経営組織論:組織における協働

福井県立大学・経済学部 田中求之

はじめに

このページは、田中求之が福井県立大学で担当している経営組織論の講義のうち、2007年度に組織における協働(行動)について論じた部分を記録したものである。(田中の組織論については、「経営組織論」等を参照のこと)。 過去の講義ノートもすでに公開しているが(2006年度「経営組織論」の記録)、組織における協働の部分は、2007度の講義では、従来よりも整理できたものを踏み込んで講義することができたので、講義ノートの捕捉分として、このような形で公開することにした。

講義のベースになっているのは、ルーマンの『公式組織の機能とその派生的問題』の第IV部の各章で展開されている内容である。基本的には、ルーマンの議論を整理してまとめ直したものになっている。通常の経営組織論では非公式組織の問題として論じられる部分であるが、非公式組織という概念は用いず、ルーマンに沿って組織における秩序の多層性・システム分化の議論になっている。

組織における協働

公式組織における協働の現実に関してみていくことにします。公式組織のメンバーとして実際に働く場面において、どのようなことが起きるのか、どのような問題があるのか、ということです。

●公式化された予期がすべてではない

まず最初に、この問題(組織における協働のあり方)を考える際の出発点として、確認しておかなければならないのは、公式組織に関わる活動、つまりメンバーとして行っていく活動のうち、公式的な予期(公式的な規定や規則)によって定められるのは、部分的なものにすぎない、ということです。実際に組織において仕事をしていくにあたっては、公式的な規則によっては定められていない、あるいは場合によっては公式的な規則から逸脱することにさえなる活動を行うことになります。

これは、組織において公式的な規定によって定められるのは、一般的なメンバーとしての役割に関わるものでしかなく、実際に組織を運営し維持していくために必要なすべての行動を規定するものではないということです。公式的な予期は、組織という協働のシステムを変動する環境のなかで維持していくために必要なことの、一部を定めるものでしかない。組織というものを成り立たせる秩序化の働きは、公式的な予期(規則・規定)によるもの以外にも、多くの秩序化の働きに依存し必要としています。その意味では、公式組織とは様々な秩序化の複合体(多重体)であると言えるでしょう。

たとえば、皆さんは県立大学の学生として学生生活を送っていますが、学生生活のすべてを大学の学生便覧の規則が定めるわけではないわけです。昼飯をどうやって食べるか、毎日どうやって大学に来るか、そういったことは各自で考えて対処するしかない。大学では勉強する、というのが公式的な規定であるにしても、では授業に出て具体的にどのように勉強するのか(講義のノートの取り方等)は皆さんが考えて行動するしかないわけです。このように、大学という組織を成り立たせているのは、中心にあるのは大学の様々な規定ですが、それに従って日常的なレベルでどのように活動をするかは、大学が個々具体的に規定するものではなく、みなさんの「じぶんでちゃんとする」能力に任されているといえます。

このように、公式組織における日常的な活動は、すべてが公式的規定に「ただ従う」ようなものではないわけです。そこに、組織における現実的な活動のあり方が、ひとつの問題として存在するわけです。

●公式的予期・規則には還元できないが、公式組織ならではの行為が存在する

このように、公式組織において日常的にみられる行動は、そのすべてが公式的な規定に拠るものではないわけです。ただし、だからといって全く無関係なものであるとは言えない。学生生活は、自分が学生ということを中心にして組み立てられていて、色々な面で学生であることが影響している(制約としてかかわってくる)ことは、皆さんも日々実感していることだと思います。このように、公式組織においても、公式的な規定や規則に決められたものではないが、公式組織のメンバーであることが制約や条件の形で何らかの関わりをもっている行動というのが数多く存在します。公式的なことがかかわっているわけではないが、公式組織のメンバーであることによって発生する、公式組織ならではの行動というものがあるわけです。教員である田中と新しいデジカメについて廊下で話をする、といったことも、教育(授業)には関係ないですが、教員と学生という公式組織のメンバーとしてのつながりによって行っていることであって、街で見知らぬオジサンと話をしているのとは違うわけです。

別の観点からいうならば、公式組織というものは、公式的な規則や規定(規範)という形で個人の行動を制約・拘束しない場合でも、その組織のメンバーとして行う個々人の諸行為を方向づけるものだということができます。色々な行動が成立する条件として公式的なもの(メンバーであること等)が関わるものでありながら、その具体的なあり方を直接的に公式的な予期が規定するのではない、そういう秩序化の作用が存在しているのです。

公式組織は、組織として存続していくために解決しなければならない諸問題を、公式的な予期によってすべて解決するわけではない。それらは、公式的予期以外の秩序化によって解決がなされていく、ということができます。

