『経営者の役割』(など)でバーナードが言ったこと

福井県立大学・経済学部 田中求之

Last Modified: November 30, 2020

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このページについて

このページは、チェスター・バーナードの主著である『経営者の役割』を中心に、彼の著作の中から、中心的な概念について彼が語っている部分を抜き出したものである。

田中が福井県立大学で開講している経営組織論の授業の参考資料とすることを目的として作成した。田中によるバーナードのコメンタールなどは、以下のページに一覧をまとめてある:

これらのページについて、学生から分量が多すぎてとても全部読んでられないという意見があったので、このような要約版を作成することにした。

テキストとして使用したのはチェスター・I・バーナード『新訳 経営者の役割』(山本・田杉・飯野訳、ダイヤモンド社、1968)と、Chester I. Barnard "The Function of the Executive" (Harvard University Press, 1938) である。

彼の展開した組織論、管理論の中心的な概念が述べられている部分を、田中の独断で引用したものであって、ここに引用されているものがすべてではないことには注意して欲しい。上記のページと同様に、あくまでもバーナードに出会うための手引として読んでもらうことを想定している。

バーナードの著作は、『経営者の役割』以外に、『組織と管理』、『経営者の哲学』(いずれも翻訳は文眞堂)がある。これらの著作には、バーナードが『経営者の役割』で述べたことをさらに展開した議論や、彼の考え方の変化、あるいは実践的な適用に関する議論などが述べられている。現在、両書の翻訳は入手が困難な状況にあるので、バーナードに関心を持った方が読むことは難しいだろう。出版社の良心や矜恃に期待しても仕方がないのが日本の人文・社会科学系書籍業界の現実だ。新訳や電子化の予定の話も聞かない。そこで、『経営者の役割』の入門の手引きとして、いくつかの項目に関して、『組織と管理』と『経営者の哲学』からもバーナードの発言を拾っておくことにする。


バーナード曰く:

『経営者の役割』の狙い

私が意図したのは、管理者は何をせねばならないか、いかに、なにゆえ行動するのか、を叙述することであった。しかしまもなく、そのためには、彼らの活動の本質的用具である公式組織の本質を述べねばならぬことがわかった。ところが私の目的に適当な著作が何もないところから、私はどうしても正確にいうなら「公式組織の社会学」とでも呼ぶべきものを書かねばならなかった。読者も気づかれるように、それでも狭すぎる表題であろう。なぜなら本書はいくつかの学問、とくに社会学、社会心理学、政治学および経済学と交差している。公式組織としての家族、氏族、種族を除いては、この問題はいままで軽視されてきたように思われる。その結果、公式組織とは政治体系、法律体系、経済体系あるいは準機械体系と対立する意味の社会体系であるという命題を中心とするようになった

(強調は田中。なお原文を参照できないため、「体系」はそのままにしてある。)

公式組織と私たち

われわれの社会で目に付く人間の行為—すなわち動作、言語およびその行為や言語から明らかとなる思想や感情—を注意深くみると、それらの多く、ときには大部分が公式組織に関連してきめられたり、方向づけられていることがわかる。……。5や10以下の組織にしか属していないような人々はおそらくはほとんどなく、多くの人々が50以上の組織に所属しているであろう。これらの人々の個人的行為は、このような諸関係によって直接に支配され、規制され、条件づけられている。そのうえ、一日とか一週間のような短期間には、名前もないし組織とは考えられもしないような短命の、せいぜい数時間の生命しかない公式組織が無数にある。

人間の取扱い

この書物では特定の協働システムの参加者としてのパーソンを、純粋に機能的側面において、協働の局面とみなす。人々の努力は、それが協働的であるかぎりにおいて非人格化され、逆にいえば社会化される。

In this book persons as participants in specific coöperative systems are regarded in thier purely functional aspects, as phases of coöperation. Their efforts are de-personalized, or, conversely are socialized, so far as these efforts are coöperative.

……。第二に、なんらかの特定の組織のにあるものとしてのパーソンは、物的、生物的、社会的要因の独特に個人化したものであり、限られた程度の選択力をもつものとみなされる。このような二側面は、時間的に二者択一的なものではない。……、同時に存在するところのものの異なった側面にすぎない。両者は協働体系ではつねに並存する。……。協働を二人以上の人々の活動の機能的システムcoöperation as a functionning systems of activities of two or more persons)と考える場合には、人間の機能的もしくは過程的側面functional or processive aspect)が関連する。人間を協働的な機能もしくは過程の対象the person as the object of the coöperative functions or process)と考える場合には、第二の側面、すなわち個人化(individualization)の側面を考えるのがよいのである。

個人の選択と組織

この選択(=参加の選択)は、(1)そのときの目的、欲求、衝動、および、(2)その人によって利用可能と認識される、個人の外的な他の機会、にもとづいて行われる。組織はこれらの範疇のうちのひとつを統制したり、影響を与えることによって、個人の行為を修正する結果生ずる"Organization results from the modification of the action of the individual through control of or influence upon one of theses categories.)。これらのものを慎重に考慮して専門的に統制することが管理職能の本質であるDeliberate conscious and specialized control of them is the essence of the executive functions.)。

行為の有効性と能率

行為が特定の客観的目的をなしとげる場合には、その行為を有効的という。また、たとえ有効的であろうとなかろうと、行為がその目的の動機を満足し、その過程がこれを打ち消すような不満足を作り出さない場合には能率的であるというWe shall say that an action is effective if it accomplishes its specific objective aim. We shall also say it is efficient if it satisfies the motives of that aim, wether it is effective or not, and the process does not create offsetting dissatisfactions.)。ある行為が動機を満たさないか、または不満足を生ずる場合には、その行為はたとえ有効的であっても、非能率的であるという。

協働の存在理由

個人には目的があるということ、あるいはそうと信ずること、および個人に制約があるという経験から、その目的を達成し、制約を克服するために協働が生ずる。

協働の成果と個人

努力の協働システムの一部を構成する個人的努力と全体の協働的産物もしくはその分配部分との間には、いかなる直接の因果関係もないし、またありうるものでもないthere is and can be no direct causal relationship between individual efforts consttuting a part of a coöperative system of efforts and either the whole coöperative puroduct or any distributed part of it.)。

協働における原初的管理行為の発生

個人的行為ではみられない二つのタイプの他の行為が協働システムでは作用し始める。第一のタイプは、協働それ自身の促進をめざすものである。第二のタイプは協働システムの維持をめざすものである。

協働の有効性

協働の目的は非人格的なもの(non-personal)であり、全体としての協働システムの目標であることは明らかである。したがって、いかなる場合にも有効性のいかんは、また全体としての協働システムによってなんらかの方法で決定されるべきものである。この決定の基礎は、おこなわれた行為およびそれによって得られた客観的結果が、個人的動機を満たすに必要な諸力や物を協働システムのために十分に確保したかどうかであろう。

協働の能率

協働システムの能率は、システムを構成する努力を提供する各個人の能率の合成であり、したがって各個人の観点からみられたものであるThe efficiency of a coöperative system is the resultant of the efficiencies of the individuals furnishing the constitunent efforts, that is, as viewed by them.

協働システムの能率とは、それが提供する個人的満足によって自己を維持する能力である

協働の調整

協働システムはつねに動的なものであり、物的、生物的、社会的な環境全体に対する継続的な再調整のプロセスであるA coöperative system is incessantly dynamic, a process of continual readjustment to physical, biological, and social environment as a whole.)。その目的は個人の満足であり、その能率は、結果として環境全体の歴史を変えることを必要とする。協働システムは、その環境の物的、生物的、社会的な構成要因(components)の変化によって、このことを行うのである。

協働システムと組織

協働システム一般に斉一性があるならば、それらすべてに共通な特定の側面、または部分のなかにも斉一性がみられることは明らかである。したがって協働システムを有効に研究するためには、これらの側面を他のものからひきはなして、その性格を明らかにすることが必要となる。この共通な側面を「組織」と呼ぼう。

It is evident that if there are uniformities with respect to them (coöperative systems) generally they will be found in particular aspect or sections of them that are common to all. Effective study of them will therefore require the isolation of definition of these aspects. We shall name one common aspect "organization."

組織とは

……、組織とは意識的に調整された人間の活動や諸力のシステムと定義される。この定義によれば、具体的協働システムにみられる物的環境や社会的環境にもとづく多様性、および人間そのもの、あるいは人間がこのようなシステムに貢献する基礎に由来する多様性のすべてが、組織にとって外的な事実や要因の地位に追放され、かくして抽出された組織は、あらゆる協働システムに共通する協働システムの一側面であることが明白となる。

..., An organization is defined as a system of consciously coördinated personal activities or forces. It is apparent that all the variations found in concrete coöperative systems that are due to physical and social environments, and those taht are due to persons or to the bases upon which persons contribute to such systems, are by this definition relegated to the position of external facts and factors, and that the organization as then isolated is an aspect of coöperative systems which is common to all of them.

『経営者の役割』の中心的仮説

協働システムの経験を分析するために最も有効な概念が、公式組織を二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力のシステムと定義することのうちに具現しているということこそ、本書の中心的仮説である。

It is the central hypothesis of this book that the most useful concept for the analysis of experience of coöperative systems is embodied in the definition of a formal organization as a system of consciously coördinated activities or forces of two or more persons.

貢献、貢献者

したがって一応組織を二人以上の人々の協働的活動のシステム−触知しえない非人格的なものであり、主として関係の問題である−と定義するのではあるが、意味の混同が生じない場合には、表現の便宜上、しばしば組織を人間の集団と考える通常の慣例に従い、かかる人々をその「メンバー」と呼ぶことにしよう。しかしこの書物では通常、理解をいっそうはっきりさせ、一貫した概念的枠組を保つために、「メンバー」を「貢献者」という語に置きかえ、組織を構成する活動を「貢献」に置きかえるが、まだ熟さない語法であるかもしれない。

Hence, although I define an organization as a system of coöperative activities of two or more persons - something intangible and impersonal, largely a matter of relationship - nevertheless sometimes for convenience of phraseology, where no confusion of meaning is likely, I shall follow the customary practice of referring to organizations as groups of persons and shall speak of such persons as "members." Usually, however, in this book, in the interest of clearer understanding and of a consistent conceptual scheme, I shall use the more awkward plan of substituting "contributors" for "members," and "contributions" for the activities constituting organization;

組織と個人

……、われわれが「組織」と名付けるシステムは、人間の活動で構成される一つのシステムである。これらの活動を一つのシステムたらしめるものは、さまざまな人間の努力がここで調整されるということである。この理由から、これらの活動の重要な諸側面は人格的なものではない。その様態、程度、時間はいずれも、システムによって決められる。……。したがって、われわれが調整された人間努力のシステムを取り扱うという場合には、たとえ人間が行為の担い手ではあっても、協働システムの研究にとって重要な側面では、その行為は人格的なものではないことを意味する。その性格はそのシステムの要求によって、あるいはそのシステムにとってもっとも重要なものによって、決められるのである。

The system to which we give the name "organization" is a system composed of the activities of human beings. What makes these activities a system is that the efforts of different persons are here coördinated. For this reason their significant aspects are not personal. They are determined by the system either as to manner, or degree, or time. ... Hence, when we say that we are concerned with a system coördinated human efforts, we mean that although persons are agents of the action, the action is not personnal in the aspect important for the study of coöperative systems. Its character is determined by the requirements of the sysytem, or of whatever dominates the system.

(強調は田中)

システムとは何か?

われわれの目的からすれば、システムとは、各部分がそこに含まれる他の部分とある重要な方法で関連をもつがゆえに全体として扱われるべきあるものである、ということができよう。何が重要かということは、特定の目的のために、あるいは特定の観点から、規定された秩序によって決定される。したがって、ある部分と、他の一つあるいはすべての部分との関係にある変化が起こる場合には、そのシステムにも変化が起こり、一つの新しいシステムとなるか、または同じシステムの新しい状態となる。

For our purposes we may say that a system is something which must be treated as a whole because each part is related to every other part included in it in a significant way. What is significant is determined by order as defined for a particular purpose, or from a particular point of view, such that if there is a change in the relationship of one part to any or all of the others, there is a change in the system. It then either becomes a new system or a new state of the system.

