組織ルーティン論の直示的側面について
〜なぜ”直示的 ostensive”なのか?〜

The ostensive aspect of organizational routines

福井県立大学・経済学部 田中求之

2019_08_14版


このページについて

このページは「福井県立大学経済経営研究」第40号(2019年3月)に掲載された研究ノートの原稿である(校正時の修正は反映した)。組織ルーティン論のオントロジーを、特に ostensive aspect を措定したことに注目して論じたものである。組織ルーティン論を論じた内外の論考において、ルーティンの2側面の一つを「ostensive」としたことの意義を軽視していると感じられるものが散見されるため、あえて細かなことに拘って解釈してみたものである。


1. はじめに

フェルドマンとペントランドの2003年の論文 "Reconceptualizing Organizational Routines as Source of Flexibility and Change"(以下FP2003と略記)によって、組織ルーティンが、実践を通じて内生的に変化する動的なものであることが示されて以来、ルーティンが従来の固定的・定常的な作業としてではなく、固有の構造とダイナミクス(routine dyanmics)を持ったものとして研究されるようになってきている。組織ルーティンとして捉えられている業務が、一面において反復される定型性をもった定常的なものでありながら、他方で各メンバーの業務遂行を通じて動的に変化しうる潜在性を孕んだものとして捉えられ、組織ルーティンの定常性と変化についての実証研究も多くなされるようになってきた。本稿では、上記のフェルドマン&ペントランドの論文を中心に、他の論文も参考にしつつ、彼らの提唱する組織ルーティン論(以下では動的ルーティン論と呼ぶ)の理論的なフレームワークを確認するものであるが、中でも彼らが組織ルーティンの二重性の一側面とした直示的側面(ostensive aspect)に注目して考察を行う。

動的ルーティン論は、組織ルーティンを動的に変化を引き起こしうる内部構造を持ったものとしてとらえ、それを直示的側面(ostensive aspect)と遂行的側面(performative aspect)の二重性として定式化する。直示的側面は、組織ルーティンの観念的、規範的な側面で、概念としての組織ルーティンを指す。特定のルーティンを組織のメンバーがどのように理解しているかという抽象的な側面である。一方の遂行的側面は、特定のメンバーによって特定の場所と時間に遂行される具体的な行為としてのルーティンを指す。組織ルーティンが概念的同一性と実践的多様性の二重性として一体化された構造になっているというわけである。二つの側面が相互構成的(mutually constitutive)、再帰的(reflexive)に関係していることによって、組織ルーティンは定常性と可変性をもつとされる。

このように、彼らの動的ルーティン論は、直示的側面と遂行的側面とが二重性として関係しあうところに、固有のダイナミクスを見ているわけであるが、その関係の仕方については、以下のように述べている。

直示的側面は、遂行的側面に対して、誘導(guiding)、説明(accounting)、参照(referring)を提供するものとして働く。組織ルーティンを遂行しているメンバーに、自分が何をするかを方向付け、自分が何をしているかを自他に呈示し、自分のしていることを理解するために参照し名指せるようにする、これが直示的側面の働きである。

遂行的側面は、直示的側面に対して、顕在化(creation)、維持(maintenace)、修正(modification)として作用する。組織ルーティンをメンバーが遂行することによって、その特定のルーティンを具体的な諸行為として現実化し、そのルーティンがルーティンとして再認されることで反復されることを維持し、時にルーティンとして行われる行為に修正を加える、これが遂行的側面の働きである。

各メンバーは、自分の直示的側面(主観的理解)に基づいて業務を行うわけだが、この時、直示的側面が具体的な行動、遂行的側面を、導き、方向づけはするが、規定するわけではないことにポイントがある。特定の状況において遂行される行為は、その状況に応じた状況依存的=偶発的(contingent)なものとして遂行されるしかなく、その状況への応答において行為者の行為主体性(agency)が発揮されることになる。それゆえに、あるルーティンとしての一定のまとまりをなしつつも、具体的な行為には様々な変異が生じ、場合によっては、それが新しい業務遂行のやり方として定着したり、業務そのものの捉え方、考え方に変化をもたらすことになるのである。

一般的な規則やルールが多様な行為をもたらす、そして時として具体的な行為の結果がルールや規則の変更を生じさせる、という議論であれば、とりたてて新しい議論でもない。フェルドマンとペントランドの議論の新しさ、可能性の中心は、一つのルーティンが直示的と遂行的という二つの側面の二重性によって成り立っていること、つまり直示的部分と遂行的部分という二つに分かれた部分が相互に関係し合う二元論(dualism)ではなく、二重性(duality)として一体となっているとした点にある。ある組織ルーティンを遂行するそのこと自体に、直示的側面と遂行的側面の相互構成的な関連が作用しているのである。

このような二重の側面をもつものとして組織ルーティンを定式化したわけだが、本稿では、組織ルーティンの概念的な側面を直示的 ostensive という術語で定式化した点に焦点を絞って考察を行う。この語は彼らの議論をとりあげる際には論者によって訳語は異なっており、「明示的」と訳されることが多いようだが、本稿では「直示的」という訳語を用いる(1)。この ostensive は、通常は、言葉の名前や意味などを具体的な実例を指し示して定義することである直示的定義(ostensive definition)という語句として用いられる用語である。ミカンを指差して「これはミカンです」と説明する(教える)、これがミカンの直示的定義である。組織ルーティンの抽象的、概念的な側面が、なぜ実例を指し示す「直示的」とされるのか? この「奇妙さ」には何が込められているのか(2)。この謎を導きの糸として、以下、この術語の導入に関する彼らの説明を起点として、直示的という術語が動的ルーティン論においてもつ意義を確認する。それを通して、彼らが相互構成的で再帰的な関係にある二つの側面の二重性としたことが、より明確に理解されるようになるだろう。


2. 動的ルーティン論の直示的側面と遂行的側面

まず、彼らが ostensive と performative という用語の導入について述べていることを確認しておく。まず FP2003 では、以下のように述べられている。

我々はラトゥール(Latour)が権力の分析において提示した用語を採用する。その分析において、彼は権力には原理的な存在と実践的な存在の両者があることを指摘している。彼は前者を権力の直示的側面と呼び、後者を遂行的側面と呼んでいる。我々は、組織ルーティンもまた、直示的側面と遂行的側面から成ると提案する。この両側面としてとらえることは、構造化理論に見出される、構造とエージェンシーの概念に強い関連を持つものである。我々が(直示的と遂行的という)特別な術語を受け入れるのは、組織ルーティンの領域においては、構造とエージェンシーは、現象のもつ集団的な反復、相互依存的な性質に強く影響されているからである。(p.100)

