経営組織論

福井県立大学・経済学部 田中求之

はじめに

このページについて

このページは、田中求之が福井県立大学・経済学部の後期開講科目「経営組織論」の講義のために準備した講義ノートを整理したものである。県立大学で私の授業を受けている学生たちが、田中はいったい何を考えてあんな授業をやっているんだと思ったときに読んでもらうことを考えて、なるべく学生たちに分かってもらうように書きおこしていったものである。講義の前半部分にあたる基本的視座・コミュニケーション論・協働論・公式組織論を掲載してある。

ここで田中が展開しようとしている組織論は「人間は絶対に完全には分かりあえない。他人の不透明さ(不気味さ)は、絶対に消え去らない。そのことを前提に考えないといけない」ということだと思ってもらったらよいだろう。お互いが完全に理解しあえるコミュニケーションを理想とし、それが実現されないことを「問題」として考える、そうしたコミュニケーション理解を田中は拒否する。そうした「人間同士、最後はわかりあえる」という価値観、その根底にあるある種の安易なヒューマニズム。そうしたものを拒否した位置で、田中はコミュニケーションと組織を考えたい。そのために、田中はドイツの社会学者の二クラス・ルーマンのシステム論を、自分が考えるための道具箱に使っている。田中の目論見は、ルーマンのコミュニケーション・システム論上に公式組織の議論を乗っけた上で、バーナード風に経営組織論として展開するというものである。いささか大げさ(身の程知らず)なのを承知で言うならば、ルーマン以後のバーナード組織論を自分なりにやってみようという作業である。以前から考えていたものなのだが、本格的に取り組んでみることにした。Hack the Luhmann, Ride the Luhmann (換骨奪胎?)というスタンスでやっている。

ルーマンのシステム論を基礎にすることの意義については、色々な答えが可能であるが、とりあえず、ここでは、組織というものと会社(企業)を明確に分け、組織というのを人間が集合的な協働を行う場面で作動するシステムとして一般化することにある。さらに、組織というもの(社会システムというもの)が、確かに人間の存在に依拠して成立するものであるが、その性質や特性は人間に基礎づけられるものではないことを明確におさえるということにある。やや大げさに言えば、組織論からヒューマニズムを排除すること。組織として作動しているシステムをクールに捉えること。

もちろん、そんなことだけであれば、バーナードでだって十分ではあるという声もあるだろう。現に、バーナードは、組織に人は含まれないと論じ、また自分が目指したものは「公式組織の社会学」だと述べてもいる。だが、田中は、バーナードの組織論では不十分だと考える。詳しいことはこのノートを読んでもらうしかないのだが、問題点の一つを上げるなら、公式組織の公式性の意味(メカニズム)を十分に把握しきれていないということである(おそらく、こう述べてしまうことが、ルーマンにハマっていしまっている何よりの証拠なんだろうが)。

現在、このページにまとめてあるのは、公式組織論までの内容である。組織についての原理的な考察部分にあたる。各論は、いずれ、あらためてまとめたいと考えている。

このページで論じている田中の経営組織論を読んで、これが経営学か?という疑問を抱く人もいると思う。実際、田中の講義を受けた学生の授業評価アンケートでも「経営学っぽくない(だから面白い/面白くない)」という意見が出ている。

田中の組織論は、人間が組織を作って協働している場合に働いている原理や仕組みはどういうものなのか?ということを、少しでも納得いく形で論じたいというものになっている。しかし、一般に、経営組織論でイメージされるものは、たぶん、「変革の時代を生き延びる組織の作り方」とか、「他社に差がつく組織の力の育て方」とか、そういう話であることが多いだろう。つまり、簡単に言うと、競争に勝つための道具としての組織の作り方/使い方の話が経営組織論だと思われているようだ。実際、現在の社会で組織といえば会社(企業)の組織であり、会社にとっての組織の問題とは、言うまでもなく利益をあげ市場の競争のなかで勝ち残っていくという観点で見出される問題だろう。しかし、田中の組織論は、そうした勝つための道具としての組織の問題を論じたものではない。組織経営術ではなく、経営組織論であるとはそういうことだと、田中は考えている。

もちろん、だからといってここで論じている内容が、現実とはまったく無関係だとか、机上の空論をもてあそぶものだとは考えていない(そうした傾向があることは否定しないが)。勝つために組織という道具を使わないといけないのなら、まず、組織というものがどういうものかということを理解しておいた方が(少なくとも考えておいた方が)いいのではないか、ということである。自動車にたとえて言えば、僕たちが普段の生活で買い物などに使っている車も、F1のような自動車レースに出る車も、車という点では同じであって、その同じというレベルでの車の理解があって、初めてレースの車の話ができるのはないか、ということである。また、勝つために最適化しようと思っても、様々な条件で最適化を拒むものがあるのが現実であるが、その最適化を拒むものは、何らかの障害が存在するということだけではなく、組織というものが原理的にもっている制約かもしれないではないか、ということは考えておいた方がよいのではないか。そして、組織というシステムがもっている制約をたとえば類い稀なリーダーシップで乗り越えることが可能であったとしても、それはかならずどこかに歪みをもたらす可能性がある(原理的な制約を、「無理に越えている」わけだから)、そうしたことを考えておくことも現実的な問題へ取り組む際の手助けになるのではないか、と田中は考えるのである。

何よりも、多くのひとにとっては、組織とは、生きて行くために何らかのかたちで関わらざるを得ないものとしてある。社員や職員として自分が働く(働くことになる)組織というものが、どういうものなのか。それを考えるためのヒント(参考)になれば、という立場で田中は経営組織論を論じてみたいと思っている。

関連ページ

2014年にこのページの内容を大幅に更新したのだが、このページに含まれていない講義ノート(講義の後半部分で論じている内容の一部)として以下のものがある。

田中が組織論を展開する上での相談相手として、折に触れ読み直しているルーマンの『公式組織の機能とその派生的問題』の読書ノートを以下のページで公開することにした。参考になるかも知れない。

経営組織論の古典であり、田中の組織論研究の出発点であり土台にもなっている本である、チェスター・バーナードの著作について、コメンタール的な解説ページの作成を始めた。まだ完成とは言えない状態であるが、バーナードに関心をもつ人の参考になれば嬉しい。

作業履歴

*2014年の更新に伴い、過去の履歴は整理した。

世界・システム・人間・予期

複雑さについて

まず、この講義で前提とする考え方として以下の2点を確認しておきます。

  1. 世界は複雑である
  2. 人間は複雑である(不透明である)

世界

まず世界についてですが、世界が複雑であるということは、もう少し厳密に言うと「体験の諸可能性は、顕在化できるよりも、つねに多く存在する」ということです。これを言い換えると、「世界そのものを完全に分かることはできない」ということ、さらには「今・ここに体験している世界は、他でもありあえたのに、たまたま/何かの理由で、こうなっているものである」ということです。つまり、私たちは、世界に関して、何らの「選択」が働いた結果を現実として体験している、ということになります。すべてを知覚したり体験したりできないわけですから、私たちが体験したり知覚したりしているのは、世界の限られた範囲のものでしかない。ということは、何かが私たちが体験できることを「限っている」わけです。この「限る」ことを、ここでは広い意味での「選択」としておきます。あれではなく、これが現実として「限られて=選択されて」生じている。

現実は世界の可能性の中からの選択で生じている

とりあえず、世界は、「他でもありえる」ものとして体験しているのだということは押さえておいてください。不確実で不透明な部分をつねにはらんだ、無気味なものとしてある。そして、私たちが生きて行くということは、この不透明さ(複雑さ)に、なんらかの形で対処しなければいけないということです。複雑性を消去することはできません。あくまでも「対処」するだけです。

現実は、「他でもありえる/ありえた」ものとしてある

また、複雑であるということは、未来に関していえば、思いがけないこと/思ってもみなかったことが生じうるということです。未来を完全に予測することは不可能であるというこのこと、将来に生じることを確定することはできないということ、このことを不確定性と呼びます。つまり、私たちは、世界の複雑性と不確定性のもとで、それに対処しつつ、生きているということです。

不確定性:未来はおもいがけないことが生じる

システム

世界は複雑で不確定なものだとしても、私たちは、毎日を同じように暮らしている。日々、色々なことが起きても、一人の同じ私として生きている。それが可能なのは、世界の中で同じであり続けるための働きや仕組みがあるからだと考えることができます。この講義では、世界の複雑性と不確定性の中で、「同じ」ものとしてあり続けるものを、システムと呼ぶことにします。世界の中で一つの同じものとして存続しているもの、同一性、アイデンティティをもっているものは、システムです。システムは、同じであり続けるための働きによって、ひとつの「もの」としてあります。

システムという言葉は、いくつかの意味を持っています。一番身近な意味は、色々な部分が集まって一つの全体を成しているもの、というところでしょうか。しかし、この講義では、システムをそのような「もの」の集まりとしては捉えません。変動する環境の中で、同じまとまりを保ち続けているプロセスをシステムとみなします。システムについては、改めて説明しますが、ここでは、自分を絶えず他のものとは区別し続けることによってまとまりを保っているもの、としておきます。

システム=変動する世界の中で、自分を絶えず他のものとは区別し続けることによってまとまりを保っているもの

なお、人間は一つのシステムではありません。身体は生理的なシステムですし、意識はそれとは別のシステムです。脳と神経系も一つのシステムだといえるかもしれません。ですから、人間は複数のシステムが統合されたものだということになります。ただ、この講義では、もっぱら意識(人格)システムとしての人間に焦点をあてて論を進めますので、人間≒システムとして考えてもらってかまいません。

環境

「他でもありえる」可能性の総体が世界であり、我々にとっての「世界」とは、我々の環境のことになります。

環境というのは、あるシステムから捉えられた/関わることのできる世界です。たとえば、音は空気の振動であるわけですが、私たち人間が音として知覚するのは、限られた振動数(周波数)の振動だけです。私たちにとっての音の環境は、世界にあふれている空気の振動のうち、音として知覚でき、音として聞くものです。このように、環境とは、あるシステムの側から、自分の外部として捉えられたものです。つまり、環境一般というものはありません。常に、何かの存在(システム)に対しての環境しかないのです。

環境とは、あるシステムにとっての「世界」(現実)

また、個別のシステムごとに環境は異なることになります。ある人にとっては心地よい音楽が流れている場が、別の人には自分の好きな/嫌いなジャンル/ミュージシャンの音楽が流れている場になり、あるいは流れている音楽の楽譜を思い浮かべることができる場にもなるでしょう。システムの側が、環境として何を見出し区別できるか、何が「分かるか」は、システムに依存するわけです。

環境はシステムが見出すもの

それぞれのシステムごとに、それぞれの環境がある。ということは、客観的な環境というものはないということになります。こう言ったからといって、物理的なモノの存在を否定するわけではありません。私たちにとって環境、自分たちが生きている環境とは、モノの次元ではなく、それに何らかの意味づけを行ったものになっており、その次元においては、客観性は成り立たない、ということです。先ほどの音楽の例の場合、空気の振動が聴覚によって音として知覚されるのはだれでも同じですが、それをどのような音、あるいは音楽として聴くか、そこにどのような意味合いを読み取るか、どのような違いを感じるか、それは個々人の趣味や体験に基づいて異なります。そういう意味で、だれもが同じように「体験する」ものではない。そういうことです。また、同じ音を聞いても、小学校の音楽の時間に聴かされたものと、それから年月を経て耳にするものとは、同じ人間であっても違って「聞こえる」。この違いは、受けとる方の違い(成長、経験、体験、記憶によって自分が「違ってしまった」こと)によるわけです。このように、環境とは、それに関わるものによって見出されるものであり、そうである以上、だれにとっても同じ=客観的なものにはならないということです。

環境一般や客観的な環境はない

あるシステムが、そのつど、自分にとっての環境を見出し続ける。システムが存在するとは、その自分と環境をそのつど区別=選択する過程が進行することです。この点については、後でもう少し詳しく見て行きます。

社会

社会とは何かという問に対しては、様々な観点からの答えがありえます。この講義では、社会(全体社会)とは、人間のコミュニケーションによって成り立っている一つのシステムであるという考え方をとります。この点については、講義を進める中で説明していきます。

社会はコミュニケーションのシステム

ここで少し横道にそれますが、現代がどのような社会であるかについて触れておきます。この講義では、現代を機能分化した社会ととらえます。それは政治、経済、科学、教育などが相対的に独立したシステムを形成しており、中心的な統合はない社会です。いずれ講義の後半でくわしく論じる予定です。

現代社会:機能分化した社会

人間

人間が複雑であるというのは、端的に言うならば、他人のことを100%理解することはありえないということです。他人の意識は不透明であり、コントロール不能である。それは人間が自由を持った存在だからです。

自由とは何かというのは大きな問題ですが、とりあえず、この授業では、人というものが、常に「わけのわからないことをする」可能性を秘めていることを、人が自由を持っているということである、と押さえておきます。人間の持っているわけのわからなさ、不気味さ、先ほどの言葉で言えば不透明さ、それを自由という概念でおさえます。

人間は、自由という複雑さ、不気味さ、不確定さをもっている

人はなぜ自由を持っているのか。それについては、この講義では「人間は狂ったサルである」として理解しておきます。人間の行動は、本能の全面的な支配からは逃れている(あふれてしまっている)。このことを「狂った」という言葉で表しておきます。たとえば、人間が言語をあやつる能力をもち、言語でコミュニケーションをとることは、生物的な機能として、本能的なものだといえるでしょう。しかし、具体的にどのような言葉を使うのかという次元では、本能の規定をうけていません。だからこそ、世界中で、同じ人間なのに、多くの異なった言葉が使われているし、また、何より、学習しなければ身に付かないものになっているわけです。

人間は本能による全面的規定から逃れている

人間の具体的な行動の次元は、本能の規定(命令)によるものではない。このことから、人間の行動は、常に「他でもありえたのに」という影を伴ったものとして捉えることができることになります。人間がすることは、「必ず絶対にそうしなければならないもの」ではない。このとき、一つ一つの行動は、他にもやりかたがあるのに〜したということ、つまり「他の可能性の中から、これを選んだ」という選択という意味合いを帯びることになります。

人間の行動は常に選択になる(選択として理解されうる)

ここでいう選択は、行動を行った人間の意識や意図とは関係ありません。受けての観点からの規定です。ですから、言い換えるならば、「人間のやることは、常に、相手(受け手)に選択して受けとられる可能性をもっている」ということです。

このように人間は自由を持った不透明な存在と捉えることができますが、正確にはこの自由は人間に限らず、自律的な行動をするシステム、私たちの身近なもので言えば生物ですが、それが持っている特性として捉え直すことができます。つまり、状況によって決定されない行動(ただしデタラメではない行動)を起こしうる(それゆえに「選択」になる)のは人間に限りません。犬だって、頭をなでるといつもシッポを振るわけではない。環境で起こったことに選択的に対応することができることが自律ということですが、そうしたものは、人間も含めて、ブラックボックスとして捉えられることになります。その「黒さ」を、人間の場合は自由や意思というもので了解しているわけです。

これまで述べてきた複雑さ・不透明さ以外に、もうひとつ、こちらの行動しだいで相手の行動も変わるという複雑さもあります。相互行為の複雑さとは、相手のことがよくわからないことだけでなく、そういう相手が自分の行動/対応次第で行動を変えてくることにあるわけです。お互いに自律的なシステム同士がかかわり合うことになったときに初めて現れてくる複雑さですから、自然界のことが「分からない」ことの複雑さ、あるいは相手のことがただ「分からない」という複雑さとは違うものです。社会的な次元の複雑さと呼んでも良いかもしれませんが、相手が人間の場合に限らず、犬の場合だって、道で野良犬と向かい合うことになった状況でも同じことは言えます。システム同士が「かかわりあう」ことから生じる複雑さです。

システム同士がかかわり合う複雑さも生じる

このように、人間の場合には、それが自律的なシステムであることからくる複雑さと、そうしたシステムとしてかかわり合いをもつことからくる複雑さの2つの複雑さがあるわけです。

狂ったサルとしての人間について、その他にも押さえておくべきこととして、人間は一つのシステムではない、ということがあります。人間は、物的・生物的・社会的(意識的)なシステムの複合体です。意識は、人間というものを一つにまとめあげているわけではない。人間という一つのモノの中に、色々なシステムが、色々なレベルで作動している、そういうことです。そうした人間は、行為する存在という観点からは、受動的側面(物的・生物的・社会的な制約)と能動的側面(意思、欲望、夢)の合体したものとしてとらえておくのが便利です。どうしようもなく引き受けざるをえないものがあり、それの上で、何かを欲望し意図し行動するのが人間だということです。

先ほど、現代は機能分化した社会であると述べましたが、それに関連して、現代の人間がおかれている状況についても触れておきます。簡単に言うと、様々な領域が相対的に独立した結果、人間として各領域にどのようにかかわることになるのかが偶然的な要素が強くなってきたということがいえます。分かりやすい話で言うなら、生き方、働き方は、各人それぞれであるということです。生まれなどで自分の関わり方、生き方がすべて必然的に決まってしまうような社会ではない。よく言えば生き方の自由がある社会ということになりますが、その生き方、別の言葉で言うならば広い意味でのキャリアですが、それは必ずしも自分が意図的に選び取ったものだけではないし、自分がなりたかったものでもなく、様々な偶然もはらんだ、出来事の積み重なりでもある。そうした出来事の積み重なりの先にいる今の自分を、ひとりの人間として(大げさに言えば個性をもった人間として)引き受けて生きてゆく、そういう状況におかれているのが現代の人間なのです。

つまり、生き方、キャリアは人それぞれに別々のものである。そして、その自分のキャリアは、自分が引き受け、自分で進めていく(思い通りになるかどうかは別にして)。そういうキャリアの時代と言うこともできるでしょう。

現代の人間:様々な領域と意図的・偶然的に関わる中で自己を保つ存在→個性=キャリア

予期

原理的に考えれば不確実で不透明な世界なのに、人間がなぜ平気で生きていられるのか。それは、人間には「期待する」という能力があるからです。過去の体験をもとに、現在や未来について勝手に思い込むこと、それがここで言う期待です。日本語の「期待」には良いことが起きることを望むという意味合いがありますので、この講義では、過去の体験等をもとに何かを思い込むことを予期という言葉で述べることにします。

