Barnard

チェスター・バーナード『経営者の哲学』を読む

福井県立大学・経済学部 田中求之

Version 1.0 (Last Modified: February 24, 2009)


はじめに

このページについて

このページは、チェスター・I・バーナード(Chester I. Barnard)の『経営者の哲学』(Philosophy for Managers) に収められた論文から、田中がセレクトした5本についての解説(研究ノート)である。バーナードのテキストを読みながら、田中が要約したりコメントをつけるという形になっている。

取り上げる論文は以下のものである。

ただし、『経営者の哲学』に収められているものには講演録(講演原稿)などもあり、また、このページはあくまでもバーナードの組織論を理解するのが目的であるので、田中の判断で、必要な部分だけを取り上げて論じたものもある。

このページは、田中求之が福井県立大学・経済学部で担当している経営組織論の授業の補助教材として作成したものである。『経営者の哲学』全般、あるいはバーナード組織論のすべてを一般的に解説したものではない。授業との関連(および田中の個人的な関心)にそって取り上げていくものになっている(田中自身の組織論は現在はバーナードから距離を置いたものになっている)。ここに書かれたバーナードが、バーナードの「正しい」姿でもなく「すべて」でもない。その点は注意して欲しい。あくまでも、バーナードの組織論との出会いを手引するものである。

バーナードのコメンタールとして以下のものを公開してある:

上記のページを含めた田中によるバーナードのコメンタールなどは、以下のページに一覧をまとめてある:

作業履歴

2008年08月28日「ビジネス・モラルの基本的情況」以外の記述が終わったので、0.8 として公開
2008年09月02日「ビジネス・モラルの基本的情況」の記述を追加し、1.0a
2009年02月24日チェスター・バーナードへの散歩道」を公開したのでリンクを追加し、バージョンを 1.0 へ

テキスト

テキストとして使用したのはチェスター・I・バーナード『経営者の哲学』(W. B. ウォルフ・飯野春樹編、飯野春樹監訳・日本バーナード協会訳、文眞堂、1987)と、Chester I. Barnard "Philosophy For Managers" (Edited by William B. Wolf and Haruki Ino, Bunshindo, 1987) である。

基本的には訳書を読んで行き、引用も翻訳から行う。田中が必要と考えた箇所では原文も引用する。

バーナードのテキストは、今の学生体にとっては、決して読みやすい文章ではないであろう。文学ではないし教典でもないのだから、言葉遣いといった、本質的とはいえないものが理解を妨げるのは残念である。また、後でも触れるが、『経営者の哲学』は、バーナード自身が編集・出版した書籍ではない。バーナードが残した原稿等のなかから、バーナードについての理解を深め、『経営者の役割』以後のバーナードの理論的展開を学ぶために適切な講演録や論文を、ウォルフ氏と飯野氏が編集し、バーナード生誕百年記念として出版されたものである。翻訳は日本バーナード協会の事業として、協会のメンバーである研究者が分担して翻訳し、最終的に飯野氏が監訳者として調整されたものになっている。『組織と管理』に比べると論文ごとの訳語の選択や解釈のブレは少ないが、文体などには若干の違いも見られるものになっている。そこで、このページでは、翻訳に則しながらも、田中が訳文に手を入れている部分もある(訳文の変更作業は随時行っていく予定である)。

文中の小見出しのうち、原文が付していないものは田中がつけたものであり、原文が併記されているものはバーナードの原書の中で節のタイトルなどとして書かれているものである。

また、引用文中における強調(日本語は太字、英語は斜体)は、特に注記していないかぎり原文のまま、つまりバーナードによるものである。


『経営者の哲学』(Philosophy For Managers)を読む

『経営者の哲学』について

『経営者の哲学』には、ウォルフ氏のバーナードの紹介記事と10編の論文(講演録、講義記録を含む)が収められている。

第1章チェスター・バーナード (1986-1961年)
Chester I. Barnard (1986-1961) (by W. B. Wolf)
第2章企業経営における全体主義と個人主義 (1934)
Collectivism and Individualism in Industrial Management
第3章社会進歩における不変のジレンマ (1936)
Persistent Dilemmas of Social Progress
第4章現代における先見の方法とその限界 (1936)
Methods and Limitations of Foresight in Modern Affairs
第5章人間関係のあいまいな諸側面に関する覚書 (1937)
Notes on Some Obscure Aspects of Human Relations
第6章産業研究のなさるべき組織の諸側面 (1947)
Some Aspects of Organization Relevant to Industrial Research
第7章医業における社会的要因 (1947)
Social Factors in the Medical Career
第8章技能、知識、判断 (1950)
Skill, Knowledge, and Judgment
第9章ハイネマン著『民主主義における官僚制』(書評) (1950)
Book Review of Bureaucracy in a Democracy by C.S. Hyneman
第10章リーダーシップと法 (1951)
Leadership and the Law
第11章ビジネス・モラルの基本的情況 (1958)
Elementary Conditions of Business Morals

翻訳の飯野春樹氏による序から、この本の成立の経緯や収められた文章についての説明を拾っておく。

バーナードは自ら論文集『組織と管理』(1948年刊)を編集しているが、これら二冊の著書のほかにも、彼の多彩な活動を反映した数多くの論文、講演や講義の記録などが残されている。およそ百にもおよぶこれら諸著述のうち、印刷されてはいても一般の目にふれる機会の少ない、価値ある十編を選び、バーナードの第三冊目の著書というべき形で編集されたのが、この英文論文集である。

本書のバーナード自身の論文のうち、第2〜第5章は主著出版以前に執筆されている。

主著以降の、第二次大戦終了後に書かれた第6章から第11章までは、バーナードの活動範囲と関心の広さを反映している。

その問題についての最初の、もっとも基本的な文献になったという意味からして、ステイタス・システムの考察が前論文集『組織と管理』の目玉商品だったとすれば、ビジネス・モラルは本論文集の目玉である。ともに主著では公式組織の要素としては明白に論じられていなかった。「ビジネス・モラルの基本的情況」(1958年)はバーナードの最終論文であり、『カリフォルニア・マネジメント・レビュー』の創刊号の巻頭を飾った(しかも賞金まで獲得した)が、本書の締めくくりとして最終第11章に登場する。主著の、結論を除いた最終章(第17章「管理責任」)に対応して、またその発展として、道徳的制度としての組織、道徳的対立を克服する経営理念の創造としてのリーダーシップ、組織文化、社会的責任など、従来の経営学からの飛躍を促すであろう重要な諸問題が論じられる。

暴力的に言うならば、『経営者の哲学』は、『経営者の役割』として形作られたバーナードの哲学(社会観、人間観)を理解するための文章と、『経営者の役割』以後にバーナードがたどりついた地点(責任優先説、道徳的組織)を示す文章とが収められているのである。そこで、このページでは、『経営者の役割』の理解のための補助線となるであろう第2章「企業経営における全体主義と個人主義」と第3章「社会進歩における不変のジレンマ」、さらに主著以後に組織についてバーナードが語った第6章「産業研究のなさるべき組織の諸側面」、責任優先説を明確な形で述べた第9章「ハイネマン著『民主主義における官僚制』(書評)」、そして本書の中心とも言うべき第11章「ビジネス・モラルの基本的情況」を取り上げることにする。なお、第6章と第9章は、論文全体ではなく、われわれの関心に関連する記述のみを確認することにする。


企業経営における全体主義と個人主義 (1934)
Collectivism and Individualism in Industrial Management

この章の文章は、1934年の技術者のための経済会議第四回年次大会での講演である。会議はニュー・ディールの経済的評価をめぐるものであったようだ。

全体主義というと、普通は、ナチスやスターリンなどの国家体制のことを思うかも知れないが、バーナードがここでいう全体主義とは端的に言うと組織(協働)優先主義のことである。後で取り上げる「社会進歩における不変のジレンマ」の中に、バーナード自身が全体主義の定義を述べている部分があるので、引用しておく:

協働は、そのはっきりした具体的な形をとる時には「組織」と呼ばれ、より抽象的な意味において考えられる時には、それは個人主義と対比して全体主義と呼ばれる。協働は決して特異なものではなく、いくつかの点では世界的規模ともいえるほど広範囲にわたっているものであり、さらに、われわれがすっかり協働の一部となっているために、われわれは、地球のどこでも作用している重力に対するのと同じくらいに協働を通常は意識しない。

In its most definitely concrete forms cooperation is called "organization"; and in its most abstract sense it is called collectivism in contrast to individualism. Cooperation is so common and extensive, in some respects world-wide and we so much part of it, that we are as unconscious of it ordinarily as we are of the all-pervasive force of gravity.

つまり、この文章は、組織と個人の関係について述べたものになっている。主著『経営者の役割』で明らかのように、バーナードは個人と組織が共に発展していくことが理想であり、そうあるべきだと考えており、この章でも、そうした考えが述べられていくことになる。

まず、社会の中で働く人間にとって、つねに一つのジレンマがつきまとうことが述べられる。

……時が経つとともに、ジレンマがたえず起こってきたし、今でも起こっている。そのジレンマは、自分自身に対する自分の義務と、自分が不可避的にその一員となっている常に存在する集合体に対する自分の義務との間の対立というべきものであろう。

そして、個人と組織(協働)の調和こそが人間の重要な問題であると理解するようになったと述べる:

……、私は、人間生活のすべての問題のひとつであり、またおそらく最も重要な問題は、単独ではまったく相反するようにみえる二つの生活原理―ひとつには人事の体系的配置、協働、集団編成、そして他方にはダイナミックな個人―をいかに効果的に発展させ、いかに実際的に調和させるかということであると理解するようになった。

Such experience have made me understand that one and perhaps the most vital of all problems of human life is how effectively to develop and how practically to harmonize two principles of life which in isolation seem to be utterly opposed − the one, systematic arrangements of human affairs, cooperation, organization, regimentation, collectivity; and the other the dynamic individual.

この問題について、以下、議論が展開されていく。まず集団活動における個人というものについて述べられる。最初に個人は、単独で存在しうるものではなく、様々な環境によって形作られるものであることが確認される。

人間は決して自分自身に起源をもつものではなく、各人は無数の世代にわたる人種と社会の発現であることは、生物学的、心理学的にいっても明らかに正しいことである。……。われわれはいずれも、現在、われわれが接触している社会的世界―それはそれ自体、主として、何世代もの過去からの継承なのだが―の産物であること、各人は集合的環境の発現 (the expression of a collective environment) でしかないことは自明である。

しかしながら、個人は自らの意思で行動する存在でもある:

個人は集合体というすべてのシステムでの動態的要因をなしている。いかなる時点でのいかなる人間も、彼の存在の諸要素のすべてを彼自身からではなく、共通のプールから引き出してきたのは事実であるが、しかしなお、次のことも事実である。つまり、その時点での彼の行為は独立的であり自発的であること、そして、彼は個人的、自発的である行為をすることによって、集団的利益を促進するか、それに反抗するかのいずれかができる、あるいは彼は行為しないことによって、集団的進歩に対する重荷になるだろうということである。まさにこれらの理由から、集団的活動のすべての計画における基本的問題は、計画の中に含まれる個人が、そのもとで機能しうるかどうか、いかに機能しうるかということになる。

The individual constitutes the dynamic element in all systems of collectivity. Though it be true that any man at any moment has derived all of the elements of his being from the common pool and not from himself, it yet remains true that his action at that instant is independent and voluntary and by his action, individual and voluntary, he can either promote the collective interest or he can oppose it, or by inaction he may become a dead weight against collective progress. It is for these reasons that the fundamental problem in all plans of collective operation is whether and how the individuals embraced within the plan can function under it.

集団の中での個人を考えるにあたって、個人の特性として理解しておくのが有益なものとして、バーナードは優越心(love of distinction)、しっと(jealousy)、差別的寛大(differential generosity)、経済的利己心(economic self-interest)、惰性 (inertia)を挙げる。順にみていくことにする。

まず優越心(love of distinction)

社会的見地からみて、人間のすべての特徴のうち最も動態的なものは優越心であると私は思う。これまで経済的利己心があまりにも強調されてきたので、個々人の生活における動機づけ要因としての優越心は、大変低く評価されている。この要因の無視こそが労使関係において、他の原因にもまして、諸困難を引き起こすもとになっているように私には思われる。もっとも、その影響は通常緩やかで間接的であり、また、ある特別の場合にそれを原因として特定的に認めることは通常難しいことであるけれども。

I should say that the most dynamic of all characteristic of human beings from the social standpoint is the love of distinction. So much emphasis has been laid upon economic self-interest that love of distinction as a motivating factor in the lives of individuals is greatly underestimated. The disregard of this factor is, in my mind, at the root of more difficulties in the relations between employers and employees than are all other causes for difficulty though its effects are usually slow and indirect and it is usually difficult in any particular case to recognize it specifically as the cause.

訳語の優越心という言葉からは、人より優れていたいと思う気持ちのように受けとられるかも知れないが、バーナードが言う love of distinction というのは、一人の人間として認められること、個として認められること、ということ、その他大勢からは区別(distinction)されたいという気持ちをさす。

いかに栄光にみちたものであれ、非常に大きい集団内の単なる統計的単位でしかないことに人は耐えられないと思われる。したがって、多くの集団組織で起こってきた事象は、個人主義の強化とその発現手段の創出を促進するものであった。

It would appear that man cannot endure to be merely a statistical unit in a very large group no matter how glorious. Hence the phenomenon of much group organization promoted to reenforce individualism and to create a means to its expression.

