2006年10月13日
イントロダクション
10月13日は初回の講義なので、イントロダクションで終わりました。
まず経営学とは何を論じるものなのかという話から、経営学の中での組織論の位置の確認を行いました。経営とは、ヒト・カネ・モノ・情報を投入して、財やサービスを提供する活動だと言えます。そして、組織論は、このヒトの部分に焦点をあてるわけです。人のまとまりをつくること、やる気、リーダーシップなどが関連する問題ということになります。
組織を論じるにあたって、「どうあるべきか」という理想形を探して実現の方法を考えるというものと、「なぜこうなっているのか」という現状の分析と本質の見極めを考えるものとにわけることができます(あくまでも力点の置き方の問題ですが)。この講義では、後者、つまり人間の組織とは一体何なのか、なぜこんなものになっているのか、を解き明かすことを中心に授業を進めます。
**この講義では、二クラス・ルーマンというドイツの社会学者のシステム理論、特に彼の初期の著作である『公式組織の機能とその派生的問題』で論じられている内容を基礎においています。しかし、ルーマンの理論の解説ではありません。
2006年10月20日
複雑さについて
まず、この講義で前提とする考え方として以下の2点を述べました。
- 世界は複雑である
- 人間は複雑である
まず世界についてですが、世界が複雑であるということは、もう少し厳密に言うと「体験の諸可能性は、顕在化できるよりも、つねに多く存在する」ということです。これを言い換えると、「世界そのものを完全に分かることはできない」ということ、さらには「今・ここに体験している世界は、他でもありあえたのに、たまたま/何かの理由で、こうなっているものである」ということです。つまり、私たちは、世界に関して、何らの「選択」が働いた結果を体験している、ということになります。
とりあえず、世界は、「他でもありえる」ものとして体験しているのだということは押さえておいてください。今後の講義の中で「環境」という概念を用いて整理しますが、正確に述べると、「他でもありえる」可能性の総体が世界であり、我々にとっての「世界」とは、我々の環境のことになります。
人間が複雑であるというのは、端的に言うならば、他人のことを100%理解することはありえないということです。他人の意識は不透明であり、コントロール不能である。それは人間が自由を持った存在だからです。
自由とは何かというのは大きな問題ですが、とりあえず、この授業では、人というものが、常に「わけのわからないことをする」可能性を秘めていることを、人が自由を持っているということである、と押さえておきます。人間の持っているわけのわからなさ、不気味さ、先ほどの言葉で言えば不透明さ、それを自由という概念でおさえます。
人はなぜ自由を持っているのか。それについては、この講義では「人間は狂ったサルである」として理解しておきます。人間の行動は、本能の全面的な支配からは逃れている(あふれてしまっている)。このことを「狂った」という言葉で表しておきます。たとえば、人間が言語をあやつる能力をもち、言語でコミュニケーションをとることは、生物的な機能として、本能的なものだといえるでしょう。しかし、具体的にどのような言葉を使うのかという次元では、本能の規定をうけていません。だからこそ、世界中で、同じ人間なのに、多くの異なった言葉が使われているし、また、何より、学習しなければ身に付かないものになっているわけです。
人間の具体的な行動の次元は、本能の規定(命令)によるものではない。このことから、人間の行動は、常に「他でもありえたのに」という影を伴ったものとして捉えることができることになります。人間がすることは、「必ず絶対にそうしなければならないもの」ではない。このとき、一つ一つの行動は、他にもやりかたがあるのに〜したということ、つまり「他の可能性の中から、これを選んだ」という選択という意味合いを帯びることになります。
ここでいう選択は、行動を行った人間の意識や意図とは関係ありません。受けての観点からの規定です。ですから、言い換えるならば、「人間のやることは、常に、相手(受け手)に選択して受けとられる可能性をもっている」ということです。
こうした狂ったサルとしての人間について、その他にも押さえておくべきこととして、人間は一つのシステムではない、ということがあります。人間は、物的・生物的・社会的(意識的)なシステムの複合体です。意識は、人間というものを一つにまとめあげているわけではない。人間という一つのモノの中に、色々なシステムが、色々なレベルで作動している、そういうことです。そうした人間は、行為する存在という観点からは、受動的側面(物的・生物的・社会的な制約)と能動的側面(意思、欲望、夢)の合体したものとしてとらえておくのが便利です。どうしようもなく引き受けざるをえないものがあり、それの上で、何かを欲望し意図し行動するのが人間だということです。
以上が午前中の講義。
予期、行動、行為
午後は予期というものと行動と行為の区別を論じました。
原理的に考えれば不確実で不透明な世界なのに、人間がなぜ平気で生きていられるのか。それは、人間には「期待する」という能力があるからです。過去の体験をもとに、現在や未来について勝手に思い込むこと、それがここで言う期待です。日本語の期待には良いことが起きることを望むという意味合いがありますので、この講義では、過去の体験等をもとに何かを思い込むことを予期という言葉で述べることにします。今日も明日も昨日までとたいして違わないだろうと思うといったのが予期です。この予期は、絶対的な真理だとか確実性に基づくものではなく、根本において、人間が勝手にそう思い込んでいるものです。極端な形は妄想ですが、私たちは、多かれ少なかれ、こうした予期に支えられて、日々を平穏に過ごせるわけです。人間の予期の根底には、世界や人間が全くデタラメではないということへの信頼が潜んでいる。そして、基本的には、そのように思うことでうまく行っているということが、予期を保証する。
とりあえず〜だろうと思い込む。そのことによって、世界の複雑さの体験を「思った通りだった」「思っていたのとは違っていた」という図式で整理して受けとめることができるわけです。このように、予期によって、世界の複雑さの問題が、予期の確実さの問題へと変換できること。ここに予期というものの意味があると言えます。
勝手に思い込むことが人間の偉大な能力だというのは、変な話かもしれません。妄想や誤解から理性によって真実を見出すのが人間という存在の素晴らしさだといった話とは反対ですから。でも、日々を当たり前に過ごせるということの土台は、妄想できる人間の予期能力が支えているのです。
さて、この予期ですが、いくつか分類することができます。まず一つの分類。こちらは予期であることが意識されているかどうかで分けます。
- 消極的予期:意識されることすらない予期。何かを当たり前だとか普通とか思うこと、外れるなんてありえないと思っていること。自明性は、こうした消極的予期が支える
- 積極的予期:たぶん〜だろうと、ある程度予期であること、つまり外れることもあるかもしれないこと、が意識されているもの。
予期は、最初は積極的予期だが、そのうち、消極的予期として意識の中に染み込んで行く(沈み込んでいく)といってもよいでしょう。
もうひとつの予期の分類。こちらは予期が外れたときの対処の仕方で分けます。
- 認知的予期:予期が外れたときに、予期の方が間違っていたと修正したり学習したりするもの
- 規範的予期:予期が外れたときに、外れた事例や人のほうが例外的なもので、予期の修正は行われない
法則だとか法というものは、規範的な予期であるということができます。「規範」という堅い言葉が出てきますが、これは普通に使っている「したがうべきもの」という意味合いではなく、「したがわないモノが<悪い>とできること」というぐらいの意味で受けとってください。自分が思ってたようにならなかったときに、自分が間違っていたと思うのが認知的予期、相手や状況が異常/例外/おかしい/悪いと思うのが規範的予期、ということです。
午後の講義の後半では、人間の行動と行為の違いを確認しました。
人間の身体的動作の次元を行動・振舞い、それに対する社会的な意味付けされたものが行為です。たとえば、「お・は・よ・う」と声を出すことは行動、それを朝の挨拶とするのが行為です。行動と行為との間には、一対一の対応は成り立っていません。
たとえば、友人が自分の目の前を足早に走り去っていくという行動は、急いでいる行為ともとれますし、自分との会話の拒否ともとれます。
そして、行為とは、基本的に、他人が規定するものであるということです。自分の意図とは無関係に、自分の行動が、特定の行為として受けとられ応じられる。それが人間の相互行為です(もちろん、後から意図を説明したり弁解したりすることは可能ですが、行動が受けとられた時点では自分の意図は無関係です)。行為とは、それにどのように応じるのかという行為の連鎖の流れの中に、受け手によって位置づけられたものなわけです。その意味で、行為とは、社会的なもの(自分の意のままにはならないもの)です。
さらに、行動が行為として受けとられるとき、その行為の意図が想定され、それが行為者に割り当てられることになります。ここでいう意図とは、「他のいろいろなことができるはずなのに、(あえて)〜という行動/行為をした」という選択を指します。つまり、行為とは、自由を持った存在である人間の、選択の結果として読み取られるものだということです。
とりあえず、行動(振舞い)と行為は異なる層にあること、行為には意図や選択が付着すること、を押さえておくことにします。
以上が10月20日の講義内容です。
2006年10月27日
コミュニケーション論 意味がわかること
10月27日はコミュニケーションについて論じました。
この講義のコミュニケーション論の基本的な考え方は、人間のコミュニケーションは単純な情報の伝送ではない、ということにあります。
実際に私たちがコミュニケーションを行っている最中のことを考えてみると、私たちは、自分が話したことがうまく伝わったかどうかを、話して聴いてもらったその時点で確認することはできません。他人の意志や精神、心は不透明だからです。私たちは、実際には、自分の発言の後の相手の発言なり行動から、伝わったかどうかを推定しています。そして、相手の反応があった時点で、ようやく自分が話した結果が判る(といっても、あくまで自分が推測するしかないわけですが)わけですから、自分が話すという行動は、その次の相手の行動にまで重なっているともいえる。つまり、実際のコミュニケーションは、一回ずつの行動が繋がっているというよりは、互の行動の繋がりの中で、話す−伝わった?がズレるようにかぶさっているとも言えます。このように、具体的な状況を考えてみても、単純に何かを手渡すかのように進行しているわけではないわけです。そこで、私たちのコミュニケーションの具体的な状況や仕組みを、改めてみていくことにします。
まず「意味が判る」ということを考えてみます。相手の言葉の意味が判ることが、伝わる、判る、通じるということなのです。たとえば、「友だち」と言われてなんのことか判らない人はいないと思います。あるいは「自転車」といわれてどんなものか知らないという人もいないでしょう。このように、単語であれば、たいていは、それが何を指しているかということが分かることが「分かる」ことなわけです。では、「友だちって自転車みたいだね」というのはどうでしょうか? 「友だち」も「自転車」も分かっていても、この文章がどういう意味なのか、すぐに分かるでしょうか? 仲のいい友だちと食事をしているときに、その友人が「友だちって自転車みたいだね」と突然言ったら、あなたはすぐに「そうだよねぇ」と言うでしょうか? たぶん、「どういうこと?」と聞き返して、友人が何を言いたいのか分かろうとするはずです。
このとき、何が「分かれば」いいのでしょうか? 大雑把に言えば、1:なぜ自転車なのか? 2:自転車のどの側面を取り上げているのか? の2点ぐらいが鍵になります。そして、このいずれにおいても、「なぜ他のものではなくて、あえて自転車なのか」、「なぜ他の側面ではなくてその点なのか」ということが納得できなければ分かったことにはなりません。つまり、私たちが何かを「分かる」時には、それが何なのか? だけではなく、なぜ他の〜ではなくてそれなのか? という側面も了解できる必要があります。このように、意味が分かるということには、それが選ばれたことで何が選ばれなかったのか(言われなかったのか)ということの理解も伴います。