このように、ラトゥールの権力論である "The powers of association" をふまえたものとして導入されている。彼らは、構造化理論の構造とエージェンシーの相互構成的な二重性を踏まえながら、組織ルーティンの相互依存的な集団的反復という性質を取り込める術語として、つまり複数の行為主体の関与と関係性に焦点を当てられる術語として、直示的/遂行的用いることが宣言されている。

彼らの 2005年の "Organizational Routines as a Unit of Analysis" においても、ostensive と performative の導入に関して同じような主張がなされているが、やや強調点が異なったものとなっている。そこにおいては以下のように述べられている。

(構造化理論の構造とエージェンシーや、ブルデューの客観的/主観的の区別などあるが)こうした区別は役に立つものではあるが、我々はラトゥールが用いた術語を受け入れた。なぜなら、その術語は、集団的な実践遂行と、関与者と観察者の両方がそうした実践遂行から直示的側面を作ることができるということの両方に焦点を当てたものになっているからだ。ラトゥールの用語は、実証的なフィールド研究で観察される組織ルーティンの生成的な特性、それを説明するために必要とされる組織ルーティンの側面をもっとも的確に表現している。(p.795)

ostensive という術語は、FP2003において初めて取り上げられたものではない。これに先立つフェルドマンの2000年の "Organizational Routines as a Source of Continuous Change" において、FP2003同様、ラトゥールの権力論をふまえたものとして言及されている。この論文は、ラトゥールへの言及に限らず、組織ルーティンの遂行的側面、特に行為者の行為主体性に注目することで、ルーティンが内在的な変化をもたらすものであることを論じたもので、FP2003の先駆けと位置付けられる論文である。この論文では、ルーティンを実行する各行為者が、自身の置かれた状況において、自分なりに意識的・効果的(efforftul)に遂行しようとすることを通じて、ルーティンが変化していくことを明らかにし、ルーティンの遂行的モデルを提唱している。ルーティンが変化するのは、外的な要因によるだけではなく、行為者それぞれの行為主体性、その場での当事者として裁量が、重要な役割を果たす。「ルーティンに引き込まれている人々は、常に、自分たちにとってもっと良いと思えるような方法で仕事をこなせるようにルーティンを変えようとしている」(p.620)として、その相互反応を通じてルーティンが変わっていくこともあるとした。行為主体性を組み込んだ遂行的モデルによって、ルーティンは潜在的に内生的変化を引き起こすような動的な構造をもつものとして提示されている。FP2003の動的ルーティン論の骨格が示された論文であるといって良い。

この論文において、フェルドマンは ostensive と performative という術語について次のように述べている。

ラトゥールの ostensive と performative という用語の使用は、外在的(etic)視点からのアプローチと内在的(emic)視点からのアプローチがもたらす視点の違いのいくつかを捉えている。ラトゥールはこの用語を権力を記述するのに用いたが、この概念はルーティンに対しても同じようにあてはまる。ある概念の直示的な定義(で示されるもの)とは原理的に存在するものである。それは研究される際の対象化(客体化)のプロセスを通じて作られるものである。遂行的な定義(で示されるもの)とは、実践を通じて作られるものである。(p.622)

このように、集団的行為の現象の概念のうち、外部から観察され措定されるもの(学者が措定するような)が直示的定義、行為の実践を通じて作られるもの(当事者たちが措定するもの)が遂行的定義として、定義を行う視点の違いに関連づけられている。この論文では、特に ostensive の方はルーティンの二重性を指すものとしては用いられていない(行為とアイデア/プランの二重性が中心)が、のちの FP2003 での扱いへとつながるわけである。

以上のことを踏まえるならば、直示的側面と遂行的側面は、ラトゥールの権力論における用語を踏まえ、外在的=反省的に措定される原理的な側面が直示的側面、実践を通じて当事者たちが内在的に形成するものが遂行的側面と位置付けられたということになる。

では、ラトゥールは ostensive をどのように用いていたのか。


3. ラトゥールの直示的定義と遂行的定義

ラトゥールは、「直示的」と「遂行的」という術語を、どのように用いているのか。そのことを確認するために、ラトゥールの "The powers of association" における ostensive と parformative について確認しておくことにする。

この論文においてラトゥールは、権力の従来の捉え方を批判している。権力を一つのモノであるかのように捉え、権力を持つ者が他の人々を服従させるという権力の従来の捉え方ではなく、人々がある人の影響を受容し自らの行動前提として行為していくことの繋がりが権力と呼ばれる現象だとする。権力の拡散モデル(力/権力が人々の間に拡散する)のではなく、権力の翻訳モデル(人々の関わり合いを通して影響が変異されながら伝搬されていく)への転換を主張している。

何か同質的なモノのような権力というものがあるのではなく、あくまでも個々具体的な人々の動的な結びつきがあるだけだという権力の議論から、権力の概念の批判は社会の概念の批判を必然的に伴うとして、ラトゥールは社会というものの捉え方の転換へと論を進めている。ostensive と performative は、この社会をめぐる議論の中で用いられているのである。

端的に要約すれば、彼は、社会をすでに出来上がった人々を拘束しているモノのようなものとして捉えるのではなく、その都度その場において人々の結びつきを通じて生み出され続けているものとして捉えることを提唱する。社会の発祥(origin)は、過去のできごとなのではなく、今も常に生じている出来事なのだ。社会は過去に生じて出来上がってしまったモノではなく、今ここでその都度生み出されているモノなのである。その議論において彼は、社会的つながりの捉え方を、直示的定義から遂行的定義へと転換せよと論じる。「我々は、社会の直示的定義から、遂行的定義へと移行しなければならない」(p.272)。このように、ラトゥールの議論においては、直示的定義と遂行的定義は、同一現象の二重性として併置されるものではなく、前者から後者への論点・視点の転換を呼びかけるものとなっている。いうなれば、これまでの社会の捉え方は直示的であり、そうではない遂行的な捉え方へと移行しなければならないとされる。

では、彼が社会の直示的定義とするものはどのようなものなのか。彼は社会の直示的定義と遂行的定義の原理を以下のように対比している(pp.272-273)。

直示的に定義された社会とは「理論的には(in principle)、社会における生活に典型的で、社会のつながりと進化を説明できるような属性を発見することができる。しかし、実践的には(in practice)、それらを見つけ出すことは難しい」。またこのような社会においては、行為者(actor)は、社会という全体の部分であり、部分としての制限を受けている。そして、研究者は、行為者の提供する断片的な意見、信念、行動などを選り分けることで、「社会という全体の絵を描く」とされる。

一方、遂行的に定義された社会とは、「社会における生活に典型な属性のリストを定義することは原理的には不可能である。しかし実践的・実際的には、それをすることが可能である」。そして、行為者は「実践において、社会が何であり、社会が何からできており、何が全体で何が部分かを、自分たち自身と他者のために定義する」。研究者もまた、そのような社会の内部にいるものとして「他の行為者と同じ問い(=社会の定義)を掲げるが、社会は何であるかについての彼ら自身の定義を強化する、異なった実践的な方法を見つける」。

