出発点
この講義が前提とする考え
この講義では、以下の2つの考え方を出発点とし、これを前提にする。講義の中では、この2つの考え方が、折りに触れて、議論の前提となって現れる。
- 世界は複雑である
- 人間は複雑である
「世界は複雑である」
"複雑なもの"を複雑と呼んだところで何もならない(実はそうではなくて、名前を与えたことの効果は確実にあるのだが)。「複雑である」というのは、ここでは「体験と行為の諸可能性は、顕在化できるよりも、つねに多く存在する」ということなのだが、言い換えるならば以下のようなことを意味する。
世界そのものを人間が把握することはできない
これは視点を変えれば、人間の体験(認識)能力には限界があるということにもなるのだは、世界のすべての出来事を我々人間は正確に把握したり計算することはできないということである。それゆえに、世界は常に不透明性、不確実性に満ちている。未来を完全に予測することは不可能である。また、そうした世界での人間の振る舞いには、常に他でもありえたという可能性がついてまわる。それゆえ、単に未来は不確実であるだけでなく、今現在の自分の行為が未来の不確実さを生み出し続けてもいる。こうした、訳のわからなさの中で生きていくのが人間であるということだ。そして、人間はこの「訳のわからなさ」に何らかの手段で対処することで生きている。組織も同様である。
なお、後ほど、講義の中で論じるが、ここでいう世界は、環境とは区別して考えている。環境は、常に「何かにとって、誰かにとって」の環境でしかない。世界は、そうした様々な環境の総体のようなものだと考えて欲しい。世界というわけのわからないものを、自分と自分の環境として切り取っていくようになっているのだ。
「人間は複雑である」
これは正確には「他人は複雑である」ということであり、以下のようになる。
他人の意識は絶対的に不透明であり、コントロール不能である
端的に言うならば、他人の意識を 100% 理解することなど絶対にありえない、ということだ。自分から見て、他人は、つねに思いがけないこと(訳の分からないこと)をする可能性を持った存在であるということ、どんなにコミュニケーションの技法を尽くしたとしても、他人のことを完全に理解することなどできないということだ(全く理解できないのではない)。時折、「腹を割って話せば人間は分かりあえる」といったことを言う人がいるが、もし「分かりあえる」というのが100%理解しあえるということであれば、それは全くの嘘である。少なくとも、この講義では、そんなに安易には人間は分かりあえないということを出発点とする。分かりたくても完全に分かりあえないからこそ、人間の様々な営みがあり、そしてその難しさがある、と考える。
人間には自由がある。自由があるということは、原理的には、その瞬間ごとに、ありそうもないこと、誰も思いつかないようなことを行いえるということである。周りから期待されていることが分かっているがゆえにその期待を裏切るようなことを行えるのが、自由であるということだ。つまり、他人が複雑=不透明であるということは、人間が自由であるということと同じことを言っているのである。ある意味で、他人というものがもっている「わけのわからなさ、思いがけなさ」を、自由と呼ぶことで、我々はそれを受け入れ納得しているとも言える。
人間は互いにブラックボックスである。それにもかかわらず、コミュニケーションを通じて「つながる」ことができるのである。コミュニケーションを通じてしか分かりあえないことは、一見すると、人間関係の貧しさを意味しているように思うかもしれない。しかし、違う。どんなに考えや世界観が異っていようとも、つまりどんなに自分にとっては「異物」のような存在であろうとも、その他者とコミュニケーションによって、何らかのつながり(合意や相互理解あるいは信頼へは至らなくとも)が作れるということを意味している。コミュニケーションによってしか繋がりあえないことで、そこに生じる距離によって、人間の多元性が保たれている。互いに不透明であるからこそ、互いの異質性が保たれているのである。コミュニケーションのまどろこしさに巻き込まれるとき、確かに、コミュニケーションなしで分かりあえることを夢想するかもしれないが、もし、それが現実のものになったとしたら、個々の人間の持つ異質性(偏り)が否定される、極めて貧しい、非人間的な状況が現れるに違いない。
他人(他者)のことは知りえないというと、だったら他人のことなんか気にしないといった、他人を切り捨ててしまう(無視してしまう)ことを語っているかのように思われるかもしれない。でも、違う。我々は、ともすれば「分かる」と「分からない」のどっちか、つまり0か1のどちらかのように極端に考えてしまう傾向がある。だが、分かると分からないの間に、分かろうと思いたくて見出したものがあることを軽んじてしまってはならない。確かに、他者は最終的には分からないとするならば、我々が他者に関して「知った」とすることは、多かれ少なかれ、我々の側での勝手な思い込み(=主観的なものでしかないもの)である可能性はぬぐい切れない。極論すれば、妄想に過ぎないのかもしれない可能性は捨て切れないということになる。しかし、そこで見出した他者とは、少なくとも、今ここでのコミュニケーション(関係)を続けていくための暫定的な足がかりとして、重要なものには違いないだろう。我々は、他者のことを最終的にすべて理解することなどできなくとも、現実において他者に関わる限り、その場その場で、その時々に、暫定的にせよ、何らかの「他者」を措定し、それを足がかりにするしかない。
暫定的なものである点で絶対的な根拠付けや保証はないが、だが、それは暫定的であるにせよ、現実において活動していく上で必要であり役に立つものとしてある。それは確かに主観的なものでしかないが、しかし、差異を感知し処理したものとして、外部からもたらされたものとしてある。外部は外部としてそのまま主観に入り込むことは絶対に無く、常に主観が見出した(感受した)ものとしてしかあり得ない。このとき、他者は、一つの地平として現れ、最終的には、他者のすべてを理解することは絶対にあり得ないものになる。しかし、差異を主体に送るものとしてあり、感知された差異は常に主体に何らかの選択を強制し、その都度の統一体として暫定的な他者像を区切り出し指示することになる。他者は知りえない、しかし知ろうとすることを強要するものとしてある、と言ってもよいだろう。端的に言うならば、他者とは謎であり続けるものなのだ。
他人を「知る」ということは、それが目的なのではない。他人を知りたいと思うことは、知ることによってその他人との関係、つまりはコミュニケーションをより「豊かなもの」として続けたいということのはずだ。相手に黙って欲しいとき、どこかへ行って欲しいとき、私たちは「あなたのこと(あなたのいいたいこと)、もう分かったから」と言わないか? 相手のことが「分かってしまった」ら、むしろコミュニケーションは停止し、関係は崩壊する。コミュニケーションを継続するための手がかりを欲することが、他人を知りたいということの根底にはある。そして、その他人とは、自由を持った、常に他でもありうる可能性を持った存在だ。だとすれば、他人のことはある種の暫定的な思い込みとしてしか分からないにしても、その都度の暫定的な足場によってコミュニケーションが続けられるということが重要ではないのか。
このような考えをもとに、この講義では、「分かりあえるはずの人間が分かりあえていないのは、どこかに問題があるからであり、その問題が解決されたら皆がハッピーになる」というような考え方、ともすれば人間関係や組織の「問題」をコミュニケーションの不全に還元してしまう見方、それを拒否する。分かりあえないことをコミュニケーション不全だと考えることを否定する。そこから、組織を考えていくことにしたい。
「訳のわからなさ」への対処
世界と他人という二つの「訳のわからなさ」に対処しながら、人間は生きていくしかない。このことを出発点として、また、様々な問題を考えるときの基本的な視点としながら、組織の問題を論じていくことにする。
人間論
人間についての仮定の必要性
社会科学において、人間そのものをすべて取り込んだような理論を構築することはできない。常に、なんらかの仮説に基づくしかない。この講義では、人間を意思に基づいて活動する存在として考えていくことになる。
人間=狂ったサル
人間は本能による全面的な支配を受けていない動物である。もちろん、人間は生物的な身体を持った動物であることには間違いないが、その具体的な振る舞いは、本能による規定を逃れている(本能による制約が解除されている)。つまり、本能に従って振る舞い生きていくのが動物だとするならば、人間はその本能の仕組みが「狂って」しまっている。それを端的に言い表した言葉が、「狂ったサル」である。
たとえば、人間が言語を扱い言語によってコミュニケーションが行えることは、本能によって規定された身体的な能力である。しかし、具体的にどのような言語を用いるのか、どのようにコミュニケーションを行うのかは、人間の動物的な側面による規定を受けない(もちろん、身体的に絶対無理な音は出せないといった制約はある)。だからこそ、世界中にはこれだけに多くの言語が存在するのであり、また、同じ国の言語であっても、時間が経てば変化していく。同じ日本語でありながら、過去の言葉は「古典」として学習しなければ理解できない(自分の内なる大和魂に問い掛けても古語の意味は教えてくれない)のは、それが本能によって指示された(作られた)言葉ではないからだ。
この「狂っている」ことの最大の意義は、人間が意思による選択を行う自由を持った存在だということである。自由とは、物理的・動物的な規定から逃れることができるということである。そして、この自由・意思があるからこそ、人間は互いに不透明なのである。そして、意思によって選択を行いがら生きていくしかないからこそ、世界は複雑なものとして現れてくるのである。
ただし、「自由をもつ」ということが、人間の内的な能力のようなものではないことには注意して欲しい。この点は、先にも触れたし、後の議論の中でも取り上げることになるが、人間に自由があるということは、人間がすることは「必ず絶対にそうしなければならないわけではない」ものとしてあるということ、つまり可能性が過剰にあるということである。このため、人間の行動は、根底において、「他でもありえた」という影を伴う。そして、「他でもありえたのに〜した」という選択として理解されうるのであり、このとき、選択の動因として意志なりさらには自由なりが「その人のもの」として想定されることになるわけだ。人間の行動の大半が過剰な可能性に縁取られていること(そう理解されること)、それを納得し受容しやり過ごしていくための概念が自由や自由意志であると考えることもできるのである。
人間は一つのシステムでではない
人間は物的・生物的・社会的なシステムの複合体である。それぞれは、一定の独立性を保っている。物的なシステムの上に生物的なシステムが創発しており、その生物的なシステムの上に社会的なシステム(意識)が創発していると考えることができる。最終的には物的なシステムが絶対的な制約となる。誰も、自分の身体を形成する物質が破壊されてしまったら生きることができない。
その意味で、決して意識が絶対的な支配権を持ったシステムになっているのではない。意識もまた、人間というシステムの複合体の中の一つのシステムである。他のシステムで起きていることは、何らかのチャンネルを通じて意識されないかぎり(意識に差異を送り込まないかぎり)、決して意識というシステムにおける出来事にはならない。その意味で、意識というシステムから見れば、身体は(一定の構造化がなされてはいるが)環境である。
人間は、複数のシステムの複合体であり、全体を統括するようなシステムは無い。
人間の2側面
行為する存在としての人間を考えていくにあたって、人間を二つの側面をもったものとして捉えておくのがよいだろう。それは受動的側面と能動的側面である。
受動的側面
人間は物的・生物的・社会的に様々な制約を受けている。この制約されているという側面を受動的側面と呼ぶ。物的あるいは生物的な制約については説明の必要はないだろう。人間は重力に縛られているし、自力で空を飛ぶことはできないし、光合成も行えない。社会的側面というのは、その人がおかれている社会による制約(習慣、慣習、教育)と、その人の経験や体験である。日本語をしゃべる(英語をしゃべれない)というのは、そうした社会的な制約である。
各人がどのような制約を負っているかは、特に社会的制約において、異っている。各自の記憶というものが、そのコアにある。各自にそれぞれの「歴史」があり、その「歴史性=経路依存性」のゆえに、各自は今の存在だけでは「分からない」ものとしてあるわけだ。
能動的側面
自由意思、欲望、欲求など、能動的に行為を行なうという側面。選択能力や期待も含まれる。こちらは分かりやすいと思う。
2つの側面は互いに条件付けあう
気をつけなければならないのは、受動的側面と能動的側面は、あくまでも一体となった人間を行為する存在という観点から分けたものであり、それぞれが独立に存在しているモノのようなものではない。互いに相手を条件づけるものとしてある。意思は制約の中からしか生まれないし、欲望があるからこそ制約が制約として認識される。人間は受動的に主体性を担う(主体にならされる)ことだってある存在である。
また、間違っても、精神と肉体という区分に重なるものではない。
行為と予期
先ほどの分類に従って言うならば、人間は数々の制約を受ける中で意志を持ち欲望を持って行為している、ということになる。しかし、意思だけでは行為はできない。世界は複雑であるというこの講義の出発点を思い出して欲しい。もし自分の周りや未来に何が起こるのか、どうなるのか、まったく分からない状況では、何をするにしても、様々な可能性をすべて考慮し、不確実性への対処なども考えて行為しなければならないことになる。このような状況(見たこともない場所にいきなり放り出されたようなもの)では、なかなか人は行為できるものではない。
世界が複雑であるということをあくまでもまじめに受けとめるならば、未来に関して確実なことは何一つないことになる。この状況に直面すると何もできずに立ちすくんでしまうだろう。
我々が立ちすくむことなく、日々の営みを行えているのは、この圧倒的な不確実性を処理する我々の一つの能力のおかげである。その能力が期待するということである。
確かに、原理的には、未来は不確実で何が起こるかわからないし、実際、時として予想だにしていなかった出来事が襲う。それでも、我々は明日も今日と変わらないと思って振舞っている。この「明日も今日と同じだと思う」という思い、思い込み、これが期待である。
日本語の期待という言葉は、「望ましい事態の実現、好機の到来を心から待つこと(思い)。」(新明解国語辞典)という意味であるが、ここでいう期待は、もう少し広い意味で使っている。予想、思い込み、見込み、想像、そうした「何かを〜だと思う/そうあってほしいと思う」という人間の精神の働きを指す。ここでは予期という言葉で、こうした私たちの日常を支えている思い込みを呼ぶことにしよう。
自分の経験や学習などで得たことをもとに、見込みを抱き、それで振舞っているわけだ。
それが真実かどうか、あるいは確実な根拠を持つかどうか、そんなことには関係なく、自分が「こうだろうと思う」こと、それを足場にすることで、世界の複雑性の中で振舞える。また、自分の見込みという一定の視点が得られることによって、世界についての理解を広げることができる(たとえ見込みとは違っていても、見込みとは違うということが知識として得られる)。
無根拠に抱いた予期を信頼しする。そこには、世界には/他人には、何らかの一貫性があるはずだという確信が潜んでいる。たまたまうまくいったことであっても、次もそうなるだろうと思い、予期し振舞うのは、世の中はまったくのデタラメばかり(すべては偶然)ではない、という思いがあってこそである。この一貫性への無根拠な信頼が、すべての予期を支えるものとなる。
意識の中の慣性みたいなものである。テーブルの上のボールを手で押すと、ボールは慣性によって、テーブルの外へと転がり出て行く。同じように、ある期待が生まれると(期待が得られると)、その期待によって、我々は、「外」へと踏み出していける。
このように、我々の日々の具体的な行為は、我々の中にある様々な予期によって支えられ、生み出されていると考えることができる。人間は予期する存在である。
予期と精神の主体性
我々は、普通、「思い込み」というのは悪いことだと考えている。空想や想像に振り回されるのは愚かなことだと考えている。理性的に現実に即して判断し行動するのが「正しい」ことだと思っている。しかし、先ほどから述べてきたように、少なくとも我々の毎日は、その根底に、無根拠な思い込みがなければ成り立たない。
