福井県立大学・経済学部 田中求之
Last Modified: November 09, 1999
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このLinuxの例に限らず,コンピュータのネットワークにおいては,ボランティアによるコミュニティがあちこちに生まれている。インターネットが普及する以前の代表的なコンピュータ通信であったパソコン通信においても,人々は会議室あるいはフォーラムという場において,自発的に様々な情報交換やサポートを行い,コミュニティを形成するということが見られた。単にボラティア意識を持った人々が集まっているのだという理由では説明できない要因が存在していると考えられる。インターネットの普及は,こうした人々のボランタリーな組織活動を,世界的な規模で可能にしたわけである。
そこで,本論では,ネットワークの会議室をとりあげてコンピュータによるコミュニケーション(Computer-Mediated Communication,以下CMCと略記)という環境の持っている特性とそれがコミュニケーションに対して与える影響を整理するとともに,その場において自発的であることがもつ意味を明らかにする。
ここでは,Webにおける会議室を取り上げて論じることにする1)。掲示板あるいはBBS(bulletin board system)と呼ばれるものである。これは,インターネットが普及する前に広まっていたパソコン通信において多対多のコミュニケーションをはかるのに用いられていた仕組みでもある。基本的な仕組みは,発言を書き込むと,それがブラウザで誰もが参照できるようになり,また自由にコメントがつけられるようになっているというものである。簡単にいえば,一つのファイルに,みんなが順番に書き込みを行っていきながら,意見の交流をはかるものである。たとえば,以下は,筆者が4年間にわたって運用している,パソコンによるインターネットのサーバ運用に関する会議室の中の発言のひとつである。
タイトル:サーバの保守の際どうしてますか? 発言者:SAWANO ------------------------------------------------------------------------ PowerMac6100,WGS7250,Server G3の3台でサーバを組んでいます。 落ちることも年に数回と安定しているのですが・・ ふと考えました。 ハングアップの際は当然サーバは止まるでしょうが,OSゃアプリの バージョンアップ,保守作業等でサーバを止める時がありますよね。 私の場合はほとんど30分以内,最長で2時間以上止めたことはないので, エイャッとやってしまうのですが・・ こういう態度でよろしいのでしょうか? インターネットの世界にかかわる者としての心構え 皆さんの具体的な対応策などご教授くだされば幸いです ------------------------------------------------------------------------ 田中求之 さんからのコメント 私は,平気で,保守中は落としてます。短いと30分,長いときには数時間 止めてますね。 新しい CGI の導入時には,ストレステストなども行いますので,どうして も止めている時間が長くなりますし,また,頻繁に再起動を繰り返すなんて こともあります。 たとえば電子商取引のように,つねに利用できることが求められるサーバで あれば落とすことがあってはならないと思いますが,このサイトのように, 一刻一秒を争うような情報とは無縁の場合は,管理者の判断で落としても よいと思います。落ちることよりは,落とすことの方がまだましですから。 もっとも,イントラネットなどで業務に結びついているサーバの場合には 落とすタイミングが難しいということはありますね。 ------------------------------------------------------------------------ Dr.シバイタロカ さんからのコメント 私の場合,サーバーと全く同じ構成のサーバーをもう1台用意し,そっちでテスト を行ないます。でもってうまくいったらそっくりリプレースしてます。 サーバーのダウン時間はほんの数分です。リプレースごうまく動かなくても 古いサーバーに戻せば前の環境で使えます。 ------------------------------------------------------------------------ SAWANO さんからのコメント ありがとうございます 参考になりました
