Barnard

チェスター・バーナード『組織と管理』を読む

福井県立大学・経済学部 田中求之

Version 1.42 (Last Modified: February 24, 2009)


はじめに

このページについて

このページは、チェスター・I・バーナード(Chester I. Barnard)の『組織と管理』の論文のうちから田中がセレクトしたものについての解説(研究ノート)である。バーナードのテキストを読みながら、田中が要約したりコメントをつけるという形になっている。

取り上げる論文は以下のものである。

このページは、田中求之が、福井県立大学・経済学部で担当している経営組織論の授業の補助教材として作成したものである。バーナードの主著である『経営者の役割』(The Functions of the Executive) と彼の組織論についての理解を深めてもらうために作成した田中の個人的なノートであり、ここに書かれたバーナードが、バーナードの「正しい」姿でもなく「すべて」でもない。その点は注意して欲しい(田中自身の組織論は現在はバーナードから距離を置いたものになっている)。あくまでも、バーナードの組織論との出会いを手引するものである。

バーナードのコメンタールとして以下のものを公開してある:

上記のページを含めた田中によるバーナードのコメンタールなどは、以下のページに一覧をまとめてある:

作業履歴

2008年08月08日『組織と管理』の部分を単独のページに分割
2008年08月19日「リーダーシップの本質」を追加し、公開
2008年08月28日チェスター・バーナード『経営者の哲学』を読む」を公開したので、リンクを追加
2008年09月16日「1935年、ニュー・ジャージー州トレントンにおける失業者の騒動」を追加し、v1.1 に
2008年09月22日「民主的過程におけるリーダーシップのジレンマ」を追加し、v1.2
2008年09月26日「経営者のための教育」を追加し、v1.3
2008年12月19日「人事関係におけるいくつかの原理と基礎的考察」を追加し、v1.4
2009年02月19日Google ブック検索へのリンク(The Early Sociology of Management and Organizations に収録されたもの)を追加
2009年02月24日チェスター・バーナードへの散歩道」を公開したのでリンクを追加

テキスト

『組織と管理』は飯野春樹監訳・日本バーナード協会訳(文眞堂、1990)と "Organization and Management" (Harvard University Press, 1948) を用いる。基本的には訳書を読んで行き、引用も翻訳から行う。田中が必要と考えた箇所では原文も引用する。

バーナードの本の訳文は、今の学生体にとっては、決して読みやすい文章ではないであろう。バーナードの本は文学ではないし教典でもないのだから、言葉遣いといった、本質的とはいえないものが理解を妨げるのは残念である。また、『組織と管理』は章ごとに用語などのばらつきもあるものとなっている。というのも、この翻訳は日本バーナード協会に所属する研究者が、それぞれの論文を翻訳し(各章には翻訳者がクレジットされている)、それを最終的に飯野春樹氏が訳語などのチェックや修正を行うという形でまとめられたものである。このため、章ごとに文体や訳語の違いが大きく、また誤訳ではないかと思われる箇所もある。このため、なるべく学生が読みやすいように、訳文の修正を行っている。また、田中自身の独断的解釈にもとづいて、大胆に修正を行っている箇所もある。この点は注意して欲しい。

文中の小見出しのうち、原文が付していないものは田中がつけたものであり、原文が併記されているものはバーナードの原書の中で節のタイトルなどとして書かれているものである。

また、引用文中における強調(日本語は太字、英語は斜体)は、特に注記していないかぎり原文のまま、つまりバーナードによるものである。


『組織と管理』(Organization and Management)を読む

『組織と管理』について

『組織と管理』は、主著『経営者の役割』の出版後、論文の抜き刷りなどの依頼が多くなったことなどから、バーナードが1948年に自費出版として出版された9編の論文からなる論文集である。1935年から1946年にかけて執筆された以下の論文が収められている。

第I章人事関係におけるいくつかの原理と基礎的考察
Some Principles And Basic Considerations in Personnel Reations (1935)
第II章民主的過程におけるリーダーシップのジレンマ
Dilemmas of Leadership in The Democratic Process (1939)
第III章1935年、ニュー・ジャージー州トレントンにおける失業者の騒動
Riot of The Unemployed at Trenton, N.J., 1935 (1938, 1945)
第IV章リーダーシップの本質
The Nature of Leadership (1940)
第V章組織の概念
Concepts of Organization (1940)
第VI章世界政府の計画化について
On Planning for World Government (1944)
第VII章バーバラ・ウートン著『計画化と自由』の書評
A Review of Barbara Wootton's Freedom under Planning (1946)
第VIII章経営者のための教育
Education for Executives (1945)
第IX章公式組織におけるステータス・システムの機能と病理
Functions and Pathology of Status Systems in Formal Organization (1946)

この中のうち、組織に関連する3つの論文については、バーナード自身が序の中でコメントを加えているので、その部分についてもみておくことにする。


序(Preface)

序でバーナードが述べていることのうち、「組織の概念」「世界政府の計画化について」「公式組織におけるステータス・システムの機能と病理」についてコメントしている部分をみておく(執筆の経緯などは取り上げない)。

●「組織の概念」について。

この論文の最初の部分は私の組織概念を扱っています。それは非常に抽象的で、多くの人々には非現実的とみえましょう。私でもやはり、日常の仕事では大抵の場合、組織を一団の人々−普通には従業員に限定して−から成るものと考えますが、もっと一般的で、科学的な目的のためには、このような限定的で「実用的な」概念は不適当であると確信するようになりました。……。この組織概念は、行為者である個人よりも調整された活動としての組織を強調しています。個人は同時にいくつかの組織の「メンバー」であることが多く、その活動が同時に一つ以上の組織の機能になることも往々にして見られます。さらに、個人の組織との関係はしばしば短いので、彼らが組織の「メンバー」とはみなされませんが、私の見解では、彼らの活動のいくらかは、組織に連結する−組織を構成する、と私は考えたいのですが−「組織化された」活動の一部分であるとはっきりとみなされなければなりません。この組織の概念は「場」の概念であって、そこで活動が起こり、活動が「諸力」、あるいは人間的で社会的であり、あるものは物的である諸力、の場によって支配されています。

後で見るように、「組織の概念」では、組織を貢献者の貢献のシステムとみなすというバーナードの組織概念を改めて説明したものである。メンバーではなく貢献者で考えること、そして人ではなく活動や諸力によって構成されているとみなすべきこと、こうしたエッセンスがここでも述べられている。

●「世界政府の計画化について」について

その過程で私は、組織の構造と作用の両者についての新しい素材を提示し、自発的な横同士の合意によってもたらされる公式組織の自由な作用による、社会的活動の自律的組織化というアイデアを特に展開しました。
階層組織と側生組織の比較にあたって提示された考察は、全体主義をとるか自由社会をとるかという現代の主要な政治問題に必然的に関連します。……。われわれは、自分たちの運命を決めるような大きな仕組みを作ろうと熟考することによって、ますます計画化を信じ、自分たちの能力を信じています。これは、環境に対する必然的に予め計画されえない包括的な適応よりは、環境に対する支配を確信することです。これにともなって、公式には統制不能であるがそれでも相互依存的な部分からなるシステムの、環境に対する自律的適応能力を信頼しなくなりました。……。
われわれは、われわれの社会の無数の変数間の複雑な相互作用の無意識的適応からのがれることはできません。実際、大きい公式組織における管理における重要な技術は、集団が全体として、意識的統制なしに、情況にかなうように自律的に行動するよう、職員を訓練し、条件付け、選択することです。これが、多くの教育の潜在的な目的です。しかし、われわれの大抵は、自律的適応をのがれえぬこととそのような適応の理論的根拠の両方を、おそらくは誤った知的プライドゆえか神秘主義のおそれゆえか、理解できないようです。

「世界政府の計画化について」という論文は、世界政府という公式組織のありうる姿を考察することを通じて、計画化への過信を批判するという論文になっている。この中で、側生組織という新しい公式組織の型について考察がなされるのだが、論文全体を通じては、上で述べられているように、すべてを意識的・計画的に遂行することの困難さを指摘するものとなっているのである。

●「公式組織におけるステータス・システムの機能と病理」について

(バーナードは自身がステータスに関する講演で述べた言葉を引用している)「申し上げるべき最も大切なことは、私が長年にわたり組織と管理について研究し、語り、執筆してきたにもかかわらず、また、私がステータスの実際問題に常にかかわってきたにもかかわらず、近ごろになってようやくステータスが必然的に公式組織にシステム化されていることを実感し、今になって初めてステータス・システムの機能をはっきりと理解した、ということです。これは、人が自明の問題として知っていること、ノー・ハウの問題として応用していることのヨリ広い側面が、まったくあからさまに考察されないままになっている事例です。木に近づき過ぎて森を見失うたぐいでしょう。これは、その知識を経験から得ている人に絶えず付きまとう制約です。もちろん私は、そのような経験が組織の徹底的な理解には不可欠であると思いますが。」私はわが著作から、ハムレットとは言わないが、オフェリアくらいを見落としていました。そして、そのことを私は7年間も気づきませんでしたし、誰もこの脱落を私に知らせてはくれませんでした。

ここに述べられているように、また『経営者の役割』日本語版への序のなかでも述べられていたように、バーナードにとってステータスの問題は、主著に足りなかった重要なものとして位置づけられている。


人事関係におけるいくつかの原理と基礎的考察
Some Principles And Basic Considerations in Personnel Reations

この論文について

1935年にプリンストン大学大学院の労使関係に関する会議コースで行った講演の記録である。ここでバーナードは、人事政策の基本原理として従業員の成長をおくべきだと主張している。福利厚生に走るよりも原理に忠実であるべきこと、団体交渉による労使の対立という構図がもたらす問題、さらには組織における非経済的誘因の重要さなどを展開する。『経営者の哲学』に収められている「企業経営における全体主義と個人主義」(1934)で述べられている内容を、ストレートな提言として述べたものになっているので、併せて読むとバーナードの立ち位置が明解になるだろう。ここでは議論を丹念に追うのではなく、バーナードの主張を押さえる形で整理しておく。

まず組織の問題を考えるさいに、個人にたいして注意が払われていないことを指摘する。

われわれの当面の個人的関心が含まれている場合を除いて、われわれの考え方は、全体として、人生の協働的および社会的側面にかかわっている。われわれはあまりにも組織の諸問題に注意を奪われているので、われわれの組織の構成単位を無視し、しかもそれを無視していることにまったく気づいていない。個人を考慮せざるをえない場合は別として、個人を忘れることが、われわれにとって好都合であるかのようにさえ見える。

The whole complex of thought, except when our immediate personal concerns are involved, relates to the cooperative and social aspects of life. We are so engrossed constantly with the problems of organization that we neglect the unit of organization and are quite unaware of our neglect. It almost seems to be to our purpose to forget the individual except as he compels consideration.

近代の会社組織にいたる西洋の協働の発展史を通観して、協働が発展してきたことと、その反面として個人が省みられにくくなってきたことを述べている。

そして最後に、近代株式会社制度と組織的労働運動が成熟し、これらすべては、相互依存、協働、編成を、人生の本質的側面として、文明の建設的諸力として強調し、ついには個人の国家、社会、経済機構への従属が慣習的心的態度となるまでにいたった。個人を考慮に入れることが極めて困難になってしまった。

Then finally flowered the modern corporation and the organized labor movement, all emphasizing interdependence, cooperation, regimentation, as the essential aspects of life, as the constructive forces of civilization, until the subservience of individual to state, society, economic machinery, is the habitual attitude of mind. It has become exceedingly difficult to consider the individual.

しかし、個人を考慮することなしに協働は成り立たない:

無数の方法でなされる組織的協働ゆえに、人口の増大と生活水準の向上の双方が、そしてたぶん生活の質の向上さえもが、大いに達成されてきた。社会におけるこうした組織がなければ、後退は不可避である。しかしながら、これらの事実を認めることは、個人が個人として存在することを否定するわけではない。組織されているのは個人であり、集団の有効性は、集団化の仕組みと機能に依存するばかりでなく、基本的構成要素の質にも依存している。いずれかの側面を極度に無視することは、実際上不可能である。

By reason of organized cooperation in innumerable ways, both population and the standard of living, and perhaps even the quality of living, have greatly increased. Without such organization in society, retrogression is inevitable. Recognition of these facts, however, does not require a denial of the coexistence of the individual. It is individuals who are being organized, and the effectiveness of the group depends not only upon the scheme of grouping and function, but upon the quality of the elementary units. It is impossible in practice to disregard either aspect very far;

そしてバーナードの人事政策についての考えが次のように述べられる:

個人としての従業員の能力、成長および心的状態は、人事にかかわるすべての政策や実践の中心でなければならない、と私は強く確信する。

My own belief is strong that the capacity, development, and state of mind of employees as individuals must be the focal point of all policy and practice relating to personnel.

個人の意欲が鍵である:

組織、機構、政策、集団的方法が次第に強調されてきている世界においては、全産業における動態的な努力への鍵は個人であり、また、産業のなかで成長しようとする個人の意欲である、ということを常に留意しておくことは、良いことであり、かつ実際的である。

そして、多くの組織において、それが弱いところでもある。

厳密に検討してみると、協働的努力の鎖の中で最も弱い所は、協働しようとする意欲であることが明らかになるであろう。

協働の成果を謳っている場合でも、もし個々人の意欲の問題がもっと適切に扱われていたら、その成果はもっとおおきなものになったはずだ、ということを、バーナードは少しひねった言い方で述べている:

われわれは、組織化された努力の達成した業績を好んで誇りとするけれども、われわれがそうできるのも、多くの場合、ただ単に、個人目的とほんのわずかだけしか関係しない共通目的のために、人びとを心からいっそう協力させる方法をしっているならば達成できることに眼をつぶっているからである。

人びとをいっそう協力させる鍵となるのは経営者の誠実さと高潔さに対する信頼であり、それは正直であることを続けることでしか得られるものではないとバーナードは言う。従業員は、経営者が間違わないことや、道徳的な完全性などを求めてはいない。誠実で正直であることが大切なのだと説く。それらは日々の言葉と行為の積み重ねによって生まれていくものである。

このように、人事の基本は個人の発展とするバーナードは、福利厚生に関して、二次的な意義は認めつつも、それを中心に考えることを批判する:

それら(=従業員の福祉計画)は積極的な人事管理に代わるものではないし、また、個人の発展あるいは協働意志の育成―私の見るところ、健全な人事政策の二つの基本的目標をなす―に対して、それ自体としては大きく貢献するものではない。従業員関係の適切な遂行に代わるものとしては、それらは無益で危険なものである。

また、組織の活動における非経済的要因の重要性を指摘し、金銭的要因の過大評価を戒める。バーナードの言葉を拾っておく:

私は、種々のよく経営されている事業をいくつか観察した結果、経済的動機に基づいていない事業決定が絶えずなされていることを確信するようになった。これは事業家がめったに認めようとしないことであり、それについて気づいていないことが多いことである。……こうした非経済的活動の長い目録が、実際に事業経営を条件づけ、ただ貸借対照表のみが、これらの非経済的活動が野放しになるのを防いでいる。しかしこれらすべての刺激なしには、ほとんどの事業は精彩を欠いた失敗になるであろうと思う。金銭には、われわれが経験するどの程度の規模においてであれ、事業経営を維持してゆく足る活力はなく、あるいは、直接金銭で購入できるようなものは、適切な刺激とはならない。

In the broad sense that no business can escape its balance sheet; it is true that economic or money motive governs the administration of business. Nevertheless my observation in several different well-managed businesses convinces me that business decisions are constantly being made that are not based upon economic motives. This is something that business men seldom admit, and of which are frequently unaware. ... A long catalogue of non-economic motives actually condition the management of business, nothing but the balance sheet keeps these non-economic motives from running wild. Yet without all these incentives I think most business would be a lifeless failure. There is not enough vitality in dollars to keep business running on any such scale as we experience it, nor are the things which can be directly purchased with money an adequate incentive.

重要な点は、経済的動機だけがもっぱら支配的であるという非現実的仮定に立つかぎり、人事関係の核心に到達したり、あるいは労働争議や労使関係の成功を理解したりすることができないということである。経済的動機は、単に限定を加え、方向づけを行うに過ぎない。

同様に誤った仮定として、経済的動機は、事業や経営に対する従業員の態度を主として支配する動機であるとするものがある。……賃金で平和や満足が買えると仮定するかぎりは、人事問題の理解はありえないのである。

第三の困った、偽りの仮定は、事業で機能している経済的動機は利潤動機であるというものである。……、それは継続的事業の運営に当っての支配的な経済的動機ではない。利潤ではなく、損失の恐れが、事業体を支配している。……私が言いたいのは、経済的動機が労使関係を支配し、あるいは支配できるというのは、かなりの、そして重要な程度にまで正しくない、ということであり、そして、このことは特に利潤動機について妥当する、ということである。

続けて、労働組合との団体交渉(資本家−労働者という対立関係の中での交渉という構図)で物事を考えるのではなく、人びとの協働という観点でものを考えるべきだと主張する。

集団的取り引き(団体交渉)の哲学は、協働的態度と健全な人事諸目的の発展とに基本的には対立し、集団的協働の哲学は、健全な人事慣行や結果の発展を促進する。

このように、バーナードは個人が協働に関わることで発展していき、そこから協働意欲が育まれるようにすることが人事政策には必要だと説くのである:

要約すると、私は、個々の従業員の発展が最も重要であって、これに主として協力への意志の促進が付け加えられるべきである、という認識が、人事関係の進歩にはなければならないと信じている。これらの目的の達成にあたっての基本的な第一歩は、使用者と経営者の完全な誠実さと正直さである。

In summation, I believe the progress in personnel relations involves recognition that the development of the individual employee is of first importance to which must be added chiefly the promotion of the will to collaborate. The essential first step in accomplishing these purposes is complete sincerity and honesty of employers and managers.

かなり端折った形でみてきたが、バーナードが個々人の活動があってこその協働であるという立場に立っていることはクリアである。以上でこの論文については終わり。


民主的過程におけるリーダーシップのジレンマ
Dilemmas of Leadership in The Democratic Process

この論文について

第2章に収められているこの論文は、民主的諸制度の限界と欠陥について論じたものである。バーナードは、民主主義の本質を民主的過程によるガバナンス(統治)と捉え、その特質や限界などを論じていく。また、組織におけるガバナンスのシステムという一般的な議論も展開されている。タイトルからはリーダーシップに関する論文のように感じられるが、バーナードが統治システムとしての民主的過程と、そこでのリーダーシップの問題について述べたものになっている。

バーナードは、基本的には民主主義国家アメリカで生まれ育った人間として、民主主義が素晴らしい制度であることを信じている。しかしながら、民主主義を盲信することの危険性や、民主主義が構造的にもつ欠点を見過ごす危険性を感じるがゆえに、民主主義について批判的に吟味する作業を引き受け、民主主義が人間の協働に関わるものである観点から、民主主義の検討を行っていく。

民主主義の原則は、人間にとって必要不可欠なものである人間同士の無意識的で本能的な適応のうえに、公式的な知的活動から得られる協働上の知性を重ね合わせる努力を表している、と私が信じているが故に、いっそう喜んでこの仕事を引き受けようと思う。

The more gladly also because I believe the principle of democracy expresses an effort to superpose upon the unconscious and instinctive adaptations of men to men, so indispensable, an intelligence in cooperation secured from formal intellectual operations.

民主的統治の諸要素 (The Elements of Democratic Governance)

バーナードは民主主義に関して、以下の4つの命題をまず提示して、それに基づいて論考を進める:

このように、バーナードは、民主主義の本質を公式組織における公式的ガバナンスのシステムの一形態としておさえて、その統治システムとしての民主的過程の特質の解明へと切り込んでいく。

まず、統治システムというものについての議論が展開される。協働システムの統治システムというのは、当然のことながら、協働システム(組織)が存立・存続するのかということが重要である:

この経験が示していることは、なんらかの統治システムの最後の決め手は、それを用いている組織が存続しうるかどうかである。いいかえれば、ある統治システムが十分良いと言えるためには、すくなくともその統治システムが「作動」しなければならない。もし組織が存続できなければ、組織とともにその統治システムもまた滅び、それは当該組織にとってなんのメリットももたらさないのは明らかである。

This experience shows that a final test of any system of governance is the survival of the organization in which it is used. In other words, any such system to be good enough must at least "work." If an organization cannot survive, it is obvious that its system of governance perishes with it, and has no merit for that organization.

組織の存続は、『経営者の役割』で展開されていたように、内的均衡と外的均衡、有効性と能率の確保が鍵となる:

組織の存続は、次の二つの一般的要因に依存している。すなわち、(1)組織の外的諸関係に関しての、統治システムの有効性、(2)その内的能率、つまり具体的諸行為の凝集性、調整および服従を確保する能力、である。広い範囲内で両者は相互に依存し合う要因である。どのような行動が有効的であるかを決めることができないようなシステムは、それが失敗するからか、あるいは失敗するかもしれないと信じられているからか、いずれかの理由で、必要な凝集性、調整および服従を得ることも維持することもできない。逆に、必要な支持と服従、さらに諸活動の調整を確保しないシステムは、行動を有効的に指揮することができない。こうして、あらゆる統治システムに関して問われるべき主要な質問は、「それは外的条件に適応した行動を適切に決めているか」、「それはそのような決定を有効にする服従を確保しているか」である。

Survival depends upon two general factors: (1) the effectiveness of the system of governance as respects the external relations of the organizations; and (2) its internal efficiency, that is its capacity of securing cohesiveness, coordination, and subordination of concrete acts. Within wide limits these are mutually dependent factors. A system that cannot determine what action will be effective does not enlist or maintain the requisite cohesiveness, coordination, and subordination, either because it fails or is believed to be failing. Conversely, a system that does not secure the necessary adherence and subordination and coordination of activities cannot direct action effectively. Thus the primary questions to be asked concerning every system of governance are: Does it adequately determine action adapted to the external condition? Does it secure the subordination making such determinations effective?

このように、組織の存続という観点から、統治システムを評価する二つの基本的問いが定式化され、これに基づいて民主的過程の議論へと踏み込んでいく。

本質的な民主的過程 (The Essential Democratic Process)

統治システムとしての民主主義の本質として、バーナードは民主的過程をとり出す。

(どの「民主主義」にも観察可能な共通要因)それは、協働体の全体に影響する少なくともいくつかの決定を行うにあたって、ある過程を用いるということである。この過程は、統治のための公式的な提案―公表された政策、特定のプロジェクト、特定の地位への特別な人物の選任など―に対する有権者の公式的な同意を確保する過程であって、それは賛成者、反対者の総数の計算に依存する決定である。これは投票による決定である。

A common element is observable in all "democracies." This is the use of a certain process in the making of at least some of the decisions affecting the whole of the cooperative body. This process is that of securing formal consent of an electorate to a formal governing proposition − a stated policy, a specific project, the election of a particular person to a specified position − the decision depending upon the numerical count of those consenting and of those dissenting. This is decision by vote.

このように、協働における意思決定や選抜の方法という次元で、話し合いと多数決を用いる決定のプロセスである民主的過程に焦点を絞るのである。そして、民主主義は、この民主的過程にどれだけの人びとが参加するかに依存すると述べる:

実際、民主主義は、共通の決定によってその行動を支配される人びとが、そのような意思決定の形成に民主的過程を通じて公式的にどれだけ参加しているかの程度に依存しているといってもよいだろう。

民主的過程の基本的なテスト (The Fundamental Tests of The Democratic Process)

統治システムとしての民主的プロセスは、「民主的過程はなすべきことを適切に決定するのだろうか」「それは統治のために決定されたことを有効的に実行するのに必要な服従を確保するものであるか」という二つの問いのもとに考察される必要があるのだが、この点で、民主過程がジレンマをはらむものであり、それゆえに適切な決定が行えなくなるような限界をはらんでいることを指摘する。バーナードが指摘する限界とは以下の4つである。

これらの限界は相互関連的で相互依存的であるがゆえに、民主的過程の問題などをどれか一つに帰することはできないという。

民主的過程の利用に内在するジレンマ (Dilemmas Inherent In The Use Of The Democratic Process)

民主的過程に内在する固有のジレンマとして、バーナードは以下の4つを指摘する:

以下、この4つのジレンマについての考察がなされていく。

●I. 同意と順応のジレンマ (The Dilemma of Consent And Conformance)

これは、民主的過程は、部分的同意による意思決定(全員一致ではない)ということである。

協働的行動には実質上完全な順応が必要とされるのに、民主的方法は部分的同意による決定の一つである。こうして民主的過程は、原則の基本的な対立を含んでいる。このことは、しばしばリーダーの行動に見られると私は信じているけれども、それはほとんど述べられたことはないし、ごくわずかな人にしか認められていない。それは誤った(非効果的な)決定に導き、それゆえに民主的過程に対する信頼の減退、あるいは民主的過程の放棄にさえ導くものであるから、実践上極めて重要である。

The democratic method is one of decision by partial consent, whereas cooperative action requires substantially complete conformance. Thus the democratic process involves a fundamental conflict of principle. Although I believe this frequently evident in the behavior of leaders − political and others − it is seldom stated and is recognized by few. It is of great practical importance because it leads to false (ineffectual) decision, and thence to decreasing confidence in, or even abandonment of, the democratic process.