とすれば、人間にとっては、理性よりも想像力の方が重要な能力だと言うことだってできるだろう。実際、18世紀のイギリスの哲学者のデビッド・ヒュームという人は、人間の知性を考察していくなかで、そういう考え方にたどり着いた(それをうけて、カントという人が理性を改めて問い直し、位置づけ直すことになったのだが、そのへんは哲学史で勉強して欲しい)。ヒュームは、人間の営みを支えているのは、習慣、つまり繰り返された経験から生まれてくる予期であるとした。XということがN回同じに繰り返されたとしても、N+1回目が同じXになるかどうかは、すくなくとも経験しているだけではわからない。それでも、人は、普通はXが起きる、と思ってしまうものであるし、そうして生み出された一般規則(=予期)が営みを支えている。サイコロを3回ふって続けて6がでたら、4回目も6だろうと思ってしまうのが人間だということだ(確率的には間違っている)。
何かを予期する(予期する、見込む)とは、所与の経験をもとに、そこで得られたものを、未知へと「勝手に」拡張することである。この点において、予期するとは、精神の能動的な働きであると言うことができる。精神は経験の受動性の中から予期するという能動性、主体性を発揮する。
もちろん、予期なら何でもかんでもいいというわけではない。妄想は妄想でしかない。また、我々が自分の経験から得たものは、世界のすべてを体験できない以上、常に偏っている。しかし、偏っていることに気がつかされ、より「偏っていない」ものへと進んでいく体験に踏み出していくために、最初の偏りからスタートしていくしかない。
想像し、空想し、予期する精神。そこには、所与を越えていく(偏りを越えていこうとする)精神の能動的な活動がある。本能に規定された存在=動物である自分からあふれ出してしまうこと、つまり「狂っている」、それが人間なのだ。
人間は楽をするものだ
我々が予期に拠って振舞うということは、見方を変えたら、我々人間は楽をしたい存在であるということである。新たな可能性をその都度計算する面倒を避けたいからこそ、これまでどおりでいいだろうと思い込んでやっていくわけだ。決められた通りに淡々と日日が過ぎてゆくというと退屈だとか停滞といったイメージで語られることであるが、一方で、難しいことは考えなくて済む気楽さがあることは否定しないだろう。
いささか大げさな言い方をするならば、人間や社会のもっている「ややこしさ」「面倒さ」を、いかに「考えないで済ませるか」というところに制度の意味がある。
予期の種類と予期はずれへの対処
我々の毎日の生活は、もはや予期であることすらが意識されなくなっている予期によって支えられている。「普通」、「当たり前」、「皆」… は、こうした安定的な予期である。こうした予期のことを消極的予期と呼ぶ。それに対して、積極的(意識的に)に何かを予期する場合は、それを積極的予期と呼ぶ。
消極的予期によって様々な自明性が支えられている。予期は、それが予期であることが見えなくなった時に、日常を形作るといってもよい。
しかし、予期は予期である以上、予期はずれに遭遇する。予期はずれの出来事が起きたときに、どのように対処するかによって、予期は大きくわけて2つのタイプに分かれることになる。
認知的予期
予期はずれの出来事に直面した場合に、予期をいだいていた自分が間違っていたとして、予期に修正を施す方向で対処することになる、そうした予期を認知的予期という。科学における仮説を考えてもらえればよい。うまく行かなかったときには、仮説を見直し新たな仮説を立てる。同様に、認知的予期は、予期はずれの出来事が起きたときには、その予期自体を見直すものである。予期はずれを学習するわけだ。
規範的予期
予期はずれの出来事に直面したとき、それを出来事自体が異常であって、予期自体は間違っていないという方向で対処する、そうした予期を規範的予期という。事態が異常だとか特殊だとか、なんらかの特別な原因があると考えるわけである。法だとか法則、あるいは信念といったものがこれにあたる。予期はずれを学習しないのである。
我々の日常生活を支えている様々な予期は、認知的予期と規範的予期が混じり合ったものになっている。日々の体験の中には、自分が勘違いしていたがゆえに驚いた出来事や、本来は起こらないようなことが起きてしまった異常な出来事があるわけだ。
予期と記憶
過去の体験に基づいて何かを予期するということは、記憶をもっているということである。ただし、記憶とは、過去のことをすべて覚えていたり蓄えているもの、体験の貯蔵庫のことではない。体験の中から何かを予期できるものとして思い出し、他方で無関係なものは忘却する、そういう選別を行うものとしてある。こうした記憶を備えていることによって、人間は予期できる。予期とは、突き詰めると、過去がそうであったから(それでうまくいっていたから)という思いだけが支えるものなわけだが、そうした「過去」(の感触)を与えるのが記憶である。
行動(振舞い)と行為
ここまで、振舞い、行動、行為といった我々の活動をさす言葉を、厳密な区別をすることなく用いてきたが、ここで、行動(振舞い)と行為を区別しておくことにする。
行動あるいは振舞いという用語によって、我々の身体的な動作を指すものとする。一方、行為という用語によって、その身体的動作が社会的に意味付けられたものを指すことにする。
たとえば、「お・は・よ・う」という声を出すことは行動であり、それが「挨拶」という行為として受けとられる、ということである。
挨拶の仕方にも色々あるように、同じ行為であっても様々な行動として実現されうる。また、同じ振舞いであっても、違った行為として受けとられることがある。たとえば、友人が君の目の前を足早に歩き去ることは、「急いでいる」(移動)ことかもしれないし、「お前とは話をしたくない」(拒否)ということかもしれない。
このように、行動と行為の間には、一対一の対応は成り立っていない。
重要なポイントは、行為は、基本的に他者が規定するものであるということだ。
このように、振舞いが行為として観察され、意味付けられる際には、その振舞いを「読み取る」基準、観察を行う視点が必ず存在する。また、その基準(視点)が異れば、同じ振舞いが全く別の行為として了解されることになる。日本語を話していない日本とは文化が異る場所で「O HA YO U」と口に出しても、その振舞いが朝の挨拶という行為として読み取られることは無い。意味不明の音声の発生として、もしかしたら侮辱行為として読み取られてしまうかもしれない。「O HA YO U」が挨拶という行為とされるのは日本文化という枠組みに照らして振舞いが理解されるからである。
そして、他者は、行動ではなく行為として、君の活動に反応する。何かが行為と見做されるということは、それにどう対応するのか(後続の行為としてはどんなものがありうるか)もたいていは決まる。他者は、そういう行為としての理解を導きに、君に対応するわけである。
さらに、君の行動が行為として受けとられるとき、そこには、何らかの意図が「読み取られる」。つまり、行為とは、そこに意図を伴った、意図の表現として、受けとられる。このとき、君自身が何を考え、何を意図していたのかが重要なのではなく、君の活動を行為として認めた相手が、そこにどんな意図を読み取ったかということの方が重要になる。言うなれば、君自身の内面とは関係なしに、「勝手に」意図が君のものとされてしまうのである。そして、そのような意図の背景として動機が想定されることになる。
なぜ意図が想定されるのか? それは、人間の行動/行為には「他でもありえた」可能性がついてまわるからである。「他でもありあえたのに〜した」と理解されるということは、「他でもありえたのに〜することを選択した」と意味付けられるということである。つまり、選択として了解される。選択であるからには、その選択を行った意志なり意図なりがあったと了解されうるわけである。
もちろん、状況からそうするしかないようなことが明らかな場合、あるいは生理的反応のようなものは、意図が問われることがないことが多いだろう(それでも、人前であくびをするのは、状況によっては、意図的な行為とされるけど)。意図を持った行為だったのか、それとも反応/反射的行動だったのかは、状況や役割によって判断されることだと考えることができる。基本的には、周囲(外界、環境)からの刺激によって「直接的に」引き起こされたものではないと判断されるものが行為として認められることになる。もちろん、それを判断し意味付けるのは受け手(相手)であるが。
振舞いが、意味付けられ、意図が読み取られ、動機が想定されて、意図と動機が振舞いを行った者の内面的なものとして帰属される。これが他人との活動のなかで起きていることだと言ってもよい。
もちろん、君は自分の行動はそんな「行為」ではなかった、別の意図があった(あるいはそもそも何らかの意図などなかった)と、後から弁解したり相手の「間違い」を修正したりすることはできる。しかし、君が何かの振舞いをして、それに相手が反応するとき、まず起こっているのは、君が「行為した」として、その行為に対して反応するということなのである。
そういう意味では、行動と行為の違いが問題になるのは、社会的な活動、相手がいる活動、の場面である。行為とは、それに接続する行為を伴って理解されるものだからだ。この点で、行為とは連鎖の中に位置づけられるものだということができる。
先行する行為、後続の行為と、どのように繋がるのかが確認される場合に、行動の連鎖から行為が切り出されてくるのだと言ってもよいだろう。
言うならば、行為とは本質的に相互行為なのである。相手の行動(振舞い)が行為として理解できれば、我々はそれにどのように応じれば良いか分かるようになっている。だからこそ、それがどんな行為なのかを了解することが重要なわけだ。その意味で、行為として理解する/されるということに、基底的な社会性(応じようとする接続性?)が潜んでいる。
行動が行為として意味付けられることには、その行動=行為にどのように応じればよいのかが(少なくともどのような応じ方のオプションが存在するのか)が決められるということでもある。行為は行為のつながりの文脈の中で了解される。だからこそ、意図なり動機なりが読み取られるのだと言えるだろう。つまり、誰かの振舞いが行為として読み取られるとき、その行為がデタラメなものではないこと=動機があることが想定されることによって、そしてその想定された動機に基づくことで、後続するべき行為(のオプション)と、先行する行為とのつながりを確定できるのわけである。だからこそ、実際に意図や動機が問われるのは、「おもいがけないこと」をした時なのだ。行為の繋がりが破れたとき、繋がりを組み替え補修するために、動機というものが呼び出され(語られ)るわけである。動機とは、ある行為を、先行する行為や状況と、後続する行為の連関のなかに収めるために必要とされるものである。
行為の観察(評価)
我々は、通常、何かを目的として行為を行う(とされる)。その結果については、当初の目的(動機)がどれだけ満たされたかを考えるわけである。しかし、それだけではなく、実際に行為してみると思いもかけなかったことが起こることが往々にしてある。求めざる結果を伴うわけである。そうした、思いもかけなかったことや、考えてもいなかったこと、あるいは行為したこと事態の是非など、目的の達成以外にも、行為の結果について考えるべきことがある。
そこで、この講義では、行為の観察(評価)について、以下の二つを最低限の判断基準として用いることにする。
- 有効性:目的の達成度
- 能率:満足度
有効性
こちらは目的の達成度なので、特に説明の必要はないだろう。もちろん、達成度(達成の度合い)をどのように評価するのかというのは、実は大きな問題である。特に、行為が一回で完結せずに持続的に行う必要があるとき、達成度を測るのは難しい。
能率
有効性との違いが分かりにくい言葉であるが、経営組織論において「能率」という言葉は、行為の結果に対する満足度を指す言葉である。独特の(特異な)言葉遣いであるが、そういうものだと思って欲しい。
この能率(満足度)という指標によって、目的の達成以外の行為の側面を評価するわけである。先ほど述べた、思いもかけなかったことが起きた(目的としていなかったことが起きた)ことなども、それが行為者にとってどのようなものだったのか(=それに満足したのか、不満だったのか)ということで、評価・観察に取り込まれることになるわけだ。
複雑な世界の中で行為を行うがゆえに、純粋に目的の達成だけでは、行為というものの結果(効果)を考えることができない。それゆえに、この能率という観点からも評価することが必要なのである。もっとも、目的追求以外の側面をすべて能率という観点で評価することは、大ざっぱすぎるのも事実である。
なお、ある行為の結果の有効性と能率は、必ずしも同調するものではないことは注意して欲しい。有効的であっても能率的ではなかった行為、有効的ではなかったが能率的だった行為、そうした行為はいくらも存在する。
コミュニケーション論
コミュニケーションは情報の伝送ではない
伝送(パイプモデル)では人間のコミュニケーションをとらえきれない
通常、我々は、コミュニケーションというと、ある人から別の人への情報の伝達だと考えている。このとき、情報が、いかに同じであることを保ったままで伝えられるかが、コミュニケーションの問題となる。ちょうど、放送局の電波が家庭のテレビにまで届いて映像が映るのと同じように考えている。たしかに、たいていの場合、こうしたコミュニケーションの理解で不都合は起きない。しかし、これではすくいきれないような事態が、日々のコミュニケーションにおいては起きている。
たとえば、単純な話、AさんからBさんへ何かを伝えたとき、その情報が「同じ」ことはどうやって確認できるだろうか? 互いの意識の中をのぞき込んで同じかどうかを検証することなどできない。実際のところは、Bさんのその後のコミュニケーションや動作によって、「正しく」伝わったかどうかを確認(推測)するしかない。たとえば人間のすべてを見通せる神様(創造者)が存在しているのであれば、彼にとっては、AさんとBさんの頭の中にある情報が同じかどうかを確認できるかもしれない。しかし、我々人間は、そうした神のような存在ではない。
つまり、AさんからBさんへ情報というモノが送り届けられるのがコミュニケーションだと考えるということは、その考え方、視点が、架空の神の立場からのものになっている。しかし、現実の日々のコミュニケーションにおいては、我々はそのような視点から自分が巻き込まれているコミュニケーションを見通すことなどできない。現実のコミュニケーションにただ中においては、我々は、相手からの反応によって、はじめて事後的に自分が何を「伝えた」ことになったのかを確認するし、そうするしない。つまり、コミュニケーションを行っているときには、何かを伝えようとすることと何が伝わったのかを探り当てようとすることが一体となって行われているわけだ。また、それゆえに、通常のコミュニケーションは、一度きりの行為ではなく、連続したプロセスになっている。比喩的に言うならば、コミュニケーションとは流れであって、その中の一つを「切り出した」時に、あたかもAさんからBさんへの情報の伝達のように「描く」ことができるにすぎないものだと言える。
情報が「同じ」?(意味について)
仮にコミュニケーションは情報の伝達だとしてみよう。AさんからBさんへ何かが伝えられとする。そのとき、Aさんの「伝えようとした情報」とBさんの「受け取った情報」が「同じ」かどうかが問題になるわけだが、根本的に考えるならば、「情報が同じかどうか」ということにも、大きな問題が潜んでいる。
たとえば、言葉によるコミュニケーションにおいては、言葉の意味が正しく伝わることが「情報が正しく伝わる」ことだと考えられる。しかし、たとえば「花より団子」という言葉を受け取ったときのことを考えてみよう。ここでいう「花」とは、いうまでもなく植物に咲く花のことである。おそらく多くの日本人は、春、桜の花が満開に咲き誇る風景をイメージするだろう。それが「外見が美しいもの、しかし食べられないもの」という意味をともなって、団子という食べ物(肉体的な満足感を直接に与えるもの)と比較されているわけだ。大雑把に言えば、精神的(美的)欲求を花が、生理的欲求を団子が表している。しかし、花だって食べられるものはある。ブロッコリーの緑の粒は蕾である。カリフラワーはその名にもあるように花を食べている。そうした花だってあることも踏まえて、この「花」の意味をとらえることは、間違っているのか? 食べられる花があることを知っている人の思う「花」と、そんなことを知らない人の思う「花」は、同じ意味だと言えるのだろうか?