●個人への転嫁

公式的予期では解決できない問題は、基本的には、各個人の問題解決能力に任されることになります。変動する環境のなかで生じる問題を、組織は未解決のまま、個人に転嫁する。大学生としてどのように行動し勉強を行うかは、皆さんの一人一人が解決するべき問題とされるのであって、大学が規定・指示することではない、ということです。つまり、大学は、みなさんの一人一人が、一人の人間として「ちゃんとする」ことに依拠して存続しているわけです。

このように、組織、あるいは社会的なシステムというものは、それに関わる各個人が、一人の人格的な存在を担うものとして行為するということ(これが個人であることを社会的な関係のなかで保つための基底的な拘束です)を、システムの存立・存続のために必要とし、依存しているわけです。

以前に組織の定義を論じた際に、個人(人間)は組織に含まれない、ということを確認しました。個人は、組織の外部のシステムであり、組織にとっては環境です。組織は、個人という環境に働きかけて、必要な行為を行わせる(行ってもらう)のであって、直接的に行為させるわけではない。個人は歯車ではありません。部品や部分ではありません。歯車はどう動くか(行動するか)決まっています。しかし、個人がどのように行動するかは、最終的には個人の問題に帰着する。個々人が、範囲や可能性は場合によって異なるとはいえ、個々の裁量で「動いていく」のであって、組織と個人の関係は、システムとシステムの関係なのだということです。

●問題の整理

公式組織における個人の行動が、公式的な予期(規則・規定)との連関において、色々な問題をはらんでいることを確認しました。以下、この問題をもうすこしくわしくみていくことにしますが、大きくわけて二つの領域にわけて論じることにします。

一つは、公式的な規定や規則に従う際の個人の行動の問題です。そこでも、個人は、仕事を自分の行動という形にするという問題を抱えていますし、さらには対人的な活動においては、目の前にいる他人との関係を調整しながら、組織の行為を行うという問題に直面します。

もう一つは、公式的ではないが組織において生じる行動の問題です。どんなに仕事上の関係であっても、そこで人間が相互行為を行う限り、さまざまな個人的(人格的)な関係や、それにともなう調整などの活動が生じます。一般に「非公式的」と呼ばれる活動や状況です。

この二つは、実際の活動の際には状況の中で一体となっているものではありますが、この講義ではわけて論じていくことにしましょう。

●行動と組織

まず改めて、組織の公式的な規定と具体的な行動の関係(連関)のあり方について確認しておきます。先ほど、学生であることを話した際に、組織が公式的に規定する「勉強する」ということを、各人は自分の「勉強する行動」として実行しなければならないという問題があると言いました。このように、基本的に、組織が公式的に規定する内容は一般的・抽象的なレベルでの指示であり、それを具体的な活動の次元でどのように実現するかは個人の判断に委ねられる、というのが公式組織の公式的な規定のありかたになります。

個人は、組織というものの指示に「従った」ことになるような範囲の中で、自分の行動を選択するわけですが、言い方を変えれば、行動は2段階の選択によって決められているとことになります。

何をしてもよいという無限定の状態に対して、まず組織が公式的な予期の形で行動の範囲に限定をかけます。これは行動の選択範囲を選択しているわけです。そして、その選択を引き継いで、各個人が自分の行動をどうするかを選択する。つまり、組織が個人に指示するのは行動の限定された領域であり、具体的な行動の選択・決定の前提です。これをうけて個人は決定を行うわけです。

つまり、組織は個人に最終的な決定を委譲している、と捉えることができる。システム分化の際に論じたように、決定を分権化し、個人という外部のシステムに任せているわけです。

もちろん、どのような範囲で個人が選択を行えるのかという、個人の裁量権は、仕事の内容によって変わってくるでしょう。単純な製品の製造の分業であれば、個々人がするべきことのかなりの内容は組織によって規定されるわけで、ネジを取り付ける仕事を任された人が、自分の判断でネジを釘に取替えることなどはゆるされません。しかし、今月中に3件の販売契約をとってくるというノルマをこなす場合であれば、それをどのように実現するかは各営業担当者の裁量と技量ということになります。このように、仕事の内容によって裁量の範囲(決定を行える範囲)は変わってきますが、しかし、どんな仕事であれ、そこに何らかの個人的な裁量の余地があることに違いはありません。単純な組み立て作業であっても、その作業をいかに疲れずに素早くミス無く行うようにするかといったことは個人的な判断(裁量)が関わります。そこに、いわゆる現場でのカイゼン活動が意味をもつ基盤があるわけです。

以前に、具体的な出来事としてのコミュニケーションの実現する際の構造という概念を論じたことがあります。システムの個々の要素を「生み出す」ために可能性に制約を与えるもの(正確には、何かが生じたときに、それを生じさせるために作用した選択の限定作用)を構造という概念でおさえました。これをうけるならば、公式組織の公式的な予期は、個人の行動にとって構造としてかかわるのだ、と言うことになります。