このように,誰かが書き込んだ発言に対して,意見や情報を持っている人間がコメントを書き込んでいく,という形でコミュニケーションが進行する。発言にあたって匿名(ニックネーム)による発言を認めるか,あるいはコメントをどのように表示するかなど,細かい仕様には違いがあるが,現在,インターネット上には無数のこのような会議室が存在し,さまざまな内容のコミュニケーションが行われている。
このような会議室においては,以下のような条件(制約)のもとでコミュニケーションが行われる。
1:発言は非同期で一方向的に行われる
2:書かれた文字によってコミュニケーションが行われる
3:匿名(ニックネーム)による参加が可能
これらの条件がコミュニケーションに与える影響について,順に見ていくことにする。
電子メールがビジネスにおいても重宝されるようになった理由の一つが,この非同期な通信手段であるという点にある。自分が都合の良いときに相手にメッセージを送ることができ,また,メッセージを受け取る側も,自分が都合の良いときにメッセージを受け取ることができるので,電話とは違って仕事などに割り込まれ中断させられることが無いという点が重宝されるわけである。しかも,手紙とは違って,ネットワークさえつながっていれば,世界中のどこにいる人間に対しても,きわめて短時間にメッセージが届く。会議室においても,この点は同じであり,誰もが自分の都合の良いときに参加することができるようになっている。自分のペースでコミュニケーションが行えるのである。対面のコミュニケーションともっとも異なる点が,この非同期であるということだといってもよいであろう。
この非同期であるという条件の持つ意味は,多面的であり,さらにいくつかの条件に分けて考えなくてはならない。
まず,相手と直接に対面していないという点について考えてみよう。このことは,アイコンタクトや身体によるメッセージが一切伝わらないというコミュニケーションのチャンネルが限定されるということも意味するのだが,その点は,後ほど文字だけのコミュニケーションに関する見当の中で取り上げることにする。ここでは,メッセージの受け手あるいはその場に集っているメンバーと対面しないということのもつ意味を考える。
対面状況において,伝えようとする情報が相手のネガティブな反応,たとえば悲しむ,怒るといった反応を引きだすことが予想される場合,たとえその情報に関する責任が自分には一切無く,自分が単なる伝達役でしかない場合であっても,我々は,その情報の与えるショックを少しでも和らげて伝達しようという行動をとる。情報のもつ意味(効果)を少しでも和らげることで,自分は相手のことを気づかっているというメッセージを送るということが一般的に行われる。また,相手がポジティな反応(喜ぶ)を返すことが予想される場合には,我々は自分もまたうれしいといったメッセージを託す行動をとり,この場合は,情報の効果を誇張する方向に行動する。このことは,悲しみを和らげ喜びを増すという人として自然な気遣いというべきものであって,人間関係を保つという点では意味があるのだが,情報の正確さを損なう行為であることには違いない。つまり,極論すれば,情報が相手の感情的な反応を引きだす可能性がある場合には,我々は,伝達に際して,情報の正確さ(情報の意味)を損なうような行動をとるのである。
CMCにおいては,こうした対面状況から生まれるストレスがないため,ストレートな情報伝達が行いやすく,自分が思ったことを素直に言える環境なのである。もちろん,このことは,情報の歪曲が少ないかわりに,感情的な議論を生みやすいという別の側面も持っている。ネットワークにおいてフレーミングと呼ばれる感情的な議論(けんか)が起きやすいのは,このストレートな表現がおこわなれることに原因の一つがあると考えることができるだろう。
相手が目の前にいるときには,たとえ相手が無言であったとしても,我々は何らかの反応を得ることができる。相手が何の反応も示さないということ自体も,コミュニケーションが意図したようには行えなかったことを示すのである。この意味において,対面状況においては,コミュニケーションはそのつど完了するものになっていると言うことができる。しかしながら,非同期のCMCにおいては,相手からの反応が返ってくるまで,コミュニケーションは完了しないまま,宙づりになる。コミュニケーションは,発したメッセージに対する相手からの反応をもって初めて行為としての意味が確定するものであるがゆえに,発言しただけでは,コミュニケーションは完了しないからだ。このため,自分が行った行為の意味を確定できないまま,相手からの反応を待つという状態が長くなるのである。