バーナードにおいては、貢献者や権威受容説の議論に見られるように、メンバーシップの受容による権威の一般化というものを組織の基本的なレベルにはおかない。それゆえに、あくまでも権威受容説的観点、つまり、協働に関与する人間の合意なり承認なりがなければその人間は動かないという観点からすれば、そうした決定の受容と順応が、多数決では得られないということがジレンマとして現れてくるのである。

存続し、持続していくためには、どの組織も―大きな国家であれ、限られた範囲の小さな組織であれ―その環境条件に有効に対処するにふさわしく、全体として行動しなければならず、また、個人の行為はこれらの要請に順応しなければならない。この順応はまったく一般的でなければならず、また、積極的でも消極的でもなければならない。すなわち、ほとんどすべての人は要請されたことを実行することによって、また、禁じられたことを控えることによって、順応しなければならないのである。かように、調整された努力の過程と民主的決定の過程との間の対照は顕著である。というのは、協働はほぼ全員の意思の一致を意味するのに対し、民主的過程は採決による―投票権をもつ人びとの過半数の、あるいは通常は単純多数による―決定を意味するからである。

To persist or endure, any organization − whether a large nation, or a small organization of limited scope − must take action as a whole adapted to meet effectively the conditions of its environment; and the acts of the individuals must conform to these requirements. This conformance must be quite general and both positive and negative; that is, nearly every one must conform by doing the things required and by refraining from those forbidden. Thus the contrast between the process of coordinated effort and that of democratic decision is striking; for whereas cooperation means approximate unanimity of will, the democratic process means decision by division − by majorities and usually by small pluralities of those entitled to vote.

(強調は田中)

こうした民主的過程による決定が受容されるには、過程への信頼、組織のガバナンスへの信頼が必要である、とバーナードは述べる。信頼があって、はじめて合法的なものとして受容される。

数ある事情の中で、とりわけ民主的過程への信頼があって、そのような決定が諸個人の行為を合法的に統制するものとして受容される場合にのみ―個人的には不同意であっても―、それらの決定は調整された行動の中にその効力を現しうる。

Such determinations can become effective in coordinated behavior only as, among other circumstances, faith in the democratic process leads to their acceptance as legitimately controlling the acts of individuals notwithstanding individual dissent.

民主的過程への信頼が得られる情況として、次の3つをあげる。

●II. 抽象的なものと具体的なものとのジレンマ (The Dilemma Of The Abstract and The Concrete)

このジレンマは、民主的過程で議論され決定される内容と、実際の行動のレベルとの差異のことである。この差異は、民主的過程に限らず、組織のガバナンスのシステムが一般的にはらむものであるといえるだろう。つまり、ここでバーナードが展開している議論は、「事件は会議室で起こっているんじゃない」という、組織的決定のジレンマの議論であるとみなせるのである。

第二の型のジレンマは、第一のものと密接に関係しているが、抽象的なものと具体的なものとの間の、理念の言語化とその理念がかかわる特定の行動との間の食い違いということである。

The second type of dilemma, closely related to the first, lies in the discrepancy between the abstract and the concrete, between the verbalization of ideas and the specific activities to which they refer.

バーナードは、民主的過程は本質的に抽象的であると指摘する:

民主的過程とは、言語的な声明の形をとった決定の過程である。問題が公式的に決められるだけでなく、決定は、選挙権に関する詳細な規定をもった一定の投票手続によってなされる。そのようにしてなされたどの決定も当然に抽象的な提案である。

The democratic is a process of decision in the form of a verbal statement. The issues are not only formally determined, but decisions are made by definite procedures of voting with specifications as to the franchise. Any decision so made is necessarily an abstract proposition.

言語による、手続的な過程であるがゆえに抽象的というのは、やや強引に感じられもするが、議案として整理され、討論され…… という会議が、現場で起こっている問題からすれば抽象的である(ようは情報が階層を上がって伝達される際に抽象化=一般化されていく)というのは、階層システムの情報処理の特質でもある(それが一定の不確実性の吸収=排除という役割を担っているのではあるが)。

このようにして民主的過程は、知的な抽象に対する同意、不同意を決めるための過程である。しかし、組織の有効性が依存している順応は、個々人の具体的行為に関係する。個々人の行為の順応と個々人による抽象的提案の受容との間の区別は、よく知られているけれども、その重要性にもかかわらず無視されることが多い。全員一致の同意があってさえ、行動が決定に順応していないことが目立って見られよう。

総論賛成各論反対、という言葉があるように、ある一般的抽象的な水準で合意がなされても、それが行動の次元で実現されるかどうかは問題がひそんでいるわけである。

抽象的な内容での合意が、行動レベルでの実現と食い違うのは、関与する人びとの悪意なり不作為という皮相的なものではなくて、ある意味で人間の本質にかかわることであるとバーナードは述べる。

抽象的な提案に対する過半数または多数の同意による決定と、具体的行動のほぼ完全な順応とは、もともと一致しないのである。すべての一般的な決定は抽象的であり、未来にかかわっている。それは必然的に未発現の細目についての評価を含んでいる。さらに、一般的決定にかかわっている行動の巨大な集合は、細かい点までは人の理解と想像を超えている。それゆえにこのジレンマは、意識的な社会的・知的提案と、現在の組織的行動および過去の社会的経験によって条件づけられた、諸個人の無意識的な生理的ないし生物的な性向との間の対立として記述されよう。こうして人びとはしばしば、事実上その肉体的、精神的ないし情緒的能力を超えることの実行に同意することがある。人びとは抽象的には望ましいものとして受入れたことが、現実のレベルでは望ましいものでもなく苦痛なものですらあることを後になって見いだす。彼らは、自分たちが公式的に同意したことであるにもかかわらず、自分たちでも理由に気がつかないまま、不快である行動を拒否したり回避したりするのである。

The inconsistency between decision by majority or plurality consent to abstract propositions and approximately complete conformance of concrete behavior is inherent. All general decision is abstract and relates to the future. It necessarily involves an estimate of undisclosed details. Further, the enormous complex of action which is covered by a general decision is in detail beyond the comprehension and the imagination of men. Hence, this dilemma may be stated as the conflict between conscious socio-intellectual propositions of individuals conditioned by present organization action and by past social experience. Thus men often agree to do what in fact is beyond their physical, mental, or emotional capacities. They accept in the abstract as desirable that which they find in reality to be undesirable or even painful. They often refuse or avoid action that is repugnant to them without knowing why, though they have formally consented to it.

ここで指摘されている、抽象的な決定と、具体的行動の差異の問題(ジレンマ)は、民主的過程に固有のものではない。ガバナンスのシステムが一般にはらんでいる問題である。では、この問題=ジレンマの民主的過程固有の特質は何か? バーナードは、その点について次のことを指摘する:

(1)の方は、民主的過程が比較的に優れている点、(2)は劣っている点を指摘している。(1)に関連して、以下のようにいう:

責任ある個々人の決定は、主として情況感―抽象のレベル以下の無意識的な、非知性的な反応と習慣の要素を含む―に基づいてなされる。経験豊かなリーダーは、経験ある医者と同じように、自分たちの判断のもっともな理由を明確に述べることが即座にできず、あるいは全然出来さえしないのに、しばしば諸事情を正しく「診断」できる。

Decisions of responsible individuals are made largely on the basis of a sense of the situation, involving elements of unconscious and non-intellectual reactions and habits below the level of abstractions. Experienced leaders, like experienced physicians, are frequently able to "diagnose" conditions correctly, though unable to quickly or even at all to formulate intelligible reasons for their judgments.

民主的過程の特質といえるのかどうか、微妙なところがあるのだが、少なくとも、その決定に関与する個々人の判断の質の問題であるということだろう。

(2) に関しては、民主的決定は取り消しが難しいがゆえに、それが根本的な反作用を生み出すことを指摘する:

決定的なジレンマは、他と対立している具体的事象としての民主的決定は、すぐには取り消し困難であるという事実から生じてくる。そのような対立を回避する普通の方法は、それゆえに、決定を無視することである。したがって民主的過程には、不法を作り出し、かくして自らを破壊するにいたる根強い傾向が存するのである。

The crucial dilemmas arise from the fact that a democratic decision as a concrete event conflicting with others is difficult to reverse promptly. A common method of avoiding such conflicts is, therefore, to disregard the decision. Hence, there is a persistent tendency of the democratic process to create illegality and thus to destroy itself.

●III. タイムラグのジレンマ (The Dilemma of Time-Lag)

民主的過程による決定に存する3つのタイムラグを指摘する。

基本的に、民主的過程は時間がかかるものである。それゆえ、時として、民主的過程を回避することが必要になる:

民主的過程を回避することによって迅速な答えを得るために、まったく効果的な―しかし通常は違法な―技術が必要となることがよくある。

しかしながら、決定することの責任から、迅速な決定が行えないということもありうるとバーナードは指摘する。

このように、民主的過程は時間がかかる。それが重大な影響を与える。

(民主的過程に時間がかかること)そこに含まれる不決断の要素は、協働における影響力のうち、もっとも破壊的なもののひとつであって、このことは十分に理解されていないように思われる事実である。行動の効果的なタイミングがしばしば不可能であるばかりでなく、時間の遅れは、決定のしかるべき実行に必要な創意と熱意を弱めるのである。

The element of indecisiveness thereby involved is one of the most destructive of influences in cooperation, a fact that appears to be not well understood. Not only is the effective timing of action often impossible, but delay depresses the initiative and enthusiasm required for the proper execution of decisions.

このタイムラグのジレンマを避けるには、民主的過程の回避や放棄しかないのである。タイムラグは、民主的過程が内在的にはらむ問題で、避けえないものであることにバーナードは注意を喚起する:

選挙民のメンバーそれぞれが民主的過程の運営に対してどれほど有能であるとしても、あるいは民主的に機能している集団のリーダー達がいかに有能であるとしても、タイムラグは民主的過程それ自体に内在的である。このことは特記すべき重要な点であり、私にはこのことが、協働的効果をもつ他の諸意思決定システムに関するあらゆる事実のうちで、最も明白なことのように思われる。

On the other hand, no matter how competent may be the members of an electorate for the operation of the democratic process or the leaders of a group operating democratically, time-lag is inherent in the democratic process itself. This is the important point to note and seems to me to be the clearest of all facts regarding alternative systems of decision having cooperative effect.

●IV. 政治的対立のジレンマ (The Dilemma of Political Conflict)

「民主的過程の4番目の一般的なジレンマで、ここで取り扱う最後のものは、それが政治的対立を引き起こして、組織を解体させるということである」。民主的過程では議論が行われるのだが、そこでは様々な政治的な要因が入り込むことになるということである。

ここで注意すべき点は、人びとが不同意を表明するのが、なすべきこと、あるいはすべきでないことに関してではなく、むしろ理由に関わっているということである。人は、理由もなしに、「権威によって下された」決定に従うことがよくある。「権威によって下された」決定というものに、「もっともなもの」として、あるいは実行可能なものとして、あるいはもっとよくあるのが何の考えもなし、それに従う。なぜなら、彼らはその決定に責任をもたないからである。もし彼ら自身が決定に関与しなければならないのであれば、僅差の過半数や多数である場合を除いて、「同意」することはないだろう。これは単に他人の揚げ足取りだとか気ままな横暴といったものではない。公式に設定された一般的決定は、計画されている具体的行動の象徴であるだけでない。それはまた必然的に、意思決定に参加している人びとそれぞれにとっての行動の哲学を象徴しているのである。哲学の相違は、物質的利害の相違以上に不和の重要な原因にもなりうるものである。

The point to be noted here is not that men disagree as to what should or should not be done but as to reasons. Thus they will often follow decisions "made by authority" without reasons, as "reasonable" and practicable, or more often without a thought, since they take no responsibility; but will be unable to "agree" (except by narrow majorities or pluralities) if they themselves have to participate in the decision. Nor is this merely captious or arbitrary. A formulated general decision is a symbol not only of projected concrete action. It also inevitably symbolizes a philosophy of action to each of those participating in the decision. It may be true that differences of philosophy are even more important sources of discord that differences of material interest.

このような政治的対立(駆け引き、責任逃れ)は、討議を経て決定を行う場合には、不可避なものであるといえる。

ここまで述べてきた4つのジレンマは、何も民主的過程に固有とは限らないが、民主的過程は、こうしたジレンマから本質的に逃れられないものであるというのがバーナードの認識である。そして、こうしたジレンマが実際の組織においてどのように解決されるかは、組織のリーダー次第であると述べる。

各過程に内在するジレンマのそれぞれの意義は、それが適用される諸条件と併せて、そしてまた、適切な組織リーダーの有無と併せて、評価されるべきである。なぜなら、組織ジレンマを解決するのがリーダーの究極的機能だからである。

The relative significance of the dilemmas inherent in each process is to be appraised in conjunction with the conditions of its application; and also in conjunction with the availability of suitable organization leaders. For it is the final function of leaders to solve organization dilemmas.

それゆえ、続いて、ある意味でこの論文の本題でもあるのだが、リーダーをめぐる問題へと論考は進んでいくのである。リーダーのジレンマ (The Dilemmas Of Leaders)

まず最初に、リーダーとはどんなものか、ということが確認される。リーダーは、任命されたある地位に就いている人のことではなく、人びとの行動を実際にリードする人であることが確認される。

組織の機能している構成要素としてのリーダー達は、公式的に指名され、選抜され、選出され、任命されはしない。彼らはリーダーたるべく生まれてくるのでもない。彼らは受入れられ、従われるのである。そして時に彼らは、指導することを押しつけられ、(稀に)強制される。……。またリーダーは、歴史的にも論理的にも、公式的な組織決定のシステムに先行するものである。リーダーはあらゆる統治システムの選択ないし採用にあたっての第一義的要因であった。しかし、そのようなシステムは、ひとたび確立されると、それはリーダーの機能を条件づける要素となり、また、それを手段にしてそうした機能が遂行されることになる。このことは、統御の地位が努力の調整―すべての統治システムでの共通要素である―に不可欠であるという事実、および、リーダーはそのような公式的な地位を通じて主として活動しなければならないという事実から生じてくる。

Leaders as functioning elements of organization are not formally nominated, selected, elected, or appointed, nor are they born to leadership; they are accepted and followed; and are sometimes pressed or (rarely) coerced into leading. ... Also leaders historically and logically precede all systems of formal organization decision. They have been primary factors in the selection or adoption of every system of governance; but once established, such a system becomes a conditioning element of the functions of leaders and also a means by which their functions are carried out. This arises from the facts that leaders must operate chiefly through such formal positions.

このようなリーダー達は、本質的に二つの大きなジレンマに直面する:

以下、具体的にリーダーが直面するジレンマを3つ取り上げて論じていくことになる。その3つとは:

●I. 有効的な行動と政策のジレンマ (The Dilemma Of Effective Action and Politics)

リーダーが実際の行動において有効な決定を下すことの難しさがこのジレンマなのであるが、バーナードは、まず専制的なガバナンスのシステムにおけるリーダーのジレンマを解き明かすことから話を始める。

専制的な統治システムでは、すべてのリーダーないし執行者は、組織努力の目的に最も適切な特定目標が、その達成に用いうる手段、つまり、その努力が利用される人間、とはある程度は調和しない、という事実に含まれるジレンマにたえず直面している。なすべき選択は通常、理想的な目標を、諸個人―彼らの努力が目標を達成しなければならない―の能力、情緒、および意志に適合した目標にいくらか修正するように求め、そして同時に、訓練、教訓、実例および激励によって、諸個人をいくらか修正するように求めている。こうして、そこには、まず、一方で受容可能な目標の範囲についての、他方では、努力を提供することになる人びとの能力と性質に関しての、二つの点に関する技術的性格をもつ判断の問題が存在する。これらに関してあらかじめ判断した上で、リーダーは、正確な目標について、そして、有効な協働的努力の確保に必要な確たる指導、説得および誘因について、詳細に決定する。これらの決定には、リーダーの側での、技術的状況と人的資源―その努力が利用される個人と集団―との双方についての、経験、集中力および技術に基づいた、深い知識と直観的理解が必要とされる。

In an autocratic system of governance every leader or executive is constantly confronted with the dilemma involved in the fact that a specific aim most appropriate to the purpose of organization effort is in some degree out of accord with the means available for its accomplishment, that is, the human beings whose efforts are to be utilized. The choice to be made usually requires some modification of the ideal aim to one adapted to the capacities, emotions, and wills of the individuals whose efforts must accomplish it; and simultaneously some modification of the latter by training, precept, example, and inspiration. Thus there are involved initially nice questions of judgment of a technical character as to the range of acceptable aims on one side, and on the other, concerning the capacities and dispositions of the persons whose efforts are involved. Taking into account these preliminary judgments, leaders reach decisions in detail as to precise aims and as to the definite instructions, persuasion, and inducements necessary foe effective cooperative effort. These decisions call for intimate knowledge and intuitive understanding based on experience, concentration, and skill on the part of the leader both as respects the technical situation and the human resources, that is, the individuals and groups whose efforts are to be utilized.

ここで述べられている目標と人びととの不調和というジレンマは、民主的過程においても緩和されない(決定の過程の具体的な進行の仕方などは変わるにせよ)。むしろ、多数の意見調整を行って決定していかなければならないという、更なる困難を抱え込むことになるのである。それゆえ、民主的過程ではこのジレンマがトリレンマになるとバーナードは述べる:

したがって、民主的過程は一般に、最初のジレンマにもうひとつのジレンマを付け加える。それはリーダーにとってはトリレンマの創出である。彼は、(a)技術的(外部的)情況に、(b)内部的な、作用している組織の状態に、(c)目標と手段についての、少なくとも過半数の抽象的で「民主的」な意見、そして通常は少数意見にも、同時に適用される具体的行動プログラムを求めなければならない。後者は政治的要因である。原則としてそれは、民主的過程から完全に除去しえないものである。

Decision as to one part of the problem is often made without attention to the other part, because the requisite intimate knowledge and concentration and sense of the situation are not available to the individual participants in the democratic process. That process therefore in general adds a second dilemma to the initial one. It creates for the leader a trilemma. He must seek a concrete program of action which is at once adapted (a) to the technical (external) situation; (b) to the internal operative organization condition; and (c) to at least the majority abstract "democratic" opinion, and usually also to the minority opinions, both as to aim and means. The latter is the political factor. In principle it is ineradicable from the democratic process.

多数の意見の調整という政治的要因が入り込むがゆえに、民主的過程を用いることを避けることになる場合が少なからずある。

政治的諸要因の好ましくない諸結果がほとんど回避しえないこと、民主的過程が理論的に利用できるはずの多くの情況が、このただ一つの理由で、民主的過程による解決を用いられないことは、よくある。理由は明白である。協働的努力というより原初的な要因に政治的要因が付加されると、リーダーシップの複雑性が大いに増大する。これらの複雑性は、例示すれば、含まれる要因の数の3乗の割で増大するものとみなされよう。それで、複雑さは、専制的方法にくらべて民主的過程のもとでは、およそ3倍の大きさになるといえるかもしれない。

つまり、バーナードは、具体的な行動の目標の決定に当っては、民主的過程は、専制的過程よりも困難を抱えている(リーダーに課するものが大きすぎる)と指摘するのである。

このことは、普通の場合に十分である以上にリーダーの数が量的に多く、リーダーが質的にもより良質でない限りは、民主的過程は一般に、少なくとも短期間では、専制的過程よりもそれほど有効的でなく、また能率的でもないということを意味している。このことを過小評価することは、民主主義の理想に対してひどい危害を加えることになるだろう。

This means that the democratic process in general will be less effective and less efficient, at least for short time periods, than autocratic processes unless the quantity of leaders is greater and their quality better than would be otherwise sufficient. It would be a great disservice to the ideal of democracy to underestimate this.

●II. パーソナリティと地位のジレンマ (The Dilemma of Personality And Position)

これはリーダーにどんな人を就けるかということに関する困難である。まず、効果的なリーダーシップが発揮される条件が確認される。

組織における効果的なリーダーシップは、一方ではふさわしい資質をもったリーダーに、他方ではリーダーが配置されるべき地位のシステムに依存する―コミュニケーションの地位における伝達者に依存する。通常はコミュニケーションの、あるいは公的組織の2、3の仕組みのうち、限られたものがある時点で実行可能とみなせよう。

理想的な配置が不可能である以上、コミュニケーションの体制や地位の仕組み、あるいは任命(選抜)によって調整しなければならないのは、どのような統治システムであっても同様に直面する問題ではあるが、民主的過程では、このジレンマ(リーダーの最適配置が難しい)は、3つの源泉によって生まれてくるとバーナードは言う:

「民主的過程は、人をその組織地位にとっての価値に基づいて選択するのには比較的無力である」

●III. 拡散した責任のジレンマ (The Dilemma of Diffused Responsibility)

民主的過程では、リーダーは、自分が決定したのではないことに責任(や功績)を負う。そのことがもたらす問題である。

民主的過程は、選挙民内での責任の拡散を伴うだけでなく、加えてリーダー達が他人の政策を実行すべきことをも求めている。彼らは自分自身のものでない落度によって公に非難されている。そして逆に、他人の功績が彼らのものとされている。このため、部下に対するリーダーの影響力は、弱められている。こうして、民主的過程は、リーダーおよび部下の独創力、熱意および自信を押さえつけ、そしてリーダーのインセンティブと彼らの個人的責任を大いに減少させる。質量共に増加しなければならない、まさにその状態のもとで、リーダーシップの質は低下し、リーダーの数は限られている。

The democratic process involves not only a diffusion of responsibility within an electorate, but in addition it requires that leaders shall carry out policies of others. They are publicly blamed for faults not their own; and conversely, they are credited with false merits. Their influence with their followers is thereby weakened. Thus this process restricts the initiative, enthusiasm, and confidence of leaders and their followers and greatly reduces the incentives to leaders and their personal responsibility. The quality of leadership is reduced, and the quantity of leaders narrowed, under the very conditions which require that both should be increased.

これゆえに、安易に民主的過程を拡大することへの警告を述べる:

民主的過程がわれわれの社会の公式に組織化された諸努力にもっと広く拡大されても―任命に関するかぎりで―、その時に必要とされるリーダーのずっと高い質とずっと多い量を確保できずに、その拡大は急速に崩壊するだろうと思う。

以上のように、バーナードは民主的過程というものが、リーダーにとってみれば様々な課題を課すものであることを指摘した上で、そのことを過小評価しないこと、そして民主的過程は優れているものではあるがどんな情況にも適用できるものでないことに注意を促すのである。

民主的過程のジレンマはリーダーの選抜や育成に影響を与え、あるいは部下をくじけさせ、そのために凝集性や調整を減じるので、それらを過小評価するのはひどく愚かなことである。民主的過程におけるジレンマは、他の諸過程の同様のジレンマと比較して、決して致命的なものではなく、多くの情況において他の諸過程よりは優れているように思われる。しかし、おそらく、多くの情況において、民主的過程という統治システムは不十分なものであって実質的に実行不可能であること、このことははっきりと認められるべきである。

統治システムの採用 (The Adoption Of System Of Governance)

ここまで民主的過程を協働システムの統治(ガバナンス)システムという観点から論じてきたわけであるが、実際の組織において、どのように統治システムが決まるのかという問題をここで論じる。

バーナードは、実際の統治システムを決めるのは、協働の非公式過程の問題と位置づけるのである。

(統治システムの選択)これらの質問に対する答えは、協働の非公式的な過程―それらはすべての公式的諸過程の基礎になっている―に関連する。答えは、リーダーとフォロワーとの共同の同調的行動によって、公式的システムが強化されるということである。声無き「行動の民主主義」が、公私を問わず、すべての統治システムを決定する。王が何を言うかではなく、いかに行為するかが、その臣民がなにを言うかではなく、なにを実行するかが、この問題を解決する。

(What determines fundamentally the choices of methods of government in great and small organization?) The answer to these questions refers to the informal processes of cooperation that underlie all formal processes. The answer is that the formal system is confirmed by the confirmatory behavior of leaders and followers jointly. A silent "democracy of behavior" determines all systems of government, public or private. Not what the King says but how he acts, not what his subjects say but what they do, determines this question.

人びとが能力と情況に応じて、ガバナンスを選択する。それは民主的過程でないほうがよいこともある。

人びとのやろうという意思とやることのできる能力が問題を決定する。彼らはある条件の下で民主的過程を用いることができるし、用いようとするだろう。他の条件の下では、彼らは用いることができず、用いることを拒否するだろう。複雑性があり、大きい危機が迫り、迅速な行動が必要な条件下では、例えば戦闘中などには、彼らがこれまで委員会に従ったり、リーダーを選挙で選んだりしようとはしなかったし、できるものでもなかった。

そして、いったん採用された統治システムは、それがリーダーとフォロアーの行動に破壊的な影響をもたらすことになったとしても、その事自体をその統治システムは公式的には認めない。それが統治システムの根本的なジレンマであるとバーナードは述べる。

一度受容されたシステムが、リーダーとフォロアーの行動の相互適合を破壊する―それが非有効的な決定をしたり、あるいはリーダーシップを破壊し、フォロアーの仲をさいたりするという、いずれかの理由によって―ならば、その時には解体、分裂、反乱、あるいは新しいシステムへの順応などが、その結果として起こってくる。しかしながらこのことは、専制的であれ民主的であれ、公的であれ私的であれ、いかなる公式的な政治体制も原則として明らかに認めることのできない教義―協働する人びとが普遍的に必要とするようにみえる正当性と合法性の感覚の破壊を伴うことなしには、認めることのできない教義―である。これこそがすべての統治システムにとっての基本的ジレンマである。

If a system once accepted destroys that mutual adaptation of behavior of leaders and followers − either because it reaches ineffective decisions, or destroys leadership or divides followers − then disorganization, schism, rebellion, or conformance to a new system ensues. This is a doctrine, however, that no formal government whether autocratic or democratic, public or private, can apparently admit in principle, without destruction of the sense of legality and legitimacy which cooperating men seem universally to require. This is the fundamental dilemma of all systems of governance.

