チューリング・テスト再考
Reconsidering Turing Test

福井県立大学・経済学部 田中求之 (Motoyuki Tanaka)

このページについて

個人的に、チューリング・テスト Turing Test というもの、あるいはアラン・チューリング(Alan Turing)という人が気になっていたので、それならばと、チューリングがチューリング・テストについて述べた有名な論文を、自分なりに読んでみようかと始めた作業の記録である。再考としたのは、一般に言われているものが本当にそうなのか、改めて考えてみたいという程度のことで、チューリングの論文をちゃんと読むのは初めてである。研究ノートであって、自分自身が、その時々に感じたり考えたことをそのまま書き込んであるので、全体としての理論的・論理的整合性には欠けている部分がある。

ここで取り上げた論文は、チューリング・テストに関して述べたもはや古典とも言える論文である "Computing Machinery and Intelligence" と、Turing Digital Archive で読むことができる手稿のうちから、計算機と知性(思考)の問題に関連していると思われる "Intelligent Machinery, A Heretical Theory" "Can Digital Computer Think?"である。この3本の論文によって、チューリングがデジタル計算機(computer にはすべて計算機という訳語をあてることにした)が持っている可能性や、それが知性(脳)をシミュレートする可能性、あるいは、そこから照射される人間の知性についての彼の考えは明らかになる。

引用文は、すべて田中による私訳である。すでに日本語訳が存在したり、断片的に訳されたものは存在するが、ここでは、自分なりの読解を行うことが目的であるので、あえて、自分で訳すことにしてある。訳文の誤訳等のミスは、すべて田中が責任を負うものである。ただし、解釈にそった文章表現にするため、あえて原文から離れた意訳にしてある文章もある。Turing Digital Archive に収録されている手稿に関しては、手書きで書き込まれた修正を読み取れない部分がある(判別できない部分がある)ことなどもあって、超訳(意訳)に切り替えてあるが、 "Computing Machinery and Intelligence" については、なるべく原文そのままに訳すように努めてある。

現在のこのページの状況は、田中が「田中求之的日々の雑感」に「チューリング・テストに関する覚書」として断続的に書き込んでいたものが元になっている。

チューリングの論文については、このページに記してある読解作業の結果を元にして異本「計算する機械と知性について」という意訳を作成し、公開してある。

作業履歴

2003年5月2日これまで「チューリングテスト」という表記を用いてきたが、これを「チューリング・テスト」に改めた。
2003年8月10日「計算する機械と知性について」の完成・公開による文章の修正
"Can Digital Computer Think?" の私訳をすべて折り込むようにした
2003年8月11日新山氏の直訳のリンクを修正
2004年3月1日Turing Test を「チューリングテスト」と表記ことも多いようであるし、検索サイトでは中黒の有無を無視した検索はしないようなので、「チューリングテスト」という表記を用いたページ(「チューリングテスト再考」)を作成し、登録した。表記を変えた以外は、このページとまったく同じである。

資料

今回の読解に用いたチューリングの論文は、すべてネット上で参照することができる。

まず、"Computing Machinery and Intelligence" であるが、原文は、以下の2つのページで読むことができる。

後者のページの方が、資料としては良い(原文掲載時のページ数などもある)が、このページの配色などのセンスは、到底、「読むこと」を許容するものとは思えないので、テキスト部分だけを抽出するか、HTML をダウンロードしておいてから、スタイルシートの色の指定の部分を書き換えて自分が読みやすいものにする(私はこの方法を用いた)のがよいだろう。

この論文は、新山祐介氏による日本語訳が「計算する機械と知性」として公開されている。解釈の違いをかなり感じるので、今回は、この翻訳自体を読解には用いていない。先に述べたように、チューリングの論文からの引用は、すべて私が訳したものである。しかし、訳語などは、この翻訳に合わせているものも多い(できるかぎり合わせようとした)。