「言葉の重み」というのがあります。おなじ言葉であっても、20歳の人間が言うのと、60歳の人間が言うのとでは、言葉の感触が違う、と私たちは感じる。その違いを「重み」ということで表現しています。この重みとは何か? たとえば、今食べたいものを聞かれたときに、3歳の子供が「母親のハンバーグ」というのと、50歳のオヤジが「母親のハンバーグ」というのは、明らかに、何かが「違う」。この違い、重みの違いとは、結局のところ、先ほど述べた「それを選んだことによって、何が選ばれなかったのか」という部分の大きさ/深さにあります。つまり、否定されたであろう候補が多いほど、重みのある言葉になる。3歳の人間が思いつく食事の種類と、70歳の人間が思いつく食事の種類とでは、70歳の人のほうが多いのが当たり前だと私たちは思います。だからこそ、70歳の人間がハンバーグというと、なにかしら「あえてそれを選ぶだけの理由」みたいなものがあるにちがいないと思ってしまう。それが言葉の重みの正体ではないでしょうか。私たちは、相手の年齢、性別、外見、役割、あるいは場とか空気とか、色々なものを手掛かりにして、相手の中に想定される選択の幅みたいなものを想定し、それを踏まえて、言葉を受けとっているわけです。
さて、このように考えてくると、意味が分かるということは、単純に受けとった言葉の中に入っていたものを意味として取り出すといったことではないことがわかります。それを選んだことによって何が選ばれなかったのか、ということは、言葉の表面には現れていません。あくまでも、受けとった側が勝手に想像し思い込むしかないものです。話している本人であっても、自分がどれだけの選択肢を排除して選んだかを正確につかむことはできないでしょう。
つまり、私たちが意味を「分かる」ときには、分かる側が能動的・積極的に思い込みをしなければならないということが含まれる。分かるというのは、一方的な受け身のものではない。
とすれば、言葉の意味を100%正確に分かることは、原理的にありえないことになります。なぜなら、分かることには受けての積極的な思い込み(極端に言えば妄想です)が必然的に含まれますから。意味は読み解かないと現れないのです。
人間はコミュニケーションによって意味をやりとりしています。その意味の中身を100%正確に伝えることはできないのですから、人間が100%完全に分かりあうことなど不可能だと言ってもよいわけです。
コミュニケーション論 伝達行為
私たちのコミュニケーションでは、何が伝えられたか(情報、意味)も重要ですが、同じぐらいに、どうやって伝えられたかという側面、つまり伝達行為の方も重要です。場合によっては、こちらのほうが大きなこともあります。たとえば、メールの返事が来ない、というのは何も来ていないのですから情報はゼロですが、来ないということに私たちは反応します。来るべきものが来ないことにメッセージ性を受けとるわけです。あるいは、コワイお兄さんに「夜道はきぃつけや」といわれたら、それは夜道の安全を気遣ってくれているという言葉の意味通りに受けとるのではなく、いうことをきかないと痛い目にあわせるぞという脅しとして受けとるべきものです。挨拶なんてものは、言葉の意味ではなく、決められた言葉を言うことが重要です。「おはよう」の意味なんて誰も考えていないでしょう。このように、コミュニケーションについて考えるときには、伝えるという動作の側面も考えなくてはなりません。
通常、私たちは、この動作の側面を意図として了解しています。なぜ、今、このわたしに、そんなことを、そんなふうにいうのか? それを説明するものが意図とされます。意味が分かっても、意図が分からないと、「通じた」「わかった」とはいいません。
この意図を了解するということには、意味と同じように、完全には理解できないということがあります。つまり、他のやり方があったのに、なぜ、あえて、そうしたのか? ということが「分かる」ためには、何をしなかったのか、誰に伝えなかったのか等々、意味の場合と同様に、否定されたもの・排除されたものとの対比が必要になるわけで、そうである以上は、受け手が読み込む(思い込む)しかないものを伴っているからです。このように、意図においても、意味同様に、100%分かることはありえないことになります。
しかし、意図の場合は、意味とは違って、全く何も分からないということはないところに特徴があります。たとえば、身も知らない人が自分に向って何か分からないことを言ってくる(あるいは意味不明の叫び声を浴びせる)という場合、確かに、なんで自分にそんなことをするのか、はっきりとした意図は分からない。しかし、少なくとも、他ならぬ自分に向って何かを送り付けているということだけは「分かる」。意図として言葉にできるようなものはつかめなくても、何らかの理由で自分が受け手に選ばれたことだけは、分かる。意図から内容を削り落としてギリギリに残るものだけは受けとることができます。そして、私たちはそれに応えることができる。そういう意味では、意図が0%分からないということは無いと言えます。コミュニケーションが伝達行為を含むものである以上、0%分からないということはないわけです。
見知らぬ人の話は極端にせよ、犬や猫のようなペットとのコミュニケーション、あるいはまだ言葉を完全にはマスターしていない赤ん坊とのコミュニケーションのことを考えてみれば、意味や意図がこれだとはっきりしない場合でも、コミュニケーションが成り立つ(少なくとも成り立っているという感触がある)のは、このギリギリの送る−応じるという応答が成立することにあるのだと言えるかもしれません。心(意識、精神)があるかどうかも分からないモノ相手であっても、相手が「自分を受け手に選んだ」という選択の痕跡のようなもの(これがギリギリの意図といったもの)が感じられれば、そこにコミュニケーションの回路を設けることができるわけです。
ペットや赤ん坊とのコミュニケーションは、もしかしたら、こちらが勝手にコミュニケーションをしているつもりなのかもしれない。この点に、人間のコミュニケーションの重要な側面が現れています。つまり、送り手に意思や意図がなくても、受け手が勝手に「受けとって」、コミュニケーションが起動することがある、というものです。言語を介さないコミュニケーションにおいては、このようなことがよく起こります。相手の何気ないしぐさが自分への好意の徴に思えて、その時から相手が気になって仕方がない、というのは勘違いの王道みたいなもんです。あるいは、自分には全くその気がなかったのに誤解されてしまったという経験は誰にもあるのではないでしょうか。
つまり、私たちは、何かがメッセージだと「感じてしまった」瞬間に、受け手としてコミュニケーションに巻き込まれてしまう。身体的なしぐさに限りません。たとえば、机の上に置かれていたエンピツでも、道端に落ちていた石でも、それが「何かを自分に伝えているモノ」=メッセージだという感触が得られた瞬間、私たちは勝手に受け手になるわけです。
この点を考えると、人間の言葉というのが、コミュニケーションの手段として特異なものであることが分かります。なぜなら、言葉は、かならず意思をもって用いないと現れてこないものだからです。前に、人間は狂ったサルだから言葉は学習するしかないという話をしましたが、学習するしかないものというのは、別の点から言えば、自然にはありえないもの、意識的に用いなければ出てこないもの、ということでもあります。だから、私たちは、言葉であれば、それが言葉であるかぎり、送り手(話し手、書き手)が、意図的にメッセージを発したことを確実な前提として、受け手になれるものなわけです。もちろん、例外的な事例はあります。しかし、言葉に「出会った」時には、ほぼ確実に、そこに意図と意味が込められていることを前提にできる。単なる生理的な反応ではないことを確実に前提にできる。言葉とは、こういう点で、特権的なコミュニケーションの手段であるわけです。
2006年11月10日
コミュニケーション論 メッセージと理解
まずメッセージとは何か?という観点からコミュニケーションについて考えてみました。私たちがコミュニケーションを通じて「伝えている」ものがメッセージなのですが、それは前回までの話から、ひとまずは情報=意味と伝達=意図が一体になったものとして押さえることができます。そこに示されているもの(意味)が、そこに現れていないもの(意図)を同時に表すという、二層になったものとして考えることができる。何かがただそこにあるとき、それはメッセージではない。そこにあるものが、あえて/わざわざ/よりによって、そこに・そのようにあると感じられたとき、私たちはそれをメッセージとみなすわけです。メッセージとは物の性質ではなく、そこに感じられる「わざわざ性」によって見出されるものであるわけです。このわざわざ性が、私たちに、そこに託された(隠された)意図や、そうした意図を抱いた存在としての送り手を想定させ、その送り手からのメッセージとして受け取り、読み解くことへと巻き込まれるわけです。雨が降るといった自然現象において、普段は、ただ今日は雨が降ってるとか、寒いとか、ただそれだけのことなのに、何かイベントの日に雨が降ったりすると、私たちは「よりによって雨が降るとはねぇ」といって、日ごろの行いのせいだとか、雨男がいるからだとか、その「よりによって」、つまりわざわざ性の原因=送り手を想定しようというパターンにハマります。このわざわざ性の感覚が、私たちを受け手として巻き込むといってもよい。
このわざわざ性とは、つまり、痕跡という言葉でおさえることができます。誰かが、何かをした、その跡、気配、それがメッセージとしての受け取りへと巻き込む。その意味で、メッセージとは、根本的には、痕跡である、と言うことができます。そして、私たちは、痕跡に出会った時、それをメッセージとみなし、そこに意味と意図を読み解こうとして、受け手になってしまい、コミュニケーションを起動することになるわけです。
ですから、メッセージは意味と意図の一体となったもの、という押さえ方は、やや不正確なのであって、メッセージとは、それがメッセージとして受けとられることで、意味と意図の合体として読み解かれることを引き起こすもの、とでも言わなければなりません。送り手からすれば、メッセージは、何かの意図を込めて、一定の意味あるもの(言葉)で送り出すわけですから、意味と意図をくっつけるものという理解でもいいのですが、受け手には、それがメッセージであると感得することが、意図と意味の一体になったものであると読み解くことと同じことであり、それが本当にそうなのかどうかは問題にならない。ですから、一体になったもの、というよりは一体になっていると思われたもの、なわけです。なんだかややこしい話になりましたが、まぁ、ようするに、痕跡は、痕跡として見出されるものということです。
この点で、言葉のコミュニケーションは、その言葉は意味と意図が込められていることが明らかという点で特異(特権的)なものなのだという前回の話につながります。
すこし話はそれますが、送り手の側も、自分の言葉が痕跡として読み解かれるしかないものだからこそ、真剣に伝えようとすればすれば、逆に言葉がスムーズに出なくなるといったことが起きます。思ったままをそのまま言葉にすることは、もし目の前にいる相手に聞いて欲しいならば、できないのだといっても良いでしょう。そして、聞き手(受け手)も、送り手が自分を前に言葉を選んでいることが感知できるとき、そこに強く巻き込まれる。あらかじめ用意された原稿を目の前でただ読みあげられる時のライブ感の無さとは、そこにあります。ライブ感とは、自分(自分たち)がそこにいることが相手のコミュニケーションになんらかの影響を与えていることをリアルタイムで感じられる、他ならぬ自分が聴いていることを確認できるということ、そういうことですから。
このことは、私たちがコミュニケーションを行っているとき、メッセージの意味と意図の中には、そのコミュニケーションが行われている状況や人や経緯といったものが織り込まれ、確認されているということでもあります。極端に言うならば、あなたがそこにいて・わたしがここにいること、を互いに確認しあい、認めあうことが、メッセージを通して行われているわけです。テーマや記憶によって、その都度、コミュニケーション、メッセージ、あるいは予期の妥当性を確認することが行われている。この点でも、コミュニケーションが単なる情報の伝達ではないことが分かると思います。そして、先走って言っておくと、このコミュニケーションの妥当性の次元で組織というものが入り込んできます。
このように考えてくると、コミュニケーションというものは、二人の人間の間で起こってしまう出来事である、と捉えることができます。どちらの意思によっても完全にコントロールすることができないもの、ということです。誤解が起きたとき、私たちは、どちらかが「正しく」、どちらかが「間違っている」という図式で捉えますが、現実のコミュニケーションのただ中においては、どちらも「正しい/間違っている」わけではなく、ただ何かが起きているとしか言えない。あくまでも、後から、それが誤解だったり早とちりだったと位置づけることができるだけです。
このように、間で何かが起きてしまうのがコミュニケーションですから、コミュニケーションとは社会的なものである、と言うこともできます。他者がいることによって、自分の意志だけではどうしようもないことに切実に巻き込まれてしまう、それが「社会的なもの」です。私たちの社会の体験とは、コミュニケーションの体験であると言ってもよい。
コミュニケーション論 コミュニケーションって?
ここまでコミュニケーションについてあれこれ考察してきて、コミュニケーションが単純な意思の伝達ではないことは了解してらえたのではないかと思います。では、コミュニケーションとは一体何なのか?
