経営組織論:責任について

福井県立大学・経済学部 田中求之

はじめに

このページは、田中求之が福井県立大学で担当している経営組織論の講義のうち、2007年度に責任について論じた部分を記録したものである。(田中の組織論については、「経営組織論」等を参照のこと)。過去の講義ノートもすでに公開しているが(2006年度「経営組織論」の記録)、責任の部分は、2007度の講義では、従来よりも整理できたものを踏み込んで講義することができたので、講義ノートの捕捉分として、このような形で公開することにした。

講義のベースになっているのは、ルーマンの『公式組織の機能とその派生的問題』の「第12章 責任と責任事項」であるが、そのまま論じたものではない。ルーマンが責任事項としたものを田中がアカウンタビリティ(結果責任)と読み替えて整理したものになっている。

責任について 〜Responsibility と Accountability〜

根源的な責任

以前のコミュニケーション論などでも論じたことですが、まず、人間がコミュニケーションを行う存在であること、コミュニケーションによって他者と共に生きる存在であること、そのことから来る根源的な責任の確認から話を始めます。

コミュニケーションとは選択の連鎖であるというのがこの講義でのコミュニケーションの基本的な捉え方です。いうなれば、コミュニケーションとは、自分の決定が他人(の決定)に影響を与えることだといえます。そして、人間のコミュニケーションの特質として、コミュニケーション自身をコミュニケーションで問い返すことができるということがあります。つまり、自分が納得いかないような言葉を受けとったときの「なぜ?」という問い返しができる。これによって、他者とのあいだのコミュニケーションの調整ができるようになっているわけです。コミュニケーション自身は、二人の人間のあいだで起きる出来事であって、そこで起きることは両者共にコントロールすることはできません。言うなれば、誤解や傷つきが起きてしまうことは避けられないのです。だからこそ、後からの「なぜ?」の問い掛けによって、その出来事の意味を反省することができることが、人間の他者との共在を支えているわけです。

ですから、自分の行った選択に関して、他者から「なぜ?」と問われたら、それに応えようとすること、少なくとも応え手になることから逃げないこと、それが人間がコミュニケーションを通じて他者と生きて行くために、根源的に引き受けるべき責任、応え手になりうること=応答可能性=responsibility であると言うことができるでしょう。

日常の責任問題

このように、コミュニケーションを通じて他者と共存することに由来する根源的な責任というものを考えることができるわけですが、私たちの普段の生活において、そのような責任が問題になる場面は、まずありません。実際に責任が問われるような場面、責任問題が発生する場面について考えてみましょう。

たとえば、次のようなケースがあげられます:田中が「X社は素晴らしい会社なので、ここの株は必ず値上がりするよ」と言ったので、B君はX社の株を買ったところ、実際にはX社の株は暴落し、B君は大損を被った。

この場合、B君は田中の言うことに従ったゆえに損したとして、田中の責任を問い、田中が損の責任を負うことを求めることになります。皆さんもそのことは自然だと思われるでしょう。

このとき、田中は何をしたから責任を帰せられるのでしょうか? まずB君に結果的に損をさせてしまうような情報を与えた、ということがあります。しかし、それだけであれば、田中に責任があるとは言いきれなくなります。たとえば、田中はY証券会社からもらった情報をそのままB君に伝えていただけだったらどうでしょうか? その場合、田中の責任が全くなくなるわけではないにせよ、B君が損をすることになった原因はY証券の情報と言うことになります。ですから、先の場合、田中に責任があるという場合には、田中の言ったことが田中自身の判断である必要があります。田中が自分で判断したことを言い、それを自分の行動の前提としてB君が受入れた、つまりB君はX社の株については自分で判断を行っておらず、田中の判断を受入れているだけです。