つまり直示的定義とは、社会という全体をモノのように捉えることであり、そのモノ=対象は、様々な断片的(部分的)な現象のデータを正しい方法で分析すれば見つけられるはずだと捉えるものである。現象の背後に隠されている社会という一つの全体図(picture)が直示的定義の対象としての社会である。一方で、遂行的定義とは、社会をその都度の個々の実践の中で当事者たちが生み出し続けているものとして捉えるものであり、言うなれば社会というモノではなく社会化という活動しかないという視点である。直示的定義から遂行的定義への移行とは、社会というモノがあって我々の社会的な生活がある(原因としての社会)のではなく、我々の日常生活の中で社会が生み出され営まれている(効果としての社会)という立場への移行である。

ラトゥールは社会というものを否定しているのではない。人々の日常的な実践の結びつきが、その都度の彼らにとっての社会という(呼びたくなる)まとまりを形成する。社会の起源の問題は現在の問題であるというのはそういうことだ。そして、結びつきをとおしてまとまりを形成する運動を、彼は社会を定義する努力とみなす。人々は日々の実践的な結びつきの中で自身の社会を定義しようとしている。社会の遂行的定義とは、日々の実践の遂行が社会を定義する活動であるという意味でもある。

社会は、皆はわかっておらず、社会学者によって発見される直示的定義によって指し示されるようなものではない。皆の、社会を定義しようとする努力を通じて、遂行されるものである。(p.273)

社会というものは、そこにあるモノではない。自らを定義・再定義しながらなされる人々の実践や非人間的なリソースも含めた諸作動の結びつき(彼はそれを associations と呼び、社会学の対象はこの associations であるとする)が生成し、それが社会と呼ばれるような軌跡を描く。そのような視点への移動を呼びかけたのが、ラトゥールのこの論文である。

さて、このようにラトゥールの論文を検討すると、FP2003などでラトゥールの議論として述べられていること(=直示的/遂行的の用語の導入理由として述べられていること)との食い違いが明らかになる。フェルドマンとペントランドは、直示的と遂行的は権力の二つの側面だとしていたが、ラトゥールの論文においては、社会の捉え方の二つの立場なのであり、また両者は並存するのではなく、従来の捉え方である直示的定義から、新たな遂行的定義への移行を呼びかけたものになっている。つまり、直示的定義とは、否定されるべき定義なのだが、動的ルーティン論ではこの彼の主張はまったく無視されている。直示的=原理的・外在的、遂行的=実践的・内在的という対比だけを取り出して、それをルーティンの二つの側面に割り振っているのである。

もちろん、ラトゥールが問題にしたのは社会であり、動的ルーティン論は組織ルーティンであるという対象の違いが決定的だと考えることができる。組織ルーティンは、あくまで組織のメンバーとしてあらかじめ特定の社会的関係に関与している者が、業務の遂行として行う集団的行為である。自由な活動を行なっている人々の間に形成される自生的集団的行為ではない。言うなれば、組織というモノが行為の枠組みとして否定し難く存在し、影響を与えている状況の中での行為である。ルーティン自体も、定型業務として「同じもの」が繰り返される、ある種のモノのようなものとしてある。それゆえに、社会に関するラトゥールの議論を、そのままの形で適用することはできない。

では、なぜフェルドマンたちは ostensive を引きついだのか? この点をラトゥールの ostensive についての議論から解き明かすとどうなるだろうか? 鍵となるのは定義という行為だ。

先に見たラトゥールの権力論においては、なぜ ostensive という術語を用いるのかについての説明はない。だが、彼の議論を追うことで、彼が直示的という術語を用いた理由を推測することができる。つまり、彼が批判する社会の捉え方とは、対象を社会というモノとして措定すること、つまり、何らかの属性や本質を探り出してきて「これが社会だ」と規定することである。何かを「これが~である」と示すことが直示的定義の本来の意味である。「これはりんごである」「この色は赤である」等々、これは~と指差す動作によって対象が示され措定される。端的にいうならば、直示的定義は対象をモノ化する/モノとして自明視させてしまう。必ずしも物理的な存在でなくとも、ある現象や行為関係が名指されることで、その存在が明らかになり、人々が受け入れていくことはよくある。最近であれば、パワハラという言葉が使われ、特定のハラスメントが「それはパワハラだ」と直示的に指示し問題化できるようになったことなどをあげることができよう。このように、なにかを「それは~だ」と名指し示すことは、言葉が現実を構成していく働きとしてある。だが、そのように構成された非物質的な対象(概念的対象)が、我々の認識(現実)から見えなくするものを生み出すこともある。ラトゥールは、通常の社会という概念が、我々の諸実践のリアルを捉える際の障害としてあると考えたからこそ、社会は直示的に措定できるものではないとしたのであろう。諸実践の背後にあたかも社会というモノがあるかのように考えること、社会を指し示すことができるものとして捉えることを拒否した。それゆえに、社会の直示的定義を批判したわけである。

しかしながら、社会を定義する人々の実践という活動とは、その諸活動を「何か」として定義しようとする活動である。「我々のこの活動、このつながりが、社会だ」とすることは、個々の具体的な活動を社会として直示的に定義しようとする活動に他ならない。たしかに、個々の実践の具体性を消去して一般化し、あらかじめ想定されている「社会」の概念(ラトゥールのいう原理的に想定された社会)に包摂することではない。しかし、直示的に定義されてしまっているモノとしての社会は存在しない(存在を認めない)としても、具体において社会を定義することそのものは、直示的に社会の定義を行うことであり、その定義の際には、定義として集約し抽象化する方向を導くものとして、そしてその結果として描かれるものとして、たとえ内包を欠いているにせよ「社会」が想定されることになる。ラトゥールの社会の直示的定義の批判は、定義された社会がモノのように固定化し言うなれば物象化することを批判したものだとしても、定義という活動そのものがもつ「モノ化」=分節の運動自体は批判さえないのではないか。その都度直示的に定義することを方向付け、その定義づけを通して現れてくる「社会」なるものは、社会の遂行的定義によって完全に否定されるものではありえない。このように考えるならば、動的ルーティン論において、ラトゥールの「直示的」を導入したのは、直示的定義の持つモノ化=分節の働きを、組織ルーティンというまとまりを導くものとして導入した、と考えることもできる。多様性や変異をみせる人々の実践(行為主体性の発揮)が、同じ組織ルーティンとしてのまとまりを形成すること、あるいはルーティンとして同じものであろうとする方向性をもつ、そのことを実践に含まれるルーティンを直示的に定義する活動だと解すれば、ラトゥールの社会の議論につなげることができる。先に引用したラトゥールの言葉を踏まえていうならば、組織ルーティンとは、皆それぞれの、そのルーティンを定義しようとする努力を通じて、遂行されるものである。