この「花」の場合は、花という言葉が、何と区別されて使われているのか、つまり一般に我々が食べるものである実と比較されて、花という言葉使われている、そのことも分からなければならない。つまり、言葉の意味というのは、その言葉自体の意味が何であるかということだけではなく、それは何ではないのかと伴って初めて輪郭がくっきりとするようなものなのである。そして、そこに言葉を用いた人の選択の問題が入り込んでくるのである。この選択の問題は後で触れる。
突然であるが、「友人とは自転車のようなものである」という文章を渡されて、これに続けて「なぜならば、〜」と作文せよといわれたら、どのような文章を書くだろうか? 友人を自転車に喩えるのは、普通はやらないと思う。しかし、無理ではないはずだ。考えてもらえば、何か答えを引き出せるだろう。その答えがどんなものになるか、できたら周りの人とやってみてほしい。おそらく、人によって出てくるものが違っているはずだ(少なくとも、皆が皆同じになることはたぶんない)。「友人は自転車のようなものだ」というこの文自体は難しいものではない。だが、その意味を問うとき、そこに人による違いが多々現れる。そして、どれかが正解というものではない。
普段の会話の中で「友達って自転車みたいだよね」といわれたら、「そうだよねぇ!」と答えることは少なくて、たぶん、「え、どういうこと?」と聞き直して、説明を求めるのが普通だろう。それは、自転車がどんなものかを知らないからではない。自転車というものの何を取り出して友達に繋げているのか、それが判らないからだ。つまり、自転車というものの、何に焦点をあてているのか(自転車というものを、他のものとどのように区別しているか)、何であえて自転車なのか、それがつかめないからだ。それが「意味が判らない」ということである。
別の例を挙げよう。『奥の細道』で有名な松尾芭蕉が、宮城県の松島を訪れた際、松島のあまりの美しさを前にして「松島や ああ松島や 松島や」という俳句を詠んだという話がある。これは史実ではなく、実際には芭蕉はそのような句は詠んでいないのが、そのことはともかくとして、この俳句を芭蕉の句であるとして読んでみよう。すると、この「松島や……」は、あの俳句の天才である芭蕉ですらただ名前を呼ぶしかなかったほどの感動を込めた歌として読めないだろうか? この俳句が、俳句とは5・7・5の音からなる詩であると学校で習ったばかりの小学生が詠んだものであるならば、我々は、季語も入っていない、ただ名前の繰り返しの面白さだけの句であると思う(厳密には季語が欠けているので俳句とすら言えない)。しかし、この句が芭蕉の句だとして読むとき、他にいくらでも素晴らしい表現で詠むことができたはずの芭蕉なのに、ただ名前を呼ぶしかなかったのだ、という句として「現れ」、そこになにがしかの感動(感慨)を呼び起こさないだろうか? つまり、この「松島や……」という句に現れた言葉自体ではなく、その言葉が形になること/することで「言われなかったこと」「言えなかったこと」の重みを感じないだろうか? 言葉の意味とは、このように、それが何を言っているのかだけではなく、それを言うことで何を言わなかったのか(否定したのか)ということも含めて、我々は受けとめているものなのである。
もっと低俗な?例を挙げる。3歳の子供が「今、何が食べたい?」と問われて「お母さんのハンバーグ!」と答えたとする。一方で、世界中のありとあらゆる美食を味わい尽くしグルメと称されるに相応しい人間が、「今、何が食べたい?」と聞かれて「母親の作ったハンバーグ」と答えたとする。二人とも母親の作ったハンバーグを食べたいと言った点では一緒である。では、この二人の「ハンバーグ」の「意味」は同じだろうか? 我々が受けとめるもの(感じ取るもの)は「同じ」だろうか? 言葉が指示しているモノは同じであるが、その言葉に込められたものは違うと誰もが了解できるだろう。そして、グルメの言葉からは、いかなる料理よりも母親の作ったハンバーグ、「おふくろの味」には勝てないのだ云々、といった人生論的な物語が、すぐさま現れてくることになる。このようなとき、我々は言葉の重みの違いを指摘する。同じことを言っていても、3歳の子供とグルメの達人とは言葉の重みが違う、というわけだ。この「言葉の重み」と言われるものは、その言葉が言われることによって言われなかったことがどれだけあるのかということを指していると考えることができるだろう。
これらの例から明らかなように、意味とは、それが何かということと同時に、それが何ではないのかということも伴っているものだと言って良い。だから、我々が言葉の意味が「分かる」というときには、二重の否定を考える必要があるわけだ。つまり、まずその言葉が選らばれて他の言葉が選ばれなかったということ、そして、その言葉のもつ意味の広がりの中の何を「言おうとして」いて何を「言おうとしていない」のか、この二重の「それによって否定されたもの」が縁取ることによって、言葉の意味が成り立っている。
意味とは、それで指示されているもの/それによって排除されたもの、という区別を踏まえた上で、指示されたものを受けとるようになっているわけだ。何が指示されているのか、その指示されたものはどんな区別によって切り出されたものなのか、こうしたことを受けとめることが、意味が「分かる」ことだと言ってよいだろう。
とすると、ここに大きな問題があることが分かる。それは、「それが何ではないのか」という点は、その言葉を用いた人の「広がり」、その人の知識や体験や言語観といったものに依存するということだ。どのような選択肢の中からその言葉が選ばれたのかということが分からなければ、意味が同じかどうかを厳密には判定できないということになる。しかし、語られた言葉には、それ以外のものは明らかになっていない。あくまで、その言葉を受け取り意味を推し量る側が想像するしかないものである。おそらく言葉を口にした側だって、その言葉を口にすることで「何を言わないことになるのか」なんてことは厳密には考えてもいないだろう。
こうしたことを考えるならば、意味と何気なく言うけれども、それは、限られた部分(はっきりと語られた/口にされた言葉)から、それを用いた人間の「全体」というものを「想像/空想」したうえで扱わざるを得ない、なかなか「怪しい」ものだということができる。とすれば、意味が「同じ」かどうかなんて、簡単に言えることではないことは明らかだろう。意味とは、受け取った側が正確に確定することはできないものだということなのである(相手の選択肢の幅は語られた言葉からは絶対に推し量れないのだから)。とことん突き詰めると、意味が分かるためにはその言葉を用いた人間のすべてが分からないといけないことになる。そんなことは不可能だ。言葉の「影」として感じ取られるような何かとしての相手について、それが正しいかどうかには関係なく、何らかの推測なり思い込みをしないことには、言葉の意味を受け取れない、それが人間のコミュニケーションなのだとも言えるわけだ。
つまり、私たちが何らかの意味を「分かろう」とするときには、相手について、あるいはその言葉に込められたものについて、我々の側(受け手の側)が能動的に(言い方を変えれば勝手に)「それではなかったもの」を想像しているということだ。それは、どう転んだって相手についての「正しい」認識などではありえない、こちらの側の勝手な思い込みということを逃れられないものだ。このように、意味を分かるということには、受け取った側の人間の思い込みが否応なく巻き込まれてしまうことなのである。コミュニケーションで100%伝わることなどあり得ないというのは、この「思い込み」を拭い去れないということである。
意味を「伝える」というのは、意味というモノを伝えるのではなく、言葉に痕跡=意味として残した選択を伝えることなのだといっても良い。
先ほどのハンバーグの例にしたって、もし3歳ではなく10歳の子どもだったらどうだろう?その子の親が資産家で生まれたときから世界中を旅したことがある早熟のグルメの子どもである可能性だってある(ちびまるこちゃんの花輪君みたいな子ども)。でも、普通は、我々は、10歳の子がそんなことはないと思い込んで子どもの発言として聞くだろう。
我々が文脈だとかコンテキスト、あるいは場だとか空気と呼んでいるものは、意味がどのような選択であるかを明確にするためのものだといっても良い。ただし、それにしたって、主観的な読み込みを排除できるものではない。
このように、実際のコミュニケーションのただ中において、何を持って「情報が同じ」というのかは、原理的に考えると難しい問題をはらんでいるのである。それゆえに、「同じ」情報が伝わること、と単純に考えるわけにはいかない。
伝わってこその言葉(人間の言語について)
先ほどのすき焼きやカツ丼のようなことが起こるのは、言葉の意味(その言葉が指し示す物事)が、言葉だけによっては決まらない、つまりその言葉が使われている文化的な文脈、習慣を踏まえなくては分からない、ということによる。
人間の言語は、このように、世界の出来事から必然的に導き出されたものではないという特徴、それが用いられる人によって違いがあるという特徴がある。先の人間論の中で述べたように、人間は狂ったサルであり、その言語の具体的な形態は本能から導かれたものではない。だからこそ、我々は、言語は学習するしかないのである。また、本能に導かれたものではないがゆえに、各個人は、理屈や法則ではなく、ただその言葉の使われ方に従うしかない。
本能に導かれていないということは、根本においては、人間が都合の良いように好きに決めてきた(作ってきた)ものだということである(このことを指して恣意性という)。しかし、だからといって、個々人が好き勝手にしてよいということにはならない。赤く色づいた甘酸っぱい果実が日本で「りんご」と呼ばれるのは、確かに、日本の文化の中で偶然に決まったことであり、その果実の呼び名として絶対的なものではない。日本語以外では同じ果実を別の名前で呼んでいる。けれども、「り・ん・ご」という音が嫌いだからといって、勝手に「り・り・こ」とか呼ぶことはできない。それは通用しない。言葉は、あくまでも「そのように使われている」「それが通じる」ということにしたがわないと言葉足りえない(詩のような言語芸術なら話しは別だが)。原理的に勝手になりうるものであるがゆえに、現実では規則に従わなければならないという強い縛りがかかるものなのである(恣意性ゆえの規範性)。成立のきっかけに偶然や無根拠をはらむものは、それがいったん動き始めたら、動くということを保証する強い拘束力を必要とする。
で、言葉の意味とは、結局、それが「通用すること」に縛られているとしたら、コミュニケーションとは、そのつど、その言葉が意味を為すか(通用するか)を賭けているということになる。通用するかどうかは、他人次第であるから、言葉を実際に話す前から確実に通用するという保証などない。そのつど、通用するかどうかを確かめているわけだ。だとしたら、Aさんが伝えようとした「意味」が正しくBさんに伝わることがコミュニケーションだと考えることはおかしいということになる。Aさんが話したことがBさんに「伝わった」から、Aさんの言葉には「伝わる意味」があったのだと、後になって確認することしかできない。「伝わる」という出来事の後から、意味が確認されるわけだ。このように、人間の言語というものを考えてみても、コミュニケーションを単なる情報(意味)の伝達と考えることは、色々な物事を見落としてしまうことが明らかになる。
伝達行為の重要性
我々の日常のコミュニケーションにおいては、何を言ったかということだけではなく、それをどのように言ったのかということも重要である。今、なぜ、そのように言うのか、あるいは、今、なぜ、そんなことを言うのか。そのことも重要なメッセージである。つまり、コミュニケーションは情報だけではなく、その伝達行為(発話行為)によっても「何かを伝える」のである。
一般には、こうした伝達行為が担っているものは、情報=意味とは違う、意図を伝えるものであるとされている。
たとば、来るはずの電話(あるいはメール)が来ないということは、情報の伝達ということだけで考えれば情報が0ということでしかない。しかし、それが、確実にメッセージであり、コミュニケーションであることは、我々はすぐに了解できる。
あるいは、凄みの利いた声で「夜道は気ぃつけや」と言われたら、それが自分の安全を気づかってのアドバイスではなく、言うことに従わないと痛い目に合わせるぞという脅しである。
このように、我々のコミュニケーションは、情報だけではなく、それを伝える動作や手段(伝達行為、発話行為)によっても構成されている。むしろ、実際に起きていることを、意味と意図(情報と伝達行為)にあえてわけて考えているだけであって、現実には、それが一体となったメッセージが我々に振りかかってくるというほうが正確かもしれない。
挨拶のように儀礼化したコミュニケーションにおいては、むしろ、挨拶という発話行為を行ったという点が重要なのであって、その言葉の意味は、もはや誰も意識などしない。言葉自体は符号のようなものだ。それでも、コミュニケーションだ。
だれだか知らない人間が、自分に向かって「うぉ〜〜」という奇声を上げる。そんな状況を考えてみてみよう。確かに、なにも情報は伝えられていない。何を考えているのか、何を意図しているのかも図りかねる。だが、他の誰でもないこの自分に向かって声が発せられたという事実は、それだけで確かに何かを伝えるメッセージなのであり、何もなかったとは言えない状況に巻き込まれてしまうだろう。これが突拍子もない話だと思うのであれば、次のような状況はどうだろう。言葉を覚え始めた赤ん坊が、言葉にはならない音のつながりを盛んに自分に向かって発している状況。これも、やはり意味を為さない音しか送られておらず、そこに意味を見出しようもない。しかし、赤ん坊がなにかを自分に向かって発しているという事、そのこと自体が、メッセージではないだろうか?