民主主義の限界 (Limitation Of Democracy)

論文の締めくくりとして、民主主義の限界、利点、そこでのリーダーシップについてバーナードは述べる。まず限界としては、以下のことを指摘する。

このような限界から、民主的な決定が可能な領域は、必ずしも広くないといえる。

民主的過程の利点 (Merits Of The Democratic Process)

利点については、もし民主的過程がうまく作動するのであれば、どのようなメリットが生じるのかということをバーナードは述べる:

諸条件と欲求とが、民主的過程の働きを可能にしているところでは、また、それがこれらの諸条件に限定されているところでは、それは、特に全般的な統治の分野において、大きい優位性をもっていると私は思う。
……
これらの優位性とは、民主的過程が結局、……、より高度なふさわしいリーダーシップのいっそう大きな可能性を与えるということであり、そして、あまり混乱の可能性を伴わずに最高の地位への継承を可能にするということである。
……
さらにそれは、公然の同意によって組織の連帯を鼓舞し、参加感を増大させるために用いられる過程である。
……
民主的過程にとって必要な行動、思想、原論の相対的自由は、より広い個人的責任感と、個人における独創性と適応性を発展させる。これは、大きな組織危機に対処するに際して重要な、より大きい組織柔軟性と適応能力を可能にする。

民主的リーダーシップの質 (The Qualities Of Democratic Leadership)

民主的過程は、なによりその過程へのシステム的な信頼が必要であるが、リーダーもまた必要であり、そのリーダーには高い資質が求められるのである。

民主的システムへの信頼は、その利用になくてはならぬものであり、また、人の人に対する揺れ動く忠誠心にまさるものでなければならないけれども、それでもリーダーなしには民主主義も、いかなる統治システムも存続できない。いかなるシステムにおいても、リードする人たちは、なすべきことを見極める能力と、それが部下によって実行されうる方法を見いだす能力をもっていなければならないし、それらの能力の組み合わせは部下によって受入れられなければならない。しかし民主主義においては、真に一流のリーダーシップが必要とされる。

Although faith in the democratic system is essential to its use, and must be superior to the wavering loyalties of men to men, yet without leaders neither democracy nor any system of governance can survive. In any system those who lead must possess in some combination acceptable to their followers the capacities of discerning what ought to be done and of how it can be done by those who follow them. But in democracies a veritable aristocracy of leadership is required.

「民主的過程は、政府においてであれ、あるいはそれが使用されるかもしれない他の無数の組織においてであれ、リーダーに依存している」のであるが、この論文でバーナードが述べてきたように、そのリーダーに課せられるハードルは高い。その困難に挑戦する人びとが多数生まれてくることへの期待を述べて、この論文は終わっている。

以上でこの論文は終わり。


1935年、ニュー・ジャージー州トレントンにおける失業者の騒動
Riot of The Unemployed at Trenton, N.J., 1935

この論文について

第3章に収められているこの論文は、バーナードがニュー・ジャージー州救済局長官を努めていた時に体験した失業者団体との交渉を、記述し分析を加えたものである。ローレンス・J・ヘンダーソンがハーバード大学で開講していた「具体社会学」の授業における実例報告の一つとして、バーナードが行った報告を収録したものになっている。

社会学の授業で、みずからの体験を振り返りながら、社会学的な自己分析を行って見せる(バーナードは臨床的という表現をもちいている)というものであることから、この論文は単なるバーナードの体験の記録にはなっていない。記録されている出来事において起こったことを分析するという点では、具体的な状況での相互行為をどのように捉えるべきかという、バーナードの相互行為論(具体的状況下での行為論)が展開されているが、さらにはそうした分析自体がどのような意義をもつものかという点も論じているという、二段構えの議論が為されている。

そこで、ここでは、具体的なバーナードの活動の記録ではなく、バーナード自身の分析に焦点を絞ってみていくことにするが、論文の検討の前に、若干の予備知識の確認を行っておく。というのも、ここでバーナードが分析に用いるのはパレートが The Mind and Society (『社会学大綱』)のなかで展開した、人間の非合理的行動に関する概念的枠組なのである。バーナードは論文の注で最低限の補足的説明は行っているが、あらかじめ簡単にその枠組を紹介しておく(パレートの正確な解説ではなく、あくまでもバーナードを読むための予備知識として整理したものである)。

簡単に言うと、大半の人間の行動は非論理的なものである。そうした行動は、残基 (residue) と呼ばれる心的状態(本能、動機)によって駆り立てられるものである。残基とは人間の基本的欲求といってもいいだろう。さらに、人間の場合は、そうした非論理的な動機を、合理化して表現し、そちらを本当の動機であるかのように語って論理的行動のようにみなしたがる。残基を合理化した理論のことを派生 (derivation) という。

つまり、人間は、自分の行動を説明したり意識したりする場合は、ある種の論理的説明である派生を理由としてもってくるが、本当はその背後にある非論理的な残基が行動を駆り立てている、とするのである。つまり、人間ってのは、自分の行動を合理化したがるんだが、本当はそんなに合理的には行動してない、ということだ。

パレートは、こうした人間の残基を6つに分類している。バーナードが注で説明しているものを載せておく:

社会学のテキストなどでは、III 「感情の外的表現」、IV 「社会性の感情」(社会を作り、人びとと同じように行動し、他人から認められたいという欲求)、V 「生命と財産の安全」となっている。

このパレートの概念的枠組をバーナードは用いるわけである。ここで、われわれは、バーナードが常に個人の行動の具体的行動は、非論理的な側面あり、それが重要であること、さらには組織における非公式組織や道徳的側面を重視したということとの繋がり(一貫性)に気がつくだろう。

いずれにせよ、具体的行動の場面では、そこで語られている内容よりも、語っている行動によって表現されていること(コンテンツではなく、パフォーマティブな側面)が重要であることや、具体的な行動の場面では理知的な判断や知識が直接役に立たない局面があるといった、お馴染のバーナード的な行動論、人間論が、展開されているのがこの論文である。

主動的参加者と自己分析

バーナードは、具体的な事例に入る前の部分で、過去の自己の行動の記述は自己合理化でしかないと断言する。つまり、先のパレートの図式で言うところの派生であることに注意をうながす:

およそ記述というものは、少なくともその分析的部分においては、必然的にまったくの合理化 (rationalization) だということである。私は、あなたがたに、状況をあれこれ診断したとか、かくかく意図したとか、こんな具合あんな具合に反応したとか、あれこれの結果を生み出したとか、他の人びとはあれこれと影響を受けた、とかと語るであろう。これらはすべて、出来事の後で私が作り上げたことである。行動の最中には、合理化を行う時間など私はほとんど持っていなかった。私の行為も、そしてまた他の人びとの行為も、共に、必然的に反応的であり、直観的、感情的であった。このことは、多数のしかもほとんど瞬時的な決定の必要性が、短期間内に参加者に課せられるような社会的状況においては、いつでも、あるいは、ほとんどいつでもあることだと私は信じている。

It is that necessarily the description, in its analytical portions at least, is pure rationalization. I shall tell you that I diagnosed the situation in this or that way, that I intended this or that, that I reacted in this or that way, that I produced this or that effect, the others were affected in this or that way, etc. This is all concocted by me after the events When the action was taking place I had almost no time for rational processes. Both my action and that of others was necessarily responsive, intuitive, emotional. I believe this is always, or nearly always, so in social situations in which the necessity of numerous and almost instantaneous decisions is imposed on the participants within a short period of time.

実際に現場で行動する際には、予備的な知識等は、直観的な形でしか関与しないものであるとも述べる。

皆さんに注意を促しておきたいのだが、知的活動によって獲得された知識とか、知的もしくは論理的思考過程とか、それらのいずれもが行為には何ら関与しなかった、と私が言いたいのでは必ずしも無い。それは逆なのであって、確かに私自身の事例では、事実、多くの知識と、多くの容易ならざる思考がその出来事に先行していた。それにもかかわらず、行為のその時点においては、それは直観的な仕方でのみ(慎重でも意識的でもなく)使用されていたに過ぎないし、使用することが出来たであろう。

さて、バーナードが救済局長官として向き合うことになった出来事というのは、失業者(救済措置の対象者)たちとの会見であった。その会見の第1回は、代表者たちとの話し合いの会場の外には、失業者たちが集まっているという、ある種の緊迫状態の中で行われたのであるが、それを振り返りながら、バーナードは 社会的緊迫状態について、次のように分析している:

私は社会的緊迫状態を次のようなものとして定義したい。すなわち、その社会状況での個人の関心が、事件の発生によって影響を受けるために、彼らの将来の個人的地位の不確実性に専ら注がれるような状態である。恐らくその主観的効果は、個人的立場からする戦略をば行動の支配要因とすることであって、その結果、交渉主題に関しては、知的にも情緒的にも共に正常な行動を歪めることになる。その最も明白な効果としては、通常は、対立する集団内部の結束が増加し、集団間の疎遠さが拡大されることであるように思う。

社会的緊迫状態では、まずは緊張的対立感を和らげることが最優先になること、そのために自分がとった行動(相手よりも少ない人数で会見に臨む)が述べられていく。

この第1回目の会見は、会場の外にいた集団の騒乱によって中断されることになった。その騒乱に関連して、バーナードは、その騒乱自体が、自己表現のひとつのあり方なのだと分析している。

まず、「行為欲求(表現的行為の欲求)」の重要性を言う:

一般的性格をもった観察がひとつだけ必要である。それは集団の動機にかかわるものである。これは、私の意見では、主として行為の、すなわち何かをするという動機である。皆さんはパレートの残基の一つが、「感情を表現するための行為の欲求」と題されていたのを想起するであろう。私は、この「行為欲求」に対して、パレートの場合によりもずっと主要な位置を与えている。私見によれば、それは可変的だが、ほとんど普遍的な人間の必要性であって、実務家、社会科学者のどちらからも十分注目されていないものである。

It call for only one observation of general character not already made. This concerns the motive of the crowd. This was, in my opinion, primarily that of action − of doing something. You will recall that one of Pareto's classes of residues is entitled: "the need of action to express sentiments." To this "need for action" I give a much more important place than Pareto. It is, I think, an almost universal though variable necessity of human beings, and one that is inadequately noticed both by men of affairs and by social scientists.

そのうえで、集団の騒乱を、通常の日常的な行為の機会が奪われた人の、表現的行為なのだと分析する:

ところで、有益であるか、または、理に適った行為のための機会を見出すことの難しさは、想像力の乏しい人間同士にとっては特に大変なものであるから、慣習的な行動の道筋が崩壊することは、彼らにとっては深刻な制約というか、むしろ刑罰ですらある。1つの階級としての失業者は特にこのような事情に苦しめられている。集団会見に臨んだり、われわれの話し合いの場に集まったり、歌を唄うことは、他のいかなるものにもまして「何かをする」欲求の結果なのである。「よそもの」の扇動者たちが活動していたことは疑いもないが、その時の群衆の行動は、状況も結果も危険なものであったにもかかわらず、根元的な人間欲求の純真無垢な表現であった。

Now the difficulties of finding opportunities for useful or legitimate action are substantial, especially among unimaginative persons, so that a breakdown of habitual channels of activities is a serious restriction or penalty to them. The unemployed as a class suffer especially from this. Attending a mass meeting, congregating at the place of our conference, singing songs, were more than all else a result of the need of "doing something." Although certain "foreign" agitators were undoubtedly at work, the behavior of the crowd was an innocent expression of a fundamental human need, notwithstanding that the conditions and the results were dangerous.

2回目の会見で、バーナードは代表者たちの意見にじっくりと耳を傾けたうえで、自分の立場と見解を述べて、合意にいたるのであるが(具体的な記述は本を読んで欲しい)、その過程を分析して、代表者たちの根本的な欲求を自己表現と認知だったと述べている:

これらの人びとが望んでいるのは、自己表現と認知のための機会であった。彼らの組織は、人びとに一つの機会を与えたし、われわれの話し合いは他のもうひとつの機会を与えたのである。だが、もしそこでの苦情は取るに足らないものだとして相手にしなかったとすれば、彼ら自身や家族のための多少の食糧よりもこれら人間存在にとって本当にもっとも重要な機会を、破壊してしまうことになったであろう。皆さん方にとって重要なことは、それを意識しているときですら、人は最も欲しいものが何であるかをしばしば語ることができない、ということを知ることである。「たとえ腹がへっても、私は一人の人間として、市民として、この社会の一員として、認められたいと心から願っているのだ」とは、私に対してはおろか、お互い同士にも、彼らはいえなかったのである。そういうこと自体が自尊心を傷つけることになるだろうし、空しいことでもあるだろう。他の無数の事例でも同様だが、この事例においても、彼らが欲しもしないものについて人びとは語り戦うのだが、それは彼らが何かを語らなければいられないからであり、彼らが口に出すことを信じていると自らに納得させようとさえするからである。

What these men wanted was opportunity for self-expression and recognition. Their organization gave them one opportunity, our conference another. To have dismissed the grievances as trivial, however, would have been to destroy the opportunity that was literally more important to these personalities than more or less food for themselves or families. It is important for you to know that men often cannot talk about what they most want even when they are conscious of it. They could not say either to me or even to each other "I am starving to be recognized as a man, as a citizen, as a part of the community." To do so would itself destroy self-respect and would be futile as well. In this case, as in countless others, men talk and fight about what they do not want, because they must talk about something, and they even convince themselves that they believe what they say.

失業者の救済措置に関する会見であるのだから、表面的には、経済的な事項が話し合われるわけであるが、その根底には、彼らの自己表現と認知という問題であったというのが、バーナードの総括なのである。つまり、救済措置にかんする不満を述べるという「派生」の下に、自己認知という「残基」が働いている、という分析になる。

総括

自分の体験をこのように自己分析してみせたバーナードは、総括として4つのことに注意を促している。まず一つ目は、パレートの残基の分類における「個人とその付属物との統一性」(全一性の欲求)の重要性である。

この分析を完結するために、最終的に二三の観察を試みよう。その第一は、パレートによる残基の諸種類の重要性の順序にかかわるものである。皆さんが想起されるように、パレートは6つの種類の残基を提示したが、使ったのは最初の二つ、すなわち結合本能と集団持続であり、それらはほとんど専ら一般的社会システムを彼が論ずる際においてであった。……。私が提示した事例において、みなさんが気づかれたように、私自身の行為は、人格的全一性(パレートの第Vの種類)がその状況の下での主要な感情であるという診断に基づいたものである。……。これらの小規模かつ具体的な社会状況の下では、行為欲求、つまり社交性本能か、もしくは、人的全一性本能のいずれか、特に後者が主要なものであり、他の感情は第二次的なものであると私は言いたい。

先ほど、パレートの残基の分類の V は「生命と財産の安全」と言われると書いたが、ここでのバーナードの議論では、Integrity = 統合というのがキーのなるわけで、「個人とその付属物との統一性」としておくのが分かりやすいだろう。

続いて、経済的事情や利害関係は、それほど重要ではない、というバーナードが様々な箇所で展開している議論が登場する(『経営者の役割』でも随所に見られたものであり、『経営者の哲学』の論文などではっきりと述べていることではある)。ここではパレートの術語を用いて、経済的事項、さらには言語化された事柄自体が、派生、つまり事後的な自己合理化でしかないし、その点を見誤っているのが問題であると述べられている。

第二の観察は、経済事情ないし利害は、提案した事例においては、無視できるほどのものであった、ということである。勿論、それがまったく無かったわけではない。……。私がこれまで観察してきた数知れない多くの事例において、社会的相互作用の主要問題が経済的なものである時でさえ―例えば事業取り引きにおけるように―、その行動が主として表明するのは、非経済的感情である。そこで使われている言語はその大部分が経済的性格のものなので、このことがはっきりしないのである。しかし、言語というものは、多くは派生であり、合理化であって、例えば取締役会の会合でのある種の習慣的表現におけるように、ほぼ儀式上の符号に近づくのである (But this language is largely derivation, rationalization, and frequently approaches ritualistic symbolism − for example in certain habitual expressions in meetings of boards of directors.) 。購買者や従業員の行動は、一般的には、経済的関心の表明を伴う。しかしながら、非常にしばしばこれらの関心はまったく従属的でしかも無視することさえ可能である。このことは、表面には現れないであろうし、ある種の経済取り引きないし結果は、そこに含まれる社会的相互作用の最も目に見える効果であるという事実のために、このことが隠されてしまうのである。これがしばしば状況を専ら経済問題として解釈することに結びつく。ところが、具体的行動を支配するのは、行動欲求、結合に対する愛好、人的全一性を創り上げたいという欲望(威信、地位の欲望)なのである。現時点において軋轢や社会的不協和音の大部分が生ずるのは、事業とか産業、そして政治的状況において行動を支配するのはほとんど専ら経済的関心であるという錯覚に起因するように、私には見えるのである。

3番目が、具体的状況下での行動の非理知的な側面の重要性:

再度私が注目したいのは、本例での行動が、本質的に感情的、反応的、直観的、非論理的な性格を、そして比較的に非理知的な性格をもつことである。……。話の順序、声の調子、強調の仕方、中断の頃合いと間のとり方、顔の表情、身振り、沈黙などの非合理的要因は、具体的状況では不可欠な諸局面であるが、それらは、当の行為者にとってはまったく無自覚的なものであり、他の参加者たちによって観察、というよりもむしろ感じ取られるものである。これはすべて具体的ではあるが、あまりにも迅速に入り組んでいるので、よしんば参加者がそのような複雑な現象の分析には堪能であっても、それどころか、その目的のために受容可能な科学が存在したとしても、もっとも未だにその例を見ないが、分析は可能ではないのである。このことは大抵の社会状況では典型的なものである。

Such non-rational factors as the order of speaking, the tone of voice, the emphasis, the time and manner of interruptions, the facial expressions, the gestures, the silences, which are essential aspects of the concrete situation, are quite unconscious to the actor and are felt rather than observed by other participants. This is all concrete and too rapid and interlocking to permit analysis even if the participants were competent to analyze such complex phenomena, or even if there were an acceptable science for the purpose, which is not yet the case. This is typical of most social situations.

ここでバーナードは具体的行動の分析を行った科学が存在しないし、分析は不可能だろうと述べているが、現在のわれわれからすれば、たとえばゴフマンの社会学なりエスノメソドロジーや会話分析などで、こうした部分にメスが入っているじゃないかと言うことができるだろう(またアメリカ流の徹底したプレゼン・演技メソッド)。バーナードは、非理知的、分析不可能なものというカテゴライズを安易にしすぎるようにも感じられる。

最後に、診断というものが漸進的で暫定的なものであるということを述べて、この論文は終わる:

具体的状況での診断のもつ必然的に漸進的な性格……。予備的診断は高々暫定的なものであるに過ぎない。人びとはそのような診断をして、いわば治療を開始し、その後の徴候や前兆での反応を観察するが、それによって、診断は確認されたり、変更ないし破棄されたりするのである。行動それ自体に先行して確固たる診断を採用することが出来るのは比較的稀であって、言ってみれば、外見的に類似する数多くの状況からの一般化が可能な場合のみである。経験を積んだ人たちのほとんどが、彼自らの行動を、自分自身に対してでさえ前もって診断したり処方したりしないのは、このためである(例によって例の如き状況での議論目的にとって望ましい場合は別である)。そうすることは、社会的行為の性質を誤って理解する証拠を与えることになるのである。社会的行為は、大抵の場合必然的に非論理的であるので、事例が多数ならば疑いもなくある種の一様性や確立に従うとしても、特定の具体的な事例において通常予想できないのは、まさにこの理由のためである。

the necessarily progressive character of diagnosis in such situation ... A preliminary diagnosis could at best be provisional. Making such a diagnosis, one starts treatment, as it were, and observes reactions in further symptoms and signs, which confirm, modify, or destroy the diagnosis. It is comparatively rare, and then only when one can generalize from a number of apparently similar situations, that a firm diagnosis can be adopted prior to the action itself. This is why most men of experience will not formulate a diagnosis or prescribe their own action in advance, even to themselves (except when desirable for purposes of argument in another situation). To do so, is to give evidence of misunderstanding of the nature of social action. It is necessarily non-logical in most instances and is for this reason usually unpredictable in the specific case, although undoubtedly subject to some uniformities and probabilities in a large number of cases.

以上で、この論文は終わり。


リーダーシップの本質
The Nature of Leadership

この論文では、リーダーシップの本質についての考察が展開され、最後にはリーダーの育成に関するバーナードの所見が述べられている。『経営者の役割』17章で述べられていたリーダーシップ論をさらに展開した論文だといえる。

序文(Introduction)

リーダーシップに関する議論の問題点を指摘し、バーナードがこの論文で何を論じようとしているのかが述べられている。

リーダーシップという主題については、これまで無意味な独断論が余りに多く語られてきた。……。とにもかくにも、私がみたところでは、この主題に関しては、皮相的な側面やキャッチフレーズを誇大視して基本命題に祭り上げ、応用が利かないところまで一般化し、誤解を招くといったことを避けることが困難なように思われる。

このような過ちを回避するために私は、リーダーシップとは何かについて、あるいはリーダーシップがあるのかないのかをどのように判断するのかといったことを話すことはしないつもりである。というのも、私はそのすべを知らないからである。実際、あえていえば誰も知らないと思う。このように言えば、奇妙にも言い過ぎにも聞こえるかもしれないが、私はあなたがたに、それがみせかけの謙虚さや浅薄な判断の表れではないということを信じて頂きたい。とにかく私が論じようと思うのは、リーダーシップの本質を理解するという問題である。

Leadership has been the subject of an extraordinary amount of dogmatically stated nonsense. ... At any rate, I have found it difficult not to magnify superficial aspects and catch-phrases of the subject to the status of fundamental propositions, generalized beyond all possibility of useful application, and fostering misunderstanding.

Seeking to avoid such errors, I shall not tell you what leadership is or even how to determine when it is present; for I do not know how to do so. Indeed, I shall venture to assert that probably no one else knows. These statements may seem strange and extreme, but I hope to convince you that they are not expressions of false modesty or of ill-considered judgment. At any rate, what I intend to discuss is the problem of understanding the nature of leadership.

バーナードは、リーダーシップについて人々が誤っている例として、自分がリーダーシップの教育的育成に関する会議に参加した際の体験を述べている。

この集会において私が目のあたりにした観察事実というのは、講演者と聴衆の双方がリーダーシップ卓越性 (preeminence)あるいはきわだった有益性 (extraordinary usefulness)と混同しているということであった。

「リードする」という動詞の二つの意味(「人より抜きんでている」という意味と、「人を先導する」という意味)を混同しているケースが少なからずあり、それが協働や組織の達成の妨げになっているとバーナードは指摘する。さらにもうひとつとして、技術者が技術者ではない人に管理・監督されることへの異議申し立てをとりあげ、リーダーシップという能力についての誤解があることを指摘している。

このように、リーダーシップについての適切な定式化がなされていないことを指摘するが、しかし、実際の経験のレベルでは、共通の了解や感覚があること、ただしそれは経験や知識を分かち合った人のあいだでしか共有されていないものであり、定式化できないものであることを述べている。

以上からわれわれは、より適切なリーダーシップについての一般的な誤解と誤報、それにその準備に対する要求が相まって、リーダーシップの本質を理解する努力が切実に望まれているということに合意できよう。こうした目的に貢献するために私はここでいま主として、この主題についての現状でのあいまいさ、およびそこに関連している諸機能・諸条件の複雑さを明瞭にすることを試みるべきだと考える。

I think we may agree, then, that public misunderstanding and misinformation, and the need for provision of more adequate leadership, both urge our effort to understand the nature of leadership. My present attempt to contribute to this end ought chiefly, I think, to make evident the present obscurity of the subject and the complexity of the functions and conditions involved in it.

●リーダーシップとは

バーナードはリーダーシップについて以下のように2つの側面をもつものとして定式化する:

以後私がリーダーシップという用語を使用するとき、それは、組織化された努力に従事する人々ないしは彼らの活動を先導する諸個人の行動が有する特質 (the quality of the behavior of individuals whereby they guide people or their activities in organized effort) を指す。これがその第一義である。しかしながら、組織化された努力は、しばしば資産ないしはプラントを含む協働体系のなかで発生する。このようなときには整合された諸活動は資産ないしプラントと関係をもつか、ないしは結合され、両者は別々のものではない。したがってこのような資産の管理ないし行政は、人員に対する指令ないし監督とは区別されて、リーダーシップの第二の側面として含まれる。

ここで述べられている2つの側面は、『経営者の役割』の中で、リーダーシップの技術的側面と道徳的側面が分けられていたのに対応する。

●リーダーシップが依存するもの

リーダーシップが何であれ、リーダーシップは三つの事柄―(1)個人、(2)追随者たち、そして(3)諸状況―に依存しているというきわめて単純な言明をここで提示することにしよう。……。その相互依存性を強調すべく疑似数学的な言語でリーダーシップを再定義すれば、すなわちリーダーシップとは少なくとも三つの複合変数―個人、追随者の集団、および諸状況―の関数であるように思われる。

Whatever leadership is, I shall now make the much over-simplified statement that it depends upon three things − (1) the individual, (2) the followers, and (3) the conditions. ... Let me emphasize the interdependence by restating it in quasi-mathematical language, thus: Leadership appears to be a function of at least three complex variables − the individual, the group of followers, the conditions.

このようにリーダーシップが依存する3つの変数を指摘するのではある。しかし、条件の組み合わせが無限にありうること、相互関連性についての十分な了解が必要であることを述べた上で、このような理論的な図式ではなく、日常的なレベルでの考察を展開すると述べる。

●考察する事柄

リーダーシップの本質と考えることの可能な事柄として、私は以下の事柄を提示する。(I)リーダーシップ行動の四局面においてリーダーが行わなければならない事柄に関する一般的な記述、(II)リーダーシップの諸状況間のいくつかの差異に関する考察、(III)リーダーの積極的な個人特性に関するいくつかの見解、(IV)リーダー育成の問題に関する若干の知見、および(V)リーダーの選考に関する観察。

それぞれの項目について、考察がなされることになる。

I リーダーシップ行動の四局面(Four Sectors of Leadership Behavior)

ここではバーナードは、リーダーが何をしているのかについて、4つのトピックを取り上げて論じていく。

これらは別々に論じられるが、互いに「密接に相互連関し、相互依存し、さらにしばしば重複的ないしは同時進行的であること」に注意を促す。

●目標の決定 (The Determination of Objectives)

リーダーにとって明白な一つの機能は、彼が従事している仕事の一般目的ないしは目標に関連して、何をすべきか、何をしてはならないか、どこへ行くべきか、それにいつ停止すべきかを知り、かつ言うことである。このような言表は一見してリーダーの存在理由について多くの人々が考えていることを言い尽くしてしまっているかのように思われる。しかしもしその人々が実際の仕事に密着して観察することができれば、リーダーが他人に命令する事柄の多くは、リーダーがリードしているまさにその人たちによってリーダーに提案された事柄であるということに気づき、困惑するであろう。

An obvious function of a leader is to know and say what to do, what not to do, where to go, and when to stop, with reference to the general purpose or objective of the undertaking in which he is engaged. Such a statement appears to exhaust the ideas of many individuals as to a leader's raison d'être. But if they are able to observe the operations closely, it often disconcerts them to note that many things a leader tells others to do were suggested to him by very people he leads.