さらに、そもそもB君はなぜ田中の発言に従ったのか、ということもポイントになります。B君が損したことの責任を田中に問うたとき、田中の方からは田中の言うことなんか信じた方が悪い、という反論がなりたちます。つまりB君は、X社の株のことは判断できなかったにせよ、田中の言葉を「正しい」と思うかどうかはB君が判断しているはずです。このとき、勝手にB君が信じたのであれば、信じたB君が悪いと言われても文句は言えない。しかし、B君が田中の言うことを信じてしまうのは当然だということであれば、田中に責任が生じます。たとえば、「田中は経営学科の教員であり、その田中が授業中に言ったことだったので、学生であるB君は信じた」ということであれば、田中の役割(権威)によってB君が信じるのも当然だとされ、田中に責任は生じるでしょう。

もうひとつ、当たり前のことですが、「田中がX社の株が値上がりするといい、それを聞いたB君がX社の株を買ったところ、大もうけした」という場合には、そもそも責任を問うような問題にはなりません。田中が行っていることだけを取り出せば、まったく同じにも関わらず、それがB君に被害を与えたかどうかで、責任が実際に問題になるかどうかは決まるわけです。

責任問題の構図

責任問題が生じうる状況とは、以下のように整理することができます。

ある不確実な状況に関してAがαという判断(決定、選択)を行い、Bはαに従って行為した結果、損害を被った、というのが責任問題が起きる状況ということができます。

[?不確実?]−A→α→B→×

ここでAに責任が生じる条件を整理していくと、以下のようになります。

1:決定の連鎖と不確実性への対処
 ・Aの選択結果をBが決定前提として受入れる
 ・Aは不確実な状況で選択を行っている(=選択の余地がある)、とみなしうる
 ・Aは自らの自由意思で決定を行っている、とみなしうる

2:決定行為への予期
 ・BはAが適切な決定を行うことを予期している(個人的信頼)
 ・あるいはAは適切な決定を行うことを求められている(役割、状況)
 ・そして、そのことにはAも分かっている

つまり、
 Aは、自分が不確実な状況で何らかの決定を自ら下す必要性に迫られている
 さらに、自分が適切な決定を下すことを要求/必要/期待されていることも分かっている
 また、自分の決定が後続の決定行為の前提となること(他者に影響を与えること)も分かっている
 このとき、Aが何らかの決定を下すと、決定の責任がAに帰せられる。

Aに責任が向けられるのは、根本においては、不確実性を吸収したからであり、それが他人に影響を与えたからだということができます。その意味では、冒頭に挙げた根源的な責任というものが、具体的な出来事の次元で問われている、と考えることもできる。コミュニケーションは選択の連鎖である以上、そこには多かれ少なかれ決定が入り込むわけですから。

二つの責任

上記の場面において、Aの「責任」とは、以下の2つの側面をもったものとして整理することができます。

  1. :自分に向けられた予期(=決定圧力)を引き受けて、適切な決定行動を行うこと
  2. :自分の選択結果(決定内容)が後続の行為にとって適切なものにすること

1の責任は、自分の役割や使命を果たすこと(予期に同調すること)という決定に関わるものであり、それを果たすために不確実性に自ら向き合うという意味で、チャレンジングで自発的な活動を行うことへのうながしにも繋がるものです。私たちが「責任を持って仕事をする」という時の責任はこれになります。こちらの責任を遂行責任と呼ぶことにします。通常の社会的関係において発生する responsibility はこの遂行責任であると言えるでしょう。

2の責任は、自分の影響を受ける他者が被害を被らないような結果を出す、あるいは問題が起きたときには釈明し被害を補償することが該当します。いうなればきちんと結果を出すこと、結果を出していることの責任です。「仕事の責任を取る」というときの責任がこれにあたるわけです。この責任を結果責任ということにします。日本では「説明責任」と訳されるようになってしまった accountability (アカウンタビリティ)がこれにあたります。