ある問題(なすべき仕事等)に対して、公式組織は、構造として、可能な解決の範囲を限定して示す。大雑把に言えば、選んでも良い選択肢を示す。それを受けて、個人が選択を行って具体的な行動として実現する、というわけです。組織は、個々具体的な場面における行動のあり方そのものを規定することはないわけです。

見方を変えるならば、組織=構造は、メンバーに対して行動を要求するものである、ということもできるでしょう。システムの維持・存続に必要な行為を、個人に対する行動の要求として送り、それに応えて個人が行動し、それが組織にとって行為という要素として取り込まれていくわけです。また、行動要求といっても、なんらかの具体的な行動の実行を強制するのではなく、特定の行為として意味付けられるような行動を起こすことを要求するものです。行為と行動のズレというものについては以前に論じましたが、このズレが存在することによって、各人が具体的な状況で行動することが、一般的な行為たりうるようになっているわけです。

このように、組織は個人の自由に制限を加えるものではありますが、自由を奪うものではない。むしろ、各人の自由の部分に、具体的な状況での対応を任せている、それが組織=構造だということです。

●限界状況を示す

もうすこし具体的な行為の場面に即して、別の観点から考えてみます。

公式的な予期というものは、それにもし反するようなことを行うと、自分がメンバーではなくなることが規定されたものです。つまり、何をしたらヤバいか、が決められているとみなすことができるわけです。そして、先ほど延べたように、具体的に何をするのかという次元での規定ではない。

このようなとき、個々の行動の場面において、個人にとっては、公式的な規則は、それに違反するような事態が起きたら困るという、一つの限界的な状況を規定したものとなります。

ですから、非常に大雑把に言えば、公式的な予期に違反するようなことにならない範囲で、自分で考えて行動すればよいわけです。

つまり、公式的な予期は、日常の活動の際に、何をしたらまずいのかという形で関わってくるものだということの方がリアルなものだと言うことができます。お互いに、「公式的な予期の違反」ということにならないように行動するのだ、ということです。

この際、「公式的な予期の違反」というものは、客観的に成立するものではないということに注意する必要があります。つまり、何かの行動を行ったときに、組織が、あるいは上司が、それが「公式的予期への違反行為」だとして問題化された時点で、はじめて「違反行為」になるということです。ですから、そこには、対人的な駆け引きが入り込む余地があります。また、違反行為になりうるものであっても違反として認定されなければ良い、ということにもなります。非常に大雑把に言えば、バレなければいいというやつです。

つまり、「組織が人を縛る」という時、個人をがんじがらめに縛ってしまうというよりは、何をしたらいけないのか、どのような事態は避けなければいけないのか、という限界状況の設定によって縛っていくわけです。また、そのような行為判定を誰が行うのか/行えるのか、ということが対人的な力関係をもたらすものにもなっていると考えることができます。公式的な問題として取り上げるかどうかという点については、後で非公式的な活動について論じる際に、あらためてとりあげます。

このように、公式的な予期が個人の行動を縛るやりかたというのは、最終的に組織から排除されるという最悪の事態が起こるのを避けるという縛り方だということもできるわけです。予期とは、それが表に出てくるのを避けるという形で行動を方向づけることもある、ということを確認しておきます。

●対面的相互行為

ここまでは個人の行動と公式的予期(構造)の関係について論じてきましたが、具体的な状況についてみていくことにします。それは、相互行為の場面です。

組織においても、他人との協働は相互行為によって行われることには違いありません。メンバー同士が接触する場合であっても、そこではメンバーという抽象的な存在ではなく、具体的な人間として向き合うことになります。そして、そのような相互行為においては、以前の講義で論じたように、互いの行為がスムーズに連携するような調整が必要であり、そのような調整は様々な予期によって可能になります。

組織における対面的相互行為においては、組織の公式化された予期が一つの重要な予期としてその場の調整(規定)に関与するわけですが、だからといって、相互行為に必要な予期がすべて公式的予期によって与えられるわけではありません。組織での相互行為の場合には、組織からの行動要求に応えつつ、目の前の個人との相互行為を進行させるという、二つの秩序化の絡み合いの中でこうどうすることになります。そして、時として、公式的な予期に応えることと、目の前の個人との関係を維持することが相反することも起こります。相互行為の継続によって、その相互行為固有の履歴=予期が生まれ、いうなれば一つの社会システムとして分化しうるからです。そして、そのように分化したシステムは、独自の予期=規準によって行為を調整しますから、必ずしも組織の公式的な予期と整合性がとれるとは限らないわけです。ですから、具体的な相互行為によって協働を行っていくには、相互行為と組織との折り合いをつける必要が出てきます。