次にしっとである。

優越心と関連し、おそらくそこから芽生えてくるのは、実業界で途方もなく重要な個人の別の特性、つまり、しっと (jealousy) である。たいていの場合に隠されているけれども、しっとの情が組織的生活のほとんどすべての局面においてもつ分裂的効果は大きいのである。……。ほとんど指摘されていないが、それは人間の報酬問題を実際に取り扱うに当って、考慮すべき難問としては他のいかなるものよりもはるかに重要である。

三つ目の「差別的寛大」というのは聞きなれない言葉であると思うが、好意の偏りや愛着を指す。

第三の要因は、カーバー教授によって非常に賢明にも「差別的寛大 differential generosity 」と記述されたが、通常は不正確なことに「私欲」とか「利己心」と呼ばれるものである。差別的寛大とは、いくらかの人々に他の人々より以上に好意を持ち、いくらかの人々を激しく嫌悪するような個人の性向であり、その性向から、自分が好意をもたない人々よりも好意をもつ人々に親切、努力、金銭を喜んで与えようとする意志が生まれてくるのである。個人的愛着をもつこの性向は、生産作業に対する大変な誘因である。そして人々の努力の強さは、経済的競争ではとくに、他の人々への愛情から主として生じるのであって、自分自身の個人的な物質的幸福における利害から生じるものではないことは、非常に多くの人々についてあてはまる。

4つめに経済的利己心を挙げるのだが、ここでバーナードは、世間で思われているほど経済的利己心が人集団の問題を考えるときの重要性が高くないことを述べている。

その次には経済的利己心 (economic self-interest) がある。それが多くの人々にはほとんど完全に欠けており、備わっているとしても、たいがいはほどほどにしか、発達してないとはいえ、経済的利己心が多くの個人的努力を動機付けるひとつの要因であることは否定すべくもない。それは、組織化された社会で個人の経済的努力を駆り立てるほとんど唯一の動機であるとしばしばみなあれているが、私はかねてから、それは実際にはそれほど重要ではないということ、まさにそうであるがために社会が大いに損失をこうむっていると考えている。なぜなら、あとのほうでさらに詳しく論じるが、社会の主要問題のひとつは、活性力としての経済的利己心を育成することにあると考えられるからである。

5つ目の惰性というのは、変化への抵抗のことである。

集合的事業において非常な重要性をもつ個々の人間の特徴には、他に惰性 (inertia) がある。これは変化をおこすに当っての大きい困難となる。習性となった惰性は、新しい方向への個人的努力を強力に抑制する。

このように集団の問題を考えるさいに考慮するべき人間の特性を論じてきた最後に、経済的利己心について、再度論じている。

ついでながら最後に言及しておきたいことは、集合的な諸事象における一要因として経済的利己心が不当に強調されすぎるひとつの理由は、おそらく、他の事情が等しい限り、経済的利己心によって大いに刺激される人々が当然のこととして業務の管理者、富の所有者となり、それがこの要因を目だたせるということである。……。それにもかかわらず私は、経済的利己心の存在よりもその不足が、社会的観点からは、個人の主要な欠陥であると繰り返しておく。

言い方を変えるならば、経済的利己心だけで人が動くなら/動かせるなら、組織の問題はもっと単純なものになるということである。そうでないからこそ、経済学ではなく経営学(組織論)があるのだとも言えるわけである。

次に個人と集団(組織)の関係へと考察を進める。組織と個人の関係について、まず次のような定式化がなされる。

私は、組織、集団協力、集合的行為を、人間努力の有効性を大いに増大し、それなしではえられない多くの不可欠な役割を果たしてくれる、道具または機械のような性質をもつものとみなすのが分かりやすく、全体としての事実に一致していると思う。他方、個人性は、集合的行為を起動したり抑制したりするエネルギーの源泉であるとみなすのが便利であろう。

I find it helpful and consonant with the facts as a whole to regard organization, group cooperation, collective action, in the nature of a tool or machine which greatly increases the effectiveness human effort and accomplishes many indispensable functions impossible otherwise. Individuality, on the other hand, may be conveniently regarded as the source of energy by which collective action is operated or is resisted.

両者は互いに強化しあい調和することが必要である:

これら二つの人間行動の原理はいずれも、もしコントロールされなければ、明らかに他方を破壊する傾向があることを認識しておくのがよいかと思われる。組織あるいは集団編成の諸計画がそのようになりかねないし、事実、たとえば独創性を破壊するほど個人を抑制したことがあるのは明白である。同様に、歯止めのない個人主義が、人々の間の効果的で目的のある協働を不可能にしかねない―これまでしばしば起こってきたように―ことも明白である。そこで、本質的な問題は、協働的行為の諸計画とが相互に他を強化しあい、ともに調和的に作用するといったふうに、両者を発展させるということである。

それゆえ、「高い程度の協働行為には、それに相応する高い程度の個人の発展を要するという認識が必要」であり、「肝要な課題は、両者が適切なバランスで発展させられるべきこと、そして両者はそれぞれの力を増大させるふうに統合されるべきだということである」。

しかしながら、組織と個人の均衡(バランス)は、本質的に不安定なものである:

この点について、事の性質上、全体主義と個人主義の間の均衡は必然的に不安定であることを認識するのが望ましいように思われる。したがって、企業組織という狭い領域においてであれ、国民生活というより広い領域においてであれ、両者の不断の変化と調整は避けえないものである。この不安定は、人間生活の条件に当然に反作用を及ぼすところの自然環境がたえず変化し、また科学知識と産業技術が常に増えてゆくことから生じる。それはまた、集合的な集団内の人間の数の変化から生じる。さらに、集合的条件が個人の発展あるいは様態に与える不断の反作用があるにちがいなく、また逆むきに、個人が実行可能な組織機構の特徴におよぼす反作用があるにちがいない。……。したがって、集合性と個人主義のバランスは、外的条件と内的諸力の双方によってたえず変動させられている。

In this connection, it seems desirable to recognize that in the nature of things any equilibrium between collectivism and individualism is necessarily unstable; so that whether in the smaller sphere of industrial organization or in the much wider spheres of national life, constant change and adjustment is unavoidable. ... The balance between collectivity and individualism is, therefore, constantly being disturbed both by external conditions and by internal forces.

主著にみられる内的均衡と外的均衡を保ち続けることが組織の存続には必要であるという考え方がここに出てきていると言えるだろう。

ここで、組織のなかで個人が発展していくために責任が重要であることが述べられている。後に責任優先説と呼ばれることになる考え方の萌芽をみることができる。

責任ほど、個人の能力の範囲内で個人を発展させるものはない。そして権限は責任に欠かすことのできないものである。この見地からは、権限の高度な分散化と局地化は望ましいものである。他方、権限の集中化は、集団協働の利益のほとんどを生み出す努力の調整にとってはなくてはならぬものである。あまりに集権化が大きすぎると、柔軟性の不足、官僚的硬直性、イニシアチブの抑圧が生じる。そこで問題は、局地的な高度の柔軟性を保ち、個人をたえず発展させながら、努力の調整が重要であるような事柄については中央できっちりと統制するといったような、均衡のとれた権限の委任をしなければならないということである。このバランスに影響する諸条件はたえず変化するので、最終的解決は決して可能ではない。……。権限の委任における変動の程度は非常に大きく、また急速なことが多いので、安易に語ることはできない。しかし、組織の理論的な機構よりは個人を大いに信頼している組織においては、行為を麻痺させるような不確実と不決断の状態をまねかずに変化を起こすことができる。個人主義が抑制されているとき、そのような再調整は、それなしには下級な個々人が効果的に機能できない慣習的関係を崩して混乱状態をひきおこす危険がある。

Nothing so much develops individuals within the limits of their capacity as responsibility; and authority is essential to responsibility. From this point of view a high degree of decentralization and localization of authority is desirable. On the other hand, centralization of authority is essential to the coordination of effort out of which come most of the advantages of group cooperation. With too great a centralization of authority comes lack of flexibility, bureaucratic rigidity and depression of initiative. The problem is one of securing a balanced delegation of authority which permits a high degree of local flexibility, a constant and progressive development of individuals, with central control of those matters as to which coordination of effort is important. The conditions affecting this balance are constantly changing, so that a final solution is never possible. ... The extent of fluctuation in the delegation of authority is so great and frequently so rapid as to defy easy description; yet in an organization where reliance is largely placed upon individuals rather than on theoretical schemes of organization changes can be made without creating a condition of uncertainty and indecisiveness which paralyses action. When individualism is discouraged such readjustments risk chaos through the breakdown of habitual relationships without which low grade individuals cannot effectively function.

以上のような個人と組織の関係についての考察を踏まえて、バーナードは、経営者というものがいかに困難な任務であり、それを担える人間が少ないことが問題であるという、経営者論へと話を進める。

まず管理職能(function of management)について以下のように述べる。

もし私の述べたことの正しさがわかってもらえるなら、今日の管理職能は、協働行為の機構を発展させるとともに、同時に個人的発展を促進すること、さらに、この二つを実際の活動において効果的に結びつけることであるのは明白であろう。この職能はしばしば遂行されないこともあり、また十分に果たされていないと思う。実行することはもともと困難である。

It should be obvious, if the truth of what I said is accepted, that the current function of management is both to develop schemes of cooperative action and simultaneously to promote individual development; and effectually to combine the two in an active operation. This function is frequently not fulfilled and perhaps is never adequately accomplished. It is inherently difficult to perform.

そして、基本的な困難として、「多様な集合的活動を管理する能力のある人々を十分確保する」ことが難しいことを挙げる。バーナードは、管理機能を担える人材の必要条件を以下のように述べている:

まずその必要条件を考察しよう。それらは、物的その他の活動条件に適応し、また集団を構成する人々の個人主義(個性)に適応しつつ、共同的ないし協働的行為にむけて人間の集団化を設計することができ、また必要な個人的エネルギーを破壊することなく、いなむしろ増大させながら、その個人主義を効果的な協働へと導き、鼓舞できなければならないということである。これには、全体として、性格の安定、好ましいパーソナリティ、迫力および説得力のような人格的特性が必要とみなされる。同時にそれは、イニシアティブと才能、さらに忍耐や抑制のうちにみられる統制力といった動態的な個性を必要とする。集合的活動と個人主義との間の均衡の変動の基底にある諸力の対立はすべて、個々のマネジャー自身の内部で理解され、感得されなければならないばかりでなく、それらは経験されている。……。かように要求される性質のそれぞれが、全国民が通常もっている程度を貼るかに越えてきびしく要求されねばならないのは明白である。そして集合的企業それ自体におけると同様に個人において、これらの性質は、情況に応じ、時とともに必然的に変化するに違いない適切なバランスを保ちながら保持されねばならない。その上、生まれつきの性向と能力の訓練と発展には、きびしい経験のほかに不断の長い努力を必要とするので、人並みの知的能力、人並みの性格と人格的資質以上のものが必要であるばかりでなく、その職業において長い期間、たいていのマネジャーの宿命であるはげしい仕事、強い圧力および精神的緊張に負けないだけの高度のバイタリティが必要である。

そして、バーナードはこのような条件を満たし、必要なバイタリティを持った人間は、せいぜい全人口の10%であろうという。そして、そのことが、現在(もちろん、バーナードがこの講演をした当時のこと)の社会問題の原因だと指摘する。:

現下の不況によって、また機械および動力経済のもとでのマネジメントの高度の専門化から生じる経営人材の技術的失業によって生み出された幻想にもかかわらず、われわれは人口のなかの適切な経営人材の通常の限界をすでに使い果たしていること、そしてこれが現状での困難の主要原因であることは確かであると思う。

そして、このような人材不足が大きな社会的な制約になっていること、さらにはこうした人材不足の解消には経済的利己心に働きかけること(端的言えば金で動機付けようとすること)は役に立たないと述べる。リーダーシップへの誘因としては、金銭的誘因よりも「自尊心、個人的承認、威光のような動機」のほうが強く働くのである。金銭的な誘因については、次のような面白いことを言っているので引用しておく。

この事実は、思うに、貨幣はその効果的な利用方法を知らない人々にとって永続的な誘因ではないということから生じる。貨幣資産を効果的に利用するには、趣味と欲望の教育と育成が必要である。

バーナードは、経営者の育成のためには教養が必要であることを述べる(ニュー・ディール政策の経済的評価をめぐる会議で、物質主義的政策に否定的な意見を述べるというところが面白い)。

かくして、世界的に限られた経営人材の供給を開発し、利用するための真の誘因は個人個人の教養なのであり、そこから出てくる質の高い願望が、なすに値するりっぱな努力を生むのだということが了解されよう。個人が自己を啓発し、自分自身を社会の建設的利益のために用いるよう動機付けるこの教養は、社会全体としての問題であり、私の意見では、それが、この物質主義時代において、主として直接的生産目的に役立つものとみなされてしまうことがあまりに多いわれわれの大学や他の文化的諸機関の存在理由をまず第一に正当化するものである。

最後に、再び、個人と組織との調和について述べる。

問題は全体主義派あるいは個人主義派に固執することによって解決されるものではなく、むしろ、それは人間事象におけるこの二つの要素の調和した発展、それらの建設的な絡み合いと調整の問題であるということ、さらに、この問題のまわりに描きうる大きい円の中に、主問題の縮小像の形で、細かい問題についての無数の小さい円があり、その反復的な解決が、人類の大きな難問のうちの一つであり、太古の昔からずっと存在している全体の主要問題の継続的解決にとって必須である、ということである。

講演の最後として、ニュー・ディールという全体主義的政策に対するバランスをとるということだろうと思われるが、個人の発展への配慮を喚起してしめくくっている。

全体的であれ、部分的であれ、ニュー・ディールの経済をさらに進んで皆さんが考察されるに当って、あるいは他のいかなる改善計画を考察されるに当っても、重要な基準の一つは、その制度が個人主義の現在の発展に合致しているかどうか、そしてそれが個人主義の一層の発展を促進するのか阻害するのかどうか、でなければならない。

以上でこの章は終わりである。主著に現れるバーナードの組織と個人についての考えや、経営者の果たすべきことなど、ある意味で主著のエッセンスが述べられた文章として読む事ができるだろう。


社会進歩における不変のジレンマ (1936)
Persistent Dilemmas of Social Progress

この章の文章は、ニューアーク工科大学の卒業記念講演である。卒業式でのスピーチということもあってか、ここではバーナードは、自分の信念や考えをそのまま語っている。そのため、理屈はともかくとして(論証や議論を抜きにして)バーナードが信じていることがストレートに現れたものとなっている。なお、翻訳のタイトルでは「不変」となっているが、原文は Persistent で、変わらないものというよりは、消え去らないもの、残り続けるものという意味合いが強い。形や内容は変われども、ジレンマとして残り続けるもの(消せないもの)について述べたものである。

バーナードは、この講演で何を述べるか、それが自分にとってどんなものであるかを次のように述べている:

私は、このような席上で、社会的世界を、生きた、動的な、常に変化している人間世界とみなすという私の考え方、そしてその絶え間ない再調整と修正の理由と重要性に対する私の意見を述べることが、興味深いものとなり、また有用であるようにと願っている。私は、人生ないし社会のより大きな問題に関しては、ただ個人的意見と個人的確信しかありえないと確信しているので、あえてほんの個人的な見解を述べることにする。

I hope it may be of interest and helpful to state on such an occasion as this my conception of the social world as a living, dynamic, ever changing universe of men, and my opinion of the reasons and significance of its incessant readjustments and modifications. I venture to state a merely personal view, because I am convinced that only opinion and personal conviction is possible concerning the large problems of life or of society.