ラトゥールを参照しながらも、直示的側面を、組織ルーティンの二重性として、「直示的」側面として残したことが動的ルーティン論の本質にどのようにかかわるのか? この点を考察するために、我々は直示的、特にラトゥールの議論の検討を通じて浮かび上がってきた直示的定義についての理解を深めるための補助線として、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』(以下、『探究』と略記)における直示的定義の議論を参照することにする。


4. ウィトゲンシュタインの直示的定義と言語ゲーム

動的ルーティン論の直示的側面をめぐる我々の議論を、ウィトゲンシュタインの『探究』の考察へと進めるのは、それが直示的定義に関する考察を展開したものとして有名であることもあるが、動的ルーティン論においても『探究』が参照されているからでもある。もっとも、FP2003では、規則は行為を一意的に決定せず多様な実践を可能にする点においてウィトゲンシュタインの規則のパラドクスの議論に触れられ(3)、また、ルーティンが実践的・具体的には多様でありながら「同じもの」としてあることを述べる際に『探究』の家族的類似性を引き合いに出している(この点は後で取り上げる)。しかし、ostensive の由来や説明にウィトゲンシュタインの名が出てくることはない。しかし、フェルドマンが共著者の一人でもある "Toward a theory of Coordinating" (Jazabkowski, Lê, Feldman 2012)において、ostensive についてラトゥールに並んでウィトゲンシュタインの名前が登場する。

直示的という概念は、ウィトゲンシュタインとラトゥールの著作から引きついだものである。彼らは、我々が参照することができ、それ自体の概念的な実在をもつようになることが可能な、構成された"事物"の定義として直示的定義を論じている(p.910)

この論文は、組織ルーティンを論じたものではなく、動的ルーティン論のフレームワークを組織的活動を通じて調整メカニズム(coordinating mechanisms)が形成されていくプロセスに適用したものである。そのためであろうが、抽象的な概念的存在としての対象を定義する点に焦点が当てられている。この点では、先に見た原理的(直示的)と実践的(遂行的)の対比の枠組みでの直示という術語の引き継ぎ方とは異なっており、直示的定義の定義に焦点を当てた点で、先に検討したラトゥールの議論にそったものになっているとも言えよう。しかしながら、ウィトゲンシュタインから取ったとは言いながら、彼のどのような論点を踏まえたものかは述べられていない。そこで、『探究』の直示的定義に関する議論を中心に確認していく。

ウィトゲンシュタインの『探究』は、言語に関して徹底的な批判・考察を行ったものである。我々の言語活動を言語ゲームとして捉え、言葉の意味とは言語ゲームでのその言葉の使用法(機能)であると論じることで、それまでの言語観(それには彼自身の『論理哲学論考』も含まれる)に徹底的な批判を加えたものである。

『探究』の中で、直示的定義に直接焦点が当てられているのは、子供に言葉を教えることをめぐっての議論である。具体的な何かを指差してその名を教える、たとえば「これはミカンである」といった指差す定義=直示的定義は、一見すると、日常的でありふれた言葉を教える場面のように思われる。実際、言葉を覚え始めた子供に、「これはなに?」と尋ねられて、「これはミカン」と名前を教えることは、誰もが経験する、きわめてありふれたことである。言葉を学ぶとは、このように直示的定義によって身近な物の名を覚えて語彙を増やしていきながら身に着けること(言葉と世界の事物の対応関係を学ぶこと)だと考えられなくもない。しかし、この直示的定義で言葉というものを最初から教えることはできない、と彼は論じる。直示的定義によって「これはリンゴである」と言われた子供が、それを、教える側が想定するように受け取るには、「これ」が指差しているものが、赤い色でもなく、丸い形のことでもなく、リンゴという果物の名前であることが理解されていなければならない。だが、指差す定義は、その定義・説明だけからは、「これ」が何を(どの側面を)指しているのかについての不確定性を除去することはできない。

§28(部分):人の名前を指差して説明している時に、それが色の名前であるとか、人種の名前であるとか、方角の名前だとか思われてしまうこともあるかもしれない。つまり、直示的定義は、どんな場合でも、こんなふうにもあんなふうにも解釈される可能性があるわけだ。(4)

さらに、リンゴの場合は、そのリンゴという名前が、指差したモノの固有の名前ではなく、リンゴという果物の名前であること、つまり、指差されたものが、リンゴという果物の一つの例、範例として示されていることがわからなければならない。誤解を避けるために「これはリンゴという果物」と説明する場合でも、これがわかるためにはすでに「果物」がわかっていなければならない。このように、直示的定義が通用するには、「これ」という指示によって何か具体的なモノを取り上げ、それが一例として示されている一般名やカテゴリーが答えられていることが了解できるだけの言語行為がすでに身についていなければならない。

§30(部分):直示的定義が単語の使い方-意味-を説明するのは、その単語が言語でおよそどのような役割を果たしているのかが、すでにはっきりしているときなのである。

このように、直示的定義には、具体物を例として種類の名を尋ねるという言語行為の習得が必要であり、また根本における不確定性を排除できない、というのがウィトゲンシュタインの直示的定義に関する論点である。このゆえに、彼は、言葉を教える場面では、直示的定義ではなく、直示的教示(ostensive teaching)、指さされて教えられた名前を、言語ゲームでどのように用いるかを教えること、が先行するという議論を展開する。我々の日常生活において、何かのモノの名前が発せられる場面では、そのモノの名が、ただ単に発せられることはない。かならず何らかの目的を持って発せられる。「リンゴ!」と親に言われた子供が、台所からミカンでもなく梨でもなくリンゴを持ってくることができるようになる、それが彼のいう言葉の使用としての意味を理解するということである。特定の動作のために言葉がどのように使用されるかということの学習(「リンゴ」と言われたらコレを持ってこい)=直示的教示を通して言語をマスターしたのちに、初めて、目的なしに何かの名前を問い、一般名を学ぶという直示的定義という言語行為が可能になる。その際でも、直示的定義がはらむ根本的な不確定性は排除できないが、その不確定性は、その言葉を日常生活で正しく用いることができるかどうかで判断され、確定されていくことになるのである(5)。

§5(部分):言語を教えるということは、説明することではなく、訓練することである。

§23(部分):「言語ゲーム」という言葉で強調したいのは、言葉を話すことも活動の一部、または生活形式の一部だということである。

以上の言葉を教えるという場面での直示的定義をめぐる議論は、言葉の意味とは言葉の指示する対象の像であるとする言語観への批判になっている。従来の言語観に従えば、対象と名の結びつきを学ぶことが(直示的定義による言語の学習)が言語習得の基本ということになるが、直示的教示による使用法の習得が先行しなければ直示的定義そのものが成り立たない以上、それを基本とする言語理解は間違っており、我々の日常生活に埋め込まれた言語ゲームという行為が言語なのだというわけである。