また、チューリングに関する情報が集められたホームページとしては、以下の Alan Turing Home page が一番良いとは思うが、このページのセンスも、ちょっとかんべんしてくれよぁと個人的には思う。チューリングに関する伝記(確か翻訳が進んでいるらしいが)の作者が作成しているページである。

The Alan Turing Home Page (Maintained by Andrew Hodges)

チューリングの手稿は、以下のサイトで読むことができる。ただし、変色したタイプ原稿のスキャン画像の形で掲載されているので、実際に読み解くためには、プリント用の画像をダウンロードして、画像処理ソフトで加工して印刷したほうがよいだろう(ちなみに、私は、Photoshop でグレースケール変換とレベル調整を行ったものを印刷して読んでいる)。

Turing Digital Archive

アーカイブに残されている手稿から、今回読んでいくのは、以下の2つである。

1つ目は 'Intelligent machinery, a heretical theory' (分類番号は AMT/B/4)で、マンチェスターで行った講演(a lecture given to '51 Society' at Manchester)の原稿である。1951 年のもので、2つのバージョンが一緒になっている。

2つ目は 'Can digital computers think?' と題されたもので、BBS の放送の原稿(a talk broadcast on BBC Third Programme)である。1951年5月15日の放送のもののようだ(分類番号は AMT/B/5)。

Index

  1. Introduction
  2. Reading "Computing Machinery and Intelligence"
  3. Reading "Intelligent Machinery, A Heretical Theory"
  4. Reading "Can Digital Computer Think?"
  5. Commentary on Turing Test

Introduction

人々に流布してしまった説と、オリジナルの文章(文献)に書かれていた内容が異なってしまうということは、決して珍しいことではない。というか、社会的な影響力を持った説が登場した場合、常に、原典に帰れというある種の原理主義(?)のような動きは常に起こっている。マルクス主義とマルクスのテクスト、ダーウィン主義と『種の起源』、フロイトと精神分析、等々。

こうしたことは、人間のコミュニケーションにおいては、必然的ともいえる現象である。差異が孕まれているものを、「何かを伝えているもの」という形でとらえようとする限りは、常に、「それではなかったもの」が残るのは当たり前のことだ。古典が(テクストが)常に未来の読みへと開かれてあるというのは、そういうことである。

そうした差異を孕んだもの(ものといっていいのかどうか?)だからこそ、新たな読みを誘発して止まないし、引き込まれてしまうわけだけど。

そうした、世間一般(というか、限られた領域内の話ではあるんだけど)に流布している説と、オリジナルの文書に書かれている内容とが食い違っている(と少なくもと思える)ものの一つに、チューリング・テストがある。

チューリング・テストというのは、イギリスの数学者のアラン・チューリング(Alan Turing)が提唱したコンピュータに知能があるかどうかを判定するための方法の一つである(とされている)。人工知能の分野においては、行動主義あるいは工学的アプローチによる「知能」の判定方法とされている。

もともとは、チューリングが 1950 年に発表した論文 "Computing Machinery and Intelligence"の中で提唱しているものなのであるが、現在は、その論文に書かれている内容とはやや異なった形で定式化されたものが受け入れられている。というか、それが「異なっている」ということにこだわってみたいわけである。

まず、一般的に言われているチューリング・テストの内容について確認しておこう。人工知能に関係するさまざまな文献において取り上げられているものであり、個々に微妙に異なっていたりするのだが、ここでは、例として人工知能学会のホームページに書かれていたものを見てみよう。これは「人工知能の話題」の中の「チューリング・テストと中国語の部屋」というページに書かれているものである。

ページにはイラスト入りで説明が書かれているのだが、ここでは、文章の部分だけを引用しておく。なお、読みやすいように、改行を追加してある。

1950年に数学者チューリングはチューリング・テストという、知能があることに関する実験を提唱しました。
それには、2台のディスプレイの前にテストをする人がいます。
1台のディスプレイには隠れている別の人が、もう1台は人間をまねるように作られたコンピュータが受け答えした結果がそれぞれ出てきます。
テストする人はどんな質問をしてもよいとします。
(省略)
こうして、テストする人がどちらが人間でどちらがコンピュータか分からなければ、このコンピュータには知能があるとするのがチューリング・テストです。