続く部分で、「私の述べることを真実もしくは博識の証明ではなくて信仰の告白 (a confession of faith) としてあなたがたに受けとめていただきたい」とも述べている。このように、この講演は、バーナードが自分の考えをストレートに吐き出したものだと言える。

最初に、社会は諸力によって動かされるものだということが述べられ、その諸力の分類がなされる。

私は、手始めに、この社会的世界は、それが諸力 forces によって動かされているゆえに絶えず変化している、と主張することにしよう。これらの社会的諸力とは何か。ごく簡単に述べれば、それらは次のようなものであると信ずる。
1、宇宙の物理的諸力
2、人間の生物的諸力。社会生活にかかわりをもつものとして、これらの諸力には、自己保存の本能、食・住の要求、心身の強さの限界、疲労の繰り返し、増殖の必要性、生理的な死の不可避性をあげるのが適切だろう。
3、経済的諸力。これらは、根本において物理的、生物的、精神的諸力の特殊な表れであるが、社会というものの存在ゆえに、それらは別種の諸力として発現する。
4、宗教的または精神的諸力
5、人種的諸力。これらもまた、社会的諸条件のもとでは、物理的、生物的、精神的諸力の特殊な表れとして発現する。
6、政治的諸力。これらの起源は完全に社会的なものと考えられよう。

I shall begin, then, by the assertion that this social world is constantly changing because it is being moved by forces. What are these social forces? I believe them to be the following, very briefly stated:
1. The physical forces of the universe.
2. The forces of human biology. The most pertinent expression of these forces as related to social life are the instinct of self-preservation, the requirement of food and shelter, the limitations of strength of body and mind, the recurrence of fatigue, the necessity of propagation, and the inevitability of physiological death.
3. Economic forces. These are at root special manifestations of physical, biological and spiritual forces, which emerge as a separate class of forces because of the existence of society.
4. Religious or spiritual forces.
5. Racial forces, which also emerge under social conditions as special expression of physical, biological and spiritual forces.
6. Political forces, which may be considered exclusively social in origin.

ここで述べられている諸力は、『経営者の役割』の中でも触れられている。なによりも組織を「意識的に調整された人間の活動や諸力のシステム」と定義しているわけだが、その背景には、ここで展開されている諸力のせめぎ合う社会というバーナードの社会世界のとらえ方があるわけである。

諸力の分類に続けて、社会の要因として、二つの起動力(Power)があると述べる:

これらの諸力に加えて、社会生活には私が「起動力 powers」と呼ぼうとする他の二つの要因がある。それらは、先に述べたすべての諸力がそれによって社会的行為に適用でき、社会的行為に転換されるか、あるいは、それによって表出される特別な経路だから、そう呼ぶのである。これら起動力の第一は、個人的努力の形で社会的諸力をあらわす個々の人間である。第二は、協働的努力の形で社会的諸力を表す集団としての人間である。

In addition to these forces, there are two other factors in social life which I shall call "powers", because they are the specific channels through which all these forces are applicable to and converted into social action, or through which they are made evident. The first of these powers is individual men expressing social forces as individual effort; and the second is men in groups, expressing social forces as cooperative effort.

諸力が行為(具体的な作動)として現れてたものが起動力であると考えることができるだろう。つまり、人間が社会的に行う行為(協働、組織)は、その背景(基層)として諸力のせめぎ合い絡み合うレベルがあり、それが行為主体というチャンネルを通して現実化してくるものが起動力だと整理することが可能だろう。

起動力について述べた後、「私が考えるに、これらの諸力と起動力のなかに、社会的世界に包摂されるすべての要素が含まれる」とバーナードは言う。人間社会の問題は、この諸力と起動力のダイナミズムの中に起きてくる問題であるというバーナードの基本的な社会観を確認できる。

社会に関する基本的な視座を述べた後、この社会で生きていくということは諸力と起動力のバランスと調和を図るということであり、そこに起きてくる3つのジレンマへと話が進む:

経験と観察、そして歴史からみて、物理的、生物的、経済的、精神的、人種的、政治的諸力がすべて基本的であり、不可欠であり、さらに根絶できないものであると私は信じている。確かにその通りであるから、しかもそれらは継続して相互に作用しあい、しばしば相互に対立し、あるいは対抗するゆえに、これらの基本的で対抗的な社会的諸力と起動力を利用し、方向づけ、バランスをはかり、調和させることが人間に課せられた免れえない仕事となるのである。これを効果的に行おうとする奮闘は人間にとって終わることのない運命である。なぜならば、それは永久に解決されることのあり得ない少なくとも三つの問題の解決を必要とするからである。事実、われわれは三つのジレンマに直面しており、それらは、この世の性質上、至福千年まで続くに違いないと私には思われる。これらの三つのジレンマとは、個人と社会のバランスをいかに確立し維持するか、権威をいかに確立し維持するか、そして人々の間に寛容をいかに確保するか、である。

Experience and observation and history convince me that the physical, biological, economical, spiritual, racial, and political forces are all fundamental, indispensable, and ineradicable. And since this is so and because they do continuously interact, and often conflict with or oppose each other, it becomes the inescapable task of men to utilize, direct, balance and harmonize these primary and opposed social forces and powers. The struggle to do this effectively is the never-ending lot of me, because it requires at least the solution of three problems that can never be permanently solved. Indeed, we are confronted with three dilemmas, that in the nature of life, it seems to me, must persist until the millennium. These three dilemmas are: How to establish and maintain a balance between the individual and society; how to establish and maintain Authority; and how to secure toleration among men.

諸力や起動力などの複数の要因からなる複雑な世界においては、諸要因のバランスと調和をはかる必要があること、しかし、そこにジレンマとして解決しえない問題が立ちはだかること、こうした世界のとらえかたは(諸要因の動的均衡が秩序の要であるとする秩序観)は、常にバーナードの議論に通底するものである。

ここで述べられている3つのジレンマをリストにしておく:

  1. 個人と社会のバランスをいかに確立し維持するか
  2. 権威をいかに確立し維持するか
  3. 人々の間に寛容をいかに確保するか

このジレンマについて理解するには、協働について考察するのが適切であるとして、以下、バーナードは協働の考察へと進む。まず最初に、協働について以下のように述べられる(先に全体主義の説明として引用した文章):

協働は、そのはっきりした具体的な形をとる時には「組織」と呼ばれ、より抽象的な意味において考えられる時には、それは個人主義と対比して全体主義と呼ばれる。協働は決して特異なものではなく、いくつかの点では世界的規模ともいえるほど広範囲にわたっているものであり、さらに、われわれがすっかり協働の一部となっているために、われわれは、地球のどこでも作用している重力に対するのと同じくらいに協働を通常は意識しない。

続いて、協働が人間にとって有益なものである理由を述べる。

協働の有効性に対する理由が二つある。一つは、個々人の力の単なる合計や集中だけでも、エネルギーの増大なしに、大きな力となるということである。協働のこの側面は、キャンペーンとか緊急時の努力に最もしばしばはっきり表れる。協働の有効性に対するより重要な第二の理由は、個人的努力における無駄の減少、または一種の自己発生ともいえる新しいエネルギーの生成のいずれかによって、協働がより多くのエネルギーを適用できるようになる、ということである。この社会的エネルギーの自己発生は、人間協働が空間だけではなく時間にも関連するという事実に主として起因するであろう。

そして、協働を可能にする条件を挙げながら、そこに先ほどの3つのジレンマが関与することを述べる:

有効的な協働が可能なのは、権威、調整、編成がある場合だけである。その本質が権威である調整と編成を確立することの必要性は、私がすでに挙げた三つのジレンマの第二のものである。第一のジレンマは、大規模な協働が必要とする努力の調整、個々人の従属、そして多数の人々の編成が、協働的集団の構成員の個人的な能力、適応力、イニシアティブを破壊する傾向にある、ということである。
……
権威を確立し維持する可能性に対する、より直接的で、よりしばしば認識されている制約は、人々や集団が権威ないし編成そのものに対してよりは、お互いに向けあっているような敵意と不寛容であった。
……
そこで、人々の間に協働を確保し維持することは、権威を確立し維持することを意味する。まさしく協働の方法である調整と編成の過程は、協働の素材である人々を破壊する傾向にある。お互いの間に向けられる人々の敵意は、彼らにとって協働が有利であるにもかかわらず、権威の確立を妨げる。

このように、バーナードは3つのジレンマを、協働の成立と維持、そこでの個人の発展の問題として論じていくのである。以下、それぞれのジレンマについて述べられていく。まず最初に社会と個人のバランスのジレンマが取り上げられる。

個人と社会のジレンマを第1のジレンマと位置づけたのは、他のジレンマが問題とならないような情況でも協働が成り立ちうるからであるとバーナードはいう。

私は、個人主義対全体主義の問題を、協働を通じて社会進歩を達成するにあたってのわれわれの第一のジレンマと呼んだ。なぜならば、個人としての人々が協働的集団の素材であるからであり、さらには、少なくとも権威の問題が目だつこともあるいは重大となることもないような小規模な協働が、一見して可能と思われるためである。

個人が何らかの形で他者とかかわり合いになる情況、バーナードのタームで言えば非公式組織のような情況においても、社会的なものと個人の問題は発生するというわけである。その上で、以下のように述べる:

一方では、多くの条件のもとで、協働は大いに個人の努力の有効性を高め、そして特定の方向に個々人を発展させる。他方において、協働は個人のイニシアティブ、柔軟性、能力を制約し、抑圧する。かように、個人主義と協働はともに、社会と個人の双方にとって基本的な必要物であり、そして相反する傾向をもつ。どちらかが極端にはしれば、他方を破壊する。そして、それぞれが他方にとって不可欠なものであるがゆえに、それらによって個々人と社会の双方が破壊される。ここに、社会的努力の第一番目の永続的なジレンマがある。

Cooperation under many conditions greatly enhances the effectiveness of individual effort and the development of individuals in special directions on the one hand; and on the other hand, it limits and stifles individual initiative, flexibility and capacity. Thus, both individualism and cooperation are basic necessities both to society and to the individual, and have opposing tendencies. Either carried to extreme destroys the other, and thereby destroys both individuals and society, since each is indispensable to the other. In this lies the first perpetual dilemma of social effort.

そして、このジレンマは、常に存在し続けるものであることが述べられる:

ジレンマは存在し続ける。個人主義と協働の対立は、あらゆる時代における、そして人間努力のあらゆる分野における絶え間のない争いの根底をなし、それを永続化させるような対立である。この争いの本質的な帰結をみようとすれば、絶えず変化している条件の下で、個人と集団とをともに有効な状態にしておけるようなそのようなバランスを、対立する諸傾向の間に確保しなければならない。

The dilemma persists. The conflict of individualism and cooperation is one which underlies and perpetuates constant strife in every age and in every field of human endeavor. The essential result of this strife is to secure under constantly changing conditions that balance between the opposing tendencies which will permit both the individual and the group to remain effective.

続いて、権威について話が進む。まず権威とは何かが述べられる。

その最も単純で、最も目につきやすい形では、権威は目的の別名である。2人の人間が協働し、そしてどちらも他を監督しないとき、彼らの自由を制限し、イニシアティブを制約するものは目的である―それはまさに、協働をしていない個人的行為をも支配するものである。しかし、多くの人々を支配するもの、というより広い意味では、目的は権威と呼んだほうがいいだろう。

ここで述べられている権威は、『経営者の役割』における権威の定義とは若干異なるものになっている。こちらの権威のほうが、通常、われわれが権威で想定するものに近い。つまり、個人の自由やイニシアティブを何らかの形で制限し、権威がなければ為さないようなことをさせるもの、という権威である。目的が権威であるというのは、少し奇異に感じるかも知れないが、行為の可能性を制限するものという観点でとらえると分かりやすいだろう。

人間は権威の対立の中に生きている。つまり、個人の自由とイニシアティブという精神的な諸力と、他方で生きるために何らかの条件や行為をせざるをえない(情況に従わざるをえない)生物的な諸力のせめぎ合いとしてバーナードはとらえている。いささか比喩的な表現が入り込んでいるのだが、以下のように言う:

人間協働における(あるいは個人としてさえ)権威の基本的な問題は、生物的ないしは精神的な諸力と目的と、そのいずれが優先すべきなのか、についてであり、さらに、人間は野獣より若干上回る動物の有能な一つの種であるのか、それとも天使より若干下回る他と比べてより高等な、神の表されたものなのか、についてである。
……
私は、精神的諸力は卓越しており、社会的世界の他の諸力とは起源的に独立したものとみなす、しかしながら、あなたがたにそれが唯一のものであると信じさせようとは思わない。それらは支配的ではない。人間はパンのみにて生きるのではない。しかし、彼はこの世の人間として、生きるためにパンを得なければならない。生活の物的条件はこれを無視しえない。
……
かくして、非常に重要かつ深い意味において、社会の物質的諸力と精神的諸力とは拮抗し、対立し、そしてバランスをはかるための絶え間ないたたかいがある。

このように諸力の次元でのせめぎ合いとして権威の対立をとらえるのだが、この権威のせめぎ合いが明瞭な形で現れてくるのは組織の次元である:

物質的諸力の権威と精神的諸力の権威が、(個人の内部で対抗するのと対照的に)社会的に対抗するようになるのは、人々の経済的および人種的さらに精神的諸活動が公式的に組織化されるようになるときである。そこで、対立しながらも組織化された諸利益をより巧みに調整し調停するために、協働することが必要になる。この協働はやがて政治的なものとなり、そして、その権威は基本的には、経済的、人種的、宗教的利益を保護するという目的にもとづく物理的な人力の権威である。

しかしながら、権威の問題の根本は、諸力の対立であることに再度バーナードは注意を喚起する:

権威確立という基本的ジレンマは物質的諸力と精神的諸力との間の対立ではあるが、現実の社会生活においては、社会に関係する、あるいは社会を通じて作用する諸力のすべて―物質的、生物的、経済的、精神的、人種的、および政治的な諸力―の間の対立なのである。

権威の対立とは、端的に言うならば、われわれの活動(営み)を支配する原理の対立と言える。このように一般化すると、『経営者の役割』で展開された道徳準則の対立という議論が、ここでは権威の対立として述べられていることがクリアーになるだろう。

さて、このような権威の対立が、社会進歩のジレンマとなるというのはどういうことか? その点については、バーナードは次のように述べている:

社会進歩の第二の大きなジレンマは、個人のイニシアチブと能力を破壊することなく全体として社会的協働の量が増加されるように、そして、大きな社会的諸力のどれか一つがその他のいずれの諸力に対する人為的な支配を社会的行為によって得ようとする企てを阻止するために、いかに権威と責任を分配するか、である。そして、社会の異なる機能に対する分散された統治権と分離された権威という考えの大きな有用性を認める時でさえ、われわれは、そこにかなり狭い限界があることに容易に気がつく。

The second great dilemma of social progress is then how to allocate Authority and responsibility so that in the aggregate the amount of social cooperation is increased, without destroying the initiative and ability of the individual, and so as to prevent the attempt to secure by social action an artificial domination of any one of the great social forces over any of the others. And even when we recognize the great usefulness of the idea of distributed sovereignty and separate Authorities for distinct functions of Society, we easily perceive that there are limits that may be narrow.