さらに,宙づりのままの状態を長引かせる理由がある。インターネットのコミュニケーションにおいては,会議室システムに限らず電子メールのような一対一のコミュニケーションであっても,相手が自分のメッセージを読んだかどうかを確定することができないようになっている。このため,意図的に反応をしないという行為としての沈黙と,たとえばコンピュータやネットワークのトラブルが起きたとか仕事が忙しいなどの理由でメッセージを返していないという偶然の沈黙とを,メッセージを送った側からは区別することができないのである。対面状況においても即座に返事が返ってこないことはいくらでもあるが,質疑応答の場合によく見られるように,たいていの場合,30秒とか1分などの適当なタイミングで見切りをつけることが可能である。しかし,CMCにおいては,この見切りをつけることが不可能なのである。非同期であることは,先ほども述べたように,お互いに自分の都合でコミュニケーションが行えるというメリットを生み出しているのだが,そのことが,コミュニケーションを中断したままの状態を生み出すことにもなっている。今日発したメッセージに,いつ反応が返ってくるのか,それは予測不可能なのである。会議室のように,返事を返す相手が特定できない状況においては,このことはいっそうはっきりと現れる。即座に返事が返ってくることもあれば,数ヶ月してはじめてコメントが付くこともあるのだ。
文字だけしか伝わらないということは,対面状況の発言の際に我々が用いている言葉以外のコミュニケーションの手段が全く使えないということである。言葉を発する際の声のトーンやイントネーション,テンポといった,言葉に添えることができる表現は全く使えない。このため,ニュアンスといった微妙な表現をうまく伝えることが非常に難しいという面がある。
さらに,誰が書いたメッセージであっても,文字だけしか残らないということは,メッセージからは発言者の身体や社会的な属性を知ることができないということである。我々が対面でコミュニケーションを行う場合には,相手の年齢や性別,あるいは雰囲気といったことから,発言の仕方や,言葉遣いを変えるということが行われる。また,情報を受けとる場合であっても,どんな人からの情報であるかということが,解釈において大きな影響を与える。こうした相手の印象が,コミュニケーションを継続していくための信頼の確立の手がかりになるわけだが,CMCにおいては,この情報が全く欠落することになる。このことは,言い方を変えるならば,相手がどんな身体的・社会的な特徴をもった人間であるかということにかかわらず,対等にコミュニケーションが行えるということでもある。後で述べる匿名での発言ということと相まって,自由で平等な発言が行える環境になっているという面があることは事実だ。この点をとらえて,新たな民主主義を生み出していくツールとしてネットワークの会議室を評価する人々も,アメリカを中心に多く見られる4)。
書き言葉によるコミュニケーションが行われるということは,コミュニケーションに参加するためには,自分の伝えたいことを言葉にする能力が要求されるということである。もちろん,我々は学校教育によって,基本的な読み書きの能力を身に付けているわけだが,他人に分かりやすい発言というのは,言葉の使い方とは異なるものであり,経験を積みながら身に付けていくものでもある。たいていの場合,分かりにくさというのは,自分が置かれている状況を相対化できず,自分にとって当たり前のことは他人にとっても当たり前であろうという思い込みから生まれてくる。自分とは全く異なった状況にいる人がいること,自分とは異なった感じ方や考え方があるということ,こうした自分とは異なる存在に対する想像力の欠如が,分かりにくさの原因になることが多く,そのことがささいなことからフレームと呼ばれる非難の応酬(けんか)を生み出すこともある。文字だけしか伝わらないということは,その人の言葉を書くという能力が,即座にコミュニケーションに影響するということでもある。
この言葉を書くということに関しては,日本語特有の問題というものもある。というのも,日本語の場合,文中での人称や,語尾の選択に際しては,相手と自分とがどのような関係にあると認識しているかということが重要になる。敬語に代表されるように,日本語の文章は,文章自体がコミュニケーションを行う人々の間柄を表してしまうし,また,コミュニケーションの当事者も,文章に込められた互いの関係のあり方に敏感に反応するものなのである。内容とは別に言い方の時限で反応するわけだ。ところが,CMCの会議室においては,先程も延べたように,相手と自分との上下関係を認識する手がかりが非常に少ない。それゆえ,時として,言い方が「失礼」だというだけで,誰からも相手にされないということが起きる。