これまでの話をまとめると、コミュニケーションは、情報(意味)と伝達行為(意図)と理解(見出し)の3つの要素が一体になった出来事である、ということになります。
情報とは何が伝えられているか、伝達はどのように伝えているか、そして理解というのは(日常的な用法とはやや異なるのですが)何かをメッセージとして見出し意味と意図を読み解くことです。二人の人間の間でこの3つの要素が一体となるようなことが起きることがコミュニケーションである、というわけです。
この3つの要素は、いずれも、違い(差異)と選択が関係しています。何を伝えて/何を伝えなかったのか、どのように伝えたのか/伝えなかったのか、メッセージ=痕跡と見出した/見出さなかった(さらにそこにどのような意味と意図の重なりを読み取ったのか)。この点で、突き詰めて言うと、コミュニケーションとは3つの選択の統合であるといっても良いでしょう。
これで、とりあえずコミュニケーションとは何かということまで辿りついたのですが、コミュニケーションに関して、さらに考察しておくべきことがあります。
まず、コミュニケーションは、行為として観察されるということです。コミュニケーションが先行する(過去の)コミュニケーションを取り上げるとき、本質的には間で起きた出来事であるコミュニケーションを、送り手が情報を伝達した行為として整理し、言及することになります。私たちは、この「誰かが何かを何らかの方法で伝えた」という形でしか、コミュニケーションについてコミュニケーションできません。だからこそ、私たちは、通常、コミュニケーションとは、送り手から受け手への情報伝達であると考えているわけです。そして、この図式の中で誤解なり食い違いなりといった形で問題が整理されたりするわけです。原理的に考えれば、コミュニケーションは、送り手と受け手のどちらにも属していない出来事です。しかし、時間軸上で確定できる行動を中心にすることで、送り手の行為としてつかむのです。行動に「付着させる」ことによって、過去の時点として参照(言及)可能になります。このように、コミュニケーションを、伝達行為(行動)を軸として整理し補足していくようになっています。
このことは、当たり前のようで重要なポイントを示しています。つまり、私たちは、コミュニケーションについてコミュニケーションできる。過去のコミュニケーションをとりあげて今の話題にすることができる。過去のコミュニケーションについて「なぜ?」と問い直すことができる。そのことによって、意味や意図について語り直すことができるようになっているわけです。その都度のコミュニケーションで起こってしまったこと(誤解した/された、傷ついた/傷つけられた等)を無かったことにはできませんが、それについてのコミュニケーションを行うことで意味付けを書き換えていくことはできる。コミュニケーションによるトラブルはコミュニケーションの継続によって書き換えることができる可能性がある。ここに人間のコミュニケーションの特徴があります。
もう一つ、コミュニケーションの理解と、受容とは違うということも押さえておく必要があります。ようは、言われたことが分かることと、それを受入れることは違うという、まぁ、当たり前のことです。つまり、コミュニケーションにおいては、受け手の選択(聞き入れるのか、従うのか、信じるのか等々の選択)が関与して、そして次のコミュニケーションへと接続していくことになるということです。
このことは当たり前のことののようですが、コミュニケーションの進行を考えるときに重要なポイントになります。つまり、コミュニケーションとは受け手に選択を迫るものであるということだからです。コミュニケーションの受け手になったとき、そしてどうするのか、なんらかの選択をせざるをえない。いったん聞いてしまったら、聞かなかったことにはできない。受け手は選択するものだとみなされる。聞かなかったことにするということも選択としてとらえられます。つまり、コミュニケーションとは、送り手から受け手への選択の強制として捉えることができる。この典型的なものが、恋愛の告白というやつです。「自分の気持ちを伝える」というのは、自分の気持ちを情報として提供するということではなくて、その情報を受けとって自分との関係に選択(恋人として付き合うのか否か)を迫るものです。この選択を迫られることによって、受け手は、なんらかの次のコミュニケーション(反応)をせざるをえないわけです。そのことが、コミュニケーションの継続・進行を生み出します。コミュニケーションには、さらなるコミュニケーションを産み出す働きがあるといってもよいかもしれません。この点も、私たちの人間のコミュニケーションを考えるときには重要なポイントになります。
以上が、11月10日の講義の内容です。
2006年11月17日
協働論
この日は協働論として、協働の成立を中心に論じました。
協働とは二人以上の人間が共に働くことです。その本質的なものとは、相互行為であり、相互行為が成り立つということは、コミュニケーションが継続して行われるということがあります。そこで、二人の人間の間で安定的にコミュニケーションが継続するための条件を考えてみます。ただし、コミュニケーションが安定的に継続するということは、二人が「仲良くする」とか「分かりあう」、あるいはコミュニケーションで合意に達することではありません。たとえ喧嘩であっても、それが続いて進行するならコミュニケーションの継続とみなせます。
さて、この講義での人間に関する出発点である、人間の意識(心、精神)は、互いに不透明である、というところから出発しましょう。互いに何を考えているのか分からない2人の人間が出会って、そこで二人の間で安定的なコミュニケーションの継続が成り立つには、何が必要か? ここでは、原理的な点を考察するために、状況や場から得られる情報はないものとします(たとえば、大学という場であれば、たとえ見知らぬはじめての人間でも、最低限、学生であることは手掛かりになるわけですが、そういう場や状況からの手掛かりはないものとするわけです。このとき、二人の人間は、互いに、相手がどうするかを予想した上で自分の行動を決めようとする。しかし、互いに確定的な手掛かりは得られないわけですから、堂々巡りの状況に陥ります。AとBという二人の人間が出会ったとき、
- Aは、Bがどうするだろうかということを予想して、自分の行動を決めようとする
- Bは、Aがどうするだろうかということを予想して、自分の行動を決めようとする
互いに、自分の行動の決定が相手に依存するため、何かはっきりとした行動の指針を得てから行動しようとすると、堂々巡りになって決着はつかない。
で、この堂々巡りはどう決着するか? それは、とありあえずどちらかが何かをすれば、それを手掛かりとして関係を築くことができるということにあります。不透明な他者との間に何かしっかりとした共通の基盤となるものを確保してから行動しようとする(つまり、堂々巡りを解消する)というのではなく、堂々巡りの中から関係をつくっていくことことです。
たとえば、AがBに対して何かしたとする(少なくともBは、Aが自分に対して何かをしたと感じたとする)。このとき、Aの行動は、Bにとって、Aの選択として現れます。つまり、Bは「他にも色々なことができたであろうにAはあえて自分に対して○○を行った」として、そこから、Aに関して、「おそらく〜ということではないか」という読み(予期、思い込み)を立てることができる。それを手掛かりに、BはAに対して何かを行うことができるということになります。
コミュニケーション論の中で、伝達行為は、たとえ何か具体的な意図を伝えなくとも、何かを意図したこと、そしてそれを自分へのメッセージとして送ったということ、これは受けとれるという話をしましたが、まさに、そのことが、堂々巡りの状況の中で、関係をつくっていく手掛かりを産むのです。
何であれ、何かが行われると、それがコミュニケーションと理解されることによって、選択として解釈できる。そして、少なくとも「この場に相応しいことをしようとしているはずだ」という仮定を基盤として、その選択を受けとめ、自分がどう反応するべきかを決めることが可能になるわけです。相手の行動がコミュニケーションとして受けとめられるとき、その行動は、次なる行動の選択を可能にするという意味で、行為になるのです。
そして、相手に関する何らかの予期(読み)をもつことができれば、それ以降の出来事は、その予期を軸に、予期通りであった/予期が外れた、という観点から意味付けていくことができるようになるわけです。予期にかんする議論のところで触れたように、予期をもつことによって、対象のわけのわからなさ(複雑性)は、自分の予期の確かさの問題へ転換できるわけです。
このように、いったん何らかのコミュニケーションが両者の間に発生すると、それを手掛かりに、行動の応酬が可能になると考えることができます。
そして、応酬が続くのであれば、その応酬の積み重ねの経験、つまり過去(履歴)が生まれますので、少しずつ、過去=履歴を手掛かりにもできることになります。過去は、確実に起こったことであり変わりませんから、それを確実な判断基準として用いることができる。もちろん、その過去をどのように解釈し意味付け予期へと繰り込むかは、個人ごとに異なる。しかし、時間の進行の中で互いに応酬を重ねていくことで、互いに相手への予期を絞り込むことになる。行動の応酬、つまりコミュニケーションの連鎖が継続進行していく中で、その履歴(過去)によって、ありうることの可能性が互いに限定されていくことになります。
このように、時間が進行して行く中で、非可逆的に出来事が積み重ねられ、その積み重ねが「共有」されるとき、コミュニケーションの安定的な継続が生まれてきます。互いの抱く相手に対する予期が、コミュニケーションを切断してしまうような齟齬をきたさない限りにおいて、コミュニケーションを続けることができるわけです。
つまり、たとえ互いに全く不透明な二人の人間が堂々巡りの状況で出会ったとしても、そこに偶然であれコミュニケーションが始まれば、互いに予期を抱き、それを履歴で検証していくことで、予期が整合的なものとなって、コミュニケーションの安定的な継続が生じる可能性があるということです。このとき、互いに相手に対して抱く予期は、相手の真実だとか本当の姿に迫るものかどうかということは関係ありません。とりあえず、相手はこんな人間だ(こんなことを考えている、こんなことをする)と思うことでうまくいくということだけです。つまり、いったん始まったコミュニケーションは、コミュニケーションがそれでうまく行くということだけを最終的な基盤として、そのコミュニケーションを成り立たせる予期を生み出すことになるわけです。
ここまでの話は、言ってしまえば、二人の人間の協働=コミュニケーションの継続は、互いの予期が整合的であることによって成り立つ、という話です。それを最初にいえばいいのに、ここまで回り道をしたのは、予期が整合的になる(一致するということではない)には、何らかの確固たる共通の基盤のようなものがなくてもよいということを確認しておくためです。コミュニケーションが進行を始めると、それが進行して行くことが、コミュニケーションを安定的にする(可能性がある)ということ。二人の人間が互いに不透明であるとき、この不透明さを解消しなくとも、不透明なままで関係を築くことができること、このことがポイントです。
互いに相手に対する妄想を抱いているだけであっても、その妄想が、これまでの両者の間の出来事の履歴と、その都度の相手の行動とによって、「間違っていない」と「確認」でき、自分の行動の手掛かりにできるとき、妄想を抱いたもの同士がコミュニケーションを継続することは不可能ではないわけです。
人格
協働(コミュニケーションの継続)が成り立つには、互いの予期の整合性が成り立てばよい、ということが確認されました。この場合の予期というものについて、まず考えておきます。
個人に対する予期というものは、通常、私たちにとっては、「その人らしさ」、人物像として捉えるものです。やや堅い形でいえば、その人の人格(パーソナリティとかキャラクター)として、相手に対する予期を形成していきます。つまり、私たちが他人を「分かる」というときは、その人に対する一定の予期をもつことができるということなわけです。人格というのは、その人に着せられた予期(の束)だと言っても良いでしょう。コミュニケーションの中で、私たちが理解する「他人」とはそういうものです。
通常、私たちは、人格なりパーソナリティといったものは、その人の内面にある何かが(本当の自分)が表面(行動)に現れたもの、として理解しています。不透明さの膜から透けて見える相手の真実、みたいなものとして。しかし、上の議論は、外部からその人に帰せられた予期が人格であるという構図になっています。この違いに注意してください。極端に言えば、自分がどんな人間かということは、周りの人間が自分をどんな人間だと思っているかということである、ということです。これが、コミュニケーションにおける私たちの人格の把握の仕方であるということです。もちろん、コミュニケーションを通じて自己表現を重ねることで、自分のセルフイメージと、相手が抱いている人物像をする合わせていくことは可能です。しかし、コミュニケーションの中で自分の内面にある「本当の自分」が正しいという図式は、通用しない。ちょうど、コミュニケーションにおいて発話者の意思が、受け手の理解の「正しさ」を根拠づけないのと同じことです。コミュニケーションの継続にとっては、相手の人物像(予期)が真実かどうかは問題ではなく、その予期によってコミュニケーションを継続できることが重要なのです。もちろん、自分の理解のされ方が自分のセルフイメージとは異なること(それが異常でも何でもないこと)が、本当の自分探しという泥沼へ自分を追いやってしまうきっかけにはなるかもしれませんが、本当の自分(そんなものがあるとして)を見つけてそれを十全に表現したところで、そのように自分が理解されるかどうかは別の問題であるということは変わりません。本当の自分なんて探している暇があったら、コミュニケーションの中で自己をどう表現するかというセルフ・プロデュースの戦略を考えた方が実りがあるということになるのかもしれません。ともあれ、この講義では、個人の人格とは、コミュニケーションの中で帰属された予期の束であるということを基礎とします。
次に、他人に対する予期というものは、厳密に考えると、予期の予期という形になります。つまり、「その人がどのような予期に基づいて行動するか」ということにたいする予期、相手がもっている予期に対する予期、これが人格的な存在としての人間に対する予期ということです。なぜ予期の予期になるかといえば、人間に自由がある(自由を認める)からです。原則的には自由勝手に行動できるはずの人間が、一定の傾向性を見せるとき、その傾向性(パターン)を予期として捕まえ、人物像を形成するわけですが、その傾向性とは、あくまでも自由であるにも関わらずそうするだろうというというものであり、つまりは行動の基盤となる予期がそういうものだからという理解になるということです。相手の行動を評価する場合、相手が自由意志があるに関わらずそうせざるをえない法則とか限定があるというのであれば、それは人格的なものへの予期ではなく、身体的・物理的な法則(あるいは社会的な制約)への予期になります。私たちが人格(人物像)として押さえるものは、自由意思を持った人間が自発的に行動する場合の傾向性であり、言ってしまえば自由にするときに現れるパターンなわけです。このパターンは、その行動を支える予期によって生み出されると考えるしかない。ですから、人格的な人間の把握は、予期への予期になります。簡単に言ってしまえば、私たちが相手を判ろうとしているときは、相手がどんな予期をもっている人間かということを分かろうとしているということです。