権威の対立を多少なりとも解決する手段としてバーナードは権威の委譲(分配、分散)を挙げるのだが、その方法をもってしても、諸力が調和しバランスがとれるようにすることは難しいというわけである。ここで権威のジレンマが、「いかに権威と責任を分配するか」と定式化されていることに注意して欲しい。ここから、いわゆる責任優先説へとつながっていく議論であることが見えるだろう。

第三のジレンマである寛容の問題は、この権威の分配につながる。

現代西洋文明にみられる協働の精緻化と権威の多様な配分は、社会的に寛容の能力の発達がなければ不可能であったであろう。寛容を確保することは社会進歩にみるわれわれの第三のジレンマである。

寛容をいかに確保し権威の分配を行うかは、最終的には実践の問題だとする。

寛容というものは感情を抑制し、互いに対立しあういくつかの目標に折り合いをつけることを伴うのであるから、個人の自由にとっても、個人のイニシアチブを抑圧せずに高度の協働を可能にする権威の分配にとって、それはなくてはならないものだとはいえ、それ自体は均衡を安定したものにするという問題なのである。それをどのようにして達成するかは、心の状態の問題であり、長い時間をかけて発見される方法と実践の問題であるということは明らかである。

以上のジレンマに関する所見を述べたうえで、これらが最終的な解決が不可能であるとバーナードは述べる:

個人主義対協働、権威の拡大と配分、そして寛容の確保という三つのジレンマを不変にしているのは、諸条件の変化がどんな均衡をも絶えず狂わせているという事柄なのである。……。したがって、課題はこれらすべてのジレンマの同時的解決を根気強く試みることではあるが、それは決して果たしえない課題である。だから、すべての社会的諸力の間に理想的なバランスをとる試みは常になされてはいるものの、しかし決して達成されていない。

それゆえ、われわれは、過去および現在と同じように将来においても、基本的な社会的課題はやはり、個人主義と社会的協働との間に効果的なバランスを確保すること、協働に必要な権威をいかに確立し維持するか、そして権威の分配に不可欠であり、基本的な社会的諸力の自由な活動とバランス化に不可欠である寛容をいかに維持するか、であると予見できよう。われわれは、事の性質上、終局的な解決はあり得ないだろうと思っている。つねにしなければいけないのは、変化している生活の諸条件に対して不断に適合を繰り返すことである。社会は、生きた個々の細胞と活力ある機能的器官から成る生きた有機体である。身体の生理におけると同じように、社会もまた、一面において独立し、他の諸側面では互いにまったく依存的である諸部分をもちつつ、永続的な再適合の過程、つまり相反する諸力のバランス化の過程の中で生きなければならない。

このように、われわれがつねに変動する社会の中で生きている以上、ジレンマは常に問題としてわれわれの前にあり、それに挑み続けるしかないわけである。それは、われわれがシステムにかかわって生きているということであるという一般化がなされる。

古くさい言葉で言えば、社会の諸問題は対の原理の問題である。われわれは、基本要素的な要因がそのなかで相互依存的な変数となっているシステム、あるいは重なりあう諸システムの集合を取り扱っている。

In effete language the problems of society are those of conjugate principles. We are concerned with a system or groups of overlapping systems in which the elementary factors are mutually dependent variables.

この部分に、バーナードの基本的な思考の枠組をみてとることができるだろう。つまり、多様な要因が複雑に絡み合う現象を、対立する原理のバランス/均衡の問題として定式化し、その問題は、常に解き続けるしかないジレンマであるとするわけである。バーナードの著作に現れる二項対立的な定式化の基本的な図式がここにある。

このようにわれわれの社会についての議論を展開した後、この章のタイトルにもある社会の進歩について述べる。

社会進歩はらせん状の道を昇っていく向上であり、それはすべての諸要素がバランスのとれている状態にあるときにのみ可能である、と私はつねづね考えている。

It is my habit to think of social progress as advance upward on a spiral track, only possible when all elements are kept in proportion.

そして、経済的な進歩(物質的な進歩)は、それが相応の協働を可能にしたとき、はじめて社会の進歩といえるのだということ、その進歩は、偶然に左右されるものではあるが、知性と意志の問題でもあることが述べられる。経済=物質的な側面だけではなく、精神的な側面(バーナードのタームで言うならば道徳的側面というのが適切だろう)の重要性に注意を喚起する。

日常世界の経済的な出来事は、単にそれらの主たる側面である物質主義的な諸要素ばかりではなく、倫理的、精神的、政治的諸側面―それらを調和させることが企業経営、ステーツマンシップ、宗教的リーダーシップの機能である―をも絶えず含んでいる。

そして、卒業記念講演として、巣立つ人びとへ道徳的側面の重要性をうったえる。

あなたがた自体の多様な性質のなかに、あなたがたがすでにしばしば気付いている永続的な奮闘があり、そしてそれは、われわれすべてがその部分である社会的世界のなかで繰り返されている。あなたがたにとって大きな責任と機会を与えるのは、道徳的存在[としての人間]のこのような対立である。

In the manifold nature of your being lies the perpetual struggle of which you have already often been aware, that is repeated in the social world of which all are a part. It is this conflict of the moral being that gives your great duty and opportunity.

長くなるが、講演の最後の部分を引用しておく。『経営者の役割』を読んだことがあれば、ここで述べられていることが第17章の最後の部分と響きあっていることが分かるだろう。

あなたがたに最終的に満足を与えるのは、健康で強い動物であることではない。富を得ることでも、個人的な名声を獲得することでも、人びとを支配することでもない。あなたがた自身、あこがれている指導者になることでも、あるいは功績をたてることでもない。あなたがた自身とあなたがたの家族を養うことが、あなたがた自身と社会に対するあたながたの第一の責務である。人類の物質的福祉に寄与すること、あなたがたの時代の政治的諸制度を援助し支援すること、あなたがた自身の人格的な尊敬と責任の念を犠牲にすることなく協働の技術を促進すること、他の人びとの信念を侵害することなくあなたがた自身の信念を堅持すること、あなたがた自身の正しい行動準則にあくまでも忠実であるようにすること、理想と精霊の灯火をめざして奮励努力すること ―これらが、一つの調和ある全体として、いまやあなたがたの大望の目標でなければならない。それは決して到達しえないが永遠に終わることなく達成をめざすべきものであり、そこに至る過程こそ、あなたがたに永続的な満足を与えうるところの唯一の道なのである(these as one harmonious whole should now be the end of your ambition, the never-ending achievement never attainable, the only course whose process can give you enduring satisfaction.)。

以上でこの章は終わり。


産業研究のなさるべき組織の諸側面 (1947)
Some Aspects of Organization Relevant to Industrial Research

この章の文章は、ペンシルバニア大学ウォートン・スクールの産業研究学科の25周年を記念して行われた講演である。ここでバーナードは組織論の研究の重要性を述べている。その中に、彼の組織のとらえ方、考え方が端的に述べられているので、その部分に絞ってみておくことにする。

まず組織について述べた部分:

われわれの大規模公式組織の単位細胞はつねに集団であり、それも通常は小集団であるとまず指摘しておくのがいいかと思う。その集団は個人から構成されたものではなく、個人の相互作用から成り立つものと考えるのが、最も便利であると私はつねづね思っている。集団が組織の基礎的な細胞となるのは、この相互関係や相互依存のゆえである。生物学的類推を用いて考えてみると、個人によって貢献される活動は、つねに細胞から出たり入ったりしている原形質とかエネルギーのようなものである。新しい事業が企てられるとき、それは、創設者または法人発起人たちからなる小集団とか、あるいは、自分の回りに人を集めて最初の小集団をつくる一個人からはじまる。それはやがて、集団間での個々人(より正確にいえば、彼らの活動)の絶え間ない循環によって連結された、細胞ないし集団が次々と付け加わって一つの組織に発展してゆく。この主要な連結活動がコミュニケーションである。こうしてわれわれは、複合公式組織をつくりあげるのであるが、そのいくつかは非常に大規模で、よく知られたものである。

It is first desirable to point out that the unit cell of our large formal organization is always a group and usually a small group. I usually find it most convenient to conceive of the group not as composed of individuals but as made up of the interactions of individuals. It is this relatedness and interdependence which makes of the group the fundamental cell of organization. The activities contributed by individuals, following biological analogy, are in my thinking like the protoplasm and the energies constantly working into and out from the cell. When a new enterprise is undertaken, it begins with a small group who are the founders or incorporators, or by an individual who gathers about him an initial small group. It then expands as an organization by the development of additional cells or groups interlocked by the constant circulation of individuals (more strictly, their activities) between groups. The principal interlocking activity is communication. In this way we achieve the complex formal organizations, some of very large size, familiar to us all.

バーナード自身による公式組織についてのダイジェストと言ってもよい文章である。

これに続けて、組織の問題の中心にコミュニケーションの問題があること、そしてコミュニケーションの問題を考えるにあたって、人間の集団行動の二つの側面について議論を進めていく:

集団行動に対し、また、それが個人の行動とか公式組織という、より大きな集合体の行動とかにもつ関係に対して、多くの注意が払われ出したのはごく最近のことである。これらはコミュニケーションの問題に関係があるので、私は、集団行動のほとんど知られていないけれど非常に重要であると思われる二つの側面について論じてみたいと思う。第一は、人々が物事について考える考え方の相違の側面である。人類学者であるグレゴリー・ベイトソン氏は、その著書『ナヴェン Naven』において、この側面を「知性的 eidological」と言っている。

まずバーナードが切り込んでいくのは、組織にかかわる人々の間で、思考方法にさまざまな違いが起きてしまうこと、それがコミュニケーションのトラブルのもとになっているということなのであるが、そうした思考方法の違いが起きてしまう原因として、組織というシステムが相互に依存する多数の要因(変数)からななるシステムであり、線形的な理解(数学的な理解、明確な言語化)が難しいということを指摘する。いわばバーナードによる複雑性の科学が述べられている。少し長くなるが引用しておく:

パレートは、その著 The Mind and Society においてこの問題を論じ、多くの相互依存的変数からなるシステムに適用しうる唯一の論理は、幾組かの微分方程式の論理であると述べている。そのようなシステムを適切に言葉によってのみ表そうとしてもできるものではない。それでも、そのようなシステムを構成している変数的要素が測定できるのでなければ―それはごくまれなことである―そのようなシステムを説明するのに数学を適用することは不可能である。したがって、そのようなシステムの理解は、性質上ほとんど審美的な判断の問題でなければならず、情況に対するこの感覚は、これを言葉で表現しようとすれば、単純な因果関係的推論か、または戦略的要因という表現で言い換えられなければならない。そのような言い換えは、いつでも不完全で、しばしば誤解を招き、そして実際の結果において完全に誤っていることもある。それは、ホワイトヘッドの用語を使えば、「取り違えた具体性」という誤り、つまり「他の事情が等しければ」という誤った仮定を含んでいる。

このように、組織という現象が、根本的にリニアでクリアな言語化、定式化が困難なものであり、それゆえに、感覚的で審美的な「理解」を、正確に表現することが難しいわけである。そのことが、組織にかかわる人びとのコミュニケーションの問題を引き起こしていることを指摘する:

さて、程度は異なるが、企業またはその他の組織活動の管理にたずさわる人びとは、多くの相互依存的変数を含むシステムにおけるいくつもの変化についての判断に常にといってもいいほどかかわっている。ほとんどの場合、彼らは自分たちのかかわる諸要因を測定することはできないし、また、変数のうちどれかを修正しようとする特定の行為から生じる、組み合わされた変化に対する自分たちのセンス(直感)を正確に表現することはできない。ビジネスマンや他の人びとが、自分たちの行動や提案について語るときに混乱があり、実際に多くの矛盾があるのは、このような事態のせいであると私には思われる。

さらに、言語された場合、同じ言葉が違った枠組から用いられていることがコミュニケーションの問題を引き起こすことが指摘される:

コミュニケーションの重大な困難が生じるのは、異なる思考法法があるのに、共通して同じであると思われる言語によって表現される場合である。明らかに単純で、簡単で、よく理解されていたことが、実際、まったく誤解されていたことを知って驚くのは、そういう場合である。不誠実や裏切りに対する多くの責め合いや告白が生じるのは、そのような情況からである―実際にこれまでなされたコミュニケーションにおける欠陥の主たる原因であるとともに、コミュニケーションをしようとする欲求または努力に対してきわめて重大な障害となるのも、この種の誤解を生じかねない可能性でないかと私には思われる。

このように、組織という複雑なシステムに関わりをもつ場合、それを思考や記述のレベルで表現すると、いやおうなくコミュニケーションのトラブルをはらんでしまうことが指摘されるわけである。

これに続いて、集団行動の第二の側面として、審美的・道徳的感覚へと話を進めていく。

(集団心理のもう一つの側面)それは、ベイトソンによって「徳性的 ethological」と名付けられた側面であり、倫理的であるもの、すなわち、倫理的か、道徳的か、あるいは審美的ですらあるものに対する感覚とともに、目的あるいは手段としてふさわしいもの、ふさわしくないものに対する感覚に関係している。ここでは、それは、何が目的に対する有効な手段であるかを、何らかの種類の論理的過程によって決定するという問題でなく、手段か目的かのいずれかを、それが「よくない」と思われるので拒否する、あるいは逆に、そのいずれかを、それが「道理にかなっている」ので受入れる、という問題である。

I now turn to another and perhaps even more important aspect of group psychology. It is the aspect termed by Bateson the "ethological," having to do with the ethical, the feeling for what is appropriate or inappropriate either as an end or means as well as for what is ethical or moral or even aesthetic. Here it is not a question of determining by any kind of logical processes what are effective means to ends, but of rejecting either means or ends because they seem "wrong, " or conversely, in accepting either means or ends because they "make sense."