このように、組織に関わる協働においては、具体的な行動の場面(具体的な相互行為等)と、公式的な予期の体系(規則、規範)と、二つの秩序の折り合いをつける必要が生じます。非常に大雑把にいうと、現実=現場での行動の次元の秩序と、組織の公式的な次元の秩序を、どちらも保ちながら、両者の間の矛盾や齟齬が生じないようにしなければならない。その場合、両者を、分離しながらも媒介的に作用するような制度が用いられることになります。制度というと大げさですが、特定の特徴的な行動様式が用いられるようになるということです。

●特異な行動様式

一つ目が、行動を公式的な予期に適合する形で言語化するというものです。行為の説明や報告の際に、公式的な予期と矛盾しないことを、公式的な言葉遣いやシンボルによって表明することで、具体的な行動の現実が、公式的な予期には影響を及ぼさないようにする、というものです。行為というものは、それを言語化する様々なレベルで行うことができます。また、行為の意味は曖昧で、多数の解釈の余地をはらみます。さらに、公式的な予期というものは、これまで何度も述べてきたように、一般的なものですから、それを具体的な状況の描写に「使う」際には、様々な使い方ができます。ですから、極論すれば、行動の説明は「なんとでも言える」余地がかなりあるわけです。そこで、実際の行動を、公式的に問題が起きないように説明することで、現実と予期との食い違いを見えなくしてしまうということが可能になるわけです。もちろん、事実に反するような「ウソ」で説明するということではありません。あくまでも「事実」を「説明」する。しかし、現実とは距離をとった事実として説明されることで、公式的なレベルでは問題にならないようにするわけです。

二つ目は擬制を用いるというものです。擬制というのは、現実として説明されるが、本当の現実かどうかを問わないもののことです。といっても、なんのことか分かりにくいとは思いますが、皆さんにも身近なものとして、評価というものを挙げることができます。この授業は期末試験でみなさんの成績をつけます。成績は皆さんの理解度を測定したものですが、では本当に田中の作問した試験で理解度が正確に測れるのか?あるいは何処まで正しく測れているのか?という問いを立てると、明確な答えは出せません。答案の出来に違いがあることは分かります。また特定の問題について点数を出すことはできます。しかし、それがどこまで「理解度」や「能力」を「正しく」とらえているのか、ということは、おそらく決着がつかない部分がある。それでも、試験の結果=評価を正しいものとして、選別が行われたり、あるいは会社であればステータスの配置が決められたりするわけです。このように、特定の概念を、本当にそうかどうかは疑わしいものがあるにせよ、一つの現実として互いに使っていく、それが擬制というものです。このような擬制を用いることで、「そういうことになっている」として公式的な調整がスムーズに行われることになるわけです。

このように、公式的な予期や公式的な概念が、事実を説明する形式的なものとして用いられ、それによって実際の行動の次元で起きている対立や矛盾が表立った問題として浮上するのを防ぐようなことが行われることになります(さらに、コミュニケーションの制限を行うことで、関係者以外には「問題がないように」見えるようにするといったことも行われます)。こうした行動様式は、ある意味では、欺瞞であり事実の隠蔽であるということができます。実際、なんらかの問題が起きたときには、隠蔽や欺瞞として責任が追及される可能性はあるでしょう。しかしながら、公式的予期の「きれい事」では済ませられないような現実の中で活動を行っていくには、多かれ少なかれ、こうした行動様式を用いるしかないのも事実なのです。

●柔軟なプログラム

公式的な言語化や擬制など、先に述べた行動様式は、いずれも公式的な規定によるものではなく、公式組織と関わりながら行動していくために個人のレベルで「生み出された」ものです。公式的なものではないわけです。しかし、状況の変化や複雑さに対応するための公式的な手段というものも存在します。それは柔軟な決定プログラムとして仕事を割り当てるというものです。

プログラムというのは、何らかの結果や成果を出すための一連の作業のつらなりです。たとえば、「カレーを作る」ことを考えてみてください。材料を揃え、下準備をして、炒めて、煮て、ルーを入れて……、と一連の作業を行うことが「カレーを作る」ということです。この場合の「カレーを作る」というのがプログラムということになります。そして、個々の作業においては、状況などに即して決定を行っていくことになりますから(たとえば、タマネギをどれくらい炒めるか、いつルーを投入するか等はその場で判断していくことになりますね)、単純作業の集積ではなく決定作業の集積という観点から決定プログラムと呼ばれることもあります。私たちが行う作業というものは、たいてい決定プログラムの形になっているわけです。

決定プログラムは、大きくわけて2種類に分かれます。一つは、達成するべき目的の形でプログラムが割り当てられるもので、目的プログラムと呼ばれるものです。カレーに即していうなら、「おいしいカレーを作ること」という形で仕事が与えられる。どのようにおいしいカレーを作るのかは、作業を実施する者の判断に委ねられます。もう一つのプログラムの型は、作業を開始する条件の形でプログラムが割り当てられるもので、条件プログラムと呼ばれるものです。「牛肉が安いならビーフカレーを作る」といった感じでしょうか。特定の条件(状況)になった時に、一連の作業を開始するというものです。私たちが仕事を任される際には、通常は、このような2つの決定プログラムの形で仕事が割り当てられます(二つのプログラムが連結された形もありますし、その方が普通でしょう)。