このように、コミュニケーションでは、伝達行為もまた「何か」を伝えるものとして重要なのである。そして、その伝達行為の根底にある「伝わるもの」とは、コミュニケーションしようとする意思(つながり・関係を作り維持しようとする欲望?)だろう。自分に向けられた伝達的行為によって、たとえ何を伝えようとしているのか分からなくても、少なくもと、なにかを伝えようとしていることは分かる。それも、この自分に、他でもないこの自分に、何かが差し出されている(向けられている)ことだけは、確実にわかる。他でもない自分が選ばれたということだけは最低限わかる。
この意味において、人間のコミュニケーションにおいて、何も伝わらない、0%のコミュニケーションというものも存在しえないのである。どんなに意味不明なメッセージであっても、何かを送り届けようとしているということだけは「伝わる」からだ。意味はもちろんのこと、意図すらも理解できなくとも、意図したことだけは、受けとめることができる(受けとめざるをえないものとして現れる)。
もちろん、送り手の意図が何であるかを知ろうとしたときには、先ほどの意味を理解するのと同様の困難に巻き込まれる。つまり、受け手の側で「これが送り手の意図だろう」と推測するしかないのであり、客観的な意図など知りえないものだからだ。意図の理解においても、受け手の側の「思いなし」「思い込み」という側面を拭い去ることなどできないのだ。受け手が能動的に読み取ったものとしてしかありえないのである。ここにも、人間のコミュニケーションが本質的にはらんでいる問題点が存在しているのである。
また、メッセージが意味と意図(情報と伝達行為)の2極からなることが、時として、ややこしい問題を引き起こすことがある。先ほどの「夜道はきぃつけや」の例に現れるように、情報が意味することと、伝達行為が意図することが、関わり方について相反する方向性を示すとき、どちらに従うのが「正しい」のかという問題である。通常は、意図(伝達行為)の示すものに従うものではある。「おまえ、何してるんや!」と怒鳴られたら、それは行為について問われているのではなく、今自分がしていることに対する叱責であると受けとめるのが「正しい」ことは、たいていの人は理解できるだろう。言い方を変えれば、こうした意味と意図の乖離やねじれを「言葉の綾」としてうまく処理できるようになることが「大人になる」ということかもしれない。
しかし、「自分が何をしたかわかってるのか?」という問い掛けを投げられ、それに答えることが強制される場面を考えてみよう。「自分が何をしたかわかってるのか?」と言われたら、通常は、ごめんなさいと謝罪するだろう。しかし、「分かってるのか、と聞いているんだ!」と重ねて言われてしまう。もし「〜〜ということをしました」と答えれば、「なんで分かっていてそんなことをしたんだ!」と更なる問い掛けが飛んでくるだろう。だからといって「わかりません」と答えようものなら、「そんなこともわからないのか!」とこれまた別の詰問が降りかかるだろう。つまり、答えを求められていながら、どう答えようともそれが相手を納得させないことは明らかな状況。答えること(応えること)が要求されながらも実質的に塞がれている状況。このように意味的には「質問」でありながら、意図的には「叱責」でしかないような状況に追いつめられるという体験は、多くの人が子ども時代に体験していることだろう。こうしたことが可能になるのも、コミュニケーションには情報と伝達行為の2極があるからに他ならない(メッセージとその文脈、あるいはコミュニケーションとメタ・コミュニケーションとして論じられる問題である)。
意図せざる(意図不在の)コミュニケーション
コミュニケーションを伝送の図式(パイプモデル)で考えるということの問題点の一つが、送り手の意思がコミュニケーションを作り出すのであり、その意思がコミュニケーションを根拠づけ、正当化するということになってしまうことである。送り手の意思がどこまで「きちんと」実現されるのかという考えでコミュニケーションを捉えてしまうことになる。
しかし、現実のコミュニケーションにおいて、自分にはその気が全く無かったのに、相手に「誤解されて」コミュニケーションに巻き込まれてしまうとか、相手の何気ないしぐさに自分への特別なメッセージが込められていると感じられてコミュニケーションに巻き込まれてしまう(少女マンガでは定番のエピソード?)ことは、決して珍しいことではない。コミュニケーションは、その出来事に何かの意思が読み取られる(=メッセージだと受け取られる)瞬間に発動するものであるということだ。
道端に何気なく落ちていた石であっても、そこに神からのメッセージを聞き取ってしまった人には、その石がメッセージとしてコミュニケーションを引き起こす。手のしわに、運命という名のメッセージを読み取る人だっている(送り手は誰だろう?)。
つまり、送り手が、確固たる意志を持って振舞った結果であるかどうかとは全く無関係に、何かが、そうした振る舞いの結果だと「読み取られてしまう」ことによって、いとも簡単にコミュニケーションが動き始める。
それはなぜか。我々がメッセージをメッセージだと了解するのは、そこに「意思がこめられている」からではなく、それが意思によって操作された(選択された)痕跡を見出すからだ。つまり、何らかの意思の働きでも無いかぎり起こりえないこと、普通ではないこと、その「違い」こそがメッセージをメッセージとして浮かび上がらせる。
極論すれば、我々は、自分の予期に外れた現象に遭遇すると、そこに、何者かの作為なり意思を読み取り、それをメッセージとして受け取り、コミュニケーションに巻き込まれるのだと言ってもよいだろう。先に述べたように、人間は予期する存在である。予期があることによって、予期はずれを感じ体験することができる。そして、予期はずれに出くわしたとき、その原因に何かの意思を想定することがある、と考えることができるだろう。
言葉のコミュニケーションは、意思を必ず伴うことが確実という点で、特殊なコミュニケーションの形態なのだと考えることもできる。言葉というものは、誰かに向けて発するという意志を持って発話しないかぎり現れないものであるという点で、必ずそこには意思があることが保証されている特殊なものだ。だからこそ、独り言のような誰に向けているのか不明な発話が不気味で戸惑いを生むのだ。言葉が、本能から生まれてはいない、人工的なものであるがゆえに、意思を確実に保証するモノになっているという点は、コミュニケーションを考えるときに重要なポイントだろう。この言葉のコミュニケーションが持っている特殊性を消去して考えるならば、我々がコミュニケーションに巻き込まれるとき(メッセージを受け取る、何かに呼びかけられたと感じる)、その根本にあるのは、何かが違うという感触ではないだろうか。
あるいは、ペットと「コミュニケーションが取れる」と感じるのは、単なる思い違いや思い込みで済ませられるのだろうか? 動物に心や意識があるのかどうかは、まさに分からないことだ(普通は否定されている)。もし、コミュニケーションが、意思や意味の伝達ということであるならば、動物とコミュニケーションできるというのはおかしいということになる。コミュニケーションを比喩的に使っているとういうことになる。動物ではなく、赤ん坊ならどうか? 赤ん坊とコミュニケーションが取れるのは、いったいいつからなのか? 赤ん坊に意識や意思が芽生えなければコミュニケーションが成り立たないというのであれば、いつから「本当の」コミュニケーションなのだろうか?
ここには、意識や意思に関して、大きな問題が潜んでいる。私たちは、通常、意識や意思があるからこそコミュニケーションを行うと考えている。伝送モデルの根本にあるのも、この考え方だ。しかし、逆に考えることはできないだろうか? 私たちがコミュニケーションを体験したとき、相手には意思や意識、心があると了解できる/了解するのだと。相手に何かを予期することができ、かつ、その予期を軸として、何かを了解するような体験、それがコミュニケーションの体験なのだとしたら、コミュニケーションの相手に意識や意思があるかどうかは、少なくともその体験を通じてしか確認できない。これが冒頭で述べた「人間は複雑である」=「意識は徹頭徹尾不透明」ということを、極端まで推し進めた考えになる。相手の意識が不透明だということは、相手に意識があるかどうかも不透明だということになる。
このように考えるならば、コミュニケーションは、それを「体験する」ということ、つまり何かをメッセージだと了解して行動を起こしてしまうこと、も重要なファクターであると言えるだろう。送り手だけでなく、受け手も重要なのだ。
メッセージとは何か
メッセージとは痕跡である。正確には、痕跡性? モノではなく、それに何かが取り憑いたもの。
情報と、伝達行為の一体となったものとして見出すこと。
情報(そのもの)が伝達行為=意図(他のもの)を指し示すもの。
遡及的に意図を想定させる。
ある種の不自然さ、ありそうもなさ。
可能性=可塑性を背景にした、限定=排除。
なぜ、あえて/わざわざ/よりによって、という思いがあるとき、その出来事は、痕跡に近づく?