道徳的感覚についの議論が『経営者の役割』の議論につながるものであることをバーナード自身が述べている:

私は、拙著『経営者の役割』の第17章で、経営者達が一般にしばしば悩まされる「道徳準則の対立」と私が呼んだものについて、かなりくわしく取り扱った。それ以来、私は、環境や仕事の物的情況が、同じような立場にはいない人びとには生じない道徳的義務感を、どの程度負わせるかについて、改めて観察しようとしてきた。そういったなかでみてみると、明確な命令や厳格な規律がなければ、明らかに生命の重大な危機がおこるような情況のもとで働いている人たちは、きびしい制裁によって必要な規律が支えられなければならないことを、知的感覚としてよりも、情緒的、道徳的感覚として正しいとみなしている。

こうした感覚が、実際に働いている人たちを律しているのであり、それは具体的情況の中で感得されるものであるとする。

雇用の条件から生まれてくる道徳感は、工具製作者のような熟練機械工とか、ダイアル電話交換局を保守する熟練電気工のような場合に比較的敏感に示されるが、この場合には、間違った、不注意な、効果的でないやり方で仕事をすることは、ただ単に技術の問題であるというよりは、むしろ情緒的ないしは道徳感の問題である。とにかくあらゆる種類の仕事において、これはおそらく、言語的抽象化のレベルよりも下にあるような、情況についての知覚や感覚の作用であり、理解されるよりはむしろ感得される事柄でありながらそれぞれの具体的情況を現実にかたちづくっている一部なのである。

The moral sense that grows out of the conditions of employment is more subtly demonstrated in the case of expert mechanics such as tool makers or expert electricians such as those who maintain dial telephone offices where doing things the wrong or the careless or the ineffective way is not merely a matter of technique but rather a matter of emotion or moral sense. In all kinds of work this is probably a function of those perceptions and feelings of situations which lie below the level of verbal abstractions, the things sensed rather than understood, that are real parts of each concrete situation.

そして、この道徳感は、一面では規則や準則として述べうるものかもしれないが、他方で感覚的なものとしかいいようがないことが確認される。

徳性的な感覚の領域の一方の極では、何が正しく、何が正しくないかは、道徳律もしくは道徳準則、および倫理システムの理論的説明が明示しているものにもとづくようになる。その対極では、これらの感覚は、本質的に何が適切で何が適切でないかという情緒的感覚でしかないものである。

At one end of the spectrum of the ethological sense, what is right and wrong becomes subject of explicit statement in moral law or code and of rationalization of ethical systems. At the other end they are merely an emotional sense of what is appropriate or inappropriate in itself.

このように、バーナードは、具体的な情況の中で、具体的に行為する中で育まれる、ある種の準則的なものとして道徳をとらえ、その重要性をうったえる。そして、組織とは、こうした道徳を内包するものであるという考え方が、この『経営者の哲学』の最後の「ビジネス・モラル」で明確に述べられることになるわけである。

さて、こうした道徳感というものがあること、それは言語化が難しい感覚的なものであること、そうしたことから、この道徳的な側面に関してコミュニケーションの困難をもたらすわけである。

私は、集団行動の特性的側面における相違の方が、知性的側面における相違よりも、コミュニケーションを阻害する点では、いっそう重要なのではないかと思う。

このように集団行動における二側面とコミュニケーションの問題を論じた後、最後に、組織の研究が進むことで「一般組織の原理」を語ることができるようになるだろうという期待を語る。同時に、そうした原理は、あくまでも一般組織についての原理であって、個別特定の実際の組織での活動を導くものではないと釘を刺すのを忘れない:

軍隊、市民、労働、宗教の組織ばかりではなく、産業の組織にも多くの種がある。コミュニケーション、権威、責任、ステータス、集団、意思決定過程といった諸問題に関連した、さまざまな組織における行動の包括的な研究は、われわれがもしそれに成功するなら、一般組織の諸原理と、そして特殊な組織を説明し理解するための有効な手段をやがて与えてくれることだろう。これは、もちろん、個別具体的な組織化にとっても、あるいは個別具体的な組織のメンバーとして有効な行動を為す場合の指針としても、十分なものではないだろう。独特の結合体としてのそれらを理解するには、個別特定の情況の下での個別特定の組織に関する明確な知識と具体的な経験が必要となる。そのような知識や経験は、その組織で実際に働くのでなければまず得ることはできない。

There are many species of industrial organizations as well as of military, civil, labor, and religious organizations. Comprehensive study of the behavior in various types of organizations associated with such subjects as communication, authority, responsibility, status, groups, and the processes of decision will give us in the end, if we are successful, the principles of general organization, and effective tools for describing specific organization and for understanding them. This will not be sufficient, of course, either for specific organizing or as a guide to effective behavior as a member of a specific organization. Definite knowledge and concrete experience of specific organization in specific situations are required to understand them as unique combination. Such knowledge and experience can be acquired almost solely by actually working in them.

端的に次のようにも言っている。

有効な行動は、主として無意識的、自動的、習慣的なものである。同様に、われわれが集団行動の心理学をいかに多く学ぼうと、いかに行動するかをそのような知識から教えうるとは思えない。

Effective behavior is largely unconscious, autonomic, and habitual. Similarly, no matter how much we learn of the psychology of group behavior, we would not expect to teach how to behave from such knowledge.

このように、産業研究学科の記念講演という場においても、知識の限界(知的理解への過度の期待)を戒め、具体的情況の中での実践的感得の重要性を述べるあたりが、実務家バーナードらしいところである。

以上でこの章は終わり。


ハイネマン著『民主主義における官僚制』(書評) (1950)
Book Review of Bureaucracy in a Democracy by C.S. Hyneman

この章の文章は、『アメリカン・ポリティカル・サイエンス・レビュー』に掲載された書評である。書評された書物の内容と対比して、バーナードの読みの特徴などを明らかにするのが、バーナード研究であれば真当であろうが、このページの目的は、バーナード組織論の理解を深めることにあるので、そのような作業は行わない。それにもかかわらずこの章を取り上げるのは、この章の中で「これらかの研究で考察されなければならないと私が気づいたいくつかの題目」を述べており、その中に、責任にかんするバーナードの見解が述べられているからである。そこで述べられたバーナードの責任のとらえ方は、飯野春樹氏によって責任優先説としてまとめられたものであり、協働において責任と権限をセットにして考えることへの批判である。その部分に絞ってみておくことにする。

なお、この章では authority を権威ではなく権限と訳している。バーナードの場合は権威という訳語が用いられるのが普通だが、古典的な組織論の批判という文脈で権限という訳語を用いているようだ。以下の引用では、これにしたがって権限という訳語を用いる。

まず責任というものがそれまできちんとは論じられてきていないこと、またこのテーマが広範なものであることを述べたうえで、その中のいくつかのテーマについて意見を述べるとする。まず最初に、公式組織における責任について以下のように述べる:

まず第一は、公式組織の仕事のたいていは、権限のない責任、権限より以上の責任、あるいは権限を行使しないか権限を当てにしない責任のもとで達成される。責任と権限は無関係ではないが、それらが「同量」(いずれも客観的に測定できないが、両概念に関してこの言葉が意味をもちえるものと仮定して)であるというのは、経験と観察に反する。このことは、組織の「骨格」の部分として公式的権限のシステムの重要性を否定しているのではないし、責任の遂行を刺激するためにも、刺激された時にはそれを抑制するためにも、公式的権限を強調する心理的必要性があることを否定するものでもない。

The first is that most of the work of formal organizations is accomplished under responsibility without authority, or in excess of authority, or without use of or reliance upon authority. Responsibility and authority are not unrelated, but that they are "commensurate" (assuming this word can have meaning with respect to two concepts, neither of them susceptible of objective measurement) is contrary to experience and observation. This does not deny the importance of a system of formal authority as a part of the "skeleton" of organization, nor that there is a psychological necessity for emphasizing it in order both to incite and to retain the exercise of responsibility when incited.

これに続けて、実際の仕事においては、権限を用いないほうが好まれることを指摘する:

緊急の場合や、決定が多少とも司法的性質をもつような論争や議論を解決する場合を除いて、経験ある有能な管理者は一般に権限を用いることを好まない。恐らく、このような気持ちにさせる最も大きな理由は、命令によって物事を為さしめれば、部下から責任を免除してしまい、行為の知的自由を制約するからであろう。多くの場合、賢明な人は完全な責任を負わせるために、いかなる権限も用いずに責任を果たすことを好む。このように責任を果たす方法は、私たちがリーダーシップによって意味するものの中に明らかに含まれている。最も単純な例としては、セールスマンの場合がある。彼は購入を強いる権限をもっていないが、販売責任を負わされている。

Excepting in emergencies and for the settling of disputes or controversies where decision is somewhat of a judicial character, experienced and effective administrators prefer generally not to use authority. Perhaps the most important reason for this reluctance is that to get things done by command relieves the subordinate of responsibility and restricts intelligent freedom of action. In many instances wise men prefer to discharge responsibilities with no authority whatever in order to impose complete responsibility. Such mode of discharging responsibility is certainly included in what we mean by leadership. The simplest illustration is that of the salesman, who has no authority to compel purchases, yet is held responsible for making sales.

つまり、権限によって仕事をさせた場合、その仕事に対する責任を免除してしまう危険があるというわけである。これに続けて、責任や権限を委任することのパラドクスを論じる:

このことから、権限の委任と責任の委任のパラドックスが生まれる。つまり、権限、責任のいずれを委任した場合でも、委任者は権限や責任を免除されたりはしないのである。委任は両者を拡大する効果を持っている。このことは、さもなければ達成できないであろうことを達成するという組織化された努力の能力をある程度説明するのである。委任の効果とは、統制(権限の場合)と、全問題の総計とは区別された特定の問題に対する責任とを軽減させることである(しかし、必ずしも消滅させることではない)。委任者は、権限を委任したり、限定された責任を他の人々と共有したりする事によって、全体的な結果に対する責任を免れはしない。実際、彼が権限を利用したり、責任を果たそうとより一層努めるのは、いずれかの種類の委任によってである。

This leads to the paradoxes of the delegation of authority and of responsibility, namely, that the delegator does not relieve himself of either authority or responsibility, as the case may be; delegation has the effect of increasing both, a fact that in part explains the ability of organized effort to accomplish what could otherwise not be accomplished. The effect of delegation is to diminish (but not necessarily extinguish) the control (in the case of authority) and the responsibility for the specific case as distinguished from the aggregate of cases. The delegator divests himself of no responsibility for the aggregate result by delegating authority or by sharing restricted responsibility with others. Indeed, it is by either kind of delegation that he utilizes his authority or attempts better to discharge his responsibility.

続けて、権限の委任をうまく行うことを妨げる要因が述べられる。

政府においてはかなりの程度まで、企業においては程度は軽いが、権限委任の最上の発展に対する由々しい妨げが二つあると思う。一つは法による詳細な手続規定であり、いま一つは中間役職者の頭越しに権限を委任すること、たとえば、局長に最終権限を与えるといったことである。責任を確定するように見えはするが、両方法とも責任を厳しく制限する(つまり、特定の情況が要求していることを実行しない公然とした理由を与える)し、責任を分散させてしまう。実際、責任があまりに広く、しかも際限なく分散されるので、どの役職者も、どの政府機関(個人的責任もまた分散されている議会を除いて)も、悪いところをいかに直すべきかその方法を知らないし、また気を配る必要もない。その結果、イニシアチブや想像力は抑えられるのである。

To a substantial extent in governmental practice, to a slight degree in business practice, I think, there are two serious interferences with the best development of the delegation of authority. One is the detailed prescription of procedure by law; the other is delegation of authority over the heads of intermediate officials, e.g., giving final authority to bureau chiefs. Under the appearance of fixing responsibility, both processes limit it severely (i.e., furnish incontrovertible alibis for not doing what the specific situation calls for) and diffuse responsibility. Indeed responsibility becomes so widely and indefinitely diffused that no one official or no official body (except Congress where personal responsibility is also diffused) knows how, or need care, how to remedy ills. As a result initiative and imagination are stifled.