この相手のもっている予期にたいする確かさの感覚が、信頼というものの基盤となります。信頼とは、その人の行動とその背景に想定される人格(人物像)がブレないという感覚、つまり、その人が、常にその人らしい行動をするだろうという感覚を基盤として抱くものだと言えるでしょう。ここにあるのは、相手は、相手のもっている人格的な予期に従うことへの予期です(話がややこしくなってきてますが)。状況の変化にも関わらず、その人がその人らしく行動するだろうという予期が得られるとき、私たちはその人を「信頼する」わけです。その信頼とは、相手が自分の予期に従うように/外れないように、ある種のセルフ・コントロールを行うだろうという予想とも言えるでしょう。いかなるときもその人らしい人を私たちは信頼する。個人的・人格的信頼とは、相手の中の予期と相手の行動との関連性の強さに向けられています。信頼とは、その関連性の強さを感じた人が一方的に抱くものです。信頼は、するものであり、されるものであって、してもらうものではない。予期と行動の関連性が信頼というものになるのは、そこに自由が絡むからです。つまり、原則的にはどのようにも行動できるにも関わらず、その人らしくあり続けているということ、自由をコントロールしていることへの予期、それが信頼です。ですから、計算と違って、信頼には、もしかしたら裏切られる(予期が外れる)かもしれないという保留がかならず着いています。そして、信頼し続けていいものかどうか、つねにチェックが働き続けるものです。なお、信頼の反対は不信(信頼できない)ですが、たとえ相手を信じられなくとも、私たちは信じられない人間として扱うことでコミュニケーションの継続が可能です。その意味では、コミュニケーションの継続という観点からすれば、信頼の反対(否定)は、「わけがわからない」(信頼していいのかどうか分からない)ということだと言えるでしょう。
さて、人格的な予期の成立、信頼の判断、こうしたものによって予期が互いに整合的になること、こうしたことによって協働=コミュニケーションの継続がなりたつわけですが、この関係を安定化させる方法として、互いに自分に向けられた予期を自覚する(自覚させる)ということがあります。もちろん、互いに相手がどんな予期を自分に向けているのか(自分がどんな人格の人間だと思っているのか)ということを、直接的に明確に理解することはできません(互いに意識は不透明ですから)。しかし、コミュニケーションの継続のなかで、自分をどのように理解しているかということを予想することは可能であり、その予想が正しいのかどうかを確かめることは可能です。それが「正しい」かどうかは別にして、相手が自分のことをどのように思っているか(自分がどのように受入れられているのか)を探り、それに対して自覚的に行動しようとするとき、関係は安定化します。自分に向けられた予期が「分かってくる」ことで、行動の選択の際に、自分の行動を相手がどのように受けとめるかが先読みできるようになり、その先読みに従うことで、受入れられやすいような行動をすることができる。なんだかややこしくなってきましたが、簡単に言ってしまうと、お互いが、相手が自分のことをどんな人間だと思っているかを理解しそれを踏まえて行動するならば、コミュニケーションはより安定的に進行するということです。もちろん、相手が思っている自分といっても、自分でかってに想像するしかないわけですが、その想像を行動の積み重ねの中で、確かなものにしていくことは可能です。少なくとも、相手との安定的な関係を維持する手掛かりとしては使えるものになる。このように、互いに、自分に向けられた予期が判るということが、協働を安定的に進行させる可能性を生み出します。もちろん、本当の真実の理解かどうかは、ここでは問題にはならないわけです。手掛かりとして使えるということが重要です。
2006年11月24日
協働から協働システムへ
前回の講義において協働の成立を論じた際には、二人の不透明な人間の間に、互いに対する予期が成立することに焦点をあてて、とりあえずその二人の人間が置かれている状況(場)については触れませんでした。しかしながら、私たちが具体的な相互行為を行う場合には、つねに何らかの状況、場の中で行うわけです。ですから、私たちが抱く予期についても、そうした場・状況に関連するものが含まれることになります。つまり、相手に対する予期が、一方はその相手の個人的な特質からくると思われるもの(これを人格として押さえておきます)と、他方はその場の状況から来ると思われるもの(これを広義の役割として押さえておきます)との二本立てになるわけです。後者の役割は、その人でなくても同じような状況ならばたいていの人はそうするであろうという予期、つまり匿名的な予期になります。ただし、役割の場合は、焦点はあくまでのその人の置かれた立場というものの想定、つまりこの場のその状況だからにおけるその人の立場というものの想定に結びついたものです。ですから、それ以外の状況に関する予期というものが分かれることになります。たとえば日本人のようだから日本語で会話できるだろうといった一般的な予期は、役割とは別の形で把握されることになります(自分と相手との共通の条件に焦点が向けられるものと言っても良いでしょう)。その場でなくても成り立つような予期、役割が匿名的なものだとすれば、その他の状況というのは匿「場」的なものといってもいいかもしれません。
このように、具体的な状況における相互行為・コミュニケーションの継続においては、相手に対する人格的な予期、相手に対する役割的な予期、そしてその他の状況に関する予期、とおおまかわけて3種類の予期が生まれてくることになり、私たちはこの3種類の予期の形成と確認を経ながらコミュニケーションを積み重ねていくことになります。
個人の行動が、人格的な予期と役割的な予期にわけて処理されていくということは、観点を変えるならば、人のどんな行動であれ、その行動は、人格の表現と役割の表現という二面の表現によって受けとられていくものであるということです。単純に言うなら、どんな行動も自己表現になるし、役割遂行にもなるということです。自己表現は止められない、といってもよいかもしれません。このように二重の表現として私たちは他人の行動を評価し予期を形成するわけです。
ただし、ある行動の、どの部分が人格的表現で、どれが役割的表現なのか、ということは受け手の状況理解次第です。客観的・絶対的な区切りがあるわけでもなく、そうした区切りをつけることが可能でもありません。人格と役割の二面の区別が行われるということは確実ですが、特定の振舞いがどちらで評価されるのかは、コミュニケーションの当事者次第です。
たとえば、100%の自己表現だけといったものはありえません。パフォーマンスのように自己表現だけを目的として行われるものであっても、それが自己表現として読み解かれ受けとられるためには、何らかの枠組みにしたがっている、極端に言えば「自己表現を行っている」という枠組みにしたがっていることが了解されなければなりません。そうでなければ、ただのデタラメになってしまうでしょう。行動が行為として受容されるということは、そこに行為としての連関を成り立たせる「役割」がかならず意味付けられるということです。一方で純粋な役割遂行もありえません。どんなにあらかじめ決められた指示通りの動作を行っている場合でも、「指示通りにまじめに役割を遂行する人間である」という自己表現として受けとれるからです。どのような役割であれ、それが一人の人間によって担われるしかない以上、かならずその担い手の自己表現(自己呈示)になります。このように、具体的な行動は人格と役割という二面で理解され、予期を生み出すことになります。
行動が役割と人格という二面で受けとられるということは、体験・経験の履歴(歴史)が二面的に記憶されていくということでもあります。過去というものを参照することで私たちは関係を安定的なものへと仕向けていくことができるわけですが、その過去が二つに分けられ参照されるということになります。そして役割的な過去というものは、共有された過去として受けとられていくわけです。その場で起こったこと、その場だから起こったことの積み重ねのうちの、場の特有性は、ここでいう広義の役割的記憶として積み重ねられるからです。
さて、いったん成立した協働が、中断を経て継続する必要が生じた場合、あるいはその協働が一つのまとまりとして他の人々などと社会的な接触活動を行う必要が出てきた場合、協働は協働システムへと転じます。このとき、協働は、名前をもつことで、協働システムへと転化します。名前をもつことによって、中断の後も「同じ」協働として再開することが可能になり、全体として外部との交渉も可能になります。中断の後、ふたたび同じ協働を続けるための条件とは何か? まず同じ人間があつまるということは必要ですが、それだけではなく、協働として「同じ」ものであることを可能にし、確認できることが必要です。それは、協働に名を付け、コミュニケーションにおいて名指せることによって可能になります。コミュニケーションによって名指せることで、過去の協働の記憶を、今の体験につなげることが可能になるからです。つまり、「同じ」協働であることの保証は、履歴(記憶)の連続性によって確保するわけです。履歴の連続性を確保するには、再開の時点で、コミュニケーション(行動)において過去の履歴を互いに参照する必要があるわけですが、当然のことながら履歴のすべて(過去において起こったことすべて)を語り直すことは不可能ではないにせよ、負荷が大きすぎです。そこで関係に名前を付けることで、名指しすることで、参照するわけです。同じ名前の集まりであること、つまり同一性は名前が保証し履歴が裏付け支えるのです(同一性とは、時間の中で、不連続に起きることを「同じ」と認められるということです)。このように、協働が他とは区別できる名をもつことによって、コミュニケーションの中で言及することが可能になり、それによって同一性が確保できることになります。
関係に名前を付ける、それだけのことをなんで大げさに取り上げるのかと思われるかもしれません。しかし、コミュニケーションにおいて、名をもつと言うこと(名指しできるということ)は重要なことなのです。他と識別できる名前をもったものは、その名前をシンボルとして、コミュニケーションすることが可能になるのです。これは何も協働に限りません。私たちがひとりの人間としてコミュニケーションに参加するための条件も、名前をもつこととその名前の記憶を保持することに帰着します。たとえばネットの掲示板では匿名や偽名での参加が可能になっているものがありますが、そこで対話がなりたつ条件は、参加者が他と識別できる何らかの記号と発言を結びつけることと、その記号で名指された時に応えるということです。匿名の掲示板では、発言番号が名前の代わりに機能しているのを見ることができます。以前に話題になった『電車男』でも、最初は 731 という発言番号を名前として使うことで他の人たちからのコメントに答えるということからスタートしています。このように、コミュニケーションの継続において、私たちは、それが本名だろうが偽名だろうが番号だろうがとにかく他と識別できる記号と結びつけることができる形で発言し、その記号への問い掛けを引き受けるということが、ポイントになります。端的に言うと、他の人たちから名指すことができるようになること、です。もちろん、同じ記号=名前としての履歴の連続性(一貫性)が求められます。その連続性が最終的に同一性を支えるのです。名前と履歴(記憶)、これがコミュニケーションの参加者である最低限の条件なのです。
すこし話がそれましたが、協働は名前をもつことによって、一つの他とは区別されたモノとして、協働システムになるのです。そして、名前があることによって、たとえば飲み屋の宴会の予約をしたりできるわけです。名前によって、つながり・まとまりが「一つのモノ」になるわけです。
なお、システムという言葉をここでは何の説明もなく導入しましたが、とりあえず、時間の進行の中で他と区別される一つのモノとしてあり続けるというあり方を指している言葉だと理解しておいてください。協働システムにおいては、参加者とその間での体験の共有が名前をもつことで一つのシステムになっているわけです。
協働が名をもつことによって、役割的予期、役割的記憶が、システムの名前をシンボルとした予期、記憶として整理され参照されることになります。厳密に言うと、この段階で、はじめて役割は役割として、場そのものとは切り離すことができると言えるでしょう。その場がどういう場でありどういう状況を共有してきたかということと(これをシステム的記憶、システム的予期と呼ぶことにしておきます)、その状況の中での位置とその位置で匿名的に「ふさわしい」行動とを、分けることが可能になるからです。こうして、協働システムにおいては、予期そして記憶が、人格的、役割的、システム的、その他の状況、と分化することになります。
協働システムから組織へ
協働と個人的行動の比較という観点から、二つほど取り上げておくべきことがありますので、それから話を始めます。
まず、協働システムが成立して、それが一つの集まり=まとまりとして意識されるようになると、それに関わる人間にとって、関わり方が二重化します。簡単にいうと、「みなで何をするのか」ということと、「それになぜ自分が参加するのか」ということが分かれます。これは何か共通の目的を達成するために集まっている協働を考えてもらえば分かりやすいのですが、全体でするべきこと(全体目的)と、それに参加することで自分が望んでいること(個人目的)とが分離するということです。この分離は不可避のものですし、基本的には解消不可能なものとしてあります。場なり全体なりが一つのモノになったとき、そのモノと自分との関わりという観点は不可避的に生じるものだからです。目的という言葉がしっくりこなければ、動機と言い換えてもかまわないでしょう。いずれにせよ、参加というあらたな視点が持ち込まれるということです。なお、個人目的と全体目的との分離が悪いことのように言う意見がありますが(たとえば全体のために己を捨てて尽くすのがスバラシイといった話)、あれは間違っています。分離が必然である以上、分離を消去することはできない。個人的行動の場合にはありえない、目的=動機の二重化が協働では生じるのです。