(強調は田中)

システムの階層性

まず第一に各組織は、われわれがこれまで「協働システム」と呼んできたより大きなシステムの一構成要素であり、物的システム、社会的システム、生物的システム、および人間などは、協働システムの他の構成要素である。さらにまた、たいていの公式組織は、より大きな組織システムのなかに含まれる部分システムである。最も包括的な公式組織は、通常「社会」と名付けられる非公式な、不確実な、漠然たる、方向の定まっていないシステムの中に包含されているThe most comprehensive formal organizations are included in an informal, indefinite, nebulous, and undirected system usually named a "society.")。

組織の創発性

本書を貫く見解は、たとえば5人の努力が一つのシステム、すなわち組織に調整される場合には、5人の努力の合計にあらわれるものとは、質および量において大きいか、小さいか、または異なる、何かまったく新しいものが作り出されるということであるthere is created something new in the world)。

本書では、われわれが組織と呼ぶ協働のシステムを社会的創造物、すなわち「生き物」とみなすのであり、それはちょうど、個々の人間はこれを分析すれば部分システムの複合体であるが、これを構成する部分システムの合計−まことに「合計」という言葉がこの関連で何らかの意味をもつとすれば−とは異なるものとみなすのと同様である。

In this book, systems of coöperation which we call organizations I regard as social creatures, "alive," just as I regard an individual human being, who himself on analysis is a complex of partial systems, as different from the sum of these constituent systems - if, indeed, the word "sum" has any meaning in this connection.

組織の3要素

組織は、(1)相互に意思を伝達できる人々がおり、(2)それらの人々は行為を貢献しようとする意欲をもって、(3)共通目的の達成をめざすときに、成立する。したがって、組織の要素は、(1)コミュニケーション、(2)貢献意欲、(3)共通目的である。これらの要素は組織成立にあたって必要にして十分な条件であり、かようなすべての組織にみられるものである。

An organization comes into being when (1) there are persons able to communicate with each other (2) who are willing to contribute action (3) to accomplish a common purpose. The elements of an organization are therefore (1) communication; (2) willingness to serve; and (3) common purpose. These elements are necessary and sufficient conditions initially, and they are found in all such organizations.

組織の存続

組織が存続するためには、有効性または能率のいずれかが必要であり、組織の寿命が長くなればなるほど双方がいっそう必要となる。組織の生命力は、協働システムに諸力を貢献しようとする個人の意欲のいかんにかかっており、この意欲には、目的が遂行できるという信念が必要である。実際に目的が達成されそうにもないと思われれば、この信念は消えてしまう。したがって有効性がなくなると、貢献意欲は消滅する。意欲の継続性はまた目的を遂行する過程において各貢献者が得る満足に依存する。

要するに、組織がまず成立するのは、前述の3要素をその時の外部事情に適するように結合することができるかどうかにかかっている。組織の存続は、そのシステムの均衡を維持しうるか否かに依存する。この均衡は第1次的には内的なものであり、各要素間の釣合いの問題であるが、究極的基本的には、このシステムとそれに外的な全体情況との均衡の問題である。この外的均衡はそのうちに二つの条件を含む。すなわち第一の条件は組織の有効性であり、それは環境状況に対して組織目的が適切か否かの問題である。第二は組織の能率であり、それは組織と個人との間の相互交換の問題である。このように前述の諸要素は、それぞれ外的要因とともに変化し、また同時に相互依存的である。したがってこれらの諸要素によって構成されるシステムが均衡を維持する、すなわち存続し、生存するためには、一つのものが変わればそれを償う変化が他のものにも起こらなければならないThus the elements stated will each vary with external factors, and they are at the same time interdependent; when one is varied compensating variations must occur in the other if the system of which they are components is to remain in equilibrium, that is, is to persist or survive.)。

非公式組織

非公式組織とは、個人的な接触や相互作用の総合、およびすぐ前に述べたような人々の集団の連結を意味する。定義上、共通ないし共同の目的は除外されているが、それにもかかわらず、重要な性格をもつ共通ないし共同の結果がそのような組織から生ずるのである。

By informal organization I mean the aggregate of the personal contacts and interactions and associated groupings of people that I have just described. Thought common or joint purposes are excluded by definition, common or joint results of important charater nevertheless come from such organziation.

公式組織と非公式組織

……、全体社会は公式組織によって構造化され、公式組織は非公式組織によって活気づけられ、条件づけられるのである。確言しうることは、一方がなくては他方が存在しえないということである。もし一方が挫折すれば他方が解体する。……。公式組織がまったく存在しなければ、ほぼ完全な個人主義の状態、および無秩序の状態となるだろう。

専門化

重要な側面では、「組織」と「専門化」とは同意語である。協働の目的は専門化なしには成就されない。そこに含まれる調整は組織の機能面である。この機能は、目的をなし遂げうるような仕方で、個人の努力を協働情況全体の諸条件に相関させることである。
この相関をなし遂げる方法は、目的を諸部分ないし細部諸目的に分析することであり、それらを適当な順序で達成すれば最終目的達成が可能となるであろう。また全体情況を諸部分に分析することであり、それらは組織活動によって細部諸目的と特定的に調整されることになるであろう。もしこれらのことがなし遂げられれば、最終目的達成の手段となる。このプロセスの性質と専門化の機能とは、管理作用の理解にきわめて重要である。

専門化と組織目的

複合体の一般目的を理解することや受容することは必須のものではない。それは細部目的を説明し、あるいは受入れやすいようにするのに望ましいだろうし、またつねにでなくとも通常は望ましいものである。……。しかし一般に複合組織は、その一般目的を完全に理解せず、また完全に受容していないところに特徴がある。かように中隊が軍隊全体の特定目的を知ることは必須ではなく、また通常不可能であるが、しかし中隊はそれ自体の一つの目的を知り、受入れることが必須である。そうでなければそれは機能しえない。……。主として重要なのは目的の知的理解よりも、むしろ行動根拠に対する信念である。「理解」はただそれだけでは、むしろ麻痺させ分裂させる要素である。

誘因と貢献

すでに述べたように、組織の本質的要素は、人々が快くそれぞれの努力を協働システムへ貢献しようとする意欲である。協働の力は、……、結局のところ、個人の協働しようとする意欲と協働システムの努力を貢献しようとする意欲とに依存している。組織のエネルギーを形作る個人的努力の貢献は、誘因によって人々が提供するものである。自己保存や自己満足というような利己的動機は支配的な力をもっているから、一般に組織は、これらの動機を満足させうるときにのみ、もしそれができなければ、こんどはこれらの動機を変更しうるときにのみ、存続しうるのである。個人はつねに組織における基本的な戦略要因である。個人の来歴または義務にかかわりなく、個人は協働するよう誘引されねばならない。そうでなければ協働はありえないのである。

権威とは

ここで権威とは、公式組織におけるコミュニケーション(命令)の性格であって、それによって組織の貢献者ないし「メンバー」が、コミュニケーションを、自己の貢献する行為を支配するものとして、すなわち、組織に関してその人がなすこと、あるいはなすべからざることを支配し、あるいは決定するものとして、受容するのである。

Authority is the character of a communication (order) in a formal organization by virtue of which it is accepted by a contributor to or "member" of the organization as governing the action he contributes; that is, as governing or determining what he does or is not to do so far as the organization is concerned.

この定義によれば、権威には二つの側面がある。第一は主観的、人格的なものであり、コミュニケーションを権威あるものとして受容することであり、この節で述べようとする面である。第二は客観的側面—受容されるコミュニケーションのもつべき性格—であり、次節「調整システム」において述べる面である。

According to this definition, authority involves two aspects; first, the subjective, the personal, the accepting of a communication as authoritative, the aspets which I shall present in this section; and, second, the objective aspect - the character in the communication by virtue of which it is accepted - which I present in the second section, "The System of Coöperation."

権威受容説

もし命令的なコミュニケーションがその受令者に受入れられるならば、その人に対するコミュニケーションの権威が確認あるいは確定される。それは行為の基礎と認められる。かかるコミュニケーションの不服従は、彼に対するコミュニケーションの権威の否定である。それゆえこの定義では、一つの命令が権威を持つかどうかの意思決定は受令者の側にあり、「権威者」すなわち発令者の側にあるのではない。

権威と協働の確保

もし原則的にも実際的にも権威の決定が下位の個人にあるのならば、われわれの見るような重要かつ永続的な協働の確保が以下にして可能なのか。それは個人の意思決定が次の条件のもとでおこなわれるから可能である。(a)永続的な組織において慎重に発令される命令は、通常前述の4条件と一致している。(b)おのおのの個人には「無関心圏(zone of indifference)」が存在し、その圏内では、命令はその権威の有無を意識的に反問されることなく受容しうる。(c)集団として組織に貢献している人々の利害は、個人の主観あるいは態度に、この無関心圏の安定性をある程度まで維持するような影響を与えることとなる。

無関心圏

「無関心圏」という言葉は、次のように説明することができる。もし合理的に考えて実行可能な行為命令をすべて、受令者の受容可能順に並べるとすれば、第一には明らかに受入れられないもの、すなわち、確実に服従されない命令がいくつかあり、つぎに、多かれ少なかれ中立線上にあるもの、すなわち、どうにか受入れられるか、あるいは受入れられないかの瀬戸際にある第二のグループがあり、最後に、問題なく受入れうる第三のグループがあると考えられよう。この最後のグループのものが「無関心圏」内にある。受令者はこの圏内にある命令はこれを受入れるのであって、権威の問題に関するかぎり、命令がなんであるかについて比較的に無関心である。このような命令は組織と関係を持ったとき、すでの当初から一般に予期された範囲内にあるSuch an order lies within the range that in a general way was anticipated at time of undertaking the connection with organization.)。……。
無関心圏は、組織に対する個人の執着を決定する誘因が、負担と犠牲をどの程度超過するかに応じて、広くもなり狭くもなる。したがって受入れられる命令の範囲は、組織に貢献するよう、かろうじて誘引されている人々にとっては非常に限定されたものとなるであろう。

上位権威というフィクション

組織の能率は個人が命令に同意する程度によって影響されるから、命令がだれにも受入れられない場合は別として、組織伝達の権威を否定することは、その組織との関連から純利益を確保しているすべてに人々にとって一つの脅威となる。したがって、いつでも大部分の貢献者間には、自分らにとって無関心圏にある命令は、すべてその権威を維持しようとする積極的な個人的関心がある。この関心の維持は主として非公式組織の機能である。それは一般に「世論」「組織意見」「兵卒感情」「集団態度」などの名で呼ばれている。かように非公式に成立した共同体の共通感は、人々の態度に影響を与え、彼らに、無関心圏あるいはそれに近いところにある権威を個人として問題にすることを忌避させる。この共通感を形式的に述べたものが、権威は上から下へ下降し、一般的なものから特殊なものにいたるというフィクションである。このフィクションは、ただ、上位者からの命令を受入れやすくするような予想を個人間に確立し、人格的屈従感を招くこともなく、また同僚との人格的、個人的地位を失うこともなく、こういう命令に黙従することを可能にするにすぎないものである。
かように貢献者たちが、コミュニケーションの権威を維持しようとするのは、……、また共同体意識がたいていの貢献者の動機に影響を与える場合がほとんどだからである。この意識の実行の用具が上位権威というフィクションであって、それが人格的な問題を非人格的に扱うことを一般に可能としている。

(強調は田中)

意思決定

個人の行為を区別すれば、原理的には、熟考、計算、思考の結果である行為と、無意識的、自動的、反応的で、現在あるいは過去の内的もしくは外的情況の結果である行為とに分けうるであろう。一般に前者の行為に先行するプロセスは、どのようなものであれ、最後には「意思決定」と名付けうるものに帰着する。