先に「企業経営における全体主義と個人主義」の中で、バーナードは責任が個人を育てると述べていた。また、「社会進歩における不変のジレンマ」の中では権威の分配の必要性とその困難(第2のジレンマ)を論じていた。このように、バーナードは、責任/権限(権威)を組織においてうまく委任し分配すること、さらには権限で縛るのではなく、責任を委任することで個人がイニシアチブを発揮することが重要であるとする。それを妨げる現実について指摘しているわけである。

このように、バーナードは責任を、権限と対になったものとはとらえない。それが責任優先説ということになるのだが、ただ、指摘しておくならば、責任=権限説と責任優先説は、対立する議論というよりは、責任がもつ二つの側面についての議論だとみなせる。つまり、責任の中には、自らのイニシアティブで目の前の具体的情況の中で活動を担うという遂行責任(「責任をもって仕事をする」)と、組織のために一定の結果/成果をだすことを義務として引き受け、失敗した場合には説明なり補償なりを行うという結果責任(「仕事の責任をとる」、日本では説明責任と訳されることが多い accounatbility の側面)とがあり、ともに責任という協働の場面に関わるものである。言うまでもなく、前者の遂行責任の重要性を語ったのが責任優先説であり、後者の結果責任を語ったのが責任=権限説である。このように、責任については、多様な側面があると考えることができるのである。

……いささかバーナードからは離れてしまったが、この章についてはこれで終わっておく。


ビジネス・モラルの基本的情況 (1958)
Elementary Conditions of Business Morals

この章の論文は、『カリフォルニア・マネジメント・レビュー』第1巻、第1号に掲載された論文であり、バーナード最後の論文である。

この論文では、組織が、そこに関わる人びとの中に、さまざまなレベルの道徳を生み出すものであること、そしてその道徳性が協働にとって重要な影響を与えるものであることが述べられる。組織における様々な道徳の体系的素描を試みたものになっている。

バーナードは、『経営者の役割』の「管理責任」において、道徳的創造をリーダーシップの中心的なものとして描いたのであるが、主著以降のバーナードの組織論の1つの到達点を記した論文として、バーナードを理解するには必須の論文の一つであると行って良いだろう。

ただし、道徳という言葉は、日本語では、集団から課せられる規範という意味合いが強く、その点では、バーナードの言う「道徳」よりも狭い概念であるといえる。バーナードの道徳は、規範やルール、さらには倫理までも含んだ、人びとの価値観と行動を導き・うながすものである。その点でルーマンのシステム論でいう予期という概念と重なるものだと言える。

緒言

まず最初に、主著の執筆からの自分の組織論研究を振り返るところから始まる。

1937年に、私は「経営者の役割」という題で、ボストンにあるローウェル研究所で8回の公演を行った。これらの講演は、原稿なしで即席に話したものではあったが、ハーバード大学出版部の提案にもとづき、私はそれを本にすることに同意した。これは、1938年の秋に、同じ表題で出版された。おそらく、より一層適切な表題は「公式組織の社会学」であったかもしれないが、そのような労作は考えていなかったし、そのようは表題は私にとっても他の人々にとっても同様に大げさに思われたであろう。私は、経営の実践やリーダーシップの諸問題に関する議論の不可欠な序論として、経営者がそれを用いて、それを通じて、あるいはそれによって仕事をしなければならぬ必須の用具ないし装置の本質を記述ないし陳述しようとしたにすぎない(I was merely trying to describe or state the nature of the essential tool or apparatus with, through, or by which executives have to work, as an indispensable introduction to the discussion of the practice of management and the problems of leadership.)。

そして、主著の執筆を通して、2つの考えをもつに至ったと述べる。一つは組織が道徳的存在であるということ:

私は出版後にいたるまで気がつかなかったのだが、この研究からこの講演に関係のある二つの主要な考えが浮かび上がってきた。その第一は、あらゆる公式組織は、社会的システムであり、単なる経済的あるいは政治的な手段的存在とか、会社法のなかに暗に含まれた擬制的法的存在よりもはるかに広い何ものかである、ということである。社会システムとして、組織は、慣習、文化様式、世界についての暗黙の仮説、深い信念、無意識の進行を表現し、あるいは反映するのである。そしてそれらは、組織を主として自律的な道徳的制度たらしめ、その上に手段的な政治的、経済的、宗教的、あるいはその他の機能が積み重ねられ、あるいは、この制度からそれらの機能が発展してくるのである。

From this study emerged two leading ideas pertinent to this lecture, although I was not aware of this until after publication. The first is that every formal organization is a social system, something much broader than a bare economic or political instrumentality or the fictional legal entity implicit in corporation law. As social systems, organizations give expression to or reflect mores, patterns of culture, implicit assumptions as to the world, deep convictions, unconscious beliefs that make them largely autonomous moral institutions on which instrumental political, economical, religious, or other functions are superimposed or from which they evolve.

もうひとつは、その道徳的側面が組織の協働、とりわけ中心的な活動とも言うべき決定(意思決定)に影響を与えるということである:

第二の考えは、経営意思決定は大いに道徳的な問題に関係がある、ということである。疑いもなく、このことを認識するずっと以前から、私はそれを例証するような数多くの経験をしてきたのであった。しかし、私は事実的で論理的な結論に支配されている、技術的ないし科学技術的な性格の意思決定と、価値という比較的明確に感得しえないものを含んでいる意思決定とを、決して区別してはいなかった。しかし、組織における道徳性についてのこのような考えは、組織内部に生じてくる問題であった。

The second idea is that to a large extent management decisions are concerned with moral issues. Undoubtedly long before recognizing this I had had numerous experiences exemplifying it; but I had never distinguished between decisions of a technical or technological character, subject to factual and reasoned conclusions, and those involving a less tangible sensing of values. But this idea of moralities in organizations was one of issues arising within organizations.

組織が道徳性を創造するという考えは、バーナード自身にとっても驚きをもたらしたこと、そしてこの観点から考えると、現代は道徳性が複雑さをました時代であると捉え得ることを述べる:

人々の間の協働が、彼らの活動からなる公式組織を通して、道徳性を創造するという事実は、1938年には、私にとって驚くべき着想であった。そこに含まれている深い意味の一つは、近代西洋文明が、他の諸文明よりもはるかに、道徳的に複雑であるということであった。この見解は、われわれの社会の驚くほどの秩序正しさと安定性によって確証されているように、私には思われた。もうひとつの意味は、道徳的立場の対立と誤解が、経済的あるいは権力的な利害の対立とくらべて、大いに増加したにちがいないということ、そして正邪善悪に関して欲求不満、混乱、および不安が、たしかに増大したということであった(frustrations, confusions, and uncertainties with respect to right and wrong surely were magnified)。

しかしながら、そのことが十分に認知され、理解されているとは言い難い情況にある。それゆえ「私の判断では、ビジネスや実務における行動、組織、組織の創造する道徳性についての経験的研究が、倫理の一般的諸問題に関心をもつ人たちとのコミュニケーションを促進するような言葉で述べられることが必要であった」。そこで、この論文では組織の道徳性についての分類的記述を提示しようとする:

この緒言での私の目的は、ビジネスの道徳性に関する問題の本質、それをめぐって存在する混乱、その問題の重要性、そして不明確なこの分野において研究を進めていこうとする最近の試みの若干を指摘することであった。以下の議論で私がやりたいことは、道徳的諸問題に関連したビジネスにおける行動の基本的情況のいくつかを素描することである(What I wish to do in the following discussion is to sketch some of the elementary conditions of behavior in business relevant to moral questions.)。

道徳性の定義 (Definition of Morality)

まず組織あるいはビジネスに関連する道徳性は、様々なレベルのものがあることが確認される。

道徳性の数多くの体系、準則、あるいは態度がありうるという考え、また公式組織における協働がこのような体系、準則、あるいは態度を創造するという考えは、一般周知のことではない。そしてまた、道徳的態度によって規定される数多くの行動が、そのようなものとして認識されてもいない。

The ideas that there may be numerous systems or codes or attitudes of morality and that cooperation in formal organizations creates such systems or codes or attitudes are not common. And much behavior that is determined by moral attitudes is not recognized as such.

そして、バーナードは自身の言う道徳、道徳性について定義しクリアにすることから議論を始める。

私は、道徳的行動とは、私利私欲や、個々の情況のもとで特定のことをするか、しないかの意思決定の直接の結果に関係なく、何が正しいか、何が間違いであるかについての信念ないしは感情によって支配されている行動、と考える。

I mean by moral behavior that which is governed by beliefs or feelings of what is right or wrong regardless of self-interest or immediate consequences of a decision to do or not to do specific things under particular conditions.

必ずしも分かりやすい定義にはなってないのだが、原文を見てもらえばわかるように、道徳的行動とは「信念や感情に支配されたもの」であり、その信念とは、個別の情況とは離れて、一般的なレベルで、「何が正しいか/間違いであるか」の判断(正確には感覚)を導くものであるということだ。

つまり、暴力的に単純化すると、道徳とは人が内にもっている価値判断基準であり、それは自分とか目の前の情況の利害関係などとは離れた、ある種の不遍性をもちうるようなものであり、しかしながら、論理的・計算的なものではないもの、ということになるだろう。不遍性という言葉は日本語としてはなじみがないと思うが(正しい日本語として認められているものでもないだろうが)、D・ヒュームのコンヴェンションによる社会関係の成立の議論、あるいはアダム・スミスの第3者の観点などの志向を意味する言葉で、自分自身の個の観点(それは必然的に各人ごとに偏っている)を出発点としながらも、他者の理解や共有をめざして偏りを脱していこうとするものを指す。普遍かどうかは分からないが、それを志向するような概念のあり方を不遍性という。余分な話が長くなったが、バーナードの言う道徳も、そのようなものとしてあると考えるのがふさわしいであろう。

さて、このような道徳性は実際の活動に影響を与えているのだが、そのことを認識するのは難しいという。

現在のたいていの具体的なビジネス行動は、直接的に個人的利益にかかわるものではなく、むしろ道徳性は、「組織に望ましいこと」、「社会の利益」、法律の諸規定に関連している。個人的利益は関係がないという事実ゆえに、多くの人々は、組織の利益を固守すること、法廷におけるように正しい手続を固守すること、が技術的なものとはならず、今述べたような意味で道徳的なものとなる、ということを認識しそこなっている。

その理由について、バーナードは以下のように3つの要因を指摘する。まず第1は、道徳は達成度を測れるようなものではない、評価尺度による測定にそぐわないものであるということ:

第一に、完全主義の基準は道徳的行動の有効な評価尺度ではないということである。道徳的理想が、具体的情況における行動に即して表現されるよりも、むしろ一般的に表現されるときには、それは必然的に抽象的になり、達成度はとうていその理想に及ばないであろう。達成できないことが不道徳の証拠であることを意味するのではなく、道徳的達成は、部分的には、さまざまに変化する具体的情況に依存していることを意味している。あるいは、このことから道徳から逸脱しようとする「誘惑」の程度が考慮されなければならないということを言っているのにすぎないのかもしれない。問題は、道徳的過ちがなされるかどうかではなく、それがなされた時、謝罪、後悔、あるいは自責の念をもって、それを不道徳であると認めるかどうかである。

First, a perfectionist standard is not a valid criterion of moral behavior. Moral ideals, when expressed in general terms rather than in action in concrete situations, are necessarily abstract, and attainment may fail far short of the abstract ideal. This does not mean that failure is evidence of immorality, but that moral achievement is in part dependent on concrete conditions which vary widely. this is perhaps only to say that the degree of "temptation" to deviance must be taken into account. The test is not whether moral error is committed, but whether when committed it is so recognized with accompanying apology, regret, or remorse.

2つめの要因は、具体的なコンフリクトの場面においては、道徳的原則だけでなく、他の諸原則も含めたコンフリクトになるということ(つまり、そこに道徳的なコンフリクトが潜んでいることが見えにくい):

第二に、組織行動がより一層道徳的となるにつれて、道徳諸原則のあいだだけでなく、これらの原則と、技術的(会計、財政、法律、組織にかかわる)および科学技術的性格の諸原則のあいだの対立もまた、ますます多く出てくるであろう。

そして3つ目の要因として、道徳性を捉える適切な概念/用語の不備をあげる:

最後に、そしておそらく重要なことは、明らかに道徳にかかわる用語がビジネスや行政の実務においてそれほど認められていないという事実である。最も多く使用される用語は、「忠誠心 royalty」、「責任 responsibility」、「義務 duties」、および「責務 obligations」である。このような用語はあいまい(たとえば責任は道徳的内容が何ら含まれていないといってもよい「法的責任 legal liability」を意味するのにしばしば用いられるように)であるけれども、それらは事実、道徳的意味合いをもっている。これらは一般に使用されている用語なので、私は以下において、より便利な、そしてまたおそらく議論を一層分かりやすいものとするのに役立つものとして、「道徳」ないし「道徳性」の代わりに、これらの用語を大いに使用していくことにしよう。

Finally, and perhaps more important, is the fact that explicitly moral terms are not much admitted in business or public affairs. The terms most used are "loyalty," "responsibility," "duties," and "obligations." Though such terms are ambiguous (e.g., "responsibility" is often used to mean "legal liability" where no moral question may be involved) they are in fact loaded with moral implications. These being the term currently used, I shall from here on largely use them instead of "moral" or "morality" as being more convenient and as lending themselves perhaps to more easily intelligible discussion.

ここでバーナードが道徳に関連する用語としてあげているタームを見れば、先ほど述べたように、バーナードの言う道徳が、単なる「道徳」という狭いものではないことがよく分かるだろう。

以上の概念の確認を踏まえて、以下、具体的な道徳性の分類的素描が展開される。

ビジネスにおける道徳性の種類 (Varieties of Moralities in Business)

ビジネスのもつ道徳性を示すために、バーナードは「いくつかの責任をここに提示することにしよう」と述べる。先ほどバーナード自身が述べていたように、道徳性と責任が同義語に用いられている。そして、この責任=道徳というものは、包括的に述べたり、徹底的に分類を行うことは不可能であると述べる。それが可能になるためには観察と分析に蓄積が必要であるということ、さらには、道徳の「理解」固有の問題(=直観的習熟)があるという:

それ(ビジネスの道徳性)をあるがままに理解することは、特定組織、特定活動、および特定情況に対する直観的習熟の問題である。かくして、組織がちがえば道徳的風土も大いに異なるので、まったく有能な経営者、管理者、あるいは従業員でも、ある組織から他の組織に転ずるとき、技術的情況の場合と同じように、その道徳的風土の「こつを覚える」のに多くの時間を必要とし―しかも、彼らは決して「コツを覚える」ことはないかもしれない。

Such understanding of it (=business morality) as there is, is a matter of intuitive familiarity with specific organizations, specific operations, and specific conditions. Thus the moral climate in different organizations varies greatly, so that a thoroughly competent executive, administrator, or employee transferring from one to another will require as much time "to learn the ropes" of the moral climate as of the technical situation − and may never "learn the ropes".