このように、ウィトゲンシュタインは言葉を教えるという場面での直示的定義の問題を指摘するが、直示的定義という言語行為そのものを否定したわけではない。彼は言語を言語ゲームだとするが、その言語ゲーム、あるいはゲームというもの、それは直示的定義でしか理解できないものだとする。言語やゲームとされるものは様々なものがあるが、それは「これは言語ゲームである」「これはゲームである」という形でしか措定できないものだとする。彼は、ゲームと呼ばれるものの全てに共通する本質的な属性は存在せず、それぞれが緩やかな類似性のつながりで一体をなしているのであって、その都度、なにかを「これはゲームだ」だと挙げていく以外に定義のしようがないとするのである。これが家族的類似性の議論である。

FP2003では、様々に実践される組織ルーティンが「同じ」ルーティンとして同定可能にしているものとして家族的類似性を論じている。そこで、引き続いて、ウィトゲンシュタインの家族的類似性について検討しておくことにする。

§65(部分):だが、言語と呼ばれるものすべてに共通する「なにか」を指摘するかわりに、私はこう言いたいのだ。それらの現象にはなにひとつとして共通するものはない。すべてにたいしておなじ言葉を使えるような共通項はない。-けれども、それらの現象は、じつに様々なやり方で、おたがい親戚関係にある。この親戚関係ゆえに、またこれらの親戚関係ゆえに、私たちは、それらの現象をすべて「言語」と呼んでいるのだ。

§66(部分):(ゲームについて)よく見てみると、すべてに共通するようなものは見えないけれど、類似点や親戚関係が見えてくるだろう。それも、たくさん。繰り返しなるが、考えるのではなく、見るのだ。(中略)で、この観察の結果はこういうことになる。類似性は、重なりあい交差しながら、複雑なネットワークをつくっているのだ。スケールの大きな類似性もあれば、細部についての類似性もある。

§67(部分):こういう類似性の特徴を言いあらわすには、「家族的類似」というのが一番だ。こんなふうに重なりあい交差しあっているのは、体型、顔つき、眼の色、歩き方、気質などなど、家族のメンバーに見られる、さまざまな類似性なのだから。-そこで私は、「『ゲーム』はひとつの家族を作っている」と言っておこう。

ゲームは、類似性のネットワークで一体をなしており、そこには明確な境界が存在しない。ゲームという言葉が指すものは、きわめてあいまいであり、これはゲームであるという直示的定義によってしか示されない。ゲームとは何かの説明を求められたら、ゲームの例を色々と並べていくことになる。

§71(部分):いろんな例をあげて、なんらかの意味で理解されることを期待するわけである。―だがそう言ったからといって、私は、「これらの例から共通点を見つけてほしい。ちょっと訳があって―はっきり共通点を指摘できなかったけれど」と言っているのではなく、「これらの例をなんらかの仕方で使ってほしい」と言っているのだ。例をあげるのは、この場合、―もっといい方法がないため―説明の間接的な手段となっているのではない。どんな一般的な説明だって誤解されるものだから。そんなふうにして私たちはまさにゲームをやっているわけだ。(ここで私が「ゲーム」と言っているのは、言語ゲームのことである)

このように、ゲームとは例をあげて示すしかない(直示的定義しかできない)ものであり、そのようなモノを指し示すために「ゲーム」という言葉を使っている。本質的定義ができないという点では正当化できない言葉であっても、それを用いている。直示的定義は、例をあげて、それをそのように使ってほしい/使うのだと述べるということであり、最終的に、何かを「ゲームである」と呼ぶことが認められるかどうかは、その対象が持っている本質ではなく、それをゲームと呼ぶことを皆が了解するかどうかの問題、「生活形式の一致」の問題であるというのが彼の主張である。

先に述べたように、ウィトゲンシュタインの家族的類似性という概念は、FP2003でも用いられている。大学における採用人事を例にしながら、組織ルーティンの従来の定義の検討を行う中で、様々な具体的なルーティンの実践において、諸ルーティンが家族的類似性を示すと述べている。

採用人事の個々の具体的な実施内容(the instances)は異なるであろうが、それらは認識可能な一つのカテゴリーのもとにまとめるに十分な家族的類似性を有している。実際、採用というルーティンは、事実上すべてと言ってよい採用人事の実施において反復される、諸行為の核となるパターンを有している。(中略)様々な変異にも関わらず、採用ルーティンには、予算獲得やその他のルーティンとは異なったルーティンとして、その基礎的なパターンを容易に見いだす(recognize)ことができる。我々のフレームワークの術語で言えば、これが採用ルーティンの直示的側面ということになる。(p.103)

ウィトゲンシュタインの家族類似性の議論では、概念に対応する具体的な本質(内包)はないとされている。しかし、フェルドマンとペントランドは、そこに核となるパターンが認められ、それがルーティンの直示的側面であり、諸ルーティンに家族的類似性をもたらしているとしている。組織ルーティンの多様性の背後に共通的なものが認められるとした点で、ウィトゲンシュタインの家族的類似性のラディカルさは消されているとも言える。ただし、あくまでも「認められる/区別できる recognizable」としていること(実在ではなく認知)としていることを踏まえるならば、ルーティンの同定、つまりはルーティンの直示的定義の際の識別の指標のようなものとして想定しているとも考えることができる。そうすれば、家族的類似性を持ったものを直示的に定義しようとする活動に注目している我々の議論に接続が可能となる。


5. 組織ルーティンと直示的定義

ここまでの検討を踏まえた組織ルーティンの直示的側面についての理解を整理しておくことにする。

直示的定義の本質的な不確定性、類似性による対象のまとまり、例示による説明しかないといったウィトゲンシュタインの議論を踏まえるならば、組織ルーティンの直示的側面とは、あいまいなものであり、何らかの行為の本質的特徴を取り出したものではない(その意味で、本質を抽象したものではない)。様々な個々具体的な行為が、「採用人事」なり「伝票の処理」なりの一般的な概念に関係付けられ、その一例として捉えられるということになる。採用人事という概念は、その都度の行為を「これは採用という仕事だ」という形で直示的反省によってカテゴライズすることを可能にするが、この概念の境界があいまいであることによって、さまざまな行為を、ゆるやかな類似性による繋がり(家族的類似性)によって、採用という仕事として名指すことを可能にする。また、各人が主観的にイメージしているものであることからくる多数性も、同様に、ゆるやかな類似性によるつながりとして、主観的理解の差異をはらんだまま、同じものを「指している」とみなせることにもなる。このように、本質を欠くことが、主観と具体の多様性を包摂することを可能にし、「同じもの」として同定され、反復されることを可能にするわけである。まさに具体性を欠いた概念的な対象であるがゆえに、さまざまな状況において、それを「使う」ことができるのである。

