書評:竹内貞雄著『企業管理と情報技術
−現代企業システムの物象化論−』
(ミネルヴァ書房)

福井県立大学・経済学部 田中求之


以下の文章は『地域公共政策研究』第2号(2000年)に掲載された書評の原稿である。掲載時の文章とは多少異なる部分がある。

2000年12月19日更新


今,情報技術こそが現在の日本経済の行き詰まりを打開する救世主として持て囃されている。「IT投資により,B2CにおいてはCRMを,B2BにおいてはSCMを,そして社内においてはKMを実現する」といった文章がビジネス誌で踊り,これが意味不明の文字の羅列に思えるようでは現代の経営者としては失格である,というのがあながち冗談とも言えない状況にある。こうした現在において,情報技術の進展が我々人間の在り方にどのような変容をもたらすのかという根本的な問いに正面から取り組んだ書が,竹内貞雄氏の『企業管理と情報技術』である。副題に「現代企業システムの物象化論」とあるこの書は,『経済学批判要綱』と『資本論』のマルクスの疎外論と物象化論を拠り所にした,情報システム批判の書である。

3部構成で全10章からなる本書では,企業におけるME機器や情報機器の意義を中心に,サイバネティクス,ネットワーク組織論,自己組織化,リエンジニアリングといったテーマが批判的に検討されている。様々なテーマを扱いながらも,氏の視点は一貫している。その視点とは,現代の情報化の進行とは資本による物象化の進展,および資本による我々人間の包摂の深化に他ならないということである。

マルクスは『資本論』において「機械装置は,そもそもの初めから,資本のもっとも固有たる搾取領域である人間的搾取を拡大するとともに,搾取度をも拡大するのである」(1)とし,機械装置を用いた大工業では「工場では労働者が機械に奉仕する」(2)と述べ,生産過程に機械装置が持ち込まれることによる労働の疎外の深化を告発した。竹内氏は,このマルクスの認識を引き継ぎながら,現在のME機器・情報機器の本質を管理機械として把握する。マニュファクチャや初期の機械制生産過程に含まれていた労働者に対する管理機能が,固有の物的実在を得たものが情報機器=管理機械に他ならないのであり,それは人間の精神的労働(頭脳労働)までもの資本による包摂を実現する装置なのである。人間の意識や自由にまで踏み込んだ資本の包摂が完成するのが高度情報化社会であるというのが氏の認識である。

また,もはや誰もがコンピュータを電子計算機とは呼ばなくなったことに現われているように,現代では,コンピュータはインターネットに代表されるコミュニケーションの手段(媒介=メディア)として存在している。最近の企業の情報投資は電子商取引などの企業内外のコミュニケーションシステムの確立と高度化に向けられている。竹内氏は,この状況を,媒介のシステム化であり物象化の高度な形態として捉える。我々は常に何らかの媒介を通じて客体たる世界=自然に関わるわけであるが,資本の論理が社会の様々な領域に貫徹していく中で,コンピュータという機械が媒介として大幅に介入し物象化が深化することによって,媒介=機械が逆に我々を包摂し,我々はそうした機械の生み出すシステムの内部に取り込まれ,主体性を喪失してしまっているというのが,氏の現状認識である。こうした状況を氏は「媒介的構造化」と呼ぶ。媒介的構造化によって,我々は主体性(それは確固たる客体に働き掛ける実践主体であることに根拠をもつ)を喪失し,対象は仮想化し,他者は物件化する。こうした「情報化と消費化を通じて全般的な媒介的構造化した管理状況が成立し始めているといえる」(p.172)という認識を,主体−客体−媒介の3者が織りなす人間形態の歴史的変容のパースペクティブの中で論じた「情報化の展開と人間状況の変容」(9章及び10章)は,氏の情報システム批判理論がもっとも明確かつ体系的に述べられた,本書の中心となる章である。

このように,本書は,情報機器を管理機械として把握し,資本の論理によるその普及が媒介的構造化をもたらすという観点から,現代の企業における情報機器導入が批判的に検討されている書である。

では,こうした資本による全面的な包摂,媒介的構造化に対抗するにはどのような戦略があるのか? この問いに対して竹内氏は,物象化批判による我々自身の状況認識の深化を通じて新たな道を探る必要性があるとは述べるが,直接の答えは述べていない。その点で,本書は問題提起の書にとどまっていると言えるであろう。しかし,氏が克服のための道をどの方向に見ているかを読み取ることはできる。たとえば第8章「情報共有化と共同性の可能性」において,今井・金子のネットワーク組織論とその情報概念を批判的に検討している中に次のような記述がある。「新しい<自主的共同化>があり得るとすれば,それは資本の論理=物象化への徹底した批判を通して,具体的人間関係の形成による<共同化>の実践により,資本の論理を離脱するところに見出されるであろうし,そのとき情報形態も,それに適合的なものとして生まれ変わっていくであろうと考えられる」(p.153)。「具体的人間関係」あるいは「資本の論理の離脱」という言葉に現われているように,氏は,媒介的構造化のオルタナティブを,資本の外部での無媒介的な人間関係の回復に見ている。この個所に限らず,無媒介性への郷愁と自律主体性への希求は本書全体を貫くモチーフであると言ってもよい。