思い込むことで複雑さを処理している

思い込み=予期

今日も明日も昨日までとたいして違わないだろう(だからいつものようにすればいいだろう)と思うといったのが予期です。別の言い方をすれば、慣れるということです。時間のたつうちに、なんとなく分かってくる(分かったつもりになる)。

この予期は、絶対的な真理だとか確実性に基づくものではなく、根本において、人間が勝手にそう思い込んでいるものです。極端な形は妄想ですが、私たちは、多かれ少なかれ、こうした予期に支えられて、日々を平穏に過ごせるわけです。人間の予期の根底には、世界や人間が全くデタラメではないということへの信頼が潜んでいる。そして、基本的には、そのように思うことでうまく行っているということが、予期を保証する。

予期は、それでうまくいくということだけを根拠にしうる

別の点からみれば、「とりあえず気にしなくてよいこと」として意識しないで済むようになること。ある意味で「欺いている」。何かを当たり前だとして導くもの、そうするのが当然だと思わせるもの、それが予期です。思った通りに行かなかった時に、はじめて意識することができるようなものとして、私たちの中にしみ込んでいます。

そうした予期の中には、非常に具体的なものから抽象的なものまで様々ものがありますし、複数の予期が組合わさっている束のようなものもあるでしょう。こうした様々の予期を支えにして、私達の「当たり前の日々」がなりたっていて、そうした予期に導かれて、私たちは日常の行動を行うわけです。色々な「当たり前」や「そういうものだ」というものに囲まれる中で、「こうすればいい/こうするのが普通」という感覚に誘発されて行動がなされるわけです。また、何が「あたりまえ」が分かっているから「あえて」何かをすることもできる。このように、人間の行動は予期に支えられているわけです。

予期が行動を導く

状況や相手に関する大まかな枠組(予期)に導かれて、今、自分が、どうするのがよいのかという選択が行われていく。同じ友人に対する挨拶であっても日によって異なるように、その都度の行動は、その時の状況等さまざまな要因を考慮して決まっていきます。予期の選択(こういう時は〜すればよいと思うことは、選択に他なりません)にもとづいて、個別具体的な行動がその場で選択される、というように、人間は二段階の選択によって日々の行動を営んでいます。

二段階の選択:予期の選択、行動の選択

さて、とりあえず〜だろうと思い込む、そのことによって、さらに多くのことを「分かる」ようになります。世界の複雑さの体験を「思った通りだった」「思っていたのとは違っていた」という図式で整理して受けとめることができるわけです。このように、予期によって、世界の複雑さの問題が、予期の確実さの問題へと変換できること。ここに予期というものの意味があるとも言えます。

勝手に思い込むことが人間の偉大な能力だというのは、変な話かもしれません。妄想や誤解から理性によって真実を見出すのが人間という存在の素晴らしさだといった話とは反対ですから。でも、日々を当たり前に過ごせるということの土台は、妄想できる人間の予期能力が支えているのです。ですから、私たちが生きて行くためには、宇宙や社会のすべての真理など必要ない。日々の行動を導いてくれる予期さえ確保できればよいわけです。とりあえずの手がかりさえつかめたら、そこからなんとかできる。

他人への予期

自然界の出来事に対する予期と、他人に関する予期とは、予期のあり方が異なります。なぜならば、他人(人間)は先ほども述べたように自由を持っています。ですから、状況等が等しくても常に同じように行動するとは限りません。ですから、私たちは、他人というものを、単に「〜する」という具体的行動のレベルではなく、性格だとかキャラクターのような、「その人らしさ」という次元で予期します。時や相手によって色々と行動や言動は異なるかもしれないが、そこに一定のパターンや方向性、一貫性を見いだし、それを相手に結びつけて理解し、予期します。それによって、様々な状況の変化があっても、相手とつきあっていけるようになるわけです。

さて、相手の行動等のパターンや一貫性は、相手がどんな予期に従って行動しているか、相手がどんな予期を持っているか、によって生まれてくるものと考えることができます。ということは、私たちが他人に対して抱く予期(性格とか、らしさとして理解するもの)は、相手の持っている予期に対する予期、ということになります。このように他人に対しては、予期に対する予期というものになっている、そこが単なる予期である自然界に対する予期とは異なります。

別の言い方をするならば、「相手が自分に何を予期(期待)しているか」に関する予期、といってもいいでしょう。相手の「らしさ」とは、相手が自分にどのように振舞い、自分が相手にどのように振る舞うかという、関係(パターン)が凝縮したものだと考えることができます。これが分かって、初めて相手に対して何らかの動作ができることになります。

他人への予期は、予期の予期(→性格、らしさ)である

予期の種類

予期ですが、いくつか分類することができます。まず一つの分類。こちらは予期であることが意識されているかどうかで分けます。

  1. 消極的予期:意識されることすらない予期。何かを当たり前だとか普通とか思うこと、外れるなんてありえないと思っていること。自明性は、こうした消極的予期が支える
  2. 積極的予期:たぶん〜だろうと、ある程度予期であること、つまり外れることもあるかもしれないこと、が意識されているもの。

予期は、最初は積極的予期だが、そのうち、消極的予期として意識の中に染み込んで行く(沈み込んでいく)といってもよいでしょう。

もうひとつの予期の分類。こちらは予期が外れたときの対処の仕方で分けます。

  1. 認知的予期:予期が外れたときに、予期の方が間違っていたと修正したり学習したりするもの
  2. 規範的予期:予期が外れたときに、外れた事例や人のほうが例外的なもので、予期の修正は行われない

法則だとか法というものは、規範的な予期であるということができます。「規範」という堅い言葉が出てきますが、これは普通に使っている「したがうべきもの」という意味合いではなく、「したがわないモノが<悪い>とできること」というぐらいの意味で受けとってください。自分が思ってたようにならなかったときに、自分が間違っていたと思うのが認知的予期、相手や状況が異常/例外/おかしい/悪いと思うのが規範的予期、ということです。

世界は複雑で不確定的ですから、予期は、外れる(失望)が不可避です。予期が外れるような事態が起こったときに、それにもかかわらずその予期を修正する必要はないとき、また、その判断が他の人たちにも受入れられると思えるとき、その予期は規範的な性格をもつことになります。

行動と行為

人間の身体的動作の次元を行動・振舞い、それに対する社会的な意味付けされたものが行為です。たとえば、「お・は・よ・う」と声を出すことは行動、それを朝の挨拶とするのが行為です。実際に挨拶をする際には、色々なやりかたがあるように、行動と行為との間には、一対一の対応は成り立っていません。様々な動作を、同じ行為として意味付けることが可能です。

また、同じ動作が色々な行為として意味付けることも可能です。たとえば、友人が自分の目の前を足早に走り去っていくという行動は、急いでいる行為ともとれますし、自分との会話の拒否ともとれます。

そして、行為とは、基本的に、他人が規定するものであるということです。自分の意図とは無関係に、自分の行動が、特定の行為として受けとられ応じられる。それが人間の相互行為です(もちろん、後から意図を説明したり弁解したりすることは可能ですが、行動が受けとられた時点では自分の意図は無関係です)。行為とは、それにどのように応じるのかという行為の連鎖の流れの中に、受け手によって位置づけられたものなのです。その意味で、行為とは、社会的なもの(自分の意のままにはならないもの)だと言うことができます。

さらに、行動が行為として受けとられるとき、その行為の意図が想定され、それが行為者に割り当てられることになります。ここでいう意図とは、「他のいろいろなことができるはずなのに、(あえて)〜という行動/行為をした」という選択を指します。つまり、行為とは、自由を持った存在である人間の、選択の結果として読み取られるものだということです。

とりあえず、行動(振舞い)と行為は異なる層にあること、行為には意図や選択が付着すること、を押さえておくことにします。

なお、言い方を変えるならば、行為とはコミュニケーション的作用を伴った行動と言ってもよいでしょう。あとで論じますが、コミュニケーションの概念を拡張することで、行為をコミュニケーションに含めることができます。

コミュニケーション論

「わかる」こと:意味

この講義のコミュニケーション論の基本的な考え方は、人間のコミュニケーションは単純な情報の伝送ではない、ということにあります。

話し手の人が、思いや意見を言葉という箱に入れて、送り出す。受け手の人は、言葉という箱の中から、送り手の人が入れたものを取り出す。コミュニケーションとはこういう「思い」を送り届けることだと考えるのが普通かもしれません。また、そうした理解で日常生活で困ることはあまりないかもしれません。

しかし、実際に私たちがコミュニケーションを行っている最中のことを考えてみると、私たちは、自分が話したことがうまく伝わったかどうかを、話して聴いてもらったその時点で確認することはできません。他人の意志や精神、心は不透明で、直接に知ることはできないからです。私たちは、自分の発言の後の相手の表情や発言あるいは行動から、伝わったかどうかを推定しています。そして、相手の反応があった時点で、ようやく自分が話した結果が分かる(といっても、あくまで自分が推測するしかないわけですが)わけですから、自分が話すという行動は、その次の相手の行動にまで重なっているとも言える。つまり、実際のコミュニケーションは、一回ずつの行動が繋がっていくというよりは、前後の行動の繋がりの中で、話す−伝わった?がズレるようにかぶさっているとも言えます。このように、具体的な状況を考えてみても、単純に何かを手渡すかのように進行しているわけではない。そこで、私たちのコミュニケーションの具体的な状況や仕組みを、改めてみていくことにします。

コミュニケーションで何かが伝わり分かる。このことを否定する人はいないでしょう。そのとき、何が「伝わって」、何が「分かる」のか、それが議論の焦点になります。そこで、まず、私たちが「分かる」というのはどういうことか、その点を考えてみたいと思います。

意味が分かる

ひとまず「コミュニケーションとはメッセージを伝えることだ」ということで話を始めます。コミュニケーションのメッセージは、伝える内容、伝え方の2つが組合わさったものです。内容の方を情報、伝え方を伝達行動と呼ぶことにします。何らかの情報を何らかの伝達行動によって表現したものがメッセージとして届く。そして、相手の伝えたいことが分かるとは、情報と伝達行動のそれぞれの意味が分かるということになります。

「分かる」=情報の意味が分かる+伝達行動の意味が分かる

最初に情報が分かる、つまり相手の言うことが分かるということを考えてみます。しばらくは言葉によるコミュニケーションを中心に考えていきましょう。このとき、相手の言葉の意味が分かることが、伝わる、分かる、通じるということです。

たとえば、「友だち」と言われてなんのことか分からない人はいないと思います。あるいは「自転車」といわれてどんなものか知らないという人もいないでしょう。このように、単語であれば、たいていは、それが何を指しているかということが分かることが分かることです。では、「友だちって自転車みたいだね」というのはどうでしょうか? 「友だち」も「自転車」も分かっていても、この文章がどういう意味なのか、すぐに分かるでしょうか? 仲のいい友だちと食事をしているときに、その友人が「友だちって自転車みたいだね」と突然言ったら、あなたはすぐに「そうだよねぇ」と言うでしょうか? たぶん、「どういうこと?」と聞き返して、友人が何を言いたいのか分かろうとするはずです。

このとき、何が分かればいいのでしょうか? 大雑把に言えば、1:なぜ自転車なのか? 2:自転車のどの側面を取り上げているのか? 3;友人のどの側面を言っているのか? の3点ぐらいが鍵になります。そして、このいずれにおいても、「なぜ他のものではなくて、あえて自転車なのか」、「なぜ他の側面ではなくてその点なのか」ということが納得できなければ分かったことにはなりません。また、「そもそも何で(他でもなく)そんなことを言うのか」ということも分かる必要がある。つまり、私たちが何かを「分かる」時には、それが何なのか? だけではなく、なぜ他の〜ではなくてそれなのか? という側面も了解できる必要があります。このように、意味が分かるということには、その言葉や文が選ばれたことで何が選ばれなかったのか(言われなかったのか)ということの理解も伴います。つまり、意味というものは、何が示されているかということと、それ以外の他の側面がある(それが何かははっきりしなくても)ということを同時にもったものだということができます。私たちはこのような意味として身の回りのものごとを理解しているのです。

意味が分かる=他でもなく、なぜ〇〇なのか、が分かる。

意味:中心として示されたものの周りに、他の側面や他のものがつながっている

言葉の重み

そこに現れていないものが示されたものの意味を支えている。このように言うと何かしらややこしい感じがします。そこで分かりやすい(?)例をもう一つあげてみます。

「言葉の重み」というのがあります。おなじ言葉であっても、20歳の人間が言うのと、60歳の人間が言うのとでは、言葉の感触が違う、と私たちは感じる。その違いを「重み」ということで表現しています。この重みとは何か? たとえば、今食べたいものを聞かれたときに、3歳の子供が「母親のハンバーグ」というのと、50歳のオヤジが「母親のハンバーグ」というのは、明らかに、何かが「違う」。この違い、重みの違いとは、結局のところ、先ほど述べた「それを選んだことによって、何が選ばれなかったのか」という部分の大きさ/深さにあります。つまり、否定されたであろう候補が多いほど、重みのある言葉になる。3歳の人間が思いつく食事の種類と、50歳の人間が思いつく食事の種類とでは、50歳の人のほうが多いのが当たり前だと私たちは思います。だからこそ、50歳の人間がハンバーグというと、なにかしら「あえてそれを選ぶだけの理由」みたいなものがあるにちがいないと思ってしまう。ハンバーグとそれ以外の候補との違い=区別が強いもののように感じる。それが言葉の重みの正体ではないでしょうか。私たちは、相手の年齢、性別、外見、役割、あるいは場とか空気とか、色々なものを手掛かりにして、相手の中に想定される選択の幅みたいなものを想定し、それを踏まえて、言葉を受けとっているわけです。

別の例をもうひとつ。『奥の細道』で有名な松尾芭蕉が、宮城県の松島を訪れた際、松島のあまりの美しさを前にして「松島や ああ松島や 松島や」という俳句を詠んだという話があります。これは史実ではなく、実際には芭蕉はそのような句は詠んでいないのですが(江戸時代の狂歌師が作ったものらしい)、そのことはともかくとして、この俳句を芭蕉の句であるとして読んでみる。すると、この「松島や……」は、あの俳句の天才である芭蕉ですらただ名前を呼ぶしかなかったほどの感動を込めた歌として読めないでしょうか? この俳句が、俳句とは5・7・5の音からなる詩であると学校で習ったばかりの小学生が詠んだものであるなら、季語も入っていない、ただ名前の繰り返しの面白さだけの句であると思うでしょう(厳密には季語が欠けているので俳句とすら言えません)。しかし、この句が芭蕉の句だとして読むとき、他にいくらでも素晴らしい表現で詠むことができたはずの芭蕉なのに、ただ名前を呼ぶしかなかったのだ、という句として「現れ」、そこになにがしかの感動(感慨)を呼び起こされるのではないでしょうか? つまり、この「松島や……」という句に現れた言葉自体ではなく、その言葉が形になること/することで「言われなかったこと」「言えなかったこと」の重みを感じないでしょうか? 言葉の意味とは、このように、それが何を言っているのかだけではなく、それを言うことで何を言わなかったのか(否定したのか)ということも含めて、私たちは受けとめているものなのです。

*なお、芭蕉は松島を訪れた際に、その景色のすばらしさゆえに、あえて句を詠まなかった(『おくのほそ道』には記さなかった)と言われています。つまり、俳句を詠めたであろうに、あえて俳句を作らなかったことが、『おくのほそ道』に松島の句のないことの意味であるというわけです。

分かること=選択

さて、このように考えてくると、私たちにとって、意味が分かるということは、単純に受けとった言葉の中に入っていたものを意味として取り出すといったことではないことがわかります。その言葉が選ばれたことによって何が選ばれなかったのか、ということは、当然ながら届いた言葉には現れていません。あくまでも、受けとった側が勝手に想像し思い込むしかないものを含んでいるのです。話している本人であっても、自分がどれだけの選択肢を排除して選んだかを正確につかむことはできないでしょう。

つまり、私たちが意味を「分かる」ときには、一つの選択(=これであって、あれではないもの)として分かる必要がある(本人がどこまで意図的であったかは無関係です)。選択されたものとして、選択されなかったものとの「違い」が分かる必要がある。しかし、そのためには、分かる側が能動的・積極的に思い込みをしなければならないということが含まれる。分かるというのは、一方的な受け身のものではない。何かが分かることとは、「違いが分かる」ことで、その違いを受け手が読み込むものだと言うこともできるでしょう。

とすれば、送り手である他人の言葉の意味を100%正確に分かることは、原理的にありえないことになります。なぜなら、分かることには受け手の積極的な思い込み(極端に言えば妄想です)が必然的に含まれますから。意味は読み解かないと現れないのです。

人間は意味として「分かる」ようになっている。コミュニケーションを通じて送られてくるもの(言ったこと、情報)の意味を分かるためには、受け手が違いの重みを読み込まないといけない。ですから、言われたこと、伝えられたことの中身を100%正確に伝えることはできないのです(そもそも意味が、そのようにして「伝えられる」ものではないのですから)。このことを極端に言うと、人間が100%完全に分かりあうことなど不可能だと言ってもよいわけです。

この講義の基本的な視点として、世界や人間は複雑なものであり、だからこそ、私たちが経験するものは「選択」(他でもありえたなかでの、これ)として現れるということを述べました。意味とは、私たちが経験を選択として了解する仕方なのです。

意味が分かる=選択として了解する

意味は受け手が積極的に読み解かなければ現れてこない

100%正確な理解はありえない(そもそも、そのような規準では捉えられない)

伝達行動

意図

私たちのコミュニケーションでは、何が伝えられたか(情報)も重要ですが、同じぐらいに、どうやって伝えられたかという側面、つまり伝達行動の方も重要です。場合によっては、こちらのほうが大きなこともあります。

たとえば、メールの返事が来ない、というのは何も来ていないのですから情報はゼロですが、来ないということに私たちは反応します。来るべきものが来ないことにメッセージ性を受けとるわけです。先ほどの松尾芭蕉が松島の句を『おくのほそ道』に残さなかったことも、意味をもちます。あるいは、コワイお兄さんに「夜道はきぃつけや」といわれたら、それは夜道の安全を気遣ってくれているという言葉の意味通りに受けとるのではなく、いうことをきかないと痛い目にあわせるぞという脅しとして受けとるべきものです。挨拶なんてものは、言葉の意味ではなく、決められた言葉を言うことが重要です。「おはよう」の意味なんて誰も考えていないでしょう。このように、コミュニケーションについて考えるときには、伝えるという動作の側面も考えなくてはなりません。