もちろん、どんな行為でも同じルーティンとみなされるわけではない。組織の仕事として認められるかどうかという選別は働く。しかし、その選別は「生活形式の一致」として、具体的協働にその場で関わっているメンバーが、そう呼べるものであることを認めるかどうかを最終的な基準としてなされるということになる。直示的側面が、言及(referring)と理解(accounting)にかかわるというのは、まさに、モノとしての具体性を欠く行為連関を総体としてどう捉えるか、どのようなものとして認めるかという反省の際に、これは~の一例ということになるかどうかという形で参照されるからであると考えることができる。

この点をさらに整理するためには、直示的定義によって示されるモノ(概念的存在)と、直示的定義という行為を分けて考える必要がある。フェルドマンとペントランドの動的ルーティン論における直示的側面の説明は、もっぱら直示的に示される概念(原理的に見出される対象)の方に焦点が当てられているが、我々が注目するのは、直示的に定義を行うことことである。

先のウィトゲンシュタインの議論に見たように、直示的定義を行う際に指し示される対象は、個別具体的なモノでありながら、そのモノは、一般的名詞の指示するものの一例、範型として理解される必要がある。つまり、直示的な定義とは、目の前にある個物を、特定の種、カテゴリーに含まれるものへと一般化して措定する行為である。「今、なにをしているのか?」という問いに対して答えることは、たとえば「報告書を書いている」等と答えることは、自分の行為を直示的に定義し説明することである。つまり行為の遂行中に行う反省とは、自分で自分の行なっていることを直示的説明によってカテゴライズすることである。具体的な行為を、範型へと抽象化することだと言って良い。それは行為の遂行そのものとはレベルが異なる。行為に対して反省的(当事者的でないという点では外在的と言っても良い)な視点から捉え直すことである。組織ルーティンが直示的側面と遂行的側面の両面をもち、両者がリフレクティブで相互構成的であるのは、ルーティンの実践の最中において、直示的説明という反省が行為の確認、方向づけとして働いているということだと解すべきであろう。そして、範型に代表=表象されている一般的行為、直示的概念は、類似性のネットワークで形成された、ある意味であいまいなものであるがゆえに、多くの具体例を包摂可能である。これまでに見られなかった行為を、新たな範例として加えられることも可能になる。

その点からすれば、極論すれば、個人レベルにおいては、自己の行為を何であれ特定のルーティン(仕事)として措定することが可能である。しかし、組織的協働の場においては、周囲の協働を行う人々、あるいは管理者が、その措定を受け入れるか/認めるかどうかが、最終的な「正しさ」の根拠となる。自分の理解に基づいて自分なりに特定のルーティンの遂行であるように振る舞ったことが、他者によってルーティンの遂行として理解され他者の振る舞いに接続されて、初めて組織ルーティンを遂行したことになる。なんでもありというわけにはいかない。そしてそのことは、行為者個人にとっても、協働である以上、想定されている(想定されてしかるべき)ことである。さまざまな揺らぎや変異を伴った行為がなされていく中で、その都度の捉え直しとして直示的定義行為が方向づけとして組み込まれており、また、直示的対象がゆるやかにそれを許容しうる。だからこそ、バラバラではない諸行為の連鎖が、あるルーティンとして認められ/受け止められ、時に変化を導入することになる。

先ほどのラトゥールの議論において、人々は実践を通じて社会の定義・再定義を行なっていると述べられていたことと、ウィトゲンシュタインの直示的定義の議論をつなぐことで、直示的側面とは、単に概念的なモノとして想定されたり描かれたりするルーティンの像(直示的定義された対象)だけではなく、組織ルーティンの遂行自体が自身のルーティンとしての定義を行ない確認しているという側面(直示的定義行為)をも含むものであるということができるだろう。

組織ルーティンは、「今、なにをしてるのか/していることになるのか」という問い、「今していることは〇〇という業務なのか?」という問いを背景として、この問いにさらされる中で遂行されているということだ。その際に、答えとして引き合いに出されるルーティンが、あいまいで境界が不明瞭であるがゆえに、さまざまな場面で適用可能であると同時に、他方でゆるやかに方向付けるものとして働く。ルーティンの直示的側面は、あいまい(具体的行為を確定しない)であるがゆえに「使える」し機能する。また、あくまでも主観的にその都度の行為において行為者が自己反省、自己観察的に参照するものとしては、人それぞれで想定される像には相違がありうる。しかしながら、少なくとも同じルーティンを協働しようとしている方向性の一致をもとに、個々具体的な行為の内容を呈示しながら相互行為を行うことで、個々人の主観的差異は解消されなくとも、行為としての整合性、つながりは確保できるわけである。

このように、直示的定義の対象が、あいまいで、不確定性をはらんだものでありながら、家族的類似性というまとまりをなしており、それを参照しながらその都度、自分の行為を直示的に定義し呈示していくことが、組織ルーティンの遂行における直示的側面の関与のありかただと整理することができる。

あいまいなものが具体的行為を導くことについては、状況的行為論でも展開されている議論である。そこで、動的ルーティンの理解のさらなる補助線として、もはや状況的行為論の古典ともいうべき、サッチマンの『プランと状況的行為』(Plans and Situated Actions)における議論を確認しておくことにする。FP2003においてもサッチマンは参照されており、彼らも組織ルーティンの行為は状況的行為(状況づけられた行為 situated action)だと述べている。また、両者が執筆陣に加わっている Organizational Science 誌の Routine Dynamics 特集の論文 "Beyond Routines as Things" では、「ルーティンの行為は状況的である」(action in routines is situated)として状況論的アプローチを取り上げ、その中では『プランと状況的行為』にも言及されている。状況論アプローチが動的ルーティン論に影響を与えていることは明らかである。そこで、サッチマンの議論を参照することで、直示的側面に関する理解を深めることにしよう。


6. サッチマンの状況的行為と表象

サッチマンの『プランと状況的行為』(以下、PASと略記)に代表される状況論的アプローチは、行為が実際に行われる際の状況依存的=偶発的(contingent)な行為主体性(agency)の発揮に焦点を当てたものである。

状況論的アプローチは、人間の実践とは、状況づけられた行為であり、それはその時、その場における状況のただなかにおいて、様々なもの(物理的なものとは限らない)をリソースとして活用しながら、遂行されるものであることを強調する。人間の行為は、計画やプランによってあらかじめ定められた通りになされるものではなく、あくまでも行為の具体的な現実化は、その状況における固有なものとして実践されていく、そしてそのことを通じて社会的な制度や枠組み、規則が再生産され実在化されていくという観点は、構造化理論と実践の理論を引き継いでいるという点において、動的ルーティン論と同じである。