このように、リーダーがリードするために行う活動とは、自分の考えを周りに押しつけることではないことを指摘する。バーナードの言葉を拾っておくと:

リーダーは馬鹿になって多くのことを聞かなければならないし、秩序を保つために調停を行わなければならないことも確かだし、さらには単なる情報中枢にもならなければならない。もしリーダーが自分の考えしか用いないのであれば、彼は極めて高い水準のリーダーである優秀な指揮者というよりは、ワンマン・オーケストラのようなものである。

ただし、それでも人々をリードする(=人々がついていく)必要があるところに、リーダーの困難がある。その困難をいかにこなすかについては、バーナードもうまく説明できないとしながらも、次のような指摘を行う:

信用できるのは誰だかを知ること、正しい提言を受入れること、適切な時機と時勢を見分けることに関連があるように思われる。

そのうえで、全体として理解することの重要性を説く。

何をいつすべきであるかを説明するには、ある目的、意図、あるいは成果との関連において非常に多くの事柄を「全体として」、すなわち「すべてを考慮に入れて」理解することが要求される。―このような理解によって、特定の具体的状況のもとで何が重要で何が重要でないかの区別、なされうることとなされえないことの区別、おそらく成功するであろうこととそうでないことの区別、協働を弱めることと増大させることの区別が、効果的に行えるようになるのである。

To say what to do and when, requires an understanding of a great many things "on the whole," "taking everything into account," in their relations to some purpose or intention or result − an understanding that leads to distinguishing effectively between the important and the unimportant in the particular concrete situation, between what can and what cannot be done, between what will probably succeed and what will probably not, between what will weaken cooperation and what will increase it.

●第二の局面−手段の操作 (The Second Sector − The Manipulation of Means)

第一の局面で述べられたリーダーの行動と、作業を指揮するための技術的なスキルや理解というものは、異なるものではある。しかし、専門技術の才能を伴わないリーダーシップは例外的になってきているとバーナードは指摘する。ただし、リーダーが、作業の技術的な側面に関して知識や経験をもっていることを過大評価してはならないとしたうえで、次のように言う:

リーダーシップに含まれる専門技術的および工学技術的な諸要因は、非常に重要な変数であるだけでなく、重大な難題を持ち込むことにもなる。とりわけ述べておかなければならないことは、(1)さまざまな型のリーダーの育成、(2)技術上の諸要因が組織ないし社会のなかでリーダーの「移動性」に課す諸制約、および(3)技術的な研究および経験によって個人の一般的ないしは「社会的」な発達に加わる制限的効果に関するものである。

The technical and technological factors in leadership not only constitute a variable of great importance, but they introduce serious difficulties, which should be mentioned, especially in respect to (1) the development of types of leaders, and to (2) the limitations these technical factors place upon the "mobility" of the leaders in an organization or society, and also (3) because of the restrictive effect of technical study and experience on the general or "social" development of individuals.

それぞれの問題点についてバーナードは次のように述べる。まず(1)については、将来リーダーシップを発揮するべき人は、高度に専門化された中の特定の技術や職に就くことからキャリアを始めることになるがゆえに、「狭い範囲の活動に関してだけリーダーシップ訓練を受けることになる」。そして、そのことが(2)の問題、つまり「一つの狭小な分野でだけ優秀なリーダーは他の分野ないしはより一般的な仕事ではつぶしがきかなくなるため、リーダーシップ資源の移動性は深刻に低下する」という問題、いわゆる専門馬鹿になってしまう問題につながるわけである。さらに(3)の問題、これはバーナード自身によって専門分化が個人に与える影響と言い換えられている問題なのだが、それについては、以下のように言う:

人々が技法、機械、作業過程、それに抽象的知識に注意を集中している間に、彼らは必然的に人間、機械、社会的状況といった、まさにリーダーシップ能力が適用されるべき特有の領域にかかわる、経験からかなりの程度、それることになる。したがって、きわめて感性豊かな時期に没人間的資源や過程に対してもつ「機械的な」態度が根付いてしまうので、このような態度を遅かれ早かれ人間に対しても向けるようになってしまう。

While men are concentrating upon techniques, machines, processes, and abstract knowledge, they are necessarily diverted to a considerable extent from experience with men, organizations, and the social situations, the distinctive fields of application of leadership ability. Thus at the most impressionable period they become so well grounded in "mechanical" attitudes toward non-human resources and processes that they transfer these attitudes, then and later, toward men also.

ああ、そうですか、としか言いようがない意見ではあるが、いかにも人間主義者バーナードらしい意見ではある(コンピュータ・オタクを非難する言葉みたいだ)。また、専門分化が特定の視点しか取れないような人間を生み出す危険があるという話として一般化すれば、先ほどの専門馬鹿の問題につながることは確認できる。それはさておき、専門技術・知識の習得の問題については、以下のように総括する:

工学技術および専門分化を通じてわれわれは多くのことを達成してきた。しかしその結果としてリーダーシップ機能を複雑化し、総合的リーダーの育成と供給に制限を加えてしまったことは、われわれの時代の重要問題かと思われる。

●第三の局面−行為の道具性 (The Third Sector − The Instrumentality of Action)

ここでは、リーダーにとって組織とは何かという問題が論じられる。長くなるが、バーナード自身の言葉を読んでもらうのがよいだろう。

リーダーシップには人々のある特定の努力を整合する局面があることは明白である。リーダーシップなしには整合ないしは協働はほとんど成立せず、したがってリーダーシップは協働を含意する。整合された努力が組織を成立させる。組織とはリーダーの立場からみるかぎり行為の道具性であり、それは絶対不可欠の道具性である。前途有望な人々の多くがこのことについていつまでも気づこうとしない。それというのも、構造、技法、それに抽象的な制度、それも特に会社法のような法律的制度を若いうちに重視してしまうからである。

Leadership obviously relates to the coordination of certain efforts of people. There is little coordination or cooperation without leadership, and leadership implies cooperation. Coordinated efforts constitute organization. An organization is the instrumentality of action so far as leaders are concerned, and it is the indispensable instrumentality. Many promising men never comprehend this because of early emphasis upon plants, structures, techniques, and abstract institutions, especially legal institutions such as the law of corporations.

道具性(Instrumentality)というのはなじみのない言葉かもしれないが、手段、媒介、助けとなるものという意味の言葉である。道具性という言葉が入ることで、かえって分かりにくくなっている思うのだが、ここで述べられていることは、組織という道具(人々の協働が調整されて生まれるもの)をリーダーは維持しなければならないということであり、それは目的達成とは異なる組織維持のための様々な働きを担わなければならないということである。バーナードの言葉を拾っておく:

リーダーがまず努力しなければならないのは、活動の総合体系としての組織の維持と先導である。私はこのことがリーダーシップ行動の最も示差的で特徴的なことであると思われるが、それにもかかわらずほとんど認められていないし、理解されてもいない。組織を構成しているもろもろの行為の大半は外見的に組織の維持とは何ら関係がない特殊機能―例えば、組織の特定課業を達成すること―を担っているがために、組織の維持と先導といったような行為が同時に組織を構成しているということや、技術的でもなく道具的でもないこうした行為こそが、リーダーシップの観点からすれば非常に重要である、ということを見過ごさせているのかもしれない。……。したがってリーダーは組織を行為の道具性を維持するような仕方で全員を先導していかなければならない。

The primary efforts of leaders need to be directed to the maintenance and guidance of organizations as whole systems of activities. I believe this to be the most distinctive and characteristic sector of leadership behavior, but it is the least obvious and least understood. Since most of the acts which constitute organization have a specific function which superficially is independent of the maintenance of organization − for example, the accomplishment of specific tasks of the organization − it may not be observed that such acts at the same time also constitute organization and that this, not the technical and instrumental, is the primary aspect of such acts from the viewpoint of leadership. ... Thus the leader has to guide all in such a way as to preserve organization as the instrumentality of action.

組織の諸行為には、目的達成という側面と同時に、組織の維持という側面があり、リーダーはこの側面をきちんと担っていくことで、組織という一つのシステムを存立させ維持しなければならないということである。組織が共通目的を実現するための一つのシステムとしてあることを、共通目的を達成する一つの道具としてのまとまりあるモノということで、バーナードは道具性という言葉を持ち出してきていると考えることができるだろう。

続けてバーナードは、リーダーたちは、組織に関して、直観的な理解しかなされてこなかったということを指摘している(だからこそ、バーナードが『経営者の役割』を出したわけである)。

●第四の局面―整合された行為の鼓舞 (The Fourth Sector − The Stimulation of Coordinated Action)

ここでは人々から協働行為を引き出すことが取り上げられる。

行為は組織の外に潜在しており、潜在性を行為の実体に変えることがリーダーの課業の一つである。言い換えれば、リーダーが行う重要なことの一つは人々がその可能性を整合された努力に変えるように誘発し、そのことによって組織を維持しながら同時にその仕事をやり遂げるように仕向けることである。この種のリーダーの活動がときとして彼らが行うことの最も顕著な側面であるということは、改めて言うまでもない。広い意味でこれは説得に関する事柄である。さらに経営者が整合された活動へと「説得する」のに用いる行為や行動の種類が数限りない、ということも改めて言う必要がないであろう。

A potential act lies outside organization, and it is one task of leaders to change potentiality into the stuff of action. In other words, one important kind of thing that leaders do is to induce people to convert abilities into coordinated effort, thereby maintaining an organization while simultaneously getting its work done. I need hardly say that this kind of activity of leaders is sometimes the most striking aspect of what they do. In a broad sense this is the business of persuasion. Nor need I say that the sorts of acts or behavior by which executives "persuade" to coordinated action are innumerable.

以上で4局面についての考察が終わる。この節の締めくくりとして、バーナードは「私が主に言いたかったことは、この四局面がいかに相互連関し、相互依存しているかを指摘し、特に『リーダーシップ』が意味する内容のばらつきが、要求される行動の種類間の相対的重要性いかんでいかに大きくなるかを、示唆することであった」と述べている。

II リーダーシップの諸状況 (The Conditions of Leadership)

ここではリーダーのおかれている状況によって、要求される行動と資質が異なることが考察される。状況が安定的であれば、自己抑制、慎重さ、技法的な洗練性が要求されるが、不安定な状況下では道徳的な勇気、決断力、創意、イニシアティブ、ずぶとさが要求されることになる。こうした両極端な場合の検討の後、バーナードは以下のように述べる:

諸状況に関する差異、すなわち緊張に関する差異がリーダーシップ行動の重要な要因であるということを十分の示唆している。両方の極端に等しく適応できる人間は滅多に見つからないこと、そしてそれだからこそまったく異なるタイプのリーダーが期待されるということは、だれにも明白であろう。しかしどんな種類の協働努力にも緊急事態がつきものであり、したがってリーダーは広範囲の諸状況にわたって適応できなければならない。……。ここで明白なことは、おそらくはそれはリーダーシップ行動の諸局面を考察した際にそうであったのと同じように、特定のリーダーを選考する場合の実践上の問題とは、諸状況あるいは諸状況のばらつきにおそらく最も適応しそうな資質のバランスを確定することであると思われる。

III リーダーの能動的な資質 (The Active Qualities of Leaders)

リーダーシップを論じる際はリーダーの個人的な資質以外の要因も大きく作用することを、この論文の冒頭でバーナードは述べたが、ここではあえて個人的な資質・特質を5つ、ごく一般的な目的の観点から重要だと思われる順(つまりバーナードが重要だと思う順番ではない)に取り上げて論じている。以下の5つである(原文ではローマ数字で通し番号がつくのだが、節の番号と区別するため、ここでは数字で番号をふっておく)。

  1. バイタリティと忍耐力 (Vitality and Endurance)
  2. 決断力 (Decisiveness)
  3. 説得力 (Persuasiveness)
  4. 責任感 (Responsibility)
  5. 知的能力 (Intellectual Capacity)

●1.バイタリティと忍耐力 (Vitality and Endurance)

最初にバイタリティと忍耐力を健康と混同すべきではないとしたうえで、これらの資質が重要な理由を3つ挙げている:

  1. リーダーシップに必要な個人的能力を育むような知識や経験のたゆまぬ獲得を可能にする
  2. 説得力に大きく貢献する個人的な魅力や迫力の一要素となる
  3. リーダーシップは休むまもなく長時間働き続け緊張にさらされる場合、忍耐力が必要

●2.決断力 (Decisiveness)

まず決定を行う能力の重要性が述べられる:

私は、決定をすべてのリーダーシップに関連して決定的重要性をもつ要素であるとみなしているし、すべての公式組織がそれに依存していると信じている。決定を行う能力は、もっとも特筆すべきリーダーの特性であると思われる。それは決定を下す性向あるいは積極性、それにその力量に依存している。……。リーダーシップは現実に適切な決定を要求し、それも保証されたものだけを要求するのである。

I regard decision as the element of critical importance in all leadership, and I believe that all formal organization depends upon it. Ability to make decision is the characteristic of leaders I think most to be noted. It depends upon a propensity or willingness to decide and a capacity to do so. ... Leadership requires making actual appropriate decisions and only such as are warranted.

決断力には積極面と消極面の両面から考察される必要があるとバーナードはいう。

●3.説得力 (Persuasiveness)

説得力には、説得される側の物の見方、利害、および諸状況についての感覚あるいは理解が必要である。

●4.責任感 (Responsibility)

まず最初に責任(責任感)についての定義が述べられる。

ある特定の具体的状況のもとで個人が道徳に照らして実行しなければならないと感じていることを行いえない場合、あるいは道徳に照らして実行してはならないと考えていることを実行してしまう場合に、個人が激しい不安感を抱くことになるような情動的条件を、私は責任感と定義しよう。このような不満感を個人は避けようとするであろう。

I shall define responsibility as an emotional condition that gives an individual a sense of acute dissatisfaction because of failure to do what he feels he is morally bound to do or because of doing what he thinks he is morally bound not to do, in particular concrete situations. Such dissatisfaction he will avoid.

ここでの責任感(責任)の定義は、『経営者の役割』での定義と同じであり、個人がもっている道徳=行動準則を守ろうとする強さが責任である。責任自体は個人的な資質のレベルで定義されているが、その必要性は社会的なレベルでの関係の安定性にある。バーナードは言う:

もし人に「責任感があり」、何が正しいかについての彼の信念ないし感覚が判明しているのであれば、彼の行動はおおよそ期待できる。行動のこの安定性がリーダーシップにとっていくつかの観点から重要であることは難なく理解できるであろう。しかしそれは追随者たちの観点からみてとりわけ重要なことである。気まぐれで責任感のないリーダーシップが成功することは滅多にない。

His behavior, if he is "responsible" and if his belief or sense of what is right are known, can be approximately relied upon. That this stability of behavior is important to leadership from several points of view will be recognized without difficulty; but it is especially so from that of those who follow. Capricious and irresponsible leadership is rarely successful.

●5.知的能力 (Intellectual Capacity)

この部分でバーナードは知的能力を重視する立場を批判している。まず知的能力を5番目に位置づけたということ(他の4つに対して副次的)、そしてリーダー達が自分の知的能力に必要以上の誇りを抱いているということを指摘したうえで、非知的能力の重要性に関する長い補論を展開するのである。

●非知的能力の重要性に関する補論 (A Digression on The Importance of The Non-Intellectual Abilities)

まず最初に、知性を副次的な地位へ押しやったことへに反対するのには、知性(知的過程)に関する定義上の混乱があるとバーナードは言う:

われわれは通常知的過程を通じた修得を、以前に修得した事柄の条件反射的で慣習的で直観的な表現ないし応用と混同しているように私には思われる。後者のそれは、私に言わせれば、概して非知的過程にしか関連していない。

しかし、もっと大きなポイントとして、われわれの行動の意識のあり方が関係することを指摘する。

われわれが一番強く意識している行動の領域が少なくとも概して知的なものであって、それにひきかえ、活力、決断力、それに責任感などを反映しているわれわれの最も効果的な行動の大半は、現に自然で、無意識的で、条件反射的であり、また効果的であるために概してそうでなければならない。

The part of behavior of which we are most conscious is at least largely intellectual, whereas much of our most effective behavior, such as reflects vitality, decisiveness, and responsibility, is largely matter-of-course, unconscious, responsive, and on the whole has to be so to be effective.

さらに、リーダーは自分の実際の行動において最も効果的な能力はどれなのかに気づいていないと指摘する。自分を観察することは難しいからだ。その実例として、バーナードはコミュニケーションの場面を取り上げている。コミュニケーションの場面における伝達行為(話し方、身振り手振りなど)の重要性に着目し、伝達内容の論理性・正確性よりも、伝達行為の適切性のほうが効果的な伝達を行えるが、それは知的な能力とのかかわりが深くない。「われわれは誰でもよく知っているように、……、文章の論理的な意味を理解する能力には限界があり、話す時の話し方から理解するのである」。優秀なリーダーはこのことが分かっている:

他人と一緒に行動するには、どうすればよいかを論理的な説明で教えようとしても遅々としてはかどらず、せいぜい限られた効果しか上がらないであろう。私の考えるところ、この理由のゆえにこそ優秀なリーダー達は追随者たちに、どのように行動すべきかについての指示をほとんど出さないかわりに、何がなし遂げられなければならないかを指示し、のちほど成し遂げるにあたってのやり方をしかるべく批判するという事実が広く観察されることになるのである。それにひきかえ、劣悪なリーダーは、他人にいわば人生をいかに生きるべきかを訓示しようとし、しばしば失敗するのである。

To teach by logical exposition how to behave with other people is a slow process of limited effectiveness at best. This is why I think it will be widely observed that good leaders seldom undertake to tell followers how to behave, though they tell what should be done, and will properly criticize the manner of its doing afterward. Whereas inferior leaders often fail by trying, as it were, to tell others how to live their lives.

この部分の議論は、リーダーシップに関する議論であると同時に、協働におけるコミュニケーションのあり方の議論にもなっている。つまり、手取り足取りきっちりと指示するのではなく、まず相手に主体的に行動してもらうようにする(行動内容については、まずは信頼し任せる)ことが重要ということにもなる。それはともかくとして、知的な指示(情報)が人を動かすのではないというバーナードの道徳的リーダーシップ観がはっきりと出ている箇所である。

補論では、続いて「知識人の限界 (The Limitations of Intellectuals)」が述べられる。そこでは、知的でありながらリーダーシップに関しては無責任で、決断力がなく、説得力もない人間がいること、知的な能力が他の能力の不足を補うことは滅多にないことなどが指摘される。他人を説得するには、人が支配されている非合理的な要素を十分に考慮に入れておかなければならない(って、それができるのは知的能力では?というツッコミを入れたくなるぐらいに知的・合理的態度を批判するバーナードである)。そして責任というものについて:

責任とは道徳的ないし情動的な一条件である。

Responsibility is a moral or emotional condition.

このことが観察されるとバーナードは言う。

つづいて、今度は「知的能力の重要性 (The Importance of Intellectual Capacities)」が述べられる。 そこでは、リーダーの微分的要因(differential factor)、つまり他の能力等が等しいなら知的能力が重要であるには違いないという。「しかしながら、ここで大いに強調しておきたい主要な点とは、知的有能性は、リーダーシップにとって本質的な他の資質の少なくとも大部分に、取って代れないということである」と言い、知的能力よりも重要な資質があることを強調するのである。

補論は、「誇張された知性主義のいくつかの影響 (Some Effects of Exaggerated Intellectualism)」へと進む。ここで、バーナードが他の人を反感をかうような知的主義への批判を述べてきた二つの理由が語られる。

第一の理由は、知的資質の過度の強調が、リーダーの供給の妨げになっているということである。これはリーダーになるべき人だけの問題ではなく、周りの人間もリーダーは知的能力が高いのが当然だと思うことによって、知的な資質が低ければ「たとえ非凡なリーダーであっても追随することを潔しとしないことが多い」。このように過度に知的資質を持ち上げることが「リーダーシップという仕事に取り組もうとする人々の意欲をそぎ、彼らが効果を発揮するのを抑制する」のである。

第二の理由として、バーナードは、知識人気取りの風潮が労働争議の大きな原因になっているという指摘を行う。「高学歴者の間には労働者の知性やその他の重要な個人的資質を見下げる性向がみられる」といった態度によって「人為的な利害の分割、共感的理解の消失が招来されているのであって、そのとき協働は崩壊し、単なる「いくばくかの好意」ではもはや修正できなくなる」。能力の差異があることをバーナードは否定するのではないが、その差異が差別的に働くことを嫌うわけである。「知的優越性とは目障りなものであり、知識でさえも、自発的に敬意を払う場合を除けば、他人のそれを認めるのを嫌うものである」。

補論の最後のパートとして「リーダーシップの資質に関するわれわれの無知 (Our Ignorance of The Qualities of Leadership)」をバーナードは論じる。まず最初に、資質というものに関しては、一般的な漠然とした理解は可能であっても、正確で的確な定義や記述が難しいことが述べられる。「ここで強調すべき重要なこととは、科学においても日常の実践においても、たとえ特殊な目的に合わせたものであったとしても、いまのところ漠然と描写されているこれらの資質については何らかの程度の了解が、まだ成立していないということである」。例としてバーナードは決断力を取り上げる。様々な場面で決定を下さなければならないこと、「決定を下すことが経営者の主要な機能の一つであるということをわれわれは知っている」。しかし、学問的にも注目されておらず(ただし、これは当時のバーナードから見ての意見)、「会社の中でも、私は、決定能力に照らして人が評価されるのを、明らかに決定能力がなかったために失敗した場合を除いて、ほとんど耳にしない」。このように、決定力という資質に関しては、しばしば口にされはするものの、正確な理解や議論はなされないままになっているとバーナードは言う。

補論の最後に、リーダーシップに関してよく言われる資質、「正直、品性 honesty, character」、「勇気 courage 」、「イニシアチブ initiative 」を議論から外した理由が述べられる。バーナードは、これらの資質については、すでに述べた5つの資質の組み合わせやそこから生まれるものとして理解できるという。さらに、理解がまちまちであることを指摘する:

それらを付け足してもよいのであるが、私のみるところでは、それらの言葉の意味は単に個人次第でまちまちなだけでなく、行為者、リーダー、あるいは他者のいずれかによって解釈される状況というもの次第でまちまちであって、しかもその解釈はさまざまの観察者が下す解釈と食い違うことが多い。

そして、補論の締めくくりとして、次のように述べる:

いずれにせよ重要なことは、リーダーシップの資質は、どのように識別され、どのように名付けられようと、相互に作用しあい、相互に依存しあっているということである。化合物の構成要素を整理するようにはいかないが、しかし資質の組み合わせを違えればまったく違った種類のリーダーが生み出され、また資質とそれらの組み合わせは経験と状況に応じて変化するということは、仮定してもよいであろう。

In any case, the important point is that the qualifications of leadership, however discriminated and however named, are interacting and interdependent. We do not assemble them as we would the ingredients of a compound, yet we may suppose that different combinations of qualities produce quite different kinds of leaders, and that the qualities and their combinations change with experience and with conditions.

IV リーダーの育成 (The Development of Leaders)

このセクションでは、リーダーの育成に関するバーナードの私見が述べられる。育成に関して、以下の項目が論じられる。

  1. 訓練 (Training)
  2. バランスとパースペクティブ (Balance and Perspective)
  3. 経験 (Experience)

なお、ここでも先ほど同様に、論文では項目名はローマ数字の通し番号になっているのだが、アラビア数字の番号に置きかえることにする。

●1.訓練 (Training)

ここでもバーナードは知的訓練に過度の重点を置くことを戒める意見を述べる。

よく知っておかなければならないのは、知的準備がそれ自体、リーダーシップに不可欠の諸性向を抑制する傾向をもつということである。例えば、抽象的な事実についての研究や熟考は決断力を助長せず、むしろ逆の効果をもつことがしばしば起きるように思われる。

そして、知的訓練によって抽象的事実あるいは言表可能な事実のみに目を奪われてしまい、「『見当違いの具体性の誤謬』、すなわち事実(fact)と事物(thing)との混同、一側面(an aspect)と記述不可能な全体(an indescribable whole)との混同、あるいは既知と未知との相互依存関係の無視」などが起きてしまうと警告する。それに続けて:

ほんの少し立ち止まって考えてみれば、……、知的な訓練と経験が不可欠な職業についている人々の人目を引く努力の多くが、知性ではなくて、技能の表現、すなわち具体的なものの無限の複雑性への適切な適応を成し遂げるための効果的行動の表現、であることが判明する。じじつわれわれはあらゆる職業の実践において、直感とまではいわないにしても、経験を強調することによって、この点を繰り返し告白しているのである。

このように、バーナードは抽象的な知識(記号化/情報化された知識)=事実(fact)と、複雑な物事自体の世界=事物(thing)の取り違え、なにより前者による後者の隠ぺいに注意を促すのである(なにやらカントの実践理性の議論みたいだが)。事物の無視が有害な結果を招くものとして、労使関係(組織内の上下関係)を取り上げて、次のようにも言っている。

彼ら(≒従業員)をリードするのには、彼らを、われわれがそのほとんどの部分について知識を有していない種々様々の情動や他者ならびに物理的環境との関係を体現するものとして感じとることが要求される。

To lead requires to feel them as embodying a thousand emotions and relationships with others and with the physical environment, of which for the most part we can have no knowledge.