もうひとつ、協働と個人的行動を比較したとき、原初的な管理行動の発生するということがあります。これは、共に協働をする相手への気配りとか気遣いのようなもの、つまり、関係の維持・継続・促進のための行動です。直接に何か「結果」を生むのではなく、間接的に産み出すための行動、と言っても良いかもしれません。相手に声をかける、感謝の気持ちを表す等々、色々な相手への配慮といったものが協働では生じるわけですが、それは根本において、関係(システム)の維持へと向っている。その意味で、こうした行動は、管理行動(経営)であると言うことができます。言ってしまえば、組織の管理の素朴な形がここにあります。こうした原初的な管理行動が生まれるのも、個人が単独で何かを行うのとは異なっている点だと言えるでしょう。
さて、協働から協働システムときて、いよいよ組織を論じることにします。
通常、私たちが組織という場合、人が集まって一緒に何かしているということを言いますから、その点では、協働システムはすでに組織であるといってもかまわないようにも感じます。具体的実際的に、複数の人々が協働を行っているという点で違いはない。しかし、この講義では、あえて協働システムと組織を分けて考えます。そして、組織と協働システムの違いとして、組織は人の出入りがあっても同一のシステムであり続ける、として押さえることにします。
これまでの議論で、二人以上の人々の間で継続的なコミュニケーション(相互行為)が成り立ち、それが一つのモノとして名をもつとき、協働システムが成立するということまで確認しました。協働システムにおいては、誰がいっしょであるかという人格的な側面の予期と記憶が、その存続において重要なものとしてあります。システム的な記憶と予期だけでなく、参加者相互の人格的な記憶と予期が、その場での互いの行動を支えるものとして重要なわけです。それに対して、同じ協働のシステムである組織の場合には、少なくとも中心的な行動においては、互いの人格的な予期や記憶をあてにする(参照する)必要がない、ということです。同じシステムに関わっている人間であるということを基本的な判断の基準として自分の行動(を支える予期)を確保できるもの、それが組織だということです。
世の中にある多くの組織、たとえば会社にせよ学校にせよ、それらは年々入る人も辞める人もいますが、同じ「組織」として存続しています。県立大学も、年々、新入生を受入れ卒業生を送り出しながら、同じ組織です。あるいは、この経営組織論という授業は、田中がいなくなったとしても他の教員が担当するかぎり、教育機関として問題なく存続していきます。このように、組織とは、誰がかかわっているのかという関与者の個々人の人格的なものをあてにする事なく存続していけるようになっているシステムです。
この人の出入りがあっても同じシステムであるという点を端的に押さえる定義として、この講義では、組織の定義を「二人以上の人々の、意識的に調整された行為のシステム」とすることにします。行為のシステムであって、人間のシステムではないということをはっきりさせておくわけです。人間は、組織からみれば、行為の素材となる行動を提供する外部のもの、端的に言うと組織の外部環境ということになります。
もちろん、協働システムにおいても、行為のシステムであることには違いはありません。しかし、そこで関わりをもつ個々人の人格的な予期や記憶がシステムの同一性を保証するものとしてある。組織は、そうした個人的な予期や記憶をあてにしないで同一性を確保するということになります。そのメカニズムは後ほど展開します。とりあえず、実態というか現実に行なわれていることの次元(現象)においては協働も協働システムも組織も同じコミュニケーションの継続ですが、継続を成り立たせる編成原理(同一性の確保)が異なるのだと理解しておいてください。
さて、ここで組織の中の「行為のシステム」ということをじっくり見ておきます。先ほども述べたように、行為であって人間ではないというのが一つのポイントなのですが、それ以外にも押さえておくべきことがあります。
行為のシステムというと、行為が要素としてあって、それを集めてきてシステムが作られるかのように感じるかもしれませんが、そうではないのです。組織は、行為を生み出している。つまり、何らかの動作や行動が行為というコミュニケーション的な接続価値をもったもの(行為として理解するということは、それにどう反応するかを導き選択を迫るものだということ)として規定するものとして組織はあります。黒板の前で大声を張り上げ字を書きなぐるのが「授業」になり、机に座ってぼ〜っと見ているのが「受講」になる、それによって県立大学という教育のシステムが成り立っていることであると同時に、その組織が「授業」−「受講」という行為として意味付けを行っているわけです。このように、行為のシステムとしての組織は、要素である行為を、諸行動を意味付けることで、「自ら」産み出しているということができます。そしてある行為として意味付けることで、その他の意味付けや連関を捨象している。皆さんが自動車で大学に来るとき、二酸化炭素を排出し化石燃料を消費している。けれども教育の組織としては、「授業を受けに来た」という行為としてそれを意味付け、授業を行うことで応じるわけです。化石燃料を消費したからといって組織論を不可にするなんてことは、通常はありえない。このように、諸行動(振舞い)を特定の行為として「すくい上げ」、それに更なる行為を接続させていくという形で組織は動いているものです。何がその組織の要素であり、要素でないかを選別しながら、組織という一つのまとまりを維持するプロセスが進行しているわけです。これが組織は行為のシステムであるということです。
このように、行為のシステムは、何が自分の要素であり、何がそうでないかを識別し区別するプロセスとしてあります。つまり、内と外を区別し続ける働きとしてある。このとき、外側がそのシステムにとっての環境ということになります。
環境というものを、この講義では、常に在る特定のシステムにとっての外側にされたものとして捉えることにします。つまり、環境はシステムと相関的に相対的に存在するものであるということです。客観的な、環境そのものといったものはありえない。環境とは、常に、何かのシステムにとっての環境でしかないということです。いわゆる環境問題において、あたかも環境なるものが存在するかのような話がされる。しかし、その場合の環境であっても、人間にとっての環境(人間が見出せる、自分たちに関わりがある限りおいての環境)でしかないわけです。海底火山の硫黄の中で生きているバクテリアの「環境問題」ではない。このように、環境は、常に、特定の視点から見出されるものでしかないということを確認しておきます。だからこそ、たとば企業が、自分たちの環境をどのように評価し処理するかによって経営戦略が異なる(成り立つ)のだとも言えるでしょう。もちろん、環境はシステムと相関的だからといって、環境が判っているとか、システムが環境をコントロールできるということではありません。あくまでも、外部にあって自分たちではどうしようもないものとして環境はあります。
環境がシステムと相関的であるという点からは、システムとは、常にシステム(自己)と環境との区別をし続けているものであるということ、突き詰めればこの区別があるということがシステムの根幹だということになります。環境があって、そこにシステムが生まれてくるのではないわけです。
環境とシステムとの関わりについては、まだ論じなければならないことがあるのですが、とりあえず、環境とは常にあるシステムにとっての環境としてあるという点は押さえておいてください。
2006年12月01日
予期の一般化
前回の講義で組織とは人の出入りがあっても「同一」であり続ける行為のシステムであるということが確認されました。それを受けて、この日は、「人の出入りがあっても同一な行為のシステムは、どのようにしたら存立するか」という、組織の存立条件(成立条件)について考察しました。
まず、いったん話を協働及び協働システムの段階に戻します。そして、協働(システム)の成立条件を改めて確認し、どの部分を転換すれば組織を成立させることができるのかを考えていくことにします。これまでの講義で確認したように、協働は、関与する人間の互いの予期が整合的であることによって成立します。そして協働が安定化するには、この予期が安定的になることが重要だということになります。ここからスタートします。
予期が安定的になる、といいましたが、予期がどのようになれば「安定的」だと言えるのでしょうか? それは、予期が個々具体的な出来事に左右されなくなる(左右されにくくなる)ということです。つまり、色々と細かい例外はあるにせよ、たいていは通用するような予期というのが、安定的な予期ということになります。言い方を変えれば、予期が単純化、無差別化するということです。
個人の人格に即していうならば、「Aのようなことする人」「Bのようなことする人」…… という個別実例の列挙による把握から、「基本的にはやさしい人だ」「面白い人だ」云々という、いわゆる性格の次元で捕まえることができるということに相当します。そうすることによって、多少のブレはあっても、だいたい「その人らしさ」のようなものは分かるし、また、時として予期に反するような行動に遭遇しても、異常な(例外的な)行動として位置づけて流すことができるようになります。このように、なにが「普通」「ノーマル」であって、何が例外/異常なのかという区別ができるとき、それを支える予期は安定的なものになるということができるでしょう。予期が、個別の出来事の記録から、もう一段上の(抽象的な)レベルで形成されるということです。このような予期のレベルアップのことを、予期の一般化といいます。
予期の一般化は3つの方向で展開される必要があります。その3つとは
- 時間的一般化
- 内容的一般化
- 社会的一般化
です。それぞれについて見ていくことにします。
まず時間的一般化ですが、これは時間が変化しても予期を変えなくて済むということです。時間の変化とは何か? それは状況の変化です。状況が変化していくということは、予想しなかったことが起きるということです。つまり、予期に反する、期待外れの出来事が起きていく、それが時間が経つということの本質です。ですから、予期に外れる出来事が起きても、予期を変える必要がない、そういう予期であれば、時間が経つ中で安定的であるということになります。
予期に外れる出来事があっても予期が揺るがないようにするには何が必要か? 予期に反することが起きたときにどのように対処するのかがあらかじめ決まっていればいいわけです。端的に言えば、これは、先ほどの人格の例で話したように、予期に反することを異常/例外として位置づける、ということになります。つまり、たいていは「正しい」が、時として外れるようなことも起こりうる、という形で予期を形成できるとき、その予期が時間的に安定することになります。外れることがあるかもしれない予想というのが、いちばん強い予想なわけです。
もちろん、自分が抱いている予期が間違っていることを認めざるをえないようなことが起きる可能性はあります。予期というのは、根本的には勝手な思い込みですから、思い込みが間違っていることは当然ありうる。ですから、場合によっては予期を変更しなければならないかもしれないが、通常は、たいてい通用するもの、という形を取るのがよいということになります。私たちが互いに体験を積み重ねていく中で、私たちは、このような形で、帰納的に予期を一般化していくわけです。変化しないパターンを抽出しているということですね。以前に話した予期の種類でいえば、予期が規範的なものになることが時間的一般化ということになります。ただし、しつこいようですが、絶対的に通用するものになることではありません。あくまでも、それまでの過去の履歴から推定したものであり、これまではとりあえず通用していたというものでしかないという点は消えません。端的に言うと、どう転んだって予期は予期でしかありえないということです。
次に内容的一般化ですが、これは、個々のその都度の出来事の内容に予期が振り回されなくなることです。状況から独立した予期になることです。先ほどの人格の話でいえば、まさに個人を人格としてつかむことです。ある種の役割を想定すること、さらには関係の予期(共有された体験に基づく予期)が作られること、こうしたことによって、予期の内容的一般化が実現します。根本にあるには、何らかの変化しないモノを想定し、それに予期を結びつけるという図式の働きです。私たちが誰かの人格(その人らしさとか性格とか)を把握するとき、個々の行動は、行動した人間の中にある「その人らしさ」の「現れ」として解釈することで、その人らしさ=本質を想定するという図式で観察を行っています。外側には直接現れていない何らかの本質のようなものが人間の中にはあって、それが性格だとかその人らしさという形で捕まえることができると思っているわけです。この図式を支えているのは、本当に個人の内部に何らかの本質のようなものがあるかどうかではありません。個人の行動がある種の一貫性、傾向性を示すということ、その個人が記憶を備えた「同一性」を担っていること(過去に関するコミュニケーションに応答すること)、これによって、その背後に「変わらない何か」が想定されるわけです。このように、予期を何かのモノ(必ずしも物理的に存在する物ではない)に結びつけることで、予期は、個々の出来事に振り回されにくくなります。
最後の社会的一般化というのは、相手の内面を考慮せずに予期が妥当すると思えること、です。今、目の前の人間が何を考えているのかを気にしなくても、たとえば友人だからとか、「〜の会」の参加者だからといった、別の指標によって予期の妥当性を前提できることです。協働システムまでだと、この部分は、あまり強くはないのですが、組織ではこの方向が強力に働くことになります。一般に、制度というのは、この社会的一般化のためのものとしてあります。たとえば、車に乗っている人は、皆、免許をもっているはずだし、免許をもっているということは最低限の道路交通法などは理解している。この免許という制度のおかげで、車を運転しているとき、前から走ってきた車を運転しているのがどんな人間かを気にすることなく、曲がり角ではどちらが優先されるかとか、そういうことを予期通りに運転できるようになっているわけです。また、このような制度的なものの場合、予期に反する出来事が起きたときには、予期に外れた行動の方を悪いと確定できるし、周りもそういう自分の立場を認めてくれるということがあてにできるという、第三者の予期も関係します。
以上が、予期の一般化の三つの方向です。
履歴から明文化された予期へ
さて、予期の一般化を踏まえて、改めて、協働システムにおいて関係している予期を検討してみましょう。協働システムにおいては、互いの関係の積み重ねの中で、人格的予期、役割的予期、関係的予期、それにその他の状況の予期という4つの予期が、行動する際には関わっているわけです。では、これを「人の出入りがあっても同一な行為のシステム」にするには、予期がどのようになれば良いのでしょうか?