コミュニケーションは出来事である
コミュニケーションの外在性
コミュニケーションは、その送り手も受け手も、どちらの意思によっても完全にコントロールすることなど絶対にできない出来事である。言うなれば、二人の「間で」起きてしまう出来事なのである。
人間のコミュニケーションとは、「どんなに誠意を持って接しても誤解されることはある、どんなに気を遣っていても傷つけたり/傷つけられることはある」、それが必然なのである。このように言うと悲観的なもののように思えるが、しかし、誤解や食い違いから人は他人と世界の「広さ」を学び体験することができるわけであるし、自分の殻を抜け出せるのだとも言える。また、先に述べたように、誤解や食い違いをうむ距離こそが、各人の持っている異質性(偏り)を保っているものでもある。
意識の不透明さ、間に入り込んでいる言語というもの、それらの「壁」をはさんで向かい合っているもの同士のある種の無力さ(自分の思い通りにはならないこと)の体験が、コミュニケーションの体験の根っこにはある。そして、それは、何かが不完全だからなのではなく、人間のコミュニケーションがそういうものであるということなのである。
こうした意味で、コミュニケーションの体験とは、社会的なものの体験である。自分にとって切実なものとして巻き込まれざるを得ないものでありながら、そこでは思い通りにならない無力感やもどかしさを多かれ少なかれ味わうことになる。自分や他人の意識が基になっているのではないものとしての社会的なもののリアリティはここにある。社会とは、コミュニケーションによってはじめてその存在を実感するものなのだと言っても良いだろう。
二人の「間」で起きる出来事ということは、見方を変えるならば、二人の間で新しい何かが生まれているということである。このような、間で新しいものが生まれる(起きる)ことを、創発という。コミュニケーションは、人々の間で創発しているものなのである。
どのような言葉や動作が繋がれていくのか、それは実際にコミュニケーションが起きてみるまで分からないということは、無限に多様なつながりが生まれる可能性が秘められているということである。それがコミュニケーション、特に言語によるコミュニケーションの持っている豊かさということだと考えることができる。
コミュニケーションとは何か
情報・伝達行為・理解
コミュニケーションを間で起きる出来事としてとらえるならば、コミュニケーションは、情報、伝達行為、理解の3つの選択が統合されたものだと考えることになる。ただし、この3つの要素が部品のように組み合わさってコミュニケーションができ上がるわけではない。コミュニケーションが起きたときには、そこにこの3つが見出せ、選択の連鎖が見出せるということである。
情報とは、何が伝えられているか、ということである。これは、何が伝えられていないのか(何が否定されたのか)をも合わせ持ったものとして了解する必要がある。何かを伝えようとすることは、何かを伝えるべきものとして選択したということである。伝えるべきものと伝えないものとの間の区別を行ったわけだ。それゆえに、情報には、何がという側面と、それを他から区別したという側面の二つが含まれている。つまり、「他でもない、まさに〜が選ばれたのはなぜか」ということを了解することが、情報を了解するということだ。
ただし、情報が情報のかたちで伝えられてくるのではないことには注意しなければならない。コミュニケーションが起きたときに、そこに情報が見出せるということなのである。
伝達行為とは、どのように伝えるのかということである。「他でもない、まさに〜という伝えられ方がなされたのはなぜか」ということを了解すること、それが伝達行為を了解するということだ。また、そこには、単になにかを伝えるということだけでなく、何かを伝えようとしているということも読み取られることになる。単なる情報の入れ物ではない。交流への意思、接触の志向も含まれるものだ。
伝達行為もまた、情報同様に、そのものとして端的に見出されるものではない。コミュニケーションが起こったときに、情報とは区別されるものとして伝達行為が見出されるのである。
理解とは、何かを情報と伝達行為の一体となったメッセージとして見出し、情報と伝達行為を区別し、それぞれを了解すること、である。先ほどの言い方で言えば、痕跡を見出すことである。しかし、これは送られてきたものを振り分けるといった受け身の動作ではない。理解する側が、何かを、情報と伝達行為が一体になったものとして「見出し」、また、情報と伝達行為の意味を「見出す」ということであり、能動的な動作なのである。だからこそ、送り手の意思や送り手そのものが不在の出来事であっても、それをコミュニケーションとして見出す=理解するということが生じる。また、理解によって見出された情報や伝達行為の意味は、あくまでも理解した側が意味付けしたものであって、送り手の込めた意味を再現したものではない。そもそも再現などあり得ないということなのだ。そして、その理解は、なんらかの行為(コミュニケーション)によって明らかにされ、それが後続のコミュニケーションにおいて理解として措定される。コミュニケーションの過程では、理解(として機能するもの)もコミュニケーションによって確定される。何が理解されており、何が理解されていないかは、コミュニケーションによって決められる。端的に言えば、コミュニケーションがさらに進行して行くかぎり理解が為されたといえるのである。
なにかが、情報と伝達行為という二つの側面が一体となったものだと観察されたら(=見出されたら)、コミュニケーションは、それだけでも作動する。足早に通り過ぎる友人の姿が、単に急いでいるということにしか思えなかったらそれだけであるが、それが自分とは話したくないから急いでいるふりをしていると思われた時には(急ぐということが、単なる動作ではなく、情報と伝達行為の一体になったものだと見出す時には)、何らかのリアクションを起こさざるを得ない。
メッセージとは、端的に意図の痕跡であると行っても良いだろう。痕跡が見出されるとき、その痕跡を残したもの、その痕跡の受取人に自分をした者、それを読み解こうとして、我々はコミュニケーションに巻き込まれる。
触発される体験(英語で言えば be inspired と be affected の両方かな?)といえば分かりやすいかもしれない。触発とは外部の何かを感知して内部で何かが沸き起こる体験だ。何かに触発されたら、その触発したものがメッセージとして見出され、そのメッセージを情報と伝達行為として理解する。何ものかに触発される体験。それは物理的な刺激ではなく、こちらから何かを刺激として見出し/受けとるという体験であり、受動性と能動性が一体になったような体験だと言っても良いだろう。そうした体験が我々をコミュニケーションへとかき立てるわけである。
差異と選択
コミュニケーションを構成する情報、伝達行為、理解のいずれも、「他の〜ではなく…である(を選択した)」という違い=差異が問題になるものである。そして、その差異を生じるにいたった背後には、意思による選択がある(想定される)。
選択の結果としての差異、つまり根底にあるのは、「偶然には起きないこと(偶然ではありそうもないこと)が起きている」という、ある種の不自然さ、それがコミュニケーションの核にあるといっても良い。
そして、先にも述べたように、その不自然さを感知しうるのは、人間が予期する存在だからである。予期する存在だからこそ、差異に反応できる。
理解と受容
理解することは、そのメッセージを受容することではない。そのメッセージに対してどのようなリアクションを起こすのかは、理解した側の別の選択の問題である。
このことには、実は、大きなポイントが潜んでいる。それについては、後述の「コミュニケーションの継続」において展開する。ここでは、コミュニケーションの理解と、コミュニケーションによって伝えられた情報の受容とは、別の選択の問題であるということだけを確認しておく。このことから、コミュニケーションは合意を目的としてなされるものなんかでは全くないということが確認できる。
コミュニケーションと行為
コミュニケーションは行為として観察=確認される
コミュニケーションという出来事そのものを直接に観察することはできない。我々は、コミュニケーションが生じたとき、それを行為として観察し了解するのである。伝達行為が、情報を伝える意図を持ってなされ、その結果、受け手が内容を理解した、とコミュニケーションという出来事事態では一体となっている3要素が分解され、対人行為として捉えられるのである。
だからこそ、我々は、コミュニケーションを、通常は、情報の伝送として考えるのだとも言える。
コミュニケーションが、情報伝達の行為として観察=了解される時点で、情報の送り手と受け手という人が確定され、情報や伝達行為は、送り手の意思による行為として、送り手に帰属させられる。主体への帰属、情報と伝達行為の分離、こうした「処理」を経た伝達行為によって、我々はコミュニケーションを了解する。
コミュニケーションが、誰かの行為として帰属させられることは、その「誰か」に責任主体としての属性を付与することにもなる。あるコミュニケーションがAという人の伝達行為として了解されるということは、同時にAという人はそのようなコミュニケーションを行う人物であるということも(明示的ではないにせよ)了解されることになる。我々が他人に対して抱く相手の人格像というものは、このコミュニケーションの行為としての了解の積み重ねの中で生まれてくるものである。こうした、コミュニケーションの中で相手に帰属されていく属性の総体を、この講義ではパーソンと呼ぶことにする。
行為によって参照が可能になる
行為となったコミュニケーションは、その出来事を他とは区別する形で指し示すことができるようになる。そのことで、受け手の人は、自分の行為選択の確固たる基準点とすることができるようになる(「CさんにYYと言われたので、私は…」)。
また、コミュニケーションは、行為として了解されることによって、後からそのコミュニケーションについて言及(参照)することが可能になる。「あのときBさんがXXといったけど、あれは…」というように、過去のコミュニケーションについて、コミュニケーションの中で取り上げることが可能になるわけだ。
このことによって、コミュニケーションについてのコミュニケーションを行うことが可能になっている。
そのことで、コミュニケーションという出来事に持ち込まれた区別=分離(それによって行為にされるわけだ)について、後から、遡及的に再考することが可能にもなる。このように、コミュニケーションを行為へと分解することは、コミュニケーションについて後から「点検」することを可能にしている。
コミュニケーションの問題は、コミュニケーションによって(コミュニケーションの継続によって)解決できるのである。
このことは、見方を変えれば、コミュニケーションに参与するということは、後になって、自分の発言(とされたもの)の意味を、他者から問い直される可能性が常に存在しているということである。そして、いったん定まっていたかに見える意味があらためて組み換えられることが起こりうる。
つまり、コミュニケーションに参加するということは、「なぜ?」という問いかけが帰ってくる可能性があるということを引き受ける必要があるということである。そして、「なぜ?」に応えることが求められている。これをコミュニケーションにおける根底的な責任(応答可能であること)と呼ぶこともできるだろう。
コミュニケーションと名
コミュニケーションを行う存在としての原初的な責任は、問い掛けに応えるということから逃げないということ。このことは、見方を変えるならば、コミュニケーションにおいて「人」として認められるということは、問い掛けに応じうる存在として認められるということである。そのために必要な要件は何だろうか?
問い掛けの宛先として同定でき識別できるということ、それは端的に言えば「名」をもち、「名」を引き受けるということではないだろうか?
ここでいう「名」とは、コミュニケーション行為の主体に付される識別子である。簡単に言うと、誰の発言かが明らかになり、その発言者を特定できるということではあるが、この場合の「誰か」というのは、その発言の送り主を識別するものであって、その発言を行った本人そのものを指す必要はない。名前は本名である必要はない。ある名前の人間の発言とされた諸発言は、すべて同一の行為者のものであって、その行為者に「問い直す」ことができるようにさえなっていれば、最低限のコミュニケーションは可能である。
インターネットあるいは古くはパソコン通信などで使われたニックネーム、ハンドルあるいは偽名であっても、その「名」に対して呼びかけ問い掛けることができるのであれば良い。場合によっては、発言番号のようなものであってもよい。『電車男』の最初の方で、電車男は 731 という自分の体験を語り始めた発言の発言番号を名として用いていることを思い起こして欲しい。「電車男」だろうが「731」だろうが、「Mr.名無しさん」から区別でき、持続的に呼応可能であることを示すものであれば「名」として機能する。
コミュニケーションにおいては、自己の振舞いが、主体の行為として了解されコミュニケーションに組み込まれるわけだが、この主体の同定と識別を可能にするものが「名」であり、「名」があることによって、コミュニケーションの参照性(再帰性)が高まるのであり、つながりが確定しやすいわけである。
コミュニケーションの継続
コミュニケーションの巻き込み効果
コミュニケーションという出来事は、それが行為として観察=了解されることで、さらなるコミュニケーションを生み出す契機を作り出している。
簡単に言うならば、コミュニケーションは、それがコミュニケーションとして了解された瞬間に、了解した人間(受け手)に、その情報をどのように処理するか、選択を強いるものだということだ。その選択というのは、根本においては、了解した情報を受け入れるのか、拒否するのかという2者択一の選択になる。どんな些細な情報であれ、この選択を強いるのであり、多くの場合、それは受け手に新たなコミュニケーションを起こすことになる。
何かを伝えられたら、もはや知らなかったことにはできない。それがコミュニケーションなのである。
別の観点から言えば、どんなことであれ、それをコミュニケーションしてしまうと(=言葉にしてしまうと)、相手に、それを受け入れるのかどうかの選択を迫ることになり、そして選択の結果、拒絶される(拒否される)ことになってしまうかもしれないということである。つまり、コミュニケーションするということは、そのコミュニケーションの情報を拒否される可能性が現実のものになるということである。
こうした、コミュニケーションが受け手に選択を強いるということが、コミュニケーションに巻き込まれてしまうということである。コミュニケーションが持っているこの効果(機能)を、この講義ではコミュニケーションの巻き込み効果と呼んでおく。
この巻き込み効果が最も先鋭的な形(最も切実な形で)で現れるのものとして、恋(愛)の告白がある。「あなたのことが好きです」という告白は、単に自分の気持ちを伝えるものではない。自分の気持ちを情報として相手に送り付けることによって、その気持ちを受け入れて恋人として付き合ってくれるのか、それともそういう関係にはなれないと拒否するのか、選択を迫っているのである。「気持ちを伝える」という言い方をするが、単に情報として気持ちを了解してもらっただけではだめなわけで、「あなたの気持ちはわかりました」だけで終わってしまったら、それは「まともな」コミュニケーションではない。それでどうするのか?という判断が示されて、初めて「気持ちを伝える」コミュニケーションは完了する。このように、告白とは、自分の気持ちという情報を明示的なコミュニケーションで投げつけることで、相手に選択を強いる行為なのである。
また、同時に、告白をするということは、自分の気持ち(夢)を、はっきりと拒絶されてしまう可能性を現実のものにしてしまうということである。言うなれば、告白を行った時点で、世界は相手が Yes という世界と、相手が No という世界のどちらかに分岐し、そして、どちらの世界が現実のものになったにせよ、いったん分岐した以上は、決して、絶対に、後戻りできない。告白というコミュニケーションを行ったことは、どうころんでも、それを無かったことにはできないのである。つまり、拒絶(拒否)を現実のものにしてしまう(かもしれない)というのが、コミュニケーションの巻き込み効果にはある。だからこそ、告白するかどうかのためらいがあるわけだ。