このように,書き言葉によってのみコミュニケーションを行うということは,コミュニケーションの相手に関する情報が著しく限定された状況でコミュニケーションを行うということであるが,そのことが,非人格的なコミュニケーションを生み出しているということではないことは明記しておく必要があるだろう。確かに,相手の身なりとか身体的・社会的な特徴を知りえないことから,対面のコミュニケーションの場合に抱くような意味での,相手の印象やそれにともなう識別は行われない。しかしながら,たとえ文章の中では本人に関する情報がまったく語られない場合でも,後で述べるニックネームや,文体,あるいは改行や句読点の使い方の癖といった,書かれた文字の表現の違いで,我々は相手の「書かれた文字に現れている人格」を感じ取り,そこにある種の「らしさ」を感じることができる。そして,その印象をもとに,相手とのコミュニケーションを継続的に行っていくための信頼を築くことさえできるのである。もちろん,そこで生じる相手の印象というのは,実物に直接会って話をしたときに抱く印象とは,大きく異なることが多い。限られた情報を,自分の過去の経験を元に解釈することで得られる印象であり,自分が「作り上げた」ものでしかないからだ5)。しかし,それが実物とどれほど食い違ったものであろうとも,通常は,その食い違いを確かめることはできず,そこに書かれていることだけがすべてなのであり,そこに書かれていることに依ってコミュニケーションが行われるのである。
また,過去の発言が常に参照できるということは,新たに参加しようとした者であっても,容易に経過を知ることができ,その場にふさわしい行動のあり方を学ぶことができるというメリットがある8)。もちろん,時事的な話題の場合には,その発言がなされて直ぐの場合と,時間がたってからの場合では,メッセージが読まれうる文脈が変わってしまう。しかし,ネットワークの会議室の記録というのは,議事録のように記録を目的に整理して書かれたものではなく,テープレコーダの録音のように,その場で交わされたコミュニケーションが,そのまま残っているということなのである。このことは,言い方を変えるならば,場というものが開かれて在ると言えるだろう。また,そこで行われているコミュニケーションそのものも,つねに未来に向けて開かれてあるということでもある9)。つねに未来に向かって未完了のまま開かれた形でコミュニケーションが進行していくのだ。これは,対面のコミュニケーションでは絶対にありえないことである(過去の発言を引き合いに出すことは可能だが)。
書かれたモノとして参照できるということの意義として,もうひとつ,自己反省の契機になるという点を指摘しておく。自分の発言が他者の発言と一緒になって,一つの枠組みの中で読み返されるという経験は,自分の発言から距離をとって反省を促すことになる。たとえ自分自身の言葉であっても,それが活字なりディスプレイ上に表示されるフォントなり,直接編集できないモノとして現れ,かつそれが,先ほど述べたような,他者に見られるものとして在るとき,我々は距離をとって読み直すことができる。そうして,自分の発言のあり方を反省することが可能なのである。対面で話しているときには,録画でも行わないかぎり,自分のメッセージを,相手が受け取ったのと同じように見る(受け取る)ことはできないのであるが,CMCの会議室においては,相手が読む=受け取るのと全く同じ形態で自分のメッセージに向かい合うことができるのである。
コミュニケーションが非同期に行われることによって,CMCでは,発言の際に相手からのフィードバックによって発言を修正していくという経験を積むことができない。そのかわり,自分のメッセージに向き合うことが可能になっているということが,自分の表現を反省的に考えることを可能にしているのである。
まず匿名性について語る場合には,2種類の匿名の形態がありうるということを理解しておく必要がある。一つは,本当の匿名ともいうべきもので,発言者の実生活での氏名などの個人情報が一切明らかにならないことに加えて,個々の発言の発言者の区別すらできないというものである。簡単に言えば,まったく名前を伴わない発言か,ただ「匿名」とだけ記された形で発言が行えるという形態である。この場合には,メッセージを読んでいる人間には,複数の「匿名」による発言が,何人の人間によって行われたものなのかを知ることができないし,もし発言に対するレスポンスを返そうとしても,発言者を名指すことすらできないのである。それゆえ,この形態は,コミュニケーションを行うには向いていない。世間に対して意見や声明を発表すると言った,出版あるいは放送に類する行為において用いられることが多いものである。