このように、応答可能性としての責任は、遂行責任 responsibility と結果責任 accountability の二面の責任となるわけです。

公式組織における遂行責任と結果責任の分離

組織では、他人(他の部署)の決定は正しいものとして受入れることが前提でシステム分化や役割分担が行われます。システム分化のところで説明したように、それぞれの下位システムは、他の役割(下位システム)が正しい判断で情報処理をおこなっていること(正しい決定を下していること)をあてにできるからこそ、自分たちの問題に専念することができ、その結果、組織全体の環境適応力が向上するわけです。これが成り立つ前提として、各下位システムは、他の下位システムや組織全体に損害を与える(問題を引き起こす)ような決定を下さないことが必要となります。

また、動機づけと権威のところで論じたように、公式組織においては権威の一般化と動機づけの一般化が成立しています。個人的な関係の場合は、決定を受けとった側の信頼が問題になることもあります。ところが、公式組織では、決定者の情報を受容するのは、決定者個人を信頼しているからではなく、それが同じ組織のメンバーによる公式の決定だから、ということになっています。つまり、受容者は、受容するのが当たり前であり、信頼を言うのであれば、決定者ではなく、組織への信頼に基づいているわけです。組織の信頼によって、個々の個人的な関係における信頼は考慮しなくて済むわけですし、そうしなければメンバーの資格を失うことにすらなりかねないわけです。ですから、公式のルートを通って伝えられた情報や決定は、中身を考慮されることなく受容されるわけです。たとえ何処で誰が下した判断かまったく判らなくても、公式に伝えられた情報や指示は、「正しい」ものとして受けとられ、各自の行為の方向づけに組み込まれていきます。

このような公式組織においては、「間違った決定」が公式のルートに乗らないようにすることが重要なのです。その結果、責任というものが、自分(自分たち)の下した決定によって他者が不利益を被ってはならない、つまり失敗は回避しなければならない、というものとして現れます(失敗が生じたら、まさに「責任をとる」わけです)。公式組織で公式的に割り当てられる責任とは結果責任です。決定を行った者には結果責任が課せられるということが、組織における個々の決定を「縛る」ものとして現れるわけです。

このように、組織においては、責任とは結果責任のことであり、成功や失敗の責任は必ず特定できるものとされます。一定の位置に還元することのできる確実なコミュニケーションだけが存在しているのでなければならない(確実さを支える決定を確定しうる)わけです。

結果責任と権限

結果責任を問うためには、その人がどのような結果を出すことを求められているのかが明確になっている必要があります。ですから、どのような仕事なり職務を負っているか、つまりどのような問題(環境)に関して自分で判断を下して良いのかをはっきりさせてこそ、結果責任は明確になります。

ですから、組織において、結果責任は、権限とセットで割り当てられるます。つまり、各人が「決定を下しても良いこと」=裁量権を明確にしておくことで、各人が勝手に判断することを防ぐわけです。各人が自分の裁量で決定できること(自分の裁量で処理して良い問題=環境)を限定し、さらにそれには結果責任を負わせる。権限を与えられる代わりに結果を出すことが求められるという、ある種の契約関係が生まれることになります。

このように権限と結果責任の割り当てによって、過剰なリスクを負うことを組織は回避しながら、必要な不確実性は吸収するわけです。システム分化は環境を分割して対処するものだという話をしましたが、分化(役割分担)とは、権限の分割と分配のことであるわけです。ですから、システム分化は、決定を分割して限定することで不確実性を吸収する仕組みであるとも言うことができます。

トップの責任と現場の責任

広範な権限をもつ(色々なことに関して決定を下すことができる)者ほど、大きな結果責任をもつ(色々なことに関して失敗しないようにする義務がある)というわけですから、最終的には、組織のトップが最大の結果責任を持つことになり、企業の不祥事などが起きると、トップが引責辞任したりするわけです。

しかし、遂行責任は不確実な状況で判断を下していくことにあるわけで、その意味では、遂行責任を最大限に発揮することが求められるのは、現場で仕事をしている人たちであって、トップではない。トップは、したから上がってきた間接的な調整ずみの情報にもとづいて判断を下していくわけですから、不確実性にチャレンジするような判断が強く求められるような状況にはありません。

