仕方などに直接言及したメタ・発言みたいな形で述べることもあるし、自分が具体的にコメントすることで示してみせようとすることもあるのだが、いずれにせよ、この会議室ではどのような発言が受容される/受容されないのか、どのように受容されるのか、そういった事に関する期待を、会議室に来ている人たちが抱きやすいようにすること、そしてその期待が裏切られないであろうという期待(期待の期待)、それを示すことが、私が田中求之として発言することの機能として必要である。それは、自分の意志とは関係なく、管理者であるということによって周囲から求められている機能だとは思う。自分が田中求之として田中求之のサイトで発言する以上は引き受けざるを得ないことだ。

…思わず組織論的な書き込みを続けてしまった。

03年09月18日 13時17分 着信

パソコンの方に「開業・創業・ニュービジネスのための情報&ツールのご案内」と題した広告メールが届いたのだが、有用な情報やソフトが詰まった二枚組の CD-ROM の販売の広告であった。で、その情報の中に

  • メールアドレス 100万件以上
  • 一括メール送信ソフト
  • メールアドレス収集ソフト

といった spam 用の道具が入っている。海外からの Junk Mail には珍しくなかったのだが、日本からのでこの手のものの売り込みのメールを受け取ったのは初めてじゃないかなぁ。掲載されている情報というのもなかなか怪しくて笑えた。

03年09月19日 10時23分 着信

日経バイトが届いていたのだが、リニューアルされて NIKKEI BYTE になっていた。内容も「コンピュータ技術の真髄を問う」というだけあって、けっこう読みでのある記事が並んでいた。とりあえず復活を喜ぶってところかな。今年に入ったぐらいから内容的には持ち直してきたなぁとは思っていたが、完全に復活という感じがする。ちょっと前まで、定期講読として支払ったお金はドブに捨てたようなもんだったもんな。ただ、なんか就職情報誌みたいな表紙になってしまったなぁ。

03年09月19日 17時17分 着信

同僚がイギリスでデジカメで撮影してきた資料を、印刷して読みやすいように加工してほしいということだったので、Photoshop で一気に処理させることにする。あらかじめ Photoshop 内での加工をアクションとして作成しておいて、それを AppleScript でコントロールすることにした。ファイルのオープン→アクション→ファイルを加工済み画像用フォルダへセーブ、という流れのスクリプトを書く。アクションを組まずにすべて AppleScript で処理させることもできるようだったが、初めて Photoshop をスクリプトで動かすことにしたので、楽な方法を選んだ。3000枚余りあるので、この週末、研究室のG3を動かしたままにしておくことにする。

03年09月22日 10時03分 着信

大学外部との接続がまったく切れているようだ。ネットワークの工事の予定なんてあったっけなぁ? まぁ、日曜日だから困らないことではあるが。

03年09月22日 10時03分 着信

昨日は風邪と飛び火の娘を病院へつれていくのに一緒に行ってから、買い物をして帰ってくる。最近歌に目覚めた娘のために、ハロープロジェクトの「ザ・童謡ポップス 春」を新たに購入(自分が歌わされるのは勘弁して欲しいからなんだが)。そのせいもあって、午後は、すでにあった2枚と合わせて、ずっと「ザ・童謡ポップス」を繰り返しかけることになる。モーニング娘。なんかの声がず〜〜〜っと鳴り続けていた。娘のお気に入りの曲(保育園で習って知っている曲?なのか歌ったり踊ったりできる曲)を集めて CD を作る。自分の TiBook にモーニング娘。が歌う歌の AIFF ファイルが入ることになるなんて! 音楽 CD の編集の際には AIFF で取り込むようにしているのだが、やっぱ早い。音楽 CD の編集版を作るときには、普通であれば Jam でレベル調整やノーマライズなどを行ってから Toast で焼くのだが(そういや、Toast は 6 が出るみたいで、アップグレードの案内が来てたな)、ま、同じ企画のシリーズだからレベルの差はないだろうし、あっても自分が聴くわけじゃないし、ということで iTune で焼いてしまう。

買い物の際によった書店で、久しぶりに新書を何冊か購入。

  • 「Jazz 聴きかた入門!」中山康樹
  • 「深海のパイロット 6500m の海底に何を見たか」藤崎・田代・藤岡
  • 「コトバの謎解き ソシュール入門」町田健
  • 「日本企業モラルハザード史」有森隆
  • 「やつあたり俳句入門」中村裕

「Jazz」と「深海」を昨日のうちに読み上げる。どちらも新書らしい本で、楽しく読めた。

夕食はもつ鍋。9月も後半ということで、ようやくもつ鍋などの各種の鍋のスープが店頭に並ぶようになったのが嬉しい。やっぱできあいのものの方が、自分で勝手に調合したスープよりはうまいもんなぁ。昨夜はちょっと控えめに夫婦二人で上モツ600gにしておいたのだが(自分で下茹でする)、ちょっと少なかったかな、という感じ。まぁ、これぐらいが一番おいしく食べられるのかもしれないが。

ルーマンの『社会システム理論』の再読を続けている。今日中には切りを付けて、ノート作りの再開にとりかかりたいのだが、さて?

03年09月22日 16時47分 着信

学内のコンピュータにブラスターが感染した影響で、大学全体がネットワークから遮断されてしまった。そのため、メールも一切がとまっている。おまけに飛び石連休の合間ということで、復旧に時間がかかるらしい。やれやれ。

03年09月23日 16時33分 着信

外部との接続が切れているのだから、当たり前ではあるが、Phantom のアクセス以外は延々とアクセスが 0 の状態が続く。けっこう新鮮ではある。

今日から妻は東京へ11日間の出張。娘と見送りに行って、買い物を済ませて帰ってきて、昼食を作って一緒に食べ(困ったときの讃岐うどん!)、しばらく遊んでいたら娘は昼寝。娘が寝ている間に Software Design とか日経コンピュータに目を通していた。Software Design のOS 関係の特集が面白い(特に OSASK)。日経コンピュータのメインフレームに関する記事も面白く読めた。

昨日も CGI に手を入れたのだが、手を入れるほどに、次々と、新しいアイデア(ってもたいしたことはないんだけど。だいたいが新しいバグの原因にしかならないし)が沸いてくる。ただ、WSM だけでも、けっこう込み入ったものになってきているので、この辺で、ちょっと整理して、ついでに解説(というよりは自分の記録=記念だけど)のページを作っておこうかと考えている。

田渕由美子の『ハルジオンの庭』が出ていたので買ってきて読む。短編集なのだが、タイトル作なんかは、まさに田渕由美子だよなぁと思う。ちょっと無理があるかなという感じがするところはあるけど、まぁ、田渕由美子だから許すのであった。

03年09月24日 16時26分 着信

ようやくネットワークが復旧したようだ。どうやら学外から持ち込まれたパソコンから感染が広がったらしい。夏休みも終わりということで、自宅で使っていたパソコンを大学へ持ってきて、つないだら… ということだろうな。ただ、ネットワークが遮断されていた間のメールはまだ流れてきていないようだ。一気に来ると結構な量になるから心配ではある。

03年09月24日 16時59分 着信

このところ2日続けて届いた詐欺メール:

From: a27982b88dssed@jp-t.ne.jp
Subject: お知らせ サイトセンタ−

あなた様のご利用 頂いたインターネット接続料金が未払いになっています。 大至急連絡下さい。今現在の金額は
54900円です。支払いなき場合は
調査及び法的手続きをとります。 担当 斉藤03−3981−4671

とにかく電話をかけさせるという最近流行りのパターンだな。斉藤だからサイトセンターか(笑)?

03年09月25日 07時18分 着信

ようやく、メールも順調に届き始めたようで一安心。

ワープロ検定の講習をずっと行っているのだが、今年は作業中にハングアップするマシンが多くて困っている。Windows 98 SP2 を入れて Word 2000 を動かしているのだが、作業中にフリーズしてしまい、強制再起動しか手が打てない、ということが多いのだ。演習室のパソコンは、起動時にすべての変更を無効にして予め設定した状態で立ち上がるようにするユーティリティを入れてある。このため、学生などが不用意にソフトなどを入れたりシステムに変更を加えても、再起動ですべて無効になるわけだ。それにも関わらずフリーズしまくるというのは、ハードかシステム自体の問題としか考えられない。リース更新から3年がたち、そろそろハードディスクの状態が怪しくなってくる時期ではあるが、単にディスクの問題とも言い切れない気がする。いずれにせよ、Windows 上で Word を動かしていて死んでしまうようでは話にならないわけで、本番中のエラー発生が怖い状況である。

03年09月25日 14時22分 着信

会議室の発言にコメントするために久しぶりに ListSTAR をいじくる。このところ必要なメーリングリストはすべて LetterRip で運用してきたし、このページや会議室のメール書き込み機能などの実装も LetteRip Pro の Processor のスクリプトとして組むなど、LetteRip べったりだったので、ListSTAR が妙に新鮮。ちょっとしたテスト用のメーリングリストを設定して、配送の際のヘッダの設定などを確認するのが目的だったのが、やはり肌理の細かな設定ができるよなぁと実感。LetterRip も Processor を利用することでかなり細工が仕掛けられるし、AppleScript のスクリプトを書く場合には、こちらの方がシンプルで見通しが良かったりするのだが(ListSTAR でメールを扱うスクリプトは、ちょっと癖があるのだ)、リストサーバとしての機能としては、やはりListSTAR の方が断然良くできている。ただ、そのことが実感できるまでの取っつきにくさがあるのが難点かな。イベントドリブンで処理を組んでいくというコンセプトが理解できれば、けっこうすっきりとはするのだが、それでも、取り合えずMLを運用したいという場合には、テンプレートを使っても、見通しが悪いところがある。LC475 上でエラーを連発したのがきっかけで、サイトのメインのリストサーバとしては ListSTAR を引っ込めて LetteRip に切り替えたのだが(そして LetterRip は確かに安定しており、今まで LetteRip が原因でサイトがハングしたりエラーが起きたことは一度もない)、ちょっと惜しいよなぁと思ってしまった。

03年09月26日 09時19分 着信

一ヶ月あまりテストを行ってきた会議室のメールによるコメント投稿についてその仕様(というほど大げさなものではないが)を公開した。LetterRip の Processor もきちんと機能すること(処理結果を返すメールの発送など)が確認できたからである。しばらくは投稿者のアドレスの制限などは加えないつもりであるが、さて、どういうことになるかな。ただ、自分のようにいまだにダイアルアップ接続でインターネットを利用している人間にとっては、オフラインの状態でじっくりとコメントが書けるし、メールソフトが使えさえすれば Mac でなくても良いというのは便利ではあるのだが、常時接続でネットを利用している人には、Web で直接書いてしまうほうが楽だろうなとは思う。blog なんてのも常時接続が個人でも当たり前になって初めて使い物になるもんだとは思うが、それが普及してきているわけだしね。

この週末は娘と二人で過ごすことになった。明日は運動会。天気もよさそうなので、どっかに出かけてみるかなぁ。

03年09月26日 09時19分 着信

今日の料金詐欺メールはこれ:

From: saiken.hau@docomo.ne.jp
Subject: 最終通告整理番号8426

前略、先日発送さぜて頂きました債権譲渡通知書でもお知らせしました通りアダルトコンテンツ事業者より利用料金等の回収を委託されているものです。未だ貴殿からの御入金が確認されていません。大至急お支払い下さい。尚、速やかに御入金頂けない場合は回収班がご自宅、勤務先、ご実家まで強制回収しますのでご了承下さい。
サイト利用料 15000円
延滞金 4480円
支払合計 19480円
最終入金期限 9月26日
利用サイト ピンクネット
振込口座 横浜銀行浦田支店
(普)1258813
名義人 キムラアキオ
(株)木村債権
東京都大田区浦田1-21-2
担当 前川
08032382493

ピンクネットという芸のないサイト名が笑える。

03年09月28日 20時50分 着信

この週末はずっと娘と二人で過ごす。さすがに何もできない。新聞すら落ち着いて読めない。ひたすら子守である。だが、それはそれで楽しかったりする。

子守の合間を縫って『日本企業モラルハザード史』と『やつあたり俳句入門』を読んでいたのだが、どちらも読みでがあった。今月は文春新書があたりって感じか。特に『やつあたり俳句入門』は、正岡子規、高浜虚子あたりの近代俳句の成立の過程に関して、そうだったのか(そうだよなぁ)という発見/納得の得られる一冊であった。詩あるいは俳句はもともと好きで、高校時代には雑誌に詩の投稿をしたこともあったりする。「高一時代」という雑誌の詩の投稿コーナーで特選(一等だったかな?)になったこともあったりするのだが(自分の書いたモノが活字になったのはあれが最初だ)、かといって詩に特別の思い入れがあったりするわけではない(といいつつも、谷川俊太郎の初期の作品集なんか持ってるんだけど)。それでも俳句というぎりぎりまで切り詰めた形の言語表現には、何かしら惹かれるものがあったのは事実。だが、かといって、正岡子規なんかの俳句がいいとは思わなかったのだが、そのへんの自分の体験が、ようやく納得がいく説明に出会ったという感じである。また、芭蕉に関しても、自分が文学史の教科書のような表面的な理解しかしてなかったことを痛感させられた本であった。こういう本に出会えるのが、やっぱ、読書の悦びだよなぁ。

03年09月29日 21時47分 着信

朝、娘を保育園へ連れていって、帰ってきてから新聞をゆっくり読んでから大学へ。今週末の学園祭で文芸部が古本市をするというので、自宅にあったもう読まないだろう小説などをあげることにする。マイケル・クライトンのなんかはこの間の新作(新訳)も出すことにした。段ボール2つ強ってとこなんだが、自宅の本は全然減ったという感じがしない。

午後はワープロ検定の講習会。これで講習会は終了し、あとは本番。約一ヶ月であるが、着実に学生たちが技術を身に付けていくのを見ているのは気持ちのよいものではある。しかし、全員が講習会にそろったことがなかったというのは、今年が初めてだなぁ。たぶん、合格率も去年までよりは低いだろう。ま、無料でやってるんだし、授業でも何でもないんだから、いいんだけどさ。

丸善に注文してあった『金子光晴、ランボーと会う』鈴村和成が届いていた。なんか詩人づいてるって感じ。とはいいながら、夕食の買い物にいったついでに本屋によって

  • 『情報検索のスキル』三輪眞木子
  • 『絵のある人生』安野光雅
  • 『都市と日本人』上田篤
  • 『翻訳のココロ』鴻巣友季子
  • 『ゼムクリップから技術の世界が見える』ヘンリー・ペトロスキー

を購入してしまう。この間買った新書で読んでないのもあるのになぁと思いつつそれでも、本は出会ったときが買い時だということで。

自宅に戻ってテレビをつけたら、久しぶりに NFL をやっていた。最近はめっきり見なくなった(F1 もだなぁ。アメリカ GP も見なかったし)ので、知らない選手や監督が多いんだけど、スティーラーズの監督は変わらないままだった(でもちょっと年取ったよなぁ)。

教務委員会に提出するための FD に関する中間報告書をまとめ直していた。

03年09月30日 13時42分 着信

ワープロ検定(日本語文書処理技能検定)の科目の中には日本語とパソコンなどの知識の筆記試験があるのだが、この練習をやっていると、そうか、今の学生はこういうのは知らないのかという発見がある。たとえば、日本の用紙サイズがA版とB版の2系列あることや面積が半分になるごとに数字が1つ上がることなども知らなかったりする。普段、レポートの提出などで用紙サイズの指定などを受けているはずだから当然知っているんだろうと思っていが、そうではない(まぁ、A版系列が国際規格というのは知らなくても仕方がないとは思うが)。その他、ドットインパクトプリンターは見たこともないから知らないし、フロッピーに色々なサイズがあったことも知らない(2DD と 2HD の区別も知らない)。もっとも、これは現在では仕方がないとは思うが。日本語の方では、ら抜き言葉の判別がつかないのはいいとして(?)、「水をあけられる」という表現を聞いたことがないという。そんなもんかもしれないな。

03年09月30日 14時57分 着信

週末は子守で大学に来れなかったので、先ほど、サーバのメンテナンスを行う。また CGI に手を入れる。そういえば、.mac ユーザー向けに提供された iBlog の Reader モードで、ちゃんと WSM の RSS が取得できるのを確認。

丸善に注文してあった『ランボー、砂漠を行く アフリカ書簡の謎』鈴村和成が届く。鈴村氏のランボーにちょっと付きあってみるか、というわけである。今日は仕事も一区切りついたし、さっさと帰って読書しようかな。