組織行為の論理性

組織の行為は、個人目的でなく、組織目的によって支配されている個人の行為である。……。一般的に、個人の行う重要な組織行為は、それが個人的でない目的を達成する手段の意識的な選択を必要とし、したがって直接的には自動的、反応的な反作用ではありえないというような意味で、やはりおそらく論理的であることが観察されよう。
こういっても、組織には無意識的、自動的、反応的な行為が含まれていないという意味ではない。反対に第9章で非公式組織を論じたときに示したように、非論理的組織プロセスは公式組織にとって不可欠である。さらに組織に参加している個人の行為は、その多くが習慣的、反復的であり、また組織設計(organization design)……によってたんに反応的であることもある。しかしここで重要なことは、個人行為とは対照的に、組織行為が最高の程度まで論理的プロセスによって特徴づけられねばならないし、また特徴づけうるということ、および意思決定が組織においてどこまで専門化されるかということである。

組織行為と意思決定

……、意思決定行為が、個人行動と対照してみるとき、組織行動を特徴づけるものであり、意思決定プロセスの記述が、個人の場合よりも組織行動を理解するのに比較的により重要であるということである。

戦略的要因

制約的(戦略的)要因は、正しい方法で正しい場所と時間にそれをコントロールすれば、目的を満たすような新しいシステムないし一連の条件を確立せしめるごとき要因である。

存在するか、あるいは欠如する決定的要素ないし部分が、物、物的要素、混合物、構成分などである場合、それを「制約的」要因と呼ぶのが便利である。しかし、すべての目的をもつ努力において究極的にはそうであるように、個人行為ないし組織行為が決定的要素であれば、「戦略的」という言葉のほうがのぞましい。

……このように戦略的要因を決めることは、それ自体ただちに目的を新しいレベルに変形させる意思決定であり、新しい情況において新しい戦略的要因を探索することを強いる。

……新しい戦略的要因をたえず決定してゆく反復的意思決定が広い目的、すなわちすぐには達成されない目的の成就に必要であるということである。個人では、このために異なる時と場所における連続的意思決定が必要となる。組織では、異なる時における、そしてまた異なる職位にいる、異なる管理者およびその他の人々による連続的意思決定が必要である。広い目的と広い問題についての意思決定とは、それぞれ、その目的の細部目的への分割、主要一般的な意思決定の細部補助的意思決定への分割を必要とする。後者は大部分、正しい順序でなされるときのみ、効果的となる。事の成行きを決めるのは、一連の戦略的要因とそれに直接関係する行為であって、一般的意思決定ではない。

……、意思決定プロセスは漸近法のプロセス−目的のたえざる精緻化、事実のますます綿密な識別−であり、そのプロセスでは時間の経過が必須である。……。目的は実行可能な条件に細分化されなければならず、情況は時を経て展開するにつれて正確に確かめられねばならないのである。

戦略的要因を正確に識別することは技術の目標である。

組織の意思決定

意思決定が個人的な場合には、意思決定の事実はその個人に特定的であるが、個人の内部での意思決定プロセスは、決定がある時間順序と特定の場所でなされることを除いては、たぶん専門化されないであろう。反対に受容された事実としての、すなわち権威をもつ組織的意思決定は個人に特定化されるものではなく、全体としての組織の機能であるが、意思決定のプロセスは必然的に専門化される。組織目的および組織行為は非人格的である。それらは調整される。組織における個人の努力は、一部分は非人格的に行為する他の人々によって必然的になされた意思決定の結果から生ずる。組織の概念は、意思決定の諸プロセスが割り当てられ、専門化されている人間努力のシステムを意味する。

Where decisions are personal, the fact of decision is specialized to the individual, but the processes of decision within the individual are perhaps not specialized, except that decisions are made in some order of time and at particular places. Organization deisions as accepted facts, that is, having authority, on the contrary are not specialized to individuals but are functions of the organization as a whole; but the processes of decision are necessarily specialized. The purposes and action of organization are not-personal. They are coördinated. The efforts of the individual in organization result from decisions which in part are necessarily made by others acting non-personally. The concept of organization implies a system of human efforts in which the processes of decision are distributed and specialized.

意思決定の機会主義的側面と道徳的側面

意思決定の機会主義的側面は一般に目的達成の手段および条件に関係するといえよう。この側面は、組織行為の部面のうち、論理的、分析的方法と経験的観察、観察、実験などが有効に働く部面である。それらは組織に内在的な専門化を要求し、それがこんどは専門化を可能にする。協働の威力が最も明白なのはこの部面においてである。
道徳的部面とは、物的、生物的、社会的経験の無数の経路を通じて人々の感情に影響を与え、そして協働の新しい特定目的を形成する、態度、価値、理想、希望の部面である。一方において、これらの態度によって客観的環境の抵抗は克服され、環境は修正される。そして他方、環境の抵抗はこれらの目的の修正を強制し、終局的にはこれらの目的が示す抱負を限定する。この二側面は具体的行為に統合される。

It may be said that the opportunistic aspect of decision in general relates to the means and conditions of attaining ends. This is the sector of organization action in which logical and analytical processes and empirical observations, experience, and experiment can be effective. They require and in turn make possible the specialization which inherent in organization. It is in this sector that the power of coöperation is most apparent.
The moral sector is that of attitudes, values, ideals, hopes, impressed upon the emotion of men through countless channels of physical, biological, and social experiences and distilled into new specific purposes of coöperation. The resistnace of the objective environment on the one hand is overcome and the environment modified by these attitudes; and on the other hand, the resistance compels the modification of these purposes and ultimately qualifies the aspirations they represent. The two aspects are synthesized in concrete acts.

管理職能と組織

管理職能は協働努力のシステムを維持する作用をする。それは非人格的である。その職能は、しばしば言われるように、人々の集団を管理することではない。このように狭く、便宜的で、厳密にいえば誤った考え方が行われるならば、管理職務の正しい理解が得られるとは思えない。また、管理職能は協働努力のシステムを管理することであるということさえも正しくない。協働努力のシステムは全体として自ら管理するものであって、その一部である管理組織によって管理されるのでない。われわれが問題にしている管理職能は、頭脳を含めた神経系統の、身体の他の部分に対する機能のようなものである。

The executive functions serve to maintain a system of coöperative effort. They are impersonal. The functions are not, as so frequently stated, to manage a group of persons. I do not think a correct understanding of executive work can be had if this narrower, convenient, but strictly speaking errorneous, conception obtains. Is is not even quite correct to say that the executive functions are to manage the system of coöperative efforts. As a whole it is managed by itself, not by the executive organization, which is a part of it. The functions with which we are concerned are like those of the nervous system, including the brain, in relation to the rest of the body.

管理過程

管理プロセスをかりに組織の有効性の側面ならびに組織活動の技術面だけに限定しても、それは全体の総括のプロセスであり、局部的な考慮と全体的な考慮との間、ならびに一般的な要求と特殊的な要求との間に効果的なバランスを見出すプロセスである。

the executive process, even when narrowed to the aspect of effectiveness of organization and the technologies of organization acitivity, is one of integration of the whole, of finding the effective balance between the local and the broad considerations, between the general and the specific requirements.

組織の4重経済

組織は協働的な人間活動のシステムであって、その機能は、(1)効用の創造、(2)効用の変形、(3)効用の交換である。組織は協働システムを創設することによってこれらの機能を完遂することができるが、協働システムの中では組織が中核であり、同時に一つの補助システムである。そして、協働システムにはさらに、その構成要因として物的システム、人的システム(個人および個人の集合)および社会的システム(他の組織)がある。したがって、効用の創造、変形および交換という見地からすれば、協働システムには、(a)物的経済、(b)社会的経済、(c)個人的経済、(d)組織の経済、という4種類の異なる経済が存在する。

4重経済と存続

組織の経済の均衡に必要なことは、色々な種類の効用を十分に支配し、交換し、それによって組織を構成する個人活動を支配し、交換しうるようにすることである。そのために組織は、これらの活動を用いることによって効用の適当な供給を確保し、その効用をさらに貢献者に分配してはじめて貢献者から適当な効用の貢献を継続して受けとることができるのである。これらの貢献者が各自の交換において余剰、すなわち純誘因を要求するかぎり、組織は自らの経済において交換、変形および創造によって効用の余剰を確保するときのみ存続することができる。

部分が集計されても全体になりえないし、また協働の成果は結果による以外、判明しないのであるから、組織の究極の能率は二つのまったく異なる要因、すなわち、(a)部分の能率、(b)全体の創造的な経済、に依存することになる。……。このことは、組織の能率がつぎの二つの統制から生ずることを意味する。一つは、交換点すなわち組織の周辺での収支の細部にわたる統制であり、他は組織に内的で、生産的要因たる調整である。交換は分配要因であり、調整は創造要因である。

管理過程の審美性

創造的能率は結果的に技術の発明を含むけれども、性格としてはもともと非技術的である。必要なのは事物の全体感であり、部分を全体に永続的に従属させることであり、最も広範な観点に立って、……、すべての諸要因から戦略的要因を識別することである。物的、生物的、経済的、社会的、個人的および精神的な効用をはかる共通の尺度はありえないから、創造的協働の戦略的要因を決定することは直感の問題であり、釣合い感の問題であり、異質的な諸部分の全体に対する重要な関係の問題であるSince there can be no common measure for the translation of the physical, biological, economic, social, personal, and spiritual utilities involved, the determination of the strategic factors of creative coöperation is a matter of sense, of feeling of proportions, of the significant relationship of heterogeneous details to a whole.)。

この全般的な管理のプロセスは、その重要な面においては知的なものではなく、審美的、道徳的なものである。かように、そのプロセスの遂行には、適合性の感覚、適切性の感覚および責任—これが協働の達成にとっての最終的表現である—として知られている能力が必要である。

This general executive process is not intellecutual in its important aspect; it is aesthetic and moral. Thus its exercise involves the sense of fitness, of the appropriate, and that capacity which is known as responsibility - the final expression for the achivement of coöperation.

組織の道徳的側面とリーダーシップ

通常は、構造的な特徴があいまいで、作用要因の把握が困難であるために、人間協働における主要要因を「リーダーシップ」だけに求めることになる。物的環境と人間の生物的構造に伴う諸制約、協働の成果の不確定、目的の共通理解の困難、組織に欠くべからざるコミュニケーション・システムの脆弱さ、個人の分散的な傾向、調整の権威を確立するための個人的同意の必要、組織に定着させ組織の要求に服従させようとする説得の大きな役割、道喜の複雑性と不安定、意思決定という永続的な負担、これらすべての組織要素—道徳的要因はそこに具体的に現れる—からリーダーシップが必要となる。すなわち信念を作り出すことによって協働的な個人的意思決定を鼓舞するような力が必要となるのであるAll these elements of organziation, in which the moral factor finds its concrete expression, spell the necessity of leadership, the power of individuals to inspire coöperative personal decision by creating faith.)。

リーダーシップは触媒である

目的のある協働は構造的性格のある限度内においてのみ可能であり、それは協働に貢献するすべての人々より得られる諸力から生ずるのである。協働の成果はリーダーシップの成果ではなくて、全体としての組織の成果である。しかし、信念を作り出すことができなければ、すなわち、人間努力の生きたシステムがエネルギーおよび満足をたえず交換し続けうる触媒がなければ、これらの構造は存続することができない、否、一般に成立すらしない。生命力が欠乏し、協働が永続できないのである。リーダーシップではなくて協働こそが創造的プロセスである。リーダーシップは協働諸力に不可欠な起爆剤である。

Purposeful coöperation is possible only within certain limits of a structural character, and it arises from forces derived from all who contribute to it. The work of coöperation is not a work of leadership, but of organization as a whole. But these structures do not remain in existence, they usually do not come into being, the vitality is lacking, there is no enduring coöperation, without the creation of faith, the catalyst by which the living system of human efforts is enabled to continue its incessant interchanges of energies and satisfactions. coöperation, not leadership, is the creative process; but leadership is the indispensable fulminator of its forces.