このような決定プログラムの実施にあたっては、先ほどから述べてきているように、個人の裁量の余地が存在します。また、たとえば目的プログラムであれば、結果さえ出せば手段について細かいことは問わないということにすると、その分、自由裁量の余地は広がり、現実の個別状況に即して行動を行うことが可能になります。条件プログラムにおいても、特定の作業を開始するべきかどうかという部分(条件判断の部分)さえ公式的なレベルで説明可能であればよいということになりますから、個人にとっては裁量の範囲が広がることになります。

このように、公式的な役割に割り当てられる仕事が決定プログラムの形をとること、そして決定プログラムの実施の条件(公式化による規制範囲)に柔軟性をもたせることで自由裁量の余地を調整できることによって、公式的な仕組みとして、個別状況の秩序化のレベルと、公式組織の秩序化のレベルとの、分離的かつ結合的な調整を可能にしているということができます。

●公式・非公式

ここまでは公式的な役割を遂行していく上で、いかに公式的予期(規則など)の次元での秩序と、現場の実際的な行動の次元の秩序の分離をみてきましたが、続いて、公式組織における非公式的な役割や状況についてみていくことにします。

先ほどから論じてきているように、公式組織にかかわる活動のすべてを公式的な予期が支配するわけではありません。組織での活動としては必要であり重要でもありながら、公式的な規定を受けていないものも多く存在します。それらは一般に「非公式的」という形容詞によって括られる側面です。行動の状況や関わりをもつ人たちの違いによって、公式的な役割と非公式的な役割、あるいは公式的な状況と非公式的な状況とがはっきりと区別されるようになるというのが、公式組織における本質的な特徴です。公式的な規定や規則が明確になるほど、それによって直接的な関与をうけないものが非公式的な側面としてはっきりしていくことになります。

公式組織においては、公式化された一連の行動様式に適合しない他のすべての予期は、非公式的なものになってしまうわけです。

非公式的な予期というのは、公式的なものの拘束を免れているというのが、その基本的な特徴ということになります。あくまでも「免れている」のであって、「反している」のではないことには注意してください。公式的か非公式的かは、公式的な拘束の有無によって区別されるのであって、決して内容が対立するというわけではありません。また、非公式的なものは、公式的な予期の縛りをうけないという形で公式的な予期とかかわりをもっているのであって、無関係というわけでもありません。あくまでも、公式的な予期(規定や規則)が存在するからこそ、それに関わりをもつものとして非公式的なものも存在します。

●状況の分化

公式組織においては、公式的と非公式的とは、状況の違い(分化)として体験されることになります。たとえば、田中と学生のみなさんが、教室において授業の内容について話をしているときには公式的な状況であり、田中は授業担当の教員という役割、みなさんは受講生という役割を主要な行動原理としてコミュニケーションを行うことになります。しかし、廊下で新しいパソコンの話をするときには、教員と学生ということは意識の片隅にはあるにせよ、パソコン好きな人間どうしという立場で関わりをもつわけで、こういう状況は非公式的な状況ということになります。

このように、公式組織に関わる状況には、公式的な状況と、非公式的な状況とがあるということになると(それが公式組織に関わりをもつ場合には当然のことになるわけですが)、公式的な予期というものは、公式的な状況において関わってくるものであるという感覚が自然と生まれます。そして、公式的な予期と非公式的な予期とが、たとえ内容的には矛盾するようなものであっても、予期が意味をもつ状況の違いとして理解され処理されていくことによって、矛盾が問題となることはありません。このように、状況が分化し、予期や役割もそれに応じたものに分化することによって、矛盾の多いシステム機能を柔軟に組み合わせることが可能となるわけです。

見方を変えると、公式組織というシステムにとっては、このように状況が分化することによって、公式的な予期や規定などでは認めることができないが、システムの維持のためには必要なことを、非公式的な状況によって充たしていくことが可能になるわけです。

●状況の分離の意味

状況が分化するということは、組織のメンバーは、互いに、相手が状況が変われば違った原則にもとづいて行動するということを当然とみなし、その食い違いを非難したりすることがないということを受入れるということです。公式的な状況での行為と非公式的な状況での行為の一貫性を問題にはしないわけです。ただし、それぞれの状況においては一貫していること、さらにはその状況に即した正しい行為を行うことは、当然のことながら求められるわけです。

また、互いに自分がどのような状況において行動しているのかは、互いにはっきりと認識できなければ、状況の分化は不可能ですから、メンバーは互いに状況の確認や認識が正しく行えるであろうこと、また、状況の転換を行う場合には、転換を行うことが皆にわかること、そうした行動が求められるし、また実際に行動できることが重要になります。