こうした,個々人を見分けることさえできない完全な匿名とは異なり,発言者毎の識別だけは可能になる形態の匿名性というものがあり,多くの会議室においては,この方式が用いられることが多い。その方法とは,各自が自分で好きな名前を名乗れるというものである。ニックネームとかハンドルと呼ばれる,その場で自分が自分に付けた名前を使うことができるというものだ。この場合でも,その名によって発言を行っている人間の個人情報は全く明らかにされないことが多い。しかし,名前によって発言者を識別でき,名指しできることによって,少なくともコミュニケーションは行えるのである。ここでは,このニックネームによる匿名性に焦点を絞って論じることにする。
名前というものは,その人を他の人から区別する記号であるが,それと共に,その人がどのような集団に帰属し,どの様な属性を持った人間であるかを表わすものでもある。たとえば,名前から女性であるか男性であるかをたいていの場合は予想できるし,海外で起きた航空機事故の報道の際に良く耳にする「乗客名簿の中に日本人とみられる名前は載っていません」という言葉は,名前で日本人であるかどうかという属性が判別できるということを良く表わしている。また,実生活における名前は,親から与えられたものであり,自分にとっては受け入れるしかないものとしてある。それは,自分の意思の力だけでは変えようがない,生物的,社会的なさまざまな制約を象徴するものであるということができる。このように,名前というものは,他の誰でもない自分というものを指し示すとともに,一定の集団に帰属し様々な要因を制約条件として負っていることを示すという,2つの側面をもつものとして,個人のアイデンティティの核をなしているものである。ネットワークの会議室において自分で決めたニックネームを名乗ることの意味とそこで生じている事柄は,この名前の持つ2つの側面から説明することができる。
まず,名前の個体識別の指標としての機能が完全に機能するようなルールが自然と共有されている。つまり,自分にニックネームを付ける場合には,ニックネームが他人と同じものにはならないように配慮が働くのである。技術的に他人が使っている名前は利用できないようになっている場合もあるが,そういった制約が一切無く,どんな名前を名乗ろうとも自由である場合においても,他人と同じ名前を使わないようにするという行動が見られる。実社会においては,同姓同名というのは決して珍しいことではなく,その意味では識別記号という役割が不十分であるわけだが,名前以外の身体的あるいは社会的な属性によって個体の識別が可能であるため,問題になることはない。しかし,ネットワークにおいては,名前がすべてなのである。このため,他人のニックネームには配慮を払うとともに,自分のニックネームにはこだわりをもつという行動が生まれる。名前とアイデンティティとの結びつきは,実社会以上に強いものだと言っても良いだろう10)。
一方で,名前は自己表現として扱われる。帰属集団や属性を表わすものとして名前が受け取られるということは,名前が言葉として扱われ意味が読み取られるということである。子供に名前を付けるときには,どんな人間に育って欲しいかという願いを込めて名前を選んだり,また他人にあやかって名付けるといったことが行われる。また,占いの一つとして姓名判断といったものがある。これらのことは,名前というものが,単に外面的に付けられた記号ではなく,人の内面に深く根を下ろし,結びつくものとして扱われているということだ。端的に言うならば,名前は意味を持った言葉としても扱われるということである。そして,このことが,自分のニックネームを選ぶ,つまり自分を名付けるという行為によって,自分を表現する手段として名前を用いることを可能にする。自分を名付けるということは,自分の力だけではどうしようもできない実生活における制約条件から自分を解き放って,自分の意志で自分を作るという行為なのだ。自己表現に用いることの手段が限られている文字だけのコミュニケーションのおいては,ことさら,名前というものが自分を表現するための貴重な手段なのである。