道徳

道徳とは個人における人格的諸力、すなわち個人に内在する一般的、安定的な性向であって、かかる性向とは一致しない直接的、特殊的な欲望、衝動、あるいは関心はこれを禁止、統制、あるいは修正し、それと一致するものはこれを強化する傾向をもつものである。

この傾向が強く、安定しているときにはじめて責任の一条件が備わることになる。

これらの内的な諸力あるいは一般的な性向は、積極的あるいは消極的な指示からなる私的な行動準則であると解するのが便利である。

責任

道徳水準と責任とは同一ではない。ここでの目的のために定義する責任とは、反対の行動をしたいという強い欲望あるいは衝動があっても、その個人の行動を規制する特定の私的道徳準則の力をいうのである。

管理職位

管理職位は、(a)複雑な道徳性を含み、(b)高い責任能力を必要とし、(c)活動状態のものとにあり、そのため(d)道徳的要因として、対応した一般的、特殊的な技術的能力を必要とする。これらの点はこれまでの議論のなかに含まれているが、そのうえ、(e)他の人々のために道徳を創造する能力が要求される。

Executive positions (a) imply a complex morality, and (b) require a high capacity of responsibility, (c) under conditions of activity, necessitating (d) commensurate general and specific technical abilities as a moral factor. These are implicit in the previous discussion; in addition there is required (e) the faculty of creating morals for others.

責任能力

責任能力とは、準則に反する直接的衝動、欲望あるいは関心にさからい、準則と調和する欲望あるいは関心に向って、道徳準則を強力に遵守する能力である。この能力の一面をあらわす一般的な言葉は「信頼性」であって、その意味は、ある人の準則を知れば—すなわちその人の「性格」を知れば—いろいろな事情のもとでその人がおそらくすること、しないことを正しく予見できるということである

(強調は田中)

道徳の創造

管理責任は、複雑な道徳準則の遵守のみならず、ほかの人々のための道徳準則の創造をも要求するということを特色とする。この職能の最も一般的に認められている側面が、組織内における「モラール」の確保、創造、鼓舞と呼ばれているものである。これは組織ないし協働システムと客観的権威のシステムに、考え方、基本的態度および忠誠心を教え込むプロセスであり、それが個人的利害とか、個人的準則の重要でない指令を協働的全体の利益に従属せしめることとなるのである。このプロセスには(これまた重要な)技術水準に関する道徳性を確立することも含まれている。

The distinguishing mark of the executive responsibility is that it requires not merely conformance to a complex code of morals but also the creation of moral codes for others. The most generally recognized aspect of this function is called securing, creating, inspiring of "morale" in an organziation. This is the process of inculcating points of view, fundamental attitudes, loyalties, to the organization or coöperative system, and to the system of objective authority, that will result in subordinating individual interest and the minor dictates of personal codes to the good of the coöperative whole. This includes (also important) the establishment of the morality of standards of workmanship.

リーダーシップの本質

全体としての創造職能がリーダーシップの本質である。それは管理責任の最高のテストである。なぜなら、創造職能は、これを立派に達成するためには、リーダーの見地からみて個人準則と組織準則とが一致しているという「確信」の要因を必要とするからである。この職能は、組織の構成員に、ならびに公式組織の基底にあって最も速やかに不誠実を感得する非公式組織に、「確信」を与える同化作用である。それがなければすべての組織は滅亡する。なぜならそれは組織を構成するために進んで貢献する人々に、組織への定着要求—いかなる誘因もこれに代わりうるものではない—を起こさせる不可欠の要因だからである。

The creative function as a whole is the essence of leadership. It is the highest test of executive responsibility because it requires for successful accomplishment that element of "conviction" that means identification of personal codes and organization odes in the view of the leader. This is the coalescence that carries "conviction" to the personnel of organization, to that informal organziation underlying all formal organziation that senses nothing more quickly than insincerity. Without it, all organization is dying, because it is the indispensable element in creating that desire for adherence - for which no incentive is a substitute - on the part of those whose efforts willingly contributed constitute organization.

リーダーシップは自然の法則を無効にするものでも、また、協働努力に不可欠な諸要因にかわりうるものでもない。そうではなく、それは必要欠くべからざる社会的な本質的存在であって、共同目的に共通な意味を与え、他の諸要因を効果的ならしめる誘因を創造し、変化する環境のなかで、無数の意思決定の主観的側面に一貫性を与え、協働に必要な強い凝集力を生み出す個人的確信を吹き込むものである。

Leadership does not annul the laws of nature, nor is it substitute for the elements essential to coöperative effort; but it is the indispensable social essence that gives common meaning to common purpose, that creates the incentive that makes other incentives effective, that infuses the subjective aspect of countless decisions with consistency in a changing environment, that inspires the personal conviction that produces the vital cohesiveness without which coöperation is impossible.

管理責任と組織の永続

管理責任とは、主としてリーダーの外部から生ずる態度、理想、希望などを反映しつつ、人々の意思を結合して、人々の直接目的やその時代を超える目的を果たさせるよう自らを駆り立てるリーダーの能力である。これらの目的が低く、時間が短いときでさえも、人々の一時的な努力は、人の助けをかりない一人の人を超越する、生命力のある組織の一部になる。しかし、これらの目的が高くて、多くの世代の多数の人々の意思が結合されるときには、組織は永遠に存続することとなる。


『組織と管理』・『経営者の哲学』より

組織管理の課題

*『組織と管理』序より

われわれは、われわれの社会の無数の変数間の複雑な相互作用の無意識的適応からのがれることはできません。実際、大きい公式組織における管理における重要な技術は、集団が全体として、意識的統制なしに、情況にかなうように自律的に行動するよう、職員を訓練し、条件付け、選択することです。これが、多くの教育の潜在的な目的です。しかし、われわれの大抵は、自律的適応をのがれえぬこととそのような適応の理論的根拠の両方を、おそらくは誤った知的プライドゆえか神秘主義のおそれゆえか、理解できないようです。

人事政策について

*『組織と管理』「人事関係におけるいくつかの原理と基礎的考察」より:

個人としての従業員の能力、成長および心的状態は、人事にかかわるすべての政策や実践の中心でなければならない、と私は強く確信する。

My own belief is strong that the capacity, development, and state of mind of employees as individuals must be the focal point of all policy and practice relating to personnel.

組織、機構、政策、集団的方法が次第に強調されてきている世界においては、全産業における動態的な努力への鍵は個人であり、また、産業のなかで成長しようとする個人の意欲である、ということを常に留意しておくことは、良いことであり、かつ実際的である。

厳密に検討してみると、協働的努力の鎖の中で最も弱い所は、協働しようとする意欲であることが明らかになるであろう。

われわれは、組織化された努力の達成した業績を好んで誇りとするけれども、われわれがそうできるのも、多くの場合、ただ単に、個人目的とほんのわずかだけしか関係しない共通目的のために、人びとを心からいっそう協力させる方法をしっているならば達成できることに眼をつぶっているからである。

要約すると、私は、個々の従業員の発展が最も重要であって、これに主として協力への意志の促進が付け加えられるべきである、という認識が、人事関係の進歩にはなければならないと信じている。これらの目的の達成にあたっての基本的な第一歩は、使用者と経営者の完全な誠実さと正直さである。

In summation, I believe the progress in personnel relations involves recognition that the development of the individual employee is of first importance to which must be added chiefly the promotion of the will to collaborate. The essential first step in accomplishing these purposes is complete sincerity and honesty of employers and managers.

民主的決定と協働

*『組織と管理』「民主的過程におけるリーダーシップのジレンマ」より

協働的行動には実質上完全な順応が必要とされるのに、民主的方法は部分的同意による決定の一つである。こうして民主的過程は、原則の基本的な対立を含んでいる。このことは、しばしばリーダーの行動に見られると私は信じているけれども、それはほとんど述べられたことはないし、ごくわずかな人にしか認められていない。それは誤った(非効果的な)決定に導き、それゆえに民主的過程に対する信頼の減退、あるいは民主的過程の放棄にさえ導くものであるから、実践上極めて重要である。

The democratic method is one of decision by partial consent, whereas cooperative action requires substantially complete conformance. Thus the democratic process involves a fundamental conflict of principle. Although I believe this frequently evident in the behavior of leaders − political and others − it is seldom stated and is recognized by few. It is of great practical importance because it leads to false (ineffectual) decision, and thence to decreasing confidence in, or even abandonment of, the democratic process.

存続し、持続していくためには、どの組織も—大きな国家であれ、限られた範囲の小さな組織であれ—その環境条件に有効に対処するにふさわしく、全体として行動しなければならず、また、個人の行為はこれらの要請に順応しなければならない。この順応はまったく一般的でなければならず、また、積極的でも消極的でもなければならない。すなわち、ほとんどすべての人は要請されたことを実行することによって、また、禁じられたことを控えることによって、順応しなければならないのである。かように、調整された努力の過程と民主的決定の過程との間の対照は顕著である。というのは、協働はほぼ全員の意思の一致を意味するのに対し、民主的過程は採決による—投票権をもつ人びとの過半数の、あるいは通常は単純多数による—決定を意味するからである。

To persist or endure, any organization − whether a large nation, or a small organization of limited scope − must take action as a whole adapted to meet effectively the conditions of its environment; and the acts of the individuals must conform to these requirements. This conformance must be quite general and both positive and negative; that is, nearly every one must conform by doing the things required and by refraining from those forbidden. Thus the contrast between the process of coordinated effort and that of democratic decision is striking; for whereas cooperation means approximate unanimity of will, the democratic process means decision by division − by majorities and usually by small pluralities of those entitled to vote.

(強調は田中)

数ある事情の中で、とりわけ民主的過程への信頼があって、そのような決定が諸個人の行為を合法的に統制するものとして受容される場合にのみ—個人的には不同意であっても—、それらの決定は調整された行動の中にその効力を現しうる。

Such determinations can become effective in coordinated behavior only as, among other circumstances, faith in the democratic process leads to their acceptance as legitimately controlling the acts of individuals notwithstanding individual dissent.

(民主的過程に時間がかかること)そこに含まれる不決断の要素は、協働における影響力のうち、もっとも破壊的なもののひとつであって、このことは十分に理解されていないように思われる事実である。行動の効果的なタイミングがしばしば不可能であるばかりでなく、時間の遅れは、決定のしかるべき実行に必要な創意と熱意を弱めるのである。

The element of indecisiveness thereby involved is one of the most destructive of influences in cooperation, a fact that appears to be not well understood. Not only is the effective timing of action often impossible, but delay depresses the initiative and enthusiasm required for the proper execution of decisions.

選挙民のメンバーそれぞれが民主的過程の運営に対してどれほど有能であるとしても、あるいは民主的に機能している集団のリーダー達がいかに有能であるとしても、タイムラグは民主的過程それ自体に内在的である。このことは特記すべき重要な点であり、私にはこのことが、協働的効果をもつ他の諸意思決定システムに関するあらゆる事実のうちで、最も明白なことのように思われる。

On the other hand, no matter how competent may be the members of an electorate for the operation of the democratic process or the leaders of a group operating democratically, time-lag is inherent in the democratic process itself. This is the important point to note and seems to me to be the clearest of all facts regarding alternative systems of decision having cooperative effect.