コミュニケーションを行うことが人間関係に刻んでいく掛け替えのなさとは、コミュニケーションの持っている巻き込み効果ゆえのことだと言えるだろう。この掛け替えのなさは、何も愛の告白といった大きなイベントだけに限らず、日々のすべてのコミュニケーションの中に、どんな些細な形であれ潜んでいるものなのである。
巻き込み効果が新たなコミュニケーションを生む
何かのメッセージを受け取ってしまったことによって、受容か拒否かの選択を強いられる。そして、その選択の結果は、たいてい、何らかのコミュニケーション(行為)となる。つまり、コミュニケーションは、巻き込み効果によって、さらなるコミュニケーションを生み出す。
このように、コミュニケーションは、コミュニケーション自身の効果によって、新たなコミュニケーションへと接続していき、プロセスとして進行するようになっているのである。端的に言うならば、コミュニケーションはコミュニケーションを生み出すのだ。
コミュニケーションの巻き込み効果は、コミュニケーションという出来事が、情報の伝達という行為として了解された瞬間に生じる。ある情報が、ある人物(主体)から、メッセージとして送り付けられたと了解することによって、その情報に関する受容/拒絶の判断を強いられ、そしてその判断を相手にコミュニケーションとして「送り返す」ことになるわけだからだ。この意味で、コミュニケーションは、行為として理解されることを不可欠の契機として組み込んだプロセスとして進行して行くものであると言うことができる。行為として理解されることで、巻き込み効果が生じ、あらたなコミュニケーションが紡がれていくのである。
コミュニケーション自体には目的はない
協働論
協働の成立
二人以上の人間が協力して何かに取り組む活動を協働という。ここでは二人の人間が一緒に協働する場合について考えていくことにする。
一般に、協働は、目的の共有によって成立する。二人が同じ目的の達成に向けて協力して活動を行うとき、協働が成立するというわけである。ここでいう目的は、本質的には予期である。
一方で、協働は、個人では達成できないようなことをなし遂げることを可能にする。人間の能力には限界がある(=人間はさまざまな制約を背負っている)。しかし、複数の人間が協力しあうことによって、この制約を乗り越えて、活動を行うことができる。ひとりの人間が24時間はたらくことは無理だが、複数の人間が交代して働けば、24時間働き続けることは可能になる。このように、協働は、個人の制約を越えて目的を達成できるものとして意味を持つ。この点では、協働とは、個人が自分の力だけでは達成できないことを達成するための手段であると言うことも可能だ。
個人が、自己の能力だけでは達成できないものを目指す時、協働への意欲が生まれる。そして、協働の意欲を持った者同士の間で予期が「一致する」とき、協働が行われるというわけである。
二重の複雑性への直面
協働は他者との行為である。このことによって、協働においては、単独の行為の時とは異って、他者という新たな複雑性に直面することになる。つまり、協働において二重の複雑性に対処することを強いられることになる。
他者が新たな複雑性として現れるのは、世界とは異って、他者が自由意思を持っている(と想定される)ことによる。世界の複雑性とは、極論すれば、我々の知性の限界であり、我々には知りえないことがあるという複雑性である。世界には、もしかしたら我々がまだ理解できていない法則性や規則性があるのかもしれないが、それを把握できない以上、複雑なものとして現れるしかない。しかし、他者の複雑性は、他者というものが、原理的に、法則や規則を「越えてしまう」行為を行いうるということにある。自由意思を持った「狂ったサル」であるがゆえの複雑性が現れるわけだ。
それゆえ、協働においては、世界と他者という、二つの複雑性に対処するしかないのである。
その結果、我々の予期も二重化する。世界に対する予期(自然法則や慣習、風習)と、他者に対する予期である。他者に対する予期とは、その他者の特異性ゆえにあえて相手に帰属させる予期である。どんな人間であれ空を飛ぶことはできない。それゆえ相手が空を飛んで逃げることはないというのは世界に対する予期に含まれる。これは、相手が誰であれ、人間であるかぎり必ず成り立つ(と予想される)予期だからだ。しかし、どの程度のくだらない冗談が通じるかといったこと(あるいはカレーが好きかとか、野球の話にどれだけのってくるか)は、その特定の個人に帰属される予期となる。
このように、特定の他者に対する予期は、世界に対する予期には解消できないのである。
行為の二重化
協働においては、自分の行為が、他者に対する自分の表現、つまりコミュニケーションとしての側面を帯びる。先に述べた他者に関する予期も行為を通じて形成されていく。
さらに、行為が他者に表現として了解される場合に、目的から来る側面(目的達成のための役割を果たしているという面)と、その個人の特性による側面(個性とか人格という面)とに分けられて了解される。そして、後者の面が特に個人の人格的なものへと関連づけられることになる。もちろん、この場合の線引きは厳密なものではないし、固定的なものでもない。役割がどの程度明確になっているのかによるので、協働の場合は、あまり厳密でないこともあるからだ。しかし、確実に、行為の非人称的側面(役割の遂行)と、人称的側面(個人的資質)とが、線引きされるのである。この点を、バーナードは、協働においては個人は組織人格と個人人格の二重の人格をもつと述べている。
行為が役割遂行と個人的表現の二重のものとして了解されるのに伴って、個人に対する予期も二重になる。つまり、役割に対する予期と、個人に対する予期に分化する。
役割とは、その状況においては、誰であっても同じように行動するだろうという予期である。匿名的な予期である。であるから、実は、純粋な自己表現(人格的な表現)のみの行為というのは、原理的には、ほぼ不可能であると考えることができる。なぜなら、何らかの行動(振舞い)を行為として了解することには、行為という一般的な枠組み、つまり誰の振舞いであるかを問わない枠組みを使って了解しているからである。それゆえ、個人的な自己表現とは、常に、ある種の役割の遂行を通して行われるということができる。あるいは、言い方を変えるならば、目の前の振舞いがどのような役割=行為であるかを確定できないと、そこに現れる個人的な自己表現も了解できないということである。つき合いが長くなれば相手の個人に関する理解が深まるのは、つき合いのなかで相手の行動のどの側面が役割遂行で、どの面が個人的表現なのかが、より明確になっていくからだと考えることもできるだろう。
つまり、行為に現れる人格的な表現の原初的なものは、そのような役割を担う存在であるということを基点とするものであると言うことができるだろう。
なお、行為が役割遂行と自己表現の両面で理解されるということは、行為者の視点でみれば、自分の行為が、どのような役割の遂行として了解されるのか、どのような個人的なものの表現として了解されるのか、自分でコントロールする余地が得られるということである。仕事をまじめにこなしながらもこんな仕事は面白くないよと感じている自分を表現するといった「高度な」自己表現を行う余地が生まれるということでもある。
パーソン
特定の他者その人に対する予期とは、その他者の人格として理解される。この講義では、コミュニケーション(協働)を通じて生じてくる個人に対する予期の総体を、パーソンと呼ぶことにする。通常、我々が人格として理解しているものは、この予期の束としてのパーソンである。
パーソンとは、あくまで、社会的活動を通じて観察・確認され、帰属させられる予期である。その人の「本当の姿」だとか、「内面の真実」などではない。あくまでも、外部の観察者にとっての予期でしかない。しかし、我々はその予期を、その相手の内面の発露として了解しているわけである。
しかし、「他人の内面は徹底的に不透明である=他者は複雑である」というこの講義の根本原理に立ち戻って考えるならば、我々が他人に対して抱くことができるのは、パーソンとしての人物像でしかないのであって、それを越えて「本当の相手の姿」なるものを追及しようとしても、底なしの泥沼にはまりこむだけである。人間とは、先にも確認したように、いつでも別様になりうるという自由を持った存在であり、だからこそ複雑なのである。それを確固たる実体として把握しようというのは、しょせん、無理なのだ。
我々は、他人をパーソンという形で把握することで、そのパーソンを形作る予期をもとにすることで、他者という複雑性に対処できるのである。
このパーソンは、確かに勝手に抱くものではある。しかし、コミュニケーション(協働)によって、その有効性が検証されることによって、少なくともパーソンを抱く人にとっては、コミュニケーションの継続の足がかりにはなりうるだけの「現実的なもの」となる。先のコミュニケーション論でも出てきたように、予期とは、最終的にはそれが「真実」であるかどうかは問題ではなく、それを足がかりとしてコミュニケーションが継続できるかどうかが重要なのである。そして、一定の足場として予期が確かなものとされたとき、それは「現実」として使われるのである。
我々が他者に対する予期をパーソン(人格)という形で理解するのは、そこに一貫性(傾向性)を認めるからであり、その一貫性(傾向性)の原因を相手の内面として想定するからである。つまり、人々が互いに相手を人格として理解し把握することの根底には、人間はある種の傾向を持つものであり、一貫性を持つものであるという想定がある。相手が内面を持つということが、ランダムではないある種の傾向性(ランダムからの偏り)を発露することで「読み取られる」のである。
このことは、同時に、自分自身もそうした一貫性を持った人格として他者に読み取られるということ、その人格を持っているものとして人間関係への参与(コミュニケーションへの参与)が可能になっていることを、反射=反省的に自覚させることになる。コミュニケーションに加わり、他者とともに営みを行うからには、一貫性をもたなければならないということだ。そして、その一貫性は、他者とのコミュニケーションの体験の中で他者に読みとたれるものでしかない以上、自分の振る舞いは、常に、経過=歴史に拘束されるものとなるということを意味する。予期の帰属先として認められるような、一貫した振る舞いが求められることになるのだ。
さらに、このパーソンと予期に関しては、他者の抱いている予期に自ら応えていくという問題も存在している(バーナードのいう責任)が、これについては、ここでは踏み込まないことにする。
目的の二重化
協働に参加すると、個人の目的も二重のものになる
- 全体目的−協働自体の目的
- 個人目的−各人が協働を行う(参加する)目的
全体目的の達成による成果かが、何らかの媒介過程によって個人へと分配されることによって個人目的が達成される。それゆえに、協働においては、個人目的を充足させるための何らかの媒介過程が必要になる。
全体目的と個人目的の一致は、望ましいことでもなければ、理想でもない。問題は、目的が一致することではなくて、その目的のためにどれだけ熱心に行為するかという動機づけの問題である。個人の場合には、目的の内容が動機づけになっているが、二人以上の人間が友に行為する状況においては、目的と動機づけが別々の問題となって現れるのである。そして、目的(全体目的)によって動機づけを行うことが難しくなるのである。
原初的管理行為
協働においては、個人で行為する場合には無かった新たな行為が必要となる。それは、関係を維持し、行為を促進するための行為である。管理(マネージメント)の原初的なものである。
気遣いだとか思いやり、あるいは言葉をかける等といったもので、普段、我々が他人とともに行為する際には何気なく行っているものであるが、それは、関係を良好に保ち、協働を促進するものであり、単独での行為では見られないものである。
協働の観察(評価)
個人の場合同様に、協働を観察・評価するに当たっても、有効性と能率という二つの軸が最低限の評価の基準となる。
有効性として、全体目的の達成度が評価されることになる。
能率としては、各人の満足度が評価されることになる。能率の場合は、あくまでもそこに参加している各人が問題になる。このことは、協働全体の観点からは、各人を満足させられたかという問題になるのであり、それは各人への成果の媒介・分配がうまくいったかどうかという問題になる。
組織論
組織とは何か
組織と呼ばれるものの本質を問うていくと、最終的には、そこに行為の連鎖があるということ、つまり行為のシステムが成立しているということに行き着く。行為のシステムなのであって、人間のシステムではない。人間は、確かに行為を行う存在ではあるが、組織の要素ではない。
この講義では、組織を次のように定義する:「二人以上の人々の、意識的に調整された行為のシステム」
特定・特有の予期を共有するコミュニケーション=行為の連鎖というのが組織の本質だと考える。ただし、この定義には、2つの注意すべき概念が含まれる。行為とシステムである。これについては後ほど論じる。
協働と組織の違いは何なのか?
組織の場合でも、複数の人間が協働を行っていることには違いがない。行為の連鎖は日常的な相互行為でも成立している。では、何が相互行為の協働と組織に関わる協働を区別するのか?
それは協働を構成しているものは何かという点から考えることができる。多くの相互行為の場合、具体的な協働を成り立たせているものは、その場にお互いにいる、ということである。自然発生的な相互行為は、協働を行う状況に居合わせるということが各人を協働へと「巻き込んでいる」。
それゆえに、相互行為が必要とされるような状況が解消されれば、相互行為(協働)は解消する。道で故障した車を無事に安全な場所に移せたら、それで完了である。
その意味で、相互行為は、直接的な接触のもとで連続的に営まれるものである。しかし、もしそうした相互行為を中断しながらも長期にわたって行う必要があるとき、あるいは関わっている人々が全体として何らかの対象に向かい合う必要があるとき、そのようなときには、相互行為は「ひとつのまとまり」をもった、ただの集まりではないものになる必要がある。そこで生まれてくるのが組織というシステムであると考えることができる。
「私たち」というまとまりとして名乗り名指されるような状況が、相互行為を組織というシステムとして協働を編成し直すと言ってもよいだろう。「私たち」と自分たちを呼ぶとき、そこでは、あくまでも「私たちではないもの」との対比(対峙)においてだが、個々の人間の個別性・特異性が消去されて同質化されて把握されている(意識されることになる)。内と外、あるいは仲間とそれ以外の人々、といったシステムに関わる意識がそこに芽生えている。
「私たち」というまとまりに名を付けるとなると、それはもう相互行為ではなく組織である。
ただし、相互行為との違いが極めて明確になるのは、後で述べる公式組織である。
組織に人は含まれない
組織=行為のシステムは、確かに、人間が存在しなければ絶対に成立しない。人間が行為するからこそ、組織は成り立つ。その意味で、人間の存在は組織の成立のための不可欠の要件である。しかし、組織そのものには人間は含まれない。人間にとって、組織は外在的なものである。コミュニケーションがそうであるように、組織もまた、人間の間で起こる出来事なのだ。
組織には人は含まれない(人は組織の要素ではない)。だからこそ、組織は人の出入りがあっても、同じ組織である。大学では、毎年、多くの学生が入学し卒業していくが、学生として教育を受ける行為があるという点で、同じ組織として続いていく。もし組織に人が含まれているのであれば、人の出入りによって、組織は別のものにならざるをえない。
また、人が、ある組織の影響下で振舞っていても、その人の行為がすべて組織になるわけではない。田中が県立大学の建物内において行っていることがすべて県立大学という教育機関の組織の要素になっているのではない。田中が講義の後で校内の自動販売機で何を買おうとも県立大学には関係ないが、講義で何を話すかは関係するだろう。人の様々な振る舞いは、特定の組織に属するものとそうでないものに分かれるのである。
人間は組織の部分や要素ではないということは、人間は、組織に含まれてしまうような存在ではないということ、つまり人間は人間として複雑であり広がりを持った存在であるということでもある。また、人間は部分や部品として組織にかかわるのではないのだから、組織が人間のすべてを受けとめたり欲望を満たしてくれたりすることはないということでもある。どんな組織であれ、その組織が、君のすべてを受けとめ理解し満たしてくれるようなことは絶対にあり得ない。会社は君の働きは見てくれるが、君という存在を見たりはしないのだ。