03年09月30日 17時30分 着信

このところ、海外から Vicodin という薬の売り込みのジャンクメールがやたらと多くなったので、ちょいと Google で調べてみたら、鎮痛薬なんだけど、ドラッグとして人気が出てきている薬らしい。咳止めの成分として麻薬系の薬剤が入っているみたいだ。そういや、昔、咳止め液を一気飲みするとトリップできるなんて話があったな。

03年10月01日 14時03分 着信

『金子光晴、ランボーと会う』を読了。読んでいるうちに、こちらもねっとりした空気に包まれてくるような本であった。こういう紀行文の文章を読んだのは久しぶりだな。

学部の情報演習室の問題について、サポート担当の業者の方と相談・打ちあわせ。演習室の管理体制の不備なども問題になる。とりあえずディスクのチェックなどを行ってもらった上で、明日のワープロ検定の本番にはのぞむことにする。

03年10月01日 14時15分 着信

StuffIt Deluxe 8.0 が出ていたので、アップグレードしてインストール。アイコンのデザインが大幅に変わっていた。今回のバージョンから OS X 版のみの提供となるようだ。このソフトも長いつきあいだよなぁ。

03年10月01日 17時31分 着信

やれやれ、ようやく教務委員会が終了。FD に関する報告書の再手直しが必要になった。ふみゅ〜。

03年10月02日 16時08分 着信

ワープロ検定の本試験が無事終了。今年は試験中のフリーズが1台もなくてよかったというところ。問題のほうは、相変わらず予想を裏切るパターンで攻められたなぁというところである。受験者の全員が合格して欲しいが、さてどうなるか。

午前中はオリエンテーションで履修指導を話したりする。新しいカリキュラムの導入と副専攻制の実施でややこしいことになってきている。

昼休みに HMV からのメールマガジン(Jazz と Fusion の売り上げランキング)を読んでいて、深町純の新作が出ていることを知り、さっそく注文。HMV から買うのは久しぶりだ。ホームページが多少軽くなったかなという気がする。最近、国内版はハイブリッド版で出てくるのが多いのだが、それがいやなので(演奏できない CD Player がある)、なるべく輸入版にしているのだが、国内のアーティストの場合、輸入版がないのが哀しい。ハイブリッドではない版も出して欲しいところだ。高音質 CD 普及を狙ってのことだとは思うが、姑息なことは止めて欲しい。

03年10月03日 08時57分 着信

ワープロ検定の試験も無事に終わったし、ひとりの夜も最後だったので、昨夜はワインを飲みながら「天空の城ラピュタ」を引っ張り出してきて見ていた。気がつけばワインを一本空けていた。ちょっと二日酔い気味である。宮崎アニメのファンというわけではないのだが、この「ラピュタ」と「紅の豚」はビデオを購入して時折ひっぱり出してきては見ている。単純な物語の面白さの魅力だと思う。最近の作品も見てはいるのだが、妙なメッセージ性が鼻に付くとこもあるのだが、この2つの作品はシンプルにわくわく・どきどき・じーんとできるから好きだ。

ある福井の会社の方から、Web サイトを見ての感想のメールをいただいた。それがきっかけでちょっとメールのやり取りがあったのだが、勤務校である福井県立大学の学生についての話題になり、県内出身の男子学生がおとなしいのでもう少し覇気のある男子学生を望みたいとの意見をいただいた。で、それに対して、思わず書いてしまったのが、以下の文章:

…、確かに女子学生の方が活発ですし、また、成績も優秀だと感じています。

そして、普段そのような学生たちをゼミなどで指導している立場としては、確かに県内出身の男子学生をもっとしっかりさせてくれという要望は理解できるのですが、一方で、この優秀な女子学生たちを福井の企業はなんでもっと活用することを考えないのだろうかとも思います。男女雇用均等法のおかげ(?)で、求人票での男女差別がなくなった分、かえって学生たちは苦労しています(実際に会社に行ってみないと、女子を採用するかどうか分からないからです)。「女子といっても、事務なら高卒でいいし、それ以外はパートで十分」と言われて、大学に進学したことが間違いだったのかと後悔する学生も出てくる福井の現実を見ていると、福井県立大学には女子学生があたかも存在しないかのような意見(産業界から大学への要望等)を耳にすると、何を勝手なことを言っているんだと反発もしたくなります。

まぁ、毒抜きというか、とりあえず言ったらせいせいするというような文章の典型ではある。

学部の情報演習室を利用している学生たちの意見を聞くための掲示板を web 上に構築したらどうかという話になって(言い出したのは自分なんだけど)、とりあえず組んでみることに決めた。後期に学生による授業評価を有志を募って行って FD に関する意見交換などを行うつもりなのだが、それも web 上で行うことができれば面白いかなと考えていたところなので、どちらにも使える CGI をプログラミングするつもり。サーバは G3 の AppleShareIP を使うことにし、CGI は REALbasic で組むのがよいと考えている。EasyBBS や自分のサイトの会議室の CGI を組んできた中で色々と考えたことなんかを踏まえて、ゼロからコードを書くつもりだ。EasyBBS EX を使うのが手っ取り早いのだが、それでは面白くないというだけの理由である。やるからには、自分が楽しめる(チャレンジできる)ことがないとねぇ。もちろん(?)、汎用に組んで、作ったものはフリーウェアとして公開するつもりだ。EasyBBS の第2世代というと大げさ(そもそもいまだに MacOS を対象にして次世代も新世代もないわなぁ)だけど、それぐらいの気持ちで作ってみようと考えている。一番のポイントは、レイアウトをスタイルシートに任せ、データ自体は正調(?)の HTML ですませるということかな。この週末に仕様を固めようかと考えている。

03年10月05日 10時58分 着信

妻も帰ってきていつも通りの週末。なので、落ち着いてメールも読めなくなる。

新着の雑誌に目を通していた。NIKKEI DESIGN、デザインの現場、日経Windowsプロ、日経インターネットソリューション、日経システム構築の順。やはり刺激を受けるのはデザイン系の雑誌なのだが、日経システム構築の「XML の功罪」といった記事は面白い。あと、この雑誌のケーススタディの事例集もいつも楽しみにしているものではある。

大学では今日から学園祭。午後にはパンフの原稿作りを手伝った一期生の落語家の講演があるので、それに顔を出すつもり。OS X のアップデートも出たようなので、TiBook にそれをあてることにも。

先日、地元の福井大学と福井医科大学が統合して、新しい福井大学としてスタートした。それに関して商工会議所の会頭(だったと思う)のコメントの中に、将来は経済学部を持った総合大学に、というような言葉があった。暗に県立大学が独立法人化した後には統合せよということか。それとも県立大学の経済学部では「役に立たない」ので、新たに福井大学に経済学部を作れと言うことなのか。まぁ、いずれにしても、大学に関して色々な話が飛び交う(周りに渦巻く)状況になってきたなぁ。

昨日の買い物のついでにユニクロに行って、キース・ヘリングのトレーナーとパーカーを購入した。ミーハーなやつである。

今週は授業開始前の静かな一時が得られるはずなので、ルーマンのノートのまとめ直しと、経営組織論の講義ノートの書き直しに着手したい。後期の外書講読でもルーマンを読むので、後期はルーマン一色かな。基本的なコンセプトは、ルーマンのシステム論をハックすること、である。経営組織論という枠の中で(その枠を利用して)、整理すること。全体の鍵となるのは、ダブル・コンティンジェンシーとコミュニケーションは当然として、期待、信頼、公式組織、それに観察だと考えている。特に「経営学」ということであれば、観察概念を展開することになると考えている。経営とは言ってしまえば観察だからだ。さて、本当にうまくいくのかな。

『ランボー、砂漠を行く』を読み続けているのだが、そうか、ランボーってこういうやつだったのか、という発見が自分にある。ランボーの詩をまともに読んだことなどないので、まぁ、何が書いてあっても発見だったりするんだが。

03年10月05日 13時02分 着信

Xanax という薬品の売り込みのジャンクメールも増えてきたので調べてみたら、向精神薬(抗不安剤)のようだ。なんでこんなもんの売り込みが大量にやってくるんだろ?まぁ相変わらず一番多い薬関係のジャンクメールは、ペニスをでっかくする薬だったりするんだが。

03年10月05日 13時55分 着信

研究室で飼っていたクワガタの最後の一匹がついに死んでしまった。昨年から一冬を越えてつきあってきたヒラタクワガタ♂である。むちゃくちゃ元気で食欲のあるやつだったのだが、この冬を前にして力尽きたみたいだ。ちょっと前にヒラタの♀とオオクワの♂も力尽きてしまったので、これでクワガタはみんないなくなってしまった。ちょっと寂しい。

03年10月06日 11時43分 着信

昨日は昔昔亭健太郎の口演を聞きに行く。生で落語を聞くのは初めてだったりする。なかなか面白かった。しかし、彼も32歳になっており、彼と一緒に飯など食べに行っていた頃の自分の年齢になっていたのには、ちょっと感慨深いというか、そうか、そんなもんなんだなという感じがあった。車の免許を取るまでは、車を出してもらう代わりに飯代を持つというかたちで、彼や彼の同期の一期生たちとよく晩ご飯を食べにいっていたのだった。口演を始めると、さすがにプロの語り口になっていたのは、さすがであった。

ちょっと風邪気味だし、大学へ行っても学園祭をやっているので、今日は自宅で過ごすことにする。すっかり秋が進んで、窓を開けておくと肌寒いぐらいである。経営組織論の改変のプランを練ったり、会議室用 CGI の仕様の練り上げやプロトタイプ作成を行う予定。どんなプログラムであっても、最小限の機能で動くものを作り、それをだんだんと膨らませていく(新たな機能を追加するたびにテストを繰り返しながら)というのが自分の作成の方法なので、今日のうちに AppleEvent の処理を行うコアの部分ぐらいは組んでおきたいと考えているが、さて。

『都市と日本人』(上田篤)、『絵のある人生』(安野光雅)と読んでいるのだが、どちらも今一つかな。前者は主張したい論点と紀行文とのバランスがよくない感じがするし、後者は色々な話題が脈絡なく続いていくようなところがある。細部では刺激的・発見的な文章があったりするのだが。なんか岩波新書も「薄く」なったなぁと、改めて思う。

03年10月07日 22時25分 着信

風邪気味で、けっこうしんどくなってきた。やれやれ。

HMV に注文していた CD が届く:

  • Miyuki Nakajima Melodies (Jun Fukamachi)
  • Manhattan Portrait (Niels Lan Doky)

深町純の中島みゆきの曲のアルバムからさっそく聴く。ピアノの響きが気持ち良い。しっかり深町純の作品になっている(中島みゆきの原曲のメロディを活かしつつ)。

深町純という名前を知ったのは高校3年の時、友人から借りた Departure in the dark というアルバムが初めてであった。運動会の出し物のBGMの選曲を行っているときに、友人がこれがいいと持ってきたものだ。タイトル曲を使った。それ以来、大学に入っても、レンタルレコード屋(懐かしい)で彼の名前を見かけると借りてきて聴いたりしていた。New York All Stars のライブもそれで聴いたのだった。サラ・スマイル(この曲自体は、ホール&オーツが初期の頃から、まだ周りのだれも知らないような頃から好きだったので知っていた)の演奏に感激したのだが、そのサックスがデビッド・サンボーンであることは、後から知ったくらいだ。また、タイトルは忘れたがシンセサイザーを演奏したソロアルバムもあって、それを録音したテープは何度も聴いた。「ぶ〜け」で連載していた吉野朔実の「月下の一群」のイメージアルバムも深町純だったので、もちろん買った。このLPは、今でも手放さずに持っている。その後、名前を聞かなくなったのだが、KEEP の KEEP Alive というライブ版で Departure in the dark を演奏しているのを見つけたのが、久しぶりに聴いた深町純だ。仕事で東京へ出張することが多くなった頃に、ちょうどインディーズで四季のシリーズのピアノソロの発売が始まり、また過去の作品の CD 再発があったりして、再び深町純の演奏に触れることになった。「月下の一群」やシンセのソロのアルバムなどはぜひ CD で再発して欲しいと思うのだが、無理なのかな。また、New York All Stars のライブ版を出したのだから、Departure in the dark も再発して欲しいと思う。そんな色々なもの(想い)が取り巻いている中で深町純のピアノが響いているというのが、今日の Miyuki Nakajima Melodies であった。Jazz でも New Age でも Classic でもない、深町純の演奏としか言い様がないものではある。そういう意味では、Open Mind という言葉を語りジャンルにこだわらずに演奏する姿勢を見せる D. D. Jackson (One of my favorite pianist!) にも通じるかもしれないな。まぁ、聴く人によっては、抒情性を煽りすぎというのかもしれない演奏になってきているのが最近の深町純ではあるけれど。

娘のために、福音館書店が予約販売している「こどものとも 012」という月刊の創作絵本を妻が購入しているのだが、これが、なかなかいい。自分も毎月の新作を楽しみにするようになってしまった。今月は「いいな いいな」(かたやま けん)という本だったのだが、これが絵といい内容といい、娘が喜びそうで、読んでやるのが楽しくなるような、ツボを突いたものだった。実際、娘はごきげんであった。どの作品も、教育色がなく教訓などもちらすかせず道徳臭くなく、純粋に作者も楽しみながら絵本を作っているような感じがするのがよい。やっぱ福音館の絵本はいいよなぁ、と思ってしまうのは、自分が小さいときからの刷り込みかもしれないが。

丸善に注文してあった『Google Hacks』の翻訳の方が届く。どっかで見かけたら買おうと思っていた本なのだが、見かけないので注文したものだ。読むのが楽しみ。

今日は午前中はルーマンの読み込み、午後はサーバのメンテと、友人に頼まれたままになっていた Performa のメンテ。MacOS 7.6.1 で、かつて遊んだゲームなんかを引っ張り出してきて試していた。Tower とかマラソン1とかである。PowerPC 603 だったと思うが、それでも MacOS 7.6.1 だと Finder なんかもきびきび動いて快適だったりする。

03年10月09日 11時38分 着信

昨日から後期の授業が始まった。駐車場の車が多いので初めて気がついた次第。来週からだと思ってた。金曜日の講義の準備をしなくっちゃ。

とはいえ、風邪で体調がいまひとつ。だるい。

『Google hacks』を読んでいるが、確かになるほどねと思う内容もある。

HTML への Plugin などの埋め込みに関する特許の問題をちょっと色々とおいかけていたのだが、なかなか面倒なことになってきているようだ。とりあえず Microsoft が標的の裁判のようだが、他のブラウザにも影響が出てくるだろうな。最近、雑誌などで Plugin や Applet を使ったリッチ・クライアントを持ち上げる記事が日経XX系で増えてきていたが、こうした動きにも水を差すことになるんだろうか。まぁ、自分のサイトは関係ないのだが、Flash の埋め込みをやってる所は対応が大変そうだ。

03年10月10日 14時49分 着信

今年度の経営組織論の1回目の講義。他の講義との組み合わせとの関係か、あるいは履修システムの問題の影響か、今年度は出席者が少なかった。最初、自分もしらないうちに講義室の変更があったのかと思ってしまったほどだ。講義自体は、今日はイントロダクションということで軽く済ませる。本年度は昨年までとは内容に変更を加える(去年の講義ノートとは内容に変更がある)ことをアナウンスしておいた。いよいよルーマンの導入っていうか、ハックはじめるぞ。

相変わらず風邪でのどが痛いし、少しだるい状態が続いている。やれやれ。

03年10月10日 15時49分 着信

Toast 6 のアップデートの申込みをする。あんまりアップデートする必要性を感じないのだが、やはり色々なフォーマットやデータ形式に対応しているし、まぁ、これまで使ってきたことからくる信頼感もある、ということで。

使っている携帯電話がそろそろ寿命かなという動作を見せているので、携帯の機種更新でもするかとカタログを見たりしているのだが、なんかカメラの CCD の画素数の競争が激化してるなぁ。でも、携帯の限界は光学系にあると思うのだけど、どうなんだろう? あのサイズのレンズに300万画素とかつけて、果たして意味があるんだろうか?