民主的過程のジレンマはリーダーの選抜や育成に影響を与え、あるいは部下をくじけさせ、そのために凝集性や調整を減じるので、それらを過小評価するのはひどく愚かなことである。民主的過程におけるジレンマは、他の諸過程の同様のジレンマと比較して、決して致命的なものではなく、多くの情況において他の諸過程よりは優れているように思われる。しかし、おそらく、多くの情況において、民主的過程という統治システムは不十分なものであって実質的に実行不可能であること、このことははっきりと認められるべきである。

諸条件と欲求とが、民主的過程の働きを可能にしているところでは、また、それがこれらの諸条件に限定されているところでは、それは、特に全般的な統治の分野において、大きい優位性をもっていると私は思う。
……
これらの優位性とは、民主的過程が結局、……、より高度なふさわしいリーダーシップのいっそう大きな可能性を与えるということであり、そして、あまり混乱の可能性を伴わずに最高の地位への継承を可能にするということである。
……
さらにそれは、公然の同意によって組織の連帯を鼓舞し、参加感を増大させるために用いられる過程である。
……
民主的過程にとって必要な行動、思想、原論の相対的自由は、より広い個人的責任感と、個人における独創性と適応性を発展させる。これは、大きな組織危機に対処するに際して重要な、より大きい組織柔軟性と適応能力を可能にする。

民主的システムへの信頼は、その利用になくてはならぬものであり、また、人の人に対する揺れ動く忠誠心にまさるものでなければならないけれども、それでもリーダーなしには民主主義も、いかなる統治システムも存続できない。いかなるシステムにおいても、リードする人たちは、なすべきことを見極める能力と、それが部下によって実行されうる方法を見いだす能力をもっていなければならないし、それらの能力の組み合わせは部下によって受入れられなければならない。しかし民主主義においては、真に一流のリーダーシップが必要とされる。

Although faith in the democratic system is essential to its use, and must be superior to the wavering loyalties of men to men, yet without leaders neither democracy nor any system of governance can survive. In any system those who lead must possess in some combination acceptable to their followers the capacities of discerning what ought to be done and of how it can be done by those who follow them. But in democracies a veritable aristocracy of leadership is required.

リーダーシップ

*『組織と管理』「リーダーシップの本質」より

リーダーシップが何であれ、リーダーシップは三つの事柄—(1)個人、(2)追随者たち、そして(3)諸状況—に依存しているというきわめて単純な言明をここで提示することにしよう。……。その相互依存性を強調すべく疑似数学的な言語でリーダーシップを再定義すれば、すなわちリーダーシップとは少なくとも三つの複合変数—個人、追随者の集団、および諸状況—の関数であるように思われる。

Whatever leadership is, I shall now make the much over-simplified statement that it depends upon three things − (1) the individual, (2) the followers, and (3) the conditions. ... Let me emphasize the interdependence by restating it in quasi-mathematical language, thus: Leadership appears to be a function of at least three complex variables − the individual, the group of followers, the conditions.

リーダーシップには人々のある特定の努力を整合する局面があることは明白である。リーダーシップなしには整合ないしは協働はほとんど成立せず、したがってリーダーシップは協働を含意する。整合された努力が組織を成立させる。組織とはリーダーの立場からみるかぎり行為の道具性であり、それは絶対不可欠の道具性である。前途有望な人々の多くがこのことについていつまでも気づこうとしない。それというのも、構造、技法、それに抽象的な制度、それも特に会社法のような法律的制度を若いうちに重視してしまうからである。

Leadership obviously relates to the coordination of certain efforts of people. There is little coordination or cooperation without leadership, and leadership implies cooperation. Coordinated efforts constitute organization. An organization is the instrumentality of action so far as leaders are concerned, and it is the indispensable instrumentality. Many promising men never comprehend this because of early emphasis upon plants, structures, techniques, and abstract institutions, especially legal institutions such as the law of corporations.

リーダーがまず努力しなければならないのは、活動の総合体系としての組織の維持と先導である。私はこのことがリーダーシップ行動の最も示差的で特徴的なことであると思われるが、それにもかかわらずほとんど認められていないし、理解されてもいない。組織を構成しているもろもろの行為の大半は外見的に組織の維持とは何ら関係がない特殊機能—例えば、組織の特定課業を達成すること—を担っているがために、組織の維持と先導といったような行為が同時に組織を構成しているということや、技術的でもなく道具的でもないこうした行為こそが、リーダーシップの観点からすれば非常に重要である、ということを見過ごさせているのかもしれない。……。したがってリーダーは組織を行為の道具性を維持するような仕方で全員を先導していかなければならない。

The primary efforts of leaders need to be directed to the maintenance and guidance of organizations as whole systems of activities. I believe this to be the most distinctive and characteristic sector of leadership behavior, but it is the least obvious and least understood. Since most of the acts which constitute organization have a specific function which superficially is independent of the maintenance of organization − for example, the accomplishment of specific tasks of the organization − it may not be observed that such acts at the same time also constitute organization and that this, not the technical and instrumental, is the primary aspect of such acts from the viewpoint of leadership. ... Thus the leader has to guide all in such a way as to preserve organization as the instrumentality of action.

行為は組織の外に潜在しており、潜在性を行為の実体に変えることがリーダーの課業の一つである。言い換えれば、リーダーが行う重要なことの一つは人々がその可能性を整合された努力に変えるように誘発し、そのことによって組織を維持しながら同時にその仕事をやり遂げるように仕向けることである。この種のリーダーの活動がときとして彼らが行うことの最も顕著な側面であるということは、改めて言うまでもない。広い意味でこれは説得に関する事柄である。さらに経営者が整合された活動へと「説得する」のに用いる行為や行動の種類が数限りない、ということも改めて言う必要がないであろう。

A potential act lies outside organization, and it is one task of leaders to change potentiality into the stuff of action. In other words, one important kind of thing that leaders do is to induce people to convert abilities into coordinated effort, thereby maintaining an organization while simultaneously getting its work done. I need hardly say that this kind of activity of leaders is sometimes the most striking aspect of what they do. In a broad sense this is the business of persuasion. Nor need I say that the sorts of acts or behavior by which executives "persuade" to coordinated action are innumerable.

他人と一緒に行動するには、どうすればよいかを論理的な説明で教えようとしても遅々としてはかどらず、せいぜい限られた効果しか上がらないであろう。私の考えるところ、この理由のゆえにこそ優秀なリーダー達は追随者たちに、どのように行動すべきかについての指示をほとんど出さないかわりに、何がなし遂げられなければならないかを指示し、のちほど成し遂げるにあたってのやり方をしかるべく批判するという事実が広く観察されることになるのである。それにひきかえ、劣悪なリーダーは、他人にいわば人生をいかに生きるべきかを訓示しようとし、しばしば失敗するのである。

To teach by logical exposition how to behave with other people is a slow process of limited effectiveness at best. This is why I think it will be widely observed that good leaders seldom undertake to tell followers how to behave, though they tell what should be done, and will properly criticize the manner of its doing afterward. Whereas inferior leaders often fail by trying, as it were, to tell others how to live their lives.

リーダーの仕事の本質からして、彼は現実主義者でなければならず、たとえ結果が予測できなくても行為に出ることの必要性を認識すべきである。しかしまた、彼は理想主義者でもなければならず、後に続く世代のリーダーによってしか達成されないような最も広い意味での目的を追求しなければならない。多くのリーダーが自分の権力が頂点に達したとき、すでに先は見えている。それでも自分自身が到達することはないであろう究極点へ向って道を押し進む。企業においても教育機関においても、政府においても、宗教団体においても、言葉には表せない、そして昨今のわれわれの奇妙にゆがんだ態度のせいでしばしば否認される、こうした動機に支配された人たちを再三再四見かける。

それでも「老人は植樹する」。明日のために今日を無視することは確かに感傷主義の反映であり、信用がおけない。しかし、われわれがいま活用できる思考と意志力の余力を駆って、未来のために現在を形作るのは、われわれがいま現に達成している社会的凝集力の基礎にある理想主義の表れにほかならないと思われる。そしてこの理想主義がなければ、われわれは自分たちの生活、制度、あるいは文化に何のしかるべき意味も見出せないであろう。

It is in the nature of a leader's work that he should be a realist and should recognize the need for action, even when the outcome cannot be foreseen, but also that he should be idealist and in the broadest sense pursue goals some of which can only be attained in a succeeding generation of leaders. Many leaders when they reach the apex of their powers have not long to go, and they pass onward by paths the ends of which they will not themselves reach. In business, in education, in government, in religion, again and again, I see men who, I am sure, are dominated by this motive, though unexpressed, and by some queer twist of our present attitudes often disavowed.

Yet, "Old men plant trees." To neglect today for tomorrow surely reflect a treacherous sentimentalism; but to shape the present for the future by the surplus of thought and purpose which we now can muster seems the very expression of the idealism which underlies such social coherence as we presently achieve, and without this idealism we see no worthy meaning in our lives, our institutions, or our culture.

組織と貢献

*『組織と管理』「組織の概念」より

私が『経営者の役割』を執筆する際に到達した組織の概念は、時間的な連続性をもつ活動および相互作用の統合的集合体という概念であった。したがって、私は、組織とは人々の集団で構成されるとする概念を拒否した。つまり、ある明示的な目標や目標群に関してその行動が調整されている人々のある程度限定されている人々の集団から構成されているものが組織だとする概念を私は拒否したのである。そして、それと反対に、出資者、供給者、それに得意先や顧客の活動を、組織の中に含ませたのである。したがって、組織の質料は個人的貢献活動、すなわち組織の目的に対して貢献しようとする活動である。

The conception of organization at which I arrived in writing The Functions of the Executive was that of an integrated aggregate of actions and interactions having a continuity in time. Thus I rejected the concept of organization as comprising a rather definite group of people whose behavior is coordinated with reference to some explicit goal or goals. On the contrary, I included in organization the actions of inventers, suppliers, and customers or clients. Thus the material of organization is personal services, i.e., actions contributing to its purposes.

通常、顧客が組織に対して持っている関係は、従業員のそれとはまったく異質のものだと思われているが、顧客に対する適切な用語で上述の分析をすることができなったことが、読者の混乱を招いた原因であり、読者にとっては、その場合、著者に混乱があるように見えるのである。この点について明確に説明することにしたい。そのことを、(I)顧客が行う購買の行為は売り手の組織の一部であることを示すこと、(II)使用者ー従業員の関係の用語に特定して述べられた誘因の経済は、等しく売り手ー買い手の関係にも適用されることを論ずること、のように2段階にわけて行うことにしよう。

二人またはそれ以上の個人の行為が協働的である場合、すなわちシステム的に調整されている場合には、その行為は、私の定義によれば、組織を構成する。そのような行為はすべて、その機能によって決定されている二つまたはそれ以上のシステムに、同時に所属している構成要素である。したがって、組織のあらゆる行為は、またある個人の行為であって、組織に対する彼の貢献である。……。二つまたはそれ以上の組織のシステムにおいて、一人の人間が行う協働行為が持つこのような同時的な作用が機能することによって、相互のあいだに結合がもたらされ、その結果として複合組織となる。

When the acts of two or more individuals are cooperative, that is, systematically coordinated, the acts by my definition constitute an organization. Every such act is a component simultaneously of two or more systems as determined by its functions. Thus every act of organization is also an act of some individual and is his contribution to the organization. ... This simultaneous functioning of the cooperative act of an individual in two or more organization systems provides the interconnection which results in complex organizations.