通常、私たちは、この動作の側面、伝達行動の意味を、意図として了解しています。なぜ、今、このわたしに、そんなことを、そんなふうにいうのか? それを説明するものが意図とされます。情報の意味が分かっても、意図が分からないと、「通じた」「わかった」とはいいません。

伝達行動の意味=意図

この意図を了解するということには、情報と同じように、完全には理解できないということがあります。つまり、他のやり方があったのに、なぜ、あえて、そうしたのか? ということが「分かる」ためには、何をしなかったのか、誰に伝えなかったのか等々、情報の場合と同様に、否定されたもの・排除されたものとの対比が必要になります。つまり、選択として分かる必要がある。そうである以上は、受け手が読み込む(思い込む)しかないものを伴っているからです。

意図が分かる=選択として分かる=受け手が読み解く必要がある

受け手の側で「これが送り手の意図だろう」と推測するしかないわけで、客観的な意図など知りえないわけです。意図の理解においても、受け手の側の「思いなし」「思い込み」という側面を拭い去ることなどできない。受け手が能動的に読み取ったものとしてしかありえないのです。このように、意図というのは伝達行動の意味を受け手が読み解いた時に「分かる」ものなのです。ですから、意図においても、情報同様に、100%分かることはありえないことになります。

情報同様、意図の100%正確な理解はありえない

ねじれ、言葉のあや

コミュニケーションが情報の意味と伝達行動の意味=意図(情報と伝達行動)の2極からなることが、時として、ややこしい問題を引き起こすことがあります。先ほどの「夜道はきぃつけや」の例に現れるように、情報が意味することと、伝達行動が意図することが、関わり方について相反する方向性を示すとき、どちらに従うのが「正しい」のかという問題です。通常は、意図(伝達行動)の示すものに従うものです。「おまえ、何してるんや!」と怒鳴られたら、それは行為について問われているのではなく、今自分がしていることに対する叱責であると受けとめるのが「正しい」ことは、たいていの人は理解できるでしょう。言い方を変えれば、こうした情報と伝達行動の乖離やねじれを「言葉の綾」としてうまく処理できるようになることが「大人になる」ということかもしれません。また、あえてねじれた表現をすることで伝えられることもあるでしょう。後で述べますが、コミュニケーションに巻き込まれる時とは、それにどのように応えるかを強制されることでもあります。このとき、情報ではなく意図の方が自分の次のアクションの手がかりとして重要だということです。

また、情報の意味と伝達行動の意味は、それぞれが独立したものではなく、交差しあうものです。ある情報を伝達してきたことが、それを伝達することの意味(=意図)を明らかにすることもあります。たとえば恋愛の告白ですね。あるいは伝達行動のあり方や伝達者がその情報の意味を明らかにすることもあります。「夜道はきぃつけや」の例などが該当するといえるでしょう。簡単に言うならば、誰が何を言ったか、という二つの点で受け止める必要があるという、当たり前のことではあります。

情報と伝達行動の意味は交差する

選択の伝達

意図(伝達行動の意味)の場合は、情報の意味とは違って、全く何も分からないということはないところに特徴があります。たとえば、身も知らない人が自分に向って何か分からないことを言ってくる(あるいは意味不明の叫び声を浴びせる)という場合、確かに、なんで自分にそんなことをするのか、はっきりとした意図は分からない。しかし、少なくとも、他ならぬ自分に向って何かを送り付けているということだけは分かる。意図として言葉にできるようなものはつかめなくても、何らかの理由で自分が受け手に選ばれたことだけは、分かる。自分に何かが送られ/贈られたことは分かる。何かはっきりとしたものではないけれども、意図から内容を削り落としてギリギリに残るものだけは受けとることができます。何か分からないモノがプレゼントされたようなものです。そして、私たちはそれに応えることができる。そういう意味では、意図が0%分からないということは無いと言えます。コミュニケーションが伝達行動を含むものである以上、0%分からないということはないのです。

伝達行動の意味(意図)が0%わからないということはない

受け手に選ばれた(何かが送られた)という選択は了解できる

見知らぬ人の話は極端にせよ、犬や猫のようなペットとのコミュニケーション、あるいはまだ言葉を完全にはマスターしていない赤ん坊とのコミュニケーションのことを考えてみれば、情報の意味や意図がこれだとはっきりしない場合でも、コミュニケーションが成り立つ(少なくとも成り立っているという感触がある)のは、このギリギリの送る−応じるという応答が成立することにあるのだと言えるかもしれません。心(意識、精神)があるかどうかも分からないモノ相手であっても、相手が「自分を受け手に選んだ」という選択の痕跡のようなもの(これがギリギリの意図といったもの)が感じられれば、そこにコミュニケーションの回路を設けることができるのです。コミュニケーションの根底には、この贈る/送る−応えるという繋がりがあると言えるでしょう。

送る−応えるという応答がコミュニケーションの回路を開く

受け手になる:メッセージを見出す

コミュニケーションに巻き込まれる

ペットや赤ん坊とのコミュニケーションは、もしかしたら、こちらが勝手にコミュニケーションをしているつもりなのかもしれない。この点に、人間のコミュニケーションの重要な側面が現れています。つまり、送り手に意思や意図がなくても、あるいはそもそも送り手がいなくとも、受け手が勝手に「受けとって」、コミュニケーションが起動することがある、というものです。

言語を介さないコミュニケーションにおいては、このようなことがよく起こります。相手の何気ないしぐさが自分への好意の徴に思えて、その時から相手が気になって仕方がない、というのは勘違いの王道みたいなもんです。あるいは、自分には全くその気がなかったのに誤解されてしまったという経験は誰にもあるのではないでしょうか。

つまり、私たちは、何かがメッセージだと「感じてしまった」瞬間に、受け手になって、受け手としてコミュニケーションに巻き込まれてしまう。身体的なしぐさに限りません。たとえば、机の上に置かれていたエンピツでも、道端に落ちていた石でも、それが「何かを自分に伝えているモノ」=メッセージだという感触が得られた瞬間、私たちは勝手に受け手になるわけです。

メッセージを見出した瞬間、受け手としてコミュニケーションに巻き込まれる

コミュニケーションは二人の間で起こるできごとです。ですから、送り手が何か言った/何かしただけでは、それはコミュニケーションとは言えません。受け手がいて、送り手と受け手との間で何かが「伝わる」のがコミュニケーションです。コミュニケーションには受け手が必要です。そして何かをメッセージだと感じた瞬間、私たちは受け手として巻き込まれる。つまり、その瞬間に初めて、送り手と受け手のつながりとしてのコミュニケーションが成り立つと言えます。何かをメッセージだと感じて、そこに情報の意味や意図(伝達行動の意味)を読み解き始めるとき、受け手が生まれる。人間のコミュニケーションは、このように、受け手が「生まれること」も重要な側面としてあります。

メッセージとは

では、受け手を生み出す(引き起こす)メッセージとはどんなものでしょうか。

メッセージとは、情報と伝達行動が一体になったものです。それによって、そこに示されているものが、そこに現れていないものを同時に表すという、二層になったものとして考えることができます。

ですから、何かがただそこにあるとき、それはメッセージではない。そこにあるものが、あえて/わざわざ/よりによって、そこに・そのようにある(そのようにした者がいる)と感じられたとき、私たちはそれをメッセージとして受け止めます。

机の上にただ転がっているチョークは、それだけではただのチョークというモノでしかない。でも、それがわざわざ置かれていると感じられたとき、あるいはその置き方に何か意図的なものが感じられたとき、チョークはただのモノではなく、チョークという情報に何らかの伝達の意図がかぶせられたメッセージとして向かってくることになります。何かに、情報(伝えられているもの)と伝達行動(伝えること)の二側面がある(そこにあるものに、情報と伝達の違いが込められている)ことを感じる、それがメッセージです。

友人が目の前を無言で小走りに通り過ぎていく。それがただ「あいつは急いでいる」と思ったのなら、それだけのことですが、もし「自分と話すのを避けている(逃げている)」と思えると、その瞬間に、「なんでだ?」と頭の中に色々な思いがわき起こってくる。このとき、友人の行動はメッセージとして届き、私に読み解きを押し付ける。受け手になってしまう。こういうことは珍しくありません。友人が「よりによって、わざわざ」(=そうしなくても良いはずなのに)小走りで去っていく。その「よりによって」、つまりわざわざ性の原因=送り手の意図を想定しようというパターンにハマります。このわざわざ性の感覚が、私たちを受け手として巻き込むといってもよいでしょう。

このように、メッセージとは、モノの性質ではなく、モノや言葉に感じられる「わざわざ性」によって見出されるものであると言えるでしょう。このわざわざ性が、私たちに、そのモノや言葉に託された(隠された)意図や、そうした意図を抱いた存在としての送り手を想定させ、その送り手からのメッセージとして受け取り、読み解くことへと巻き込まれる、つまり受け手になるわけです。そのとき、本当に誰かが意図的に行ったかどうかということは関係ない。ただ、受け手に一方的に巻き込まれるということが起きるのです。

メッセージ=わざわざ性をはらんだもの

わざわざ性が受け手へと駆り立てる

わざわざ性=痕跡

このわざわざ性とは、痕跡という言葉でおさえることができます。誰かが、何かをした、その跡、気配、それが私たちをメッセージとしての受け取りへと巻き込む。先ほどの伝達行動のところでの言い方をすれば、何かの伝達行動が行われたという感触です。目の前にあるもの、目に入った動作が、ただそれだけのもの/ことではなく、何か余分なもの、ただのもの/動作との違い(差異)が宿っている感触、ベールの向こうに何かが透けて見えるような感じ、あるいは謎として感じられること。そうしたモノや動作のあり方を痕跡という言葉でまとめておきます。

メッセージとは、根本的には、痕跡である、と言うことができます。そして、私たちは、痕跡に出会った時、それをメッセージとみなし、そこに情報と伝達行動の意味を読み解こうとして、受け手になってしまい、コミュニケーションを起動することになるわけです。

メッセージ=痕跡として読み解かれる(読み解かれた)もの

ですから、メッセージは情報と伝達行動の一体となったもの、という押さえ方は、やや不正確なのであって、メッセージとは、それがメッセージとして受けとられることで、情報と伝達行動の合体として読み解かれることを引き起こすもの、とでも言わなければなりません。つまり、受け手がメッセージとして受けとったものがメッセージあるということです。

送り手からすれば、メッセージは、何かの意図を込めて、一定の意味あるもの(言葉)で送り出すわけですから、情報の意味と意図をくっつけるものという理解でも良いのですが、受け手の立場からすると、すこし事情が異なります。何かをメッセージであると感得することが、意図と情報の意味の一体になったものであると読み解くことと同じことであり、それが本当に誰かが意識的な送り出したものなのかどうかは問題にならない。気付いたときにはメッセージを受けとってしまって、コミュニケーションに巻き込まれてしまって、受け手になっているのです。受け手とメッセージが同時に成立するのです。

送り手として何かをメッセージとして発信・表現したとしても、それが受け手を喚び起こされなければ、発信・表現されたものはメッセージではないし、コミュニケーションも起こりません。いつもと違った種類の服をわざわざ着て会いにいっても、その違いに気付いてもらえなかったら、違った服を着たことは、メッセージにならないのです。

コミュニケーションが成立するためには、受け手がメッセージを見出す(あるものに情報と伝達行動を見出す)ということも重要な条件ということになります。

メッセージが見出される=受け手が生まれることもコミュニケーション成立の重要な条件

言葉の特異性

この点を考えると、人間の言葉というのが、コミュニケーションの手段として特異なものであることが分かります。なぜなら、言葉は、かならず意思をもって用いないと現れてこないものだからです。前に、人間は狂ったサルだから言葉は学習するしかないという話をしましたが、学習するしかないものというのは、別の点から言えば、自然にはありえないもの、意識的に用いなければ出てこないもの、ということでもあります。だから、私たちは、言葉であれば、送り手(話し手、書き手)が、意図的にメッセージを発したことを確実な前提として、受け手になれる。もちろん、例外的な事例はあります。しかし、言葉に「出会った」時には、ほぼ確実に、そこに意図と意味が込められていることを前提にできる。単なる生理的な反応ではないことを確実に前提にできる。言葉とは、こういう点で、特権的なコミュニケーションの手段であるわけです。

言葉はメッセージであることが確実な特権的な手段

間で起きる出来事

このように考えてくると、コミュニケーションというものは、二人の人間の間で起こってしまう出来事である、と捉えることができます。どちらの意思によっても完全にコントロールすることができないもの、ということです。誤解が起きたとき、私たちは、どちらかが「正しく」、どちらかが「間違っている」という図式で捉えますが、現実のコミュニケーションのただ中においては、どちらも「正しい/間違っている」わけではなく、ただ何かが起きているとしか言えない。あくまでも、後から、それが誤解だったり早とちりだったと位置づけることができるだけです。

このように、間で何かが起きてしまうのがコミュニケーションですから、コミュニケーションとは社会的なものである、と言うこともできます。他者がいることによって、自分の意志だけではどうしようもないことに切実に巻き込まれてしまう、それが「社会的なもの」です。私たちの社会の体験とは、コミュニケーションの体験であると言ってもよい。

コミュニケーション=社会的体験

コミュニケーションって?

ここまでコミュニケーションについてあれこれ考察してきて、コミュニケーションが単純な意思の伝達ではないことは了解してもらえたのではないかと思います。では、コミュニケーションとは一体何なのか?

これまでの話をまとめると、コミュニケーションは、情報(意味)と伝達行動(意味=意図)とメッセージの見出し(メッセージとして理解し、メッセージを理解すること)の3つの要素が一体になった出来事である、ということになります。

情報として何が伝えられているか、伝達はどのように伝えているか、そして何かをメッセージとして見出し(=それをメッセージであると選択し)意味を読み解くか、それが合わさったものがコミュニケーションという二人の間の繋がりを作り出します。二人の人間の間でこの3つの要素が一体となるようなことが起きることがコミュニケーションである、というわけです。

この3つの要素は、いずれも、違い(差異)と選択が関係しています。何を伝えて/何を伝えなかったのか、どのように伝えたのか/伝えなかったのか、メッセージ=痕跡を見出した/見出さなかった(さらにそこにどのような情報と伝達行動の重なりを読み取ったのか)。この点で、突き詰めて言うと、コミュニケーションとは3つの選択の統合であるといっても良いでしょう。

コミュニケーション:二人の間で起こる、情報・伝達行動・メッセージの見出しの3つの選択の統合

ただし、メッセージは、あくまでも受け手が情報と伝達行動の2層の統一を見出すものであって、見出されない限りは、メッセージではありません。先ほど痕跡という言葉を使ったのは、メッセージには意味そのものが宿っているわけではなく(意味というものからしてそのようなものではないわけですが)、あくまでも意味を読み解かれるべきものしかないということです。

ですから、コミュニケーションは必然的に誤解の可能性をはらんでいます。メッセージが見出され、コミュニケーションが起こり、応答として次のコミュニケーションが起こる、このようなコミュニケーションの連鎖が成り立って、とりあえず問題なく進行している時に、読み解きが「正しかった」とされているのです。

これで、とりあえずコミュニケーションとは何かということまで辿りついたのですが、コミュニケーションに関して、さらに考察しておくべきことがあります。

行為として観察される

まず、コミュニケーションは、行為として観察される(コミュニケーションの中で取り上げられる)ということです。コミュニケーションが先行する(過去の)コミュニケーションを取り上げるとき、本質的には間で起きた出来事であるコミュニケーションを、送り手が情報を伝達した行為として整理し、言及することになります。私たちは、この「誰かが何かを何らかの方法で伝えた」という形でしか、コミュニケーションについてコミュニケーションできません。だからこそ、私たちは、通常、コミュニケーションとは、送り手から受け手への情報伝達行動であると考えているわけです。そして、この図式の中で誤解なり食い違いなりといった形で問題が整理されたりするわけです。

原理的に考えれば、コミュニケーションは、送り手と受け手のどちらにも属していない出来事です。しかし、時間軸上で確定できる行動を中心にすることで、送り手の行為としてつかむのです。行動に「付着させる」ことによって、過去の時点として参照(言及)可能になります。このように、コミュニケーションを、伝達行動(行動)を軸として整理し補足していくようになっています。間で起きる出来事が、送り手に帰属させられた行為になります。

伝達行動として理解されるということは、コミュニケーションが続いていく時に、時間の流れの中でコミュニケーションが起きた時点が定められ、そしてつながりとして並べられていくということでもあります。こうして、送り手から受け手へ何かが「伝わる」ことが並んでいくことが、私たちにとってのコミュニケーションというものの理解になります。「伝わる」とは、実際は、これまで見てきたように、送り手の選択と受け手の選択が一体になるということなのですが、あえていうならば、選択が伝えられ、それが次の選択を引き起こしていくということです。伝わるものは選択であって思いではない。しかし、選択を受け止めることで受け手は意味を読み取って受けとるわけですから、そこでは意味が伝えられていると見ることもできます。そうすると、冒頭で否定した、送り手から受け手に伝えること、としてコミュニケーションが捉えられ語られることになります。つまり、伝送モデルとは、起こってしまったコミュニケーションを後から整理した図式であり、あとからコミュニケーションで取り上げることのできるための図式といってもよいでしょう。

コミュニケーションは送り手の行為として記憶・記録され、言及される

コミュニケーションが送り手の行為として理解される、このことは、当たり前のようで重要なポイントを示しています。つまり、私たちは、コミュニケーションについてコミュニケーションできる。過去のコミュニケーションをとりあげて今の話題にすることができる。過去のコミュニケーションについて「なぜ?」と問い直すことができる。そのことによって、意味や意図について語り直すことができるようになっているわけです。その都度のコミュニケーションで起こってしまったこと(誤解した/された、傷ついた/傷つけられた等)を無かったことにはできませんが、それについてのコミュニケーションを行うことで意味付けを書き換えていくことはできる。

二人の間で起きる出来事が、送り手の行為として記録・記憶されることで、あとからその出来事=コミュニケーションについてコミュニケーションできるようになっています。

行為として記憶・記録されることで、コミュニケーションについてコミュニケーションできる

大げさに言えば、人間のコミュニケーションは、いつも問い返されることに対して開かれた、未完了のまま進行していくものなのです。コミュニケーションによるトラブルはコミュニケーションの継続によって書き換えることができる可能性がある。ここに人間のコミュニケーションの特徴があります。