03年10月11日 15時34分 着信

「科学書新刊NEWS」というメルマガを講読していたのだが、おそらく携帯にも配信しているからだろうが、本文にバンバン半角カタカナをつかったメールとして送られてくる。それが嫌になって講読を止めることにした。配信の内容自体は悪くないし、情報源として役立つものではあったが、仮にもサイエンスライターがやってるなら、半角カタカナは使わないようにするべきではないか、それを思い至らない程度の人間がやってるものなのか、ということで、止めた。とりあえず読めているんだからいいじゃないか(誰に迷惑をかけるわけでもなし)という考え方もあるだろうし、とりあえず今までは我慢してきたのだが、やはりどうしても気持ちが悪い。単に趣味の問題である。

03年10月11日 15時36分 着信

そういえば、Marathon 1 を G3 MacOS 9.2.2 上にインストールして動かしてみたら、日本語システムでもターミナルでフリーズしないでプレイできる。おもわず1面クリアのところまで遊んでしまった。

03年10月11日 15時39分 着信

来週から始まる外書の授業に備えて、ルーマンのテキストを再読していたのだが、やっぱあんまりすっきりとした英語ではない。内容が取っつきにくいのは覚悟の上なんだが、文自体がちょっとひねくれているような感じ。ドイツ語からの翻訳だからなのかな。ま、どうせじっくりと舐めるように読む進めていくつもりだから、いいんだけど。

03年10月11日 15時46分 着信

システム(CGI)の負荷のテストを兼ねて小分けにして書き込んでいる。

4年前に卒業し東京で SE をやっている元ゼミ生が、とある大学の大学院へ進学したいということで、志望動機やら研究計画を記した文書を送ってきた。ゼミの時に卒論を書いた(オープンソースの組織論ということで、こっちが熱くなって指導してしまったテーマだった)学生だったので、文章がそれなりに書けるやつだという印象はあったのだが、今回の送られてきた文書を読んでいて、ああ、ちゃんと社会人として成長してるなぁと実感。

03年10月11日 19時15分 着信

講義ノートの準備などで、どうしても TiBook 上でアウトラインプロセッサを使う必要が出てきたので、色々と迷った末に、OmniOutliner 2 を購入することにした。Classic 環境で IdeaStorm を使うことも考えたのだが、まぁ、OS X を使うかぎりは、その環境でやりくりするのもいいだろうと考えてのことである。ルーマンのノートの整理などにも使う予定なのだが、しばらくは新しいツールに慣れるための時間が必要になりそうだ。

03年10月14日 09時07分 着信

この週末は、妻の実家のお祭りにあわせて泊まりに行ったりして、家族でのんびりと過ごした。山あいの集落の月夜の空のもとに太鼓の音が響くってのも悪くない風景だった。

昨日は妻の実家から帰ってきて、午後はルーマンのノート作りなど。リスク論のノートを作りながら、OmniOutliner で講義ノートの作成などを行う。OmniOutliner は IdeaStorm とは違うのでちょっと戸惑っている部分もまだあるのだが、項目中心に作り込んでいけばいいというような、自分なりの使うコツみたいなのが分かり始める。ソフトウェアの作者が想定している作業のあり方と自分の作業の仕方とをすり合わせていくというのは、新しいソフトウェアを使い始めたときの楽しみでもあり、また発見の時でもある。ソフトウェアに自分を合わせようとすることで、自分の中に新しい方法が見えてくる。と、同時に、ソフトウェアを自分に合わせようとすることで、ソフトウェアの持っている個性が見えてくる。そういう、色々な発見の時だからである。これまでずっと、Nisus と IdeaStorm と Inspiration の3本のソフトウェアを組み合わせ使い分けることで自分の作業が成り立っていたのだが、それを改めて組み直していく作業というわけである。そこには、TiBook というノートパソコンで作業を行うという要素も入ってくる(ここまで日常的にノートパソコンを使いこんだのは、この TiBook の OS X がはじめてだから)。

今日から後期の外書講読の授業が始まるので、そのためのテキストの準備としてルーマンの What is communiation をスキャンしてテキスト化し、構成していた。授業用のテキストを作成するためである。自分が作業しやすいように(文章に単語の意味や構文、あるいは内容に関して注釈を付けやすいように)レイアウトしたものを作成して学生に配付つもりだ。

03年10月15日 22時35分 着信

昨日は外書とゼミ。外書はテキストの配付と授業の進めかたの説明程度で軽く済ませる。ゼミでは今回の選挙結果を予想するというテーマを取り上げたが、レクチャーもけっこう入り社会の授業のようになってしまった。

今日は朝から教務関係の打ち合わせと書類作り。その後、教授会が夕方まで。さすがにぐったり疲れた。

Melle というイスラエル製の OS X のワープロを試していた。Nisus (Classic) で自分が愛用していたルーラーの管理機能が備わっていたりして、けっこういい感じである。日本語のハンドリングがどの程度きちんとできるのかはもうすこし使い込んでみないと分からないが、その点が特に問題がなければユーザー登録を行ってもよいかなと思ってしまった。Nisus Express が、あまりにもシンプルすぎる(確かに文章を書くという点では全然問題がないのだが)ので、OS X ではこっちにするということでもいいかもしれないな。まぁ、間違っても Word は使いたいとは思わないので。

OmniOutliner での講義ノートの準備も進めているのだが、少しずつ馴染んできたのがわかる。

研究室での息抜きに Marathon 1 をやっているのだが、細かなマップなどはすっかり忘れている。だから、けっこう純粋に楽しんでいたりする。もっとも、クリティカルなトラップなんかは、そういえば…という感じで思い出したりするので、スムーズにプレイできてたりする。

03年10月16日 10時16分 着信

Melle を使って色々と試しに作業を行ってみたが、文書の読み込みに問題があるなぁ。読み込みなどで日本語のエンコーディングの指定ができない。これでは使えないな… ちょっと残念。

03年10月16日 15時54分 着信

先日行ったワープロ検定の試験の採点結果が届く。今回は受験者が全員合格であった。文書作成も思ったほど悪くなく、全般に得点が高かった。やれやれ。講習を始めた当初はどうなることかと思ったが。来年度から始まる2年生向けの基礎ゼミでも、ビジネス文書作成練習というかたちでワープロの基本的な機能の習得(っても、タブでそろえるとか、ゴシック体で文章を書くなとか、表ツールの使い方、ヘッダ、フッタ、脚注の意味なんかだが)をやらせるのも面白いかもしれないな。

明日の講義に備えてルーマンの期待をめぐる議論の整理などを行っている。人間論の部分で、期待について展開しておくことにした。人間=期待し行動する存在というぐらいの位置づけにする予定。ヒューム(ドゥルーズ)の精神の主体性の議論も、ちょっとだけ入れちゃおう。

03年10月16日 22時10分 着信

夕食の買い物のついでに久しぶりに本屋で散財。

  • 『仏教が好き!』河合隼雄×中沢新一
  • 『平らな時代』永江朗
  • 『ビル・ゲイツの面接試験』ウィリアム・パウンドストーン

の3冊を購入。中沢は、まぁ、ついつい買ってしまうんだよね、チベットのモーツアルト以来のつき合いだし。『平らな時代』はインタビュー集で取り上げられている人物が面白そうだったので購入。『ビル・ゲイツ』は、ちょっと話題になっているみたいだったが、『囚人のジレンマ』の筆者ということで、単なる一過性の話題ねらいの本ではないだろうと思い(それに青土社だしね)購入。いずれも楽しみ。どれから読もうかなと思いながら、買ってきた本をぱらぱらめくる至福の一時。

03年10月18日 09時26分 着信

昨日は経営組織論の講義の日。人間論からという流れは例年通りなのだが、今年から期待の話しを展開するようにした。ただ、講義しながら、やっぱまだこなれていないなぁと感じていた。自分では理解できているつもりなのだが、それをうまく学生に伝えられないもどかしさ。ちょっとドタバタしてしまった。次回の講義でちょっと補足しようかと考えている(人間論がまだ終わってないし)。次回のコミュニケーション論はうまく展開できるのかなぁ。まぁ、自分としては、新しいチャレンジだし、ようやくルーマンのシステム論で筋道がつけられそうだということで、楽しんでいるのだけどね。

『ビル・ゲイツの面接試験』(ウィリアム・パウンドストーン)を読み始めたのだが、この本、やっぱ面白いところを突いている。能力を測るというのはどういうことなのか、面接とは何なのか、といった本質的なところを考えさせる内容になっていると思う。もちろん、パズル面接の問題じたいを頭の体操として楽しむこともできるようになっているという、なかなか色々とおいしい本だ。

まぁ、そんな感じで40歳の最後の日を終えて、41歳になったわけである。

03年10月19日 13時08分 着信

昨日は誕生日ということで妻がおでんを作り、妻の両親といっしょに昼食会。のんびりとした休日。ただ、生活のリズムが崩れてしまったかなぁ。

今日は朝から研究室でサーバのメンテナンス。メールサーバの挙動がおかしいので、とりあえずパーティションを移動して起動することにした。う〜む、ディスクの問題かな?

03年10月19日 18時55分 着信

研究室で使っている Windows XP Pro に iTune を入れてみた。操作感などはまったく一緒。試しにブライアン・イーノのアポロを MP3 (192K) で Import してみたが、TiBook よりは早いなぁ。こいつにイーノの手持ちのアルバムを全部ぶち込んで、環境音楽共有用として動かしておくのも悪くないかもしれないなどと思った。Win のマシンは学内の書類作成ぐらいにしか使わない機械なので、ハードディスクの空き容量もたっぷりある。音楽サーバとして使うというもの悪くないな。

『平らな時代』(永江朗)を一気に読了。インタビューの対象になっている人々がほぼ同世代ということもあってか、自分がまったく縁のない分野の人でも、妙に「わかるなぁ」という感じがあった。世代論というものには、あまり意味を感じないのだが、同時代的な体験というものが与える影響は大きいということかもしれない。スーパーフラットとかデータベースといった概念は、ま、そうかもねという程度なんだが。自分の中にも「おたく」的なものがあるのは否定できないんだけど、ただ、微妙に「違和感」も感じるのも事実。かつて浅田彰さんが、貧乏人は蓮實の真似をしちゃいけないといったことを言っていて、妙に納得したことがあったのだが、貧乏人というか田舎での人間というか所詮は中流の人間というか、そういう人間にとって、自分たちの世代の進むべき方向としてあったのが「おたく」的なスーパーフラットな教養的蓄積だったのかもしれない。そんなことなんかを考えさせてくれる一冊だった。

勤務校のビジネススクール設置の問題は、どうやら大学院のスクラップ&ビルドの方向で話が進みそうなのだが(でも一悶着あるぞ、ぜったいに)、地域経済研究所のある教授が、地元紙に、またビジネススクール絡みというか、大学の地域貢献に関してコラムを書いていた。「…、住民満足度の高い地域貢献をしない、できない大学・大学人は。好むと好まざるとにかかわらず、存在そのものが危うくなってしまうのである」。ということで、大学が日常的に地域に貢献するべきだということを書いてあった。住民満足度を持ち出してきたら、客観的な議論などできるわけもないわけで、ようはこの教授の主観的な意見を状況や住民の名を借りて語っているに過ぎないものではあることはミエミエなんだが、だからといって、それで済ませられないところに、今の大学を取り巻く状況の難しさがある。一方で歴史や文化を誇りと謳いながら、もう一方でマニフェストだかなんだかしらないがビジネススクールで地元経済財界の希望するような人材育成機関をもとめる、その「貧しさ」(人間的資質というか、ようは狂ったサルとしての人間性の観点からの貧しさ)を「貧しい」ということ自体が、たぶん、許されない時代であり地域なんだということなんだろうか。大学教育が経済社会に媚びる時代になってきたんだなぁということを実感させられる記事ではあった。

03年10月20日 13時43分 着信

研究室の WinXP の iTune に MP3 のデータを放り込んで、Playlist を整理して sharing させて、それを TiBook で聴きながら授業の準備などを行っている。なかなかいいな。以前から MP3 のストリーミング・サーバを動かしていたりしたのだが、一方的に曲が流れてくるのではなく、プレイリストの中から好きに選んで聴けるというのは便利である。WinXP には、ミュージック・サーバとして活躍してもらうことにしよう。

外書の準備ということでルーマンの What is Communication? の精読を始めたのだが、書いてあることは今の自分にはよくわかるのだが、これを学生達にいかに理解させるかが難しいなぁ。これは経営組織論の講義でも感じることではあるが。ただ、それにチャレンジすることで、自分の整理になったり、改めて見えてくることがあるのがうれしいのだけど。そういう意味では、教えることができてなんぼのもんやなぁ。

03年10月20日 16時13分 着信

ADC で Pather を落とそうと思っていたのに、すかり忘れてた。ま、急ぐものでもないしね。

『仏教が好き!』を読み始めたら、やっぱ宗教論として面白い。だが、例によってここで新たな本が割り込みをかけるのであった。

  • 『森博嗣の浮遊研究室2』
  • 『差異と隔たり』熊野純彦
  • 『せちやん』川端裕人

矢作俊彦の新刊を買いに行ったのだが、それは無かって、代わりに(?)この3冊を購入。さっそく『浮遊研究室』から読み始めることにする。川端は小説はデフォルトで購入することにしているのだが(『夏のロケット』ですっかりはまった)、これも楽しみである。

03年10月22日 12時33分 着信

昨日は外書とゼミ。外書の授業では、やはり「まったくわけがわからない」という学生たちの意見であった。ルーマンのシステム論やコミュニケーション論の導入的な解説を折り込みながらの授業となる。進行は遅いが、そういう授業をやりたかったのでいいかなというところ。付き合わされる学生たちは大変かもしれないが。ゼミでは、自分のキャッチフレーズを3つ以上考えてくるという課題。自分というキャラクターを、ある意味でデフォルメ気味に切り取る作業になる。なかなか面白かった。

iTune の日本語の Windows 版が昨日には出ることになっていたので楽しみにしていた(同僚たちに教えてやろうと思っていた)のだが、延期になってしまった。自分は英語版を使っていて何の不都合も無いので、英語版でもいいかなと思ったが、まぁ、日本語版が出るのを待って紹介しようかと思う。研究室の Win にこれまで CD などの保存しておいた MP3 のデータ(D.D.Jackson のすべてのアルバムとか、キースの Blue Note ライブ6枚全部とか)を入れて、完全に音楽サーバとして使い始める。MacOS 9 対応の iTune も、せめて共有機能が使える程度にアップグレードしてくれたらなぁとは思うのだが、まぁ、無理だろうな。外署の授業の時などに限って TiBook を持って大学に行くようにしていたのだが、これからは毎日持ち歩くようになるかもしれない。

昨日のうちに ADC で Panther のディスクイメージをダウンロードしてあったので、今日は朝から TiBook を panther にアップデートする作業に取り掛かる。イメージを CD に焼くところからはじめて、システム、X11 Windows それに Xcode とすべてをインストール(アップデート)するのに4時間あまりかかってしまった。やっぱ時間を食うよなぁ。こんなもん、普通の人はやってられないと思うのだがどうなんだろう? アップデートの作業をしながら読書が進むこと(笑)。川端裕人の『せちやん』を読み切ってしまった。予想通りに楽しめた本ではあったが、ラストはちょっと違うよなぁという感じはした。でも、やっぱこの人は外さないよなと改めて思う。

というわけで Panther になったのだが、まぁ、こんなもんかなという感じ。

03年10月23日 09時52分 着信

SoftwareDesign、日経コンピュータ、それに NIKKEI BYTE と、雑誌に目を通していた。日経コンピュータの2007年問題の特集は、日本企業のスキル(ナレッジ)の問題としても面白いものがあった。NIKKEI BYTE も読みでがあっていい感じ。完全復活だなと思う。

明日の経営組織論の講義に備えて、コミュニケーション論の講義ノート作り。これまでは言語の恣意性やスピーチ・アクトの話から入っていたのだが、今回からルーマンのコミュニケーション論に焦点を最初から絞って話すことにする。ルーマンの『社会システム理論』や、その解説書として便利な村中知子氏の『ルーマン理論の可能性』を読み返しながら、OmniOutliner でノートを作っている。ようやくOmniOutliner にも馴染んできたという感じがする。こうやって、少しずつ、OS X に馴染んだ身体になっていくのかもしれない。

03年10月23日 14時36分 着信

久しぶりに届いた料金詐欺メール:

From: jdgmpjdaptp@docomo.ne.jp
Subject: 【必ずお読み下さい。】

貴殿が以前にお使いになりました有料アダルトコンテンツの未納代金について当社が債権の譲渡を受けましたのでご連絡致します。つきましては下記電話番号へ必ずご連絡下さいますようお願い致します。尚、このメールが最終御請求通知となりますので万が一ご連絡なき場合は貴殿のメールアドレスよりお名前、ご住所、ご勤務先等をお調べし直接回収員がお伺いする事になりますのでご了承下さい。