組織の中の最も単純なものには、A、B二人の間の財の交換がある。……、多くの場合、交換は協働であるとは考えにくいであろう。しかし、ちょっと考えてみればわかるように、両当事者の行為は相互に依存しあっており、相互関連的であるから、交換は、取り引きを成立させる合意、すなわち双方の行為の調整、に基づいているのである。この特殊なケースのはかない線香花火のような性格に惑わされてはならない。……、そのような協働によって交換されるものの間の関係の総体は経済学の主題であり、そしてまた、そのような行為の総体は、少なくとも部分的には、安定した単位組織および複合組織を構成しており、協働についての研究の主題なのである。

究極的分析という意味からいえば、組織は協働行為の合成体である。そのような行為の集合体のある種のものは、名前の付けられた組織として取扱い、種々の仕方で分類すると便利である。……。特定の組織をそれとして確認すること、そしてそれらを分析的に分類すること、これらは意図されている目的あるいは便益ー通常、その組織は(表向き)何をする組織か、その組織の最も安定的な貢献者は誰か、ということーに応じて行われるものである。……。組織を弁別し、名前をつける際に、何かの特性に強調をおくあまり、ある種の協働行為が除外されるようなことになってはならない。百貨店は従業員の集団であり、物的な設備であり、商品の溜まりであると考えることもできようが、それでもやはり、顧客の協働行為があるために、それはであり続けるのである。

ここで論じているのはアナロジーではないことに注意されたい。私は、顧客の扱い方が従業員のそれと類似していると言っているのではない。私の用いている組織の定義では協働行為の本質は両者において同一である、と言っているのである。そして、そのような行為を引き出すのに必要な行動の本質もまた、経験によって示されるように、同一である、と言っているのである。私は、ずっと以前からこれを確信している。「俗な言葉」で言えば、「従業員」と呼ぼうと「顧客」と呼ぼうと、人間の本性は人間の本性なのだ、ということである。……。相違しているものと見られていたものが同じものであることが明らかにされ、そして、それらを取り扱うプロセスが違うものだと多くの場合に思われていたのに、やはり同じものであることが確証されるならば、それは知性の力における偉大な進歩である。そのことが、ここで、私の定義した組織の概念によって達成されているのである。そして、この概念は認識される事実に基づいているのである。

Note that we are not here dealing in analogies. I do not say that the treatment of customers is analogous to that of employees. I say that the nature of the cooperative acts is the same in both cases under the definition of organization I am using; and that the nature of the behavior required to elicit such acts is the same, as shown by experience. I have long believed this. The "horse sense" way of saying it is that human nature is human nature whether you call it "employee" or "customer." ... It is a very great gain in intellectual control when it can be established that things regarded as different are similar, and that the processes of dealing with them often regarded as different are likewise similar. Here it is accomplished by the concept of organization as I have defined it, and this concept is grounded in recognized facts.

(強調は田中)

非公式組織

*『組織と管理』「世界政府の計画化について」より

「社会(society)」、「共同体(community)」、「非公式組織」という言葉は、ごく一般的な用法ではほぼ同義である。「社会」はおそらく、何らかの意味で共同で生活している集団としての識別可能な存在をともかくも持っている「人々の集団」を強調する。「共同体」は、集団ではなくて、共同の生活と、コミュニケーションを通しての相互依存性とを強調する。共同体は集団に属する人々の間の関係の一般性−それが共同体を社会にする−を表現する。「非公式組織」は、社会集団に含まれる人々の具体的な行動の相互依存性に力点を置いている。それは、社会の機能的側面における規則性にかかわっている。集団が社会であるのは、非公式組織が集団を共同体に仕立て上げるからである。社会は、非公式組織とその結果−共同体、人工物、文化、公式組織−ゆえに存在する。そして、それぞれの社会は非公式組織をもっている、と言ってもよいだろう。

The words "society," "community," and "informal organization," for very general purposes are nearly synonymous. "Society" perhaps puts the emphasis upon a "group of people" who somehow have a distinguishable existence as a group living in some sense in common. "Communty" puts the emphasis not upon the group but upon the living in common and upon interdependence through communication. It express the generality of relationships among the people of a group which makes of it society. "Informal organization" puts the emphasis upon the interdependence of the concrete behavior of those comprised in the social group. It refers to regularity in the functional aspect of a society. A group is a society because it is made into a community by informal organizatiuon. A society is because of informal organization and its consequences - community, man-made works, culture, formal organization; and each society may be said to have an informal organization.

社会の成員間の相互作用が総体として非公式組織を構成する。これらの相互作用は、身体的な接触、肉体的な協働の行為、そして、いくらかは比較的未熟な手段によるが、主に言語、特に口頭の言語によるコミュニケーション、から主として成り立っている。このコミュニケーションという相互作用は、共通のシンボルの、そしてシンボル化された事物についての概念のストックの、開発と使用を伴いながら、観察される事実として、反復的な慣習的方法と様式をとりつつ、発生する。これらすべてから、物事をやる慣習的方法とコミュニケーションの慣習的方法とが生じるばかりでなく、また、態度、物事を見る慣習的方法、事物についての概念の一定のストック、事象とコミュニケーションへの慣習的反応も生じてくる。相互作用の精確な性質は、直接的な観察ではほとんど認識できず、「部外者」の観察に何とか用いうるものがあるとしても、それは総体としての相互作用のうちのごくごく一部分だけである。……。したがってわれわれは、個人的経験によって、またおそらくは、主としてもっと重要で識別可能な非公式組織の結果を通じて、非公式組織のことを知るのである。その結果とは、習俗、習慣、共有の嫌悪感、固執される信念、因習、道徳準則、制度、言語、そして、美術と建築、民謡と民俗、文学、祭式と儀式、などのようなある種の具体的証拠、それに公式組織である。非公式組織の、あるいは非公式組織から生じうる、これら識別可能な客観的結果が、思うに、通常「文化」といわれているものである。

非公式組織の具体的活動の組織的(あるいは社会的)結果がどれ一つとして意志されたものでも、意図されたものでもないのが、非公式組織の特徴である。非公式組織は組織として、無意識的である。生体の生理的過程のたいていが同様にそうであるように、非公式組織もやはりそのゆえにリアルなのである。

It is characteristic of informal organization that none of the organizational (or social) effect of its concrete activities is willed or intended. Informal organization as organization is unconscious. As is similarly true of most of the physciological processes of the living body, it is nonetheless real for that.

非公式組織は、社会の成員の個人的、社会的行動を支配し、その限界を定める。これを説明する根拠はいくつもありえようが、そのうちの二つを挙げてみよう。第一に、社会成員間の相互作用の複雑さが非常に大きいので、それは大部分習慣によって秩序正しく維持されねばならない。重要な関係は、通常、定式化されていなければならない。第二に、コミュニケーションができるかどうか、明白な行動が理解されうるかどうかは、慣習的様式や共通に受容されている規範への適合と、一般に保持されている考え方への順応とに依存している。これらの理由が、外圧による非公式組織の急激な改変に対する社会の強い抵抗の基礎にあると言えよう。急激な改変は、効果的な行動の能力を破壊し、ふとした、即応の反応的コミュニケーションに依存する統一性を破壊するだろう。……。非公式組織のどんな改変を社会が受容可能か、あるいは受容する見込みがあるかは、実践的な問題のうちでも、最も手に負えないものであるとともに、最も熟考を要する問題である。私の見るところ、それが包括的な公式組織を計画するにあたっての最も基本的な問題である。というのは、公式組織がカバーできる範囲は、おおよそ非公式組織の一次的な統一が存在する範囲に限定されるからである。

階層組織と側生組織(公式組織の2形態)

*『組織と管理』「世界政府の計画化について」より

ここで「公式」という言葉は、「形をもった」という形象的・象徴的な意味と、また「明示的に認知された、確立された、世間周知のもとに維持されたもの、その関係が法令、文書による協定、命令、組織図、あるいは組織表によって確立されたもの」という意味において、同時に用いられている。

"Formal" in this context is used simultaneously in the figurative sense of "having form" and also in the sense of "explicitly recognized, established, and maintained of public knowledge, its relationships established by statute, written agreement, order, organization chart, or tables of organization."

公式組織の区別しうる2類型のうち、第一は、自由な合意−相互理解による、契約による、条約による−のタイプである。そのような組織を私は「側生組織」と呼ぶ。第二のタイプは「垂直的」で、関節接合的で、ヒエラルキー的で、階層的である。このタイプに対して、私は通常、「階層的」という語を用いる。

Of the two types of formal organization to be distinguished, the first is that of free agreement - by mutual understanding, by contract, or by treaty. I shall call such organization "lateral organizations." The second type is "vertical," articulated, hierarchical, scalar. For this type I shall usually use the word "scalar."

もしそこにある自由と、特定の合意の一時的性格とが、その状況の下で過度の競争や闘争をもたらしさえしなければ、側生組織のほうが、人的資源、人材、リーダーシップ能力の点からは、したがって間接費の点からは、階層組織よりも一般に安上がりのようである。その理由は、特定の意思決定が、階層組織における場合よりも、いっそう範囲が限定され、具体的行動によりいっそう関連し、抽象的命題にはそれほど関連しないからである。……。このことから、自由な合意による組織の一般システムは、階層組織のそれよりも、本来的にいっそう柔軟で適応的である−システム全体としての適応性はまったく事前に計画できないが−と言えそうである。実際、階層組織による適応はずっと意識的に決定されねばならないので、それゆえに階層組織はいっそう柔軟でなくなるのは事実である。……。このことは、階層組織でしなければならぬ公式的で明示的な意思決定の数は、同じ程度の自由合意のシステムの場合よりもずっと多いということを意味する。……。ここから出てくるもう一つの指摘は、階層組織では、意見や関心の相違が公式的な行政的、司法的過程によって解決されねばならぬ程度がいっそう大きいことである。同じ相違点が、自由合意の組織では、大部分は決定を必要とするまでにはいたらない。……。階層組織は、それを指示する人々の忠誠心に依存しなければならない。まさに忠誠心に、不可欠な権威と規律が依存している。この忠誠心の確保と維持が、少なくとも階層組織のリーダーにとっては、その主要課題である。(A scalar organization has to rely upon the loyalty of those who adhere to it. Upon this the essential authority and discipline depend. The securing and maintenance of this loyalty is a major task at least of its leaders.)……。自由な合意の組織では、たしかに忠誠心の必要性はずっと少なくなり、種類も異なっている。要請されるのは、特定公式組織への忠誠よりも、道徳水準内にある利己心への忠誠である。

階層組織を利用できるかどうかは、ある程度、諸活動の分離とその実効的な組み合わせを工夫するリーダーないし管理者の知的ならびに管理技術いかんである。さらに、階層組織に関する管理技法は、いまだ十分に開発されているとはおおよそ言い難いようである、多くのことが、偶然に発見されうる革新にも依存しているといえよう。
他方、無数の相互作用があって、それらが、単純な相互関係ではあるが、逆に多数の同時的相互依存性をもつような小集団に分離できないような場合には、自由な合意の組織はたしかに大規模にうまくいってきたが、階層組織なら不可能であろう。

経営者教育

*『組織と管理』「経営者のための教育」より

人間関係の理解が必要であることは、経営者にとって第一に重要なことである。というのは、人間関係は、経営者関係、従業員関係、公衆関係および政治関係のエッセンスだからであり、また、多くの場合、科学、技術、法あるいは財務よりもむしろ、人間関係が管理職能の中心領域だからである。

The need of such understanding (understanding in the field of human relations) is of first importance to the executive; for human relations are the essence of managerial, employee, public, and political relations; and, in most cases, there rather than science, technology, law, or finance are the central areas of the executive functions.

強調したい第一点は、人間の側での没論理的行動 (nonlogical behavior) の重要性と不可避性についての認識を教え込むことの必要性である。

知識人の多くは……、没論理的行動は避けられないものであって、すべての人間の行動の大部分を構成しているものであることを認めようとしない。その結果、少なくとも言葉の上で、知的に熟達していない人びとに対して、非難や偉ぶる態度をとらせるようになる。そこに、そのような人びとを、愚かで、ものいえず、動物のようなものであると特徴づける傾向が生じる。個々の人間に対する、あるいはわれわれの社会の本質に対する適切な理解は、そのような態度を取っている人びとには不可能であるように思われる。

次に、人間関係の分野での適切な理解には、一般社会システムの本質に関する教育が必要であると思う。

Next, I think an adequate understanding in the field of human relations involves instruction as to the nature of general social systems.

人間関係の分野の理解に関する私の最後の示唆は、有機体的で進化的なシステムとしての公式組織についての教育がなされるべきであるということである。現時点においては、そのような組織についての、われわれのもっている「ノーハウ」とは区別された意味での公式的知識は、仮説的であって限られたものであることを私は知っている。しかしながら、公式組織における場合を除いて、誰も経営者ではありえない—単なるリーダーなら別であるが—ということは事実である。すでに、そのような特定の社会システムについて、多くのことを教えうることも事実である。

My last suggestion with respect to understanding in the field of human relations is that there should be instruction about formal organizations as organic and evolving systems. I am aware that at the present time our formal knowledge, as distinct from our "know how," of such organizations is tentative and limited. The fact remains, however, that no one is an executive, as distinct from a mere leader, except in formal organizations. The fact also is that already a good deal can be taught about such specific social system.