つまり、今、お互いに、どういう状況で話をしているのか、あるいは特定の話題をどちらの状況での話として行うのか、あるいは自分がどちらの状況において話をしているのか了解させる方法といったことが「分かる」必要があるわけです。

通常、状況の違いは、コミュニケーションの場所、話題、言葉遣い、といったものによって示されます。互いに、即座に、明確に、状況を判断できるような行動様式が存在しており、その様式にのっとって行動するわけです。

ただし、状況の定義や転換は、各人の自由に行えるわけではありません。基本的に、公式的な状況というものは公式的に定められています。また、公式的なコミュニケーションは、なんらかの形で公式的な記録として残される(少なくとも公式的な参照が可能になる)という形をとります。一番分かりやすい形式が、公式的な文書として記録されるということです。会議の議事録など、いわゆる公的文書というものは、コミュニケーションが公式的なものであることを明確に示す形式です。

もちろん、実際のコミュニケーションの進行中に公式から非公式への転換が挟み込まれるといったことは珍しいことではありません。会議中に、「ここだけの話ですが」とか「これは議事録には残さないで欲しいのですが」といった前置きをおいて非公式的な発言を行い、それが公式的な議事の進行を支えるといったことは日常的に起こります。

●役割の区別

状況の分離に伴って、各メンバーの役割も公式的な状況における「職務上の」役割と、非公式的な状況における「個人的な役割」に区別されることになります。

ただし、ここで言う「個人的な役割」というのは、そのメンバーの個人的特質がそのまま表現されたようなものだと考えてはなりません。あくまでも、公式組織のメンバーとして互いに関係するなかで非公式的な状況において読み取られ帰属される役割です。

たとえば、学生の皆さんはゼミの教員に対して、「個人的な役割」を読み取り帰属することになるでしょう。しかし、それはあくまで、大学というシステムの中で教員−学生という関係がある中で生じてきている「個人」の像であって、大学の外で関わりをもつ場合のものとは同じではありません。もちろん、人間である以上は、そうした非公式的な役割として読み取られるものと、組織の外での人物像がまったく食い違うということはないかもしれませんが、それでも「個人的な役割」がその個人の「本当の姿」(そんなものがあるとして)ではないのです。あくまでも、公式的な役割との関連という限定の中で生まれてくるものです。

そして、あくまでも公式的役割に伴う個人的役割であることが、ある意味で個人にとっての防護壁のように働くことになります。つまり、過大な個人的な期待に対しては、公式的な役割を引き合いに出すことによって、それに応える必要から逃れることができるのです。個人的役割が、全面的な個人的関係ではなく、あくまでも公式的な状況や公式的な役割を基礎とする限定されたものであることによって、個人が互いに関わりすぎることから保護されるようにもなっているわけです。

●役割の分離とシステムの柔軟性

役割の分離によって、同一の人物が、本来は矛盾するような複数の行為を、担うことが可能になります。このことは、組織にとっては、柔軟性(矛盾に対する耐性)を獲得することになります。公式的な役割を軸として、様々な非公式的な状況を分離しながら保持する(媒介する)、そういうことが可能になるわけです。非公式的な役割の内実は公式組織が規定するものではありませんが、非公式的な状況や役割が必然的に生じることをシステムは活用するのだと言ってもよいでしょう。

●状況の選択性・戦略性

状況や役割が公式/非公式に分離することによって、公式的な行動を行うということに、新しい意味が生じます。つまり、非公式的な行動を取ることが可能であったのに、公式的な行動を取った、という選択として受けとられるようになるわけです。公式的な行動が組織における唯一の行動様式ではないことを、皆が了解している以上、公式的であることが選択を示すわけです。

さらに、公式的な行動は、つねに非公式的な行動を意識させることになります。つまり、公式的な状況での振舞を受けとる際にも、それにともなう非公式的な状況での行動などを予想し配慮するといったことが行われるようになります。

行動する側も、自分の公式的な行動を、後で非公式的に補完したりフォローしたりできる(それを周囲も認めて予想している)ことを前提に行うことも可能になります。

このように、組織のメンバーの誰もが、公式的な行動が組織における唯一の行動様式ではないということを前提に、行動の選択や理解を行うようになります。

もちろん、組織においては公式的な予期が中心的な予期なのですから、公式的な役割を担って行動することが重要であることは言うまでもありません。しかし、そうした公式的な役割をうまくこなすためにも、非公式的な役割をうまく使うこと、状況の切り換えをうまく活用することが、実際の組織の行動では求められるわけです。非公式的な状況をうまく使うことによって、公式的な役割の負荷(負担)を軽減するといった行動は、公式組織のメンバーとして活動するためには必要な行動であると言ってもよいでしょう。