ですから、コミュニケーションを行うということ、コミュニケーションを続けていこうとすることには、常に「なぜ?」と問い返される可能性があることを覚悟し引き受ける必要があります。いつか分からないが、自分の行為として記憶されるコミュニケーションに対して「なぜ?」という問い返しがなされる。それに応えることが、応えることができること、これがコミュニケーションの中で関係を作っていく人間として負うべき責任(responsibility=応答可能性)であると言うことができるでしょう。

コミュニケーションを行う者の責任=応答可能性(responsibility)

コミュニケーション自体に目的はない

私たちはコミュニケーションによって分かり合ったり合意をとりつけたりします。しかしながら、こうしたことはあくまでもコミュニケーションに関与する人間が、コミュニケーションを手段として、あるいはコミュニケーションの結果として、得られることであって、コミュニケーションそのものには、理解や合意といった目的はありません。けんかの継続であっても、非難の応酬であっても、誤解の積み重ねであっても、コミュニケーションです。コミュニケーションは、続くか途切れるか、それだけです。あえてコミュニケーション自体に宿っているものを挙げるならば、それはコミュニケーションが継続するとき、そこに関係が、つまりは社会的システムが生まれてくるようになっている、ということでしょう。

コミュニケーションそのものには目的はない。続いているか否かだけである。

+1の選択:さらなるコミュニケーションの起動

もう一つ、コミュニケーションでの意味の了解と、受容とは違うということも押さえておく必要があります。ようは、言われたことや意図が分かることと、それを受入れること(それを受けて何をするのか)は違うという、まぁ、当たり前のことです。つまり、コミュニケーションにおいては、受け手の選択(聞き入れるのか、従うのか、信じるのか等々の選択)が関与して、そして次のコミュニケーションへと接続していくことになるということです。

このことは当たり前のことののようですが、コミュニケーションの進行を考えるときに重要なポイントになります。つまり、コミュニケーションとは受け手に、さらなるコミュニケーションの選択を迫るものであるということだからです。先ほど、コミュニケーションは3つの選択の統合であるとしましたが、そのコミュニケーションはさらなる選択を迫るという点を考慮すると、コミュニケーションとは3+1の選択の統合ということができます。

コミュニケーションの受け手になったとき、そしてどうするのか、なんらかの選択をせざるをえない。否定するにしても肯定するにしても、いったん聞いてしまったら、聞かなかったことにはできない。受け手は選択するものだとみなされる。もちろん、聞かなかったことにするということも選択としてとらえられます。無視することもコミュニケーションになる。いずれにせよ、何らかの情報が何らかの行為によって自分に指し向けられた時には、何かは行うことになります。誰かに贈り物をもらったら、誰からのものであれ、何であったにせよ、お返しをしなければ気持ちが悪い。それと同じで、送られたら/贈られたら、応えざるをえなくなる。先ほど、伝達行動の話の中で、コミュニケーションの根底に送る−応えるがあると言いましたが、応えるとは次のコミュニケーションの送り手になることです。

ただし、どのように反応するかはコミュニケーションが強制することではない。否定するにせよ肯定するにせよ、あるいは無視するにせよ、コミュニケーションを行う(送り手としてのアクションを起こす)ことを強いられる。受動的・応答的に主体化されてしまう。

このように、コミュニケーションとは、送り手から受け手への選択の強制として捉えることができる。この典型的なものが、恋愛の告白というやつです。「自分の気持ちを伝える」というのは、自分の気持ちを情報として提供するということではなくて、その情報を受けとって自分との関係に選択(恋人として付き合うのか否か)を迫るものです。この選択を迫られることによって、受け手は、なんらかの次のコミュニケーション(反応)をせざるをえないわけです。そのことが、コミュニケーションの継続・進行を生み出します。コミュニケーションには、さらなるコミュニケーションを産み出す働きがあるといってもよいかもしれません。この点も、私たちの人間のコミュニケーションを考えるときには重要なポイントになります。

コミュニケーションは受け手に選択を迫り、さらなるコミュニケーションを起動する

コミュニケーションは繋がりを孕んでいる

メッセージに応じてコミュニケーションの送り手になる、その時には、自分がメッセージで読み解いた意味を踏まえつつ、自分の発するメッセージが相手に理解され、望むような反応(その次のコミュニケーション)が生まれるように言葉なり行動なりを選ぶことになります。送り手としてコミュニケーションに関わる場面を考えると、あるコミュニケーションは、その前のコミュニケーションを踏まえつつ、その次のコミュニケーションを予想しつつ行うものとしてある。

送り手として何かを言おうとする時、自分の言葉が痕跡として読み解かれるしかないものだからこそ、真剣に伝えようとすればすれば、逆に言葉がスムーズに出なくなるといったことが起きます。思ったままをそのまま言葉にすることは、もし目の前にいる相手に聞いて欲しいならば、できないのだといっても良いでしょう。相手に分かるように話したいということが、目の前にいるこの相手に分かってもらうためには、今、この状況の中で、どのように言葉を選ぶかという圧力になる。そのとき、受けとったメッセージ、あるいは聴き手がどのように受けとるかという予想、どんな反応が起きるか、あるいは起きて欲しいかという予想、そうした様々な要因が重なり合う中で、言葉が口に上ってくる。それは頭の中で思っていたとことをそのまま放り出した言葉ではないはずです。思いをそのまま手渡すことなんかできないからこそ、言葉を選ばないといけない。

そして、聞き手(受け手)も、送り手が自分を前に言葉を選んでいることが感知できるとき、そこに強く巻き込まれる。あらかじめ用意された原稿を目の前でただ読みあげられる時のライブ感の無さとは、そこにあります。ライブ感とは、自分(自分たち)がそこにいることが相手のコミュニケーションになんらかの影響を与えていることをリアルタイムで感じられる、他ならぬ自分が聴いていることを確認できるということ、そういうことですから。

このことは、私たちがコミュニケーションを行っているとき、メッセージの意味と意図の中には、そのコミュニケーションが行われている状況や人や経緯といったものが織り込まれ、確認されているということでもあります。極端に言うならば、あなたがそこにいて・わたしがここにいること、を互いに確認しあい、認めあうことが、メッセージを通して行われているわけです。テーマや記憶によって、その都度、コミュニケーション、メッセージ、あるいは予期の妥当性を確認することが行われている。この点でも、コミュニケーションが単なる情報の伝達ではないことが分かると思います。

このように、コミュニケーション自体に、繋がりの連続を生み出していく動きが孕まれていると言えるでしょう。コミュニケーションはコミュニケーションのネットワークを生み出そうとする。何かの受け手になってコミュニケーションに加わる、そのことで次のコミュニケーションが生まれる…… そこから人はお互いに分かり合い、関係が生まれていくことになる。コミュニケーションの連鎖が起きていくことで、そこから社会的システムが生まれてきます。このことは恊働論で考えることにします。

コミュニケーションは社会的システムを生み出す

コミュニケーションのシステム

話題・テーマ

言語コミュニケーションの場合には、情報と伝達行動が明確に分かれます。そして情報として、何かが取り上げられます。会話の話題とかテーマというものですね。これがあることによって、何を話していけばいいかという選択肢が絞り込まれることになります。

「寒くなってきましたねぇ」と話しかけたら、とりあえず天気の話で応える。「ついこの間まで暑かったのにね」、「秋は駆け足でやってきますね」等々、どのように応じるかという選択肢は色々とあるにせよ、少なくとも相手は天気の話を振ってきたということを明確な手がかりにできます。もちろん、天気の話というのは、どうでもいいこと、たいしたことではないこと、の代表みたいなものですから、「ええ、本当に」と軽く受けて、別の話題に振ってみる、「そういえば、今年はサンマが高いみたいですね」等々。このように、展開のバリエーションは色々考えられるにせよ、相手はコミュニケーションの意図はあって天気の話を持ち出してきたということが、それに応じる行動の可能性を絞り込んできます。

そして、ある話題の話が続くことによって、ますます、どのように応じればいいかを選択することは容易になります。それまで話してきた内容(テーマ、話題)が大きな枠として利用できるようになるからです。テーマや話題が絞られてくることは、選択の幅を狭めていますが、しかし同時に、別のテーマへと繋げる可能性や話題を掘り下げていく可能性も生み出す(可能性として見えてくる)ことになります。

このように、言語のコミュニケーションが生じることで、もっぱら話題(何の話をしているのか)に焦点をあてて振舞うことができるようになります。共在による身体的なコミュニケーションも同時に行われていますので、それを無視することはできませんが、それだけしかない場合によりも、対応が楽になると言えるでしょう。

テーマや話題がコミュニケーション継続の手掛り=予期になる

コミュニケーションのシステム

話題やテーマに沿ってコミュニケーションが続いていくとき、その都度のコミュニケーションは、話題に関係ある/関係ないという区別によって分けられ、関係あるものがつながっていくことになります。また、その場での、それまで話されてきたことが積み重なっていき、それを互いに覚えていることによって、新しい発言の選択の幅が絞り込まれていくことになります(一度話したことは、すでに話されたこととして互いが記憶している)。

このようなコミュニケーションの連鎖が形成されることで、そこには「つながり=コミュニケーションが続くこと」と「まとまり=ある話題に沿ったコミュニケーションの記憶」がうまれています。このようなコミュニケーションの「つながり」と「まとまり」を、この講義では社会的なシステムと捉えることにします。

コミュニケーションの継続→「つながり」と「まとまり」→社会的システム

システムという概念は様々なものに使われているものです。コンピュータや自動車、あるいは生物のように無数の部分が集まって一つになっているモノのあり方に対して、通常はシステムという概念を使います。この場合、システムとは、複数の単位(モノ)が、関係によって、部分として、一つの全体へと結びつけられていることをいう概念です。この全体の枠内での諸部分間の相互依存こそがシステムだという考え方です。モノのまとまり方とつながり方を捉えたものです。

しかし、この講義では、システムという概念を、モノのあり方ではなく、コミュニケーションという出来事のつながり方を捉える概念として使います。コミュニケーションとは二人の間で3つの選択が重なることで生じる出来事です。モノではありません。ですから、コミュニケーションが(あるいは人間の行為が)システムになるという場合には、システムの要素としてのコミュニケーションは、モノのように集められて繋げられるわけではありません。生じてはすぐに消えて過去になっていくコミュニケーションという出来事が、一定のつながり方でまとまりを生み出している状態、コミュニケーションのプロセスのあり方を、システムという概念でとらえます。モノのシステムとは区別したい時には、社会的システムという言葉を使うことにします。

モノのシステムではなく、出来事のシステム

さて、進行中のコミュニケーションが、特定の「つながり」と「まとまり」を生じているとき、そこにシステムがあるとみなすわけですが、この「つながり」と「まとまり」について、もう少し考えてみます。

「つながり」とは、次々にコミュニケーションが続いていくということです。先ほど、コミュニケーションは受け手に次のコミュニケーションを強いる(受け手としてコミュニケーションに巻き込まれる)ということを確認しました。コミュニケーションは、基本的には、次のコミュニケーションを生み出そうとするものです。また、コミュニケーションがなされる時には、先行するコミュニケーションを踏まえながら、次のコミュニケーションを予想しつつ行われます。(このように書くとややこしいのですが、ようするに、相手の言ったことを踏まえつつ、相手の反応を予想しつつ、話そうとする、ということです)。ですから、コミュニケーションはコミュニケーションを生み出して、繋がっていこうとするものだと言えるでしょう。コミュニケーションそのものが他のコミュニケーションとの連関のなかで生じる出来事であると言うこともできます。

コミュニケーションは「つながり」を生み出そうとする

コミュニケーションは、他のコミュニケーションとの連関の中で生じる

もちろん、コミュニケーションが生み出されると言っても、実際は、内容や話題の点ではバラバラのコミュニケーションがただ続いていく(お互いが勝手に思いついたことを話しているだけ)ということだってありえます。それでも、コミュニケーションとしては「続いている」(声の応酬として)。伝達行動のところで述べた、最低限の応答の連鎖として続いていける。このように、コミュニケーションには、つながりを生み出していく傾向がある。コミュニケーションはシステムを生む力(傾向)をもっていると言っても良いでしょう。

コミュニケーションのシステムの「つながり」は、コミュニケーションによって生み出されるわけです。

そして、そのコミュニケーションの繋がりが、特定の話題やテーマに沿ったコミュニケーションである場合、そこに「まとまり」が生まれていると捉えることができます。原理的には様々な内容のコミュニケーションが可能であっても、特定のコミュニケーションだけしか「繋がらない」。関係することと、関係ないことの区別によって、コミュニケーションの接続が制限されている。この区別が生じていることが「まとまり」があるということです。

関係する/しないの区別で繋がりが成立すること=「まとまり」

様々な可能性がある中から、なんらかの区別を軸にして、特定のコミュニケーションだけが選択され、つながっていく。多くのもののなかから、限定されたコミュニケーションだけが繋がっていく。この状態が「まとまり」です。関係する/関係しないという区別、一般的に言えば、内部と外部の区別、境界が維持され続けている状態が「まとまり」です。そして、この「まとまり」が生まれているとき、そこには原初的な形の社会的システムが生まれているのです。そして、関係ないものは、そのシステム=まとまりにとっての環境ということになります。

ある話題やテーマといったものによって、特定の制限されたコミュニケーションが繋がっていくとき、そこにコミュニケーションのシステムが生まれている。関係すること(自分・内)とそうでないもの(環境・外)の区別がなされながら、次々とコミュニケーションを生み出していく。コミュニケーションがシステムを成しているとき、そのシステムの要素はコミュニケーションなのですから、コミュニケーションのシステムは、その要素を自ら作り出す。自らの要素を自らが作り出し、その作り出すことが続くことでシステムになっているのです(このようなシステムのことをオートポイエーシスと呼ぶこともあります)。

コミュニケーションのシステムは、要素を自ら生み出していく

システムとは、コミュニケーションの繋がりが一定の区別を維持しながら保たれている状態ですから、極端に言えば、コミュニケーションにおいて、何らかの区別が繋がっているとき、境界が生まれているとき、そこにはシステムがあると言うことができるでしょう。

社会的システムについては、組織まで話が進んだ時に、あらためて取り上げて論じたいと思いますが、ここでは、コミュニケーションが繋がりとまとまりをもって進行していることをシステムと呼ぶということは覚えておいてください。

協働論

協働の成立

コミュニケーションの継続

協働とは二人以上の人間が共に働くことです。その本質的なものとは、相互行為であり、相互行為が成り立つということは、コミュニケーションが継続して行われているということです。コミュニケーション論で確認したように、コミュニケーションは二者の間で選択が連鎖していくことですが、相互行為は自分が行ったこと(選択)が相手の行為(選択)に影響を与えるということですから、コミュニケーションに他なりません。また、コミュニケーションもそうした相互行為として記録され記憶されていきます。ですから、協働とは、人々の間でコミュニケーションが継続していくことだと考えることができます。そこで、二人の人間の間で安定的にコミュニケーションが継続するための条件を解き明かしていくことにします。ただし、コミュニケーションが安定的に継続するということは、二人が「仲良くする」とか「分かりあう」、あるいはコミュニケーションで合意に達することではありません。たとえ喧嘩であっても、それが続いて進行するならコミュニケーションの継続とみなせます。また、言語的なコミュニケーションに限らず、通常なら相互行為と呼ぶような行為も、選択の連鎖としてコミュニケーションとして捉えます。

協働:複数の人間の間のコミュニケーションの継続

さて、この講義での人間に関する出発点である、人間の意識(心、精神)は、互いに不透明である、というところから出発しましょう。互いに何を考えているのか分からない2人の人間が出会って、そこで二人の間で安定的なコミュニケーションの継続が成り立つには、何が必要か? ここでは、原理的な点を考察するために、状況や場から得られる情報はないものとします(たとえば、大学という場であれば、たとえ見知らぬはじめての人間でも、最低限、学生であることは手掛かりになるわけですが、そういう場や状況からの手掛かりはないものとします)。

堂々巡り(ダブル・コンティンジェンシー)

何の面識もない二人の人間が出会う。このとき、二人の人間は、互いに、相手がどうするかを予想した上で自分の行動を決めようとする。AはBの出方をまって行動しようとする。BはAの出方を待って行動しようとする。こういう状況では、互いに相手の出方を待ってしまう堂々巡りに陥ることになります。初対面の人と何を話していいか分からないで悩んでしまう状況を思い浮かべてもらうとよいでしょう。

このような、互いに相手の出方に依存することによって不確定になることをダブル・コンティンジェンシーと言います。二人の人間がなんらかの社会的関係を築き始めるには、このダブル・コンティンジェンシーの問題を解決する必要があります。

社会的関係を築くには堂々巡り=ダブル・コンティンジェンシー問題の解決が必要

では、この堂々巡りはどう決着するか? それは、とりあえずどちらかが何かをすれば、それを手掛かりとして関係を築くことができるということにあります。人間の行動は、なんであれ、他でもありえたという選択として受けとることができるということを以前に話しました。本人の意思や意識に関係なく、受け手が選択的行動として受けとって解釈することができるし、おきる。それが手掛りになります。

AとBの二人が、お互いに何かしなければという堂々巡りの状況にあったとします。このとき、たとえば、AがBに対して何かしたとする(少なくともBは、Aが自分に対して何かをしたと感じたとする)。このAの行動は、Bにとって、Aの選択として現れます。つまり、Bは「他にも色々なことができたであろうにAはあえて自分に対して○○を行った」として、そこから、Aに関して、「おそらく〜ということではないか」という読み(予期、思い込み)を立てることができる。あるいは、少なくとも、自分がどのように応えるべきかを予測できる。それを手掛かりに、BはAに対して何かを行うことができるということになります。反応することによって、コミュニケーションの意思だけでも伝えられることになります。

そして、実際にBがAに対して何かの振る舞いを行い、それがAにとってBの自分への反応だと受けとられ、それに基づいてAが再び応答する……、このようにして、コミュニケーションの連鎖が開始されていくことになります。

ここでは何が起きているのでしょうか? それは、なんであれ人の振舞は選択として了解できるということによって、それをきっかけに、うまくいけば、選択の連鎖としてのコミュニケーションが立ち上がるということです。コミュニケーション論で確認したように、コミュニケーションは選択の連鎖です。何らかの選択的な出来事が繋がっていくとき、それはコミュニケーションなのです。