顧客番号 27694
最終受付時間 10月24日(金)AM11時〜PM6時
内田債権管理 担当・宮内
090-6453-1819、090-9426-1124

妙にちゃんとした文書になっているなぁ(笑) 手口としては、とにかく電話をかけさせて、いったん補足したら執拗にせまるという最近の手口だな。

03年10月24日 20時51分 着信

経営組織論の講義。前回の人間論の講義で時間切れで話せなかった行為の観察(ここに有効性と能率の話もくみこんだ)を論じてから、コミュニケーション論へ。伝送モデルでは人間のコミュニケーションを捉えきれないという話で今日は終わる。この論点を理解してもらい、コミュニケーションは間で起こる出来事である(=社会性のリアリティの基礎)ということを納得してもらうことが、組織論全体の出発点となるともいってもよいので、けっこうあれこれと話を展開したら、思っていた以上に時間がかかってしまった。でも、それでもよかったと考えている。コミュニケーションとは何かという肝心の部分は次回ということになる。

今年の講義は受講生が少ないのだが、その分、学生の反応がはっきりと感じられる気がする。今年は講義内容の大幅な組み替えを行いながらの作業になるので、そういった意味では、自分の作業の成否をはっきりと確かめながら講義ができるという感じがして、これはこれでよいかもしれないと思う。図らずも少人数教育になったって感じではある。

講義の後はサーバのメンテナンス。

03年10月25日 18時58分 着信

HMV に注文してあった CD が届く。

  • The Complete Jack Johnson sessions (Mile Davis)
  • Dreyfus Night In Paris (Marcus Miller, Michel Petrucciani)
  • do not disturb (後藤次利)
  • ピアノアキコ。(矢野顕子)

さっそく矢野顕子から。矢野顕子を聴くのはひさしぶりだなぁ。彼女の場合、アルバム全体がとっても気に入るかというとそうではないのだが、だが、時折、たった1曲だけだが捉えられてしまう曲がある、そういうミュージシャンである。買って一度聴いたきりになっているアルバムもある。そういう意味では、今回のアルバムのようなベスト集とか選曲集というのは、自分にとってはありがたいものではる。で、「ピアノアキコ。」だが、まぁ、外しようが無いという感じで満足の1枚。後藤次利は、名前が懐かしくて買ってみた。まぁ、悪くないけど、すっげぇって感じでも無いな。Miles と Dreyfus の2セットが楽しみなんだが、これはちょっと気合いを入れて聴きたいので、今日はパスってところである。

『差異と隔たり』(熊野純彦)にとりかかる。倫理の問題についての論考集。経営組織論の中で、コミュニケーション論とのつながりで責任と倫理についても論じたいと考えているので、ちょうど考えを整理し刺激を受けたくて購入したものである。採点途中の看護学校の哲学の試験の答案の中に、倫理につての講義が面白かったという意見もあったので、ちょっと気合いが入っていたりする。

03年10月27日 13時03分 着信

マイルスの The Complete Jack Johnson Sessions を iTune で取り込み&聴きながら授業の準備など。マイルスのこのセッションはかっこいいなぁ、と感じつつルーマンの英訳の精読に取り組んでいた。明日の授業の際には、これまた補足説明がたっぷりと必要になりそうである。だが、面白い。

Toast 6 が届いていたのでインストール。色々と機能が増えてきているのだが、今回の新機能は、まぁ、あんまり自分には関係ないかなぁという感じである。Panther でもちゃんと動くみたいである。

03年10月29日 11時05分 着信

昨日は外書とゼミ。外書ではルーマンのシステム論/コミュニケーション論の解説。特に自己言及と観察の概念が出てきたので、どうしても解説が長くなる。英語をネタにルーマンの講義を行っているという状況になってきた(もっとも、それが狙いだったんだけどね)。ゼミでは株についてのお勉強。株式あるいは証券市場について、ちょっとした解説を行った。ゼミも外書も話しっぱなしだったので、ちょっと疲れた。

研究室の WinXP に本格的に音楽データの投入を始める。昨日はマイルスのクインテットのスタジオ録音のコンプリートのやつを入れた。途中でディスクの空き容量の警告が出たので、データを収納するパーティションを移し、ついでにディスクの余分なものを削除するなどのメンテナンスも行ったのだが、やっぱ仕組みが良く分かっていない OS だけに、なんでこうなる?とか、この設定はどういう意味だ?とか、迷うこと/驚くことも多い。まぁ、それはそれで楽しかったりするんだが。今日は Monk の RiverSide のコンプリートの15枚セットを朝からせっせと Import している。これで色々と聴き比べができそうだ。手持ちの Monk を全部ぶち込んだら、アラン・パーソンズ・プロジェクトを全部ぶち込むのだ。

同僚からチューリングの異本についてのコメントと疑問点の指摘をもらった。さすがにこっちが迷っていたいたところを鋭く突かれた。修正できるところは修正するつもりだ。また、もう少ししたら、再度、読み直しを行いたいとは思っている。

03年10月29日 13時57分 着信

Monk の The Complete Riverside Recordings の Import が完了。ついでに研究室にもってきてあった Mike Oldfield のベスト版、チューブラーベルズ III もぶちこむ。Windows マシンのハードディスクが埋まっていくのが妙にうれしいというか、やっと使っているという実感。

ちょっと気になって iTunes 4.x で使われている共有のプロトコルについて探ってみたら、色々と断片的な資料が見つかる。すでにクライアント版も作られていた。DAAP というプロトコルのようで HTTP ベースになっている。だが、タグとか認証あたりがちょっとクセがあるようで、一筋縄ではいかないようだ。MacOS の iTunes でも共有のが聴けたら便利なんだけどなぁ。

03年10月30日 11時45分 着信

午前中に会議があると思って大学に来たのだが、違ってたみたいである。あれあれ?ま、いいけど。

Monk の Complete Prestige Recordings を WinXP の iTunes に Import してから、The Alan Parsons Project の取り込みを始める。順調に取り込んでいたのだが、Streotomy の取り込みの際に iTunes がハングアップする。どうやら、エラーが出てしまうようだ。やれやれ。Alan Parsons 名義のアルバムもついでに持ってきたら、ずいぶんな数になってしまった。

The Alan Parsons Project のもの:

  • Tales of Mystery and Imagination Edgar Allan Poe
  • I Robot
  • Pyramid
  • Eve
  • The Turn of a Friendly Card
  • Eye In The Sky
  • Ammonia Avenue
  • Vulture Culture
  • Streotomy
  • Gaudi

Alan Parsons 名義のもの:

  • Try Anything Once
  • Live
  • On Air
  • The Time Machine

で、改めて Import しながら聞き直しているんだけど、やっぱいいよなぁ。前期のコンセプト・アルバム色が強いやつも、後半のポップ色を強めたやつも。アラン・ポーのやつを FM で初めて聴いたのはたぶん中学3年の時で、それ以来のつきあいだから、長いものである。

というわけで、今日の午後は、アラン・パーソンズ漬けでのルーマン読解&明日の講義準備なのであるが、その前に、同僚から指摘&サジェスチョンがあったチューリングの異本の作業も入るのであった。天気も良くて、なんとなく幸せな気分で作業に没頭できそうだ。

03年11月01日 12時11分 着信

昨日は午前中に情報教育に関する会議をこなし、午後は経営組織論の講義。講義ではコミュニケーション論の続きとして、コミュニケーションの定義を論じる。情報・伝達行為・理解の3つの選択の統合されたプロセスとして解説を行ったのだが、理解がやはり分かりにくかったかもしれないな。結局、定義とその解説で1コマ全部を使い切ってしまったので、コミュニケーションと行為の話は、次回の協働論の前に入れることにする。このペースで行くと、半年間で、ルーマン&バーナードの組織論の展開だけで終わってしまって管理論には踏み込めないかもしれないなぁ。まぁ、それはそれでいいかとは思うのだが。

経営組織論の講義の後、ゼミの学生の下宿へ行ってインターネット接続の設定を行う。最初うまくいかなくて悩んだのだが、回線がパルスだったのだ。最近の電話機では判定がつきにくいのでわからなかった。学生も、そんなこと知らなかったみたいだし。ま、うまくいって、なんとか面目を保ったというところ。毎年、こういうゼミ生のサポートが入るんだが、まぁ、それもゼミのサービスの一環だとは思っている。

妻の仕事の関係で、今日と明日は娘と二人で過ごすことになる。今日は、午前中にグリーンセンターへ行って散歩や遊具で遊んでから、買い物。帰りの車の中で娘は寝たので、今、昼寝中ということで、貴重な自分の時間だったりする。それでメールのチェックなどをしているわけだ。娘が明後日には2歳になるので、買い物の際におもちゃ屋と本屋によって何か欲しがるものでもあれば買ってやろうかと思っていたのだが、あれこれと興味や関心は示すが、別にまだ所有欲はわいてこないようだ。いまだけだろうなぁ。

03年11月04日 10時34分 着信

この週末はずっと娘のサービスという感じであった。土・日は娘をずっと見ていた。グリーンセンターに散歩にいったり、買い物に出かけたりという感じである。娘の誕生日のプレゼントとして LEGO の Explorer ぞうさんファミリーセットを購入。娘も喜んで遊んでいる(買い物に行った際に、おもちゃ売り場の LEGO のコーナーで遊び始めて動こうとしないので、これだ!ということで買ったのだ)。一緒になって遊んでいたのだが、やっぱブロックは楽しいなぁと実感。自分が子供の頃にブロックは好きだったので(国産のダイワブロックとかいうやつだったと思う)、なんか娘のためといいながら、自分のために買ったようなものではある。

昨日は自分の両親が娘の顔を見にやってきた。自宅で娘の誕生ケーキを食べたりしてから、夜は妻の両親も交えて食事。娘は最初は照れていたようだが、そのうちにサービスぶりを発揮していた。

iTunes Windows 版の日本語版が公開されたので、ダウンロードしてインストール。英語版を Uninstall してからでないとインストールできないことを知らなかったの、ちょっと手間がかかってしまったが、無事にインストールでき、問題なく動いている。

講義や外書に備えてルーマンの『社会システム理論』をあれこれと読み返したりしていたのだが、次回の講義では、協働論に入る前にコミュニケーションと行為についておさえておいてから、相互作用論などをやって、パーソンの導入をやろうかと考えている。さて、どこまでうまく展開できるか?

03年11月04日 17時43分 着信

外書とゼミの日。外書の授業は、ちょうどルーマンのコミュニケーション論の中心的なテーゼである、コミュニケーションは情報・伝達行為・理解という3つの選択の統一体であるという話の部分だったので、かなりうるさく解説を入れた。英語の授業としては全然進まなかったが、コミュニケーション論としては充実していたか。先週の組織論の講義とも内容が重なっているわけだが(両方に出ている学生は同じことを話している/同じネタを使っていると思って、ちょっとおかしかったそうだが)、さすがに今日の方がすっきりと話せたような気がする。

ゼミでは為替相場について。先物とオプション取引などのデリバティブがらみの取引の話なども含めて、為替についての簡単な説明などを行う。

03年11月05日 14時21分 着信

研究室の音楽サーバと化した winXP に Brian Eno の環境音楽系の CD をすべてぶちこむ。Roger Eno のものも3枚ほど含めた。で、それをずっと流しながら、来年度の演習のシラバスを作成したり、ルーマンを読み解きながらの講義ノートの作成を行っているのだが、なかなか良い感じである。やっぱ、聴くのではなく流れているのが似合うものだよな。

来年度から始まる基礎ゼミは、情報リテラシーの強化を内容とすることに決めた。新書を教材に要約の仕方などを行うというオーソドックスなもの(?)を最初にやっておいてから、検索サイトの使いこなしと Web サイトの情報の利用法、ワードによる文書作成技術の向上などを行う予定である。学内の文書でさえゴシックべた打ちのものが増えてきているのだが、そういうレポートを作るんじゃない!という指導を行おう(趣味の問題か?)

今週の経営組織論の講義では協働論へ進むことになるので、これまでのバーナードの協働論に、ルーマンのパースンの議論、期待の再帰性の議論を組み込んで(どっちかというと、ルーマンの議論の展開の中にバーナードをぶち込んだといった感じなのだが)、まとめることにした。

さて、これから会議である。今日は何時に終わるかなぁ。

03年11月07日 10時15分 着信

昨日は地元の丸岡高校の進路探求講座で、経済・経営系志望の高校2年生を対象に講義。経済学と経営学の両方に触れなければと思っていたのだが、その意識が災いして、いまひとつクリアな話にはならなかったという感じがする。聞いていた高校生も色々な話に飛びまくって、で、いったいなに?という感じだったかもしれない。こんなことなら、最初からコミュニケーション論でもブリブリとやった方がよかったのかもしれない。

自宅の G3 につけてあった外部スピーカーのセット(アンプと一体になったやつ)を研究室に持ってきて、音楽サーバの Windows XP にとりつける。やっぱちゃんとしたスピーカーを使うと良い音がする。朝からキース・ジャレットの平均律クラヴィーア曲集が鳴っている中、雑用や授業準備を行っている。

読みかけのままで挫折していたルーマンの『宗教社会論』(なんせ訳文が…)に再挑戦。この言い方は、あのことを言ってるのね、と「翻訳」しながら読むことで、なんとか読み進められそうな気配。でも、疲れるので、今回も途中で放り出してしまうかもしれない。

03年11月07日 14時41分 着信

経営組織論の講義。コミュニケーション論の最後と協働論。コミュニケーション論は、理解についての補足(差異の見出しという能動的なものであること)と、コミュニケーションは行為として了解され、再帰性(コミュニケーションについてのコミュニケーション)を可能にしていることを話して、ひとまず終了とする。本当は、倫理とか責任の原初的なものが宿っているという話もしたかったのだが、これは改めて項を立てたほうがいいだろうな。協働論では、今年度からパーソン(訳本ではパースン)の概念を導入。協働での目的の二重化の話まで。コミュニケーション論を2回半もやったので、今年度は展開が遅いのだが、こうなったら腹を括って、納得いくまでじっくりと公式組織論まで展開するつもりである。

03年11月08日 10時27分 着信

前々から読もうと思っていながら買ってなかった『だから WinMX はやめられない』(津田大介)を昨日の夕飯の買い物のついでに買いに行った。いっしょに『マイコンヒストリー』(高安正明)も購入。そして、昨夜からこの2冊を続けて一気に読み上げた。どちらも堪能したという感じ。WinMX の方は、ネットで公開されていた一部の PDF などを読んで、たんなる裏ソフト紹介本ではない面白さがあるとおもっていたのだが、まさにそのとおりの本。集めることとコミュニケーションという人間の欲望がネットで加速していく体験みたいなものが書かれてあって、自分の中にもある同じような欲望が共鳴しながら読める本。また、コンテンツの配布形態について考えるための視点を提供してくれるという点で、いくつもおいしい本であった。『マイコンヒストリー』は筆者のパソコン体験が綴られていきながら、パソコンについての考え方が述べられるという、まぁ、ありがちの本ではあるが、同世代ということで購入。この手の個人史(個人体験史)の綴られた本では、筆者の年齢(世代)が自分と同じかどうかが、読んでいくうえで楽しめるかどうかのポイントである。で、この本は、まさに自分の世代の体験がそのまんまという感じで、そうだったよなぁと思い出しながら、そしてその時々の筆者の感想みたいなものに共感しながら読むことができた。最後の部分で展開されていた筆者のパソコン論については、ふ〜んという感じで、いまひとつ説得力を感じなかった(単なるたわ言にしか思えなかったのは、本質的な方向性がいまひとつつきつめて考えられていないから、つまりビジョンになってないからだと思う)。それでも、TK-80 に憧れをいだきつつ TTL の規格表なんかを読んでいた田舎の中学生だった自分から今に至るまでの自分の体験とオーバーラップする通史ってことで楽しかった。

UVJ Mailer に send by EIMS のオプションを付けることにしようかと思う。送信サーバのホスト名の指定を "EIMS" にしておくと、通常のソケットでの送信を行う代わりに、EIMS の送信用のスプールに書式に従って送信用のメールファイルとして書き出すという仕様を考えている。これであれば、現在UVJ Mailer に行わせている機能をそのまま EIMS と連携する形で行えるからだ。SMTP Submit ポートへの対応(こちらは実装済み)とあわせて、新しいバージョンを出そうかな。…どんだけの人が使うのか、疑問だけどねぇ、今となっては。