もちろん,すべての名前がこうした自己創造の試みとして選ばれるわけではない。本名をそのまま名乗ることもある。しかし,本名なのかニックネームなのかは,本人以外には分からないことである。名前であることにおいて平等なのである。ネットワーク上では,語られたことがすべてなのであり,実世界との対応関係(真/偽)を判定することはできないのである。
このように,CMCにおいて用いられるニックネームは,自分を他から区別する識別記号としての機能を際立たせると共に,表現の媒体という側面も強くなる。言うなれば,ニックネームとは自分という創造物に付けた商標なのである。
組織を「意識的に調整された人間の活動や諸力のシステム」11)とする定義に従うならば,ネットワークの会議室のコミュニケーションは,組織そのものなのだと言えるだろう。この組織の特異なところは,意識的に調整された行為だけのシステムだということにある。通常の組織においては,公式的な行為である意思決定行為およびその伝達以外にも,さまざまな行為やコミュニケーションが行われている。そこから,社会的要因が生じてきたり,非公式組織が生じてくるわけであり,そのことが組織の道徳的側面に大きな影響をおよぼす。ところが,オンラインの会議室においては,意図せざるコミュニケーションは存在しない。すべてが,発言しようとする意志によって行われる。また,単にその会議室が存在しそこに何人かの人間が集っているというだけでは,正確には会議室とはいえない。あくまでも,そこで行われているコミュニケーションがすべてなのである。存在はなんら影響をもちえない。ただ,発言し応答するという行為のみが,組織を構成しているのである。実生活での自分を構成している諸要因の大半を切り離すことができ,意識的に書かれた言葉のみによって成立しているネットワークの会議室とは,組織の本質がむき出しになっているという意味で,抽象化された組織なのである。
それゆえに,この抽象化された組織で生じる現象は,我々の日常的な組織が,いかに本質以外の諸要素,諸作用によって成り立っているのかを照射するものとなる。抽象的であるがゆえに,本質的な問題が露呈するのである。そこで,以下で,2つの点を取り上げて検討することにする。一つは,コミュニケーションに内在する不確実性の問題,もう一つは,自己表現と信頼形成の問題である。
コミュニケーションとは,発言を相手にただ伝達することではない。自分の発したメッセージが相手にどのように受け止められたかを,相手の反応から読み取ることをもって,はじめて自分の行為の意味が確定するものである。この意味において,コミュニケーションとは二人以上の人間の間で進行しているプロセスであり,発言するという行為自体は,そのプロセスの一つの局面でしかない。また,それが「行為」であること自体が,後に続く行為によって事後的に確定されるものであり,正確には,行為の連鎖からコミュニケーションが成り立つという記述は誤りなのである。レスポンス無き発言は,コミュニケーションという行為ではない。
発言行為の意味は,後続する行為によって決定されるということは,行為者は,自己の行為の意味を他人から受け取るまでは,行為が完了しないということを意味している。つまり,他人からの承認をもって,はじめて自分が行為したことになるのである。発言するということは,他人の承認を請うということなのであり,それは行為者が意図して得られるものではない。コミュニケーションには,この不確実性が内在している。この不確実性を処理するメカニズムを確立し,あたかも不確実性など存在しないかのごとくにコミュニケーションのプロセスが進行していくとき,はじめて,行為のシステムとしての組織が成立しているといいうるのである。
このコミュニケーションの不確実性の問題を,公式組織において論じたのが,バーナードの権威受容説である12)。そこでは,権威は伝達内容の性格としてとらえられ,伝達内容の正当性の問題として論じられてる。そして,権限受容の条件が守られ,人々に無関心圏が存在することによって,上位権威というフィクションが成立し,協働の永続的な確保,つまりコミュニケーションのプロセスの進行が確保されるとしたのである。公式組織が共通目的を持っており,その共通目的のために貢献するということが貢献者に自明のこととしてある種の義務として了解されていることが,上位権威を成立させ,受容を自動化させるのである。
ネットワークの会議室においては,この共通目的による受容の自動化というメカニズムは働かない。もちろん,会議室には,たとえば技術的な情報を交換するとか,親睦を深めるなどの目的が設定されてはいる。しかし,公式組織におけるような強い規範性を持ったものとしては働かない。発言の受容=レスポンスを返すことは,あくまでも各人の自発性にゆだねられているのである。発言の際に,誰かが応答してくれることを当てにしてはならないのである。