学歴やそれのよるステータスが差別的に働いていることによって、知的資質以外の資質が軽視されてきていることに、ここでもバーナードは批判するのである。

●2.バランスと訓練 (Balance and Perspective)

上で述べたような、知的資質以外の能力の育成(物事へ向かい合い適応していく能力の訓練)は、現在(もちろん、バーナードが執筆した当時)の教育制度では難しいとバーナードは述べる。それゆえ、

現在においては、リーダーシップに関連した意味でのバランス、パースペクティブ、および均整 (proportion) が体得されるのは、ほとんどもっぱらリードするにあたっての責任者としての経験からであると思われる。

●3.経験 (Experience)

上で述べたように、リーダーの育成には、実質的に、経験を積むしかないのが現状であるとバーナードはみているわけだが、経験といっても、ただ日々の仕事を積み重ねるということではない。有意義な経験について、バーナードは次のように言う:

有意義な経験は、概して、さまざまな状況のもとで自分自身を適応させることによって、さらには行為の変化の中で適切なものが何かについての感覚を覚えることによって、確保される。

Significant experience is secured largely by adapting one's self to varieties of conditions and by acquiring the sense of the appropriate in variations of action.

さらに、専門化が進んだ結果、「人々はリーダーシップについて総合的な経験を積む機会を限られてしまっている」という問題を指摘する。そうした状況でのリーダーシップの技法について経験を積む機会として、バーナードは「課外」活動 ("extracurricular" activities) を通じてインフォーマルな経験を積むことを挙げている:

リーダーをフォーマルな方法で養成するすべがほとんど知られていないとしても、潜在的リーダーが自分自身を錬磨し、リーダーシップが必要とされる場合や機会を自分自身で開拓し、自分自身をリーダーとして迎え入れられるように作り上げる方法を学習し、そのようなことを実行することによってリードする経験を体得するよう、奨励することはできる。

とはいえ、ただ奨励すればよいというものではない。リーダーとしての経験として学ぶつもりのない者に奨励しても駄目であると釘を刺す:

しかし、この点に関して何をするにしても、もし機会を認識し手中に収めるという経験、あるいは誰の助けも求めず、干渉や障害にめげないで自分自身の立場を築き上げるという経験が何にもかえがたいものであるということを十分に知ったうえでなければ、かえって有害になるように思われる。

But I believe whatever we do in this respect will be harmful if not done in full realization that there is no substitute for the experience of recognizing and seizing opportunities, or for making one's own place unaided and against interference and obstacles.

V 選考 (Selection)

ここまでの議論を振り返り、バーナードは、リーダーというものが、フォーマルな準備ではなく、様々な条件や状況、経験によって盲目的に生まれてくるものであるといってもよいこと、それゆえに選考によってリーダーを選ぶということの重要性をまず確認する。その上で、リーダーシップが適切かどうかのテストは、「われわれの抱く理想との関連で達成される協働の程度、またはその欠如である」と述べる。

さらに、ある者がリーダーとして選ばれるということには、公式と非公式の両方の権威によって行われること、そして非公式の権威によって行われる選考(リーダーとして認め受入れること)が重要であるであると述べる:

あらゆる公式組織における選考が公式と非公式の二つの権威によって同時に行われるということは述べておかねばならない。公式な権威によって行われるそれを任命(あるいは解任)と呼び、非公式な権威によるそれを容認(あるいは拒否)と呼ぶことにしよう。この二つの権威のうちで、非公式な権威こそが基本的で支配的なものである。それは追随者たちの追随する意志と能力に根拠をもち、そうしたものから成り立っている。

It should be stated that in all formal organizations selection is made simultaneously by two authorities, the formal and the informal. That which is made by formal authority we may call appointment (or dismiss), that by the informal authority we may call acceptance (or rejection). Of the two, the informal authority is fundamental and controlling. It lies in or consists of the willingness and ability of followers to follow.

いうまでもなく、ここで述べられているのは、『経営者の役割』の権威受容説のリーダーシップ版である。人々がリーダーとして受入れるからこそ、彼はリーダーとしてリーダーシップを発揮できるのである。追随者が追随する意欲を持つからこそ、彼に人々は従うのである。このリーダー受容説にも、人々が実際に協働的に行為してこそ組織があるというバーナードの組織観がはっきりとあらわれている。

多くの組織においては、リーダーは公式的に任命されて地位につく。公式的な権威の維持こそが組織の秩序を保つと考える人も多いだろう。しかし、追随者が追随しないようなリーダーはリーダーではない。「公式の権威の本質がなんであれ、最終的には非公式な権威が決定的でなければならない」。もちろん、通常は、責任ある立場の人間が公式的に任命したリーダーで問題は起きないことが多い。そのような場合、「追随者たちは。リーダーによって影響を受け、先導されなければならないが、同時にリーダーを作り上げるのである」。

このように非公式的な権威の重要性を確認したうえで、公式的なリーダーの選考に関してバーナードは論を進める。そこでは、リーダーシップの資質に関するわれわれの理解不足が問題を引き起こしている。リーダーの選考が、本質的に失敗の可能性から逃れられないことを指摘する:

すでに述べたようにリーダーシップが個人、追随者、および諸状況に依存しているのであれば、当初の選考の誤りに起因するとはいえない多くの失敗が起きざるをえない。それというのも、人間、追随者、および諸状況のすべてが変化するからである。われわれはこのことを忘れて選考を非難しがちである。

そのうえで、リーダーの更迭(解任)の問題の複雑さを論じている。状況に合わなくなったり能力が衰えたリーダーは交代する(交代させる)必要がある。しかし、「優秀なリーダーであることを証明した人たちは組織の精神を体現し人格化していて、彼らの追随者たちの志望 (aspiration) を代表しているから」、不用意な解任は組織に混乱を引き起こすことになる。それゆえ、

このような事情から、あらゆる種類の組織において、特定のリーダーが能力のピークを過ぎ、時には不適切になってしまった後でも、関係者一同の利益を考えてリーダーの地位にとどめておかれることになると、私は理解している。こうしたことが、えこひいきから出ているときには弁解の余地はない。しかし、補助的リーダー達による能力不足の補給を包含したリーダーシップを組織化する過程の一部であるとすれば、弁護されなければなるまい。

In all types of organizations I believe this often means retaining a leader in the interest of everyone concerned after he has passed the peak of his capacities and sometimes even when the latter have become inadequate. When this is a matter of favoritism there can be no good defense; but when it is a part of the process of organizing leadership involving the supplementing of incapacities by auxiliary leaders, it must be defended.

ここにジレンマがあることを指摘して、この節の議論は終わる。

結論 (Conclusion)

ここまでの議論を通して、「われわれの知識の限界の程度と、限界を克服することの重要性」を強調してきたとバーナードは総括する。そのうえで、リーダーについて次のように語って、この論文を終える。

リーダーの仕事の本質からして、彼は現実主義者でなければならず、たとえ結果が予測できなくても行為に出ることの必要性を認識すべきである。しかしまた、彼は理想主義者でもなければならず、後に続く世代のリーダーによってしか達成されないような最も広い意味での目的を追求しなければならない。多くのリーダーが自分の権力が頂点に達したとき、すでに先は見えている。それでも自分自身が到達することはないであろう究極点へ向って道を押し進む。企業においても教育機関においても、政府においても、宗教団体においても、言葉には表せない、そして昨今のわれわれの奇妙にゆがんだ態度のせいでしばしば否認される、こうした動機に支配された人たちを再三再四見かける。

それでも「老人は植樹する」。明日のために今日を無視することは確かに感傷主義の反映であり、信用がおけない。しかし、われわれがいま活用できる思考と意志力の余力を駆って、未来のために現在を形作るのは、われわれがいま現に達成している社会的凝集力の基礎にある理想主義の表れにほかならないと思われる。そしてこの理想主義がなければ、われわれは自分たちの生活、制度、あるいは文化に何のしかるべき意味も見出せないであろう。

It is in the nature of a leader's work that he should be a realist and should recognize the need for action, even when the outcome cannot be foreseen, but also that he should be idealist and in the broadest sense pursue goals some of which can only be attained in a succeeding generation of leaders. Many leaders when they reach the apex of their powers have not long to go, and they pass onward by paths the ends of which they will not themselves reach. In business, in education, in government, in religion, again and again, I see men who, I am sure, are dominated by this motive, though unexpressed, and by some queer twist of our present attitudes often disavowed.

Yet, "Old men plant trees." To neglect today for tomorrow surely reflect a treacherous sentimentalism; but to shape the present for the future by the surplus of thought and purpose which we now can muster seems the very expression of the idealism which underlies such social coherence as we presently achieve, and without this idealism we see no worthy meaning in our lives, our institutions, or our culture.

以上でこの論文は終わる。


組織の概念
Concepts of Organization

この論文では、バーナードの組織の概念について、あらためて自身が重要な点を論じるものとなっている。ただし、論文が焦点をあてているのは、一つは貢献/貢献者という概念の妥当性であり、それを顧客を貢献者として論じることで展開する。後半では、自身の組織概念の概念の性格を論じた、言うなればバーナードの科学観を展開したものとなっている。

第1節 顧客と組織の関係(The Relationship of Customers and Organization)

●『経営者の役割』の組織概念

私が『経営者の役割』を執筆する際に到達した組織の概念は、時間的な連続性をもつ活動および相互作用の統合的集合体という概念であった。したがって、私は、組織とは人々の集団で構成されるとする概念を拒否した。つまり、ある明示的な目標や目標群に関してその行動が調整されている人々のある程度限定されている人々の集団から構成されているものが組織だとする概念を私は拒否したのである。そして、それと反対に、出資者、供給者、それに得意先や顧客の活動を、組織の中に含ませたのである。したがって、組織の質料は個人的貢献活動、すなわち組織の目的に対して貢献しようとする活動である。

The conception of organization at which I arrived in writing The Functions of the Executive was that of an integrated aggregate of actions and interactions having a continuity in time. Thus I rejected the concept of organization as comprising a rather definite group of people whose behavior is coordinated with reference to some explicit goal or goals. On the contrary, I included in organization the actions of inventers, suppliers, and customers or clients. Thus the material of organization is personal services, i.e., actions contributing to its purposes.

まず最初に、組織は活動・相互作用からなりたつものであって、人の集合ではないことが確認される。そして、組織の要素(ここではマテリアルという表現をしているが)は貢献であるとする基本的な考えが述べられている。

●顧客も貢献者である

通常、顧客が組織に対して持っている関係は、従業員のそれとはまったく異質のものだと思われているが、顧客に対する適切な用語で上述の分析をすることができなったことが、読者の混乱を招いた原因であり、読者にとっては、その場合、著者に混乱があるように見えるのである。この点について明確に説明することにしたい。そのことを、(I)顧客が行う購買の行為は売り手の組織の一部であることを示すこと、(II)使用者ー従業員の関係の用語に特定して述べられた誘因の経済は、等しく売り手ー買い手の関係にも適用されることを論ずること、のように2段階にわけて行うことにしよう。

通常、顧客は組織の外部の存在とみなされるが、貢献のシステムとして組織を考えるならば、顧客も貢献者になる。そこで、バーナードは、顧客が貢献者であること、顧客への働きかけは従業員への働きかけと同じ誘因の経済であることを論じようとする。

●購買行為と組織

まず、組織を構成する行為、つまり彼の言う貢献について、その本質が確認される。

二人またはそれ以上の個人の行為が協働的である場合、すなわちシステム的に調整されている場合には、その行為は、私の定義によれば、組織を構成する。そのような行為はすべて、その機能によって決定されている二つまたはそれ以上のシステムに、同時に所属している構成要素である。したがって、組織のあらゆる行為は、またある個人の行為であって、組織に対する彼の貢献である。……。二つまたはそれ以上の組織のシステムにおいて、一人の人間が行う協働行為が持つこのような同時的な作用が機能することによって、相互のあいだに結合がもたらされ、その結果として複合組織となる。

When the acts of two or more individuals are cooperative, that is, systematically coordinated, the acts by my definition constitute an organization. Every such act is a component simultaneously of two or more systems as determined by its functions. Thus every act of organization is also an act of some individual and is his contribution to the organization. ... This simultaneous functioning of the cooperative act of an individual in two or more organization systems provides the interconnection which results in complex organizations.

ここで述べられていることで注目するべきことは、一つの行為が個人にも組織にも(複数の組織にも)同時に帰属するという点である。

このことを逆の面から見れば、人間の特定の行為について理解するには、その行為が部分として機能しているすべての組織について知らなければ、完全とは言えないだろうということである。もしこの言い方が「抽象的」で「非現実的」に響くとすれば、このように言おう:人々の「観点」を理解するということは、すなわち人間の行動を支配しているすべての「影響力」を知ることを意味するが、それができなくては、人間の取扱いを有効に行うことはできない、と。これを言うのは易しい。しかしそれを、あるがままのものよりも単純化して論ずる概念がなければ、実際にはほとんど理解することができない。これが、すぐれた概念的枠組みの偉大な機能なのである。それは無限の複雑さを持つものを、意識的にかつ有効に論ずることを可能ならしめる。

To put the matter in reverse, you could not completely understand a specific act of human being without knowing all the organizations in which act functioned as a part. If this sounds "abstract" and "unrealistic," let me put it this way: you cannot deal effectively with people unless you can get their "point of view," which means knowing what "influences" govern their behavior. This is easily said but really almost impossible to comprehend without a conception which treats it as simpler than it is. This is the great function of a good conceptual scheme. It makes it possible to deal consciously and effectively with infinit complexity.

人間の行為というものが、同時的に多くの組織と関わりをもつこと、そうした行為の広範な関連のありかたを捉えて論じていくためには、適切な概念が必要なこと、そしてここで直接には述べていないが、貢献のシステムとしての組織という概念がそうした概念であることが論じられる。貢献のシステムして組織をとらえることで、組織が広範な人々の相互行為の網の目の中になりたつものであることが捉えられるのだ、と言っていると考えてよい。メンバーで捉えることは、そのメンバーの行為だけしか捉えられないだけでなく、そのメンバーの行為が他の組織に関わっていることも見えなくなるのだ、ということになるだろう。帰属や影響の重層性をつかむための視点を貢献者という切り口が与えてくれるわけである。

組織の中の最も単純なものには、A、B二人の間の財の交換がある。……、多くの場合、交換は協働であるとは考えにくいであろう。しかし、ちょっと考えてみればわかるように、両当事者の行為は相互に依存しあっており、相互関連的であるから、交換は、取り引きを成立させる合意、すなわち双方の行為の調整、に基づいているのである。この特殊なケースのはかない線香花火のような性格に惑わされてはならない。……、そのような協働によって交換されるものの間の関係の総体は経済学の主題であり、そしてまた、そのような行為の総体は、少なくとも部分的には、安定した単位組織および複合組織を構成しており、協働についての研究の主題なのである。

財の交換も協働として捉える。これによって、以下のように、顧客も貢献者として明確に把握されることになる。

究極的分析という意味からいえば、組織は協働行為の合成体である。そのような行為の集合体のある種のものは、名前の付けられた組織として取扱い、種々の仕方で分類すると便利である。……。特定の組織をそれとして確認すること、そしてそれらを分析的に分類すること、これらは意図されている目的あるいは便益ー通常、その組織は(表向き)何をする組織か、その組織の最も安定的な貢献者は誰か、ということーに応じて行われるものである。……。組織を弁別し、名前をつける際に、何かの特性に強調をおくあまり、ある種の協働行為が除外されるようなことになってはならない。百貨店は従業員の集団であり、物的な設備であり、商品の溜まりであると考えることもできようが、それでもやはり、顧客の協働行為があるために、それはであり続けるのである。

お客があってこその店なのだから、顧客も店の貢献者なのである。

●顧客と誘因の経済

確かに、従業員についてであれ顧客についてであれ、誘因システムの維持は同じように必要であり、同一の性格をもつものであることは容易にわかる。両者の関係の本質は交換である。いずれの場合においても、経済的な財が含まれる。そして、いずれの場合においても、経済的な交換に認められるもの以外に、色々な誘因がある。

細かな議論は省略するが、誘因の経済とは必ずしも物的・経済的な財に限ったものではないこと、そしてそのような誘因の経済は、顧客との関係にも適用できることが示される。そして、以下のように、顧客は貢献者であることが述べられる。

●顧客は貢献者である

ここで論じているのはアナロジーではないことに注意されたい。私は、顧客の扱い方が従業員のそれと類似していると言っているのではない。私の用いている組織の定義では協働行為の本質は両者において同一である、と言っているのである。そして、そのような行為を引き出すのに必要な行動の本質もまた、経験によって示されるように、同一である、と言っているのである。私は、ずっと以前からこれを確信している。「俗な言葉」で言えば、「従業員」と呼ぼうと「顧客」と呼ぼうと、人間の本性は人間の本性なのだ、ということである。……。相違しているものと見られていたものが同じものであることが明らかにされ、そして、それらを取り扱うプロセスが違うものだと多くの場合に思われていたのに、やはり同じものであることが確証されるならば、それは知性の力における偉大な進歩である。そのことが、ここで、私の定義した組織の概念によって達成されているのである。そして、この概念は認識される事実に基づいているのである。

Note that we are not here dealing in analogies. I do not say that the treatment of customers is analogous to that of employees. I say that the nature of the cooperative acts is the same in both cases under the definition of organization I am using; and that the nature of the behavior required to elicit such acts is the same, as shown by experience. I have long believed this. The "horse sense" way of saying it is that human nature is human nature whether you call it "employee" or "customer." ... It is a very great gain in intellectual control when it can be established that things regarded as different are similar, and that the processes of dealing with them often regarded as different are likewise similar. Here it is accomplished by the concept of organization as I have defined it, and this concept is grounded in recognized facts.

(強調は田中)

顧客と従業員を同じに捉えることを妨げているのは、何を誘因とするかという内容の差異に囚われていることであり、誘因が本質において行為を調整するものだということ、調整こそが重要だと点に立てば両者が同じであることが見えてくるとバーナードは言う。

第2節 組織と管理の分析のための概念装置(Conceptual Equipment for the Analysis of Organization and Management)

この節では、バーナードの組織の概念が、どのような概念なのかということ、つまりバーナードにとって科学的に論じることとはどのようなことなのか、という議論が展開される。バーナードの科学論、『経営者の役割』における概念の狙い、それが語られる。組織概念そのもの展開ではないが、バーナードがあえて貢献のシステムという概念を用いることの意義を語った部分なので、バーナードの言葉を整理して引用しておくことにする。

■ I 議論の適正水準(The Appropriate Level of Discourse)

多くの管理職位にとって望ましい資質は、同じ主題を、聞き手によってまた目的に応じて、いくつかの「言語」で語ることができる能力である。そのような言語を「論議水準(levels of discourse)」と呼ぶことにしよう。

●科学的論議の水準

それ(科学的論議の水準)は、究極的には、厳密な定義に基づき、論理的に一貫性を持っていて矛盾がなく、多くの場合高い抽象性を有するような最広義の一般化につながっている。これもまた狭い限界を持つ。それは、いかになすべきかについて個人にはほとんどなにも教えない。それは、具体的行動のためには不備であり、不十分である。しかし、それは理解力を大きく拡げ、統制の可能性を拡大し、錯覚を正し、それによって、実際の操作の時に、錯覚から生ずる過誤を回避することを可能ならしめる。また同じように重要なことは、それが、下位の論議水準で使えるような適当な概念と用語と、そしてものごとを見る方法とを提供することであり、それによって、他の場合にくらべて、実際的経験のはるかに広い分析と、有能な人々の間のより大きな協力を推進するのである。

●科学的接近の必要性

確かに、科学的なアプローチは直接には実践の役にたたないと私も強調するであろうが、しかし、そのことは、そういうアプローチをとっても組織の社会学と心理学に関する好奇心を満足させる以外に何の効用もない、という意味なのではない。むしろ反対に、経営、政治、教育における大規模な作業を要する大きな問題を考えてみた場合に、社会的協働についての健全な一般化を達成する困難なプロセスに対して大勢の人ができる限り貢献するということこそ実践的な意味で重要である、と私は信ずる。われわれにはなお、管理専門職の訓練のための適切な理論的基礎を打ち立てる必要がある。

■ II 組織管理の適切な理論のための概念装置(The Conceptual Equipment for an Adequate Theory of Organization Management)

●理論とは

私は、理論とは、状況、事柄の状態、出来事や活動の経過、生起する事象などについての包括的な説明であると思っている。……。重要な理論は、一般的な利害と関心についての、より広範な問題を包含している。優れた理論は、一般に事実に適合しており、自己整合的であり、重要な新事実の発見に有用性を持つことが証明され、広く受入れられる可能性を持ち、事実と知識と観念を能率よく精確に伝達することに役立つものである。

●理論に終わりはない

理論には終わりということはない。何となれば、理論は近似的に事実に適合しているに相違ないけれども、新事実を発見してそれをそのときに考慮に入れなければならなくなる可能性を持つだけでなく、われわれが事実だと考えていることを修正することもあり、それらによって、理論は事実を変化させるように働くからである。というのは、事実は物事や出来事ではなく、物事や出来事についての言明であり、出来事に関する何らかの理論−例えば何が「重要」かということ−を含まなければ、言明を作ることは不可能かあるいはほとんど不可能に近いからである。したがって、事実のあらゆる言明は抽象である。それは出来事のある側面だけを指し示しているに過ぎない。……。
事実の言明が言及している物事や出来事の観測された側面は現象と呼ばれる。したがって、事実とは、ある物事や出来事の観測された側面である現象についての観念、すなわち心の中に思い描かれたもの、の言明である。そのような観念はまた概念として知られている。

●一般的な事実

事実の言明は、われわれが一つの物事ないし単一の出来事と思っているものだけではなくて、特殊な側面について考えられる出来事の集合全体についてのものであってもよい。この一般的な事実は、類似した多くの事実の総体である。……。この事実は、精巧な理論あるいは理論群の助けをかりて、通常の個々に観測可能な諸事実から構成されている。それは証拠によって確証された事実であり、その正当性はある理論によって決定されているのである。
これらのことは、主に管理者に関する種類の事実である。彼はしばしば、事実を具体的なものだと信じたがる。「事実は事実だ」というわけである。一般化は真理であると信ずれば信ずるほど、事実はますます「現実」であり、ますます「具体」であるように見えてくるものなのである。

●説明的概念

観測された証拠と理論から直接推論することができるという意味での事実ではないが、一般的知識、理論、経験、物事のセンス、想像力の産物としての観念ないし概念がある。そういう概念は、説明を与えるための一環として、すなわち理論を作るための一環として、恣意的ではないにしても経験とは無関係に、いわばまったくのフィクションから作り出されている。もしその理論が有効に働くものであれば、換言すれば、その理論が特殊および一般の事実を充分に説明するものであれば、それらは優れた概念であると考えられよう。そうした概念が真か偽かという問題は往々にして意味を持たない。そしていくつかの最も有用なものについて、その真偽を証明することは絶対にできないと明言できるのである。それらが果たす役割は観念と事実を組織することである。このことこそ、私が『経営者の役割』の中で「概念」あるいは「概念的構成体」ということによって表そうとしたことの意味である。

There are ideas or concepts which are not facts in the sense that they can be directly inferred from evidence of observation and theory, but which are products of general knowledge, theories, experience, the sense of things, imagination. They are constructed out of whole cloth, as it were, though not arbitrarily and with no reference to experience, to help give an explanation, that is, to help make a theory. They are likely to be deemed good if the theory works, that is, if the theory explains particular and general facts satisfactorily. The question whether such concepts are true or false often makes no sense, and as to some of the most usuful it can be asserted that they never can be proven true or false. Their function is to organize ideas and facts. This is the kind of thing I mean by "concept" or "construct" in The Functions.

(強調は田中)

このように、『経営者の役割』における組織概念は、最終的には、組織の管理者にとって、現実の体験を一般化し汎用化する手掛かりとなる道具的な概念であることが確認されるわけである。それを以下のように指導的観念と呼んでもいる。

●概念的枠組み

そのような概念あるいは指導的観念を使うことは、理論、すなわち莫大な数の事実の有効な説明、の枠組を与えることである。そのような枠組を持つことは「基点」を獲得するために必要である。それは、いわば混迷している混沌から秩序を獲得する出発点であり、そして少なくとも考察に充分な間だけ物事を整理しておくに足る厳密性−「無矛盾性」−を持つ場所である。……。私は、理論の枠組を与える基本概念の集合を「概念的枠組(conceptual scheme)」と呼んでいる。

●構造概念と動態概念

最後に、『経営者の役割』の概念が構造的と動態的のふたつに分けられ整理されて、この論文は終わる。

基本概念には、構造的なものと動態的なものとの2種類のものを考えることができる。第一のものは、主題についての、相対的に安定で固定している一般的側面に関するものである。動態的種類のものは、運動ないし変化の「いかに働くか」についての一般的観念に関するものである。その区分はいくぶん恣意的であるが、便宜的である。……。構造概念は、間断なく継起する諸活動の連鎖の間の安定的な関係についての言明なのであり、何かある固定的なもののセンス、感触、を与えているのである。

Fundamental concepts may be regarded as of two kinds: those which are structual, and those which are dynamic. The first relates to general aspects of the subject that are relatively stable fixed. The dynamic kind relates to the general ideas as to "how it works," of movement or change. The distinction is more or less arbitrary but convenient. ... They (structural concepts) are statement of stable relationships between incessantly successive series of acts giving a sense, a feeling, of something fixed.