03年11月08日 18時18分 着信

のんびりとプログラミングなどを行う。UVJ Mailer に EIMS 経由での送信の機能を実装した。'STR ' リソースと 'STR#' リソースを作成する機能が REALbasic 1.1 には無いので、最初は XCMD に逃げようかと思ったのだが、ようはリソースの構造に合わせた文字列を作ってしまえばよいことに気がついて、それで解決。テストしてみたところ、ちゃんと EIMS が送信してくれることを確認。これで、EIMS を動かしているサーバ上でも使えることになる。久しぶりに REALbasic であれこれとコードを書いていたのだが、細かなことを忘れているのには苦笑。

プログラミングの合間に、昼寝をしたり NIKKEI DESIGN などの雑誌を読んでいた。

03年11月10日 13時29分 着信

昨日は家族でのんびりと過ごし、夜は選挙速報を見ていた。でも、10時前に眠くなって寝たのであった。そういう体になってしまった。

UVJ Mailer 3.2b1 を公開した。EIMS 送信用ファイルを作成できるようにしたバージョンである。PPC 版がなんかおかしくなっていた(解凍したら余分なファイルが出てくる)ので、68K 版の方だけを先行して公開。

朝からバッハのやつなんかを iTunes で import しながら、明日の外書の準備などを行っている。iTunes で import していて、クラシックの CD って、データベースに登録されている内容がけっこう変になっているものが多い。プレイヤーが演奏者ではなく作曲者になっていたり、演奏者のところに曲名が入っていたり… あまりにひどいものは修正してから import している。けっこう手間がかかるんだよなぁ。その点、Jazz はしっかりしているものが多くて助かる。バッハの手持ちのものはだいたい入れた(といっても、グールドのものは一切入れていないのだが)ので、この後、Miles のマラソン・セッションの4枚を入れるつもり。そろそろ1週間連続して聴ける分量に近づいてきた。

03年11月11日 17時05分 着信

外書とゼミの日。外書の方は理解と知覚の差異などの話。解説をたくさん入れてしまうので、テキストの進行は本当にゆっくりしている。しかし、学生たちの反応を見ながら説明していく(分かってもらうように解説しようとする)のは、自分にとってかなり得るものが多い作業ではある。下手な説明を聴かされる学生たちには悪いと思うが(なにせルーマンの議論をまっとうに説明/講義するのは初めてだから)、自分としては勉強になる。

ゼミは、今年末の時点の株価と為替を予想してくるというテーマだったのだが、天候も不順ということもあってか、学生が少なかった。そこで、みんなでスターバックスへ行ってお茶ということにした。テーブルを囲んでお茶を飲みながら話すと、なんかゼミだよなぁという感じはする。これはこれで楽しかった。もっとも、話の内容はたわいもないことばっかりではあったが。

UVJ mailer 3.2 の PPC 版を登録。なぜか StuffIt で解凍した時に余分なファイルが作られてしまう問題が解決せず(おそらく OS X 対応になって、何かが変わったんだろうとは思うが)、結局、フォルダーに入れて圧縮することにした。また、68K 版も含めた形にした。これからは、一緒にフォルダーに入れて圧縮したものを配付するようにしようかと思う。

複数のサーチエンジンのロボットが入り込んでいるためか、今日はやたらとアクセスがある。このサイトの24時間累計のヒット数(=画像は別サーバなので実質的にページビューになるのだが)が、3万6千にまで達している。ここまでアクセスがあるのは珍しい。それでも、この程度であれば、いくら LC475 で AppleScript の CGI であっても処理は楽勝なのであった。

03年11月12日 15時40分 着信

先日の買い物の際に『「不自由」論」(仲正昌樹)、『若者はなぜ「きめられない」か』(長山靖生)、それに『デザインのデザイン』(原研哉)を買ってあったので、まずは『「不自由」論』から読み始める。近代の主体性尊重の自然主義の批判として、だいたいにおいて納得できる議論。もっとも、マルティチュードに希望を託すのは個人的には首肯けないのだが。

研究室で学生に貸し出す TiBook のメンテナンスを行いながら、音楽サーバに深町純の四季のシリーズなどをぶちこむ。小人閑居してドツボを踏む、というわけではないが、Eudora のアップデートを申し込んだら、MacOS 版が見事にこけた。大学のメールサーバの POP との接続に失敗する。どうやら認証のプロセスがおかしい。おまけに、クラッシュする。このところ MacOS でもクラッシュすることが全く無かったので、なんか新鮮(笑) とはいえ、MacOS では Eudora 6 は使えない。OS X の方は、サーバが違うということもあってか、何の問題もなく使えた。やれやれ。

法政大学出版の Web ページを見ていたら、ルーマンの『社会の法』の翻訳がいよいよ出るらしい。さっそく丸善で注文と思ったが、まだ丸善のデータベースには登録されてなかった。それではということでアマゾンに行ってみたが、こちらもまだ登録されてない。う〜む。ま、いいけどね。

金曜日の講義の準備を兼ねてルーマンの読み込み。協働論の後に社会システム論を入れて組織論へと繋ぐ予定なのだが、その前に商品社会論(貨幣論)を入れるべきかどうかで迷っている。

03年11月13日 15時27分 着信

卒業アルバムのためのゼミの集合写真の撮影ということで、ひさしぶりに4年生のゼミ生が全員そろった。その後、ゼミ合宿か宴会をやろうという話になって、とりあえず相談用の ML を作成。さて、どうなることやら。

Eudora 6 の新機能としてスパムの判別/フィルタリング機能というのがついていたのだが、ちょっと試してみたところ、やはり取りこぼすスパムがけっこうあるし、逆にスパムではないのにスパムにされてしまうメールも少なからずある。ということで、この機能は使わないことにした。今まで通り、目視で削除。まぁ、その作業がそれなりに楽しかったりするのだが。MacOS 版で大学の POP サーバと認証でコケるのは、CRAM-MD5 を無効にすることで解決。でも、やっぱ信用できないので、MacOS では使わないことにした。

先日、ふとしたきっかけで「ゆびとま」に高校と大学の同窓生の登録を行っておいたのだが、今朝、高校時代の友人(1,3年とクラスが同じで部活もいっしょだった)から連絡が来る。もう20年ぶりぐらいか? なるほど、こういうことがあるのだなぁ、面白いものである。

03年11月14日 15時23分 着信

組織論の講義。協働論から組織論への展開である。組織の外在性(組織に人は含まれない)という点と、組織が行為のシステムであることの意味(行為の成立とシステムの成立が同じ作動であること)までを話す。今日から教室が変更になり、小さな講義室を使うことになった。雰囲気が違うと新鮮。

講義の準備のためにルーマンの『公式組織』を再読していたのだが、この時点でのルーマンは行為のシステムとして展開しているので、そのままでは、これまでの『社会システム理論』をベースにした議論とはうまくつながらない。しかし、行為が行為として成り立つことをコミュニケーションの観察と縮約の作動の結果であるとして、そういう働きが入り込むことを挟み込めば、なんとかなるかというところ。『社会システム理論』の中に散見される公式組織論(フォーマルな組織というような訳語が使われているが)を拾い集めて整理する作業も必要だな。

それでも、組織の定義は「二人以上の人々の、意識的に調整された行為のシステム」としたのであった。本当は特定・特有の期待を共有する(その期待によって観察・縮約される)行為のシステムとしてもいいかなとは思ったが、まぁ、本質はこの定義のままで期待の問題は改めて展開することにした。

03年11月15日 14時56分 着信

昨日の講義の後、県庁の文書学事課の方が2名、FD 関連の話をききたいということで研究室に来た。大学のあり方懇談会などにも関連しているようで、教育について、あれこれと話をした。

OS X での DVD Ripping はどうなっているのか、ちょっと気になって調べていたら、ツールは1通り揃っていることが判明。QuickTime MPEG2 コンポーネントを購入してインストールすれば、あとはなんとかなるようだったので、購入してごにょごにょしてみたら、確かに DVD のトラックをムービーに変換できた。ちゃんとできることさえ確認できたら、それで気が済んでしまったのだけど。

会議室のアーカイブに収めてあるページが、どれも最終更新日が今年の5月になっていたのだが、これを各ページの最終発言(コメント)の日付に合わせて修正した。ページの更新日がそのページに掲載されている情報の新鮮度を見るひとつの目安として利用されるので、なるべく実情に合わせた方がよいだろうと判断してのことである。1996 年の夏に、各発言(コメント)には name タグが付すようにしたので、大半のページはこの部分を元に更新日を修正するスクリプト(当然 AppleScript である)を走らせて変換が完了。しかし、会議室開始当初のページにはこのタグが入っていないので、日付が書かれた部分を抜き出し、その文字列をパースして日付データに変換する(AppleScript の date オブジェクトに変換する)処理が必要だった。まぁ、それでも変換自体はあっさりと終わったのだが、変換後のサイトのバックアップの作業が時間がかかる。5千を越える大半のファイルが更新されたことになるので、しょうがないことではあるが。

公式組織論を展開するにあたって、春日淳一『貨幣論のルーマン』の中で述べられていた、労働をメディアとしたサブ・システムというモデルを使うのが面白いかもしれないと思っている。

03年11月15日 17時15分 着信

丸善に注文してあった『生命とは何か [複雑系生命論序説]』(金子邦彦)が届いていた。システム論に取り組んでいる人間として、読んでおくべき本だろうなと感じて注文してあった本だ。最初の方を少し読んでみたが、そのカンは外れてなかったように思う。問題は、じっくり読むだけの時間ができるのかしらということである。

でも、まぁ、考えてみたら、やりたいことが山のようにあって時間が欲しくてたまらないという状況は、ある意味ではハッピーな状況であるとは言えるな。 …なんてことを、夕食のモツ煮込みうどんの下準備をしながら思ったりするのだった。

03年11月15日 17時18分 着信

そういえば、OS X の Eudora を 6 にしてからは、取り込んだメールが表示されない(フィルタリング処理が止まってしまう?)という、メールソフトとしては致命的ともいえる問題が起きていないな。ちゃんとバグの修正を行ったのかしら? それともたまたま、まだ症状が出てないだけなのかな?

03年11月17日 10時08分 着信

昨日は1日遅れで娘の七五三のお参りに藤島神社へ行く。買い物なども済ませて、昼過ぎからはのんびりと。

組織論の展開のために目的設定の機能などについて確認しておく必要が出てきたので(なんせ組織の存立条件にからむしな)、急きょ、ルーマンの『目的概念とシステム合理性』の再読開始。この本は、古典的な組織論の批判の書と言ってもよいので、この本の記述と『公式組織』の読み込みで、なんとかシステム論へと組織論を展開する道筋をしっかりとしておきたいのである。

今週はゼミ募集のための相談日が入る。さて、今年度はどれくらいの訪問と応募があるかな。昨年度は申込者が定員オーバーだったので、予告通り自分で勝手に阿弥陀くじをやって決めたのだが、今年も阿弥陀くじになるかなぁ。ただ、さすがに勝手に阿弥陀くじで決めるというのも、ちょっと後味が悪いところがあって、今年度は、訪問者に名前だけは書いてもらうことにした。今年もゼミ募集関連ページを公開したので、そこに書いておくことにした。

03年11月17日 11時01分 着信

そういえば、テレビでドコモの携帯電話のリサイクルに関する広告が流れていたのだが、その中に出てくる、机の中に忘れ去られていた古い機種が、自分が今使っている機種だった。まぁ、そうかもしれない。Java も載ってないしカメラもついてない、画面はカラーだけどね。でも、これで十分なんだけどね。それに着メロも、今ぐらいのシンプルな(最近のに比較して)やつのほうが、ファイナルファンタジーのファミコンでやってたころの感じに近くて気に入っているんだけどね。そうはいっても、このところ、ちょくちょく調子がおかしくなるので、買い替えも近いかなとは思うんだけど。

買い替えといえば、車もどうするか、そろそろマジで決めないといけない。でも、買い替えるにしても、ホンダの最近のやつはそそらないんだよな。5ナンバーのセダンで適度にスポーツ系となると、今だったらインプレッサのセダンあたりかなぁ。

03年11月18日 11時46分 着信

J-Phone が Vodafone になったことで、携帯のメールアドレスが変更になった学生がけっこういる。そこで、ひさしぶりに携帯のメモリー管理ソフトを使って携帯のデータを編集した。携快電話4とかいうソフトで、けっして使い心地は良くないし、動作も不安定なのだが、必要な作業は行える。携帯を買い替えると、このソフトも買い替える必要があるなぁ。そういう細かいことの積み重ねが、変更を引き止めるんだろうな。

来年度に研究費で購入する雑誌の希望調査が来た。今年とっていたものは全て継続にして、デザイン関係の雑誌でも増やそうかと考えている。

03年11月19日 09時41分 着信

昨日は妻が風邪を引いてしまったので、夕方からドタバタという感じであった。

ルーマンの『目的概念とシステム合理性』を駆け足で読み直しているのだが、この本の1つのキー概念である目的プログラムというやつが、いまひとつピンとこない。

そういえば、昨日の外書の授業では、semantic という単語が出てきて、ようはルーマンのゼマンティークなわけだけど、これの説明がいまいちうまくできなかった。日本語には主語はいらないという話やら、ウナギ文とか「象は鼻が長い」といった有名な文章を引き合いに出して、日本語文の主語の話をしてみたり、あるいは人称代名詞を訳してしまうことの難しさみたいな話もする。日本語では人称代名詞を言葉にすることは、特別な意味を持つことがあったり(「なんでわかないの?」と「あなたはなんでわからないの?」の違い)、人称代名詞の訳し方によって発話主体の状況や状態を固定してしまうことになる(シェル・シルバスタインの有名な The Missing Piece を「ぼくを探しに」と訳したとたんに、「ぼく」に引っ張られて、青年のアイデンティティ探しの物語という文脈が強く出てしまうこと)なんかを話した。久しぶりに英語の授業をしたなという気がするが、肝心のルーマンの説明は今一つなのであった。正直、自分でもよくわからないんだよね。

研究室の音楽サーバには順調に色々と雑多なものをぶちこんでいるのだが、今日は Fred Hersch とか Bill Frisell のもの(共演版ももちろん)とか、Sacred Spirit の Vol.2 Culture Clash なんかを入れる予定である。ただ、そろそろデータが 13G になろうかという状況なので、このままではもうじきハードディスクが足りなくなるなぁ。かといって、Windows パソコンのためにハードディスクを増設する気にもならないしなぁ。

03年11月20日 14時57分 着信

ゼミ募集に関する相談期間は終了。今年は 39 名の学生が話を聞きに来た。このうちどれくらいが応募するのかわからないが。続けざまに来るので、今日も午後からは話しっぱなしである。さすがに疲れた。

丸善に注文してあった『めざすはライカ!』(押尾健三)と『名機を訪ねて』(那和秀峻)がとどく。どちらもカメラの本だ。カメラの趣味は全くないのだが、こういうメカニカルなものや技術に関する本は好きなので、買ってみた。

明日の組織論の講義ノートがなかなかまとまらない。う〜む、目的の話をどこまで展開するか、だなぁ。しかし、今年は、このペースでいくと、マジで組織論までで終わってしまうなぁ。このあと組織の公式化という大きなテーマが控えているし、倫理と責任のコミュニケーション的考察はやっておきたいし。さて、どうするべきかしら。また、来年度のシラバスにはどのように書こうかなぁ。

03年11月20日 17時24分 着信

どういうわけか、メールサーバに Eudora が取り込まないメールが少しずつ溜まってしまうという現象がおきる。メールはすべてダウンロードしてサーバ上からは削除するという設定で使っているにもかかわらず、昔からこの現象がおきている。サーバとの相性というわけではないようで、EIMS だろうが大学の Windows 2000 のサーバだろうが、同じである。残ってしまうメールというのは、本文がBase64 でエンコードされていたりする、変則的なものであるようだし、これまで重要なメールが取り込まれないままになったことはないのだが、それでもちょっと変であることは間違いない。そこで、定期的に(といっても3ヶ月に1度ほど) mboxer を使ってサーバに残っているメール(ダウンロード直後なのに残ってしまっているメール)をすべてダウンロード&削除するという作業を行っている。そもそも mboxer の開発の時に色々とテストしていて気がついた現象ではある。で、ダウンロードしたメールを念のためにエディタで開いて中身をチェックして捨てるわけである。今日は、そのサーバ浚いの作業を行った。溜まっていたのは全部スパムで(といっても6通ほど)、まさにドブ浚いって感じであった。