では,ネットワークの会議室においてコミュニケーションが実際に行われているのはなぜか?それは,まさに応答をあてにしてはならないというそのこと自体から導かれる。当てにされていない応答をなすということが,応答した人間の自己表現として評価を得ることができるからである。この点を論じるためには,自己表現というもう一つの側面を見ておく必要がある。
しかし,一度きりの出来事では,自己という人格が認められることにはならない。一つの人格(パーソナリティ)として認められるためには,コミュニケーションに継続的に参加していくことが必要である。というのも,人格というのは,諸行為の継続の中に現れる表現の一貫性として認められるものだからである。コミュニケーションだけで成り立つ組織においては,コミュニケーションの中で人格も認知されていく。だからこそ,たとえ男性が女性としてコミュニケーションに参加したとしても,女性というキャラクターとして認知されるような表現の一貫性が認められるならば,その組織においては女性なのである。とことん演じきれるものであるならば,どんな荒唐無稽なものであってもかまわないのである。そして,書かれた文字からのみなる会議室においては,自己を構築する=演じることが容易なのである。書き言葉は,その表現を,自覚的にすべてコントロールできるからである。言葉を扱う能力が高いほど,「演じる」ことができる範囲は広がっていく。ニックネームと,書き言葉という,いずれも意図的に行使できる表現媒体だけを用いるコミュニケーションであるがゆえに,さまざまな自己のあり方の可能性を手にすることができるようになっているわけである。もちろん,自分にとって「不自然な」ものを演じる=表現することには,相当に高度なテクニックと知識が必要になってくるであろう。その点では,自然に振る舞うのが楽ではある。しかしながら,「自然」/「不自然」という区別は,基本的には無効な場なのである。自己表現される自己とは,表現されたものにおいてのみ存在しているのである。「インターネットは,ポストモダンの生活を特徴づける,自己の構築と再構築の実験のための,重要な社会学的実験室となった。その仮想現実の中で,私たちは自己変形し,自己創造する。」(シェリー・ターク『接続された心』13))
このように,人格というものが虚構性をはらんだものになるのであるが,その一方で,人格がもつ重要性も増すのである。というのも,コミュニケーションのみで成り立つ組織においては,先に述べたコミュニケーションのはらんでいる不確実性を解消する手段として,人格による信頼関係を築くという戦略しかとりえないからである。行為に表現される人格を手がかりにして,行為主体というレベルで予期を形成することが,コミュニケーションの不確実性を処理する手段として用いられる。人格という把握によって,相手からの応答の可能性を推し量ることが可能になるからである。
しかしながら,自己を一つの人格として認めてもらうのは,あくまでもコミュニケーションに継続的に参加することを通じてである。このため,2つの制約下に行動することになる。
一つは自己表現の一貫性を保つということである。諸行為を貫く傾向として人格が認知されるものである以上,一貫性を保つということが重要になる。別の観点からいえば,自己の過去の行為に拘束されることになるのである。
発言が書かれたものとして残り,常に参照可能であるということは,自分の過去の行為がつねに参照可能なものとしてあるということを意味している。また,すべての行為が文字による発言という客観的なものとして残っている。コミュニケーションの場に居合わせなかった者であっても,行為の履歴を参照することができるのである。対面のコミュニケーションにおいては,行為に関わった各人の記憶が人格を読み取っていく際の手がかりになるわけだが,ネットワークの会議室においては,記憶が公開され客観的なものとして存在しているのである。行為の一貫性は,原理的には,この社会的な記憶によって誰からも検証されうる。この点で,対面のコミュニケーション以上に,拘束は強いものであると考えることができるだろう。