人の出入りがあるということは、当然のことながら、協働の相手が変わるということですから、すぐに思いつくように、人格的予期に依存しないようになることが必要ということになります。ただし、これは人格的な予期を廃棄するとか消去することではありません。人間が具体的に協働する際には、どんなに方が的なものであれ人格的な予期は発生しますし、それを手掛かりに目の前の具体的な個人との行動の調整を行う必要があります。ですから、お互いに人格的に行動するということは必要条件となります。人格的な予期への依存を下げるというのは、協働の中心的な予期において人格的な予期は不要、ということです。その代わりに、役割的な予期が重要になるということはすぐに判ると思います。相手がどんな人間かではなく、相手がどんな役割を担っているのかということの方を軸にして、相手との最低限の協働が可能になるようになれば、システムに関わる人の出入りも可能になります。
それでは、役割的予期と関係的予期を中心的な予期とすればよいのかというと、そう簡単ではありません。というのも、協働や協働システムの予期は、基本的に、過去(履歴)の共有によって生まれてきたものであり、履歴が保証するものになっているからです。つまり、「同じ体験をしてきている」(受けとり方や解釈は個別に異なるにせよ)ということが、協働(システム)を支えているわけです。この根本的な構造が変わらないと、新たな人は関わりを持てないということになります。新しい人というのは、当然のことながら、過去を共有していない人だからです。その人に過去を共有せよとか学べというのは、絶対に不可能ではないにせよ、かなり無理なことであるのは間違いない。もちろん、神話とか歴史の物語のような形に凝縮された履歴を学ぶことで、新参者が過去(履歴)を学ぶことはできるわけですが、それはあくまでも語られた過去であり、過去の体験そのものではない。
しかしながら、今述べた、「神話や歴史の物語を学ぶ」ということに、履歴の共有の代替策が示されています。つまり、予期の基盤となるもののを明文化・定式化し、それを軸に互いに予期と行動を調整していくということです。体験するのではなく、学ぶものにしておく、と言ってもいいかもしれません。実際には、神話のような物語ではなく、会則、規則、ルールといったものを明確に定めておくということになります。特定の予期を明確化し、それを受入れるようにするということです。
このように、組織という「人の出会いがあっても同一な行為のシステム」を成立させるためには、協働や協働システムの存立を支えている履歴(歴史、記憶)を、明文化し学びえるものした予期に取り替える必要がある。こうすることによって、過去の体験を共有していないものが新たに加わることが可能になるわけです。
以上が12月1日の講義の内容です。
2006年12月08日
公式組織論
前回までの講義で、人の出入りがあっても同じものであり続けるという組織が成り立つためには、共有された記憶(歴史、履歴)への依存部分を、明文化された規則(規範)に置きかえることが必要であることが確認されました。組織とは、知らない人との間で即座に協働が可能になるものです。互いに承認し調整の軸となる予期が、過去の体験の共有からではなく、新参者にでも理解し受容できるものになっていることで、人が入れ替わっても、互いに協働が可能になるわけです。
通常は、組織のメンバーであることを希望するということでもって、この明文化された予期を受入れたものとみなします。組織は人の出入りがあるということは、緩やかなものであるにせよ、その組織に関わる人とそうでない人の区別を付けることが必要ですから、メンバーというものがはっきりとしてくるわけです。そしてメンバーであることは、メンバーであることを望んでいる人であるということですから、その人は、通常は、組織の中心的な予期(たとえば目的)を了解し受容しているとみなしうるわけです。
しかしながら、本当に中心的な予期を受入れているのかどうか?という問いを立てると、ここでも内面に踏み込まないかぎり本当のことは分からないという問題にぶつかります。この点を解決するのが公式組織というものです。
公式組織とは、その組織の中心的な予期を明文化し(公式化し)、それの承認をメンバーに加わるための条件とする、という組織です。メンバーであるための資格(成員資格といいます)として、中心的な予期の承認や、一定のルール等に従う(たとえば立場が上の人の指示・命令には従うといったもの)ことが要求されます。
この仕組みのポイントは、メンバーであるということは、当然のことながら、中心的な予期やルールを受入れているとみなせるということ、つまりそのようなものとして扱って良い、ということにあります。本人がどのように考えていようと、メンバーである以上は、一定の予期にしたがって行動するはずとして扱える。このように、互いの内面に立ち入ることなく、メンバーであるという点だけを基準にして最低限の行動の調整が可能になるということです。そして、もし中心的な予期に反する行動をとったり、ルールに従わないということがあった場合には、成員資格に背いたとしてメンバーから排除されることになります。それによって、メンバーということと、中心的な予期に従うということの繋がりがかならず保たれるようにするわけです。
このように、特定の予期を公式のものとして、その公式的な予期(と諸規則)の承認・受容をメンバーであるための条件とするという仕組みをもっている組織のことを公式組織といいます。私たちの周りにあるほとんどの組織は、公式組織になっています。
公式組織は、メンバーであるか否かを明確に決定するものです。メンバーか否かという境界確定がシステムを成り立たせるといってもよいでしょう。ですから、メンバーの決定機関を必ず持つことになります。さらに、成員資格を構成する予期(公式化された予期)なりルールなりは、かならず決定によってのみ変更されるものとなります。つまり活動の経過といった時間的な推移の中でいつのまにか変わってしまったりすることはなく、かならず変更が決定されるまでは同じものであり続け、決定によって変更が加えられるものになります。この決定によってのみ変更されるということ、そして決定は明確に知りうるもの(過去の決定も含めて)であるということでもって、履歴(記憶)への依存を排除しています。それによって、人が出入りしても同じままでありうるということを確保しているわけです。
このように、公式組織ではメンバーの決定が重要な決定になるのですが、加入と脱退の決定でメンバーを調整できるということが、加入の決定を変化させるということがおきます。加入希望者がメンバーとして相応しいかどうか、成員資格を満たしうるかどうか、これを判定するわけですが、厳密に考えるならば、この時点で加入希望者の人格的な側面にまで踏み込む査定を行い判定を適確に行うのが当然とも言えます。しかし、公式組織においては、この判定が一定の二次的な指標による判定に置きかえることが可能になるのです。たとえば、試験の点数だとかそういうもので判定する。もちろん、まったくのデタラメで判定するのではなく、それなりに関連はあるだろうと考えられる指標によって判定を行うわけです。なぜこのような二次的な指標による選別が使えるかというと、メンバーに加えてみて不都合があればいつでも排除できる(辞めさせられる)ということがあるからです。メンバーが取り替え可能だからこそ、そこそこ相応しそうな人間であればとりあえずメンバーにしてみるという手段が使えるわけです。もちろん、メンバーの交替にはコストがかかりますから、選別にかけるコストとの比較で、じっくり選別する方がいいのか、緩く選別してどんどん入れ替えていくのがいいのかはケースバイケースですが。もちろん、こうしたメンバーの取り替えが可能であるためには、労働市場から必要な人間をいつでも調達可能であるという経済体制が必要になります。多くの人間が労働者として雇用されて働くという社会になってこそ公式組織はまともに機能しうるわけです。その意味で、近代の資本制(商品経済、貨幣経済)の成立によって公式組織が社会の主要な協働形態になったとも言えるわけです。
公式組織では、メンバーとして関与する個人にとっても加入と脱退は大きな意味をもつのは当然です。公式組織においては、メンバーは、その組織に関わることの利益を、基本的には成員であることから得ることになります。これは君たちがアルバイトをしたときのバイト代が、たとえば1時間に800円という時間給で払われることで考えてもらえば分かりやすいでしょう。何をどれだけしたかではなく、アルバイト人員として1時間働いたということにお金が支払われる。このことは、アルバイト人員というメンバーであることがベースになって支払いを受けているわけです。言い方を変えると、メンバーであることの見返りを得るためには、メンバーであり続けるしかないわけで、成員資格に反しないように行動するしかないわけです。次回の「仕事のやる気」(動機づけ)の話でこの部分はあらためて取り上げますが、メンバーというものは、その報酬(利益)がメンバーであることにリンクされることによって、自ずと成員資格に反しないように行動するようになっているわけです。また、何か問題が起きたときには、その出来事そのものだけでなく、常に、そのような問題を起こした人の成員資格の問題へとリンクされるようになっているわけです。つまり、常に脱退の可能性がある(辞めさせられる可能性がある)ことが、メンバーにとってある種の圧力として存在し続けている状況ということになります。
加入と脱退については、それを意識することで、組織を対象化し、さらには外部を意識するという作用もあります。人間は日常的な連続性が途切れることになると、それまで自明のものとして何も意識していなかったものについての意識が高まります。卒業式前に友だちや学校生活が妙に愛おしくなってきたりするわけです。難病で恋人が死ぬ恋愛が燃え上がるというドラマでよくあるパターンも、そこには「終わりへの意識」からくる意識の濃密化があると言えるでしょう。このように、組織というものをあらためて意識し考える継起として、加入・脱退というものが関わってくるようにもなります。
色々と述べてきましたが、ここまでの話を整理しておきます。
- 公式組織は、特定の予期を明文化し(=公式化)、その予期と付帯的な諸規則の承認・受容を条件としてメンバーを決定する
- メンバーは、メンバーであるということをもって、成員資格を満たしたものとして扱われる(互いの調整を行える)
- 組織に関与することの利益は、メンバーであることを基礎に与えられる
- 公式的な予期は決定によってのみ変更される
- 成員資格に反する行動を起こした場合には脱退させることができるので、加入の判別を二次的な指標によって行える
- メンバーは、その行動が、常に成員資格を満たしているか否かという観点からの評価をうける(問題が生じると、成員資格の問題にリンクされうる)
公式組織の様々な面については、これからの講義の中で論じていくことにしますが、最後に重要な点を確認しておきます。
それは、公式組織のメンバーとして行動する場合に関係するすべての予期が公式的な予期なのではない、ということです。つまり、公式的な予期というのは、あくまでもその場での協働を調整する主要な予期だけであって、具体的な行動=協働の場面では、公式化されてない様々な予期が関わってくるということです。必要な予期をすべて公式化して成員資格で縛る組織など存在しえません。メンバーとして特定の役割を引き受けて協働する場合でも、実際の協働においては、具体的な個人の人格的な側面などは当然のことながら関わります。先の講義で述べたように、どのような場面だっても、行為とはかならず自己表現を含むものですから、当然のことながらメンバーとして振舞いながら自己をどう表現し他者とすり合わせていくかといった問題は生じるわけです。公式組織とは、すべての予期や行動を規則で縛りつけて人間を機械の部品のように扱う組織などではない、ということは確認しておくことにします。現場で起こっているのは、常に、対人行為(相互行為)です。
2006年12月15日
動機づけ
協働においては、人のために何かをする、人に言われたことをする、という行動をとることになります。こうした行動をするには、その行動を行うのが当然である/自然であると思う必要があるわけですが、そのような気持ちにさせることを動機づけといいます。武力などによって強制して無理やりやらせるというのもあるわけですが、通常の場合、私たちは、自発的に、他人のための行動、他人に指示された行動をとります。日常的な場面では、私たちは、多くの場合、何かに応えるということから、他人のための行動を自発的に行います。たとえば何かを贈られたことへの感謝の気持ちなどです。モノに限らず、期待とか信頼あるいは依存(頼りにされる)といったものを贈られ、それに応えるために、自ら行動するわけです。しかし、公式組織においては、仕事への動機づけは、このような応えることとは、異なった回路で確保されることになります。公式組織における仕事への動機づけについて考えてみるのが今日の講義です。
前回の授業で述べたように、公式組織おいては、メンバーであること=成員資格を満たすことに、組織に関わることの利益の享受が結びつけられます。このことの結果として、メンバーは、それが組織の仕事であるならば(公式の仕事であるならば)、その仕事は行うということを、あらかじめ承認しており、組織の仕事を行うことがメンバーの条件であり利益を受けとるための条件であるということです。この場合、メンバーとして受入れているのは、組織の仕事を行う、ということであり、具体的にどのような仕事を行うかという部分は未規定になっています。このように、公式組織においては、メンバーであるということでもって、各自は組織の仕事を行うのは当然であり、そのようにみなされるものになっています。各人が最終的にどのような動機を抱いていようとも、メンバーであることを通じてその動機を満たそうとするのであれば、メンバーとして仕事をするのは当然であるというわけです。そして、メンバーであることに報いるわけです。
動機というのは、何かを欲しいと思うから、それを手に入れるために行動するという図式で出てくるものです。ですから、動機というものは個人的な欲望や欲求の問題であり、それを満たすには各人の動機の内実に踏み込んで、動機を満たすことを考えなければなりません。しかし、公式組織においては、各人がどのような個人的な動機をもっていようと、メンバーであることを望んだということ(メンバーであり続けることを望んでいるということ)としてひと括りに扱います。メンバーへの欲求として動機を一般化して扱うわけです。そして、そのような動機に対して貨幣(お金)という一般化された報酬(見返り)を与えるという形をとります。貨幣は、個々人の欲求を直接に満たすものではありませんが、その欲求を満たすための手段になります。そして、貨幣によってどのような欲求を満たすかについては個人的な事柄として組織は一切関与しない。これによって、動機(欲求・欲望)というものが持っている個人的な側面に、組織の側ではいっさい立ち入る必要はなくなります。このように、動機が成員資格に結びつけられ、貨幣報酬が用いられるということが公式組織の動機づけです。ここでもメンバーというもの(メンバーであること)によって、人格的なものが棚上げされて扱えるようになるという図式が出てきています。