03年11月21日 10時21分 着信

日経バイトが届いているのだが、読む時間がないぞぉ。そういえば研究費で講読している雑誌も溜まっているはずだ。

今日の組織論の講義ノートがまだまとまらないのだが、今日は思い切って行為論を展開しようかと考えている。motion, communication, action ってわけだ。目的論(目的合理性批判)はどうやらまとめきれないので、次回に回そう。その前に組織の存立条件(バーナードのいう要素=Element)の話を入れるかな。

「ゆびとま」経由で連絡がついた高校時代の友人からメールが届いた。へぇ、そうなのかぁという感じである。もちろん、お互い様なんだけどね。

03年11月21日 15時53分 着信

経営組織論の講義は、結局、行為論と組織の存立条件について論じた。存立条件の話へと進んだところで、ここはいつも通りのバーナードの組織論などもふれつつとおもったのだが、いったい何を軸に話せばいいのか、迷ってしまった。ルーマンにどっぷりだったのでバーナードを忘れかけている。行為論の方は、講義を行いながら自分なりの発見もあった。

昼休みに研究室の窓を開けてぼ〜っとしていたら、体長6センチほどのスズメバチが飛び込んできた。おいおいと思ってみていたら、すぐに飛び込んだ場所がなんのうまみもない場所だと気がついたのか、窓のガラスに張り付いて外への出口を探り始めたようだったので、とりあえずブラインドをそっとおろして部屋の中へは進入しないようにしておき、ブラインドの隙間から観察。このサイズのスズメバチを間近に見るのは初めてだ。もし刺されたらこの後の講義は休講だなぁとかドキドキしながらも、じっくりと見る。そのうちに外へ出て行ったが、さすがに6センチもあるやつだと羽音も違うなぁ。

ATOK 16 のアップデートがオンラインでもできる(ダウンロード版の販売)ようになったので、アップデートする。60メガあまりのファイルを落とすことになったのだが、この程度のサイズのファイルのダウンロードでも驚かなくなったなぁと、そのことにしみじみ。ちょっと使ってみたが、変換効率は確かによい。でも、やっぱ EGBridge が馴染んでいるんだよな。

この週末(連休)は、研究室に来る時間がとれそうもないので(明日は入試業務でつぶれるし)、サーバのメンテナンスを行った。月曜日は金沢、火曜には京都に出かける予定。

03年11月26日 10時08分 着信

この週末は色々と動き回っていた。

22日土曜日は推薦入試の面接委員。職業系高校の志願者の面接を担当する。

23日日曜日は家族で買い物にいったりして過ごす。

24日月曜日は妻が仕事関係の講習会に出るのに付いて金沢へ。書籍と CD をそれぞれ1万円あまり購入。探していた矢作俊彦の新作など。

25日火曜日は大学が月曜の時間割に振り替えの日ということで、授業などがなかったので、京都へ。馴染の床屋へ行ってから駅前に出たのだが、前日に金沢で本などを買い込んであったので、本も CD も購入しなかった。ソフマップで 120G のハードディスクが1万円を切った値段で販売されていたのを見て、しばし悩んだが、結局、購入せず。

このところ、森博嗣の作品のうちのS&Mシリーズを一気読みし続けている。ひたすら読み進めていくという感じで、今、『数奇にして模型』にとりかかったところ。このシリーズだけは読んでみようかなと、ふと思って読み始めたら、ちょっとハマったかなという感じである。おかげで、他の本がまったく読めない(あたりまえではあるが)。

03年11月26日 11時21分 着信

UVJ Mailer 3.2b を使って SIMS でメール送信できるかどうか試してみたら、SIMS ではファイルの改行が CR である必要があることが判明した。EIMS 1.3 と同じ仕様のようだ。そこで SIMS 対応(EIMS 1.3 も含む)の機能も実装することにした。SIMS をサーバに指定すると改行コードが CR になったファイルを書きだすようにすればいいわけだ。

03年11月27日 17時36分 着信

朝からルーマンの『目的概念とシステム合理性』の読み込み。この本で展開されている組織論(彼の言う古典的組織論)の批判を整理吸収するのと、システム論的な目的概念を整理して、明日の講義に取り入れるつもりなのだが、まだ、先が見えない…

今年もゼミ生達と温泉旅行にいくことになった。今年は山代温泉である。のんびりできたらいいのだが、さて?

娘が朝から調子が悪かったので、妻が仕事を休んで病院へ連れていったら、水ぼうそうにかかっているとのこと。2週間は保育園も休む必要がある。これからちょっと大変ではあるが、まぁ、水ぼうそうは小さいときにかかっておいたほうが症状は軽いというし、これはこれでよかったと思うしかない。自分が中学校1年で水ぼうそうになったときには本当に症状がすごかったからなぁ。

03年11月28日 15時11分 着信

経営組織論の講義の日。環境と目的ということで、システムにとっての環境の位置づけや、目的(目的設定)がシステム存続に持つ意味(機能)などについて講義。体調がいまいちだったのと、自分でも消化が不十分なまましゃべってしまったこともあって、かなり不満が残る講義になってしまった。自分の研究ノートをそのまま喋ってしまったようなものなので、学生達にはうまく伝わらなかっただろし、理解してもらえなかっただろうなぁ。こういう講義をすると、頭の中に疲労が残る感じがするし、いつものハイになったような気分がしない。

03年11月30日 10時46分 着信

昨日は一日水ぼうそうになった娘の看病。その合間を縫って、森博嗣のS&Mシリーズの長編の最後を読み上げる。疾走したって感じで読み続けたが、これで一区切り。一連の作品を読みながらも、ルーマンのコミュニケーション論とか観察あるいは自己準拠なんて話にからめて味わってしまう自分がいる。そういう意味でも、楽しい体験であった。しかし、毎日500ページぐらいの分量をむさぼり読むってのも久しぶりではあった。

先日、金沢に行った際に購入した本にようやくとりかかる。矢作俊彦の『ららら科學の子』以外に、

  • 『ファインマンさん最後の授業』レナード・ムロディナウ
  • 『歴史の方程式』マーク・ブキャナン
  • 『期間限定の思想』内田樹
  • 『大人は愉しい』内田樹&鈴木晶

を購入したのだった。これに、『めざすはライカ!』もあるしその他にもあれこれと溜まっている。とりあえず『大人は愉しい』から始めることにする。

次回のゼミで、毎年恒例になりつつある、田中的 jazz 入門をやるのだが、今年は Amazing Grace がネタに使えるのと(何かのドラマの主題歌らしく最近、よく耳にする)、Europian Jazz Trio が「千と千尋の神隠し」の主題歌を演奏しているやつが出たので、そのへんを使おうと思う。前半は、学生たちも耳にしたことがあるであろう曲を使って、簡単にレクチャーを入れておいてから、後半は枯葉の色々なバージョンを連続して聴かせるという予定である。レクチャーっていっても、Jazz のキーコンセプトは「対話」(プレイヤー同士、あるいはプレイヤーと曲との対話)であり、その場その場で出来事として生まれてくる対話(即興、アドリブ)を楽しむことにあるという、それだけ伝えれば十分だと思う。毎年、自分が熱くなってしまう(気負いすぎてしまう)ために、うまくいかない部分があるんだけど、今年はどうかな?

03年12月01日 14時41分 着信

朝から教務関連の会議。来年度の時間割について、教員から出された希望をもとに、配当年次や学科のバッティングをチェックして、調整していく作業である。カリキュラムの移行期なので、よけいにややこしい。

明日の外書の準備でルーマンを読んでいたのだが、端的に書かれすぎていて、いまひとつ把握できない文章に出くわす。やれやれ。明日まで考えて分からなかったら、学生たちに正直に分からないと言おう。

ゼミでの jazz 入門で使う曲目を決定して、CD に焼いた。90分の授業時間中に解説も入れることから、CD 1枚に収まるようにしておくのがいいだろうということで、あれこれ絞り込んだのだが、結局、以下のようにした。

曲順曲名アーティスト収録アルバム
01Itsumo NandodemoEuropean Jazz TrioDancing Queen
02EverythingRenee RosnesA Beautiful Friendship
03Battle Hymn Of The RepublicPatti Moran McCoyThe Gospel Truth
04Amazing GraceCharlie Haden&Hank JonesSteal Away
05Amazing GraceCharles LloydLift Every Voice
06Amazing GraceFourplaySnowbound
07Amazing GraceDavid MurraySpeaking In Tongues
08Autumn LeavesCannonball AdderleySomethin' Else
09Autumn LeavesWynton KellyWynton Kelly!
10Autumn LeavesBill EvansThe Standards
11Autumn LeavesHampton HawesPiano Improvisation
12Autumn LeavesHamiet Bluiett & ConceptLive at Carlos I

最初に「千と千尋」とか「Everything」「リパブリック讃歌(おたまじゃくし)」など、学生たちも耳にしたことがあるだろう曲を Jazz だとどうなるか、あるいは演奏の基本的なパターンなどを確認してもらい、Amazing Grace と Autumn Leaves で同じ曲(素材)の演奏(料理、対話)の違いを味わってもらう、というパターンである。最後の Autumn Leaves のマイルス、エバンス、ケリーという3巨頭の演奏を聞かせてから、次に何を持ってくるかで非常に悩んだのだが、どうせ独断的にやるということで、ハンプトン・ホーズのライブと Hamiet Bluiett のバンドのライブ(ピアノはドン・プーレン)という、ライブでがんがんと疾走するアドリブのやつにした。Jam でノーマライズしてゲインなどを調整してから Toast で CD に焼いた。やっぱ、こういうコンピレーションものを作るときには Jam は欠かせないよなぁ。

今週の木曜日は娘の看病で授業準備ができそうもないので、これからルーマンの公式組織論の整理である。

03年12月03日 09時24分 着信

昨日は外書とゼミ。外書ではコミュニケーションの3要素が一体でありコミュニケーションの中でしかなりたつものでしかないことや、コミュニケーションが基底的自己言及にもとづくオートポイエーティックなシステムであることなどが述べられた個所をやったのだが、ルーマンはそのことをそのまんま書いているだけなので、説明が難しかった。ゼミでは Jazz の紹介ということで、好き勝手なことをしゃべりながら学生たちに Jazz を聴かせた。やっぱこういう音楽の授業的に聴かせるってのはイマイチだよなぁと思いながら、自分だけゴキゲンに Jazz を聴いていたという感じであった。

今日は朝からルーマンの公式組織論の読み込みと整理。明日は娘を一日見ている必要があるので、今日のうちに金曜日の講義ノートのめどをつけておく必要があるのだ。娘の水ぼうそうは峠を越えて、熱もなく、湿疹のかゆみも収まってきたみたいなので、一安心ではあるが、逆に、明日は元気で全開バリバリの娘に一日付きあうことになりそうだ。どこかに連れて行くわけにも行かないので、家の中でこってりとすごすことになるだろう。

03年12月04日 10時43分 着信

昨日は全学の教務委員会。珍しく1時間ほどで終了。教務委員になって教務委員会に出るようになって初めてだという気がする。

フルカラー版の AKIRA が出ていたので購入した。アメリカでコミックとして出したものに日本語のネームを入れ直したものみたいだ。買ってから気がついたのだが、1冊 \3,800- だった。2まで出ていて、この後も出るようなんだが、この価格はすごいなぁ。コレクターズアイテムとして出した本ということか。まぁ、こうして買ってしまう人間がいるわけだけどねぇ。ま、いいけどさ。

今日は朝から娘の相手。水ぼうそうも治りかけなので、湿疹の跡のかさぶたが痒そうなぐらいで、いたって元気。これは今日は長いなぁと思っていたら、10時前にお昼ねに入る。それでちょっと一息つけたというわけである。この貴重な時間を使ってルーマンの公式組織論の整理と講義ノート作成である。

今晩のメニューは白菜豚バラ鍋。ざく切りにした白菜と、ブロックで買ってきた豚バラを適当な厚さに切って塩コショウしておいたものを、鍋に交互に敷き詰めていって、焼酎か酒を入れて、あとは弱火でじっくりと煮ていく。白菜の汁がたっぷりと出てきて、それで豚バラを煮込んでいくことになるわけだ。そしてこれを、味ポンでだべるというもの。わが家の冬の定番のひとつである。

03年12月05日 08時26分 着信

娘のために毎月買っている創作絵本の「こどものとも012」の1月号は、たむらしげるの作品だった。『ごろんご ゆきだるま』という、雪だるまの話なのだが、これが布を手縫いしたもの(を写真撮影して絵本にしたもの)でちょっとびっくり。CD-ROM がマルチ・メディアとして持て囃されていた頃、たむらしげるといえば、マックで描いた作品で有名でたったので、そのイメージが強くて、今月号の予告にたむらしげるの名前を見たときも、きっとあの頃の感じの絵の本だろうと思っていたからだ。自分で選んだ木綿の布を自分で染めて、自分で切って縫って作った作品とのこと。味わいがある絵本である。そういえば、学生の頃、自分で買ってきた布でバッグを作って、染めたことがあったなぁ。そんなことを思い出した。

03年12月05日 15時35分 着信

Jam で音楽データを編集してディスクイメージに焼いたもの(これを Toast でCD-R に焼いているわけだけど)って、OS X の Finder のプレビュー機能で再生ができるのに気がついた。QuickTime のなせる技か? いずれにしても便利である。

経営組織論の講義。今日は公式組織論ということで、組織を成立維持させていくためには、期待の次元に働き掛けるしかないこと、とはいえ期待の共有という事実を確認するのはつねに事後になるので、メンバーシップという次元とリンクさせて管理ができるようになること、などを講義した。期待については人間論の際にも展開してあったのだが、あらためて説明しなおした。きがつけばこの講義も中盤を過ぎようとしているのだが、難しいのはこれからである。今展開している公式組織論が終わると、それをもとに管理論をより具体的に展開する必要があり、バーナードの組織論はほぼ使えなくなるからだ。権限受容説、誘因と貢献、非公式組織などのテーマはすべて組織の公式性の議論で片づいてしまうからだ。今のところ、システムの分化と環境問題、動機づけ、リーダーシップ、それに責任と倫理の原初的形態の講義は行いたいとは思っているが、さて、どうなるか。

ゼミの応募は全部で14名。定員が13名なので迷うところ。全部引き受けてもいいかなとは思うのだが(一人だけ落とすってのも、なんだか気が進まない)、さてどうするかなぁ。

03年12月06日 11時48分 着信

昨夜、『めざすはライカ!』を読み上げてから、矢作俊彦の『ららら科學の子』を読み始めた。どうしたわけか夜中に目が覚めてしまったので、布団で読み続け、先ほど読了。なんていうか小説を堪能したなぁという感じ。彼の『あ・じゃぱん』はそんなに良いとは思わなかったのだが、『スズキさんの休息と遍歴』は好きで、あれに似た手ごたえのようなものがあった。

今日は自宅でこのまま読書三昧のつもりである。夕方から住んでいる公舎の総会と懇親会に出席する予定。

03年12月08日 10時00分 着信

昨日は家族でのんびりと過ごす。奥泉光『鳥類学者のファンタジア』を読み返し(一気読みだ)、あらためて堪能。この本を読むたびに、やっぱジャズだよなぁとしみじみ思い、またそうしたジャズとうまく出会えた自分が嬉しくなるのだ。で、調子に乗って CD を買い込んでしまいそうになるのだが、今回は、そこをぐっと押さえた。その後、『ファインマン先生 最後の授業』を読了。いまいちの本だったなぁ。ファインマンの名前でないと絶対に売れないだろうし、読む気もしない本だ。でも、そこに記録されているファインマンの言葉は、確かに、あのファインマンだと思って読むからだろうが、それなりにぐうぃいっとくるものがあった。

娘が水ぼうそうの湿疹の跡がかさぶたになったのが痒いようで、夜中にぐずったので、1時間ほどさすってやっていた。それでも、今日から元気に保育園に行った。ようやく水ぼうそう騒ぎも一段落か。

今日は、このあと教務関係の会議、そして今週の授業準備。水曜日から泊まりがけで山代温泉にゼミ合宿なので、金曜日の講義の準備も早めにしておく必要がある。

03年12月08日 16時19分 着信

教務関連の打ち合わせでは、次回の教授会に提出するカリキュラム修正案の調整。今年度から実施された新カリキュラムなのだが、実際に運用してみると様々な問題点が浮上してきており、修正の必要が出てきたのだ(というか、運用上のやり繰りではどうしようもない問題が出てきたわけだ)。やれやれ。