主要構造概念

  1. 個人(The Individual)
  2. 協働システム(The Cooperative System)
  3. 公式組織(The Formal Organization)
  4. 複合公式組織(The Complex Formal Organization)
  5. 非公式組織(The Informal Organization)

主要動態概念

  1. 自由意思(Free Will)
  2. 協働(Cooperation)
  3. コミュニケーション(Communication)
  4. 権威(Authority)
  5. 意思決定プロセス(The Decisive Process)
  6. 動的均衡(Dynamic Equilibrium)
  7. (管理)責任(Executive Responsibility)

世界政府の計画化について
On Planning for World Government

この論文は、計画化というものについての考察と、組織に関する考察が行われているものであるが、このページでは組織に関する考察の部分に焦点をあててみていくことにする。

●組織の3種類の素材

まず最初に、バーナードは、組織というものを大きく3つに分ける。それぞれを素材(material)と呼んでいる。

構造の観点から、すべての組織には3種類の素材があることは明らかである。第一のそして最も基本的なものに、私は「非公式組織」という名を付けておいた。それは、社会とか社会のどの下部部分にも浸透している。非公式組織は公式組織の基礎を提供し、またそれはそれ自体公式組織によって体系化される。公式組織には2種類ある。私は、この2種類の公式組織について言っておきたいことを、両者の相違点に焦点をあわせて論じよう。というのも、この二者間の選択が世界的な公式組織の根本問題だからである。

非公式組織(Informal Organization)

まず最初に非公式組織に関する考察が展開される。『経営者の役割』9章で述べられているものより詳しく視野を広くとった考察になっている。

●社会、共同体、非公式組織

「社会(society)」、「共同体(community)」、「非公式組織」という言葉は、ごく一般的な用法ではほぼ同義である。「社会」はおそらく、何らかの意味で共同で生活している集団としての識別可能な存在をともかくも持っている「人々の集団」を強調する。「共同体」は、集団ではなくて、共同の生活と、コミュニケーションを通しての相互依存性とを強調する。共同体は集団に属する人々の間の関係の一般性−それが共同体を社会にする−を表現する。「非公式組織」は、社会集団に含まれる人々の具体的な行動の相互依存性に力点を置いている。それは、社会の機能的側面における規則性にかかわっている。集団が社会であるのは、非公式組織が集団を共同体に仕立て上げるからである。社会は、非公式組織とその結果−共同体、人工物、文化、公式組織−ゆえに存在する。そして、それぞれの社会は非公式組織をもっている、と言ってもよいだろう。

The words "society," "community," and "informal organization," for very general purposes are nearly synonymous. "Society" perhaps puts the emphasis upon a "group of people" who somehow have a distinguishable existence as a group living in some sense in common. "Communty" puts the emphasis not upon the group but upon the living in common and upon interdependence through communication. It express the generality of relationships among the people of a group which makes of it society. "Informal organization" puts the emphasis upon the interdependence of the concrete behavior of those comprised in the social group. It refers to regularity in the functional aspect of a society. A group is a society because it is made into a community by informal organizatiuon. A society is because of informal organization and its consequences - community, man-made works, culture, formal organization; and each society may be said to have an informal organization.

上記引用文中の「集団が社会であるのは、非公式組織が集団を共同体に仕立て上げるからである」という一文が、バーナードが非公式組織をどのようなものだと考えていたかを端的に述べた文章だと考えられる。ただし、ここで言う社会は、人間の相互作用の総体という一番広い社会ではなく、日本社会というような場合の、特定のまとまりを持ったもの(つまり世界には複数の社会がある)という意味での社会と解すべきであろう。

●非公式組織と相互作用

社会の成員間の相互作用が総体として非公式組織を構成する。これらの相互作用は、身体的な接触、肉体的な協働の行為、そして、いくらかは比較的未熟な手段によるが、主に言語、特に口頭の言語によるコミュニケーション、から主として成り立っている。このコミュニケーションという相互作用は、共通のシンボルの、そしてシンボル化された事物についての概念のストックの、開発と使用を伴いながら、観察される事実として、反復的な慣習的方法と様式をとりつつ、発生する。これらすべてから、物事をやる慣習的方法とコミュニケーションの慣習的方法とが生じるばかりでなく、また、態度、物事を見る慣習的方法、事物についての概念の一定のストック、事象とコミュニケーションへの慣習的反応も生じてくる。相互作用の精確な性質は、直接的な観察ではほとんど認識できず、「部外者」の観察に何とか用いうるものがあるとしても、それは総体としての相互作用のうちのごくごく一部分だけである。……。したがってわれわれは、個人的経験によって、またおそらくは、主としてもっと重要で識別可能な非公式組織の結果を通じて、非公式組織のことを知るのである。その結果とは、習俗、習慣、共有の嫌悪感、固執される信念、因習、道徳準則、制度、言語、そして、美術と建築、民謡と民俗、文学、祭式と儀式、などのようなある種の具体的証拠、それに公式組織である。非公式組織の、あるいは非公式組織から生じうる、これら識別可能な客観的結果が、思うに、通常「文化」といわれているものである。

非公式組織が「文化」を生み出し、そうした文化の客観的派生物の一つが公式組織であるとされる。公式組織は非公式組織から生まれるというバーナードの主張がここで社会という広い文脈で述べられている。

●非公式組織の活動

非公式組織の具体的活動の組織的(あるいは社会的)結果がどれ一つとして意志されたものでも、意図されたものでもないのが、非公式組織の特徴である。非公式組織は組織として、無意識的である。生体の生理的過程のたいていが同様にそうであるように、非公式組織もやはりそのゆえにリアルなのである。

It is characteristic of informal organization that none of the organizational (or social) effect of its concrete activities is willed or intended. Informal organization as organization is unconscious. As is similarly true of most of the physciological processes of the living body, it is nonetheless real for that.

非公式組織は無意識的な組織であることの確認。無意識的という表現は誤解を招きやすいように田中は思うが、ようは、相互作用や相互活動を意図して行っているものではない、協働を意図していない、ということである。

●非公式組織と変化

非公式組織は、社会の成員の個人的、社会的行動を支配し、その限界を定める。これを説明する根拠はいくつもありえようが、そのうちの二つを挙げてみよう。第一に、社会成員間の相互作用の複雑さが非常に大きいので、それは大部分習慣によって秩序正しく維持されねばならない。重要な関係は、通常、定式化されていなければならない。第二に、コミュニケーションができるかどうか、明白な行動が理解されうるかどうかは、慣習的様式や共通に受容されている規範への適合と、一般に保持されている考え方への順応とに依存している。これらの理由が、外圧による非公式組織の急激な改変に対する社会の強い抵抗の基礎にあると言えよう。急激な改変は、効果的な行動の能力を破壊し、ふとした、即応の反応的コミュニケーションに依存する統一性を破壊するだろう。……。非公式組織のどんな改変を社会が受容可能か、あるいは受容する見込みがあるかは、実践的な問題のうちでも、最も手に負えないものであるとともに、最も熟考を要する問題である。私の見るところ、それが包括的な公式組織を計画するにあたっての最も基本的な問題である。というのは、公式組織がカバーできる範囲は、おおよそ非公式組織の一次的な統一が存在する範囲に限定されるからである。

非公式組織は、意図的に構築・維持されたものではなく、言うならば慣れ親しみによって成り立っているものだから、そこに意図的な変化をもたらすことは困難を生じる、というわけである。

●公式組織の障壁

公式組織もまたこうした障壁を作り出す傾向がある。それぞれの公式組織は明白な協働目的をまさに表現しているのであり、ひとたび設立されると、めいめいそれ自身の下位社会を創出する傾向がある。その理由は、公式組織におけるコミュニケーションの必要性が、公式の経路とか設備の能力を超えてしまうからである。公式的統一の状態は、非公式的統一の確立と維持、および、無数のやり方で適切な反応的行動ができるようにする、習慣的行動の能力と相互理解の能力にかかっている。かくして、公式組織における非公式組織の機能は、コミュニケーションおよび行動の安定化の双方である。

公式組織も広範な統一への障壁を生み出す。それは公式組織が下位社会としての非公式組織を生み出すからである。

●二次的非公式組織

われわれの社会の非公式組織の統一は、それ独自の習慣と言語をもつ無数の二次的非公式組織の発展によって、こわされがちである。テクノロジーそのものと、その開発と利用に必要な公式組織とは、非公式組織を伸長させる格好の手段を提供するけれども、非公式組織を分裂させ、崩壊させる傾向がある。

公式組織は非公式組織を支え維持させるものという面もあるが、閉じた非公式組織を作り出すという点では、非公式組織を分断するものでもある、というわけである。このように、非公式組織から公式組織が生まれ、公式組織の内部に新たな非公式組織(二次的非公式組織)が生まれるというのは、『経営者の役割』9章でも述べられていた論点である。

●計画と非公式組織

社会的、政治的計画者が直面する最大の困難は、非公式組織のもつ、触知しえず、測り難く、漠然とした力と慣性である。これらを処理するのに、ある程度の政治的、プロパガンダ的なテクニックが有効である。このテクニックはそれ自体、それが作用することになっている対象そのものを反映する、試行錯誤の産物であり、通俗心理学の潜入感と潜入的愛好の産物であって、したがって、それをもって計画者が確実にその基本的計画の基礎となしうるテクニックは多くはない。

ここまで述べてきたような非公式組織というものが、計画化よる統制に対し障害になり、扱いが難しいものであることが確認される。非公式組織は、意図的にコントロール・管理できるようなものではない(出来ないとは言わないが難しい)というバーナードの非公式組織の管理に関する論点が確認される。

ここに見られるように、バーナードは、二次的非公式組織と非公式組織のどちらも、日常的な人々の接触から生まれる無意識的なもの(非意図的なものといった方が正確だろう)として、大きな差異は認めていない。しかし、ルーマンが『公式組織の機能とその派生的問題』で展開したように(本の題名に表れているが)、二次的非公式組織(公式組織によって生まれる非公式組織)は、公式組織との関わりで生まれるものである以上、公式組織による規定(影響)のもとでの特異な様式や様態を示すものだと考えることができる。つまり、バーナードの非公式組織の定義を受入れたとしても、非公式組織(社会)と二次的非公式組織(公式組織内非公式組織)は、公式組織の存在ゆえに、異なったものとなるはずであり、その異なり方こそ、組織の問題、あるいは組織の管理の問題の関わる点である、とすることはできる。このあたりは、大きく見れば、組織の境界というものへの意識が薄い(境界に重きを置かない=メンバーではなく貢献者というのもその現れと捉えうる)バーナードの組織論の特徴であり、彼の視点からは見えにくいものであるということもできるだろう。もちろん、バーナードが組織を道徳的な制度としてとらえたということは、この二次的非公式組織の管理の問題であるわけだが、公式組織に関わるがゆえの特異性という視点はないように思われる。

側生組織と階層組織との対比(Lateral and Scalar Organization Contrasted)

続いて公式組織の検討に入るのだが、ここでバーナードは公式組織を二つに分ける。『経営者の役割』には無かった新しいタイプの公式組織として、側生組織を導入するのである。

なお、以下の引用文の直前の部分への注として、バーナードは「公式的」とはどういうことを意味するのかを述べている。まずそれを見ておくことにする。

ここで「公式」という言葉は、「形をもった」という形象的・象徴的な意味と、また「明示的に認知された、確立された、世間周知のもとに維持されたもの、その関係が法令、文書による協定、命令、組織図、あるいは組織表によって確立されたもの」という意味において、同時に用いられている。

"Formal" in this context is used simultaneously in the figurative sense of "having form" and also in the sense of "explicitly recognized, established, and maintained of public knowledge, its relationships established by statute, written agreement, order, organization chart, or tables of organization."

つまり、一点は明確なまとまりを持ったものという形態的な側面(比喩的に一つのモノにたとえることができるという意味で figurative なのだろう)、もう1点は、それが一つのものとして世間から認められるものであり、一つのものとして他から区別する根拠が明確なもの、という側面と、二つの側面から「公式的」という言葉を使っているわけである。一つのまとまりをなすものであり、そのまとまりを形成する調整原理が明示的なもの、それが公式的なものということになるだろう。

さて、そのような公式組織には、二つの型が存在するとバーナードは言う。

●階層組織と側生組織

公式組織の区別しうる2類型のうち、第一は、自由な合意−相互理解による、契約による、条約による−のタイプである。そのような組織を私は「側生組織」と呼ぶ。第二のタイプは「垂直的」で、関節接合的で、ヒエラルキー的で、階層的である。このタイプに対して、私は通常、「階層的」という語を用いる。

Of the two types of formal organization to be distinguished, the first is that of free agreement - by mutual understanding, by contract, or by treaty. I shall call such organization "lateral organizations." The second type is "vertical," articulated, hierarchical, scalar. For this type I shall usually use the word "scalar."

「側生 lateral」は水平的、横断的という意味の言葉である。垂直的関係を築かない横並びの繋がりという意味で lateral を使っていると思われる。「側生」という言葉は生物学的な用語であり、組織のタイプを指す言葉としては馴染みにくいものだとは思う(バーナードの文献以外では「横断的組織」と訳されることもある)。

先の翻訳の引用文では「階層的」と訳されている用語は、原文では Scalar という変わった言葉が使われている。この言葉に対して、バーナードは以下のような注を付している。

「階層的」は、ムーニーとレイリーがその著 Onward Industry のなかで採用した用語である。彼らの定義は次の通り。「scale は、連続した段階を意味する。よって、等級順に配列された何か、である。組織ではそれぞれ、差別化された職能によってではなく−その場合、他の異なる組織原則になる−、ただ単に権限とそれに対応する責任の程度によって規定された、職務の等級を意味する」。

"Scalar" is the term adopted by James P. Mooney and Alan C. Reiley in Onward Industry, who define it as follows: "A scale means a series of steps; hence, something graduated. In organization, it means the graduation of duties, not according to differentiated functions, for this involves another and distinct principle of organization, but simply according to degrees of authority and corresponding responsibility."

scale は日本語ではスケールというカタカナ言葉になっているものであり、段階とか目盛り、あるいは縮尺や程度などをあらわす言葉である。scalar は数学ではスカラー(スケーラー)になると言えば、それが量的差異だけをあらわすものとして、ヴェクトル(ヴェクター)に対比される用語であることはわかるだろう。つまり、先の引用と注を合わせ読むと、バーナードの言う階層組織とは、権威と責任が段階的・等級的に配分されている組織であることがわかる。「階層」という用語はヒエラルキーを意味するので、田中は、scalar の訳語に「階層」をあてることには違和感がある。バーナードが scalar を用いたのは、あくまでも権威が中心から周辺(上から下)へと段階的に分配されている(強度の差異化)という点を指すのであり、「層」のような質的差異が生じることを直接には意味してはいないと考えられるからだ。そこで、このページでは、以下、scalar organziation を「階差組織」と試訳することにして(scalar には階差的という用語をあてる)、それが hierarchical ではなく scalar であることを明示することにしたい

●側生組織

文書または口頭の契約によって、あるいは条約によって設立され維持される協働的努力のシステムは、命令の義務と服従の願望が本来的に欠けている組織である。それは非権力主義的組織(nonauthoritarian organization)である。このような組織の第1次的な統合は、水平的ないし側生的である。強調点は、「横並び状態の」個人または団体の協働形成過程にある。……。おそらく側生組織の最も単純なのは物々交換のケースで、短命な組織である。側生組織は通常、短期間だけ設定され、特定目的に限定される。こうした目的は、合意の当事者たちに私的なものであって、合意によって設立された組織に固有ではない。合意が目的そのものになることはない。それは自存するのではなくて、その当事者達によって別々に維持されるのである。

(強調は田中)

側生組織が「非権力主義的組織(nonauthoritarian organization)」というのは、関与している人間をすべて統括するような権威が存在しない組織ということである。つまり、互いに固有の原理にしたがって存在しているものどうしが、関係を形成し、維持するものである。オートポイエーシス的な用語を使うならば、構造的カップリングということになるだろう。全体を管理し維持し命令指示を下すような中心点が存在せず、個々に活動しているもの同士が、それぞれの固有な事情によって、他との連携を図っているもの、ということになるだろう。

●階差組織

さて階差組織に目を向けると、それは根本的に権力主義的(authoritarian)である。大部分の階差組織(国家を除く)では、なるほど諸個人は合意によって組織に加入するが、そこで働いているときの下位部分間や諸個人間の関係は、契約で取り決められた「要件」によるよりは、「組織の利益のために」状況が必要とするにつれて変更される指令によって、支配される。階差組織の第1次的な統合は垂直的である。……。同一レベルにある部分間の公式的関係、すなわち側生的調整は、原則として、合意ではなくて、命令とか指示によって決定される。参加しているすべての人々は、個人的ではない共通の組織目的ないし組織目標の達成に結集されている。一つの部分に対する侵害は、全体への侵害とみなされる。階差組織に通常内在している基本的仮説は、たとえ実際それらの死亡率が高いとしても、それらは無限に存続すると見ることである。こうした組織は非常に明確であるから、ごく短命なのを除いて、通常は固有の名称で知られている。

Turning now to scalar organizations, they are fundamentally authoritarian. In most of them (except states) individuals, it is true, come into them by agreement, but the relationship between subordinate parts and between individuals when operating in them are controlled not by "considerations" fixed as in contracts but by perscriptions to be changed as circumstances may require "for the good of the organziation." The primary integration of scalar organziation is vertical. ... Formal relations between parts on the same level, i.e., lateral coordination, are in principle determined by command or instruction, not by agreement. All persons participating are bound together in the accomplishment of common purposes or aims of the organization which are not personal. An injury to one part is regarded as an injury to the whole. A fundamental assumption usually implicit in scalar organziations is their indefinite continuance, even though in fact their motality is high. Such organizations are so definite that they usually are known by distinctive names, except those of very ephemeral duration.

加入時の契約ではなく、実際に活動を行う際に組織に必要となることを命令や指示によって各自が遂行する(=組織の権威のもとで行動を行う)ものであること、さらに存続という方向性を持っていること、そして名前を持つほどの明確さ(definite = 明確な輪郭・境界を持っている)もの、というのが側生組織の特徴として論じられる。

以下、この二つのタイプの公式組織のうちのどちらが世界政府(世界的な組織)にふさわしいのかという観点からの比較が行われていく。

●世界組織の観点からの相違

少なくとも世界組織の観点からすれば、側生組織と階差組織との最も重要な相違は、前者の治安維持と規律が組織に外的であるのに対して、後者のそれは主として内的なことである。

この違いが、バーナードの言う、「非権力主義的組織(nonauthoritarian organization)」と「権力主義的(authoritarian)」の差異でもある。権力主義的=権威主義的というのは、バーナードの場合、組織内に強力な独自の権力関係が形成されるということだけではなく、組織が組織の判断で行動していく(そのためには、その都度の行動を引き出すために命令や指示が受容される関係=権威関係が必要)、自律的(自己規律的)な点をもおさえた言い方であると考えることができる。

●側生組織と階差組織の利点と弱点

もしそこにある自由と、特定の合意の一時的性格とが、その状況の下で過度の競争や闘争をもたらしさえしなければ、側生組織のほうが、人的資源、人材、リーダーシップ能力の点からは、したがって間接費の点からは、階差組織よりも一般に安上がりのようである。その理由は、特定の意思決定が、階差組織における場合よりも、いっそう範囲が限定され、具体的行動によりいっそう関連し、抽象的命題にはそれほど関連しないからである。……。このことから、自由な合意による組織の一般システムは、階差組織のそれよりも、本来的にいっそう柔軟で適応的である−システム全体としての適応性はまったく事前に計画できないが−と言えそうである。実際、階差組織による適応はずっと意識的に決定されねばならないので、それゆえに階差組織はいっそう柔軟でなくなるのは事実である。……。このことは、階差組織でしなければならぬ公式的で明示的な意思決定の数は、同じ程度の自由合意のシステムの場合よりもずっと多いということを意味する。……。ここから出てくるもう一つの指摘は、階差組織では、意見や関心の相違が公式的な行政的、司法的過程によって解決されねばならぬ程度がいっそう大きいことである。同じ相違点が、自由合意の組織では、大部分は決定を必要とするまでにはいたらない。……。階差組織は、それを指示する人々の忠誠心に依存しなければならない。まさに忠誠心に、不可欠な権威と規律が依存している。この忠誠心の確保と維持が、少なくとも階差組織のリーダーにとっては、その主要課題である。(A scalar organization has to rely upon the loyalty of those who adhere to it. Upon this the essential authority and discipline depend. The securing and maintenance of this loyalty is a major task at least of its leaders.)……。自由な合意の組織では、たしかに忠誠心の必要性はずっと少なくなり、種類も異なっている。要請されるのは、特定公式組織への忠誠よりも、道徳水準内にある利己心への忠誠である。

このように、もしうまくいくのであれば、側生組織の方が間接費や柔軟性の点ではメリットがあるという比較がなされる。その比較結果を受けて、やや言い訳めいた以下のような言葉が語られる。

●階差組織の優位性

私は、階差組織のほうが、調整と業績達成力との点で、自由合意の組織よりもずっと優れていると言いたかったのだが、現時点で間違いなくこれだけは言えると私が信じるのは、ある情況下のある目的にとって、階差組織が他のいかなる組織より優っており、実際のところ、実行可能な唯一の協働形態であるのはたしかにその通り、ということである。

続けて、以下の諸観点からの比較検討がなされる。

●階差組織と側生組織の条件

階差組織を利用できるかどうかは、ある程度、諸活動の分離とその実効的な組み合わせを工夫するリーダーないし管理者の知的ならびに管理技術いかんである。さらに、階差組織に関する管理技法は、いまだ十分に開発されているとはおおよそ言い難いようである、多くのことが、偶然に発見されうる革新にも依存しているといえよう。
他方、無数の相互作用があって、それらが、単純な相互関係ではあるが、逆に多数の同時的相互依存性をもつような小集団に分離できないような場合には、自由な合意の組織はたしかに大規模にうまくいってきたが、階差組織なら不可能であろう。

●安定性

組織の2類型の比較がまた、それぞれの安定性の点について試みられなければならない。私はいろいろ研究してみたが、側生組織のほうが階差組織よりも安定的でないと仮定するに足る根拠はなさそうだという言う以外に、この問題についての一般的な結論はなにも見出せないでいる。

●自己破壊傾向

本来、こうしたシステム(側生組織)は、摩擦や紛争や分裂行為を抑止するそれ自体の公式手段を欠いている。この種の組織様式にとって重要な問題は、分裂的傾向に対する道徳的、文化的な抑制力が、そのような傾向を一定限度内に抑えて、側生組織の建設的な成果を相殺されないようにできるかどうかである。
他方、階差組織の本質は、中央集権的な権威による全体の調整にある。摩擦や紛争や分裂を減少させ、それによって安全と権力を入手し、保全するために、自由は少なくされる。そのために、位階制は不可欠であり、また政治的動機が組織の経済的、社会的、あるいは宗教的目標の上に置かれなければならない。ここで「政治的」とは、「組織それ自体の利益」を、それは協働の派生的な目的に過ぎないけれども、上位のランクの価値に高めるという必要性を指している。……。階差組織が位階制と政治性をともに必要とすることは、この組織が職位の内的な安定を強調しなければならない「ステータスの社会」であることを意味している。もし階差組織がその点である最低限にまで落ち込むと、安定的な権威の不足症状に冒される。

最終的に、側生組織と階差組織の比較を行ったこの部分では、世界政府としてどちらが相応しいのかという結論をバーナードは下していない。しかし、続けて、世界政府を階差組織として計画した場合の問題点の検討がなされる。

階差組織における構造的バランスの二つの問題(Two Problems of Structural Balance in Scalar Organization)

冒頭部分の書き出しの強引さが面白いので引用しておく。

以上に提示した考察などが計画者たちの意思決定をとどめはしないほどに、彼らが世界政府の階差組織にことのほか強い愛着をもって計画に着手するとしよう。

以下では、階差組織の二つのバランスの問題が論じられる。メンバーの水平的なバランスと垂直的なバランスの問題である。ここで言うバランスとは、ステータスの平等の問題である。個人間、あるいは部門間の差別が生じてしまう問題をいかに解決するかだと言ってもよい。

垂直的な関係においての平等性というのは、やや奇異な感じもするが、その点については、バーナードは以下のように述べている。

階差組織では、すべてのどの下位者も上位権限に絶対的に下属している。このことは公式的には、下位者の集団にも当てはまるが、非公式的には、上司と全体としての下位者集団との間に一種の平等性が必要なようである。健全な組織(healthy organization)では、上司は危険覚悟で、また危機とか緊急時に限り、あるいは部下の権能外の何か新しい領域で意思決定がなされねばならない場合には、下位者集団の判断をくつがえすだろう。これは潜在的反抗の問題ではない。むしろそれは、上司と部下の間の自由なコミュニケーション維持の問題であり、また責任の実行可能な配分の問題である。もし判断が恣意的にくつがえされると、責任が大いに傷つけられる。責任ないしその配分が抑えられたり、上司の能力以上の権限集中があったりすると、十分な支持関係の発展が妨げられる。

このように、権限と責任の配分のバランスと権威関係の維持が問題となるわけである。この点について、バーナードは、全体主義的な傾向は、組織の各層のバランスを破壊する効果があるとする。

人の限られた能力は、実際上責任の委譲をさせずにはおかないから、中央支配層の過大な公式権限と組織の現実の動きとの間には、不可避的な対立がある。原則と実践とのこの対立は、非公式組織によって制御されうる。

通常の権限と責任を対にする考え方に対して、バーナードは、責任が現場に配分されることの重要性を指摘する。バーナードの責任優先説と言われる考えの一端が表れている。

以上、二つのバランスの問題の重要性を指摘して、この部分の議論は終わる。続いて計画化に関する考察がなされるのだが、その部分は省略する。


経営者のための教育
Education for Executives

この論文について

この論文は、シカゴ大学の教員との非公式な会合において行った話の要旨を文章化したものである。ここではバーナードは、タイトルのように将来の経営者のために何を教えるべきかという話をしているのだが、大学教育でのカリキュラムや講義といった狭い話ではなく、将来の経営者があらかじめ学んでおくべきこと(理解しておくべきこと)を述べたものになっている。他の論文などで明らかなように、バーナードは過度の知的能力の重視には意義を唱えるのであるが、その背景にある、人間関係や協働の現実についてのバーナードの見解が述べられている。ある意味で、経営者が向いあう現実はどのようなものであり、その際にはどんなことが助けになるのか(ならないのか)という、バーナードの現場理解(経営の現実)が語られているところにこの論文の面白さがある。その点に焦点をあてながら見ていくことにする。

将来の経営者が必要とするもの

バーナードは、将来の経営者にとって必要なものを具体的に述べる前に、教育機関における教育の果たすべきこととして、自ら学び続けることを学ばせることの重要性を述べている。

教育機関において与えられる教育と関連して、しつこく繰り返し述べておくべきだと思われるのは、教えられている科目であっても、教育機関では学び始めさせることができるだけであり、それゆえに、教育機関が果たすべき最も重要な機能の一つは、学生にどのようにして自己を教育し続けさせるかを学ばせることである。

It seems to me that it should be persistently repeated that, even as to the subjects being taught, only a beginning can be made, and that one of the most important functions thereby performed is to help the student to learn how to continue to educate himself.