さらに、組織の存立の原理との関連で言えば、組織は、何らかの人間の特性を根拠としたり、人間に基礎付けられるようなものではない、ということである。人間の組織であっても、組織のすべてを人間から説明できるものではないということだ。まして、組織の諸問題は、組織にかかわっている人々の個々人の意識の問題には解消できないのである。
なお、後で論じるが、現実においては、組織は、行為ではなく、人のレベルで管理できるような仕組みが働いており、それによって、我々は、通常(日常)的には、組織を人の集まりとしてとらえる(とらえてもよい)ようになっている。
行為のシステム
システムとは何か
ここまでシステムという言葉(概念)を説明抜きに使ってきたが、ここできちんと論じておくことにする。
日常の用語として、システムというと、制度や体制、あるいは何かの方式を指したりする言葉である。やや専門的な工学の用語として「きわめて多数の構成要素から成る集合体で、各部分が有機的に連繋して、全体として 一つの目的を持った仕事をするもの。」(新明解国語辞典)という意味を持つ。この最後の意味で、我々は組織は行為のシステムだと言っている。
さらに、もう少し本質的な点を明確にしておく。システムとは、環境との間に恒常的な境界を造り出し維持しているようなまとまりのことであり、その要素もシステム自身が規定しているものである。
まず、システムとは、何よりも、環境との違いを作り出し、一つのまとまりとして存在しているものである。またそのまとまりを自分自身が作り出し、維持しているものである。何か外部の根拠や力によって成り立つまとまりなのではなく、自らまとまりを成り立たせているようなものである。このために、システムは、常に、自分と自分以外のものの区別(これが自他の境界)をし続けているのである。
そして、ここがこの講義でのシステムについての考え方の一つの大きなポイントになるのだが、システムは、自らの要素を、自分で規定しているものである。何かを寄せ集めたものがシステムの構成要素となってシステムを作るのではない。システムというまとまりが存在し存在し続けるかぎりにおいて、そのシステムの要素を規定することができる。
環境とは区別されるまとまりであることによって、環境からの独立性を保っており、環境の変化が直接的にシステムの内部の要素関係に因果的に影響を与えることはなくなっているものでもある。なお、環境というのも意味が広い漠然とした概念であるが、これについては後で論じよう。
行為のシステムとしての組織に即して、システムについて述べてみよう。社会の中で多くの人々が営みを行っており、様々な行為が発生している。組織とは、そういう状況の中で、一定のつながりを持った行為によって成立したまとまりであり、組織の属する行為とそうでない行為とを明確に区別することによってなりたっているものであるということだ。
先ほど、組織に人間は属さないという話の中で、田中が県立大学の建物の中で行っている行為のすべてが県立大学という教育組織に属するわけではないと述べた。県立大学の建物とそれを取り巻いている場において行われている様々な行為の中から、教育機関としての組織に属するものが選別され、それらが連鎖していることによって、県立大学という組織=システムは成立している。様々な行為が、組織に属するものとそうでないものとに分けられ、組織に属するとされた行為に、べつの組織に属するとされる行為が接続すること、これによってシステムはなりたっている。
行為について
行為のシステムとしての組織を理解するにあたって、行為というものについても、ここできちんと確認を行っておく。先に述べたように、組織というシステムの要素となっているのは行為である。こう述べると、行為というものがまずあって、それをかき集めて選別してシステムが成り立つかのようであるが、それは違う。組織を為す行為とは、あるシステム(組織)の要素であることによって行為として成り立つものなのである。つまり、組織というシステムと行為というものは「同時に」成り立つものなのである。
それに対して、振舞いが観察され意味付けられたものを行為と呼ぶ。この二つは異る。
つまり、人の振舞いは、そのままでは行為にはならない。常に、何かの枠組みによって、行為として読み取られるものである。
ここでいう枠組みにあたるのが、組織の場合は、組織というシステムなのである。
田中が黒板の前で大声を張り上げチョークで字を書きなぐり手をひらひらさせたり歩き回ったりする振舞いが、講義という行為として受けとめられるのは、それが教育機関という組織の中で、その組織に属するものとしてなされた行為として了解されるからだ。同じことを、夜中に、九頭竜川の河原で一人で行っても、それは講義ではない。どうように、自宅から車で教室にやって来て座っている学生たちの振舞いは、講義を受講するという教育組織の要素の行為として了解されるのである。車でやってきたからといって、それが環境破壊だとか、化石燃料の浪費とは了解されることなく、受講という行為として了解され、それに対して田中が講義という行為を行っているわけである。
このように、ある振舞いが、システムによって要素たる行為として読み取られ、それに別のシステムの要素たる行為が繋がっていく、そういう連鎖によってシステムは成り立っている。
さらに、組織の場合には、その組織の要素となるような行為は、人間が意図的に行ったものであると了解される行為である。この場合の意図的ということは、つまり、それを行った人間が意識的に選び出した(選択・決定した)ものであるということである(意思決定の結果として理解されるもの)。この点で、行為のシステムは、さらに突き詰めていくならば、意思決定(判断)のシステムであると考えることができる。組織とは意思決定のシステムである、というわけだ。だが、この講義では、組織は行為のシステムであるとして考察を進めることにする。
役割とパーソン
組織を成立させる行為は、その行為は、組織が無ければ/その組織でなければ、ありえあなかった(と考えられる)ものである。それゆえ、行為は、それを行った本人の自己表現ではなく、非人称的なものとして、組織に原因が帰属される。つまり、役割の遂行だと見なされるわけである。
もちろん、ある行為がすべて役割だけに帰されるわけではない。役割の遂行と同時に自己表現的な側面は確実に読み取られていく。ちょうど、台本の通りに決められたセリフと動作を行っている役者の演技であっても、それは必ずその役者本人の自己表現として受けとられるのと同じことだ。
それゆえに、組織においては、行為が、役割に帰属するものと、先に述べたパーソンとしての個人に帰属するものとに二重化された形で了解され、帰属されていくことになる。
このことを指して、組織では、人間は、組織人格(役割遂行)と個人人格(自己表現)の二重人格であると言うこともある。ここでいう人格とは、あくまでも行為が帰属される中で想定されていくパーソンとしての人格である。
この行為の二重化にともなって、他者が抱く予期(それは行為の帰属先であるパーソンを基点として形成される予期である)は、役割に対する予期と、個人に対する予期とに分かれることになる。経営組織論の講義を担当する教員がどんな人間であるかを知らなくても、その人物が教員として講義するという役割を果たすものである限りにおいて、すくなくとも受講すれば何らかを教えてもらえる授業を行うであろうと安心して?受講することができる。匿名的な予期を抱くことができるのである。さらに、行為をする側は、自分が担う役割に対する予期を逆手にとって、役割との距離やコンフリクトとして自己を表現するというテクニックを用いることができるのである。
組織の存立条件
*この部分は、他との整合性を欠いているので注意(ようするに前からのバーナードの理論の話をそのまま放り込んだだけなので)。
意図的に組織を作り上げようとする場合、以下の3つの条件を整えることになる。
- 貢献意欲
- 共通目的
- コミュニケーション
組織と環境
「環境そのもの」などない
ここまで、環境という概念を厳密に規定せずに、システムの外部を指すものとして用いてきた。そこで、改めて、環境というものについて考察しておくことにする。
まず、何よりも重要なポイントとして、環境とは、常に「何かにとっての環境」であるということを確認しておく、環境そのものといったものは存在しないのである。
例えば、我々は、環境問題は現代社会の大きな問題であると考えている。しかし、この場合の環境として想定されているのは、最終的には、人間にとって人間が生存していくための環境である。地球の生態系を破壊しているのが人間であるならば、地球環境を守る根本的な方法は、人間を抹消してしまうことである。しかし、いわゆる環境問題は、絶対に、この方向への議論にはならない。また、地球上で個体数が最も多いのはバクテリアの仲間である。もし、地球上の全生命体が一つの生命が一票の投票権を持って地球の今後について多数決の議論を行ったら、バクテリアの仲間の意見が採択されることは間違いない。しかし、我々が環境問題を論じるとき、バクテリアにとっての地球環境のことを想定するだろうか? せいぜいが、ホ乳類いなど、我々が感情移入しやすい、また「高度に進化した」とされる(進化そのものが生命の複雑化への進歩と取り違えられているという大きな問題がここには潜んでいるのだが)動物を守れと言った議論にしかならない。このことからも、環境とは、常に、あるシステムの内部から環境として措定されるものでしかないということは納得できるだろう。
先に述べたように、システムは、世界というもの(複雑なもの)を、自己と環境に切り分け、常に切り分け続けることによって成り立っているものである。この切り分けにおいて、何がシステムの内部とされるのかに相応して環境というものが定められるのである。それゆえに、様々なシステムは、自己の固有の環境を持っているのであり、また、自己の性質や構造(観察の視点)が変われば、その環境も変わるものなのだ。
環境からの独立
環境については、もう一つ押さえておくべきポイントがある。それは、環境での出来事は、そのままストレートにシステムに作用することはないということだ。つまり、環境での事件とか出来事は、かならずシステムの側で環境から持ち込まれたものを情報として処理できるものにかぎるのであり、かならずシステムの側が「見出すもの」なのである。
ふたたびいわゆる環境問題を例にとろう。このところ、微量な化学物質が生命に深刻な影響を与える内分泌撹乱物質、いわゆる環境ホルモンというものが問題になっている。これは、かつては人体などに直接的な毒性を与えることがないように薄められさえすれば化学物質は問題にならないだろうと考えられていたものが、ごく微量(50mプールにスポイトで2滴、と言われたりする)であっても、それが生命体に入り込むとホルモンの働き(生命の体内で機能している微量な化学物質による情報伝達のシステム)に狂いを生じさせるというものである。物質的、化学的なレベルでの現象ということであれば、この現象は、問題になる以前から存在していたことである。しかし、それが、貝やワニなどの生物の異変として観察され、その原因として規定されて、はじめて、人間にとっての新しい環境問題として浮上してきたわけである。このように、我々は、環境問題と言われるものであっても、物質的・化学的なレベルで起こっている直接的な影響を把握することはできない。我々が理解し了解できる現象として現れて、はじめて環境の問題として問題になるのである。つまり、何が環境問題になるのかは、物質的・化学的なレベルで何が起こっているのかを直接に反映したものでもなければ、それらを感知したことによるのでもない。人間の意識にとって了解され問題として定式化されるものになって、はじめて問題になるわけだ。
このように、環境の問題は、あくまでもシステムの側(上の例で言えば人間社会)が、それを問題として了解しないかぎり、とらえられない。環境は、様々な形でシステムに対して撹乱やノイズを送り込んできているものだと考えれるが、それが「何か」として問題化されるかどうかは、システム側の感度の問題なのである。
端的に言うならば、システムは環境から直接に影響を受けることがない。環境からは独立した(閉じた)ものだということである。自分たちの「目に映ったもの」を、自分たちなりに処理しているだけなのである。だからこそ、同じ出来事が、システムによって異って解釈され意味付けられ対処されるのである。システムは、環境の出来事を、常に、自分たちで解釈した形でしか了解できない(解釈できないものはシステムに影響を与えない)のである。この点を指して、システム(組織)は認識主体であるとする考えもある。各組織には、その組織なりの認識のあり方が(ものの見方)があって、その制約を逃れて「事実そのもの」を組織が認識することなどできないとうわけである。
環境は撹乱要因である
先ほど、組織(システム)は環境から独立していると述べたが、このことは、組織はいったんでき上がったら安定しているということではない。独立しているのは、あくまでも、環境での出来事がそのままの形では組織の中に入ってこないということを指している。
組織にとって環境とは、その中で常に自己を危うくするような撹乱・ノイズを持ち込んでくるものである。組織は、常に、環境に対処することで存在しているものなのである。
端的に言えば、複雑で変動する環境の中で組織の存続をいかに確保するのか、が組織の根本的な問題なのである。環境が持っている複雑性と変動性を、組織が対処できる形にし、それを処理していくことができなければ、組織は崩壊する。
環境への対処の戦略
組織が環境に対処するための戦略はいくつかある。
まず主観化という戦略。これは客観的な状況の代わりに主観的な状況(イメージだとか概念)を用いることで、単純化してしてしまうものだ。たとえば、今の日本の経済状況を、「不況」という概念でひと括りして捉えること。こうすることによって、細かなことには拘らず(気にせず)、不況なんだからXXしなければ、といった行動の指針が立てられたりする。このように、現実そのままではなく(もちろん、そのまま捉えることなどできないが)、現実についてのイメージにしたがって反応していく戦略である。
この主観化という戦略は、それが制度化されるといっそう強力なものになる。特定の状況(のイメージ)に対して、どのように反応し処理するかを定式化してしまう。そうすれば、いっそう環境を単純に処理できるようになる。
別の戦略として、環境分化の戦略がある。環境を区分して区別して扱うものだ。たとえば、金融市場(資金の調達などを行う際に問題になる環境、労働市場(人を雇ったりする際に問題になる環境)、資材市場(原材料の調達などで問題になる環境)、消費者(販売の際に問題になる環境)というように、一言で経済と呼んでいる環境を区分し、それぞれの特色(特異性)を規定し、対応していくわけだ。このように環境を区分することで、人の問題のときには労働市場という環境だけを対処すべき環境として考えればすむことになる(ようするに、何でもかんでも気にする必要はなくなる)わけである。
この環境分化の戦略と対になる戦略として、組織(システム)の内的分化の戦略がある。簡単に言うなら、役割分担をしちゃうということで、環境の分化に対応する下部組織(部署)を設けて、それぞれが自分が受け持つ環境に対応するというものである。これによって、組織は、環境から持ち込まれる問題を、それぞれの下部組織(部署)の問題として「隔離」することができるようになる。たとえば、先の経済の例で言えば、たとえば牛肉や鳥肉の輸入が止まってしまったという問題は、まずは資材調達の部署(資材市場に対応している下部組織)の問題となる。その部署だけでは対応できなくなったときに、他の部門も巻き込んだ組織全体の問題へ「格上げ」されることになる。また、環境に応じて組織を分化することで、各下部組織は、自分たちが対処するべき環境についての理解を深めたり、対処方法を高度化することが可能になる(一言で言えば学習が可能になる)。
このように、環境分化と組織分化の二つの戦略を用いることによって、システムははるかに多くの環境からの情報を処理できるようになるし、また、環境に対する感度を上げることも可能になる。この戦略は、抽象的に言うならば、環境という外部の複雑性に対処するために、内部の複雑性を上げて、そのことによって、外部の複雑性を内部の問題へと変換するという戦略である。