明日の外書の準備や講義の準備をしていると、研究費で購入した液晶モニターが届く。EIZO FlexScan L767 である。19インチに画面が広がったのと、液晶で画像がくっきりとしたので、気分がいい。A4の書類を実寸で表示して、さらに色々とパレット(ツールバー)(最近のアプリケーションはこれが多いからなぁ)を出して置けるのは、快適である。これまで使用していたソニーのトリニトロンのモニターは AppleShare サーバの G3 ベージュに繋ぎ変えた。こちらはこちらで、ピントがきっちりとあって(Apple Studio Monitor は、どうもいまいちなのであった)ログの確認などがしやすくなった。

03年12月08日 16時22分 着信

どっかの検索エンジンのロボットが狂ったようにページを浚い続けていたので、このサイトの24時間累計のヒット数が4万ほどになっている。久しぶりに3万を越えたなぁ。

03年12月09日 16時43分 着信

外書とゼミ。外書ではコミュニケーション自体には目的がないこと、コミュニケーション行為の合理性などないこと、などを論じた部分。ゼミでは「大人になるとはどういうことか」というテーマ。このテーマだと、どうしても、「立派な大人になるとはどういうことか」という話になってしまう。まぁ、一人前という言い方もするぐらいだから、大人=立派な人間と考えてしまうのは無理もないとは思うが。

天気がいまひとつ怪しくて、いよいよ雪が降るかなという気配なのだが、なんとか降らずにすみそうだ。明日はゼミ合宿である。

講義準備ということで、ルーマンの『公式組織』を読み込んでいるのだが、やっぱ面白いよなぁと思う。

会議室の書き込みに対する返答として短いスクリプトを書いたのだが、なんか、久しぶりにスクリプトを書いていると、どっぷりとプログラミングがしたくなってくるなぁ。

03年12月11日 13時11分 着信

久しぶりに携帯に届いた料金詐欺(架空請求)メール:

From: saikensha7777@ezweb.ne.jp
Subject: (最終督促通知)

前略、貴殿が利用された(C)Pink-Cafeからの入金確認がない為、平成15年12月11日迄にサイト使用料
\32,200
遅延損害金
\7,030
合計金額
\39,230
を下記の口座へお振込み下さい。
ミズホ銀行
ニシカワグチ支店
普通 8088533
オオヤ マサカズ※弊社は架空請求は一切行なっておりませんのでご注意下さい。尚、期日迄に入金なき場合は告訴手続き開始となり、別途訴訟費用等\150,000が請求され、強制執行による給料差し押え等を含めたあらゆる手段を講じますので必ずお支払い下さい(株)サイト債権回収機構。

久しぶりに直接に振込を指定するバージョンだなぁ。(C)Pink-Cafe の (C) ってなんだろう? コピーライトだったら笑えるな。

03年12月11日 13時31分 着信

昨日〜今日にかけてゼミ合宿ということで、山代温泉へ一泊旅行。のんびりと風呂に入って(部屋付きの露天風呂があったし)過ごしたのだが、学生達と宴会をしてたら、夜中の2時過ぎになってしまい、いつも10時過ぎに寝る身にとってはちょっと寝不足ぎみである。

03年12月11日 19時32分 着信

またまた料金詐欺(架空請求)の携帯メール。なんか、来るときにはまとめてくるなぁと思っていたら、先日のものと同一の発信元っぽいなぁ。

From: kaishuudaikou1405@ezweb.ne.jp
Subject:=最終督促通知=


◎当社はメルパラサイト運営会社です。貴殿のポイント超過料の入金確認がまだ取れません。平成15年12月15日迄に、
ポイント超過料
\25,000
遅延損害金
\14,230
合計金額\39,230
を下記口座へお振込下さい。
<振込先>
みずほ銀行
キンシチョウ支店 (普通)8030873
ヤマダ アキラ
※お支払い頂ければ今後請求がいく事はありません。お支払い頂けない場合、既に調査済みの自宅、親族等へ強制回収致します。同時に訴訟手続き費用等[\128,000]別途請求致します。
※このメールは架空請求ではありませんので、ご注意下さい。

「このメールは架空請求ではありませんので、ご注意下さい。」ってのが笑わせる。「ご注意ください」はないだろう。まぁ、その他にも日本語がおかしいのだが、所詮はそういうレベルの人間がやってるってことだろうし、そういうのに気がつかない人がひっかかるということなんだろうなぁ。誠実さをコミュニケートしようとすることが不誠実さを生み出すというルーマンの議論をちょっと思い出してしまった。

03年12月12日 08時09分 着信

昨日は、研究室でもいまひとつだったので(まぁ、睡眠不足だし、朝風呂浴びてぽよよ〜んって感じではあったし)、早めに切り上げて、帰りに EOS Kiss Digital を買って帰る。これまで使っていたオリンパスの C-3030 が、カードを認識しないというトラブルが出るようになってきたのと、そろそろ新しいのが欲しいなというところだったので、ボーナスも出たことだしと、購入した。さすがに電源を入れたらすぐに撮れるし、シャッターを押してもタイムラグがなく、気持ち良く撮れる。それに一眼レフなのでファインダーで見えたままの画像で撮れるというのがうれしい。C-3030 は、ファインダーで見えている絵と、実際に写る絵がずれてしまっていて(調整したけど、完全にズレをなくすことはできなかった)、結局モニターを見ながらの撮影になっていたのがけっこう面倒だったので、やっぱ一眼レフはいいよなぁと思った。ま、レンズが交換できるとか、細かな調整(パラメータの変更)ができるとか、そういう部分は、これからちょっとずつ覚えていけばいいだろうということで。

03年12月12日 11時11分 着信

今日は午後から経営組織論の講義なのだが、今日で公式組織論は一段落付くはずなので、来週は休講にしてもいいなぁと思っていた(なんせ年内最後の日の実質的に最後のコマの授業にあたる)のだが、年明けの最初の授業がセンター入試の準備のために休講になることを思い出し、来週も講義することにした。しかし、やっと公式組織論が終わるというペースで、どこまで講義を進められるんだろう?

なんか東京都立大が運営体制がらみでごたごたしているようだが、ひとごとではなくなるんだろうなぁ。すでに、ビジネス・スクールがらみで(来年度の後期に授業だけは開始する予定のようだが)動きがあるし。

03年12月12日 11時25分 着信

雪起こしの雷がなっている。まだ雪ではなくて雨ではあるが、いよいよ北陸の冬シーズンが始まったなぁ。停電しなきゃいいんだけど。

03年12月12日 15時28分 着信

組織論の講義は、メンバーシップの根本的意義(機能)について展開した後、あ、そうか、ここでやればいいんだと気がついて商品社会論を軽く展開する。労働市場(大量の労働者)の存在が巨大公式組織を可能にしているという話につなげるのが目的なので、あまりマルクス的な資本主義論には踏み込まず、さらっと「生きていくこと=商品の売買」な社会の成立などを話す。最後に公式組織の自分なりの定義を示して確認して終了。

公式組織論までなんとかたどり着いたので、講義ノートを公開用に書き下ろす作業を始めようかと思う。でも、OmniOutliner って、やっぱなんか微妙に違うというか、自分のスタイルとは違うんだよなぁ。まぁ、HTML のファイルを最初から書いていくのがいいかなと思っている。

講義中に雷のためだと思われる瞬断が何度かあったのだが、なんとかサーバたちは無事だったようだ。講義終了後にメンテナンスを行う。

03年12月14日 09時23分 着信

昨日は娘の保育園の発表会。買ったばかりの EOS Kiss Digital を持って親ばか撮影に出かける。前日に 512M の CF を購入してあったので、カメラの練習とばかりに撮りまくる。しかし、512M って、今自分が使っている使っているどの Mac よりもメモリー容量が大きいんだけどなぁ。すごい時代になってきたよな。自宅に戻ってTiBook を使って印刷していたのだが、ColorSync で合わせれば、モニターで見るのと同じ色合いでちゃんと印刷されるのに、改めて感心。また、EOS Kiss Digital は、画素数が多いのとレンズがちゃんとしているということだろうけど、細かなところまできれいに写っているのに感心。色々なモードで試し撮りしたので、少し、モード設定などのこつがわかってきた。

午後は筆まめを妻のパソコン(Windows 98)で使って年賀状の文面作り。今年はシンプルなものにした。娘の顔写真などはなし。

マーク・ブキャナン『歴史の方程式』を読み始めたのだが、フラクタルが自然現象の色々な局面に現れることを論じていきながら、予測の問題を考えていくというなかなか面白い本だ。今日はこれを読み進めていくつもりなのだが、その前に、車のタイヤをスタッドレスに交換する作業を行うのであった。

03年12月15日 14時13分 着信

先日のゼミ合宿の際の写真を iPhoto でムービーにしたりして、学生達に配付するセットを作成した。

昨日は、午前中に自分と妻の車のタイヤをスタッドレスに交換したら、昼から寝てしまった。夕食は妻の実家で、娘といっしょに。帰宅後、NHK 特集を見ようと思ったら、フセインが捕まったということで臨時ニュースが入っていた。そのためNHK 特集が終了したら11時前で、すぐに寝てしまった。

03年12月15日 15時11分 着信

研究室に AirMac Extreme Basestation を導入して、iBook たちは無線 LAN で接続するようにした。最初は単純なブリッジとして使おうかとも考えたのだが、とりあえずAirMac BS の DHCP / NAT 機能を使用することにした。でも、これだと無線 LAN の外にある Windows の iTunes と共有できないんだよなぁ。ま、いいけど。しかし、BS に付属のマニュアルは分かりにくいなぁ。

03年12月15日 17時55分 着信

AirMac Base Station を単純なブリッジにして iTunes の共有などを試してみたが、やはり転送速度が低いのか、中断が起きたりする。そこで、結局、BS に DHCP をやらせる設定で運用することにした。AppleTalk のプリンター(OKI のやつ)が使えないという問題があるのだが、まぁ、基本的に授業で使うんだし、印刷するときにはケーブルを刺せばいいだけの話なので、この体制でしばらく使ってみることにする。

ナカニシヤ出版の酒井さんが研究室を訪ねてこられたので、1時間あまり、あれこれと談話。社会科学系の本にも力を入れたいとのことで、ルーマンを下敷きにした経営組織論の教科書なんかどうかなぁといったことを話す。

03年12月16日 11時48分 着信

朝方のみぞれで一面が白くなっていた。冬が始まったなぁという感じ。昨夜は雪起こしの雷が鳴りまくっていたしね。

妻の Windows で年賀状印刷をしていたのだが、どうも不良セクター絡みで不審な動きをするようになったので、昨夜は一晩かけてスキャンディスクでの検証と修復、それに最適化ツールによるデフラグをおこなさせていた。これでトラブルが収まらないようであれば、ディスクの交換かなぁ? Windows はどうも勝手が分からないので困る。まぁ、動けばいいわけだけど。

今日の外書講読は、特別授業ということで、ルーマンのテキストを離れて、 Shel Silverstein の The Missing Piece meets the Big O を取り上げる。これを全部訳させていくのだが、主語の It の扱いなどで、むしろ日本語の難しさに気付かせるのが目的である。英文自体は平易であるが、日本語に置き換えようとしたときに、必然的に、自分の解釈を持ち込まざるを得ないものになっているからだ。過去にも同じ授業を何度か行っているのだが、やはり主人公の Missing Piece を女性に見立てて、女性の自立の話のようにしてしまうパターンが多い。さて、今年はどうだろうか? ゼミでは今年の一年を振り返って総括させるという、年末恒例のテーマである。

03年12月17日 12時03分 着信

ちょっと新しいパターンの料金詐欺(架空請求)メールが届いた:

From: tp.programu@docomo.ne.jp
Subject: ログアウト解除のお知らせ


このメールは、お客様がご利用されていたサイトでなんらかのトラブルが発生したために送られる自動配信メールです。お読みになられましたら本日18時までに03−3865−9724にお電話下さい。尚本日18時までにご連絡なき場合は司法処置をとらせていただくことをご了承下さい。  (株)ネット通信情報センター 代表取締役 井川 晋  

「ログアウト解除」という意味不明なタイトルがまず笑える。ログアウトしてるのを解除もくそもないだろうに。まぁ、とりあえず電話をかけさせるという最近のパターンのものではある。

03年12月17日 12時25分 着信

昨日の外書で The Missing Piece meets the Big O をやったのだが、今年は、主人公を男だと思う(読む)学生が大半だったのにちょっと驚く。この辺は、世代による意識の違いか(笑)

ゼミの学生達に豚バラ白菜鍋がうまいよぉということを以前から言っていたのだが、だったら皆で鍋をつくって宴会しようということになった。年明けの最初のゼミの後にやることに。おいしい白菜をゲットするのが重要なポイントだな。今年は暖冬気味のせいで、冬野菜が前倒しでたくさん出てきていて、年を越えたあたりから少なくなってしまう(高くなってしまう)という話も合ったので要注意ってところか。

昨日は、娘が風邪で熱を出したので、夕方からは少しドタバタしていた。

今日はこの後、教授会と学部の忘年会である。

ルーマンの『社会の法』の翻訳が出たはずだと思い、アマゾンで購入しようと思ったら(このところ、丸善は新刊なのに出版社在庫がないという理由でキャンセルが続いていたので)、アマゾンでに在庫がなかった。冬休みの楽しみだと思っていたのになぁ。ちょっと残念。まぁ、急ぐものではないけれど。

03年12月18日 11時15分 着信

昨日の教授会で大学入学資格の弾力がようやく実施されるとの報告があった。弾力化によって朝鮮高級学校の生徒等にも門戸を開くことになる。すでに学部の教授会では実施を認めていたのだが、県サイドから、同じように拉致被害者の方がいる新潟県と歩調を合わせたいということで、まったがかかっていたもの。新潟県が県立の短大で実施することに決めたからということで、福井県でも実施ということになった。やれやれ。

学部の忘年会は駅前のユアーズ・ホテル。こじんまりとした感じで、宴会自体は悪くなかった。でも料理は冴えなかった。

今日は学長選挙の予備選挙。朝、投票してから研究室に来た。今回は、事前に何らの動きもみられなかったようだし、結果がどうなるのか、まるで分からない。

03年12月18日 12時57分 着信

そういえば、昨日の教授会の終了後、忘年会までに間があったので研究室でルーマンの読み込みを行っていたのだが、息抜きに?、Photoshop のアップデートということで Creative Suite Standard へのアップデートを申し込んでしまった。う〜む、InDesign はまだしも、Illustrator は使うんかいなとも思ったが、なんとなく、ま、いいかという感じで。

で、さっきは、仲間の ML で話題になっていた AppleScript The Difinitive Guide を購入するついでに、ルーマンのシステム論に関する新刊も出ていたので、2冊ほどAmazon で注文した。

03年12月18日 16時19分 着信

来年度のシラバスの入力を行う。組織論は、まだ具体的な講義項目が確定していない状態なのだが、とりあえず、こういう流れでいくことになるだろうというものを入力しておくことにした。シラバスという意味では、不完全なものなんだけどね。でも、下敷きとなる講義ノートが完成していないのだから、しょうがない。

研究費で購入した AirMac カードがすべて届いたので、授業用の iBook 4台(あと1台は特別に貸し出し中)に AirMac Card を装着し、Base Station の作成制限に AirMac ID (MAC Address) を登録、さらに大学の DHCP のクライアントの申請もしておく。色々と試してみたが、やはり AirMac Base Station を単なるブリッジとして動かし、個々の Mac には DHCP でグローバル IP が割り振られる方が便利なので、その設定でいくことにした。小さな大学だけど Class B の IP Address を持っているので、DHCP でもグローバル IP を割り振ってくれるのだ。

03年12月18日 22時03分 着信

夕食(今日のメニューはもつ鍋うどん)の買い物に行ったついでに本屋をのぞいたら、西村しのぶ「RUSH」3巻が出ていたので、買ってきて、さっそく読んだ。西村しのぶの作品は、どれがどれだか区別がつきにくい(おまけに隔年ペースぐらいでしか出ないしなぁ)んだが、それでも西村しのぶだからいいのであった。相変わらずな世界である、でも、サード・ガールをちゃんと区切り付けて欲しいんだけどなぁ。