…この文章自体が不明瞭さをはらんでいる(だからこそ人間が書いたものだってことか?)のだが、ようするに、テストを行う人間が、コンピュータ端末で2人の相手と会話を行い(チャットを行うというのがいちばん分かりやすいだろう)、相手のどちらがコンピュータか区別ができなければ(判別できなければ)、その会話に加わったコンピュータには知能があると言ってもよいのではないか、ということだ。

つまり、「知能とは何か」という定義を行ってそれをコンピュータが満たした場合に知能を認めるというのではなく、「知能があるもののように振る舞える」ということでコンピュータに知能を認める、それがチューリング・テストによる知能の判定ということだ。ここには、知能というのもを、内在する属性としての能力ととらえるのではなく、コミュニケーションにおける振る舞い方(関係性)からとらえようとする考え方が込められている。そして、そうした考え方に対する反論として有名なのが、先程引用したページのタイトルにも出てきた「中国語の部屋」という反論(言語学者・哲学者のサールが唱えたもの)である。このサールの論文については後で詳しく検討することにしたい。

さて、私がここでこだわってみたいのは、チューリングがオリジナルの論文で述べた内容は、はたしていわゆるチューリング・テストなのか、ということである。「チューリング・テストは知能の判定につかえるのか」ということではない。この問いに答えるためには「知能とは何か」という哲学的な問題に踏み込むことになるわけだが(だからこそ論争の種になるわけだが)、そのこと自体を論じたいのではない。

"Computing Machinery and Intelligence"でチューリングが述べたことは何だったのか、彼自身は知能についてどう考えていたのか、といった、チューリング自身の考えを確認しておきたいと思うのである。

チューリング・テストという名称自体、チューリングが自ら命名したものではなく、後に彼の論文の中で触れられているテストに言及するために付けられたものである。そういったことも含めて、チューリングが論文の中で何を語っているのかということを確認する作業から、まず始めよう。

Reading "Computing Machinery and Intelligence"

The Imitation Game

"Computing Machinery and Intelligence"(以下CMIと略記する)において、チューリングが述べていることを確認していくことにする。

「機械は考えることができるか?」という問い、これが CMI でチューリングが考察する問いである。そして、チューリングは、「機械」、「考える」といった言葉の定義に踏み込むことは避け、この問いを「模倣ゲーム」(imitation game)によって表し考察しようとする。

しかし、チューリングが提案している模倣ゲームとは、そのゲーム自体はコンピュータと人間の間のゲーム(模倣ゲームといけば、たぶん、多くの人は、コンピュータに人間を模倣させるゲームのことだ、と思うに違いないが)ではない。チューリングが CMI で模倣ゲームと呼ぶものは、まずは人間どうしで行われるゲームなのである。

(「機械は考えることはできるか」という)問いの新しい定式は、我々が「模倣ゲーム」と呼ぶゲームの枠組みを使って記述することができる。そのゲームは、男性(A)、女性(B)、そして性別はどちらでもよい質問者(C)の3名によって行われる。質問者は、他の2人とは別の部屋にいるようにする。質問者にとって、このゲームの目的は、他の2人のうち、どちらが男性で、どちらが女性かを判定するというものである。

このゲームでの A の目的は、質問者である C に誤った判定(wrong identification)をさせることである。

声のトーンで質問者が答えを分かってしまうことがないように、A,B の二人からの返答は紙に書くようにするべきだ。タイプライターで印字するようにすればなおよい。理想的な実験環境(arrangement)は、2つの部屋(=質問者がいる部屋と、A,B の2人がいる部屋)の間ではテレタイプで通信を行うようにすることだ。