偶然であれ何かが選択として生じれば(受け止められれば)コミュニケーションを起動する

何であれ、何かが行われると、それを選択として解釈できる。そして、少なくとも「自分に対して何かをしようとしている」という仮定に基づいてその選択を受けとめ、自分がどう反応するべきかを決めることが可能になる。相手の行動がコミュニケーションとして受けとめられるとき、その行動は、次なる行動の選択を可能にするという意味で、行為になるのです。

偶然にせよ何らかのきっかけでコミュニケーションは始まる。このとき、先ほどの堂々巡りは解消されてしまったのではありません。確かなものを探していたら堂々巡りになって途方に暮れてしまうからこそ、何であれ選択的な行動として受けとる(それがコミュニケーションの端緒を開く)という圧力として姿を変えて働きかけているのです。ダブル・コンティンジェンシーが選択へと駆り立てていると言えます。

さて、相手に関する何らかの予期(読み)をもつことができれば、それ以降の出来事は、「その場にふさわしいこと=これまでの展開をふまえた上で何かをしようとしていること」という予期を軸に、予期通りであった/予期が外れた、という観点から意味付けていくことができるようになります。予期にかんする議論のところで触れたように、予期をもつことによって、対象のわけのわからなさ(複雑性)は、自分の予期の確かさの問題へ転換できるわけです。

選択的解釈による予期の形成が導きの糸になる

共在

このように、いったん何らかのコミュニケーションが両者の間に発生すると、それを手掛かりに、行動の応酬が可能になると考えることができます。

この場面で起きていることを、もうすこし詳しく見ていくことにします。

どちらかの最初の振舞によって堂々巡りが破れて事態は動き始める。このように書くと、何か決意をもって最初の一歩をどちらかが踏み出す必要があるかのように感じられますが、実際は、本人にそのつもりはなくても、最初の一歩を示してしまうことがおきます。それは身体的な振舞です。

お互いに相手によって見られていることが分かっている状況では、どのような身体的な振舞も、一つの選択として相手に受けとられる可能性が生じます。何もしないことも含めて、互いに知覚している状況では、いやおうなく振舞は選択になる可能性をはらみます。私たちが身体をもつ存在であるというそのことによって、私たちは他者の面前にいる際には、自分に関する情報を表示してしまっているのです。

また、自分の振舞が選択として受けとられることを自覚することによって、互いに自分の振舞が、何らかの選択として解釈されるであろうという圧迫感を感じることになり、そのことが選択的に(意識的に)振舞うことを強制することにもなります。このように、私たちは、互いに見られているという対面的状況においては、自らの振舞が選択として受けとられること、それゆえに、選択的に振舞うことへの圧迫感のもとにおかれることになります。

ともに知覚している対面的状況のことを、ここでは共在と呼ぶことにします。共在の状況においては、我々はいやおうなく選択的に振舞うことを強制されるわけです。共在という状況がコミュニケーションを強制するといってもよいでしょう。

共在→選択圧力→コミュニケーション

このことは、何もここで述べているような特別な状況だけで起きるものではありません。日常的に、私たちは、誰かに見られているという状況では、自分の振舞が他人にどう思われるかということを多かれ少なかれ意識せざるを得ません。また、どのように思われるかということは、自分ではコントロールできません。だからこそ、人前で何かすることは緊張するわけです。

共在において振舞は、まずはその動作を行った人間に関する情報として受けとられます。つまり、振舞は何らかの自己呈示として受けとられる。互いに自己というものを選択的に呈示している(何らかの自己表現を行っている)ものとして了解されていくことになります。もちろん、最初の段階で受けとられていくのは、漠然とした印象といったものにすぎません。そこでは、受けとった側も、主観的な思い込みであるかも知れないという保留がどこかに潜んだものでしょう。しかし、それは相手の振舞によって生じたものであり、それによって相手に対する予期を作り出していくものになります。

振舞の選択性=自己呈示→予期

さらに、振舞は、自己に関する情報であると同時に、その場をどのように捉えているかを示した情報としても受けとられます。つまり、「その場にふさわしいことをしようとしている」という規準をもとに解釈されるわけです。お互いの振舞が、その動作を行った者の情報と、その動作を可能にした条件として予想される状況の情報として呈示される。私たちは、他人の振舞をもとに、互いに状況について認識し、その認識を手掛かりに自己の振舞を調整していくことになります。

振舞の選択性=状況認識→予期

「ふさわしさ」という仮定が予期の手掛り

もちろん、日常的な場面においては、状況の手掛かりが相手の振舞しかないということは、まずありません。具体的な場所というもの、時間、相手の外見等、相手が何をするかに関係なく、状況を示すものとして手掛かりにできるものはあります。ただし、そうした手掛かりというものも、必ず状況をきちんと定めるものではなく、そうした手掛かりをどのように「利用しているか」は、振舞いを通しての互いの選択の突き合わせの中でしか確定できません。周囲の環境のなかから、何が関連し、何が関連しないのかという区別を行って状況という枠組を組み立てることになりますが(状況とは、ある意味で、利用できる様々なリソースに対して関連/非関連の区別を付けることでできあがっているものです)、その組み立ても、最終的には互いの振舞いを通じて確証することになります。

このように、共在の場面において、私たちは、互いの振舞を通して、相手と状況に対する予期を築いていきながら、それを手掛かりとして自らの振舞を調整していくことで、コミュニケーションを継続することができるのです。自分が何をしているのか他人にわかるようなかたちで自分の振舞を調整すると同時に、相手に分かる振舞を呈示することを通してその場の状況を定義づけまた変更していく、そういう作業を互いに強いられている。この共在の圧力に押されて、予期を互いに形成し確証していくのです。

もちろん、予期が一致するとか同じものであることは確認できませんし、また確認が必要ではありません。互いが、自分の予期にしたがって選択し、それが連鎖していく限りにおいて、それでよいということ、それで十分です。暫定的で作業的なものであっても、今自分がおかれている状況と、相手というものに関して、どうすれば良いのか分かればよいのです。思い込みと思い込みがうまくかみ合っていれば良い。うまく行く程度にかみ合っていれる状況のことを予期が整合的であると呼ぶことにします。互いの予期が正しいものでなくても、整合的であれば良いということになります。

互いの予期が整合的になれば、コミュニケーション継続の可能性が生じる

自己規制力(基底的仮定)

これまで述べてきた相互行為(コミュニケーション)の成立場面の議論において、一つの鍵になる想定が持ち込まれています。それは、先ほども少しふれましたが、「各人は、何かをするとき、その状況にふさわしいことをしようとしている」という想定です。この想定を土台とすることで、相手の選択を、自己の呈示と状況の解釈の呈示として読み解くことを行い、それによって相手の選択に応じることが可能になるわけです。

何かを選択として受け止めるためには、何を軸として選択を行っているかが想定できなければなりません。その軸として手がかりにできるのは、その場、その状況ということになります(この状況の中には、そこで向かい合っている相手のことも含まれます)。

別の観点から言えば、私たちが何かを他人に対して振舞うときには、「その状況にふさわしいようにしなければならない」という圧迫のもとで振舞っているわけです。もちろん、「その状況」がどのような場であるかは、人によって異なり食い違うこともある。しかし、すくなくとも、それぞれの人間が、「ふさわしく」振舞おうとしているし、振舞うことができるという想定が、コミュニケーションの成立の根底にはあることになります。このことは、予期というものについて述べたときに、人間は予期に導かれて当たり前/普通/当然のことをすると述べたことに繋がっています。

「その状況に相応しい」というと堅苦しいですが、言い方を変えると、「普通、ノーマル」にしなければならない(普通にできる)ということです。何が普通かは状況が規定するわけですから、その状況にあって普通にすること、というのが、その状況に相応しいこと、というのと同じです。すくなくとも、周囲から普通だと受けとられるように自己の振舞い(と、それを通して与える印象)をコントロールできなければならない、ということです。

このように、私たちは、互いが、ノーマルで無ければならないという指示に従うことをギリギリの足場として関係を築いているわけです。そうした自己規制力があることが、最低限の人間の要件として要求されているといっても良いかもしれません。その意味では、いわゆる道徳というものの最低限の規範をここに求めることができるかも知れません。つまり、「人前ではちゃんとしていないといけない」し、「人はちゃんとしているものである」ということ。これがあるからこそ、互いに選択をすり合わせていくのが容易になるとも言えます。

お互いにちゃんとしようとする自己規制力が、規定的な仮定として、そして規範としてある

関係の透明化

過去=履歴

コミュニケーションが成立し、応酬が続くようになると、その応酬の積み重ねの経験、つまり過去(履歴)が生まれますので、少しずつ、過去=履歴を手掛かりにもできることになります。先ほどのテーマや話題も、この履歴になります。過去は、確実に起こったことであり変わりませんから、それを確実な判断基準として用いることができる。もちろん、その過去をどのように解釈し意味付け予期へと繰り込むかは、個人ごとに異なる。しかし、時間の進行の中で互いに応酬を重ねていくことで、互いに相手への予期を絞り込むことになる。行動の応酬、つまりコミュニケーションの連鎖が継続進行していく中で、その履歴(過去)によって、ありうることの可能性が互いに限定されていくことになります。関係というものに対する(関係に基づいた)予期が形成できるということです。

関係があること、続いていること、他の人たちとは違う関係であること等、関係が生まれたこと(お互いの間にシステムが生まれていること)が、それをどうするのかといった次元で行動の手がかりへとつながることになります。私たちが普段「つきあい」と呼んでいるものが、ここでいう関係の予期にあたるでしょう。色々とつき合ってきた中で二人で体験したこと、それが相手とのつき合い方を導くことになる。友達としてつき合っている、恋人としてつき合っている、といったときの「〜としてつき合っている」ということが、一つの枠組みとして関係を支えることにもなっています。

時間が経過する中で関係の予期(=「つきあい」)が生まれる

ただし、友達としてのつき合い方にも色々あるように、実際には関係をさす言葉(概念)では捕捉できない個別的で具体的な予期が生まれます。また、一般的な言葉や概念に当てはめることが、関係の予期を方向付けることになることも起こります。

このように、時間が進行して行く中で、非可逆的に出来事が積み重ねられ、その積み重ねが「共有」されるとき、コミュニケーションの安定的な継続が生まれてきます。互いの抱く相手に対する予期が、コミュニケーションを切断してしまうような齟齬をきたさない限りにおいて、コミュニケーションを続けることができるわけです。履歴=記憶の蓄積によって、関係の次元において、互いは透明さを増してくる、と言うことが出来るでしょう。

履歴の共有=関係の透明さ

誰かと親密になるということは、この記憶の共有ということによります。記憶の共有と言っても、各人が同じ意味合いのものを共有するということではありません。同じコミュニケーションの連鎖に関わってきたということの共有です。このような記憶の共有だけが関係を支えるというのは、ある意味であやうい。何か、それまでの経験がもたらした予期を覆すようなことが起きたとき、一気に過去は疑わしいものへと転ずる可能性があります(ずっとだまされていた、ずっと勘違いしていた……)。ですから、関係の安定化のためには、記憶の共有だけではない、なにか制度的な支えがたいていの場合には必要になります。

*なお、恋愛関係のようなものの場合には、記憶の共有以外に、秘密の共有(一定のテリトリーの内側にある限られた情報の開示と受容)が鍵になると考えられます。

予期の整合性

これまで述べてきたように、たとえ互いに全く不透明な二人の人間が堂々巡りの状況で出会ったとしても、そこに偶然であれコミュニケーションが始まれば、互いに予期を抱き、それを履歴で検証していくことで、予期が整合的なものとなって、コミュニケーションの安定的な継続(=システム)が生じる可能性があるということです。このとき、互いに相手に対して抱く予期は、相手の真実だとか本当の姿に迫るものかどうかということは関係ありません。とりあえず、相手はこんな人間だ(こんなことを考えている、こんなことをする)と思うことでうまくいくということだけです。

つまり、いったん始まったコミュニケーションは、コミュニケーションがそれでうまく行くということだけを最終的な基盤として、コミュニケーションの継続を成り立たせる予期を生み出すことになるわけです。システムと概念を使うならば、システムは自らが成り立っていることから存続の基盤を固めていくと言えるでしょう。

システムは、自らが継続していることを基盤とする

ここまでの話は、言ってしまえば、二人の人間の協働=コミュニケーションの継続は、互いの予期が整合的であることによって成り立つ、という話です。それを最初にいえばいいのに、ここまで回り道をしたのは、予期が整合的になる(一致するということではない)には、何らかの確固たる共通の基盤のようなものがなくてもよいということを確認しておくためです。コミュニケーションが進行を始めると、それが進行して行くことが、コミュニケーションを安定的にする可能性があるということ。二人の人間が互いに不透明であるとき、この不透明さを解消しなくとも、不透明なままで関係を築くことができること、このことがポイントです。

互いに相手に対する妄想を抱いているだけであっても、その妄想が、これまでの両者の間の出来事の履歴と、その都度の相手の行動とによって、「間違っていない」と「確認」でき、自分の行動の手掛かりにできるとき、妄想を抱いたもの同士がコミュニケーションを継続することは不可能ではないわけです。

人間の不透明さを解消しなくとも、コミュニケーションの継続、システムは成り立つ

「人格」

協働(コミュニケーションの継続)が成り立つには、互いの予期の整合性が成り立てばよい、ということが確認されました。コミュニケーションの継続によって、コミュニケーションに関わる人間に関する予期、その場の状況にたいする予期、さらには関係に関する予期が形成されてくることになるのですが、ここではまず、個人に対する予期というものについて考えておきます。

個人に対する予期というものは、通常、私たちにとっては、「その人らしさ」、人物像として捉えるものです。やや堅い形でいえば、その人の人格(パーソナリティとかキャラクター)として、相手に対する予期を形成していきます。つまり、私たちが他人を「分かる」というときは、その人に対する一定の予期をもつことができるということなわけです。人格というのは、その人に着せられた予期(の束)だと言っても良いでしょう。コミュニケーションの中で、私たちが理解する「他人」とはそういうものです。

人格はコミュニケーションの中で形成される予期

通常、私たちは、人格なりパーソナリティといったものは、その人の内面にある何かが(本当の自分)が表面(行動)に現れたもの、として理解しています。不透明さの膜から透けて見える相手の真実、みたいなものとして。しかし、上の議論は、外部からその人に帰せられた予期が人格であるという構図になっています。この違いに注意してください。極端に言えば、自分がどんな人間かということは、周りの人間が自分をどんな人間だと思っているかということである、ということです。これが、コミュニケーションにおける私たちの人格の把握の仕方であるということです。

もちろん、コミュニケーションを通じて自己表現を重ねることで、自分のセルフイメージと、相手が抱いている人物像をする合わせていくことは可能です。しかし、コミュニケーションの中で自分の内面にある「本当の自分」が正しいという図式は、通用しない。ちょうど、コミュニケーションにおいて発話者の意思が、受け手の理解の「正しさ」を根拠づけないのと同じことです。コミュニケーションの継続にとっては、相手の人物像(予期)が真実かどうかは問題ではなく、その予期によってコミュニケーションを継続できることが重要なのです。

もちろん、自分の理解のされ方が自分のセルフイメージとは異なること(それは当然起こりうる、異常でも何でもないことですが)が、本当の自分探しという泥沼へ自分を追いやってしまうきっかけにはなるかもしれませんが、本当の自分(そんなものがあるとして)を見つけてそれを十全に表現したところで、そのように自分が理解されるかどうかは別の問題であるということは変わりません。本当の自分なんて探している暇があったら、コミュニケーションの中で自己をどう表現するかというセルフ・プロデュースの戦略を考えた方が実りがあるということになるのかもしれません。ともあれ、この講義では、個人の人格とは、コミュニケーションの中で帰属された予期の束であるということを基礎とします。

予期の予期

次に、他人に対する予期というものは、厳密に考えると、予期の予期という形になります。つまり、「その人がどのような予期に基づいて行動するか」ということに対する予期、相手がもっている予期に対する予期、これが人格的な存在としての人間に対する予期ということです。

人格=予期の予期

なぜ予期の予期になるかといえば、人間に自由がある(自由を認める)からです。原則的には自由勝手に行動できるはずの人間が、一定の傾向性を見せるとき、その傾向性(パターン)を予期として捕まえ、人物像を形成するわけですが、その傾向性とは、あくまでも自由であるにも関わらずそうするだろうというというものであり、つまりは行動の基盤となる予期がそういうものだからという理解になるということです。

相手の行動を評価する場合、相手が自由意志があるに関わらずそうせざるをえない法則とか限定があるというのであれば、それは人格的なものへの予期ではなく、身体的・物理的な法則(あるいは社会的な制約)への予期、つまり状況への予期になります。私たちが人格(人物像)として押さえるものは、自由意思を持った人間が自発的に行動する場合の傾向性であり、言ってしまえば自由にするときに現れるパターンです。このパターンは、その行動を支える予期によって生み出されると考えるしかない。ですから、人格的な人間の把握は、予期への予期になります。簡単に言ってしまえば、私たちが相手を分かろうとしているときは、相手がどんな予期をもっている人間かということを分かろうとしているということです。

信頼

この相手のもっている予期にたいする確かさの感覚が、信頼というものの基盤となります。信頼とは、その人の行動とその背景に想定される人格(人物像)がブレないという感覚、つまり、その人が、常にその人らしい行動をするだろうという感覚を基盤として抱くものだと言えるでしょう。ここにあるのは、相手は、相手のもっている人格的な予期に従うことへの予期です(話がややこしくなってきてますが)。状況の変化にも関わらず、その人がその人らしく行動するだろうという予期が得られるとき、私たちはその人を「信頼する」わけです。その信頼とは、相手が自分の予期に従うように/外れないように、ある種のセルフ・コントロールを行うだろうという予想とも言えるでしょう。いかなるときもその人らしい人を私たちは信頼する。個人的・人格的信頼とは、相手の中の予期と相手の行動との関連性の強さに向けられています。

相手の予期の一貫性が信頼の基盤

先ほど、相互行為の成立の場面において、自己規制力というものに触れましたが、信頼が向けられるのは、この自己規制力であると言えるでしょう。さらに、時間の経過の中での安定性、つまり一貫性が問われるということになります。