この点、つまり以下の道徳=責任の提示も、あくまでもバーナードの経験にもとづいたものであることを注意しておいてから、以下、「一般的で単純なものから、より特殊で複雑なものにいたる順番で」述べていくことになる。あらかじめ列挙しておくと、以下の道徳性=責任が論じられていく。

  1. 個人的責任 (Personal Responsibility)
  2. 代理的あるいは公的な責任 (Representative or Official Responsibility)
  3. 職員としての忠誠 (Personnel Loyalties)
  4. 法人としての責任 (Corporate Responsibility)
  5. 組織への忠誠 (Organizational Loyalties)
  6. 経済的責任 (Economic Responsibility)
  7. 技術的および科学技術的責任 (Technical and Technological Responsibility)
  8. 法的責任 (Legal Responsibility)

順に見ていくことにする。

●個人的責任 (Personal Responsibility)

ビジネス・モラルの、必要ではあるが決して十分でない基礎は、個人自身のもつ性格である。

A necessary, but by no means a sufficient, foundation of business moral is the character of individuals as such.

このように、まず個人の責任(感)を取り上げるが、これについては、すでに他の箇所で何度か論じられたことでもあるので、詳しくは取り上げない。バーナード自身もさらっと流している。ただ、「必要ではあるが決して十分ではない」とあるように、組織の道徳性=責任は、すべてが個人に帰着するわけではないのである。

●代理的あるいは公的な責任 (Representative or Official Responsibility)

まずバーナードの説明から:

古代、あるいは100年、200年前の西洋社会とくらべて、現代西洋社会の、支配的でないとしても重要な特徴の一つは、個々人の具体的な行動が個人的なものというよりは代理的なものになってきた、その度合いである。ここにいう「代理的」とは、「他の人々に代わって」ということを意味する。つまり、行為者個人によるのではなくて、「他の人々によって決定された目的ないし目標に従って、あるいは方法によって」ということを意味している。この講演の見地からすると、この根本的な情況の変化の最も重要な側面は、個人的行動の倫理と代理的行動の倫理との間にある大きいギャップである。

One of the important, if not the dominant characteristic of modern Western society, as contrasted with ancient, or with Western society of one hundred or two hundred years ago, is the extent to which concrete behavior of individuals has become representative rather than personal. By "representative" is here meant "on behalf of other," that is, not by the actor personally, but "in accordance with the aims or goals or by the methods determined by others." From the point of view of this lecture the most significant aspect of this radical change of conditions is the wide gap between the ethics of personal behavior and those of representative behavior.

大ざっぱに言えば、他の人に何かを任されそれを担うときに発生する責任であり、役割の担い手としての責任として考えると分かりやすいだろう。協働の担い手になる限り、この代理的責任は発生するものであって、その意味では幅広く見られるものであるし、それは担い手の個人の責任(倫理)とは別のものである:

法的規制のおよぶ代理ないし公式の行動領域は、他の人々に代わって行う行動全体のうちのわずかな部分にすぎない。受託者、取締役、役員、あるいは従業員の行為は、いずれも公には代理行為であって個人的なものではない。そして、個人的行動の倫理は、偶然の一致を除いて、代理的行為の倫理と同じものではない。

ここでは倫理 (ethics) という言葉が道徳を指すものとして用いられている。

代理的責任は組織(協働)の基礎的条件である:

組織的行動のもつ代理的性格は、多数の特殊な道徳性の基礎的条件である。代理的性格は、このような行動に直接に影響するだけでなく、まったくの個人的行動にも影響をおよぼす。

The representative character of organized behavior is the basic condition of the numerous special moralities. It affects not only such behavior directly, but also strictly personal behavior.

●職員としての忠誠 (Personnel Loyalties)

代理的責任を基礎として生まれてくる組織の道徳性の中で、重要なのが職員としての忠誠であるとバーナードは言う:

代理的行動は、組織的協働における、時として精巧な道徳性の構造が構築される倫理的基礎である。これらの道徳的構造のなかで、おそらく最も浸透しており、また重要なものは、職員としての忠誠の構造である。外見的には、これらは個人的忠誠の様相をもつけれども、そうではない。この事実こそが、職員としての忠誠に特別な道徳的性格を与えるのである。

Representative behavior is the ethical ground upon which is erected a sometimes elaborate structure of moralities in organized cooperation. Perhaps the most pervasive and important of these moral structures is that of personnel loyalties. Superficially these appear as personal loyalties, but they are not, and it is this fact which gives them their special moral character.

この忠誠は、同じ組織に関わる上司や同僚達への関係から生まれてくるが、根底にあるのは相手の責任を認め支援することであるとバーナードは指摘する。

公式に組織された諸活動において、主要な職員の関係は上司と部下の関係であり、同じ階層の人々(同僚の労働者)の間の関係である。この関係には、それぞれの公的資格で行為する個々人への忠誠が含まれている。このような情況における忠誠とは、他の人たちの責任を認めること、誤っていると思われたり、私欲に反すると思われる手段によることも多いが、それによってこれらの諸責任が遂行される過程で他の人たちを支持しようとする欲望を意味する。自発的な建設的努力は主としてこのような忠誠から生まれてくるのであり、そしてそれらは組織の凝集性の非常に大きい部分を構成する。

>In formally organized activities the principal personnel relationships are those between superiors and subordinates and between those of coordinate status (fellow workmen). This relationship involves loyalties to individuals acting in their official capacities. Loyalty in this context means recognition of the responsibilities of others and the desire to support others in the discharge of those responsibilities, often by means thought to be erroneous and contrary to self-interest. Spontaneously constructive efforts largely grow out of such loyalties, and they constitute a very large part of the cohesiveness of organizations.

つまり、忠誠とは服従ではない。相手の責任を認め、互いに責任を担う存在として連帯しようとすることなのである。

なお、職員としての忠誠と、特定の個人への忠誠とを混同してはならないとバーナードは釘をさす:

さらに、職員としての忠誠は、個々人の平素の社会関係に含まれている個人的忠誠と混同されてはならない。一方の忠誠は他方の忠誠を含まないし、実際、それらは両立しえないのである。

Nor should personnel loyalty be confused with personal loyalty as involved in the ordinary social relations of individuals.

●法人としての責任 (Corporate Responsibility)

組織が法人という人格を与えられるものであるがゆえに、担うべき責任もまた発生する。

まず法人(=自然人以外で,法律上の権利義務の主体となることができるものであり、一定の目的の下に結合した人の集団あるいは財産についてその資格が認められる)について、それが重要な発明であるとバーナードは言う:

有限責任法人という社会的発明は、それがビジネスのためであれ、また他の諸目的のためであれ、私の意見では、発見の実用化、あるいは大量生産ないし大量配給を可能にするという点で、いかなる単一の科学的あるいは科学技術的発見よりも一層重要なものである。それはまた、経済的、社会的安定のための重要な要因でもある。しかし、法人は、人格という属性をもつものとして法的に権威づけられた仮構である。その根底にある具体的な有形の諸活動は、個々人ないし組織化された集団の活動である。しかしながら、個人的行動のための基礎として広く容認されている神話ないし仮構は、社会的実在となる。

The social invention of the limited liability corporation, whether for business or other purposes, is, in my view, more important than any single scientific or technological discovery in making possible either utilization of discoveries or especially mass production or mass distribution. It is also an important factor in economic and social stability. Yet the corporation, as something having the attributes of a personality, is a legally authorized fiction. The concrete physical activities underlying it are those of individuals or organized groups. But a myth or fiction accepted widely as a basis for individual behavior becomes a social reality.

法人は、実質的には組織であるが、法的に人格もつ(=権利義務の主体になれる)ものである。そのことから、権利義務の主体として引き受けるべき責任も発生するが、それは法的なものだけではなく、道徳面もあるとバーナードは指摘する。

法人は、その組織を除いては何もないのであるが、あたかも個人であるかのように、法律的のみならず一般的にも、特別の責任を負わされている。それゆえに、法人には道徳的行為あるいは不道徳的行為があるとされるのである。

法人は、法律的な主体であるだけでなく、道徳的な主体でもあるということである。法人の道徳的行動は、実体としては、職員などによる行為・決定として現実化・具体化するものではあるが、それは法人という仮構的実体に帰責されるものとして実現するものなのである。

法人が道徳的責任―単に法的な責任や特権だけでなく―を負わされていることは、受託者、役員、従業員の具体的行為においてのみ明確に認識することができる。彼らがしなければならない道徳的な意思決定は、しかしながら、個人的道徳性のたぐいのものでも、また公的な組織的道徳性のたぐいのものでもない。それは、責任や諸責務が、多くの点で個人的道徳性あるいは組織的道徳性のいずれにも関連をもたない仮構的実在のたぐいのものである。

The imputation of moral responsibility − not merely legal liability and privilege − can be realized only in the concrete action of trustees, officers, and employees. The moral decisions they must make, however, are not of the order of personal morality, nor of official organizational morality, but of a fictitious entity where responsibility and obligations are in many respects outside the responsibility of relevance either to individual or to organizational morality.

●組織への忠誠 (Organizational Loyalties)

多くの個人は、個人的関心ないし利益を超越する存在―組織―であると考えるものに対して責務を感じる。極端な場合には、この忠誠は「組織の利益のため」の大きい個人的犠牲をともなう。これが一般周知の事柄であるが、この種の忠誠は、大部分、公然とは認め難いものである。

Many individuals feel an obligation to what they conceive to be an entity − an organization − that transcends personal sacrifices "for the good of the organization" that become matters of public knowledge; but it is not sufficiently recognized to make superfluous some comments about it.

組織への忠誠が公然とは認め難いというバーナードの指摘は、日本で組織のために過労死する人間を見ているわれわれには、やや奇異に感じるものではあるが、その理由としてバーナードは次のように言う:

単純な批評家や皮肉家、組織忠誠のもつ高度の道徳的性格、それらの重要性、ならびにそれに伴う倫理的諸問題を認識しそこなう。これは、おそらく、主として以下の事情によるものであろう。
1:とくに宗教、教育、慈善、政治の分野では例外があるが、個々人は道徳に無関係な誘因によって組織と接触をもつことになる。忠誠がその後に展開するということは容易に認識されない。
2:どのような時でも、組織の構成員には、組織に対する忠誠をもっていない多くの人々が含まれている。
3:組織への忠誠は、見過ごされたりあるいは割引して考えられるような小集団(補助組織)における行為と主として結びついて具体的に現れる。

つまり、バーナードが指摘するのは、組織への忠誠とは、最終的な利益(報酬、見返り、誘因)を得るために個人的犠牲を払うという利害関係なのではなく、きわめて道徳的なものであるという点を強調したいわけである。利益のためではなく、道徳的・倫理的に組織への忠誠を抱き行動するものである、という点をクリアにしたいわけである。

●経済的責任 (Economic Responsibility)

経済的行動においても、道徳性が関与することをバーナードは指摘する。

われわれは経済的行動を考える場合に、計算、需要と供給、能率、利潤最大化などに即して考えがちであるために、経済的道徳性を考慮することを忘れがちである。それは、借金の義務を果たすべきだという単純な信念から、浪費あるいは非能率に対する道徳的嫌悪感にいたるまで、多くの形態をとって現れる。

経済的活動といえども、すべてが合理性、利潤最大化を原理として営まれるものではなく、そこには道徳的(価値的)なものが関与するということは、経済人類学の知見などからも明らかである。

●技術的および科学技術的責任 (Technical and Technological Responsibility)

一見したところ、何を指すのか分かりにくいものである。まずバーナードの説明を見ることにしよう:

道徳性のもう一つのタイプは、私が「技術的および科学技術的責任」と名付けるものである。この種の責任が、創造的な芸術家、一流演奏家、実験科学者、第一級の工具製作工のような職人などの仕事に含まれていると一般に推定されている。高い業績水準を守ることが、協働企業における人間関係の管理も含めて、多くの種類の技術的および科学技術的業務の共通的な特徴であるということは、それほど広く認識されていない。このようにビジネス活動における最も重要な要因の一つを認識しそこなうのは、多くの技術的な仕事において、業績水準を明確にすることが困難なためであろう。技術的でしかないと一般にみなされる多くの仕事において、道徳的要因が存在していることは、たとえば経済的な理由によって、意識的な政策として、水準を引き下げようとするときに明らかとなる。このような努力に対して、会計士、技師、管理者などはみな、不服従とか、指示に従おうとしない意識的な非協力の問題としてではなく、間違ったやり方で仕事をすることに対する道徳的反応として、抵抗するのである。

Another type of morality is that to which I give the title "Technical and Technological Responsibility." It is commonly assumed that this kind of responsibility is involved in the work of the creative artist, the first-class artistic performer, the experimental scientist, an artisan such as a first-class toolmaker. It is not so widely appreciated that the adherence to high standards of performance is a common characteristic of many kinds of technical and technological work, including the management of human relations in cooperative enterprises. This failure to recognize one of the most important factors in business operations is due perhaps to the difficulty of making explicit the standards of performance in much technical work. The reality of the moral factor in much work commonly regarded as merely technical is manifest when, as a matter of deliberate policy, the attempt is made to reduce standards, say, for economic reasons. The accountant, the engineer, the manager, all resist such efforts not as a matter of insubordination, conscious unwillingness to conform to prescription, but as moral reaction to doing thing wrongly.

ここで言われていることを端的に言い直すならば、職業人としての誇り、というのが一番適切であろうと思う。専門的な技能を駆使する人間は、与えられた課題に対して、自己にできる限りのことをやろうとする。それは損得を離れた、職業人としての誇りとして、倫理的な行動として行うのである、ということだ。何かの手段(経済的報酬等)のために自らの技能を駆使するのではなく、自分が納得するために自分の技能を駆使する態度が、ここで言う技術的および科学技術的責任であろう。

●法的責任 (Legal Responsibility)

法的責任といわれると、普通は、法の遵守の義務のことかと思ってしまうが、バーナードはそれ以上のものを指してこの言葉を使っている:

私が提示したい道徳性の最後の型は、私が「法的責任」と呼んでいるものである。これは、成文法、判例、法規に従おうとする性向よりはるかに多くのものを意味している。私はまた、公式組織の運営にとって重要な側面である内的で私的な性格をもつ諸規則をも含めている。たしかに、これらを守ることは、多くの場合、制裁あるは債務を回避する利益を反映するのであるが、私の語っている道徳性は、この利益を超越するものである。その基礎にあるものは、これに伴う種類と程度の秩序が、効果的な協働と特定責任の適正な配分にとって不可欠であるばかりでなく、公正と正義のためにも必須であるという深い信念、ならびに法的規制の蔑視は組織の統一性とモラールを破壊するものであるという深い信念である。したがって、特定要求の当面の利益、不利益、あるいは究極的な利益、不利益さえも無関係なのである。

The last type of morality I wish to present I have called "Legal Responsibility." By this I mean much more than a propensity to conform to statutes, court decisions, regulatory rules. I include also the rules of internal and private character that are important aspects of the operations of formal organizations. No doubt much conformity is a reflection of interest in avoiding sanctions or liabilities, but the morality I am speaking of transcends this interest. Its basis is the deep belief that the kind and degree of order involved is not only indispensable to effective cooperation and the proper distribution of specific responsibilities, but also is essential to equity and justice, and that the flouting of legal prescriptions is destructive of integrity and morale in an organization. Therefore, immediate or even ultimate advantage or disadvantage of any specific requirement is irrelevant.