3人目のプレイヤー(B)のこのゲームでの目的は、質問者を助けることである。

以上のような、3人で行われる性別当てゲームが模倣ゲームなのである。書かれた文字だけによる対話によって、相手の性別を判定する(男女のペアであることは質問者に分かっているので、正確には、性別判定とは言えないのだが)、そういうゲームである。男性側が騙す役を受け持ち、女性側が助ける役を受け持つ。とはいえ、文字だけによる対話であるから、言葉遣いや文体あるいは内容が女性的な方を手がかりにすれば答えがわかるというほど単純なものではない(ちょうど、芸達者なネットオカマを相手にしている場合のように)。相手の返答が女性的であることと、「女性的であるふりをしている」こととの判別が質問者には要求される。男性側には、質問者を騙すという役割上、女性のふりをする=模倣することが求められることになるわけだ。

このような人間3名によって行われる「模倣ゲーム」というものを提示したのちに、チューリングは、「機械は考えることができるか?」という問いを、以下のように定式化しなおすのである。

ここで我々は次のように問いを立ててみよう。「このゲームにおいて、機械が A の役割を受け持ったら、何が起こるだろうか?」 A を機械に演じさせるというこの形で行ったとき、質問者は、人間の男性と女性とによってゲームを行うときと同じ程度には判断を間違うだろうか? これらの問いが、我々のもともとの問い「機械は考えることができるか?」に取って代わるものとなる。

つまり、チューリングは、性別判定ゲームの男性側(騙し役)を機械に置き換えたときに、人間がプレイするのと同じ程度に質問者を騙せるものかどうかで、「機械は考える」という問題を考察しようというわけである。言い換えるならば、人間の男性と同じ程度に機械が質問者を騙すことができるなら、その時は、その機械は「考えている」と言ってもよい、というわけである。

以上が、CMI の冒頭部分の The Imitation Game でチューリングが定式化した、模倣ゲームで機械が考えることができるかどうか判定しようということである。

さて、ここで一つの疑問が生じる。それは、なぜ、チューリングは、このように手の込んだ定式化をおこなったのか、ということである。人間によってプレイされる模倣ゲームというものを想定し、そのゲームの男性側=騙し役として機械が通用するかどうか、という2段構えのものにする必要性があったのか。その必要性は何なのか。

チューリングが述べた模倣ゲームによる定式化は、暴力的に単純化するなら「機械が人間を騙せるか」という形に、確かに、定式化できる。そして、このように定式化するのであれば、一般に言われているチューリング・テストのように、質問者は人間と機械(コンピュータ)を相手にして、どちらが機械であるかを判定できるか? というものでもよいはずだ。実際、CMI で述べたことが、この単純化された形で受け止められたからこそ、チューリング・テストは、現在のような形で広まったのだと想像される。

チューリングが模倣ゲームに込めたメッセージは何なのか? これが問いである。この問いに取り組む前に、CMI の内容を、もうすこし確認しておくことにしよう。

Critique of the New Problem

The Imitation Game において「機械は考えることができるか」という問いを模倣ゲームによって再定式化したチューリングは、続く Critique of the New Problem において、この再定式化した問いで考察することのメリットを論じている。主だった文章を拾っていくことにする。

新しい問は、人間の身体的能力と知的能力との間に、極めて明確な線引きを行なうという利点がある。

質疑応答という方法は、我々が(考察の範囲に)含めたいと望んでいるほとんどすべての人間の諸活動(the human endeavour)の領域を(検証対象に)持ち込むのに相応しいもののように思われる。

このゲームは、機械の方に圧倒的に不利すぎるという理由で批判されるかもしれない。もし人間が機械のふりをしようとすれば、極めて情けない結果になろうことは明らかだ。算数の計算の遅さと誤りによって、すぐに馬脚を現してしまうだろう。機械は思考しているとしか言い表しようがないようなことを実行するかもしれないが、それは人間が行なっていることとは非常に違ったものではないのか? この反論はきわめて強力なものではある。しかし、少なくとも、次のように言うことはできる。(確かに違うのかもしれないが、それでも)もし模倣ゲームを問題なくプレイできるように機械を作ることができるのであれば、この反論に悩まされる必要はない。