信頼とは、その関連性の強さを感じた人が一方的に抱くものです。信頼は、するものであり、されるものであって、してもらうものではない。予期と行動の関連性が信頼というものになるのは、そこに自由が絡むからです。つまり、原則的にはどのようにも行動できるにも関わらず、その人らしくあり続けているということ、自由をコントロールしていることへの予期、それが信頼です。ですから、計算と違って、信頼には、もしかしたら裏切られる(予期が外れる)かもしれないという保留がかならず着いています。そして、信頼し続けていいものかどうか、つねにチェックが働き続けるものです。なお、信頼の反対は不信(信頼できない)ですが、たとえ相手を信じられなくとも、私たちは信じられない人間として扱うことでコミュニケーションの継続が可能です。その意味では、コミュニケーションの継続という観点からすれば、信頼の反対(否定)は、「わけがわからない」(信頼していいのかどうか分からない)ということだと言えるでしょう。

「役割」

私たちが具体的な相互行為を行う場合には、つねに何らかの状況、場の中で行います。ですから、私たちが抱く予期についても、そうした場・状況に関連するものが含まれることになります。共在における議論の中で触れたように、私たちは相手の選択を受けとめる際に、相手がその状況にふさわしいことをしようとしている、という観点から押さえます。ですから、そこから相手に対する印象=予期と、状況の定義=予期とが生じてきます。

そして、状況の予期は、その状況へのふさわしさ、言ってしまえばその状況で担うべき「役割」という形でおさえられます。つまり、相手に対する予期が、一方はその相手の個人的な特質からくると思われるもの(これを人格として押さえておきます)と、他方はその場の状況から来ると思われるもの(これを広義の役割として押さえておきます)との二本立てになるわけです。後者の役割は、その人でなくても同じような状況ならばたいていの人はそうするであろうという予期、つまり匿名的な予期になります。

役割=状況でのふさわしさ(=立場)への予期

このように、具体的な状況における相互行為・コミュニケーションの継続においては、相手に対する人格的な予期、相手に対する役割的な予期、そして継続を通じて生まれて来る関係の予期、とおおまかわけて3種類の予期が生まれてくることになり、私たちはこの3種類の予期の形成と確認を経ながらコミュニケーションを積み重ねていくことになります。

3種類の予期:人格、役割、関係

個人の行動が、人格的な予期と役割的な予期にわけて処理されていくということは、観点を変えるならば、人のどんな行動であれ、その行動は、人格の表現と役割の表現という二面の表現によって受けとられていくものであるということです。単純に言うなら、どんな行動も自己表現でもあるし役割遂行でもあるということです。自己表現は止められない、といってもよいかもしれません。このように二重の表現として私たちは他人の行動を評価し予期を形成するようになっています。

人間行動の二重性:自己表現と役割遂行

ただし、ある行動の、どの部分が人格的表現で、どれが役割的表現なのか、ということは受け手の状況理解次第です。客観的・絶対的な区切りがあるわけでもなく、そうした区切りをつけることが可能でもありません。人格と役割の二面の区別が行われるということは確実ですが、特定の振舞いがどちらで評価されるのかは、コミュニケーションの当事者次第です。

たとえば、100%の自己表現だけといったものはありえません。パフォーマンスのように自己表現だけを目的として行われるものであっても、それが自己表現として読み解かれ受けとられるためには、何らかの枠組みにしたがっている、極端に言えば「自己表現を行っている」という枠組みにしたがっていることが了解されなければなりません。そうでなければ、ただのデタラメになってしまうでしょう。行動が行為として受容されるということは、そこに行為としての連関を成り立たせる「役割」がかならず意味付けられるということです。一方で純粋な役割遂行もありえません。どんなにあらかじめ決められた指示通りの動作を行っている場合でも、「指示通りにまじめに役割を遂行する人間である」という自己表現として受けとれるからです。どのような役割であれ、それが一人の人間によって担われるしかない以上、かならずその担い手の自己表現(自己呈示)になります。このように、具体的な行動は人格と役割という二面で理解され、予期を生み出すことになります。

行動が役割と人格という二面で受けとられるということは、体験・経験の履歴(歴史)が二面的に記憶されていくということでもあります。過去というものを参照することで私たちは関係を安定的なものへと仕向けていくことができるわけですが、その過去が二つに分けられ参照されるということになります。そして役割的な過去というものは、共有された過去として受けとられていくわけです。その場で起こったこと、その場だから起こったことの積み重ねのうちの、場の特有性は、ここでいう広義の役割的記憶として積み重ねられるからです。

予期の安定化=一般化

ここまでで確認したように、協働は、関与する人間の互いの予期が整合的であることによって成立します。そして協働が安定化するには、この予期が安定的になることが重要だということになります。

予期が安定的になる、といいましたが、予期がどのようになれば「安定的」だと言えるのでしょうか? 記憶=歴史の共有を経ていくことで、予期はどのようになれば「安定的」になるのでしょうか?

それは、予期が個々具体的な出来事に左右されなくなる(左右されにくくなる)ということです。つまり、色々と細かい例外はあるにせよ、たいていは通用するような予期というのが、安定的な予期ということになります。言い方を変えれば、予期が単純化、無差別化するということです。

個人の人格に即していうならば、「Aのようなことする人」「Bのようなことする人」…… という個別実例の列挙による把握から、「基本的にはやさしい人だ」「面白い人だ」云々という、いわゆる性格の次元で捕まえることができるということに相当します。そうすることによって、多少のブレはあっても、だいたい「その人らしさ」のようなものは分かるし、また、時として予期に反するような行動に遭遇しても、異常な(例外的な)行動として位置づけて流すことができるようになります。このように、なにが「普通」「ノーマル」であって、何が例外/異常なのかという区別ができるとき、それを支える予期は安定的なものになるということができるでしょう。予期が、個別の出来事の記録から、もう一段上の(抽象的な)レベルで形成されるということです。このような予期のレベルアップのことを、予期の一般化といいます。それがなされたとき、予期は安定化するということです

予期の安定化=予期の一般化

予期の一般化の3方向

予期の一般化は3つの方向で展開される必要があります。その3つとは

です。それぞれについて見ていくことにします。

時間的一般化

まず時間的一般化ですが、これは時間が変化しても予期を変えなくて済むということです。時間の変化とは何か? それは状況の変化です。状況が変化していくということは、予想しなかったことが起きるということです。つまり、予期に反する、期待外れの出来事が起きていく、それが時間が経つということの本質です。ですから、予期に外れる出来事が起きても、予期を変える必要がない、そういう予期であれば、時間が経つ中で安定的であるということになります。

予期の時間的一般化:時間が経っても通用するようになる

予期に外れる出来事があっても予期が揺るがないようにするには何が必要か? 予期に反することが起きたときにどのように対処するのかがあらかじめ決まっていればいいわけです。端的に言えば、これは、先ほどの人格の例で話したように、予期に反することを異常/例外として位置づける、ということになります。つまり、たいていは「正しい」が、時として外れるようなことも起こりうる、という形で予期を形成できるとき、その予期が時間的に安定することになります。外れることがあるかもしれない予想というのが、いちばん強い予想です。

予想外のことを例外/異常として処理できるということは、なにがノーマルで何が例外かの区別ができるようになることだと言うこともできます。

もちろん、自分が抱いている予期が間違っていることを認めざるをえないようなことが起きる可能性はあります。予期というのは、根本的には勝手な思い込みですから、思い込みが間違っていることは当然ありうる。ですから、場合によっては予期を変更しなければならないかもしれないが、通常は、たいてい通用するもの、という形を取るのがよいということになります。私たちが互いに体験を積み重ねていく中で、私たちは、このような形で、帰納的に予期を一般化していくわけです。変化しないパターンを抽出しているということですね。ただし、しつこいようですが、絶対的に通用するものになることではありません。あくまでも、それまでの過去の履歴から推定したものであり、これまではとりあえず通用していたというものでしかないという点は消えません。端的に言うと、どう転んだって予期は予期でしかありえないということです。

だからこそ、各人には自己規制力と一貫性が求められるという圧力がかかっているわけです。

内容的一般化

次に内容的一般化ですが、これは、個々のその都度の出来事の内容に予期が振り回されなくなることです。状況から独立した予期になることです。先ほどの人格の話でいえば、まさに個人を人格としてつかむことです。ある種の役割を想定すること、さらには関係の予期(共有された体験に基づく予期)が作られること、こうしたことによって、予期の内容的一般化が実現します。根本にあるには、何らかの変化しないモノを想定し、それに予期を結びつけるという図式の働きです。

予期の内容的一般化:その都度の出来事に振り回されなくなる

私たちが誰かの人格(その人らしさとか性格とか)を把握するとき、個々の行動は、行動した人間の中にある「その人らしさ」の「現れ」として解釈することで、その人らしさ=本質を想定するという図式で観察を行っています。外側には直接現れていない何らかの本質のようなものが人間の中にはあって、それが性格だとかその人らしさという形で捕まえることができると思っているわけです。この図式を支えているのは、本当に個人の内部に何らかの本質のようなものがあるかどうかではありません。個人の行動がある種の一貫性、傾向性を示すということ、その個人が記憶を備えた「同一性」を担っていること(過去に関するコミュニケーションに応答すること)、これによって、その背後に「変わらない何か」が想定される。このように、予期を何かのモノ(必ずしも物理的に存在する物ではない)に結びつけることで、予期は、個々の出来事に振り回されにくくなります。

変わらないモノの想定(帰着、帰属)

社会的一般化

最後の社会的一般化というのは、相手の内面を考慮せずに予期が妥当すると思えること、です。今、目の前の人間が何を考えているのかを気にしなくても、たとえば友人だからとか、別の指標によって予期の妥当性を前提できることです。協働だと、この部分は、あまり強くはないのですが、組織ではこの方向が強力に働くことになります。

別の指標によるというのは、お互いの関係を類型化し、その類型=モデルに基づいて相手に対処できるようになることです。先ほどの関係の予期の話の中で触れましたが、相手と自分は「友人/恋人/夫婦なのだから、〜してよい/受け入れるはずだ」といった想定でコミュニケーションが行えるようになることです。この場合、お互いの関係がある程度意識的になっていること、あるいは持ち込むモデルに食い違いがないことが、コミュニケーションの継続には必要となります。世間一般ではそういうものだとされている(思われている)ということが手がかりになりますので、その部分で意識の違いがある場合には、かえって食い違いの原因になります。このあたりは夫婦の役割分担など色々と問題があることはご存知でしょう。

社会一般に認められている(広く受け入れられている)枠組みというものを制度と呼ぶことができます。社会的一般化とは、予期を制度化する、あるいは予期を制度的な枠組みを基につかまえること、そしてそれでうまくいくこと、ということができます。

予期の社会的一般化:制度化、類型化、一般的な枠組みに当てはめること

一般に、制度というのは、この社会的一般化のためのものとしてあります。たとえば、車に乗っている人は、皆、免許をもっているはずだし、免許をもっているということは最低限の道路交通法などは理解している。この免許という制度のおかげで、車を運転しているとき、前から走ってきた車を運転しているのがどんな人間かを気にすることなく、曲がり角ではどちらが優先されるかとか、そういうことを予期通りに運転できるようになっています。

もちろん、こうした制度が機能するためには、当事者の了解・了承や、他者の予期を可視化する何らかの装置が必要になります。自分の勝手な思い込みではないことが保証されなくてはなりません。

また、このような制度的なものの場合、予期に反する出来事が起きたときには、予期に外れた行動の方を悪いと確定できるし、周りもそういう自分の立場を認めてくれるということがあてにできるという、第三者の予期も関係します。

可視化、第三者の予期による補強が必要

協働システム

協働から協働システムへ

さて、いったん成立した協働が、中断を経て継続する必要が生じた場合、あるいはその協働が一つのまとまりとして他の人々などと社会的な接触活動を行う必要が出てきた場合、協働は新たな段階へと進みます。その段階へと進んだ協働を、この講義では協働システムとして押さえることにします。協働は、名前をもつことで、協働システムへと転化します。

名前をもつことによって、中断の後も「同じ」協働として再開することが可能になり、全体として外部との交渉も可能になります。中断の後、ふたたび同じ協働を続けるための条件とは何か? まず同じ人間があつまるということは必要ですが、それだけではなく、協働として「同じ」ものであることを可能にし、確認できることが必要です。それは、協働に名を付け、コミュニケーションにおいて名指せることによって可能になります。コミュニケーションによって名指せることで、過去の協働の記憶を、今の体験につなげることが可能になるからです。また、名前を持つことで、他の協働とは区別できる、つまりは社会的な一つのモノになります。

名前をもつことで中断しても同じものになり、社会的な一つのモノになる

ひとつのモノとして同じであること、「同じ」協働であることの保証は、名前が指している履歴(記憶)の連続性によって確保することになります。履歴の連続性を確保するには、再開の時点で、コミュニケーション(行動)において過去の履歴を互いに参照する必要があるわけですが、当然のことながら履歴のすべて(過去において起こったことすべて)を語り直すことは不可能ではないにせよ、負荷が大きすぎです。そこで関係に名前を付けることで、名指しすることで、参照するのです。同じ名前の集まりであること、つまり同一性は名前が保証し履歴が裏付け支えるのです(同一性とは、時間の中で、不連続に起きることを「同じ」と認められるということです)。このように、協働が他とは区別できる名をもつことによって、コミュニケーションの中で言及することが可能になり、それによって同一性が確保できることになります。

名が履歴の共有を確保し、同一性をもたらす

先ほど、コミュニケーションが「つながり」と「まとまり」を生み出しているとき、それをシステムとしました。その意味では、協働が成り立っている状態は既にシステムです。しかし、その協働というコミュニケーションの連鎖が、名前をもつことによって、自分自身(システム自身)についてコミュニケーションが可能になり、また中断・再開も可能になる段階にいたったもの、コミュニケーション的に一つのモノとして扱いうる段階に至ったものを、この講義では協働システムと定義することにします。

名を持つことで、システムはシステム自身をコミュニケーションできる

コミュニケーションにおける名の意義

関係に名前を付ける、それだけのことをなんで大げさに取り上げるのかと思われるかもしれません。しかし、コミュニケーションにおいて、名をもつということ(名指しできるということ)は重要なことなのです。他と識別できる名前をもったものは、その名前をシンボルとして、コミュニケーションすることが可能になるのです。

これは何も協働に限りません。私たちがひとりの人間としてコミュニケーションに参加するための条件も、名前をもつこととその名前の記憶を保持することに帰着します。たとえばネットの掲示板では匿名や偽名での参加が可能になっているものがありますが、そこで対話がなりたつ条件は、参加者が他と識別できる何らかの記号と発言を結びつけることと、その記号で名指された時に応えるということです。

実名を伏せたまま参加できる匿名の掲示板でも、発言番号が名前の代わりに機能しているのを見ることができます。以前に話題になった『電車男』でも、最初は 731 という発言番号を名前として使うことで他の人たちからのコメントに答えるということからスタートしています。このように、コミュニケーションの継続において、私たちは、それが本名だろうが偽名だろうが番号だろうがとにかく他と識別できる記号と結びつけることができる形で発言し、その記号への問い掛けを引き受けるということが、ポイントになります。端的に言うと、他の人たちから名指すことができるようになること、です。もちろん、同じ記号=名前としての履歴の連続性(一貫性)が求められます。その連続性が最終的に同一性を支えるのです。名前と履歴(記憶)、これがコミュニケーションの参加者である最低限の条件なのです。

名を持つ=呼びかけることができる者になる

名前に履歴・記憶が帰属される

コミュニケーション論のところで、コミュニケーションの情報と伝達行為の意味は、未完了なものとして「なぜ」の問いかけに開かれていること、それゆえにコミュニケーションによって他人と交わるものとしての責任=応答可能性があること、これらについて触れました。この場合の応答可能性=責任を負うとは、自分の名前に対して呼びかける者に対して、同じ者として、その名前に帰属させられた過去を記憶し保持しているものとして応えるということになります。

すこし話がそれましたが、協働は名前をもつことによって、一つの他とは区別されたモノとして、協働システムになるのです。そして、名前があることによって、たとえば飲み屋の宴会の予約をしたりできるわけです。名前によって、つながり・まとまりが「一つのモノ」になります。

協働が名をもつことによって、役割的予期、役割的記憶が、システムの名前をシンボルとした予期、記憶として整理され参照されることになります。厳密に言うと、この段階で、はじめて役割は役割として、場そのものとは切り離すことができると言えるでしょう。その場がどういう場でありどういう状況を共有してきたかということと(先ほどは関係への予期と呼んだものですが、これをシステム記憶、システム予期と呼ぶことにしておきます)、その状況の中での位置とその位置で匿名的に「ふさわしい」行動とを、分けることが可能になるからです。こうして、協働システムにおいては、予期そして記憶が、人格、役割、システム(関係)、その他の状況、と分化することになります。

システムというモノと視点

名前をもつことで「ひとつのモノ」としてシステムが意識できるようになり、コミュニケーションにおいてそのように扱うことが可能になるという点を確認しました。名前というシンボルを介すことで、システムという現象を全体としてとらえる視点が得られるということです。このようなシステムにおいては、他と区別されたそのシステムに視点をおいてシステムについて論じることができるようにもなります。

協働システムに関与している人たちにとっても、自分たちの関係を一つの名前(固有名詞)で呼ぶことができるようになると、色々な意識の変化が生じることになります。たとえば、田中のゼミを通じて仲良くなった人たちが、ゼミとは別の遊ぶための集まりを作って、それにTZXという名前を与えたとしましょう。すると、TZX に関わっている人たちは、TZX という名前を使って、以下のようなことを考えたり、意識したり、また話し合ったりできるようになります。

このように、名前(固有名詞)を獲得することで、ひとつの区別・違いがはっきりと確認できるようになる。そのことを通じて、他でもないこの集まりについての様々な意識が生まれ、それらがコミュニケーションの話題になることを通じて、その後のシステムのあり方(=コミュニケーション)を導いていくことができるようになる。名前をもつことは、システムが社会的な存在(=中断を挟んでも継続するプロセス)であることを認めることであり、他とは違う一つのシステムが生じていることを明確にする。見方を変えると、名前をもったシステムは、一つの存在として自らのあり方を反省し自覚的に変えていくことができるようになる、ともいえるでしょう。