つまり、特定の法、規範、ルールを遵守するということを超えて、そうした規範の存在理由(=秩序)の肯定と受容ということであろう。一定の秩序があってこそ協働がなりたつのであるという、秩序の尊重のようなもの(ただし、それは個別特定の秩序の形態への固執ではない)であろう。

以上の道徳性の列挙を終えて、再びバーナードは、これらの道徳性が複雑に錯綜したものであることを述べる。

明らかにそれら(ビジネス・モラル)は複雑であり、あるものは他のものから全く独立し、またあるものは密接に関連し、相互依存的であり、かつ、それらの大部分は評価できないものである。しかし、それらのあいだには多くの不一致と矛盾があり、それゆえに責任の対立は協働的努力の特徴的な情況であることは、あえて考えるまでもなく明らかである。

そこで、引き続いて責任の対立へと考察は進む。

責任の対立 (Conflicts of Responsibility)

まず最初に、責任(道徳)の対立は、それとは認められにくいことを指摘する:

異なる道徳性の組み合わせが同時に効力をもつとすれば、倫理的対立、つまりは忠誠や責任のジレンマが起こりそうなことは、経験が示し、あるいは注意深い思索や想像からでさえわかることである。このような事態は、たしかに実務の世界における意思決定の特徴である。しかし、その本質は、「パーソナリティの葛藤」、(経済的、政治的、あるいは威信の)「利害の対立」などと描写されるレッテルによっておおい隠されている。それはまた、対立する責任を果たそうとする苦闘を包み込んでいるプライバシーによっても覆い隠されている。

そこで、まず道徳的対立を論じるにあたって、あらかじめ留意するべき点を述べている。まず最初に、道徳が必ずしも明確に定式化されるものではないということである。:

第一は、効力をもつほとんどの道徳体系は、十戒あるいは山上の垂訓とは異なり、明確に定式化されたり、規約化されたりしてはいない、ということである。それらは、明白な行為(あるいは禁止)か明白な(すなわち、言葉で表現される)意思決定によって明らかとなるような「感情」ないしは「態度」である。このことは、道徳情況の理解には大きな困難が伴うことを示唆する重要な事実である。それは、……、道徳が多くの点でプライベートなものであると感じられ、公然と発表することが適切でないか、あるいはふさわしくない、という事実にもよっている。

この点は、これまでバーナードが繰り返し述べてきた道徳的なものの理解や感得の難しさを、別の観点から述べたものであると言える。言い方を変えれば、感情的な問題だとか個人的な問題としてしか捉えられていないもの(組織の本質には関係ないとみなされるようなもの)を、組織の道徳の問題として捉え・見出すところにバーナードの道徳性の議論のポイントがあるということにもなる。

つづいて、2種類の対立の区別が述べられる。

第二の一般的見解は、二種類の道徳的対立を区別することが重要である、ということである。私は、第一のものを、「客観的な対立ないし矛盾」、第二のものを「主観的な対立ないしジレンマ」と呼ぼう。第一の種類にあっては、行動の不一致が、それを「犯した」人々には認識されたり自覚されたりしないが、観察者にはそれが明白に認められる。……。このような客観的対立は、立派な道徳や宗教的確信をもっている個々人の行為を含めて、他の多くの情況において共通に観察される。それは、不誠実とか偽善を意味するのではない。

主観的なジレンマのほうは、個人が対立する規範のコンフリクトに自覚的に巻き込まれた情況であり、ある意味、わかりやすい。客観的の方は、本人の行動(本人は一貫性をもっていると思っている行動)が、複数の規範のコンフリクトを結果的に引き起こしてしまうという情況である。これは、本人の意思(あるいは本人の道徳的準則や倫理)の問題ではなく、行動の評価・帰責の問題であり、それゆえに問題をはらんだものとなることをバーナードは指摘する:

ビジネスにおける諸道徳の観点からみた、行動に対するきわめて難しい判定は、責任の対立ゆえに生じる。ビジネスのなかでは、このような対立はめったに認識されることもないし、あるいはそのようなものとして表現されることもないけれども、ほとんどあらゆる道徳問題は、事の大小を問わず、そのような対立から生じるのである。

The most crucial testing of behavior from the standpoint of morals in business comes from conflicts of responsibility. Almost every moral issue in matters both large and small arises from such conflicts, although in business they are most frequently not recognized, or at least not expressed as such.

この後、バーナードは自分の経験した実例を紹介しているのだが、その部分は省略する。

責任の対立を解決する方法 (Methods of Resolving Conflicts of Responsibility)

バーナードは、責任の対立の解決についての包括的な議論は難しいとしながらも、一般的な3つの技法についての説明を行う。3つの方法とは:

  1. 司法的方法 (the judicial method)
  2. 調停の方法 (reconciliation)
  3. 発明の方法 (invention of concrete solutions)

●司法的方法

その第一は、司法的方法と呼ぶことができよう。これは、基本的には責任の範囲を狭め、境界を定め、そうすることによって対立が起こるのを制限する方法である。

The first may be called the judicial method. This essentially is the process of narrowing and delimiting the areas of responsibilities, thus restricting the incidence of conflict.

●調停の方法

対立を解決する第二の方法は、調停の方法である。これは、基本的には責任の対立のように見え、対立しているといわれるものが、実は誤った仮定もしくは事実の無視にもとづく疑似的対立であると証明する方法である。これはさまざまの組織においてひんぱんに行われている方法であり、「ものの見方を変えること」としばしば表現されている。それはまた、しばしば管轄権の再規定を含むものである。

The second method of resolving conflict is that of reconciliation, the process of demonstrating that apparent or alleged conflicts of responsibility are pseudo-conflicts based on false assumptions or ignorance of the facts. This is a process continually in use in organizations; it is frequently expressed as "changing the point of view." It also frequently involves redefinition of jurisdictions.

●発明の方法

責任の対立を解決する第三の方法は、具体的解決を発明する方法と呼ぶことができよう。かくして、ある観点からは望ましいと思われる提案が、いくつかの点でいちじるしく有害な結果をもたらすように思われる場合には、その解決は、当初の望ましい目的を回避すべき有害な作用を伴うことなく、効果的に達成するような別の提案を発見する、あるいは案出することであろう。

The third method of resolving conflicts of responsibilities may be called that of the invention of concrete solutions. Thus, where a proposal which seems desirable from one standpoint appears to involve consequences that are seriously deleterious in some respects, the solution may be to discover or construct another proposal which will effectively accomplish the ends initially desired without involving the deleterious effects to be avoided.

最後の「具体的解決の発明」が、道徳の創造としてのリーダーシップであり、主著でも管理責任の中心におかれていたものである。この方法は、それを行う人間に高い技能と資質を要求するのである(『組織と管理』の「リーダーシップの本質」も参照のこと):

代替手段の発明の必要性が、卓越した能力をもつ人々を確保しようとする努力の主要な理由の一つである。なぜならば、代替的な解決法は、想像力、するどい識別力、また不屈の精神を必要とするからである。活動的な業務に従事する個々人が道徳的に崩壊するのは、多くの場合、かれらが道徳的ジレンマを含む地位に配置され、発明や創出によってそれらを解決するに足る十分な能力をもちあわせていないからである。

The need for invention of alternative means is one of the chief reasons for the effort to secure people of great ability, for alternative solutions call for imagination, fine discrimination, and persistence. Many of the moral collapses of individuals in active affairs result from their being placed in positions involving moral dilemmas which they have insufficient ability to resolve by invention and construction.

結論:この議論のもつ意義 (Conclusion: The Significance of The Discussion)

この論文の結論部分として、議論の要約ではなく、「現代の諸問題に対してこの議論のもつ意義あるいは関連性について若干の所見を述べることのほうが、より有効であろうと私は考える」と述べ、バーナードは道徳性に関する私見を述べている。

まず最初に、こうしたビシネスでの道徳性が問題となってくるのも、社会における道徳的行動の規模と複雑さが増大したことによると述べる(ただし、多くの対立が起こるにも関わらず社会の秩序が保たれていることに注意を喚起する)。その理由として、社会における分業(専門化)の高度化をバーナードは指摘する:

道徳的行動の規模と複雑さがこのように増大したのは、第一に、増大した専門化、とりわけ経済的諸活動や実利主義的目的のために用いられる機械や器具における増大した専門化の結果である。現に必要とされる技術的知識と専門化された経験から生じる技術的スキルに対してはますます注意が払われている。これらの諸活動に含まれる道徳的要因は、ほとんどまったく無視されているように思われる。しかしながら、専門化された諸活動の重荷が果たされるに際しての信頼性と、われわれがそれを担う人々に帰する信頼性とは、現代文明の最も基本的な側面をなすものである。

このように、高度化が進行する中で、道徳的要因に注意が払われていないことをバーナードは批判する。「事実、われわれの最も重要な問題は、技術的、科学的な問題―われわれの教育と訓練の過程がほとんどそこに向けられている―よりも、むしろ関連する道徳的諸問題の理解を伝えることであると私には思われる」。なぜ道徳的諸問題を理解することが重要なのか? それを次のように言う:

このことは、現代のきわめて重要な問題の一つに関して一層の重要性を帯びてくる。すなわち、イニシアティブと実際に責任ある行動とに欠くことのできない分権化と自律化の度合いを確保しながら、どのようにして諸活動の巨大なシステムに欠くべからざる程度の調整を確保するかという問題である。信頼できる行動をなしえない人々に局地的な意思決定を委ねられないことはほとんど明らかである。とはいうものの、もしそうできなければ、広大な領域にわたって適切な行動を確保するという、集中化された権限に課せられる負担は、事実上、遂行不能な負担である。統制の範囲は非常に限られているので、専門的な訓練方法と適切な観点の教導にもかかわらず、われわれが広く「責任感」と呼ぶ道徳的感覚の発達―それが教え込まれたものであろうと自発的なものであろうと―がなければ権限は十分に作用することができないであろう。責任は恣意的に委任できないのであり、それゆえに、責任が進んで受入れられない限り、高度に有効な自律的行動は確保しえないのである。そのように受入れられるとき、効果的な自律的行動の可能性が実現されるのである。

This matter takes on increasing importance with respect to one of the crucial problems of our times: how to secure the essential degree of coordination of a vast system of activities while securing the degree of decentralization and autonomy essential to initiative and, indeed, to responsible behavior. It is almost obvious that those who are not capable of dependable behavior cannot be entrusted with making of local decisions. Yet, if this cannot be done the burden placed upon centralized authority for securing appropriate behavior over vast areas is in fact an impossible one. The span of control is so limited that despite methods of specialized training and the inculcation of the appropriate points of view authority could not sufficiently operate if it were not for the development, whether inculcated or spontaneous, of the moral sense to which we broadly given the name "sense of responsibility." Responsibility cannot be arbitrarily delegated and, therefore, a high degree of effective autonomous behavior cannot be secured except responsibility is freely accepted. When so accepted the possibility of effective autonomous behavior is realized.

この部分で述べられていることこそ、バーナードがビジネス・モラルについて論じ、それを通してうったえたかったことだと言えるだろう。中央的集権的統制が不可能な巨大な複合システムとしての協働システムがうまく機能するためには、道徳が重要なのである。個々人の自律的(責任的)行動のシステムとしての組織が存立し存続するために、道徳的要因の理解と道徳創造が鍵にあるわけである。

道徳性に関するこの議論の別の意義としてバーナードが言うのは、道徳的な諸問題に関してコミュニケーションし共有し理解を深めることの重要性である:

この主題の強調に値する別の側面は、それが専門化された組織における内部からの、そして外部へのコミュニケーションの重要性を指摘している。ということである。いくたびとなく私にとって明らかになったことであるが、一般の人々の誤解の原因は、専門化された諸活動の中に含まれる道徳的要素への正しい認識が欠如していること、これらの道徳的要素がなんであるかを部外者に伝えることが極度に困難であることに主として依存している。

組織の中にいる人には、多かれ少なかれ道徳性が「感じられ」ているだろうが、そのことが、部外者にはうまく伝わらないし、それゆえに理解もされていない。そのことが誤解を生んでいる。そうした情況の改善の試みとして、この論文があるということである。

以上のようなことを述べた最後に、大学における研究への期待を語って、バーナードはこの論文の最後とする:

この主題を考察する誰もが、われわれは少なからず無知の状態にいるということに思い至るにちがいない。この世の仕事を行う人々の直面する道徳的諸問題の数および特徴がなんであるかは、たとえ大ざっぱでも容易にはわからないものである。この点で、大学が将来大きな機会をもつであろうと私は考える。なぜならば、われわれの組織のなかにいる人々が、自らの直面する道徳的諸問題の性質を適切に研究するに十分なほど精通し、客観的でありうるかどうかは、私には疑問だからである。……それにもかかわらず、ビジネス諸活動の本質に関して深く省察すれば、必然的にこれがまさに必要とされる研究であることがわかるであろう。

It must occur to anyone who considers this subject that we are in a state of considerable ignorance. It simply is not known to any wide degree what are the number and the character of the moral problems that are faced by those who do the world's work. It is here, I think, that the universities is the future will have a great opportunity, for I doubt if those within our organizations can be sufficiently adept and objective to give appropriate study to the nature of the moral problems which they face.... Nevertheless I think a deep reflection upon the nature of business activities will indicate that this is inevitably the kind of investigation that is required.

以上でこの論文は終了。


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