このように、教育機関を離れた後でも常に学び続けることの大切さを述べた上で、具体的に将来の経営者にとって必要なものとして、まず「広範な関心および広い想像力と理解力 (broad interests and wide imagination and understanding) 」を挙げる。2番目に、「優れた、厳密に知的な能力が必要」と述べる。知的なものに対して批判的であることを認めながらも、次のようにその重要性も認めるのである:

より論理的な学問における訓練は、多くの人びとの心から正しい人間理解を締め出す傾向があるということが私の考えの中にあることは、疑いない。それにもかかわらず、他の多くの人びとにとってと同じように、経営者にとっても、将来の世界は複雑な科学技術と込み入った技術の世界であって、それは公式的・意識的な知的過程によるのでなければ実践的な実用目的のための正しく理解されえないものである。

その上で、人間関係の理解の重要性を以下のように述べる(知的教育の批判をさらっとしている)。

知的に困難な科目で厳しい訓練することや、すでに述べたように公式的教育の大部分は、実際のところ、人間関係の分野における理解に逆らうような強い偏見を多くの個人の中に生み出すものである。人間関係の理解が必要であることは、経営者にとって第一に重要なことである。というのは、人間関係は、経営者関係、従業員関係、公衆関係および政治関係のエッセンスだからであり、また、多くの場合、科学、技術、法あるいは財務よりもむしろ、人間関係が管理職能の中心領域だからである。

Rigorous training in subjects intellectually difficult and, indeed, a large part of formal education, as I have already suggested, create a strong bias in many individuals against understanding in the field of human relations. The need of such understanding is of first importance to the executive; for human relations are the essence of managerial, employee, public, and political relations; and, in most cases, there rather than science, technology, law, or finance are the central areas of the executive functions.

ここから、バーナードは人間関係について理解しておくべきの3つの論点に踏み込んでいく。

人間関係の理解についての3つの論点

まず人間行動の没論理性である。

強調したい第一点は、人間の側での没論理的行動 (nonlogical behavior) の重要性と不可避性についての認識を教え込むことの必要性である。

その上で、知識人が人間の没論理行動の不可避性を認めないことを批判する:

知識人の多くは……、没論理的行動は避けられないものであって、すべての人間の行動の大部分を構成しているものであることを認めようとしない。その結果、少なくとも言葉の上で、知的に熟達していない人びとに対して、非難や偉ぶる態度をとらせるようになる。そこに、そのような人びとを、愚かで、ものいえず、動物のようなものであると特徴づける傾向が生じる。個々の人間に対する、あるいはわれわれの社会の本質に対する適切な理解は、そのような態度を取っている人びとには不可能であるように思われる。

第2の論点は、一般社会システムの本質を理解することの重要性である。

次に、人間関係の分野での適切な理解には、一般社会システムの本質に関する教育が必要であると思う。

Next, I think an adequate understanding in the field of human relations involves instruction as to the nature of general social systems.

ここでは education ではなく instruction になっているように、学問というよりも、実践的な現実理解としての社会システムの理解の必要性を述べている:

私の意見では、一般社会システムについて教えるに値するものはたくさんある。しかし、さしあたりは、少なくとも、それが科学としてよりはむしろ、その住んでいる世界の常識的理解よりは余程ましな何かとして、若い学生に提供されても差し支えないだろう。

There is in my opinion much that is valuable to be taught about general social systems; but for the present, at least, it might well be presented to the young student not so much ac science but rather as something much better than any common-sense understanding of the world he lives in can be.

第3の論点は、有機体的で進化的な公式組織に関する理解の必要性である。

人間関係の分野の理解に関する私の最後の示唆は、有機体的で進化的なシステムとしての公式組織についての教育がなされるべきであるということである。現時点においては、そのような組織についての、われわれのもっている「ノーハウ」とは区別された意味での公式的知識は、仮説的であって限られたものであることを私は知っている。しかしながら、公式組織における場合を除いて、誰も経営者ではありえない―単なるリーダーなら別であるが―ということは事実である。すでに、そのような特定の社会システムについて、多くのことを教えうることも事実である。

My last suggestion with respect to understanding in the field of human relations is that there should be instruction about formal organizations as organic and evolving systems. I am aware that at the present time our formal knowledge, as distinct from our "know how," of such organizations is tentative and limited. The fact remains, however, that no one is an executive, as distinct from a mere leader, except in formal organizations. The fact also is that already a good deal can be taught about such specific social system.

ここでバーナードは、公式組織を「有機体的で進化的な」ものとして捉えることの重要性を強調する:

これに関連して、私が有機体的進化的な社会システムとしての公式組織を強調する理由を明らかにしておきたい。それは、われわれがそのようなシステムについて、性懲りもなく、生物学的な類比よりもむしろ機械的な類比で考えているということである。……。そのために組織をば、生きているもの、成長しなければならないもの、そして、そのなかに含まれている人間諸力の均衡状態の変化とともに絶えず前進したり後退したりするものとしてではなく、機械のように静態的で固定的なものと見做す結果になる。

In this connection I should like to make clear my reason for emphasis upon formal organizations as organic and evolving social system. It is that we persistently think about such systems in terms of mechanical, rather than biological, analogy. ... It results in regarding an organization as static and fixed, like a machine, instead of something that is living, that has to grow up, and that is ever progressing or regressing with changing states of equilibrium of the human forces involved.

バーナードは、公式組織とは、固有の具体的な情況(環境)の中で生まれ、育ち、変わって行くものである点をとらえて、生物的なメタファーで語るのである。この点について強調するために、一つの思考実験として、自分が社長をしているニュージャージー・ベル電話会社の社員を丸ごと新しい人間に取替えたら、その組織がどれくらいもつと考えられるか?という問い掛けをする。バーナードの答えは以下の通り:

(人を丸ごと入れ替えた組織)そのような組織は、果たしてどのくらいの間有効に機能するであろうか。おそらく、特に軍隊式規律の制裁なくしては、12時間とはもたないだろうと思う。何故だろうか? 第一に、そして最も明らかなことに、誰も地元の情況を知らず、組織が絶えず適応しなければならない環境における変化をどのように解釈するべきかを知らないだろうからである。それほど明らかではないが、はるかの重要なことは、人びとが信頼を持って、相互に理解し、従業員を理解し、従業員から理解されることができないであろう。

How long would such such organization be able to function effectively? I would guess not more than twelve hours, especially without the sanctions of military discipline. Why? First, and most obviously, because no one would know the local conditions and how to interpret the changes in the environment to which the organization has constantly to adjust. Less obvious but much more important would be the inability of the men reliably to understand each other or to understand the employees or to be understood by them.

ここで述べられているように、固有の情況・環境のなかで公式組織は「生きている」のである。具体的な情況を理解できることの重要性を、人間のコミュニケーションをとりあげて次のように述べている:

通常の人間関係において、同じ文脈における同じ言葉が、違う個人によって言われるときには、違う意味をもつことが少なくない。われわれは人びととの経験を通じて容易に彼らを理解する。そしてその経験は、彼らなりの言葉の特別な使い方、イントネーションやジェスチャーの意味、それらが事実の問題なのか感情の問題なのか、誇張されているか控えめな表現なのか、信頼できるのか信頼できないのか、無口なのかおしゃべりなのか、その他コミュニケーションの多くの微妙な特徴をわれわれに教えてくれる。この種の理解に伴う信頼がなければ、寡黙、躊躇、優柔不断、遅延、過誤および狼狽が起こる。「人を知れ」ということは、コミュニケーション―組織化された努力はそれに依存している―における「言葉を知れ」とほとんど同じくらい重要である。お互いによく知りあっていない諸個人間での具体的行為に関するコミュニケーションが困難なことは、日常よく経験する事柄であるが、それが組織に関連してもつ重要性は忘れられているようである。けだし、われわれの知っている組織は、実際、長期間にわたって発展してくるのが普通だからである。ある時点において、ほとんどだれもが、定期的にコミュニケートする必要のある大多数の人びととは慣習的関係をもつのである。

In ordinary human relations the same words in the same context often have different meanings when uttered by different individuals. We understand people easily through our experience with them, which teaches us their special uses of words, the meaning of intonation and gestures, whether they are matter of fact or emotional, given to exaggeration or understatement, are reliable or unreliable, are reticent or voluble, and many other subtle characteristics of communication. Without the confidence that accompanies this kind of understanding, reticence, hesitation, indecision, delay, error, and panic ensue. "Know your people" is nearly as important as "know your language" in the communication upon which organized effort depends. The difficulty of communication on matters of concrete action between individuals who have not known each other is a matter of common experience, but its significance with respect to organization seems to be forgotten because the organizations we know have, in fact, developed usually through long period. At a given time nearly everyone has habitual relationships with most of those with whom he needs to communicate regularly.

説得の技能

人間関係の理解とのつながりで、経営者は説得の能力が必要だという議論へ進む:

人間関係の理解に対する接近について論じていると、人間事象における説得の重要性を認める必要を考慮するようになる。このことは強調する必要がある。……。説得的効果そのものは、本質的に没論理的な過程を含んでいることが少なくないのである。

経営者は、自分が理解したことを、他の人たちに分かりやすく説明する技能が必要であり、これが足りないことが問題を生んでいる:

たしかに、現代の経営者の抜群に重要な困難の一つであると同時に、最も重要な制約の一つは、彼だけが理解しているのかもしれない複雑な情況に関する諸事実を、文章で、会議で、あるいは相当の人数に対する演説で、わかりやすく表現することがうまくできないことである。私の見るところ、社会はこの事実のために大いに損害をこうむっている。

ますます社会が複雑になる中で、こうした説明能力がいっそう求められる:

関係がますます複雑になってくるので、経営者がやっていること、やっていると考えていることを説明することが、そしてまた、ある分野の活動の、他の分野との関係における説得力ある理由付けが、ますます要求されるであろう

さらに、これに関連した論点として、議論のレベルの変換(他の人びとの立場に立って表現できること)の必要性を指摘する:

私が力点を置きたいと思うこの問題のもう一つの側面は、いっそう困難である。一つのレベルにおける思考を他のレベルの思考に翻訳し、あるいは変換することが、ますます経営者に要求されるであろう。このことを常識的に言えば、経営者は自分自身の観点からみて最も便利で適切である言葉ばかりでなく、他の人びとの言葉や他の人びとの観点からも、考えることを学ばなければならないということである。

Another aspect of this subject on which I would lay emphasis is much more difficult. It will be increasingly required of the executives to transfer or transform thinking on one level into that of another. The common-sense way to say this is that executives have to learn to think not only in the terms which are more convenient and appropriate from their own point of view but also in terms of other men and from their points of view.

これに関連して、日常的な事象の理解には、単純な因果的な理解ではなく、戦略的推論が必要になるとバーナードは言う。

戦略的推論とは、結果がその一つの要因における変化によって惹起されたといわれるように、一つの要因を選び出し、その要因だけに働きかけることを意味する。日常生活のこの種の推論においては、すべて他の条件は等しいという仮定、および、すべての実践的目的のためには、ただ一つの結果しかないという仮定がある。このことがある特定の情況において正しいかどうかは、推論によってではなく、経験からのみ知りうるのが通常である。

Strategic reasoning involves picking out a single factor and operating on it alone so that the effect may be said to be caused by the change in that factor. In this kind of reasoning of the everyday world the assumption is that all other things remain equal and that for all practical purposes there is only one effect. Wether this is true or not in any particular situation can usually be found out only from experience and not by reasoning.

ここで述べられている戦略的推論は、『経営者の役割』でも述べられていたものである。戦略的推論の「正しさ」は経験的にしか分からないとするように、経営者は、分析的には分からない情況というものに、経験的に、責任的に望んでいるのである。そのジレンマを認めることの重要性を説く:

日常的業務においては、最も徹底的な分析によってさえ説明できないような情況が無数にある。ますます責任ある人びとは、一要因の変化が多くの他の要因を変化させ、そして、望ましい一つの結果だけではなく、望ましくない他の諸結果をも潜在させているような情況を、取り扱っているのである。私の知る限り、それゆえに多くの経営者が直面せざるをえないジレンマに対しては、十分な注意が払われていない。

In everyday affairs, there are innumerable situations whose characteristics are not explainable by the most thorough analysis. More and more, responsible people are dealing with the situations in which the change of one factor changes many other and there is not only potentially one effect which may be desirable but others which may be undesirable. So far as I am aware, adequate attention is not being given to the dilemma in which many executives are thereby being placed.

未知と不可知の世界

先ほどの戦略的推論の話の中で経験的にしか判断できないということが述べられていたが、それを受けるかたちで、最後の論点として、われわれは未知と不可知の世界の中で生きているのだという認識の必要性を述べる:

最後の話題になったが、それは未知なもの、および、不可知なものに対する合理的行動とは何であるかを理解することの必要性である。不幸なことには、教育の過程のみならず、慣習的な行動や平常の理解もまた、われわれが未知なるものや不可知のものの世界に生きかつ行為している程度をいつもあいまいにしている。

I come now to my final topic, which is the need of understanding what constitutes rational behavior toward the unknown and the unknowable. Unfortunately, not only the processes of education but habitual behavior and customary understandings persistently obscure the extent to which we live and act in a world of unknowns and of unknowables.

あくまでも実践の問題として、われわれは未知だったり不可知だったりする状況のなかで行為しなければならないのである:

われわれは十分な知識をもたないで行為しなければならないことが少なくないという実際的事実、また文字通り不可知なものがたくさんあるという実際的事実を、勇敢に強調することは、教育において望ましいことであると思う。私はいま、多くの知識は、たとえ入手可能ではあっても、少なくとも使用に間に合うように入手することができないということを、哲学的な意味においてではなく実際的な意味において、言っているのである。

I believe it is desirable in teaching to give courageous emphasis to the practical fact that we often have to act without sufficient knowledge and that there is much that is literally unknowable. I am speaking now not in the philosophic sense but in the practical sense, that much knowledge, even if potentially procurable, at least cannot be obtained in time for use.

未知や不可知が存在するということは、予測できないリスクに向かい合う必要があるということでもある:

このことの重要性は、予測できる危険と予測できない危険との区別を理解する必要性として、より一般的には表現することができる。ここでいう予測できる危険とは、特定事例の中でどれがそうなるだろうということは分からなくても、多くの事例ないし事件のうちで、一定のパーセンテージがある特性をもつようになるだろうと、おおむね容易に言えるような危険である。……。この意味でまったく予測できない多くの危険があることは、明らかであるように思われる。

The significance of this can be more generally stated as a need for understanding the distinction between calculable and incalculable risks. A calculable risks, as I use term, is one in which it is approximately feasible to state that out of a collection of cases or events a certain percentage will have certain characteristics without its being possible to know of which specific cases this will be so. ... Now it seems obvious that there are many risks which are in this sense quite incalculable.

経営者というものは、十分な知識を知識がないままに、現在を頼りに予測を行っている:

私が強調したい論点は、経営者達はしばしばこのことを否定するかのように行為しているけれども、彼らはほとんどいつも現状に関する十分な知識を持っておらず、多くの点で過去の事実を再生することができないでいるということである。したがって、およそ経営者達の危険の最大のものは、現在の状況の評価である。というのは、およそ不確実な未来の見積もりを組み立てることは、現在の状況の評価に基づいてのみ可能だからである。

The point I would emphasize is that executives, though they frequently act as if to deny this, are almost always lacking in adequate knowledge as to the present conditions and are unable to recover the facts of the past in many respects. Hence, the greatest of all their risks is the appraisal of the present situation, for it is only on that appraisal that it is possible at all to construct an estimate of the uncertain future.

不確実な状況のなかでの行動については、「ある人は非常に上手で、他の人たちは非常に下手であるということ」があるという。それは知識というより知恵の問題であり「十分な知識があり得ない場合には、なお英知の存在する余地がある (Where there cannot be adequate knowledge, there is still place for wisdom.) 」とバーナードは言う。そのような世界で行動しなければならないのだということを、教育は教えるべきだと強調する。

私は、実務に携わる人びとはそのような情況(不確実な情況)に一般的に対応する行動の型を学んできたのではないかと思うし、また、この問題について教育がなされ得ないならば、少なくとも初期の段階において、人びとは、彼らがそのなかで行動する世界はこの種の(不確実な)世界なのであるということを、教育されることはできるのではないかと思う。

自律的行動と権限の委譲

この論文の最後に、組織において人びとは自律的に行為するものであること、その自律性を育て、それを信頼して権限を委譲する時、未知で不可知な世界での経営がうまく行く可能性があることを述べている。長くなるが、最後の部分を引いておく。

そして、最後に、この同じ関連において、社会的集団の大抵の行動は自動的ないし自律的である、という事実が強調されるべきである。このことは、起こる事柄は、上からの指示によるのではなくて、人びとの間の相互作用の「自発的」結果である、ということを意味している。このことの実践的な意味は、人びとはわれわれが適切な方法だと見なすやり方で集団的に行動するように、(訓練、教育およびその他の方法によって)、条件づけられるかもしれないということである。この方法について適切な配慮が払われるときには、特定の命令を下すことができるだけの十分な知識を経営者がもてないような領域において、経営者は、相当の確信を持って、権限を委譲するかもしれない―たとえ別の意味では命令を発することが実際的であったとしても。これは、おそらく、関係する諸事実―それらは、全体として未知のものであり、また実際、個々の経営者によっては知ることができない―を取り扱うあらゆる組織の方法の中で、最も効果的なものであろう。

And, finally, in this same connection, emphasis should be placed upon the fact that most behavior of social groups is automatic and autonomic. I mean by this that what occurs is not directed from above but is the "spontaneous" result of interaction between people. What this means in practice is that people may be conditioned (by training, education, and many other methods) so that they collectively behave in what we regard as an appropriate way. When proper account is taken of this method, the executive may delegate authority with considerable confidence an areas where he could not have sufficient knowledge to permit giving specific orders, even if it were otherwise practical to issue them. This is probably the most effective of all organization methods of dealing with the relevant facts, which as a whole are unknown and, indeed, unknowable by any individual executive.

このように、不確実な状況内での行動における権限委譲(これが責任優先説であることは言うまでもない)を述べて、この論文は終わっている。


公式組織におけるステータス・システムの機能と病理
Functions and Pathology of Status Systems in Formal Organizations

●分析の対象と狙い

まずこの論文での分析について述べられる。

公式組織はそれぞれが独立した社会なのではなく、公式組織が部分として含まれる広い社会から生まれてくる、社会行動の限定された諸形態なのである。このことは特にステータス・システムに当てはまることであり、とりわけ誘因を提供するというステータス・システムの機能に該当する。この誘因を提供するというステータス・システムの機能は、全体としての社会でステータス一般がどのように理解され受入れられているかということに大きく依存するものである。。

Formal organziation are not independent societies but are rather limited forms of social behavior growing out of the more general societies of which they are part. This observation is especially pertinent to systems of status, particularly as rspects their function of providing incentives, which largely depends upon the general conception of status obtaining in society as a whole.

本来であれば、社会におけるステータスから検討を始めるべきであるが、バーナードは、この論文では公式組織におけるステータスに限定して分析を行うと述べ、その分析を通じて以下のことを提示したいとする。

この分析が示すことは、公式組織におけるステータス・システムが、個々人の欲求の問題として必要であり、また協働システムの諸特性によってーとりわけ調整に不可欠なコミュニケーションの諸技術に関してー課せられるものとして必要である、ということである。しかしまた、ステータス・システムは、硬直性、肥大化、そして不均衡といった、組織の解体へと導くことの多い、抑制されない、そして抑制不能でさえある諸傾向を生み出すように思われる。

I 公式組織におけるステータス・システムの性質と技術的装置(The Nature and Technical Apparatus of Systems of Status in Formal Organizations)

●ステータスとは

まずステータスを以下のように定義する。

組織における個人の「ステータス」とは、ここでは次のことを意味する。すなわち、組織における個人の権利、特権、免除、職責、義務の一覧表によって、そしてこれに対応して、彼の行動を支配する制約、制限、禁止の一覧表によって規定されるその個人の状態であり、それはいずれもこのことについての他者の期待を決定づける。割り当てられたステータスのしかるべき認識がすべての組織参加者の義務や慣行となるとき、そしてすべての個人のステータスの状態が他とは異なる名称、称号、呼称、勲章あるいは明白な行動パターンの形で分化されて表示されるとき、ステータスは組織のなかでシステム的になる。

By "status" of an individual in an organziation we mean in the present text that condition of the individual that is defined by a statement of his rights, privileges, immunities, duties, and obligations in the organization and, obversely, by a statement of the restrictions, limitations, and prohibitions governing his behavior, both determining the expectations of others in reference thereto. Status becomes systematic in an organization when appropriate recognition of assigned status becomes the duty and the practice of all participating, and when the conditions of the status of all individuals are published by means of differentiating designations, titles, appellations, insignia, or overt patterns of behavior.

(強調は田中)

このように、個人の状態が差異化され表示的なものにされたものであり、他者の期待を決定するもの、としてステータスがある。なお、ここでなにげにシステマティックになるという言い方で、ステータスがシステムになることを述べているが、なぜそれがシステムなのかは、特に考察されていない。

●2種類のステータス・システム

バーナードは組織におけるステータスのシステムには2種類のものがあるとする

職能的ステータス・システム(functional systems of status):ステータスが職能(function)に依存しているもの。仕事(職業)の違いというのが分かりやすいだろう。このステータスの特徴として、バーナードは以下のように述べる。

それらすべてに共通した一つの特徴は、一者の他者に対する命令の権威が存在しないか、あるいはそれは少なくとも職能的ステータスには無関係であるということである。しかし、このことは、職能的ステータスの評価が同等であるということを意味しない。……。ステータスの横並びの分化は公式組織に限られるものではないが、それは一般にはそのような組織の、そして特にその精巧な分業が顕著な大規模組織の一つの特徴である。

また、このステータスが、他者の能力や限界に関する仮定であることを確認する。

職能的ステータスは、一つの一般的な属性である。……。「大工」というのは、それが誰だろうと彼が何をしていようと、そのようなことには関係なく、一定の能力をもっていると皆から思われており、逆に彼は、例えば医学的なアドバイスをする資格を認められていないといった限界をもつと考えられている。体系的なステータスの最も重要な特徴は、個人の直接の具体的な諸活動とは必ずしも関係のない、能力や限界の仮定である。力点は行動の潜在能力にあるのであって、直接に観察できる行動にあるのではない。

Functional status is a general attribute. ... The "carpenter" is presumed by all to have certain capacities regardless of who he is or what he is doing and conversely is presumed to have limitations, e.g., he is not authorized to give medical advice. It is the presumption of capacities and limitations without necessary regard to the immediate concrete activities of the individual that is the essential feature of systematic status.

このように、ステータスは一般化された仮定=期待なのである。

階差的ステータス・システム(scalar systems of status):ステータスが公式的権威や法的に決定されるもの。上下関係、上司ー部下という垂直的な関係。

ステータスは、普通、狭く限定された職位(ポジション)に就いていることに伴って割り当てられる個人の一般的な属性であるということに注意されるべきである。

It should be noted that status is a general attribute of an individual associated with the occupation of a usually rather narrowly restricted position.