システムの名前は、システムからの視点、システムとの関係という視点で考えることを可能にする

これまではコミュニケーションという出来事がつながりまとまるという点からシステムを論じてきました。システムが生まれてくる過程を捉えることに焦点をあてて論じてきたわけです。協働システムの段階に至って、一つのモノとしての存在(あくまでもコミュニケーション的な存在ですが)を獲得したことになりますので、ここからは、システムという一つのモノが、どのように自分自身を作り上げ維持しているかという観点から論じていくことが可能になります。この先の組織というシステムに関する議論は、そのような視点から展開することにします。

公式組織論

組織とは

協働システムと組織の差異=人の取替え可能性

通常、私たちが組織という場合、人が集まって一緒に何かしているということを言いますから、その点では、協働システムはすでに組織であるといってもかまわないようにも感じます。具体的実際的に、複数の人々が協働を行っているという点で違いはない。しかし、この講義では、あえて協働システムと組織を分けて考えます。そして、組織と協働システムの違いとして、組織は人の出入りがあっても同一のシステムであり続ける、として押さえることにします。

組織の特徴:人の出入りがあっても同じであり続ける社会的システム

これまでの議論で、3つのシステムがでてきたことになります。まず協働。これはなんらかのきっかけで二人以上の人々の間でコミュニケーションが始まり、それが継続して進行して「つながり」と「まとまり」をなすときに生まれます。シンプルなシステムです。

次に協働システム。協働が時間的な中断をへても「同じもの」として継続し、また一つのモノとして外部との関係を結ぶようになるもの(コミュニケーションに参加できるもの)をこの講義では協働システムと呼びました。協働が自分を指す名前をもつことによって、協働システムが成立します。この協働システムにおいては、誰がいっしょであるかという人格的な側面の予期と記憶が、その存続において重要なものとしてあります。システム的な記憶と予期だけでなく、参加者相互の人格的な記憶と予期が、その場での互いの行動を支えるものとして重要です。

そして新たに組織というシステムが出てきました。組織もコミュニケーションのシステムであり、様々な予期に基づく協働が行われることに違いはありません。しかし、人の出入りがあっても「同じ」であるということは、少なくとも中心的な行動においては、互いの人格的な予期や記憶をあてにする(参照する)必要がない、ということです。同じシステムに関わっている人間であるということを基本的な判断の基準として自分の行動(を支える予期)を確保できるもの、それが組織だということです。

世の中にある多くの組織、たとえば会社にせよ学校にせよ、それらは年々入る人も辞める人もいますが、同じ「組織」として存続しています。県立大学も、年々、新入生を受入れ卒業生を送り出しながら、同じ組織です。あるいは、この経営組織論という授業は、田中がいなくなったとしても他の教員が担当するかぎり、教育機関として問題なく存続していきます。このように、組織とは、誰がかかわっているのかという関与者の個々人の人格的なものをあてにする事なく存続していけるようになっているシステムです。

組織は、人格的な予期や記憶に頼らずに存続していくシステム

組織という用語の曖昧さ

組織について議論を進めて行くまえに、組織という用語、概念について確認しておきます。先ほど、組織は行為のシステムだと定義しましたが、この定義では、組織は一つの社会的システムであるということになります。しかし、実際に私たちが日常生活において関わっている「組織」は、ただ一つのシステムでしょうか?

普段の生活で私たちが意識している組織とは、コミュニケーションのシステムというよりは、一つの場のようなもので、建物があって、部屋があって、色々な人がいて、そこでは色々な人たちが色々な形でかかわり合いをもっている、そうした全部を含めて「組織」という言葉で捉えているのではないでしょうか。また、組織で重要なのがコミュニケーションのシステムだとしても、仕事のコミュニケーションもあれば、そうでない同僚や友人とのちょとした気楽な会話もあります。このように考えると、普段の私たちが意識している組織とは、コミュニケーション以外の多くのものが含まれ、コミュニケーションにも様々なものが含まれているモノです。

この講義で論じる組織とは、私たちが普段、組織として考えているものの、本質的なものを取り出したものです。組織が組織であるための根本的な条件、本質を考えていきます。実際の学校や会社に関わる活動は、本質的な組織に含まれないものも含んだ、重層的なものとなっています。会社や大学は、一つのシステムではありません。しかし、一つのシステムに関係することによって生じてくる活動が多々あり、多くのシステムが重なりあい、絡み合うものになっています。組織に関わる中でどのような活動やシステムが生じ、関係していくかは、講義を進めながらみていきます。しばらくは、本質的な組織を考えることにします。

組織に関係する活動には、組織というシステムの要素ではないものも含まれる

組織の定義

人の出入りがあっても同じシステムであるという点を端的に押さえる定義として、この講義では、組織の定義を「二人以上の人々の意識的に調整された行為のシステム」とすることにします。行為のシステムであって、人間のシステムではないのです。人間は、組織からみれば、行為の素材となる行動を提供する外部のもの、端的に言うと組織の外部環境ということになります。組織と人間の関係は、システムとシステムの関係になります。

組織:二人以上の人々の意識的に調整された行為のシステム

これまではコミュニケーションのシステムという捉え方で協働や協働システムを論じてきましたが、ここからは行為のシステムという論じ方に切り替えます。行為とコミュニケーションについては、コミュニケーション論で取り上げましたが、行為も、それが他者の選択に影響を与える限りはコミュニケーションです。また、言語によるコミュニケーションも送り手の行為として捕捉され記憶されます。厳密には、行為の場合は、誰にも影響を与えることなく一人で何かをなすことも含まれます。ですから、正確には行為ではなく相互行為というべきなのですが、通常、組織に関わる場合の行為は相互行為として他者の行為にかかわりますし、会社等では仕事という行為に焦点があたりますので、行為という概念をシステムの要素であるとして議論を進めていくことにします。

コミュニケーション≒行為 (コミュニケーション=相互行為)

もちろん、これまで論じてきた協働や協働システムも、行為のシステムであるということができます。しかし、そこで関わりをもつ個々人の人格的な予期や記憶がシステムの同一性を保証するものとしてある。組織は、そうした個人的な予期や記憶をあてにしないで同一性を確保するということになります。コミュニケーションという概念は、そこに関わる具体的な個人の存在を意識させる概念です。ですから、行為という概念を用いた方が、組織をより非人格的なモノとして見ることが可能になるように思います(田中の個人的な感覚でしかないかもしれませんが)。

システムとは

システムについては協働論のなかで論じましたが、あらためて、ここで組織の定義の中の「行為のシステム」ということをじっくり見ておきます。先ほども述べたように、行為であって人間ではないというのが一つのポイントなのですが、それ以外にも押さえておくべきことがあります。

さて、行為のシステムというと、行為が要素としてあって、それを集めてきてシステムが作られるかのように感じるかもしれませんが、そうではないのです。組織は、行為を生み出している。つまり、何らかの動作や行動が行為というコミュニケーション的な接続価値をもったもの(行為として理解するということは、それにどう反応するかを導き選択を迫るものだということ)として規定するものとして組織はあります。黒板の前で大声を張り上げ字を書きなぐるのが「授業」になり、机に座ってぼ〜っと見ているのが「受講」になる、それによって県立大学という教育のシステムが成り立っていることであると同時に、その組織が「授業」−「受講」という行為として意味付けを行っているわけです。

システムが、行動を行為=要素として意味づける

このように、行為のシステムとしての組織は、要素である行為を、諸行動を意味付けることで、「自ら」産み出しているということができます。そしてある行為として意味付けることで、その他の意味付けや連関を捨象している。皆さんが自動車で大学に来るとき、二酸化炭素を排出し化石燃料を消費している。けれども教育の組織としては、「授業を受けに来た」という行為としてそれを意味付け、授業を行うことで応じるわけです。化石燃料を消費したからといって組織論を不可にするなんてことは、通常はありえない。

システムとは、特定の区別を維持しながら継続するコミュニケーションのつながりとまとまりです。組織は、自分に関係する(=組織の要素になる)コミュニケーション=行為と、それ以外のものとを区別しながら、行為の連鎖を生み出しているものなのです。諸行動(振舞い)を特定の行為として「すくい上げ」、それに更なる行為を接続させていくという形で組織は動いているものです。何がその組織の要素であり、要素でないかを選別しながら、組織という一つのまとまりを維持するプロセスが進行していきます。これが組織は行為のシステムであるということです。何かの振舞を「行為」としてすくい上げて、次なる振舞に繋げていく、この瞬間に組織の現実性があります。システムの本質は、この振舞=出来事の連鎖の産出です。

行為のシステム:行為がプロセスとして次々に繋がり生み出されていくこと

行為のシステム化

では、行為のシステムを「作る」にはどうすればいいのでしょうか?

個々の行為(振舞)は直接にコントロールできるものではありません。先ほども延べたように、行為というモノをかき集めてきてシステムを作るといったことはできません。ですから、行為のシステム(社会的システム)の編成は、行為の次元では行われません。

協働論において、協働(コミュニケーションの継続)のために必要なのは、互いの予期の整合化であるという話をしました。つまり、人間関係とは、予期の次元で調整されるものであるということです。ですから、行為のシステムも、予期の次元で形成されます。特定の予期によって、振舞の選別や接続が可能になり、それによって行為の連関が可能になること、それが行為のシステムです。何かが起きたとき、それを関連する/関連しないという区別をつけて処理していけるには、予期が必要になります。社会的なシステムは、予期の次元で編成されるものなのです。

社会的システムは予期の次元で編成される

予期と構造

私たちが具体的に何かをするとき(振舞うとき)、必ずしも意識的でないものも含めて一定の予期(複数)をふまえて振舞います。このとき、私たちは予期によって選択の範囲(可能性)が限定された状況の中で、個々の具体的な行動をどうするのかという選択を行います。たとえば、田中は、今ここで、授業をするべきであるという予期を踏まえて(授業にならない行動はするべきではないという限定を踏まえて)、どのように話す/書くかという行動を選択しているわけです。このように、私たちの行動は、二段構えの選択になっています。予期による可能性(選択肢)の選択と、具体的な振舞の選択。予期は、具体的な選択を可能にするものです。このようなものを構造と呼ぶことができます。構造としての予期によって、その都度の具体的な振舞は「生み出されている」わけです。

予期=構造

行動は、構造の選択と、作動の選択という2段構えの選択で生まれる

先ほど、行為のシステムは予期の次元で構成されるといいましたが、それを言い換えると、特定の予期がシステムの構造になるということができます。ただし、構造はシステムではありません。システムは、あくまでも個々の行為の水準で存在します。システムが成り立つような行為の連関が生まれたとき、そのシステムを可能にする構造が作用していたと言える(みなせる)ということです。

構造=予期はシステムの要素ではない。

また、構造=予期は、あくまでも、具体的な行為を生み出す限りにおいて存在していると言えるものです。構造というと、なにか家の骨組みのような、がっしりした変わらないモノであるかのように思えますが、行為のシステムの構造は、個々の行為との繋がりにおいて見いだせるものでしかありません。もちろん、あるシステムが存在するためには、それを可能にする構造が安定的である必要はあります。前に述べたように、協働が安定化するためには予期が一般化する必要があります。ですから、少なくとも何らかのシステムを支えるようなものとしての予期は、個々具体的な状況や人や時間の経過に左右されないようなものとして「安定化」されたものである必要があります。構造としての予期は一般化されたものであるということです。この意味において、構造は、個々の出来事の生起に対して相対的ですが不変的であるとは言える。しかしながら、予期=構造は変更可能なものであり、時として変更が必要なものでありますから、あくまでも相対的な不変性であることには注意が必要でしょう。

構造は一般化・安定化された予期

さらに、具体的な振舞を可能にする予期は複数あります。つまり、ある振舞がなされたとき、それをどのような行為であるかとみなすかによって複数のシステムが関与しており、複数の構造が作用しているということです。

構造は一つではない

履歴から明文化された予期へ

協働や協働システムにおいては、互いの関係の積み重ねの中で、人格的予期、役割的予期、関係的予期、それにその他の状況の予期という4つの予期が、行動する際には関わっていました。では、これを「人の出入りがあっても同一な行為のシステム」にするには、予期がどのようになれば良いのでしょうか?

人の出入りがあるということは、当然のことながら、協働の相手が変わるということですから、すぐに思いつくように、人格的予期に依存しないようになることが必要ということになります。

ただし、これは人格的な予期を廃棄するとか消去することではありません。人間が具体的に協働する際には、どんなに萌芽的なものであれ人格的な予期は発生しますし、それを手掛かりに目の前の具体的な個人との行動の調整を行う必要があります。ですから、お互いに人格的に行動するということは必要条件となります。人格的な予期への依存を下げるというのは、協働の中心的な予期において人格的な予期は不要、ということです。その代わりに、役割的な予期が重要になるということはすぐに判ると思います。相手がどんな人間かではなく、相手がどんな役割を担っているのかということの方を軸にして、相手との最低限の協働が可能になるようになれば、システムに関わる人の出入りも可能になります。

それでは、役割的予期と関係的予期を中心的な予期とすればよいのかというと、そう簡単ではありません。というのも、協働や協働システムの予期は、基本的に、過去(履歴)の共有によって生まれてきたものであり、履歴が保証するものになっているからです。つまり、「同じ体験をしてきている」(受けとり方や解釈は個別に異なるにせよ)ということが、協働(システム)を支えています。このままでは新たな人は関わりを持てないということになります。新しい人というのは、当然のことながら、過去を共有していない人だからです。その人に過去を共有せよとか学べというのは、絶対に不可能ではないにせよ、かなり無理なことであるのは間違いない。もちろん、神話とか歴史の物語のような形に凝縮された履歴を学ぶことで、新参者が過去(履歴)を学ぶことはできるわけですが、それはあくまでも語られた過去であり、過去の体験そのものではない。

しかしながら、今述べた、「神話や歴史の物語を学ぶ」ということに、履歴の共有の代替策が示されています。つまり、予期の基盤となるもののを明文化・定式化し、それを軸に互いに予期と行動を調整していくということです。体験するのではなく、学ぶものにしておく、と言ってもいいかもしれません。実際には、神話のような物語ではなく、会則、規則、ルールといったものを明確に定めておくということになります。特定の予期を明確化し、それを受入れるようにするということです。

このように、組織という「人の出入りがあっても同一な行為のシステム」を成立させるためには、協働や協働システムの存立を支えている履歴(歴史、記憶)を、明文化し学びえるものした予期に取り替える必要がある。こうすることによって、過去の体験を共有していないものが新たに加わることが可能になるわけです。

履歴(過去の共有)から明文化された予期への取替えが組織を可能にする

公式組織

予期の公式化とメンバーシップ

人の出入りがあっても同じものであり続けるという組織が成り立つためには、共有された記憶(歴史、履歴)への依存部分を、明文化された規則(規範)に置きかえることが必要であることが確認されました。組織とは、知らない人との間で即座に協働が可能になるものです。互いに承認し調整の軸となる予期が、過去の体験の共有からではなく、新参者にでも理解し受容できるものになっていることで、人が入れ替わっても、互いに協働が可能になるわけです。

通常は、組織のメンバーであることを希望するということでもって、この明文化された予期を受入れたものとみなします。組織は人の出入りがあるということは、緩やかなものであるにせよ、その組織に関わる人とそうでない人の区別を付けることが必要ですから、メンバーというものがはっきりします。そしてメンバーであることは、メンバーであることを望んでいる人であるということですから、その人は、通常は、組織の中心的な予期(たとえば目的)を了解し受容しているとみなしうることになります。

メンバーは明文化された予期を受け入れている

しかしながら、本当に中心的な予期を受入れているのかどうか?という問いを立てると、ここでも内面に踏み込まないかぎり本当のことは分からないという問題にぶつかります。この点を解決するのが公式組織というものです。

公式組織とは、その組織の中心的な予期を明文化し、それの承認をメンバーに加わるための条件とする、という組織です。予期をメンバーであるための条件とする(予期の承認と受容をメンバーの資格とする)ことを予期の公式化と呼びます。公式化された予期によってメンバーを定めている組織のことを公式組織と呼びます。

明文化された中心的予期の受容をメンバーの条件にする

予期の公式化:予期がメンバー資格と結びつく

公式組織:公式化された予期でメンバーを定めて編成される組織

この仕組みのポイントは、メンバーであるということは、当然のことながら、中心的な予期やルールを受入れているとみなせるということ、つまりそのようなものとして扱って良い、ということにあります。本人がどのように考えていようと、メンバーである以上は、一定の予期にしたがって行動するはずとして扱える。

このように、公式組織では、互いの内面に立ち入ることなく、メンバーであるという点だけを基準にして最低限の行動の調整が可能になるということです。そして、もし中心的な予期に反する行動をとったり、ルールに従わないということがあった場合には、成員資格に背いたとしてメンバーから排除されることになります。それによって、メンバーということと、中心的な予期に従うということの繋がりが必ず保たれるようになっています。

メンバーであることをもって公式的予期に従うことをあてにできる

このように、特定の予期を公式のものとして、その公式的な予期(と諸規則)の承認・受容をメンバーであるための条件とするという仕組みをもっている組織のことを公式組織といいます。私たちの周りにあるほとんどの組織は、公式組織になっています。

メンバーという役割(成員役割)

メンバーというものについて、少し考えてみたいと思います。

まず当たり前のことですが、メンバーであるということ自体は、何らの具体的な役割の担い手であることを意味しません。メンバーであることは、組織において具体的な役割を引き受ける前提です。そのことは、言い方を変えると、メンバーであることによって要求されることを引き受けることが、どんな具体的な役割を担う場合でも前提となるということです。このように、何かのメンバーであるということは、メンバーという一種の役割のレベルにおいて、皆が同質のものとして扱われるということになります。

同質として扱われるということは、個人的なものを消去する(無いことにする)ということではありません。メンバーとして関わりを持つべき組織上の役割(公式的な事柄)と、個人的な事柄が区別されるということです。個人的な人間関係と、仕事上の関係が明確に区別されるということです。しかし、一方で、たとえば規則に違反するなど、メンバーとしての資格が問題になったときには、その違反を行った個人の人間的な側面が問題として取り上げられます(違反の動機は個人的なもの)。つまり、普段は社会的な行為と、個人的な行為は分離されるのですが、限界的な状況においては、この区別は取り払われます。