人格を他者に受け入れてもらうためには,人格として認知されるような行為の一貫性を保つだけでなく,さらに,自分がその人格であることに対して自覚的であることが求められる。自己の表現の一貫性に反省的であること(自覚的であること)を表現することが,信頼を得るための礎となるのである。ルーマンが明らかにしたように,「信頼は,他者があるがままでいるということにむけられるのではなく,他者が,自己表現を継続し,その自己表現の歴史に拘束されていると感じていることに向けられている」14)。強固な信頼とは,自己表現を反省することに対する信頼として確立されるものなのである。
バーナードは,こうした自己表現の拘束のもとにある態度を責任的と呼び,組織の道徳的な統合において,一貫して責任的であることの重要性を説いた15)。コミュニケーションの中で応答的に振る舞いながら,そこに自己表現の一貫性を保つということは,他者の発言と自己の行為の履歴に応答的であるという点で,責任ということができるのである。ネットワークの会議室において責任的であるとは,一つの名の元に一貫した自己表現を行うという態度をとるということである。そして責任的であることが,信頼を生みだしていくのだ。
こうした自己表現の拘束とは別に,行為が自己表現として認められるように振る舞わなければならないという制約も課せられている。自己表現として認められる振る舞いというのは,役割を果たす行為のような予期された行為から,はみ出た行為である。予期を裏切りながら,しかし予期にしたがって行為が受容されるとき,その裏切った部分,つまりズレとして,行為者の自己というものが認知される。役割に従った行為というのは,通常は自己表現としては受け取られない。たとえば,ファーストフードを購入する際,レジを担当している人間に,笑顔でお礼を言われたからといって,それでレジ担当者が明るい人間だとか優しい人間だとか判断することはできない。「笑顔でお礼を言う」のが期待されている役割の遂行として受け取れるからである。しかし,その一方で,なんらかの役割なり期待なりが存在している状況の方が,自己表現は楽に行える。相手に受け入れられる行為と,そこからどれだけ形を変えて自己を出すかといったことが,計算できるようになるからだ。「らしくない」ところに「自分らしさ」が宿るわけだ。
ところが,ネットワークの会議室においては,互いに何の役割も義務もないがゆえに,役割からのズレとして自己を表現するということができない。もちろん,このことはあらゆる行為が自己表現になりうるということを意味しているのだが,その自己表現が成り立つためには,発言と応答の接続というコミュニケーションのプロセスが成り立つ必要がある。このような状況で,自己表現としての行為を成立させるもっとも有効な戦略が,自発的であることなのである。誰もコミュニケーションに参加する義務はなく,発言に対して応えたり,自分から情報を提供する必要もない,そういうコミュニケーションの不確実性が露呈する状況だからこそ,あえてコミュニケーションを行うことが意味をもつのである。
言い方を変えるならば,自発的に行為するということは,贈与を行うということであるといってもよい。相手に,期待されていなかったものを贈ることによって,贈与の主体として自己を承認させるという戦略なのである16)。自発的に贈与を行う者としてあること,このことがオンラインで自らの人格を認めてもらい,継続的なコミュニケーションを構築するためには有効なのだと考えることができる。
もちろん,自己を承認させ,自己を人格として認めさせ,信頼を引きだすための贈与というのは,純粋な贈与ではない。しかしながら,この贈与には,相手が受け取らないかもしれないという不確実性が常に存在しているという点で,交換とは呼びえないものである。ある種の賭なのである。
コンピュータネットワークの会議室においては,コミュニケーションに内在する不確実性が,人々の自発性を引きだし,それによって組織が成立しているのだと言えよう。自発的に応答するという態度が,自己表現(=自己構築)の戦略として有効であることが,自己表現の場として組織を成立させるのだ。このことは,コンピュータ・ネットワークの会議室という非常に限定された状況では,人格を持った存在として認められること,端的に言えば人として「存在する」ことが,人間のアイデンティティの原初的とでもいうべき形態として成立しているということでもある。つまり,一つの名を持ち,その名のもとで他人に呼びかけられる者としてあること,そしてその名に対する呼びかけに応えうる者としてあること,それがコミュニケーションのプロセスとしての組織において,人であることなのである。
我々は一つの身体を持った人間であり,ある社会の中で生活を営む存在である。この我々の日常生活に,新しい現実としてのネットワーク・コミュニケーションがどのように接続していくのか,接続可能なのかは,これからの問題としてある。