このように、組織においては不確実な状況であえて判断を下しながら活動する(リスクをとる)責任(=遂行責任 responsibility)と、問題が起きたときの責任(=結果責任、accountability)が、分裂するということが起きるわけです。遂行責任と結果責任の不一致が組織構造によって調整されることはありません。

このような分裂が起きてしまうのは、遂行責任と結果責任が、根本的なところで相反する部分があるからです。

先ほどから何度か述べているように、遂行責任を担って行動するということは、不確実な状況の中で自分の判断を積極的に下していくことに繋がります。ですから、責任感をもって熱意をもって仕事に取り組むことは、結果の不確実性(リスク)を高めることになります。大雑把に言えば、創造的で自発的な挑戦ほど、失敗しやすい、という感じです。このことは、確実な結果を生むべきである、失敗はさけるべきであるとする結果責任という観点から見れば、望ましいとは言えません。このように、環境の不確実性が存在する場合、遂行責任と結果責任は、どのように仕事をするのが望ましいかという点に関して、相反することになってしまうわけです。

組織における行動

組織においては、日常的な決定に際しては、遂行責任と結果責任の分裂という問題は、未解決のままになります。そして、個々の個人の実際の行動に、その解決が「ゆだねられる」ことになってしまいます。それゆえ、組織に関わる人々のあいだには、遂行責任と結果責任の分離にかかわる行動技術が生まれます。簡単に言うと、遂行責任は引き受けつつ(これは仕事をするためには必要)、結果責任を帰せられるのを回避することになります。

  1. :慣例主義、同調(決定者として人目を引かないように、皆と同じにする、慣例に従う)
  2. :責任転嫁、帰責転位(決定と結果に対する責任を外部に負わせる)(逸脱のさいに)

つまり、自己裁量ではないように表現すること、自分を決定者として目だたせないこと、それが基本的な態度になってくるわけです。仕事をするにあたって、自分の判断が必要になったとき、上で述べたような言い逃れの戦略が使えるかどうかをあらかじめ探るといったことも当然、出てくるでしょう。

もちろん、こうした言い逃れは「良いこと」ではないでしょう。しかし、組織で働く個々の人間にとっては、基本的に失敗は許されないという状況からくる圧力下で、それなりに行動していくためには、このような行動戦略を取るのは当然とも言えます。

公式組織において、公式的な構造では解決できない、公式組織ならではの問題といったものが存在し、それは現場の個々の人間の行動の戦術として解決されていく、ということです。

■補足:Accountability は「説明責任」ではない?

この講義では、accountability (アカウンタビリティ)を、任された仕事の結果を出すこと、結果について場合によっては釈明し補償すること、という結果責任であるとしました。しかし、現在の日本では、アカウンタビリティを「説明責任」と訳すのが普通になっています。この講義で、説明責任という言葉を用いなかったのは、結果責任という言葉で語られていることが、アカウンタビリティとは異なってしまっているからです。

現在、説明責任という言葉が持ち出される場合、そこで問われているのは情報開示、透明性と、釈明でしょう。企業が不祥事を起こしたときに、なぜそのようなことになったのか説明責任が求められる、というわけです。確かに、accountability には、このような結果の釈明義務もあります。しかし、accountability とは、根本において、引き受けたことをきちんとやりとげることであり、だからこそきちんと行ったことを説明すること(あるいはきちんとやったのにうまく行かなかったことを釈明すること)です。つまり、なんで説明しなければならないかといえば、他人から何かを任され具体的な結果を出すことを期待されたからであり、その期待に背いてないことを明らかにするためです。何より、きちんと結果を出すことがアカウンタビリティを果たすということでは重要なのです。

ですから、説明責任という言葉では、この「目標を達成すること」という部分が見えなくなっている(抜け落ちてしまう)ので、この講義では、あえて結果責任という言葉を使いました。

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