また、不必要な公式化を避けるということも、組織のメンバーとして求められることにもなります。というのも、何かが公式的な問題なり出来事であるとされると、それは公式的な対応がなされることになり、当事者達を利害の対立者(敵対的な立場)として公式的に「固定」することになるからです。もちろん、そのことを戦術的に用いるといったことも可能になります。問題が生じたときに、それを公式化しないでおくということが、相手に対して非公式的な「貸し」を作る手段として使えるわけです。

●二重の行為秩序

公式組織において、公式と非公式の二重の行為秩序が生じることになるわけですが、この二重の公式秩序が実際になりたつには、各メンバーが状況の転換を図ることができ、また周囲も状況の転換を了解できるような、そうした社会的なメカニズムが必要になります。通常、コミュニケーションの際の用語(シンボル)の仕様や、伝達行為のやりかたなどで、一定の共通理解が成り立つわけですか、こうした状況の転換方法そのものを公式組織は規定しませんし、できません。公式的に決められた非公式的な状況というものが矛盾したものであること(公式的に決められた以上、それはどう転んでも公式的なものでしかないわけですから)は分かると思います。

ですから、二重の秩序の成立を可能とする、状況転換の方法については、制度化されたものや、役割の規則のようなものになることはありません。それぞれのメンバーの間での、非公式的な共通理解といったものに留まります。そして、状況に相応しく行動しようとする各メンバーの自己の行動への気遣いによってそれがうまく作動するようになっているわけです。

●社交的熟練性

このように秩序が二重になると、そこでうまく行動していくのに必要なのは、ある種の社交的な技能ということになってきます。コミュニケーションの場面で、何が伝えられたのかということだけではなく、それがどのような状況で、どのような伝えられ方をしたのか、あるいはそれをもとに、どのような展開を導くのか、といったある種の戦術的なスタンスで考えて行動が起こせることが、組織において「うまくやっていく」ための技能としての価値をもつようになります。状況の戦術把握に基づいた的確な自己表現(行動)ができること、それが組織のメンバーとして有効な「コミュニケーション技術」としてあるのだと言っても良いでしょう。

公式組織というシステムにおいては、これまで論じてきたように、公式的なレベルではすべての秩序問題を解決できないがゆえに、個人レベルでの様々な行動様式や自己表現の技法を駆使する余地があり、またそうしなければならないのです。一般的な規則や原則ではどうにもならない現実があり、それに対処していかなければ組織は存続しないものであり、その対処は、最終的には、各メンバーの個人的な行動様式や社交的技能、コミュニケーション能力といったものに依存せざるをえないのです。組織とメンバーとの関係がシステム間関係であり、全体と個、全体と部品といった関係でない以上、それは当然の現実としてあるのだと言ってもよいでしょう。

●規則の利用者の観点

組織において公式的状況と非公式的状況の二重の秩序が存在し、そこで活動するにあたっては、公式/非公式の役割や状況の選択、戦術的な行動が必要になるということを確認しました。このことを、行動する個人と公式的な規則との関わりという観点から見ると、公式的な規則というものは、行動にあたってそれを引き合いに出すかどうかの戦術的な選択の対象であるととらえることが可能になります。

公式的な規則が、実際の協働の場面でどのような意味を持つのか(行動する個人や周囲の人間をどのように捕捉し拘束するのか)ということは、その規則を引き合いにだす人間がいるかどうか、ということが重要だということです。たとえば、福井の道路を走る車は、たいてい、法定速度を越えた速度で走っています。警察の取り締まりがある時や、オービスが近いことが分かっている時には、法定速度ギリギリまで速度を落とします。つまり、法定速度という公式的な規則は、それを取り締まる「目」がないと事実上意味をなしていないということができます。学校の風紀規則なんてものもそういうものだったことは皆さんも記憶にあると思います。

このように、規則というものが実際に効力をもつのは、それが引き合いに出され利用される(行動の予期として、あるいは観察の規準として)ときか、その可能性があることを考えておかなければならない場合だということができます。言い方を変えると、規則というものは、それが実際の社会において用いられる可能性があるものでなければ、実際上は意味がないものとなってしまうと言うこともできます。

そして、公式的な規則に関わって行動する組織のメンバーは、互いの協働の場面において、公式的な規則をどのように利用するのかという観点で互いの行動を調整し、規則の扱い方について共通の認識をもったり、あるいは対立したりしているのだと、考えることができます。規則を引き合いに出すというと上司の立場での行動のように思われるかも知れませんが、部下であっても、上司が非公式的に処理しようとしている際に、公式的な規則を持ち出して対抗することも可能なのですから、規則の戦術的な利用者という点では、本質的には対等な立場にあるわけです(もちろん、状況の支配権は上司の方が強いわけですが)。