このような、状況論的アプローチにおいて、動的ルーティン論の直示的側面(直示的に定義された対象)に相当するものがプランである。動的ルーティン論では、ルーティンの二重性として直示的と遂行的が一体となってルーティンをなすとされているが、サッチマンのPASでは、プランと状況的行為が対比的に論じられているという違いはあるが、状況論におけるプランの位置付けが直示的側面の補助となるので、ここでサッチマンの議論におけるプランの扱いを確認しておくことにする。

PASにおいては、プランは、状況的行為の実際のコースを決定しないとして、行為をコントロールするものとしてのプランを批判する。実際の行為(状況的行為)に対するプランの影響・支配力の強すぎる価値付けを批判することが本書の中心的な論点でもあり、ややもするとプランの価値を貶めるように読める記述もみられるが、プランが行為にとって全く無意味であると述べられているのではない。行為の実践は、確かに、今、ここでの状況において生成されるが、無から生み出されるのではなく、行為の具体化を可能とするリソースの一つとして、プランはプランとしての価値を持つのである。

サッチマンのプランに関する議論のうち、我々が注目するのは、プランを表象として、それが効率的なものであると述べている点である。

表象としてのプランの効率性は、まさにそれが具体的詳細のすべてにわたって諸実践やそこでの周辺環境を表象しないという事実から来ている(51ページ、p.52)(6)

なぜ詳細を表象しないことが効率性になるのか、それは状況におけるすべての要因・リソースを踏まえたうえで行為することは我々にはできないからである。それゆえ、我々は関与的な要因以外は、端折ることで実践を行なっている。

すべての発話の状況は、無限の範囲の可能な関連する特徴を含むのである。この理論的問題に対する私たちの実践的解決は、関連するその場の環境の下位集合を列挙することではなく、あたかも私たちが発話に暗黙のうちに他の部分は同じである(ceteris paribus)句を含めたかのように、あるいは暗黙のエトセトラ句で終えたかのように、その状況で"手を振る"=詳細を端折ることである(59ページ、p.60)

サッチマンは明確には述べてはいないが、詳細を端折るための導きとなるのが表象=プランであると位置づけることができる。目的にせよ課題にせよ、なんらかの成し遂げるべきことがあるときに、関連する要因とそうでない要因を分けるのは当たり前のことである。プラン(目的や課題)はあいまいで詳細ではないからこそ、導きとして使える効率的なリソースなのである。実際の行為は、その場、その時に、なされなければいけないからこそ、プランのキメの粗さ(詳細の未決定、未規定)が使えるものとなる。

状況的行為の立場からは、プランのもつあいまいさは欠点ではない。むしろプランの曖昧さは、意図と行為の詳細が、実際の状況の、周辺環境に依存した、インタラクションを通して明らかとなる個別的事項に従って状況依存的に決定されざるをえないという事実に申し分なく適合している。(177ページ、pp.185-186)

また、詳細を欠いているが故に、状況横断的に適用可能で反復可能なものとして用いられる。

他の言語表現と本質的に同様に、プランは状況的行為の効率的定式化である。複数の状況を横断する一様性を抽象化することで、プランは過去の経験や予測される結果によって現在の行為に影響を及ぼすことを可能とする。(178ページ、p.186)

このように、プラン=表象は、方向付け(しかし詳細・具体を決定したりコントロールしたりしない)ものとして実践にかかわる。またプランによって「同じ行為」としての反復可能性、同定可能性が確保され、「同じ」であることが過去の経験を導入することを可能にするという論点は、動的ルーティン論の直示的側面の機能と同じである。

行為の基盤は、プランではなく、我々をとりまく環境との局所的なインタラクションである。このインタラクションは、状況と行為の抽象的表象を参照することによって影響を受けるし、新たに表象化されることもある。抽象的表象の機能は、ローカルなインタラクションを細かく規定することではなく、私たちが、局所的なインタラクションを通して、環境の中の状況依存的=偶発性に発生する事物のあるものを活用し、また、他のものを避けることが可能になるように、私たちを導き位置づけることである。(180ページ、p.188)

詳細を欠き抽象的であるからこそ、状況の固有性のただ中にある行為者にとって、地図のようなものとして役立つ、これが状況的行為に対するプラン=表象の価値である。

なお、サッチマンは、PAS の第2版にあたる "Human-Machine Reconfiguration" において、自分が初版の「はじめに」で、状況に埋め込まれた行為は本質的に ad hoc であると述べたこと(動的ルーティン論でも、この表現が参照され使われている)に関して、注の中で、ad hoc という語句を用いたはやや不適切であったと述べている。ad hoc が、一般的には、まったく新しいということ、歴史的な経緯や広範な関連事項を参照しないという意味を持つ点が問題だとされる。サッチマンは、自分が述べたかったことをもっと適切に言うとすれば以下のように述べるべきだったとする。

状況的行為は、常に、どうしようもなく、特定の、行為するにつれて展開する周辺環境(circumstances)に依存している。その環境自体が、同じ行為を通じて実質的に構築されるものである。しかし、この場合も、多くの行為は、規範的表象、過去の経験、未来の考察、付与されたアイデンティティ、確固たる社会的諸関係、確立された手続き、建築物の環境(built environments)、物質的制約などによってもまた特徴付けられるものでもある。(p.27)

このように、とかくその場での創発性や即興性が強調される状況的行為が、様々な要因の関与の中で行われることを改めて述べている。動的ルーティン論に引きつけて言えば、直示的側面の存在と関与を改めて確認しているわけである。

以上みてきたように、動的ルーティン論同様に(先行して)、実践の状況依存的な偶発性とそれに応じて発揮される行為者の行為主体性に注目したサッチマンの状況論において、プランとして直示的側面(直示的定義されたモノ)に相当するものが論じられている。抽象的、未規定的な概念が、抽象的であるが故に、効率的に実践を方向付けるという機能を果たすわけである。サッチマンにおいては状況的行為とプランという二元論になっているが、動的ルーティン論は二重性としてルーティンの内部構造にしたわけである。これによって、ルーティンを実践する場面において、その実践の際に、ルーティンの内側から働きかけるものであることが強調され、ルーティンの変化と定常性を内生的にもたらすダイナミクスが確保されたということができるだろう。


7. まとめ:組織ルーティンの二重性

動的ルーティン論の ostensive をめぐって検討を行ってきたが、まとめよう。

ルーティンの二重性の一側面である直示的側面は、直示的に定義される概念像(直示的概念像)と、直示的定義の遂行を分けて考えることで、それがルーティンの遂行的側面に、相互構成的かつ再帰的に関係しているということを明確にすることができる。ただし、直示的概念像、(サッチマンの議論で示された意味での)表象は、あらかじめ明確に決まったものではない、あいまいな具体性を欠いた表象であり、それは直示的定義行為において具体的行為を指し示される際に、行為者によって呼び出され使用されるものでしかない。曖昧さ、不確定さ、詳細を欠いた、境界のあいまいな概念、表象が、具体的な行為をそれとして名指すことを通じて、その行為を意味付け同定し類型化するものとして働く(使われる)ものである。つまり、自己の行為を、特定のルーティンだとして自分で指し示す、「私が行っていることは〜である」と直示的定義を行う、そのことが、具体化された特定の行為を、ある組織ルーティンとして再認させると同時に、その行為を一例とする概念像としてのルーティンも再認されるのである。