個人と公式的役割は分離的に接合される

いかなる理由であれ、メンバーになることを希望し、公式的な予期などを承認した時点で、メンバーであることの背後にある個人的な事情は「背景にしまい込まれ」、互いにメンバーであるということを手掛かりとして相互作用を行えるようになっているのです。

もちろん、具体的な行為の場面においては、目の前にいる個人との関わりが生じ、人間関係が生まれてきますが、それにしたって、あくまでも互いにメンバーであることを背景として成り立ってくるものになります。このように、公式組織においては、あらゆる社会的な関係が、メンバーであるということを土台として築かれるものになります。

メンバーであることを土台に社会的関係は築かれる

加入と脱退

当たり前のことですが、人は、ある組織のメンバーであるかメンバーでないかのどちらかになります。また、少なくとも公式組織においては、自然とメンバーになってしまうということはありません。何らかの決意でもって自らメンバーであることを希望し、メンバーのなり、そして事情によってメンバーでなくなる。このように、メンバーというものは、内側と外側の区別がはっきりしているものです。人の次元で境界が作られる。

このことは、個人にとっては、メンバーという役割が、組織への加入と脱退を意識させるものだということになります。

加入と脱退については、それを意識することで、組織を対象化し、さらには外部を意識するという作用があります。人間は日常的な連続性が途切れることになると、それまで自明のものとして何も意識していなかったものについての意識が高まります。卒業式前に友だちや学校生活が妙に愛おしくなってきたりしたことはないでしょうか?。難病で恋人が死ぬ恋愛が燃え上がるというドラマでよくあるパターンも、そこには「終わりへの意識」からくる意識の濃密化があると言えるでしょう。このように、組織というものをあらためて意識し考える契機として、加入・脱退というものが関わってくるようにもなります。

加入・脱退という可能性があるということで、組織を外側の視点から一つのシステムとしてとらえ、そのシステムと自分との関係を考え、反省することが可能になります。

加入・脱退の可能性が、外からの視点でシステムを捉えて自分との関わりを考えることを促す

成員資格と報酬

人が公式組織に参加する動機は色々なものが考えられますが、基本的には、公式組織のメンバーに成ることによって、なんらかの報酬を得ることでしょう。メンバーになり、メンバーであることによって、何らかの利益を得られるからこそ、人は公式組織に参加する。そして、公式組織においては、メンバーは、その組織に関わることの利益を、基本的には成員であることから得ることになります。

これは君たちがアルバイトをしたときのバイト代が、たとえば1時間に800円という時間給で払われることで考えてもらえば分かりやすいでしょう。何をどれだけしたかではなく、アルバイト人員として1時間働いたということにお金が支払われる。このことは、アルバイト人員というメンバーであることがベースになって支払いを受けているわけです。

言い方を変えると、メンバーであることの見返りを得るためには、メンバーであり続けるしかないわけで、成員資格に反しないように行動するしかないわけです。メンバーというものは、その報酬(利益)がメンバーであることにリンクされることによって、自ずと成員資格に反しないように行動する(行動せざるを得ない)ようになっています。また、何か問題が起きたときには、その出来事そのものだけでなく、常に、そのような問題を起こした人の成員資格の問題へとリンクされるようになっていて、場合によっては辞めさせられる。つまり、常に脱退の可能性がある(辞めさせられる可能性がある)ことが、メンバーにとってある種の圧力として存在し続けている状況ということになります。

報酬はメンバーであることにリンクされている

辞めさせられる可能性があることが圧力になる

公式組織と労働市場

公式組織の側からすれば、問題を起こしたメンバーを辞めさせられるためには、替わりのメンバーを見つけられることが条件となります。つまり、メンバーを実際に取り替えることが可能でなければなりません。

経済活動を行う組織、つまり会社、企業にとっては、メンバーの取り替えが可能であるためには、労働市場から必要な人間をいつでも調達可能であるという経済体制が必要になります。多くの人間が労働者として雇用されて働くという社会になってこそ公式組織はまともに機能しうるのです。その意味で、近代の資本制(商品経済、貨幣経済)の成立によって公式組織が社会の主要な協働形態になったとも言えるでしょう。

メンバー選考と取替え可能性

このように、公式組織ではメンバーの決定が重要な決定になるのですが、加入と脱退の決定でメンバーを調整できるということが、加入の決定を変化させるということがおきます。

加入希望者がメンバーとして相応しいかどうか、成員資格を満たしうるかどうか、これを判定するのですが、厳密に考えるならば、この時点で加入希望者の人格的な側面にまで踏み込む査定を行い判定を適確に行うのが当然とも言えます。しかし、公式組織においては、この判定が一定の二次的な指標による判定に置きかえることが可能になるのです。たとえば、試験の点数だとかそういうもので判定する。もちろん、まったくのデタラメで判定するのではなく、それなりに関連はあるだろうと考えられる指標によって判定を行うことが可能になります。

二次的指標によるメンバー選考が可能になる

なぜこのような二次的な指標による選別が使えるかというと、メンバーに加えてみて不都合があればいつでも排除できる(辞めさせられる)ということがあるからです。メンバーが取り替え可能だからこそ、そこそこ相応しそうな人間であればとりあえずメンバーにしてみるという手段が使えるのです。もちろん、メンバーの交替にはコストがかかりますから、選別にかけるコストとの比較で、じっくり選別する方がいいのか、緩く選別してどんどん入れ替えていくのがいいのかはケースバイケースですが。

メンバーと役割

公式組織では、メンバーであることを前提に、個々具体的な役割を引き受けていくことになります。メンバーという役割(成員役割)の上に個別の役割が乗せられるわけです。このことは、どのような役割を担うにせよ、メンバーとして必ず担うべきことがある(それが前提になっている)ということです。メンバーである以上は、組織の目的を承認し、決定された事項は承認し、上下関係を受け入れ、公式的な規則などを尊重することが求められるし、そのように行動することが求められることになります。このような基本的な態度(行動様式)を守ることが、メンバーとして求められます。そのことは、いかなる個別の役割を担うことになっても、かならず守るべき義務のようなものとして課せられることになります。つまり、メンバーという役割による枠組みの中で、個別の役割を引き受けて担うことになっています。

見かたをかえるならば、成員資格によって全体的な規制を行いつつ、個別の具体的な状況には個別の役割を割り当てて対応するわけですから、二層の役割になっていることが、コントロールと柔軟性を併せ持ったものを可能にしているともいえます。

公式組織では成員役割の上に個別の役割が載る二層構造

非公式的役割、非公式的状況

組織に関わって人々と協働する際には、そこに具体的な個人と個人の交流があるわけですから、メンバーであること(成員役割)や組織によって割り当てられた個別の役割の他に、人間関係の中で生まれてくる役割も生じてきます。こうした対人関係の中で個人が担う役割は、公式的な予期・役割とは無関係ですから、非公式的役割と呼びます。たとえば、話合いの時に調停役を買って出るとか、話をまとめるのがうまいとか、そういうものです。こうした非公式的な役割は、公式的な役割による協働をしていくうえ重要な補完的機能を果たします。後に見るように、非公式的な役割があることで、公式的な役割をうまくこなせるということや、公式的には割り当てられないことを非公式に担っていくといったことが、組織で協働が行われていくためには必要になります。

公式組織には、非公式的役割、非公式的状況が生まれる

このように、メンバーは非公式的な役割を担うことにもなるのですが、それは公式的に規定されたものではありません(だから「非」公式的なのです)。どのような非公式的な役割を担うことになるのかは、個々人の対人行動の技能(社交性)や特性などによる部分が多いでしょう。人格的なものと言ってもよいかもしれません。しかし、非公式的役割は、あくまでもメンバーとしての接触・協働の中で生まれてくるものです。メンバーであるからこそ、他のメンバーとの間に、自分の非公式的な役割が生まれてくるのですし、そうした非公式的な役割を引き受けるのもメンバーだからこそ、ということです。その意味で、成員役割と無関係なものではありません。

非公式的役割もメンバーであることの上に載ってくる

非公式的役割が生まれるのは、どのように行動しようとメンバーであることに反しない(つまり公式的な予期の違反問題が生じない)ような状況が、組織にかかわる活動の際には生じるからです。つまり、非公式的な状況というものが生じる。会議での発言とエレベーターに乗り合わせた際の会話は違う。こうした状況の違いに合わせて行動できることが公式組織に関わる際には求められることになります。

観察のバイアス

先ほど、公式組織ではメンバーは公式的な予期に従っているとみなされると言いましたが、このことは、メンバー同士は互いの行動を公式的予期に従っているとみなして対応するということでもあります。人の行動は様々な行為として意味付けることが可能ですし、その行動の動機も色々な予想が可能です。公式組織においては、メンバーの行動は、公式予期に従った行動であるということに焦点が当てられて解釈され、受けとられるようになっています。公式的予期への反応として行動が解釈され対応される。それ以外の側面や意味付けは、背景に追いやられることになります。

公式的予期に反するような行動をとればメンバーを辞めさせられるという圧力のもとでは、互いに、公式的予期にしたがっているはずだ、そう見なせるはずだ、という先入観のようなものが強く働くのです。行動の観察にバイアスがかかる。

もちろん、メンバーとしてかかわり合っている以上、公式的予期に従っている/方向付けられている(少なくとも本人はそう思っている)のが普通でしょうが、疑わしいようなときでも、まずは公式的予期に従っているはずだという観点で考えようとする傾向が強くなります。

メンバーは公式的予期に従っているとみなす先入観が働く

公式組織おける予期の一般化

協働を論じた際に、協働の安定化のためには予期の一般化が必要であり、その一般化は時間的・内容的・社会的の3つの方向でなされるということを確認しました。公式組織においても、当然のことながら予期の一般化が必要になるわけですが、公式組織というシステムの形態が可能にする一般化について確認しておきます。

●時間的一般化

まず時間的一般化ですが、行動期待は成員役割によってシステムの存続に結びつけられ、それによって公式的な持続的妥当を得ることになります。つまり予期が外れるような事実が生じたとしても、システムが存続する限り妥当し続けるようになります。メンバーになるためには承認しなければならないということによって、メンバーを決定したシステムが存続していることが、その妥当性を保証することになるのです。関与している人々の合意や意識には無関係になる、つまり、予期が規範化されます。このように、公式化によって、時間の経過のなかで予期が安定化します。

予期の公式化によって規範になる

ただし、このことは、予期が変わらないということ(永遠に妥当し続ける)ということではありません。時間の経過に伴って状況が変化したからといってそれだけで妥当性が揺らぐわけではないという意味にすぎません。状況が変化し、予期があまりにも状況との間に不都合を生じるようになったときには、予期の方を変更しなければシステムは存続できません。

しかし、公式組織においては、予期の変更は、決定によって行われるものとなります。つまり、誰かが勝手に変更してしまうとか、自然と変えられていくというものではあり得ません。そのようなものになったら、人の取替え可能性を保証することができなくなります。ですから、成員資格と特定の期待との結びつきを変更することを可能にするのは公式的な決定だけということになります。

決定というのも色々な意味をもつ概念ですが、ここでは特定の選択が明示的に特定の時点でなされ、その選択結果をメンバーは承認し合意し、以後の行動の前提とすること、としておきます。いつ、どのように決まったか誰にでも分かるものでなければならないわけです。通常は意思決定という言葉を用いることが多いのですが、この講義では、選択した本人の意識を根拠としない場合も含めるために、決定という言葉を用いることにします。すべての公式的な予期に関連すること(規則等)は、すべて決定によってのみ変更されます。決定されたことで成り立っているわけです。

予期の公式化も決定によるわけですし、メンバーも決定によって決められるわけですから、公式組織とは、決定によって成り立っているシステムであると言うことができます。

また、各人は、公式的な予期を受け容れるという決定によってメンバーになっており、さらに組織において行うすべての公式的な活動は、予期に従うか否かという観点で捉えることができますから、予期に従うという決定をしたか否かという選択=決定であることになります。つまり、個々の行動は、何をするのかという選択であると同時に、公式的な規則に従うのか否かという選択であるともみなせます。だからこそ、もし行為が公式的な予期に反するとみなされると、すぐさま、成員資格の問題にリンクされる可能性があるわけです。このように考えると、公式組織では、すべてが決定という選択の連鎖で成り立っていると言うことができます。

公式的予期は決定によって変更される

公式組織は決定によって成り立つシステムである

このように、公式的な予期は、決定によってのみ変更できるものとして安定化するのですが、このことは、見方を変えると、公式的な予期は環境の変化に対して遅れを伴うということでもあります。状況がどのように変化しようとも、変更の決定がなされない限りは、予期は変わらない。また、環境のもたらす問題が、なんらかの決定によって対処できるものでない限りは対処できない。この意味において、公式組織の安定性とは、変わりにくさという硬直性でもあるということです(ただし、この硬直性は、あくまでも公式的な予期の次元での話であって、個々具体的な行動に関わるすべての予期のことではない)。

公式的予期は環境の変化に遅れをとる

●内容的一般化

予期が状況から独立したものになることが内容的一般化でしたが、これについては、先ほど論じた、メンバーであるということが予期の内容的一般化を担うことになります。メンバーであるという次元において、個人的な側面は分離され、関与する人々の同質性と透明性が確保されるからです。メンバーが行うことという次元では、それがどのような状況で行われることであっても、メンバーの行為として予期できるわけです。

先ほどの言い方をすれば、メンバーというものがある種の役割として認められ、受け入れられているということです。

内容的一般化は成員役割が認められること

このようにメンバーであることと結びつけられた公式的な予期は、その予期によって指示される行動が矛盾を孕んだものであってはなりません。ある公式的な予期に従うことが、別の公式的な予期に反したり、勝手に個人的な問題とされてしまうのであれば、システムは存続できません。ですから、公式的に保証される予期(規則など)は、整合性をもった一貫性をもったものでなくてはなりません。

このことは、組織において具体的な行為を行う際にかかわる予期がすべて無矛盾でなければならないということではありません。後ほど論じますが、変化する状況においてシステムが存続していくためには、システムは矛盾する行為や非合法的な行為を時として必要とします。無矛盾であることが必要なのは、あくまでも公式的な予期です。

公式組織では成員役割の上に個別の役割が載せられていくのですが、個々の具体的役割は、それを担っている個人とは切り離して、独立したものとして扱われるます。一人の同じ人が複数の役割を担っている場合でも、それぞれの役割は結びつけられない。ある役割を担う時には、同じ人が担っている別の役割は無関連なものとなっていることがあります。

言い方を変えると、役割(役割に基づく行動)が非人格化されると言うこともできます。あるいは、行為が役割的側面と自己表現の二面のものとして捉えられ、役割的行為は非人格的なものとして了解されることになるわけです。バーナードは、この二重性を組織人格と個人人格としました(人格という言葉の使い方がこの講義とは異なります)。

役割の分離・非人格化がなされる

また、その人が公式組織とは無関係なところで担っている役割も、公式組織の中ではまったく配慮されないことになります。このように、公式組織では、個人と役割、あるいは個人が担っている複数の役割が、それぞれ分離されて扱われることになります。役割分離がしっかりなされていることで、それぞれの状況においてメンバーとしてある特定の役割を担っていることだけを手がかりにできる。これが内容的一般化です。ただし、このことは、一人の個人が矛盾したり対立する複数の役割を担ってしまうという問題を起こす可能性があります。

●社会的一般化

相手の内面に踏み込まずに予期が妥当することが社会的一般化でしたが、それもまた、メンバーというものが可能にします。メンバーになっているということは、公式的な予期を承認し合意したということですから、どんな相手であっても、メンバーであるということによって公式的な予期が通用することを当然のことにできるわけです。

このことが成り立つためには、メンバーであることが「可視化」される必要があります。つまり、互いにメンバーとして公式的な予期に従っていることが「分かる」必要があります。そのために、様々な装置が用いられます(制服やカード、あるいは場所)。

メンバーシップの可視化により一般化

また、メンバーは互いに公式的なものに合意しているものとして行動することが求められます。たとえ自分が関与しないところで定められたものであっても(上層部)、そこで下された決定には、自分も合意しているものとして受け容れ行動する必要があります。メンバーであるとは、そのように行動することを了承したものとして扱われるということです。ですから、公式的な決定は、組織全体が合意したものとみなせるということになるのです(もちろん、決定が公式的になされたものであることを確実にする手続が必要になりますが)。本来は、合意というのは、個々人の判断の問題です。しかし、公式組織においては、個々人の考えなどに一切踏み込むことなく、全員が合意しているものとみなすという擬制が通用することになります。

合意しているという擬制が通用する

公式化による一般化の意義

このように、公式化によって、予期というものを時間的、内容的、社会的の三つの方向で一般化することが可能になります。それによって予期は高度の確実性と信頼性を備えることになるわけです

予期が高度の確実性と信頼性を備えるようになると、態度の持続性や内容上の意味連関や合意といった、本来行為の基礎となるはずのものを、一定の決定を下されたものによって、代替することが可能になるわけです。これはシステム内のやり取りに関して、意識の負担を軽減し、状況を単純化するメカニズムです。しかしこの予期の保障一般化がもたらす最大のものは、社会的システムを一定の境界内で環境に抗して維持するということなのです。

公式組織と行為システム(秩序の多重性)

公式組織の様々な面については、これからの講義の中で論じていくことにしますが、最後に重要な点を確認しておきます。それは、公式組織のメンバーとして行動する場合に関係するすべての予期が公式的な予期なのではない、ということです。つまり、公式的な予期というのは、あくまでもその場での協働を調整する主要な予期だけであって、具体的な行動=協働の場面では、公式化されてない様々な予期が関わってくるということです。具体的な協働を可能にする秩序化作用は様々なものが担っているのであって、公式組織だけが担っているわけではない。多重的な秩序化の作用が交錯する中に、公式組織が成り立っているわけです。

必要な予期をすべて公式化して成員資格で縛る組織など存在しえません。メンバーとして特定の役割を引き受けて協働する場合でも、実際の協働においては、具体的な個人の人格的な側面などは当然のことながら関わります。先の講義で述べたように、どのような場面だっても、行為とはかならず自己表現を含むものですから、当然のことながらメンバーとして振舞いながら自己をどう表現し他者とすり合わせていくかといった問題は生じることになります。公式組織とは、すべての予期や行動を規則で縛りつけて人間を機械の部品のように扱う組織などではない、ということは確認しておくことにします。現場で起こっているのは、常に、対人行為(相互行為)です。