●逸脱の不可避性

ここまでの議論の流れだと、組織においては、実際の行動の場面においては規則違反や逸脱を各メンバーが好き勝手に行うかのように感じるかも知れませんが、そんなことはほとんどありえません。なぜなら、メンバーは、互いに公式的な規則に従うことを当然としているが故にメンバーたりえているのであって、勝手に規則から逸脱するのであれば、それによってメンバーの資格を失うからです。あくまでも、メンバーは原則として公式的な規則に従うものであるが、状況によっては、メンバーとしての行動の一つとして逸脱することもあり得る、ということです。違反したり逸脱することが、組織やメンバーとしての自分の立場に「利益」をもたらすような状況や、それを可能にする秩序が存在する場合に、逸脱や違反が行われるのです。

組織に関わる活動において逸脱行為が不可避になるのは、二つの要因があります。一つは公式的予期は必然的に環境の変化に対して遅れる/ずれるからです。公式的予期は決定によって明示的に変更されるものであって、状況に変化が起きたからといって、あるいは状況が予想していなかったことになっているからといって、その都度細かく修正して行くことはできません。組織に関わるすべてのメンバーが共通の基盤としてのが公式的予期ですから。このように公式的予期は現在の状況に対処するにはズレてしまう可能性がある。しかし、今、この場で、自分の仕事をしなければならないメンバーにとっては、公式的予期をかたくなに守ることよりも結果を出すことの方が重要になります。この場を、この目の前にいる取引先/顧客をなんとかしなければならない。そのようなとき、逸脱的な行為が必要となることもあるわけです。そして先に述べたように、それが「違反行為」にならないように何らかの策を巡らせることによって、ある意味でグレーな領域での活動が遂行されて行くことになるわけです。そして、これは組織が環境に対処するためには必要になってくるわけです。

逸脱行為が不可避になる二つ目の要因は、組織がシステム分化(役割分担)を行うことにあります。それぞれの下位システム(部署)がシステムとして独自の環境に関わり対処することになり、そのことによって全体システムや他の下位システムとは異なった利害関係や行動技法を必要とすることになり、その結果として自分たちに任されたことをやり遂げるために、あるいは自分たちを守るために、逸脱的な行為が必要になることもある。組織内の利害や価値観の衝突あるいは矛盾が生じることによって、逸脱的な行為が必要になることもあるわけです。この内的な要因は、システム分化によって環境を分化して扱うことから生まれてくることですので、最終的には先ほどの一つ目の要因同様に、環境の複雑性がもたらすものと言えるでしょう。

このように、公式組織においては、環境に対処するために、直接に外部との接触の場面、あるいは内部の他のサブシステム(部署)との関係の中で、逸脱的な行為が生まれてくるのです。そして、その行為の位置づけや評価をめぐって、公式的予期(規則)の利用者の観点からの駆け引きも必要となるわけです。

●規則の戦略的価値

公式組織においては、規則というものは、各メンバーが自分の立場を固めるための戦略上の基盤として意味をもつことになります。それは自分が違反する/逸脱するかという問題だけでなく、相手の行動の逸脱や違反を容認するかどうかという問題としても関わってきます。たとえば、規則を持ち出して行動することで相手に対して優位に立てる場合、規則を引き合いに出して相手を押さえ込むことも可能ですし、規則を引き合いに出すことを保留すれば相手に貸しをつくるという取り引きがかのうになります。このように、規則は、それが無条件に守られるということに意味があるのではなく、規則の利用によって利益を確保することができるということに意味があることにもなります。

もちろん、逸脱や違反は、そのまま公式的なレベルで認めることはできません。しかし、逸脱行動が、公式的な秩序に最終的には適合し、利益をもたらすというシンボル化(言語化)が可能であれば、公式組織は、それを容認することになります。逸脱や違反が、個人的な利益ではなく、なんらかの大義(正義)のためであるというシンボル化ができるかどうかが鍵となります。それができないのであれば、逸脱行為は個人の「違反行為」ということになり、個人に対して責任が問われるということになります。

●システムにとっての機能

組織というシステムにとっては、こうした逸脱や違反行動が起こりうることは、一見すると、統制が取れていない、組織の腐敗であるかのように見えます。しかし、先ほどから述べてきたように、逸脱や違反を組織に被害を及ぼさない限り黙認するということは、システムにとっては、複雑な状況の中で秩序を維持していくためには(環境から持ち込まれる矛盾したり対立する問題に対処していくには)、必要なことであり、システムの環境適応と柔軟性の維持のために機能的なことでもあります。

ただし、逸脱や違反は、あくまでも個人に帰属されるものであり、公式的に認められるものではありません。逸脱や違反を、組織のために、あるいはメンバーとしての自分のために、柔軟に戦術的に使うことは、個人の行動様式の次元に留まるものであって、公式的な役割として定義されることはありません。

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