このようにルーティンの遂行は、「これが〜だ」と指し示す直示的定義の遂行でもある。これが直示的側面と遂行的側面が二重性をなしているということである。FP2003では、直示的側面から遂行的側面への関係として、誘導、説明、参照があげられていたが、これらは、行為の外側にあるものが行為に働きかけるのではなく(それでは二元性になってしまう)、まさに、行為の遂行の際に直示的定義を行なっているということだと解する必要がある。その都度、自分が行っていることを、「〜としてこれでいいのだよな」「これが〜ということだよな」と定義しつつ行為として呈示される。「これが」と指し示すこと、直示的定義をおこなうということが、直示的表象を、その都度、その状況にそった形で呼び出す。「これが」という呈示を通じて呼び出される(参照される)直示的表象が、自己の行為のありかたを方向付け、自他に対して自己の行なっていることの説明(accountability=理解可能性)を支え、ルーティンとしての同定、反復を生じさせながら、他方で、その表象が再認される。そして、その自己の行為に対する他者の応答によって、時として、自己の直示的表象の修正が加わる。もちろん、曖昧で詳細さを欠いた表象が新たなものに変わるということではなく、新たな具体例が追加されたり、外されたりしていくという意味で修正が加わる。家族的類似性のネットワークへの参入・除外である。主観的な差異や状況の固有性から生じた行為の変異に家族的類似性が認められること(見出されること)、他者に具体例、範型として認められること、許容されること。それを通じて、「同じ」組織ルーティンが、新たな行動様式、技法、あるいはテクノロジーを取り入れながら、遂行的に変わっていく可能性を秘めているのである。一方で、直示的表象は、あいまいで不明瞭なものだからこそ、「変わらない」。

組織ルーティンの直示的側面と遂行的側面の、相互構成的で再帰的な関係とは、このような関係のあり方である。そして、ルーティンの遂行=ルーティンの直示的定義だからこそ、直示的側面は直示的 ostensive と呼ばれなくてはならないのである。


(1) 「直示的」は、言語学では発話場面によって指示する内容が決定される表現(たとえば「私」など)を指すダイクシス deixis の訳語として用いられるので、「直示的」が最適な訳語とは言えない。語用論の関連性理論の文献では ostensive を「意図明示的」と訳すことが一般的なようであり、この訳語を用いてもよいのだが、後述のウィトゲンシュタインなどの哲学の議論においては、ostensive を「直示的」と訳すのが一般的であるため、本稿ではこの訳語を用いる。ostensive は ostensible(「見せかけの、表面上の」という意味の形容詞)の同義語として用いられることもあるようだが、その意味ではない(と解釈する)ことを明確にしておくためでもある。

(2) ostensive aspect という定式化が必ずしも広く受け入れられたとは言えない。組織ルーティンの抽象的レベルについては、その想定自体は否定されないまでも、それをどう捉え定式化するかについて研究者の間での合意が得られていないことを、彼ら自身も認めている。2012年の "Dynamics of Organizational Routines" では、組織ルーティンのもつ行為の変異と選択的保持をモデル化するにあたって、この側面を単純に歴史(history)と呼び、行為の経路依存性(path dependence)に焦点をあてたものになっている。

(3) 『探究』を直接読んだのではなく、クリプキが『ウィトゲンシュタインのパラドクス』で展開した規則に従うことをめぐる懐疑的パラドクスの議論を、そのまま持ち込んだものであろう。なお、ウィトゲンシュタインの『探究』の規則をめぐる議論は、規則や規範に従うとはどのようなことを論じたもので、規範と行為をめぐる議論としては本稿の内容にも無関係ではないが、本稿では直示的定義と家族類似性に焦点を絞っている。

(4) 以下のウィトゲンシュタインの『探究』からの引用は、丘沢静也訳『哲学探究』(岩波書店)による。『探究』を引用する際の慣例に従って、引用箇所は節番号で示し、節の一部分を引用したものには(部分)と付してある。

ただし、訳本では「指さして定義する」となっている部分は「直示的定義」に変更してある。この点は訳者が「あとがき」のなかで、「定訳である『直示的に定義する』ではなく、『指さして定義する』にした」と述べているのを踏まえてのことであるが、藤本隆志訳の『ウィトゲンシュタイン全集8』(大修館書店)に収められた「哲学探究」、およびアンスコムによる英訳を参照して確認の上のことである。

(5) 言語学習の際の直示的定義と直示的教示については塚原典央「言語の理解と使用」を参考にした。

(6) 以下の『プランと状況的行為』からの引用は、原則的には訳本によっているが、原文を参照の上、修正を加えたものになっている。主な変更は、原文の representation を「表象」で統一したこと(訳本では表象、表現と訳し分けられている)、contingent を「状況依存的=偶発的」としたことである。引用箇所は、訳書、原書の順に示した。


参考文献

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Feldman, M. & Pentland, B., "Reconceptualizing organizational routines as a source of flexibility and change", Administrative Science Quarterly, Vol.48 No.1, 2003

Feldman, M., & Pentland, B., "Organizational routines as a unit of analysis", Industrial and Corporate Change, Vol.14, No.5, 2005

Feldmand et al., "Beyond routines as things: intrioduction to the special issue of routine dynamics", Organization Science, Vol.27, No.3, 2016

Jarzabkowski, Lê, and Feldman, "Toward a theory of coordinating: creating coordinating mechanisms in practice", Organization Science, Vol.23, No.4, 2012

Latour, B., "The powers of association", The Sociological Review, Vol.32, 1986

塚原典央「言語の理解と使用」、『福井県立大学論集』第39号、2012年

Pentland et al., "Dynamics of organizational routines: a generative model", Journal of Management Studies, Vol.49 No.8, 2012

Suchman, L. A., Plans and situated actions, Cambridge University Press, 1987
    佐伯監訳、上野、水川、鈴木訳『プランと状況的行為』、産業図書、1999年

Suchman, L. A., Human–Machine Reconfigurations, Cambridge University Press, 2007

Wittgenstein, L., Philosophische Untersuchungen, Basil Blackwell, 1953
    丘沢静也訳『哲学探究』、岩波書店、2013年
    藤本隆志訳「哲学探究」、『ウィトゲンシュタイン全集8』、大修館書店、1976年
    Anscombe, G. E. M, Philosophical Investigations, Basil Blackwell, 1958