疎外とは,もともと自分が持っていたものが自分から失われ外部のものに転化することであり,物象化とは,人と人との関係が物の関係に転化した上で我々を逆に拘束し始めることをいう。それゆえ,疎外論および物象化論は,その根本において,我々自身の本質的なものが,その本来性を失って堕落させられている,という批判になる。我々は失楽園に生きているというわけだ。このことからすれば,氏が,現在の状況のオルタナティブを資本の論理の外部に無媒介的人間関係を回復させることに求めるのは当然とも言えよう。こうした批判が,現状を相対化し,批判的に検証するための有効な足場を与えることは否定できない。しかしながら,無媒介的な関係,あるいは十全なる人間といった疎外論・物象化論が拠りどころとする「本来の姿」そのものが一つの仮象に過ぎないこと,極論すれば「人間」なるものが近代の産物に他ならないこと,資本の論理の外部なるものが差異に基づく価値増殖を原理とする資本そのものによって生み出された幻影に過ぎないこと,このことが明らかになったのが20世紀ではなかったのだろうか(3)。

それゆえ,現在の我々が<システム−内−存在>なのだとしても,そのシステムの外部を無垢に希求するのではなく,今ここの実践の場面において,システムの内部に走る亀裂や事件に反応することこそ唯一有効な戦略なのではあるまいか。仮想化しシステム化されたコミュニケーションであっても,コミュニケーションであることには違いがないのであり,その実践においては紛れもない他者性に遭遇する場面はある。それは他者のおぞましさや不気味さの露呈という経験ではあるが,このような,実践の場面において我々を出し抜けに襲う事件(現象を突き破って物質性が介入する場面)に対して目を背けずポジティブに反応し自らの変革の契機としていくことこそ,唯物論的なオルタナティブへの戦略ではないのか。この点からすると,能天気な先祖返りを謳うものではないとはいえ,氏の態度はあまりに観念論的で,愚直なまでに労働価値説に固執している気がしてならない(4)。

とはいえ,この書が我々に投げ掛ける多くの課題の意義は無視できるものではない。現在の不況の元凶ともいうべきバブル経済とは,原理的な反省を忘れて誰もが資本の論理に躍らされた結果生じた事態であるとも言える。その意味で,昨今の情報技術を巡る事態が,バブル経済同様の無反省的暴走の萌芽になる危険がないとは言い切れない。このような現在を批判的に反省する足がかりとして,本書は有効である。

最後に補助線を一本引いておく。高度情報化社会=コンピュータ化社会を論じるにあたって竹内氏がマルクスを持ち出してくるのを時代遅れと感じられる方には,今一度『資本論』を読み返していただきたいと言っておこう。『資本論』第1巻の12章及び13章において,マルクスが機械化された労働過程の特質を論じるにあたって参照し引用している文献としてバベッジ『機械装置および工場の経済について』(5)を見出せるだろう。この文献の著者であるバベッジとは,差分機関,分析機関の考案者にしてコンピュータの父と称されるチャールズ・バベッジに他ならない。バベッジが,差分エンジンの実用化にあたって直面した様々な問題をもとに,機械が生産過程にもたらす効果について実証的かつ理論的に論じた書が『機械装置および工場の経済について』である。この書では,現代の情報産業に見られる問題点,たとえば社会的陳腐化,先行者利得,あるいは知的所有権保護の必要性といったテーマがすでに論じられている。この書に対峙しながら,マルクスは機械装置が労働過程に及ぼす疎外の問題を論じたのである。つまり,マルクスは,コンピュータをも含めた機械が労働過程に及ぼす影響の原理的な帰結を,バベッジの書を通じて見据えた上で,『資本論』を書いたのだ。竹内氏の企業情報システム批判と最近のマスコミに見られる情報技術救世主論の対峙とは,マルクスとバベッジの対峙に他ならないのである。

注:

(1) マルクス,K,向坂逸郎訳『資本論』,岩波書店,503ページ

(2) マルクス,K,向坂逸郎訳『資本論』,岩波書店,536ページ

(3) たとえば,ミシェル・フーコーの権力論は,我々の主体性,身体,性といったものが,権力のミクロな作用の網の中で形成されてくる,歴史性を帯びた一つの形象であるということを明らかにした。そして,それゆえにこそ,主体性や性は,まさに戦場に他ならないことを我々に告げたのであった。あるいは,竹内氏と同じようにマルクスの『経済学批判要綱』を足がかりにして現代資本主義批判の運動を展開している思想家としてアントニオ・ネグリがいる。ネグリは,資本が今や社会の諸領域を包摂し,コミュニケーションの世界をも価値増殖が包摂したという認識にたつ点で,竹内氏の議論と通底するものを持っている。しかし,ネグリは,社会が全面的に資本に包摂された状況とは,あらゆる領域において階級闘争が新たに構築されることであるとして,運動を展開しようとする。

(4) たとえば情報機器の社会的陳腐化(マルクスの言う道徳的摩耗)は,相対剰余価値の実現ではなく特別剰余価値の実現という観点から捉えなければならないはずだが,氏はマルクスの相対剰余価値に実現の枠組みに固執する余り本質を逃しているように思える。

(5) Babbage, Charles, The Economy of Machinery and Manufactures,1832, http://www.ecn.bris.ac.uk/het/babbage/index.htm