先ほども言ったように、公式組織のメンバーになる時点において、各人は、中心的な予期の承認や、公式的な指示や命令に従って仕事をするということを受入れています。ですから、実際の仕事の場面においては、上の立場のものが指示を出せば、その指示に下のものは従うということが、当然のこととして通用することになります。指示の内容だとか、指示の出し方、あるいは指示を出した上司についてといったことが問題になることなく、ただ「上からの指示だから」という理由だけで指示が受けとられ仕事が遂行されていく。純粋な命令・指示系統が成立するといってもいいでしょう。内容や人間にとらわれない、一般化された権威というものが成立するわけです。このように、指示の度ごとに、それを受容してもらうための説得などが一切不要になり、純粋に指示内容を伝達すればよいということになります。
また、具体的にどのようなことを行うかは、その都度の指示で規定すればよく、その指示内容に関しては通常は不問のまま受入れられますから、組織からすれば、必要に応じてその都度必要な仕事をやってもらえるという柔軟性を確保することができます。ただし、不問のまま受入れてもらえる指示にも限度はあります。何でもかんでも命令だからといって受容されるわけではない。あくまで公式的な組織の仕事と認められるものに限ります(それ以外に、各人のキャリアへの意識なども関係する)。組織の仕事かどうかは、最終的には、なんらかの組織としての決定に基づくものかどうかで判定されます。
このように、命令指示が命令指示であるというだけで受容される状況が成り立っていることを一般化された権威が成立していると言います。公式組織ではメンバー制を軸に一般化された権威が成立します。この状況を受容者に即してみれば、受容者は一定の命令に関しては内容等に無関心(不問)に従うという状況ですので、経営学では無関心圏が成立するとも言います。
このような一般化された権威が成立している状況では、上下のヒエラルキーから外れた派生的権威というものも成立します。これは、一定の情報に、指示と同じ役割を持たせるというもので、条件プログラムと呼ばれるものです。たとえば、顧客から電話で問いあわせがあったら決められた方法で応対する、という仕事のセットを考えてみます。もし上司からの指示があった場合のみ行動するのであれば、電話があったときに上司から対応するように指示がでるまでは何もしなくてよいということになります。しかし、「電話があったら応対しろ」という指示があらかじめ出されていたならば、たとえ上司がいなくとも、電話がかかってきたということが、一定の決められた仕事を行う指示と同じ機能をはたすわけです。このように、直接的な指示ではなく、一定の情報や出来事を継起として仕事を行うようになっていることが条件プログラムであり、そうした条件プログラムの集積として日常的な業務を遂行していくことができるようになるのが、公式組織の仕事の特徴です。情報や出来事が、仕事を開始する指示と同じであり、その意味で権威の力を持っているわけです。このように、情報や出来事に権威の力を持たせるというのが派生的権威です。ですから、組織の側では、任意の情報に仕事を開始する指示と同じ権威を付与できるわけで、それによって状況の変化にすばやく対応することが可能になるわけです。
公式組織では、各人の動機は、組織のメンバーであろうとすることにあるわけで、組織の目的(中心的な予期)の内容そのものにダイレクトにリンクしていません。ですから、組織の側では、必要に応じて目的を変更することが可能になります。組織の目的が変更されても、その目的から直接利益を得ていない各メンバーは、メンバーであり続けるわけで、そのことで変更された目的の仕事も組織の仕事して遂行することになります。もちろん、先ほどの仕事の未規定性同様に、目的をなんでもかんでも自由に変更できるというわけではありません。しかし、メンバーであることから利益を得ていることによって、昨日までは鉄を売っていたのが、今日からは遊園地を運営することになっても、同じ組織の仕事として遂行していくということになります(もちろん、そうした目的の変化を嫌ってメンバーから脱退する者もいるでしょうが)。
このように、公式組織では、仕事をするということに関して、ある程度の「やる気」はあらかじめ確保されています。しかし、そのことと、特定の仕事を一生懸命するとは別の問題です。公式組織での各人の仕事のやる気は、組織への参加の動機(メンバーであろうとすること)によって確保されたものですから、個々の仕事への動機とは別のものになります。つまり、公式組織においては、参加の動機と仕事への動機は分離する。これは公式組織である以上は避けられない構造的なものです。どのような仕事であれ組織の仕事をするということが柔軟性を生み出していたのですが、これは、見方を変えると、どのような仕事であれ、成員資格を満たす程度にしか仕事をしないということにつながります。つまり、命令に対する無関心の対価として仕事に対する無関心が生まれるといって良いわけです。人間は楽をしようとするわけですから、何らかの事情がないかぎり、成員資格維持の最低条件をにらんで仕事量を調整することにないます。ですから、個々の仕事への動機づけ、つまり「より一生懸命働いてもらうための動機づけ」が必要なならば、なんらかの策を講じる必要がある。この点が、いわゆるインセンティブとかモチベーションの問題として経営学で論じられる領域になります。しかしながら、仕事への無関心は公式組織の構造的なものであり、それが公式組織であることのメリットを産んでもいることから分かるように、仕事への動機づけを強く行うことは、システムに歪みをもたらす可能性を秘めています。参加への動機と仕事への動機が分離するということを組織それ自体によって解決することは不可能なのです。
2007年01月12日
システム分化
通常、組織は一定の規模を越えると、色々な部門に分かれます。組織がどのような部門構成をとっているかということは、組織構造、組織編成と呼ばれます。また、単に「組織」といったときに、このような組織構造のことを意味することもあります。
こうした部門化は、通常、分業として考えられています。分業というのは、全体の目的の達成のために、その手段ごとに仕事を分担することで、この分業が行えることが、組織の生産性が個人の生産性の総和を上回ることができる理由だとされます。しかしながら、組織の存続という観点から考えると、組織を手段として部分に分割するという考え方では問題が生じます。なぜならば、組織の存続は、目的の達成だけでは不十分だからです。
組織が変動する環境のなかで存続していくためには、目的の達成だけを行っているわけにはいきません。つまり、組織が存続のために必要とするすべてのことを、目的だけに関係づけるということは不可能なのです。そのため、単純に手段として組織を分割する(部品に分ける)ようにはいかない。組織が部門に分かれていると言うのは、一つのシステムが部分に分かれることではなく、一つのシステムの中に、下位のシステムを作っていくということなのです。このように下位のシステムを作っていくことを、システム分化と言います。下位のシステムは、システムとして自身の存続を担います。
もちろん、下位のシステムは、組織全体の中から一定の機能を果たすことを担わされます。全体の目的に対する手段を割り当てられると言ってもよい。このとき、下位のシステムにとっては、割り当てられた機能は、自分たちの目的となります。その目的を果たすことを軸にして、下位のシステムはシステムとしての活動と存続を行っていく。場合によっては、さらに下位のシステムを作ることもあるでしょう。このように、システム分化とは、上位にとっては手段であることが、下位にとっては目的となるという形で、目的−手段を「入替えながら」システムがつながっていくようになります。
下位のシステムの目的というのは、上位の目的の手段として限定されたものです。つまり、下位になるほど、限定された目的を追求することになる。このことは、環境との関係で言えば、限定された環境を相手にするということになります。お金の管理を任された場合は、お金のことだけを考えて目的を達成すればよいのであって、材料だとか販売だとかそういうことまでは通常は考えなくて済むわけです。そのかわり、他の部門(下位システム)がお金のことを気にしないで済むようにしなければならないわけです。このように、システムが分化するということは、環境を切り分けて、個々の環境ごとに対応するシステムを割り当て、そのシステムの連携として環境全体へ対応するということなのです。各下位システムは、自分たちの環境への対処に専念し、環境の他の側面については、他がうまく対処してくれることをあてにすることができる。下位システムにとっては、全体システムが「自分たちのやるべきことに専念できる環境」ということになるわけです。
このことは、見方を変えれば、環境に対処するという問題を、内部のシステム間の連携、あるいはシステムの分化のあり方の問題として内部化することで、適応していくことでもあります。下位システムはそれぞれ自分たちがシステムとして存続するということを担っているわけですから、場合によっては、他のシステムと対立することもありうる。この対立は、環境の複雑さが内部化されたものだとかんがえることができます。組織全体の目的というものが、組織の存続のための問題をカバーできないからこそ、システム分化がなされ、下位のシステムがそれぞれの目的を軸として存続をはかろうとするとき、存続のための問題が、内部の対立として現れてくるわけです。ですから、システム間のコンフリクトは、変動する環境のなかで存続をはかろうとする限り、ある意味で、必然的に生じるものだと言うことが出来る。内部のコンフリクトとして環境の問題に対処しているのだと考えることができます。ですから、システム分化を行って部門間の対立が全く無いようなシステム構成にすることは、現実にはありえないとも言えるでしょう。もちろん、コンフリクトによってバラバラになってしまう危険はあります。
組織の部門化をシステム分化ととらえることで、分業というものが、何を「分担する」ものなのかということもはっきりしてきます。つまり、作業や行為を分けるのではなく、決定(決定を下す権限や優先権)を分けるものだということです。下位システムが特定の機能を担わされ限定された環境に対処するというのは、その機能や環境に関連する決定や判断を担うということです。
2007年01月26日
責任について
責任ということは色々な場面で色々な意味合いで用いられる言葉ですが、ここでは人間のコミュニケーション(相互行為)での責任というものを考えてます。
たとえば田中が「A社の株を買っておけば儲かる」と言ったとします。これを聞いたB君がA社の株を買ったところ、株は値下がりする一方で結局損をしてしまったとしましょう。このとき、B君は、自分が損をした責任は田中にある、として田中に責任をとることを求める。責任というものが問題として浮上する場面とはこういうものです。このとき、B君が田中に責任があると言う理由は、田中の発言を信じた、つまり自分が判断したのではなく、田中の判断に従った結果として損をしたからです。ある特定の結果を引き起こした主要な判断(選択)は誰が行ったのか、そしてその判断は、それ以外の判断がありえなかったのか。こういったことが責任の問題として問われることになります。
この例において、田中の発言によって、B君は自分では判断しかねること(どの株が儲かるのか)について、自分で判断しないで済んでいるわけです。つまり、田中の判断によって、B君は判断するという負担を免れている。このように、責任が発生しうる場面では、先行するものの判断(選択、決定)によって、後続のものは、不確実な状況での判断をしないで済ませられる、ということが起きています。B君が田中の発言のしたがったのは、B君自身はどの株が値上がりするかわかないし、田中の発言が本当かどうかも正確には判断できない、という不確実な状況があって、それで田中を「信頼して」発言に従ったわけです。このように、先行するものの判断を信頼することによって、後続のものは、不確実さに直面しないですんだわけです。
他人の判断を受入れて、それにしたがうということ。こういったことは、私たちのコミュニケーションでは普通に起きています。私たちは何もかも自分で判断したり選択したりすることはできない。社会で生きて行くというのは、他人の判断を「正しいもの」として受入れることで、そのことがらに関しては自分で悩まなくてすむ、ということが基本的なこととしてあります。つまり、コミュニケーションの連載によって、不確実を吸収すること、それが責任というものの根本にある。コミュニケーションというのは、突き詰めれば選択の連鎖ですから、そういう意味では、コミュニケーション自体が責任をはらむプロセスなのだと言うこともできるかもしれません。
もっとも、通常、他人の言うことにしたがって不利益を被った場合しか「責任」の問題は生じません。先の例で言うと、B君が株をかって儲かったのであれば、B君は責任を問うことはしませんよね(儲かったのは田中の「おかげ」と言うかもしれませんが)。コミュニケーションにおいて不断に起きている不確実性の吸収において、それによって著しい不利益が生じた場合に、最初の選択を行った者に対して、責任が問われる。そこでは、どれだけの不確実性(言い方を変えると「他の可能性」)を排除したのかということが責任の大きさとして問われるわけです。同時に、判断に従ったこと(信頼したこと)の妥当性も問われることになります。場合によっては、B君が損をしたのは、株の専門家でも何でもない田中の言うことを信じたB君がアホや、ということになるわけです(つまり、B君は、田中を信じるという選択をした、その選択が間違っているということになるわけです)。このように、選択の連鎖が起きた中で、どの選択が、事態を回避出来うるものとしてあったのか確定し、その判断を行ったものに責任は帰せられる、ということになります。