これに関連して、私が有機体的進化的な社会システムとしての公式組織を強調する理由を明らかにしておきたい。それは、われわれがそのようなシステムについて、性懲りもなく、生物学的な類比よりもむしろ機械的な類比で考えているということである。……。そのために組織をば、生きているもの、成長しなければならないもの、そして、そのなかに含まれている人間諸力の均衡状態の変化とともに絶えず前進したり後退したりするものとしてではなく、機械のように静態的で固定的なものと見做す結果になる。

In this connection I should like to make clear my reason for emphasis upon formal organizations as organic and evolving social system. It is that we persistently think about such systems in terms of mechanical, rather than biological, analogy. ... It results in regarding an organization as static and fixed, like a machine, instead of something that is living, that has to grow up, and that is ever progressing or regressing with changing states of equilibrium of the human forces involved.

たしかに、現代の経営者の抜群に重要な困難の一つであると同時に、最も重要な制約の一つは、彼だけが理解しているのかもしれない複雑な情況に関する諸事実を、文章で、会議で、あるいは相当の人数に対する演説で、わかりやすく表現することがうまくできないことである。私の見るところ、社会はこの事実のために大いに損害をこうむっている。

関係がますます複雑になってくるので、経営者がやっていること、やっていると考えていることを説明することが、そしてまた、ある分野の活動の、他の分野との関係における説得力ある理由付けが、ますます要求されるであろう

私が力点を置きたいと思うこの問題のもう一つの側面は、いっそう困難である。一つのレベルにおける思考を他のレベルの思考に翻訳し、あるいは変換することが、ますます経営者に要求されるであろう。このことを常識的に言えば、経営者は自分自身の観点からみて最も便利で適切である言葉ばかりでなく、他の人びとの言葉や他の人びとの観点からも、考えることを学ばなければならないということである。

Another aspect of this subject on which I would lay emphasis is much more difficult. It will be increasingly required of the executives to transfer or transform thinking on one level into that of another. The common-sense way to say this is that executives have to learn to think not only in the terms which are more convenient and appropriate from their own point of view but also in terms of other men and from their points of view.

日常的業務においては、最も徹底的な分析によってさえ説明できないような情況が無数にある。ますます責任ある人びとは、一要因の変化が多くの他の要因を変化させ、そして、望ましい一つの結果だけではなく、望ましくない他の諸結果をも潜在させているような情況を、取り扱っているのである。私の知る限り、それゆえに多くの経営者が直面せざるをえないジレンマに対しては、十分な注意が払われていない。

In everyday affairs, there are innumerable situations whose characteristics are not explainable by the most thorough analysis. More and more, responsible people are dealing with the situations in which the change of one factor changes many other and there is not only potentially one effect which may be desirable but others which may be undesirable. So far as I am aware, adequate attention is not being given to the dilemma in which many executives are thereby being placed.

最後の話題になったが、それは未知なもの、および、不可知なものに対する合理的行動とは何であるかを理解することの必要性である。不幸なことには、教育の過程のみならず、慣習的な行動や平常の理解もまた、われわれが未知なるものや不可知のものの世界に生きかつ行為している程度をいつもあいまいにしている。

I come now to my final topic, which is the need of understanding what constitutes rational behavior toward the unknown and the unknowable. Unfortunately, not only the processes of education but habitual behavior and customary understandings persistently obscure the extent to which we live and act in a world of unknowns and of unknowables.

われわれは十分な知識をもたないで行為しなければならないことが少なくないという実際的事実、また文字通り不可知なものがたくさんあるという実際的事実を、勇敢に強調することは、教育において望ましいことであると思う。私はいま、多くの知識は、たとえ入手可能ではあっても、少なくとも使用に間に合うように入手することができないということを、哲学的な意味においてではなく実際的な意味において、言っているのである。

I believe it is desirable in teaching to give courageous emphasis to the practical fact that we often have to act without sufficient knowledge and that there is much that is literally unknowable. I am speaking now not in the philosophic sense but in the practical sense, that much knowledge, even if potentially procurable, at least cannot be obtained in time for use.

そして、最後に、この同じ関連において、社会的集団の大抵の行動は自動的ないし自律的である、という事実が強調されるべきである。このことは、起こる事柄は、上からの指示によるのではなくて、人びとの間の相互作用の「自発的」結果である、ということを意味している。このことの実践的な意味は、人びとはわれわれが適切な方法だと見なすやり方で集団的に行動するように、(訓練、教育およびその他の方法によって)、条件づけられるかもしれないということである。この方法について適切な配慮が払われるときには、特定の命令を下すことができるだけの十分な知識を経営者がもてないような領域において、経営者は、相当の確信を持って、権限を委譲するかもしれない—たとえ別の意味では命令を発することが実際的であったとしても。これは、おそらく、関係する諸事実—それらは、全体として未知のものであり、また実際、個々の経営者によっては知ることができない—を取り扱うあらゆる組織の方法の中で、最も効果的なものであろう。

And, finally, in this same connection, emphasis should be placed upon the fact that most behavior of social groups is automatic and autonomic. I mean by this that what occurs is not directed from above but is the "spontaneous" result of interaction between people. What this means in practice is that people may be conditioned (by training, education, and many other methods) so that they collectively behave in what we regard as an appropriate way. When proper account is taken of this method, the executive may delegate authority with considerable confidence an areas where he could not have sufficient knowledge to permit giving specific orders, even if it were otherwise practical to issue them. This is probably the most effective of all organization methods of dealing with the relevant facts, which as a whole are unknown and, indeed, unknowable by any individual executive.

集団行動における審美的・道徳的感覚

*『経営者の哲学』「産業研究のなさるべき組織の諸側面」より

(集団心理のもう一つの側面)それは、ベイトソンによって「徳性的 ethological」と名付けられた側面であり、倫理的であるもの、すなわち、倫理的か、道徳的か、あるいは審美的ですらあるものに対する感覚とともに、目的あるいは手段としてふさわしいもの、ふさわしくないものに対する感覚に関係している。ここでは、それは、何が目的に対する有効な手段であるかを、何らかの種類の論理的過程によって決定するという問題でなく、手段か目的かのいずれかを、それが「よくない」と思われるので拒否する、あるいは逆に、そのいずれかを、それが「道理にかなっている」ので受入れる、という問題である。

I now turn to another and perhaps even more important aspect of group psychology. It is the aspect termed by Bateson the "ethological," having to do with the ethical, the feeling for what is appropriate or inappropriate either as an end or means as well as for what is ethical or moral or even aesthetic. Here it is not a question of determining by any kind of logical processes what are effective means to ends, but of rejecting either means or ends because they seem "wrong, " or conversely, in accepting either means or ends because they "make sense."

私は、拙著『経営者の役割』の第17章で、経営者達が一般にしばしば悩まされる「道徳準則の対立」と私が呼んだものについて、かなりくわしく取り扱った。それ以来、私は、環境や仕事の物的情況が、同じような立場にはいない人びとには生じない道徳的義務感を、どの程度負わせるかについて、改めて観察しようとしてきた。そういったなかでみてみると、明確な命令や厳格な規律がなければ、明らかに生命の重大な危機がおこるような情況のもとで働いている人たちは、きびしい制裁によって必要な規律が支えられなければならないことを、知的感覚としてよりも、情緒的、道徳的感覚として正しいとみなしている。

雇用の条件から生まれてくる道徳感は、工具製作者のような熟練機械工とか、ダイアル電話交換局を保守する熟練電気工のような場合に比較的敏感に示されるが、この場合には、間違った、不注意な、効果的でないやり方で仕事をすることは、ただ単に技術の問題であるというよりは、むしろ情緒的ないしは道徳感の問題である。とにかくあらゆる種類の仕事において、これはおそらく、言語的抽象化のレベルよりも下にあるような、情況についての知覚や感覚の作用であり、理解されるよりはむしろ感得される事柄でありながらそれぞれの具体的情況を現実にかたちづくっている一部なのである。

The moral sense that grows out of the conditions of employment is more subtly demonstrated in the case of expert mechanics such as tool makers or expert electricians such as those who maintain dial telephone offices where doing things the wrong or the careless or the ineffective way is not merely a matter of technique but rather a matter of emotion or moral sense. In all kinds of work this is probably a function of those perceptions and feelings of situations which lie below the level of verbal abstractions, the things sensed rather than understood, that are real parts of each concrete situation.

徳性的な感覚の領域の一方の極では、何が正しく、何が正しくないかは、道徳律もしくは道徳準則、および倫理システムの理論的説明が明示しているものにもとづくようになる。その対極では、これらの感覚は、本質的に何が適切で何が適切でないかという情緒的感覚でしかないものである。

At one end of the spectrum of the ethological sense, what is right and wrong becomes subject of explicit statement in moral law or code and of rationalization of ethical systems. At the other end they are merely an emotional sense of what is appropriate or inappropriate in itself.

責任と権限

*『経営者の哲学』「ハイネマン著『民主主義における官僚制』」より

まず第一は、公式組織の仕事のたいていは、権限のない責任、権限より以上の責任、あるいは権限を行使しないか権限を当てにしない責任のもとで達成される。責任と権限は無関係ではないが、それらが「同量」(いずれも客観的に測定できないが、両概念に関してこの言葉が意味をもちえるものと仮定して)であるというのは、経験と観察に反する。このことは、組織の「骨格」の部分として公式的権限のシステムの重要性を否定しているのではないし、責任の遂行を刺激するためにも、刺激された時にはそれを抑制するためにも、公式的権限を強調する心理的必要性があることを否定するものでもない。

The first is that most of the work of formal organizations is accomplished under responsibility without authority, or in excess of authority, or without use of or reliance upon authority. Responsibility and authority are not unrelated, but that they are "commensurate" (assuming this word can have meaning with respect to two concepts, neither of them susceptible of objective measurement) is contrary to experience and observation. This does not deny the importance of a system of formal authority as a part of the "skeleton" of organization, nor that there is a psychological necessity for emphasizing it in order both to incite and to retain the exercise of responsibility when incited.

緊急の場合や、決定が多少とも司法的性質をもつような論争や議論を解決する場合を除いて、経験ある有能な管理者は一般に権限を用いることを好まない。恐らく、このような気持ちにさせる最も大きな理由は、命令によって物事を為さしめれば、部下から責任を免除してしまい、行為の知的自由を制約するからであろう。多くの場合、賢明な人は完全な責任を負わせるために、いかなる権限も用いずに責任を果たすことを好む。このように責任を果たす方法は、私たちがリーダーシップによって意味するものの中に明らかに含まれている。最も単純な例としては、セールスマンの場合がある。彼は購入を強いる権限をもっていないが、販売責任を負わされている。

Excepting in emergencies and for the settling of disputes or controversies where decision is somewhat of a judicial character, experienced and effective administrators prefer generally not to use authority. Perhaps the most important reason for this reluctance is that to get things done by command relieves the subordinate of responsibility and restricts intelligent freedom of action. In many instances wise men prefer to discharge responsibilities with no authority whatever in order to impose complete responsibility. Such mode of discharging responsibility is certainly included in what we mean by leadership. The simplest illustration is that of the salesman, who has no authority to compel purchases, yet is held responsible for making sales.