●ステータス確立維持のための装置

バーナードは、ステータスが確立され維持される組織の装置(organization appartus)として、以下のものを挙げる:

  1. 就任や任命の儀式(ceremonies of induction and appointment)
  2. 勲章やステータスを示すその他の公的な印(insignia and other public indicia of status)
  3. 称号や職務と職業の呼称(titles and appellations of office and calling)
  4. 職位や職務の報酬と役得(emoluments and perquisites of position and office)
  5. 職業や職務の制限と限定(limitations and restrictions of calling and office)

II 個人にとってのステータス・システムの機能(The Functions of Systems of Status with respect to Individuals)

ステータス・システムのコアを確立することが組織を作り出す最初の一歩であるとして、そのステータス・システムを決定するものについて、次のように述べる:

ステータス・システムが、……、基本的には、生物的ならびの社会的な単位としての個々人の欲求や利害と結びついた必要性によって決定され、そして協働システムに固有の物的ならびに社会的な諸制約から生じてくる要求に基づいて決定される。

ステータス・システムは、個人の欲求や利害などから生まれてくるとして、個人の欲求に対する以下の点での関連を分析していく。ステータス・システムという差異=区別の体系の、その差異化の根拠についての考察である。

  1. 個々人の能力の相違(The differences in the abilities of individuals)
  2. 様々な種類の仕事をすることの難しさの相違(The differences in the difficulties of doing various kinds of work)
  3. 様々な種類の仕事の重要性の相違(The differences in the importance of various kinds of work)
  4. 社会的あるいは組織的な用具としての公式ステータスに対する願望(The desire for formal status as a social or organizational tool)
  5. 人間の人格的な高潔さを守りたいという欲求(The need for protection of the integrity of the person)

まず、個人間の差異については、差異があること自体がステータス・システムの必要に結びつくものではないが、ステータス・システムは個人の差異を基盤として成立することが確認される。

ここで概説したような個人間の差異は、ステータスの公式システムの必要性を立証するものではない。たとえそのような差異が、何らかの点で、公式のシステムを含意するとしても、それらはすべての点で、公式の資格あるいは欠落を意味するものではない。それらは、ステータス・システムの依って立つ第一の基盤が、その原因がなんであれ、個々人の肉体的、精神的、ならびに社会的能力と関心に、紛れもなく差異があるということなのを示している。これらの差異は、例えば教師や陸軍将校、あるいは雇用者にとって、直接の実際的で不可避的な重要性をもつ基本的な条件であることが理解されるだろう。

Such differences among individuals as are here outlined do not prove the necessity of formal systems of status; neither, if they imply such formal systems in some respects, do they involve a formal qualification or disqualification in all respects. They do suggest that the first base upon which status systems rest is the undeniable differences, whatever their origins, between the physical, mental, and social capacities and interests of individuals. It will be recognized that these are fundamental conditions of immediate practical and inescapable significance, e.g., to the teacher, the military officer, or employer.

続いて、仕事の難しさ(違い)という差異がステータスの差異の基礎となることが確認される。

公式組織とって必要かどうかにはかかわりなく、個々人の能力差が、非公式ステータスの違いを生み出すことは疑いようもないことである。……。しかし、能力差の重要な意味は、さまざまな種類の活動の性質の違いから生じてくる。……。このようにして、ステータスにとっての第二の基礎は、個人的な能力と対比された、なされるべき物事の相対的な難しさである。このような難しさは、通常、一般的な経験と観察に基づいた判断によって、あるいはもっと客観的には、さまざまな仕事をうまくやれない人あるいはできない人の数や割合を基礎として、評価される。

さらに、仕事の重要性の差異が、ステータスの差異の根拠となり、さらには体系化の基礎となる。

例外的に難しいことをする並外れた能力は、一般的な評価の際のステータスの相違を確定するのには十分な基礎ではあるが、権威と責任を含むステータスの一つのシステムを確立するのには十分ではない。公式組織における優秀さは、例外的な重要性をもつ難しい仕事のための例外的な能力にかかっている。ここでいう「重要性」には、経済的な重要性以上のものが含まれている。……。このようにして、仕事の重要性が、ひときわ優れた能力をもっている人たちを「探し求めている」ポジションの重要性を確定する。……。ステータスは、重要とみなされる諸活動がシステム化され、組織化されるがゆえに、システム的なものとなるのである(The importance of the work, then, establishes the importance of the position that "seeks" those of exceptional ability. ... Status becomes systematic because activities regarded as important are systematized and organized.)。

つぎに、称号、名誉といったものが、予期をもたらす便利さという点で仕事の上で役に立つものであるということが論じられる。

ステータスの次の基礎は、実践的なものである。ステータスを示す勲章や称号は、資格認定の効果を持つ。それらは個々人の性質、能力、特別の技能、あるいは役割についての一つの仮定を作り出す。もちろん、それは決定的なものではないが、しかし予備的な行為、紹介としては、それらは時間を節約し、ぎこちなさや戸惑いを防止する。……。
 一般に、称号やその他の地位の印をもつことによって、責任ある判断をするのに最も都合のよい職位にある人たちが、すべての関係者によって少なくとも一時的には受入れられるかもしれない、当該ステータスを承認し公示するということが保証される。ステータス・システムの便利さと有効性は大変なものなので、人々は彼らに仕事に必要な用具としてステータスを求め、そして同じような理由から、その人たちの仕事に対して責任をもっている人たちによって、彼らにステータスが押しつけられる。このことは、階差的ステータスと同じ位に、職能的ステータスにも当てはまるということが注意されねばならない。

The next basis for status is pragmatic. Insignia and titles of status have the effect of credentials. They create a presumption with respect to the character, ability, and specific skills or functions of individuals. They are not conclusive, of course, but as preliminaries, as introductions, they save time and prevent awkwardness and embarrassment. ...
Generally, the possession of title and of other indicia of rank certifies that those in the best position to have responsible judgement acknowledge and publish the status indicated, which all whom it may concern may accept at least tentatively. The convenience and efficiency of the status system is such that men seek status as a necessary tool in their work; and for the same reasons it is imposed upon them by those responsible for their work. It is to be noted that this applies as much to functional status as it does to scalar status.

(強調は田中)

人間の欲求との関係からステータスの必要性が論じられる。

ステータス・システムが「トップから」押しつけられる限りでは、それらは、個人的な動機に基づいて行為する最も有能で強力な人の野心の表現であるよりは、むしろ調整の必要条件の表現である。上位のステータスの人にも下位のステータスの人にも等しく当てはまる、最も強烈な効果をもつ個人的な動機づけは、ある社会環境のなかで、人間の人格的な高潔さを守りたいという欲求である。

  1. ステータスを授与することによって個人史を完全なものにする必要性
  2. その人からの命令が受領されることになる人たちに高いステータスを帰属させる必要性
  3. ある組織に参加する場合に、個人的な価値をもってることを象徴する一つの手段として、高いステータスを帰属させる必要性
  4. 個人に対する過度の要求から身を守る手段としてのステータスの必要性

2に関連して、ステータスが命令の授受というコミュニケーションの問題に関連することが触れられる(なお、コミュニケーション、権威とステータスの問題は、この後で、くわしく展開される)。

命令がその人から出されるような人たちにもっと高いステータスを帰属させる必要性は、しばしば明らかではないけれども、どちらかといえば確かなことである。有効的な協働に必要な努力の調整は、実際には、命令の機能を専門化することによってのみ確保されうるということは、単純で限られた経験によってさえ、ほとんど誰にでも分かり切ったことである。誰でも同時に、同じ活動について、他の誰かに命令することができないのは明らかである。しかし、非常に危険なときを除けば、得体の知れない「誰か他の人」から命令されることは、その人の自尊心、全体性を傷つけられることになると感じ取られる。もしも命令が超自然的な権威によって授与された、あるいはわれわれの現在の社会ではもっと一般的には、優れた能力あるいは上位の責任の負担によって授与された「正当性」によって行使されると感じ取られる場合にのみ、このようなことは避けられるか、あるいは緩和されうる。人々は優れた能力によって「監督される」ことを強く望んでいるが、しかし彼らは自分たちよりも優れた能力をもっていない人たちが上司になることに憤慨する。命令する立場にある人たちに高いステータスを割り当てるこのような必要性は非常に強いので、明白な事実がそれを妨げないかぎり、人々は、自分たちが承認したり判断することのできない諸能力があるものと考えるだろう。高い権威をもつ人たちがある人を自分たちの上司として任命するときには、人々は「彼らが何をしているかを知っている」と。信じたがっている。……、このような服従の正当化に対する願望はしばしば、ステータスについてのおびただしい合理化へと導き、そしてその神話的で神秘的な説明へとさえ導く。……。
……。ある特定の分野で専門家としてのステータスをもっている人のアドバイスは、あるいは指令でさえ、同じように専門家として認められているがステータスを持たない人のアドバイスに逆らってでも、受入れられるだろう。そこに関係している主観的要因は、職能的ステータスをもつ人に責任を転化するのを公に認めるという、広く行き渡っている感情のようなものである。同じステータスをもつ人たちの能力には大きな偏差があり、また公式のステータスだけに頼るのは多くの過ちと誤用に陥りやすいが、それにも関わらず職能的ステータスのシステムが、実際の毎日の社会行動の中で、ほとんどすべての人たちに大きな安心感を与えていることは、ほとんど疑いない。

The need of imputing higher status of those from whom commands come is rather certain though it is not often obvious. It is apparent to nearly everyone on the basis of even simple and limited experience that the coordination of effort necessary for effective cooperation can be practically secured only by specializing the function of command. It is obvious that everybody cannot give orders to everybody else at the same time and for the same activity. But except at times of great danger, to receive orders from a nondescipt "someother" is felt to be an injury to the self-respect, to the integrity, of the person. This can be avoided or alleviated only if it is felt that command is exercised by "right" either conferred by super-natural authority, or, more generally in our present society, conferred by superior ability, or by the burden of superior responsibility. Men are eager to be "bossed" by superior ability, but they resent being bossed by men of no greater ability than they themselves have. So strong is this need of assigning superior status to those in positions of command that, unless the obvious facts preclude it, men will impute abilities they cannot recognize or judge. They want to believe that those of higher authority "know what they are doing" when they appoint someone over them. ... this desire for the justification of subordination leads often to profuse rationalization about status and even to mythological and mystical explanations of it.
... The advice or even the directions of one having the status of an expert in a particular field will be accepted against that of someone recognized as being equally expert but not having status. The subjective factor involed may be that of a diffuse feeling of public authorization to tansfer responsibility to one having functional status. Though there is wide variation in the competence of those having the same status, and reliance upon mere formal status is subject to much error and abuse, nevertheless there can be little doubt that the system of functional status affords great relief to nearly everybody in practical everyday social behavior.

4に関連して、差異がある場合は、明確に差異化=区別を行うことが、協働には重要であることが述べられる。

同等でない人たちは、同等である人たちの場合と同じように、長期にわたって仲良く働くことはできないということを、多くの経験が示している。しかしまた、ステータスの相違が公式に認められているところでは、非常に等しくない能力と重要性をもつ人たちが、長期にわたって仲良く働くことができ、また働いているということを経験が示している。

III 協働システムにおけるステータスの機能(The Functions of Status in Cooperative Systems)

ステータス・システムの根拠を確認したのに続いて、協働システムにおいて、それがどのような機能を担うものなのかの検討に入る。ここで注目するべき点は、組織におけるコミュニケーションと権威の問題がステータス・システムという観点から再検討されている部分であろう。

まず、協働システムにおけるステータス・システムの必要性を、バーナードは以下の3点で押さえる。

  1. 協働における基本的なプロセスである、組織伝達のシステムの機能として(a function of the system of organization communication, the fundamental process in cooperation)

  2. 誘因のシステムの重要な部分として(an important part of the system of incentives)

  3. 責任感を教え込み、発達させ、そして責任を負わせ、確定する重要な手段として(an essential means of inculcating and developing a sense of responsibility and of imposing and fixing responsibility)

●コミュニケーション・システムとステータス

コミュニケーションにおける権威(命令指示の受容の正当性)の基本が確認される。これは『経営者の役割』の権威の理論で展開されていた、バーナードの権威受容説の確認である。

われわれがステータスのシステムに対する基本的な必要性を見出すのは、コミュニケーションの権威づけに関することである。コミュニケーションの受け手にとってまず重要な問題は、コミュニケーションが「正しい」ものである、つまり、来るべきところから発せられているものであると仮定したときに、そのコミュニケーションの内容を行為の基礎として信頼してよいかどうかということである。これが権威づけの意味していることである。このような意味での権威づけには、次の二種類がある。すなわち、職能的権威づけと、階差的あるいは命令的権威づけである。

It is in respect to the authoritativeness of a communication that we find the basic need for systems of status. The primary question of the recipient of a communication, assuming that it is authentic, i.e., comes from whom it purports to come, is whether the contents of the communication may be relied upon as a basis for action. This is what we mean by authoritativeness. Authoritativeness in this context is of two kinds: functional authoritativeness; and scalar or command authoritativeness.

●職能的ステータスと権威

ステータスが、命令の受容者の予期を生み出す(支える)ものとして重要であることが確認される。

あるコミュニケーションが状況の事実と必要性を反映しているかどうかは、コミュニケーションを送り出す個人(あるいは組織体)がその伝達する事項についての理解するのに必要な一般的能力をもっているかどうか、そしてその個人が重要な具体的知識をもつことのできる職位に(in a position)いるかどうかにかかっている。
……
職能的ステータス・システムは、コミュニケーションが権威あるものであることの一応の証拠(prima-facie evidence)を与えるのにこのうえなく便利であるので、われわれは、あらゆる組織においてはもちろんのこと、一般に日々の仕事の処理においても、ほとんど専らそれに依存している。……。体系化された職能的ステータスは、複雑な分業の有効な働きにとって絶対に欠くことのできないものであるように思われ、そしてそれはまた、相対的に単純な分業にとってさえ不可欠なものであるかもしれない。

●命令とステータス

そして、命令のコミュニケーションが作動するためにステータス・システムが必要であるとされる。この点は『経営者の役割』の権威の理論ではまったく出てこなかった、新しい展開である。

命令というコミュニケーションのシステムは、ステータス・システムという基礎がなければ、有効に作動できない。非常に小さな組織にとっては、コミュニケーションは有効に人に向けられるかもしれないが、しかしもっと大きなシステムにとっては、ステータスが基本的なものとなる。

The system of command communication cannot effectively work except on the basis of a status system. For very small organizations communication may effectively be addressed to persons, but for larger systems status becames primary.

●ステータスとコミュニケーションの言語

ステータスが、単に受容者の予期の問題だけでなく、コミュニケーションの具体的な言語の使用(言葉遣い)の選択の指標として機能することも確認される。

ステータスの職能的ならびに階差的システムは、いずれも、コミュニケーションが権威あるものであるということを実際に役立つ程度に確立するのに不可欠なものであるが、(コミュニケーションが行われるためには)権威があるというだけでは十分ではない。コミュニケーションの内容が理解できるものでなければ、正確あるいは有効に実行されえない。……。あるコミュニケーションが理解できるものであるかどうかは、そのコミュニケーションの発信者と受信者にとって同じ意味をもつ言語の使用にかかっている。このことから、コミュニケーションが誰からなされ、誰へなされるかによって、言語の選択が必要とされる。ステータス・システムは、適切な言語の選択において不可欠な一つの手引である。

●経営者の関心

このように、ステータスは組織のコミュニケーションに重要なものなので、経営者も強い関心をもっているものである。

管理者はステータスのシステムに大いに関心をもっている。なぜなら、ステータス・システムはコミュニケーションの出所証明に重要であり、それらの内容が権威あるものであるという実用的な仮定を確立するのに欠くことのできないものであり、コミュニケーションの理解可能性にとって不可欠なものだからである。

The executive is much preoccupied with systems of status because they are important in the authentication of communications, indispensable in establishing a working presumption of the authoritativeness of their content, and essential to their intelligibility.

このように、コミュニケーションにおけるステータスの機能は、ステータスを指標として受容や言語の使用にかんする予期を得られるということ、それによって目の前の具体的な個人のあり方に踏み込むことなくコミュニケーションが作動していくようにすることにあるわけである。

●誘因としてのステータス

威光=prestigeとして、以下の2つの点から、組織がメンバーに与える誘因となるものであることが確認される。

  1. 自我の強化としての、人間の全体性に対する保証としての、威光それ自体のための威光

  2. 他の目的に対する価値あるいは不可欠な手段としての威光

●ステータスと責任

ステータスへの欲望が責任を担保するものになることが論じられる。

ステータスの向上に対する願望、とりわけステータスを守ろうとする願望は、一般的な責任感の基礎であるように思われる。責任は、特定の失敗に対する特定のペナルティーによって、またステータスの限定あるいは一般的な失敗に対するある特定のステータスの喪失によって、確立され、強制される。

The desire of improvement of status and especially the desire to protect status appear to be the basis of the sense of general responsibility. Responsibility is established and enforced by specific penalties for specific failures and by limitation of status or by loss of a particular status for failure in general.

●ステータスシステムの合理性

ステータス・システムが、システムが環境に適応する過程で生み出した合理的なもの(バーナードであれば論理的というかもしれない)であることが述べられる。

経験と観察、そして歴史から導き出されたこれらの結論は、略述された理論の科学的な証明をなすものではない。しかし、それらは、ステータス・システムが非合理的な習俗、神話、合理化の結果ではなく、むしろ個々人の基本的な諸特徴や階差組織というシステムの基本的な物的、生物的、社会的諸特性に対する人間行動の適応の特殊な形態であるという主張の、かなりの確率で正しいとみなされる、もっともな論拠を提示していると考えられる。

These inductions from experience and observation and from history are not scientific proof of the theory outlined; but they are believed to present a fair basis, of considerable probability of correctness, for the assertion that systems of status are not the product of irrational mores, mythologies, and rationalizations, but are specific modes of adaptation of behavior to fundamental characteristics of individuals and to the fundamental physical, biological, and social properties of systems of scalar organization.

IV ステータス・システムに固有の破壊的傾向(Disruptive Tendencies Inherent in Status Systems)

これまで見たように、ステータス・システムは、組織のコミュニケーションなどの機能を円滑に作動させるための重要な装置となりうるものであるが、しかし、一方で、ステータス・システム自体が組織の破壊傾向を持っているというのが、バーナードのステータスの捉え方である。以下、その破壊的傾向の諸側面の検討が行われる。

バーナードは、ステータス・システムが組織にもたらす破壊的傾向として、以下のようなものを挙げ、順に検討していく。

  1. ステータス・システムは、いずれは個々人の歪められた評価へと向う
  2. ステータス・システムは、「エリートの循環」を甚だしく制限する
  3. ステータス・システムは、分配の正義のシステムを歪める
  4. ステータス・システムは、経営を過大視するあまり、リーダーシップとモラールを駄目にする
  5. ステータス・システムは、維持のレベル以上に、象徴的な機能を強化する
  6. ステータス・システムは、組織の適応性を制限する

それぞれの検討部分から、ポイントとなる部分を見ていくことにする。

●コミュニケーション・システムと能力

ステータス・システムが、コミュニケーションのポジションに関連するものであるがゆえに、個人の正当な能力の評価とは乖離することが述べられる。

協働における調整を確保する手段であるコミュニケーションのシステムは、まったく社会的な現象である。目的的な協働に不可欠なものとして、コミュニケーションのシステムの必要性は第一義的であり、そのメンバーが協働意欲を持っている組織があらかじめ存在するということに対してのみ、二義的なものである。……
コミュニケーションに必要とされる第一の特殊な能力は、−コミュニケーションが有効にもたれ、その場の具体的な知識が得られるかもしれない場所にいるという−職位(position)の能力である。必要とされる職位の能力をもっている人たちをコミュニケーションのポストに配置することは協働に不可欠のことであるから、そのような配置を、したがってそのような能力の習得を保証するシステムは、組織におけるその他のすべての考慮に優先する。というのは、コミュニケーションの故障は、協働の即座の失敗と組織の崩壊を意味するからである。……
……、秩序あるコミュニケーションの継続性を確保する仕組みが、単なる生物学的適応を越えた、目的の達成にとってだけでなく、ある社会のその環境への適応において、第1次的に重要であるということが理解されよう。……
このようにして、組織における体系的なコミュニケーションの不可欠さの故に、ある人の果たす役割に関連する価値をその人に与えるようになり、より一般的でより私的な能力とは対照的な、コミュニケーションにおけるその場の局所的な能力の過大視へと導く。

The system of communication by means of which coordination is secured in cooperation is a strictly social phenomenon. Being indispensable to purposeful cooperation, the necessities of the system of communication become prime, being secondary only to the prior existence of an organization whose members are willing to cooperate. ...
The primary specific abilities required in communication are those of position - of being at the place where communication may effetively be had and where immediate concrete knowledge may be obtained. The manning of posts of communication by those possessing the requisite abilities of position is so indispensable to cooperation that a system assuring such manning and hence of the aquirement of such abilities has precedence over all other considerations in an organization, for the breakdown of communication means immediate failure of coordination and disintegration of organization. ...
It may be seen from the foregoing that schemes ensuring continuity of ordered communication are of primary importance in the adaptation of a society to its environment as well as to the attainment of ends transcending mere biologiocal adaptation. ...
The indispensability of systematic communication in organization hus leads to imputing a value to the individual that relates to the role he plays and to the exaggeration of the importance of immediate local abilitiy in communication as against more general and more personal ability.

●人の交替の不利益

まず、組織における人の配置換えの問題が論じられる。

(2)コミュニケーションには、相互的な関係と習慣的な敏感な反応が含まれている。新任者というものは、そのポジションに就くだけの能力をもっているということを除けば、直接のコミュニケーション・ネットワークにいる他の人たちは未知の新しい存在である。これらの人たちの機能する能力(仕事を担う能力)は、交代によって乱される。(3)システムのオペレーションは、かなりの程度、伝達者たちの相互信頼に依存している。交替は、この信頼を低下させる。これは頻繁には起こらない個々の交替に関しては、普通、重要ではない。その重要性は、交替の人数か頻度のいずれかが増大するにつれて、加速度的に増大する。

(2) Communication involves mutual relationship and habitual responsive reactions. A new man, entirely aside from his intrinsic abilities in the position, is new to others in the immediate communication network. Their capacity to function is disturbed by change. (3) The operation of the system depends in considerable degree upon mutual confidence of the communicators. Change decreases this confidence. This is ordinarily not important as related to single changes not frequently occurring. Its importance increasea at an accelerating pace as either the number or the frequency of replacements increases.

そして、ステータス・システムが、バーナードが「エリートの循環」と呼ぶものを阻害することが述べられる。エリートの循環については、次のように言っている:「老齢化、肉体的、道徳的、知的退化、変化する状況と目的など、これらの影響はすべて、ステータス・システムにおける継続的な再調整と配置換えを必要とする。再調整と配置換えの過程は「エリートの循環(circulation of the elite)」としてよく知られている。

自由な循環という理想的な条件にほぼ近づくことでさえ、可能ではない。これは、次のような三つの重要な要因のせいである。すなわち、(1) ステータスの向上が誘因として役に立ちうるためには、かなりの程度のステータスの安定性が必要である。獲得されたステータスの維持が不確実であればあるほど、ステータスの獲得が効果を持つ人数はそれだけ少なくなる。(2) ステータスの喪失に対する抵抗は一般に、もっと高いステータスを獲得したいという願望よりも強いから、能力のいっそうの完全な割り当てを達成するために行われる降格の破壊的な効果が、それ以上の利益を相殺してしまうということが、しばしばありうる。(3) 良好なコミュニケーションは、習慣的な個人的関係と大いに結びついた、解釈の正確さに大いにかかっている。もしも交替が頻繁であるなら、これらは壊されてしまう。

●コミュニケーション、管理、リーダーシップ

ステータス・システムが、リーダーシップ、リーダーの育成を阻害するということを指摘する。

有効なコミュニケーション・システムは、さまざまなステータスの特定の職位への人の安定的な補充だけではなく、習慣的なやり方と技術的な手続をも必要とする。……。コミュニケーションのライン、ステータス・システム、そして関連する手続は決して「経営(administration)」を構成するものではないが、経営の重要な道具であり、その最も「可視的で」、一般的な部分である。経営の明白な機構で、経営に不可欠なものとして、ステータスと手続の双方の保護は、まったく本心から、組織の必須の条件とみなされるようになっている。
コミュニケーションと経営の装置の過大評価は、リーダーシップやリーダーの育成と対立する。それは、新しい環境に対する目的と手段の適切な調整を促進することがその機能であるリーダーシップを妨げる。なぜなら、それは一般に、ステータスにおける変化、あるいは確立された手続と習慣的な日常業務における変化のいずれにも抵抗するからである。

An effective system of communications requires not only the stable filling of specific positions of different status, but also habitual practices and technical procedures. ... The lines of communication, the system of status, and the associated procedures, though by no means constituting "administration," are essential tools of administration and are the most "visible" general parts of it. Being the tangible machinery of administration and indispensable to it, the protection both of status and of procedure comes to be viewed quite sincerely as the sine qua non of the organization.
The overvaluation of the apparatus of communication and administration is opposed to leadership and the development of leaders. It opposes leadership whose function is to promote appropriate adjustment of ends and means to new environmental conditions, because it opposes change either of status in general or of established procedures and habitual routine.

●象徴

ステータスが象徴的な意味を帯びることで、最適な人材配置を拒むものになること。

抽象的に職務と結びつけられているこのような象徴的な慣行の多くは、その職務を遂行する個人の人格に転換され、このようにして、個人そのものがそのステータスの故に、組織とその目的のシンボルとなる。……
職務とそれに結びついたステータスの象徴的機能がもたらす一つの結果は、エリートの循環を遅らせることである。……
このようにして、職務やステータスに含まれている象徴性が、全体として、組織のシンボルとなっている人たちの能力の限界を上回るということが起こる。

●適応

このように、ステータス・システムの破壊的傾向は、基本的には、組織から柔軟性と適応性を奪う傾向である。

ステータス・システムは結合力、調整、団結心にとって不可欠のものであるが、その結果は、柔軟性と適応性を減少させることであるというのは、おそらく明らかである。

●ステータスと管理者

管理者にとってみれば、ステータス・システムの破壊的傾向をコントロールすることが重要なことになるわけだが、それがきわめて困難であるということが最後に確認される。

職能的ステータス・システムと階差的ステータス・システムのいずれも、階差的なタイプの公式組織にとって必要であるということ、しかしそれらのシステムに硬直性、本当の利点と本当の必要性の一致の欠如、そしてとりわけその象徴的機能における肥大化を強いながら、それらのシステムによってあるいはそれらのシステムのなかに、利害関係が生み出されてくるということをわれわれは見てきた。これらの問題が熟考され、組織の技術的な装置が研究されるとき、疑いもなく矯正の方法が知られよう。しかしながら、それらが組織内部から適用されるときには、必ず大きな困難をともなう。というのは、最高経営者でさえステータス・システムの最高位者であり、それに依存しているからである。それゆえ、ステータス・システムにおける危険な展開をコントロールするには、果てしない根気、並外れた能力、そして大きな道徳的勇気を必要とする。

以上で、この論文は終わり。


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