03年12月19日 15時00分 着信

今年最後の経営組織論の講義。教室に行ったら誰もいなくて、ひさしぶりに「生徒が来なくて休講」(以前に1度だけあった)かなぁと思っていたら、ぽちぽちと人が来て、5人来たところで授業を始めた。最終的には10人ほど。大荒れの天気なので仕方がないか。中身は組織の複合化。組織のシステム分化にパーフェクトな解はありえないという話までなんとかたどりついたところで授業が終了。前半部分を丁寧にやり過ぎて、後半、特に公式化とシステム分化の関連などは、けっこう端折ってしまった。

授業前に、QuickTime6.5 が出たということで研究室の iBook の AirMac の設定&テストを兼ねてアップデートしていたら、途中から iTunes もアップデートに含まれていた。AirMac の方は、複数台の端末が交信しても思っていたよりは転送速度が出ていた。

03年12月19日 15時19分 着信

いよいよ本格的に雪が降り出した。シーズン最初の雪なので、しばらく見とれてしまった。

03年12月20日 10時10分 着信

朝起きたら外は一面の雪景色。5センチぐらいは積もったかなという感じ。その後も、日が射したり雪がふぶいたりと荒れた天気。一面の雪景色に日が射すといまだにきれいだなぁと見とれてしまう。

同僚が、授業の学生にメールを送るために ML を設定して欲しいという要望を出してきたのだが、エクセルの名簿があれば、その名簿に載っている学生に一斉にメールを送ることぐらいは簡単にできるよという返事を出す。で、多分初めてだと思うのだが、Excel のシートからメールアドレス(メールとか mail というタイトルの付いたコラム)のデータを抜き出す AppleScript を書いてみたりした。単にセルに書かれているデータを順に抜いていく(名前のコラムが空欄でない場合はメールのコラムのデータを抜き出す)であれば簡単にできることを確認。エクセルの辞書情報を見たのは初めてなんだが、相当に細かな操作も可能なオブジェクトモデルが実装されているのに関心した。同僚は Eudora を使っているので、エクセルからアドレスを抜き出して、Eudora でメールを作成して、発送という手順でスクリプトを書けばいいわけだ。こういう処理がちょいちょいってな感じで楽勝で組めてしまうのが AppleScript のいいところだなぁと改めて思う。

今日の午後は入試業務。この雪の影響が出なければいいけど。

03年12月22日 10時00分 着信

昨日は家族で買い物に出かけた以外はのんびりと娘に振り回されて過ごす。土曜日の買い物に出かけた際に ONE PIECE の31巻と一緒にジェームス・D・ワトソン『DNA』を見つけて買ってきてあったので、『歴史の方程式』を読み上げてから、こいつにとりかかるつもりだったのだが、アマゾンで購入した『手続を通しての正統化 新装版』(ルーマン)と土屋賢二『ツチヤ学部長の弁明』が届いたので、『ツチヤ』から読み始める。NIKKEI BYTE も届いていたので読む。寝所に入る頃になってようやく『DNA』に取り掛かれたのだが、予想通り、分子生物学の歴史とも言うべき内容の本で面白い。遺伝学と優生学の問題などにも触れてある。ワトソンというと、一緒に二重らせんを発見したクリックに比べて、調子者という感じが強かったので(確か講談社文庫に彼の本があったはず)、この本もどうかなと思っていたのだが、癖もなくアクもない本のようだ。

ルーマンの『社会の法』の翻訳2冊も無事にアマゾンで購入できたし、先ほど発送したとのメールも届いていたので、3冊もルーマンを抱え込んで冬休みということになる。今年は卒論の指導がなくなったので、FD がらみの書類(議案)を作ること以外は、自分の時間として使えるのが嬉しい。今日から組織論の講義ノート作りを本格化させる予定である。

03年12月22日 22時06分 着信

娘のクリスマス・プレゼントに『ぐりとぐら』のセット本を買いに行ったら、置いてなかった。そのかわりというのも変だが、『ウェブログ・ハンドブック』(レベッカ・ブラッド)、『双調 平家物語 11』(橋本治)、『精霊の王』(中沢新一)を購入。橋本の平家物語が割り込んできたので、『DNA』は中断である。

本というのはモノである。これは今さら言うまでもないことであるが、本を読むということは、そこにかかれていること(情報)だけではなく、本というモノになっていること(伝達形態)をも味わうということに他ならない。もちろんネットの Web ページにも、そうした物質性みたいなものはあるのだが、それでも物理的なモノとして存在する本というものは、たとえ表紙のイラストは誰が書いたのかといったレベルであっても、その物質性が一つのコミュニケーションである(コミュニケーションは情報と伝達行為の一体となったものだ)。この意味において『ウェブログ・ハンドブック』は、不幸な本である。そこに書かれている情報は、確かに、ネットにおけるコミュニケーションをめぐる考察であり、旧態然とした本などというメディアとは違ったコミュニケーションについての論考である。だからといって、それが本である以上は、本という物質性を蔑ろにしたり、読まれるものという基本的な形態を無視したものであってはならないはずだ。しかし、『ウェブログ・ハンドブック』は、その装丁やページのデザインが、あまりにも大きな勘違いに満ちた本であり、その点が、いやその点において、かわいそうな本である。装丁を担当した人間は、ワイアードあたりを意識したのではないかと思われるが、あれは雑誌であり、かつそれなりにきちんと計算された挑発性であったはずであり、その戦略性や思想を理解しないままに色使いやパターンだけを真似して「サイバー」気取りをすれば、どれだけ悲惨なことになるか、それの見本が、この『ウェブログ・ハンドブック』だろう。内容や翻訳の質は申し分ないだけに(まだ最初の方に目を通しただけだが、原書の内容についてはすでに評判になっている本だし、訳者は『Wiki ways』の人ということであれば信頼できるだろう)ことさら不幸というか、出版編集部の間抜けさが目立ってしまう(これで売れると思ってるのか?)ように思う。まぁ、こういうのをかっこいいとか思ってしまう連中が日本でバカな blog 騒ぎを初めて、その面白さが受容されるのを遅らせてしまったのかもしれないけどさ。

03年12月23日 17時24分 着信

朝からずっと橋本平家物語にどっぷり。昼過ぎに読み上げたので、昼食をとってから近くのショッピングセンターへ夕食の買い物に出かけたのだが、休日だしクリスマス前ということもあってかすごい人だった。念のため、そのショッピングセンターの本屋をのぞいてみたら、さがしていた『ぐりとぐら』のセットが見つかる。そのセットに、セットに入っていない1冊を加えて購入しクリスマス用のラッピングをしてもらう。娘のクリスマスプレゼントということで購入したのだが、楽しみにしているのは実は親の方だったりする。自分は『ぐりとぐら』しか読んだことがなく、その後の話しは全く知らない。娘と一緒に読むのを楽しみにしている。夕食は酢飯の上に刺し身を並べてがぁ〜と食べる酢飯海鮮丼にすることにした。ちょっと奮発してウニを買ってみた。

買い物から戻ってからは『ウェブログ・ハンドブック』を読み始めた。装丁は最低で、前書きや後書きは読めたものではないが、本文はまともで、そこが何とか救いではある。内容は申し分なし。blog に書くということについて書かれたものなのだが、ネットのページに自分の文章を書くと言うことについての論考として読むことができる。実践的な指針を語りつつも、単なるハウツーになっていないところが良い。色々と自分自身刺激を受けた(blog ではないが、こうして web ページに文章を書いているわけだしね)。翻訳も予想通り読みやすくて、無理なく読み進められる。やっぱ、装丁が致命的にひどいのが残念な本ではある。

03年12月24日 09時32分 着信

『ウェブログ・ハンドブック』を読了(ただし後書きなどは読んでられないのでパス)。良い本だった。何よりも、作者の「ネットで書く」ということに対するスタンスがいい。アメリカ人に多く見られるコミュニティ志向はあるものの、それが閉じてしまうことの危険や危惧をしっかりと持っているのが評価できる。また、結果として、この本のように書けばいいのだという見本のような文章にもなっている。この本が、単なる blog 本として片づけられてしまうのはもったいないなぁ。来年度から担当する基礎ゼミ(情報発信技術のスキルアップを主眼にした演習を行う予定)のテキストに取り上げようかと考えている。でも、やっぱ、この装丁はサイテーだなぁ。そのことが、読むほどに残念になってくる。

中沢の『精霊の王』の誘いに惹かれそうになるのだが、とありえず『DNA』を読み上げることにする。この本も、ページを開きさえすれば、どっぷりとはまりこめる本だしね。

経営組織論の公開用講義ノートの本格的な作成に入った。スタイルシートは結局チューリングの意訳などで使ったものをほとんどのそのまま流用することにする。今日のうちに人間論は終わらせたいのだが、どうなるか。

世間はクリスマス・イブ。雪ではなく雨が降ってる。

03年12月25日 12時02分 着信

今日は朝から研究室で講義ノートのまとめなどの作業。AppleShare サーバのメンテナンスなども行う。

そういえば、研究費で買っていた「日経インターネットソリューション」が休刊になっていた。日経システム構築に吸収されるようだ。まぁ、確かに内容的には重複する部分もあるだろうが、インターネット関連の技術に絞っていた分、それなりに楽しんでいた雑誌ではあるので、ちょっと残念。まぁ、企業のシステムの構築などにおいても、インターネットがらみのシステムが否応なく関わりを持つ状況なので、当然かなとは思うが。

03年12月25日 12時09分 着信

アマゾンに注文してあったルーマンの『社会の法』の翻訳2冊が大学の方に届いていた。太いなぁ。でも読みでがありそうだ。楽しみではあるのだが、講義ノートの作業がけっこう時間がかかる(今年度はかなり文章を書き加えているので)ので、読む時間を確保できるのか心配。さすがにルーマンの本は寝床で読むというわけにはいかないからなぁ。

03年12月25日 13時39分 着信

作業が調子に乗ってくると、教務関係やらなんやらの電話が入って、おまけにサーバはハングアップするし(これは自分が変なことをやろうとしたのが原因なんだけど)、なんかドタバタしている。サーバがハングアップしたので、リスタートのついでにメンテナンスも行うことにした。

03年12月25日 14時14分 着信

ふと思いついて、今年のこの雑感のページのページのファイルの中から『』で囲まれたもの、つまり本の題名だが、それをすべて抜き出して並べてみた。今年も、なんだかんだいって、雑多な本に手を出しているなぁと自分でも関心する。10月の終わりまでに読んだ本の中で、印象に残っている(良かったという意味で)本を並べてみる(なんか、いかにも年末という気分が少ししてきたなぁ)(ルーマン関係は省く)。必ずしも今年の新刊ではない。

  • 『金子光晴、ランボーと会う』
  • 『公家アトレイデ』、『公家ハルコンネン』
  • 『クリプトノミコン』
  • 『教養主義の没落』
  • 『絵のある人生』
  • 『光の教会 安藤忠雄の現場』
  • 『計算理論の基礎』
  • 『やつあたり俳句入門』
  • 『そのフェラーリください!』
  • 『CODE コードから見たコンピュータのからくり』
  • 『せちやん』
  • 『磁力と重力の発見』
  • 『生殖の哲学』
  • 『生命40億年全史』
  • 『ミニチュア庭園鉄道』
  • 『アンチ・ハウス』
  • 『ランボー、砂漠を行く アフリカ書簡の謎』
  • 『ラカン 哲学空間のエクソダス』
  • 『重力と古典的世界 古典としての古典力学』
  • 『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
  • 『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』
  • 『キャラクター小説の作り方』
  • 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
  • 『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』
  • 『プラネタリウムを作りました』
  • 『ジンメル・つながりの哲学』
  • 『美しい日本の掲示板 インターネット掲示板の文化論』
  • 『日本語に主語はいらない』
  • 『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』
  • 『地図の想像力』
  • 『平らな時代』

けっこう新書が多いなぁ。このところの新書発刊ブームで色々なテーマの新書が出てきてるから、ついつい買ってしまうんだよなぁ。もう雑誌の感覚だね。

03年12月26日 10時26分 着信

11月以降に読んだ本で面白かったものを列挙しておこう。

  • 『だから WinMX はやめられない』
  • 『「不自由」論』
  • 『歴史の方程式』
  • 『ららら科學の子』
  • 『DNA』
  • 『ウェブログ・ハンドブック』

『DNA』はまだ読み終わっていないが、分子生物学の発展やヒトゲノムプロジェクト、あるいはバイオテクノロジーの問題など、20世紀の遺伝子を巡る出来事が幅広く触れられていて読みでがある本である。

03年12月26日 14時46分 着信

組織論の講義ノートの整理に取り組んでいるのだが、ようやく人間論の部分の作業を終了したので、未完ながら公開することにした。今後、書き進めるに従って更新していく。

今回の講義ノートは、OmniOutliner で書いてあった講義メモを見ながら、新たにホームページを書き起こしていくことにしたので、結果として、教科書的な解説の文章を大幅に書き加えていくことになった。なんだかもう一度講義をやりおなおしているような気分である。そのため、非常に分量が多いものになりつつある。まぁ、それもいいかと思う。説明などを書いていく作業の中で、自分なりに整理してるわけだし。また、講義の時には話の流れでなんとなくつながっていたと思うことが、文章として書いてみると、けっこう論が切れていたりつながりが悪かったりする。そういう箇所をあぶり出していくということでも、このままで作業を続けることにした。問題は、講義の終了までに間に合うのか?ということである。まぁ、ルーマンによった組織論を自分なりにまとめる作業は3年ぐらいはかかるかなとは思っているので、今年は今年でやれるところまでやろう。

研究室では iBook は AirMac でネットに接続するようにしたのだが、AirMac を常時 ON にしておくと、バッテリーの減りが早いような気がする。家では、ダイアルアップで繋ぐときだけ AirMac をオンにしているので、そんなに電力を食っているとは感じないのだが。まぁ、バッテリの減りが早く感じるほど没頭して作業しているということなのかもしれないけど、それはちょっと怪しい。

03年12月27日 14時27分 着信

朝から雪。『DNA』を読み上げてから『精霊の王』に取り掛かる。

昼前に夕食の買い物に出かけたのだが、そのショッピングセンターの CD 屋を何気なくのぞいたら(Jazz の品ぞろえは最低の店なので普段は寄らない店なんだが)、カバーアルバムの特集の平積みがあって、そこで手に取った岩崎宏美の Dear Friends というアルバムの中に「君と歩いた青春」が入っていたので買ってしまった。伊勢正三の曲で、太田裕美が歌った曲だったと思う。この曲が入っている風のアルバムは、たぶん、まだ実家にあるだろう。それが懐かしくて買ってしまったというわけだ。改めて聴いてみると、こんな歌だったっけという思いと同時に、あぁこの歌だなぁという思いが出てきた。長いこと聴いていない歌なんてそんなものかもしれない。それにしてもカバーアルバムが結構出ているのに驚いたのだが、たぶん、こういう自分みたいな人間をターゲットにしているのだろうなと苦笑。でも、いつもの癖で、どうせ1枚買うのならと、平井堅のやつとか Bs のやつとかのカバーものと、ついでに先日テレビで流れていたのを聴いてへぇと思っていた Ayaka Hirahara の Jupiter (マキシシングルを買うのは初めてだと思う)も買ったのであった。

午後は経営組織論の講義ノートの整理をぽちぽちと。今夜はかみさんと娘は実家に泊まりに行っているので、いつもよりは時間はあると思う。

先日、ヒメタローからクリスマスカードと DyDo のカレンダーシールを送ってもらったのだが、それを TiBook に張ることにした。なんだかんだいっても、この TiBook が、いつも自分の周りにあるものになってきているし、スケジュール管理は iCal で行っているからだ。これまで張ってあったルパン Jazz のシールを剥いだら、跡が残って汚くなってしまった。

03年12月29日 13時29分 着信

昨日は、妻の実家でもちつき。午後はまったりと過ごして帰ってきた。

Amazon に注文してあった "AppleScript The Definitive Guide" (By Matt Neuburg) が届く。目次に目を通したあと、序文を読んでみたが、やはり良い本だという感触。どのようなスタンスで何を述べるのかが、はっきりと書かれていて好感がもてる。明日から松山に帰省するので、帰省中の友として持って帰ろうと思う。ちゃんとした翻訳が出れば、AppleScript に関心を持っている人々にかなり役に立つ本として受け入れられるのではないかと思う。

中沢新一の『精霊の王』を読んでいるが、やはり面白い。