このことから、権限の委任と責任の委任のパラドックスが生まれる。つまり、権限、責任のいずれを委任した場合でも、委任者は権限や責任を免除されたりはしないのである。委任は両者を拡大する効果を持っている。このことは、さもなければ達成できないであろうことを達成するという組織化された努力の能力をある程度説明するのである。委任の効果とは、統制(権限の場合)と、全問題の総計とは区別された特定の問題に対する責任とを軽減させることである(しかし、必ずしも消滅させることではない)。委任者は、権限を委任したり、限定された責任を他の人々と共有したりする事によって、全体的な結果に対する責任を免れはしない。実際、彼が権限を利用したり、責任を果たそうとより一層努めるのは、いずれかの種類の委任によってである。

This leads to the paradoxes of the delegation of authority and of responsibility, namely, that the delegator does not relieve himself of either authority or responsibility, as the case may be; delegation has the effect of increasing both, a fact that in part explains the ability of organized effort to accomplish what could otherwise not be accomplished. The effect of delegation is to diminish (but not necessarily extinguish) the control (in the case of authority) and the responsibility for the specific case as distinguished from the aggregate of cases. The delegator divests himself of no responsibility for the aggregate result by delegating authority or by sharing restricted responsibility with others. Indeed, it is by either kind of delegation that he utilizes his authority or attempts better to discharge his responsibility.

組織と道徳性

*『経営者の哲学』「ビジネス・モラルの基本的情況」より

私は出版後にいたるまで気がつかなかったのだが、この研究からこの講演(田中注:ボストンにあるローウェル研究所で行なった『経営者の役割』のもとになった講演)に関係のある二つの主要な考えが浮かび上がってきた。その第一は、あらゆる公式組織は、社会的システムであり、単なる経済的あるいは政治的な手段的存在とか、会社法のなかに暗に含まれた擬制的法的存在よりもはるかに広い何ものかである、ということである。社会システムとして、組織は、慣習、文化様式、世界についての暗黙の仮説、深い信念、無意識の進行を表現し、あるいは反映するのである。そしてそれらは、組織を主として自律的な道徳的制度たらしめ、その上に手段的な政治的、経済的、宗教的、あるいはその他の機能が積み重ねられ、あるいは、この制度からそれらの機能が発展してくるのである。

From this study emerged two leading ideas pertinent to this lecture, although I was not aware of this until after publication. The first is that every formal organization is a social system, something much broader than a bare economic or political instrumentality or the fictional legal entity implicit in corporation law. As social systems, organizations give expression to or reflect mores, patterns of culture, implicit assumptions as to the world, deep convictions, unconscious beliefs that make them largely autonomous moral institutions on which instrumental political, economical, religious, or other functions are superimposed or from which they evolve.

第二の考えは、経営意思決定は大いに道徳的な問題に関係がある、ということである。疑いもなく、このことを認識するずっと以前から、私はそれを例証するような数多くの経験をしてきたのであった。しかし、私は事実的で論理的な結論に支配されている、技術的ないし科学技術的な性格の意思決定と、価値という比較的明確に感得しえないものを含んでいる意思決定とを、決して区別してはいなかった。しかし、組織における道徳性についてのこのような考えは、組織内部に生じてくる問題であった。

The second idea is that to a large extent management decisions are concerned with moral issues. Undoubtedly long before recognizing this I had had numerous experiences exemplifying it; but I had never distinguished between decisions of a technical or technological character, subject to factual and reasoned conclusions, and those involving a less tangible sensing of values. But this idea of moralities in organizations was one of issues arising within organizations.

人々の間の協働が、彼らの活動からなる公式組織を通して、道徳性を創造するという事実は、1938年には、私にとって驚くべき着想であった。そこに含まれている深い意味の一つは、近代西洋文明が、他の諸文明よりもはるかに、道徳的に複雑であるということであった。この見解は、われわれの社会の驚くほどの秩序正しさと安定性によって確証されているように、私には思われた。もうひとつの意味は、道徳的立場の対立と誤解が、経済的あるいは権力的な利害の対立とくらべて、大いに増加したにちがいないということ、そして正邪善悪に関して欲求不満、混乱、および不安が、たしかに増大したということであった(frustrations, confusions, and uncertainties with respect to right and wrong surely were magnified)。

私は、道徳的行動とは、私利私欲や、個々の情況のもとで特定のことをするか、しないかの意思決定の直接の結果に関係なく、何が正しいか、何が間違いであるかについての信念ないしは感情によって支配されている行動、と考える。

I mean by moral behavior that which is governed by beliefs or feelings of what is right or wrong regardless of self-interest or immediate consequences of a decision to do or not to do specific things under particular conditions.

現在のたいていの具体的なビジネス行動は、直接的に個人的利益にかかわるものではなく、むしろ道徳性は、「組織に望ましいこと」、「社会の利益」、法律の諸規定に関連している。個人的利益は関係がないという事実ゆえに、多くの人々は、組織の利益を固守すること、法廷におけるように正しい手続を固守すること、が技術的なものとはならず、今述べたような意味で道徳的なものとなる、ということを認識しそこなっている。

完全主義の基準は道徳的行動の有効な評価尺度ではないということである。道徳的理想が、具体的情況における行動に即して表現されるよりも、むしろ一般的に表現されるときには、それは必然的に抽象的になり、達成度はとうていその理想に及ばないであろう。達成できないことが不道徳の証拠であることを意味するのではなく、道徳的達成は、部分的には、さまざまに変化する具体的情況に依存していることを意味している。あるいは、このことから道徳から逸脱しようとする「誘惑」の程度が考慮されなければならないということを言っているのにすぎないのかもしれない。問題は、道徳的過ちがなされるかどうかではなく、それがなされた時、謝罪、後悔、あるいは自責の念をもって、それを不道徳であると認めるかどうかである。

a perfectionist standard is not a valid criterion of moral behavior. Moral ideals, when expressed in general terms rather than in action in concrete situations, are necessarily abstract, and attainment may fail far short of the abstract ideal. This does not mean that failure is evidence of immorality, but that moral achievement is in part dependent on concrete conditions which vary widely. this is perhaps only to say that the degree of "temptation" to deviance must be taken into account. The test is not whether moral error is committed, but whether when committed it is so recognized with accompanying apology, regret, or remorse.

第二に、組織行動がより一層道徳的となるにつれて、道徳諸原則のあいだだけでなく、これらの原則と、技術的(会計、財政、法律、組織にかかわる)および科学技術的性格の諸原則のあいだの対立もまた、ますます多く出てくるであろう。

最後に、そしておそらく重要なことは、明らかに道徳にかかわる用語がビジネスや行政の実務においてそれほど認められていないという事実である。最も多く使用される用語は、「忠誠心 royalty」、「責任 responsibility」、「義務 duties」、および「責務 obligations」である。このような用語はあいまい(たとえば責任は道徳的内容が何ら含まれていないといってもよい「法的責任 legal liability」を意味するのにしばしば用いられるように)であるけれども、それらは事実、道徳的意味合いをもっている。これらは一般に使用されている用語なので、私は以下において、より便利な、そしてまたおそらく議論を一層分かりやすいものとするのに役立つものとして、「道徳」ないし「道徳性」の代わりに、これらの用語を大いに使用していくことにしよう。

Finally, and perhaps more important, is the fact that explicitly moral terms are not much admitted in business or public affairs. The terms most used are "loyalty," "responsibility," "duties," and "obligations." Though such terms are ambiguous (e.g., "responsibility" is often used to mean "legal liability" where no moral question may be involved) they are in fact loaded with moral implications. These being the term currently used, I shall from here on largely use them instead of "moral" or "morality" as being more convenient and as lending themselves perhaps to more easily intelligible discussion.

明らかにそれら(ビジネス・モラル)は複雑であり、あるものは他のものから全く独立し、またあるものは密接に関連し、相互依存的であり、かつ、それらの大部分は評価できないものである。しかし、それらのあいだには多くの不一致と矛盾があり、それゆえに責任の対立は協働的努力の特徴的な情況であることは、あえて考えるまでもなく明らかである。

異なる道徳性の組み合わせが同時に効力をもつとすれば、倫理的対立、つまりは忠誠や責任のジレンマが起こりそうなことは、経験が示し、あるいは注意深い思索や想像からでさえわかることである。このような事態は、たしかに実務の世界における意思決定の特徴である。しかし、その本質は、「パーソナリティの葛藤」、(経済的、政治的、あるいは威信の)「利害の対立」などと描写されるレッテルによっておおい隠されている。それはまた、対立する責任を果たそうとする苦闘を包み込んでいるプライバシーによっても覆い隠されている。

第一は、効力をもつほとんどの道徳体系は、十戒あるいは山上の垂訓とは異なり、明確に定式化されたり、規約化されたりしてはいない、ということである。それらは、明白な行為(あるいは禁止)か明白な(すなわち、言葉で表現される)意思決定によって明らかとなるような「感情」ないしは「態度」である。このことは、道徳情況の理解には大きな困難が伴うことを示唆する重要な事実である。それは、……、道徳が多くの点でプライベートなものであると感じられ、公然と発表することが適切でないか、あるいはふさわしくない、という事実にもよっている。

ビジネスにおける諸道徳の観点からみた、行動に対するきわめて難しい判定は、責任の対立ゆえに生じる。ビジネスのなかでは、このような対立はめったに認識されることもないし、あるいはそのようなものとして表現されることもないけれども、ほとんどあらゆる道徳問題は、事の大小を問わず、そのような対立から生じるのである。

The most crucial testing of behavior from the standpoint of morals in business comes from conflicts of responsibility. Almost every moral issue in matters both large and small arises from such conflicts, although in business they are most frequently not recognized, or at least not expressed as such.

道徳的行動の規模と複雑さがこのように増大したのは、第一に、増大した専門化、とりわけ経済的諸活動や実利主義的目的のために用いられる機械や器具における増大した専門化の結果である。現に必要とされる技術的知識と専門化された経験から生じる技術的スキルに対してはますます注意が払われている。これらの諸活動に含まれる道徳的要因は、ほとんどまったく無視されているように思われる。しかしながら、専門化された諸活動の重荷が果たされるに際しての信頼性と、われわれがそれを担う人々に帰する信頼性とは、現代文明の最も基本的な側面をなすものである。

このことは、現代のきわめて重要な問題の一つに関して一層の重要性を帯びてくる。すなわち、イニシアティブと実際に責任ある行動とに欠くことのできない分権化と自律化の度合いを確保しながら、どのようにして諸活動の巨大なシステムに欠くべからざる程度の調整を確保するかという問題である。信頼できる行動をなしえない人々に局地的な意思決定を委ねられないことはほとんど明らかである。とはいうものの、もしそうできなければ、広大な領域にわたって適切な行動を確保するという、集中化された権限に課せられる負担は、事実上、遂行不能な負担である。統制の範囲は非常に限られているので、専門的な訓練方法と適切な観点の教導にもかかわらず、われわれが広く「責任感」と呼ぶ道徳的感覚の発達—それが教え込まれたものであろうと自発的なものであろうと—がなければ権限は十分に作用することができないであろう。責任は恣意的に委任できないのであり、それゆえに、責任が進んで受入れられない限り、高度に有効な自律的行動は確保しえないのである。そのように受入れられるとき、効果的な自律的行動の可能性が実現されるのである。

This matter takes on increasing importance with respect to one of the crucial problems of our times: how to secure the essential degree of coordination of a vast system of activities while securing the degree of decentralization and autonomy essential to initiative and, indeed, to responsible behavior. It is almost obvious that those who are not capable of dependable behavior cannot be entrusted with making of local decisions. Yet, if this cannot be done the burden placed upon centralized authority for securing appropriate behavior over vast areas is in fact an impossible one. The span of control is so limited that despite methods of specialized training and the inculcation of the appropriate points of view authority could not sufficiently operate if it were not for the development, whether inculcated or spontaneous, of the moral sense to which we broadly given the name "sense of responsibility." Responsibility cannot be arbitrarily delegated and, therefore, a high degree of effective autonomous behavior cannot be secured except responsibility is freely accepted. When so accepted the possibility of effective autonomous behavior is realized.

この主題の強調に値する別の側面は、それが専門化された組織における内部からの、そして外部へのコミュニケーションの重要性を指摘している。ということである。いくたびとなく私にとって明らかになったことであるが、一般の人々の誤解の原因は、専門化された諸活動の中に含まれる道徳的要素への正しい認識が欠如していること、これらの道徳的要素がなんであるかを部外者に伝えることが極度に困難であることに主として依存している。


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