見方を変えると、責任というものは、不確実な状況で何らかの判断(決断、選択)をしなければならない状況では、起きうるものであるし、必要なものであるとも言えるわけです。誰かが決定を下さない限り物事が進行しないというは珍しいことではない。不確実な状況で行為する場合には、むしろ当たり前に起こることだとも言えます。極端に言えば、他人と協働する場面では、つねに自分が責任を負うような事態は起こりうる。責任が問われないまでも、協働しコミュニケーションする場面では、常に相手から「なぜそんなことをしたのか/言ったのか?」という「なぜ」という問い掛けが帰ってくる可能性があるし、この「なぜ」という問い掛けができることが人間のコミュニケーションの特質だという話は前にしましたが、その意味で、責任とは、「なぜ」という問い返しに「応える」ことであるとも言えるでしょう。応答可能性(responsibility) としての責任は、人間が選択の連鎖としてコミュニケーションを行うことのコアにある問題だということです。
このように、責任というものは、コミュニケーションによって不確実性を吸収していくメカニズムとしてある。しかし、組織においては、この責任は、変質を被ります。
通常のコミュニケーションの場合は、他人の決定に従うかどうか(その決定を正しいとみなすかどうか)は、信頼の問題になっています。しかし、組織では、他人(他の部署)の決定は正しいものとして受入れることが前提でシステム分化や役割分担が行われます。その結果、責任というものが、自分(自分たち)の下した決定によって他者が不利益を被ってはならない、つまり失敗は回避しなければならない、というものとして現れます(失敗が生じたら、まさに「責任をとる」わけです)。そして、この責任は、権限とセットで割り当てられる。広範な権限をもつ(色々なことに関して決定を下すことができる)者ほど、大きな責任をもつ(色々なことに関して失敗しないようにする義務がある)というわけです。ですから、最終的には、組織のトップが最大の責任を持つことになり、企業の不祥事などが起きると、トップが引責辞任したりするわけです。しかし、先ほどからの議論では、責任は不確実な状況で判断を下していくことにあるわけで、その意味では、責任を持って行動しなければならないのは現場で仕事をしている人たちであって、トップではない。このように、組織においては不確実な状況であえて判断を下しながら活動する(=責任をもって行動する)ことと、問題が起きたときの責任を取る人が、奇妙に分離するということが起きるわけです。
2007年02月02日
公式組織における行動
組織のメンバーとして働くということは、組織の公式的な予期、規則、ルールにしたがって働くということですが、すべての必要な活動が公式的なものとして定められ指示されるわけではありません。たとえば公式的な役割として自分が果たすべきことは決まるわけですが、それを実際に行うのは、メンバーという抽象的な存在ではなく、一人の具体的な個人です。その個人が、具体的な個人との相互行為として、仕事をしていくことになります。ですから、実際にどのような行動をするのか、ということは、具体的な個人同士の関係の中で実現していく必要があるわけです。つまり、日常的な協働において、具体的にどのように行動するのかということは、個人が自分の判断(自己裁量)で担わなければならないわけです。もちろん、自己裁量といっても、自分の好き勝手に振舞えるわけではありません。あくまでも公式的に定められた役割を果たさなければならない、その枠の中で、具体的な自分と相手との行動を行っていくことになる。このように、組織において協働する場面においては、公式的な規則や予期によって規定されているわけではないが、それと関連を持たせつつ自己の判断や裁量で具体的な行動として行わなければならないことが少なくないわけです。
見方を変えれば、具体的にどのような行動を行うかという部分を、各個人の問題としてして個人に委ねることで、組織は柔軟性を確保しているとも言える。また、組織自身が過剰な規定の責任を負うことから逃れているとも言えるわけです(問題が起きたときには、その現場での個人の判断が不適切だという責任追及の余地があるわけです)。役割分担やシステム分化が基本的には決定(判断)の分担であるということを以前に述べましたが、そうした決定の分担というものは、個々の個人も担っているということができます。また、行為と行動の違いということを確認しましたが、やるべき行為を果たすためにどのように行動するのかということは、個々人の判断なり裁量の問題として常にあるということです。
そうした行動の実現の場面では、目の前にいる人たちとの間で、具体的な相互行為をうまくやっていくということですから、その場その場の状況(現場)に即して、その都度の調整が必要になる。ちょうど音楽の楽譜と実際の演奏の関係のようなものです(Jazz のように、むしろその場での対話性や反応性による即興を重視した音楽もあります)。そして、一方では果たすべき役割(公式的な仕事)があり、他方で具体的な人間の相互行為(接触行為)をうまくやる必要があり、この両方が必ずしもうまくかみ合うわけではないという問題があります。具体的な相互行為をうまく進行させるために時には公式的な役割を棚上げする必要があるかもしれない。あるいは、逆に面倒な個人のレベルのごちゃごちゃを避けるために公式的な役割を強調して乗り切る(組織においては公式的なものを持ち出せば誰も文句は言えませんから)こともあるかもしれない。このようなバランスをとりながら個人は組織の中で行動していくことになります。
個人は組織においても否応なく人格的なものとして行動するしかないわけです。そして、そのような行動を通じて、その個人の人格的な側面についての周りの予期もできてくる。これを個人役割と呼んでもいいでしょう。ただし、そこに現れる人格は、あくまでも公式組織の中での個人の行動に関わるものであって、その個人の人格そのものが表現されたものではないことは気をつけておく必要があります。
さて、組織において公式的な予期や目的からは導けないが、実際に組織が存続していくためには必要な行動というものもいくつも存在します。そうしたものは、公式的なものには拘束されないという意味で、非公式的なものと呼ばれます。組織はかならず非公式的な予期や行動を必要とし、産み出します(システムの存続のために必要なことは、組織の目的の達成だけでは得られないからです)。公式的なものとして認めることが出来ないけれども組織の維持・存続のために必要なことが、非公式的な行動や状況において果たされるわけです。組織にとっては、複雑な環境のなかで存続していくためには、時として矛盾するような行動も必要になる。こうしたとき、公式的なものと非公式的なものとをわけて処理することが、組織の秩序を維持するために重要な手段となります。
公式的な活動と、非公式的な活動は、同時に行うことはできません。公式的な状況で行われる行動と、非公式的な状況で行われる行動として、分けられることになります。ですから、公式/非公式の分離(二重性)をうまく機能させるためには、状況が公式的なものか非公式的なものか判断できること、あるいは二つの状況の間を必要に応じて適確に切り換えられることが重要になります。通常は、特定のコミュニケーションの様式やシンボルによって、状況の違いを明らかにします。たとえば、文書での伝達や会議での発言は公式的なもの、廊下での立ち話は非公式なもの、といった具合に、状況や伝達行為、あるいは表情といったもので、行動やコミュニケーションの公式/非公式性が示されます。見方を変えると、組織のメンバーとして求められるコミュニケーション能力とは、こうした公式/非公式の状況把握が適確に行えて、それに対応できることと、伝達内容に応じて公式/非公式のチャンネルの使い分けや切り換えが行えることだと言っても良いでしょう。また、こうした二重性があるということは、メンバーとして個人が振舞うということから自然と互いに意識するものでもあります。メンバーとして互いに協働するからこそ、公式/非公式の二重性があるわけです。ただし、公式的なものと非公式的なものとをどのように線引きするか、あるいはどのようなシンボルなり様式が非公式的なものであることを指示するかといったことは、公式的な規則として定められることはありません。非公式的なものは、常に公式的には規定されていない、ということに意味があるものだからです。ですから、状況の把握やコミュニケーションの切り換えといったことは、最終的には個人の社交的な能力(場や人を読み適切に振舞えること)が鍵を握るともいうことができます。「立ち回りのうまさ」などと呼ばれるのは、こうした状況切り換えを戦略的に行えるということにもあると言えるでしょう。
公式的状況と非公式的状況の分離は、ともすれば裏と表がある悪いことのように感じるかもしれませんが、この分離は公式組織においては必然的なものであることは確認しておく必要があります。時として反公式的な行動(逸脱行動)さえも含んだ行動が必要になるというのが組織の現実です。もちろん、逸脱行動は許されるものではないわけですが、それが最終的に公式的な規則や目的に適合するものとして位置づけられれば、場合によっては認めざるをえないわけです(もちろん、公式的には逸脱行動ではないということにされるわけですし、その必要があります)。
非公式的な行動というものは、公式的なものではない以上、個人の裁量や判断にもとづく行動とみなされます。先ほどの個人役割というものとして捉えられる。また、実際に、どのように非公式的な活動やコミュニケーションを活用するかは、個人の裁量による部分が多い。このことが、組織の人的配置の柔軟性にとっては足かせになるということがあります。つまり、ある役割につく人を取り替えたとき、公式的な役割は人を変えても変わりませんが、前任者が担っていた非公式的な役割(個人役割)は変わってしまう。そのことが、場合によっては、組織のパフォーマンスを低下させたりすることになる(「新しい上司は話がわからないやつで、やってられないよ」といったことが起きちゃうわけね)。極端な場合、その個人が担っている非公式的役割の重要性ゆえに、その人を動かしがたいといったことにもなる。しかし、これは、組織がもっている構造的な問題であること、公式組織である以上は必然的に起こりうることです。
2007年02月09日
リーダーシップについて
リーダーシップとは、通常、リーダーがリーダーとして発揮するべき能力や資質で、統率力とか指導力といわれるものです(ただ、色々なものがリーダーシップに託されて論じられることもあって、分かったような分からないような話も少なくありません)。
「人を引っ張っていくこと」というあたりが一番わかりやすい表現だと思いますが、「人を引っ張る」というと、何か動物の群れを追い立てていくようなイメージがありますが、これは間違っています。リーダーシップは、強制や命令や支配のことではありません。他人にむりやり何かをやらせることではない。
組織において何らかの成果や結果を生み出すのは、あくまでも協働を行っている人々です。ですから、リーダーシップは、この人々の協働を、リードするものであって初めて意味を成します。そして、前回の授業で論じたように、協働を行うに当たっては、個々人が判断し決定し選択していくということが不可避なものとしてあります。ですから、リーダーシップは、人々の協働を産み出す判断や決定に働き掛けていくものとしてあります。
つまり、協働を行っている人々の予期に働き掛けることで、人々に「協働してもらう」というのがリーダーシップという影響力の働き方なわけです。人は自ら行動するのであって、この行動を直接他人がコントロールすることなど出来ない。行動を支配できるのは自分だけですから、一人一人の人間の自分をコントロールする力を「支援する」ことでしかリーダーシップが何かを産み出すことはできません。ですから、リーダーシップとは、動物の群れに綱をつけて引っ張っていくようなものではなくて、草木が花を咲かせ実を結ぶのを育てるようなものだと理解するべきです。つまり、実際に花を咲かせ実を結ぶのは植物の生命としての活動であって、その活動を直接にコントロールすることはできないわけで、植物の活動を見守りながら、水をやったり肥料をやったりして、活動を間接的にサポートすることで、私たちは自分が望むような花や実を得ようとするわけです。最終的に思い通りになるかどうかも分からない、そういうものでもあります。ですから、まず対話的であることが求められる。リードしようとする活動を行うシステムに応えながら、コミュニケーションを通じて、働き掛けていくという、きわめて対話的な活動であるということです。一方的に自分のもっている考えや意見を押しつけるものではない。
コミュニケーションを通じて人々の予期に働きかけていく。あるいは予期の明確化や意味付けを行う。場合によっては予期をつくり出す。さらには、予期のコンフリクトを解決して一貫性を保つ。そうした人々の予期のレベルにコミュニケーションを通じて働きかけていく作業が、リードするということであり、そうした予期への働きかけを通じて、人々に協働する個々の場面での行動や判断の「正しさ」を感じてもらうことがリーダーシップです。「これでいいんだ」「こうすればいいんだ」という信念をもってもらうこと、といえば分かりやすいかもしれません。個々人に「信念」(肯定感とでも言った方がいいかもしれませんが)をもってもらうことで、現場での個人的な行動や決定を鼓舞するのがリーダーシップである。協働という創造的なプロセスに働きかける起爆剤、触媒といったところでしょうか。
対話的であることで協働を促進し創造的であること、それがリーダーシップだとすれば、そうしたリーダーシップは、組織のトップや上の立場にいるものだけが発揮するものではなく、組織に関わっている人々の間に散在しているものだと言うことが出来ます。協働について論じたところで触れた、原初的な管理行為というものも、リーダーシップの根底的なものでもあるわけです。共に働くものへの気遣いや気配りというもの、それとリーダーシップはつながっています。
もちろん、トップなり上司なりが発揮するリーダーシップには、協働を促進するだけでなく、方向づけて行くということが強く出るようになります。組織という一つの物語に皆を巻き込んでいく。一人一人の人間がもっている個人の物語と、組織の物語の繋がりをつくっていく、そうしたこともリーダーシップであると言えます。ただ、どのようなポジションで発揮するものであれ、対話的であることを通じて創造的であること、という本質は同じです。
最後に
以上が2006年度の経営組織論の講義の記録です。途中に「桃太郎を組織論的に検討する」という番外編的な講義を行っていたり、動機づけ、システム分化、責任の講義の回では、経営学的な議論(モチベーション論、組織構造論、企業の社会的責任論)を行ったのですが、それについては記録していません。