この他にも、視点の構造化の柔軟性という戦略がある。先に述べたように、環境というものは、常にそのシステムにとっての環境という形でしか存在しない。このことは、言い換えるならば、環境というのは、何らかの視点から見出されるものでしかないということである。この環境を観察し処理するための視点によって、組織は環境を見出し、その環境の中で存続していくための組織の形を整えていくことになる。それゆえ、どのような視点(観点)から環境を観察するのかということは、その組織の構造をどのようなものにするのかという問題に繋がっている。ここで問題になるのは、もし特定の環境にあまりに強固に対応した構造を組織が持つと、組織は環境の変化に対応する柔軟性を失ってしまうことになる。他方で、あまりに緩やかな構造にすると、その時々との環境との適応に問題を生じることになる。それゆえに、どの程度まで組織の柔軟性を確保するのかという問題が、環境への対処の中では問題になるのだ。そして、組織の柔軟性(変化へのポテンシャル)を保ちながら組織を成り立たせるような視点を確保することが、環境に対処する戦略になる。
目的の機能
先に述べた環境への対処のための組織(システム)の戦略を、まとめて同時に可能にするもの、それが目的というものの機能なのである。組織の存立条件に共通目的を挙げておいたが、目的というものがあるシステムは、変動する環境へ対処するための複数の戦略を実施でき、それによって、組織が存続しやすいのである。もちろん、環境への対処以外にも組織の存続のために必要なことはあるし、また先ほどの戦略しても具体的にどのように行うのかというものは大きな問題である。しかし、組織というシステムは、目的というものを持っていることによって、複雑で変動する中での存続の確保というシステムの根本的な問題を、組織自体が扱える問題へと変換することができるのである。
先ほどの環境の対処の戦略に即して目的の機能をあげていくと次のようになる。
- 主観化:目的とは未来に結果についての主観的な観念(予期)
- 制度化:目的は行為の基礎や結果として制度化され、当事者以外も認めるものになる
- 環境分化:目的は環境分化に適合するように特殊化(個別化)することが可能
- 組織分化:目的は組織分化の際の分化の原理として働く
- 規定の柔軟性:目的の持つ規定の程度は可変的である
このような目的は、環境における複雑性と変動制の吸収という問題に関して、多くの相を媒介する機能を持っている。目的設定は、不確実性を吸収するための戦略として役立つのである。
目的という遮蔽物によって、日常的な行動のためにきわめて単純化された環境の像を、システムが用意できることになる。それによって、調整のための基礎が得られるのである。
公式組織論
行為を直接操作することはできない
組織は行為のシステムである。しかし、行為というものをかき集めてきて組織を作る、なんてことはできない。行為を直接に操作の対象にすることはできないからである。行為のシステムを形成するには、行為(の素材である振舞い)を提供する人間に働き掛けるしかない。人間への働きかけによって、組織は成立し存続するものである。
組織論で展開したように、行為は振舞いを意味付け連鎖させることで成立している。それゆえに、組織を存続させるためには、組織の行為として意味付けられ、組織の要素になるような振舞いを安定的に確保することが必要になる。
人間への働きかけは予期の次元で為される
人間に働きかけて行為を確保する必要があるからといって、人間の意識に直接働き掛けて行為(振舞い)を引っ張り出すことなどできない。人間の意識は他者にとっては不透明でありコントロール不可能なものだからだ。
そのため、行為を確保するには、人間が行為する(振舞う)ときに拠って立っている予期の次元での働きかけを行うことになる。ここでいう予期とは、人間論で展開したように、積極的に何かの実現を願う/予想するだけではなく、何かを当たり前と見なしたり、自明だとして意識しないことも含まれる。何かを当たり前のことだとして意識もせずに振舞うことだって、何かが当たり前であるという予期に拠っている。
私たちの日々の活動は、予期を基盤とすることで、つつがなく進行している。世界が不確実な中で、予期によってのみ、振舞うことが可能になっているのだ。ただし、こうした日常生活を支えている予期は、それが予期であることが意識されないものになっている。予期が予期としては意識されないことが基盤としての拠り所を作り出しているともいえるのである(予期は、それが予期であることが意識された時には、無根拠性、恣意性、偶有性などをもったものであることが「見えてしまう」)。我々の日常生活は、大半が自明化し非意識化された予期によって成り立っている。そして、ある予期が自明なものとして受容されたとき、人は自然とその振る舞い=行為を反復しうるのである。
組織は予期の一致で成立する
各人の予期が矛盾することなく統合化されうる状況、原初的には予期が一致する状況、において人は協働を行える。同じ内容の予期でなくとも良い。各人の予期が食い違いを起こさないような形で連携できるようになったとき、そこに協働が成り立つのである。
人間が集団を形成する際の極めて根本的な法則:共同生活が存続するかどうかは、相対的に安定した相互的行動予期を形成することができ、しかもその予期が一定の信頼のもとに満たされるかどうかにかかっている。
一定の予期を共有し承認すること(受容すること)によって、その予期を軸として、複数の振る舞いが行為として連関することが可能になる。だから、どんな組織にも、その組織の軸となる予期が存在している。
組織の軸となる予期とは、組織の共通目的として存在している。組織にかかわりを持つ人間にとって、共通目的は、それにあわせて自己の振る舞いを制御することが可能になるような、予期であるわけだ。それゆえ、共通目的を受容するということは、共通の予期を受容することでもある。
組織は予期の次元で構築される
組織にかかわりのある人々の間で同じ予期が共有されるかぎり、人が変わっても、行為が類型的に繰り返されることが保障される。同じ予期によって、同じ行為が導き出されることになるからだ。
明確な予期が人々によって共有されているかぎり、組織(システム)は、一定の持続性と、自律性(個々人の意識からは独立するという意味で)をもてるようになるのである。行為のシステムたる組織は、システムとしての行為のつながりを導き出し作り出すような、そうした行動予期(行為を成り立たせる予期)の秩序から、システムの恒常性を得るのである。
それゆえに、すべての組織(あるいは人間が関与するシステム)の問題は、究極的には、予期の安定化という問題に還元されるとすらいっても良い。
組織という行為のシステムは、具体的な行為のレベルにおいてではなく、行動予期のレベルで構築されるものである。
予期の公式化
組織の存立と存続のためには、予期の安定性を確保することが重要になる。予期の安定性を強めるためには、どんな時でも通用するようにする(時間的に一般化する)、どのような状況でも通用するようにする(即事的に一般化する)、どんな人でも通用するようにする(社会的に一般化する)のが望ましい。ここでいう一般化とは、特定・個別の事象に依存しないようにする、という意味である。
このような一般化を図るために、予期の公式化という方法がとられる。つまり、組織の軸になる予期を、言語化し、明示化し、その承認を求めるようにするわけだ。そして、組織にかかわる人は、この公式化された予期を承認する(それに合意する)ことで、組織を構成するような行為(振舞い)を行うというわけである。
特定の予期(組織の軸になる予期)が公式化され、それを承認することが組織に関与する条件として設定されると、組織に関与する人々は、個々人がどのような人間であっても、公式的な予期を承認し合意したとして扱える(想定して良い)ということになる。これによって、関与するもの同士の間では、相手の複雑性を「減らす」ことが可能になる。
メンバーシップ
組織の軸となる予期を公式化することで、その公式化された予期を承認し合意した者の間で、組織が安定的に存立しうることになる。しかし、ある人物が予期を承認し合意したかどうかは、その人物に尋ねないかぎり分からないことである。何度も繰り返しているように、他者の意識は不透明なのであり、その人間がどんな予期を認めているかといったことは、外側からは絶対に見えないことだからだ。それゆえ、このままでは、予期を公式化した効果は十分に発揮されない。
そこで、組織の軸になる公式的な予期を承認した者を組織のメンバー(成員)とし、それ以外の者とは区別することによって、公式的な予期を承認しているか否かを「可視的にする」ことが重要な方法になる。公式的な予期を承認しているかどうかという違い(差異)を、形式的に判別できるようにすることに、メンバーによる判別の大きなポイントがある。
つまり、相手の内面だとか思想や心情には一切踏む込まずに、その相手に対して何を予期してよいのか分かるようにするということが重要になる。組織のメンバーになっている以上、組織の公式的な予期は承認し合意したものとしてその人間を「扱ってよい」ということが重要なのだ。
この、相手がどんな人間であるかという内面の深みに踏み込むことなく、相手の扱い方(相手に対する一定の予期)を確定できることにこそ、公式化とメンバーシップをリンクさせる方法のメリットがある。人間の社会生活は、こうした多くの「内面に踏み込まずに=相手がどんな人間であっても」相手の行動の予想が立つ(行動予期を得られる)仕組みによって成り立っている。たとえば、自動車を運転する場合、対向車に乗っている人間がどんな人間かは知らないが、自動車を運転している以上は、免許を取得できるだけの道路交通規則を理解しているはずであり、それゆえに、どちらの車が優先されるかといったことに関して了解できているものとして扱える。それに反するような行動を相手が行った場合には、即座に、相手が「悪い」と確定できる。だからこそ、見知らぬ人々の車の流れの中で、安心して運転していられるわけである。車の場合には、免許の有無が、公式予期の受容(承認)の有無を「可視的に」しているわけである。
メンバーであるための条件、メンバーであるための資格、それをメンバーシップ(成員資格)というが、公式的な予期の受容(承認)をメンバーシップ(成員であるための資格)にすることによって、公式的な予期を軸とした組織の存立と存続が確保できることになる。
単純化して言えば、メンバーという形で「人を囲い込む」ことによって、組織を成り立たせることができるのである。メンバーの振る舞いは、システムを形成する行為となることが前提できる。また、公式的な予期の背くような行為を行った場合には、その人間のメンバーとしての地位は奪われる。つまり、メンバーである個々人は、公式的な予期に対する何らかの違反行為は、その行為だけが問題になるのではなく、メンバーであるという自分の地位の問題に必ずリンクした問題となることを自覚せざるをえない。
組織の軸になる予期を公式化し、それを受容することをメンバーシップ(成員資格)とした組織のことを公式組織と呼ぶ。
公式組織においては、実質的に、組織を人の集まり(メンバーの集まり)と見なすことができる。これゆえに、我々は、日常の生活において、組織を人の集まりと了解しているし、それで大きな不都合は生じないのである。
加入・脱退という限界状況と反省的意識
メンバーシップ(成員資格)によってメンバーか否かを選別するということは、ある組織への加入や脱退というただ一度の限りの極めて意識的な決定を、日常的な状態を解釈するための中心に据えることになる。先に述べたように、メンバーであり続けるためには、公式的な予期に添って行為しなければならないのであり、また、自分の行為が公式的な予期に反すると受けとめられると、自分のメンバーとしての地位が危なくなる。このように、組織にかかわる行為においては、常に、自分がメンバーであることを選択したということとリンクしていることになるわけだ。
それゆえに、人は、ある組織のメンバーになるか否か(成員資格を受け入れるかどうか)という選択において、その組織全体に対する意識を強く持つことになる。入会・脱退を意識することで、各個人は関係全体を反省する契機になるといえる。システムへの加入もしくはそこからの脱退という状況に立たされると、それは、自らの様々の対人関係をその境界から全体として捉えるきっかけとなる。
加入・脱退という限界状況というものは、常日頃とは異る包括的な意識を要求するものである。組織のメンバーではない(メンバーではなくなる)という状況を考えること、つまり境界の外の選択肢を考慮に入れることによって、初めて全体としての組織(システム)を体験の主題とすることができるようになる。
言い方を変えるならば、人は、区切られるとき、その区切りの内と外について強く意識するようになる。卒業が近づくにつれて学校とかクラスメートといったものが妙に愛おしく思えてきたり、当たり前のように過ごしてきた日々の貴重さに思いが至るというのは、その典型である。あるいは、期限が区切られた恋愛(恋人が病気で余命わずかとか)、あるいは障害のある恋愛(遠距離だとか親の反対だとか)が、密度の濃い体験になるのも、常に外部(終わってしまった状況)を意識しながら内部(今、ここの自分たちの関係)へと意識が集中するからだと考えることができる。普通の恋愛であれば、最初はともかくとして、そのうちに「当たり前」「日常」となって非意識化されてしまうようなことが、外部(終末)が視界にあることによって、常に意識に上ってくるのだといえる。Aという出来事が、ただAとして体験されるのが日常だとすれば、日常の「終わり」が意識されることによって、Aは、BやCだったかもしれないという可能性を排除して(そうした可能性が現実にならない壁があったことで)成り立っていることが意識されるのである。他ならぬAという出来事として体験されるのである。
こうした反省的な意識を持つこととは別に、加入・退会を意識することによって、人は、組織が、最終的には人ではなく行為であることも了解することになる。この場合は、自分の意思で加入や脱退が決められるということにポイントがおかれる。つまり、いざとなれば脱退できる以上、自分が組織に完全に組み込まれてしまうことはないのだということを知るわけだ。組織は、人の出入りがあっても、ちゃんと成り立つようになっており、自分がいなくなっても、自分の替わりに行為を担う人がいれば、組織は存続するということ、それが加入・脱退を自分の意思で決められるということの意味でもある。
公式組織と資本制経済(商品経済)
公式組織は、公式化された予期の承認とその予期にそって行為することをメンバーであるための条件(メンバーシップ=成員資格)とすることで、個々の人間の内面に踏み込むことなく協働が行える仕組みになっている。また、それゆえに、人の出入りがあっても組織として存続していけるような仕組みになっている。
このことは、別の観点から言えば、公式組織が存続するためには、たとえある人が脱退したとしても、替わりの人間がすぐに確保できるということが前提になっているわけである。つまり、組織に必要な人間を、簡単に調達できるという経済的な条件が成り立っていて、初めて公式組織は安定性を確保できる。
このような、公式組織が安定性を保てるような経済的な条件とは、端的に言うならば資本制であり、商品経済である。この経済体制においては、多くの人々は、労働力を販売して貨幣を得る労働者として存在している。つまり、人が生きていくということが商品の売買によって成り立っており、また、自分自身も商品として売買する、そのような経済の体制になっている。だからこそ、公式組織は、必要な人間を、労働者として雇用し、その働きを労働力として買い取ることで、人の出入りにかかわらず、必要な行為を得ることができるのである。
それゆえに、必要な労働者が簡単に調達できるような条件が整っていることが、公式組織の存続あるいは発展のための重要な条件であり、これを満たす資本制社会(全面的な商品経済)が成立した19世紀以降、特に20世紀になって、全世界的な規模で活動を行うような組織が成立することができたのである。組織は人ではなく行為のシステムであるということは、行為の担い手を必要に応じて調達できるような条件が整えば、組織にとっては自己の存続が容易に確保できるということだ。
商品経済であるということは、売買が貨幣というものが媒介しているということでもあるが、この貨幣という媒介の持つ意味については、後ほど、動機づけの問題において、改めて論じることにしよう。ここでは、公式組織、とりわけ巨大で長続きするような組織の成立と存続は、資本制経済(商品経済)と密接に関連していることを確認しておく。
公式組織の定義
ここで、公式組織について、改めてきちんと定義を行い確認しておくことにする。
公式組織とは、組織の軸となる特定の予期が公式化され、その承認を要件としてメンバーを定めている組織である。現在、多くの組織は、公式組織として存在している。