この文章を読むかぎりでは、チューリングは単純なチューリング・テストを想定しているようにも思える。機械は人間のふりができるか(人間と機械の区別がつかないこと)という問への反論に答えているからだ。また、この文章の後半部分は、やや分かりにくいが(うまい訳ができてないのもあるけど)、ようするに、機械が「行なっていること=内部の処理」(表面的な結果ではなく、ということ)は人間の「行なっていること」とは違うのではないかという反論に対して、模倣ゲームをうまくこなせるように機械を作ることができる(ということは、当然のように、そのように振舞うための処理を実装することができるということであり、それは「何をやっているのか」を具体的に定式化できるということなわけだ)ならば、その反論に対する答えになる(=「何をやっているか」は明らかになるわけだから?)と言っている(と読むべきだろうと思う)。

チューリングが、「機械は考えることができるか」という問いを模倣ゲームをうまくプレイするという手の込んだ再定式化を行なっておきながら、結局のところ、機械は人間を模倣できるかということがポイントだと考えていたのかもしれないということは、続く次のような文章を読んでも感じられる。

模倣ゲームをプレイする場合の機械にとって最良の戦略は、おそらく人間の行動をまねることではない何か別のものではないのか、という主張もあるだろう。そうかもしれない。しかし、私は、この種の戦略にはたいした効果はないと考えている。いずれにせよ、ここでは模倣ゲームの理論を探究しようという意図は全く無いし、(機械にとって)最良の戦略とは人間が普通に答えるような答えを(質問者へ)返そうとすることだと仮定できるだろう。

この文章を読むかぎりは、やはり「機械はどこまで人間の真似ができるか」というのが模倣ゲームだと読めなくもない。さて、どうなのだろうか?

なお、1点、気になる点を。それは、例えば、上の文章の「人間が普通に答えるような答」というのは、原文では answers that would naturally be given by a man となっており、普通であれば「一人の男性が普通に答えるような答」とするべきかとは思う。模倣ゲームにおいて機械が担当するのは男性の側なので、常に man という言葉で人間の側に言及されているのだと読めるのだが、それ以上の、性的な意味合いのようなものは、全く無いのだろうか? 読解にあたって伝記的要素を参照する必要性はないと考えている(テキストを前にして、どのような差異=呼びかけを読み取れるかが問題だと考えているので)が、それでも、若干、気になることではある。

The Machines Concerned in the Game

続く3節 The Machines Concerned in the Game において、チューリングは模倣ゲームを試すにふさわしい機械の条件を考察している。どんな技術を用いてもよい、処理内容が実装する技術者が完全に記述できなくもよい(論理的根拠が明らかでなくとも実験的にうまくいくからという理由でアルゴリズムを選択してもよいということのようだ)、機械と人間とは区別がつくようにしておく、といった条件をあげているのだが、最終的に彼が機械として指名するのはデジタル計算機(digital computer)である。

現在の「考える機械」への関心が、ある特定の種類の機械、「電気計算機」あるいは「デジタル計算機」と通常呼ばれる機械によって提起されてきたという事実を考慮するならば、我々はそうすること(=どんな技術を用いてもよいとする制限を捨て去ること)はもっともだとして受け入れる状況にある。このことから、我々が模倣ゲームに参加することを認めるのはデジタル計算機だけであるということになる。

この制限は一見すると極めて思い切った制限(大きな制限)のように見える。実際にはたいした制限ではないことを私は示すことにしたいと思う。そのために、まず、これらの計算機(デジタル計算機)の性質と属性について簡単に説明しておく必要がある。

模倣ゲームに参加する(参加できるほどの?)機械はデジタル計算機であるとすることは、我々の「思考する」ということの判断基準(criterion)同様に、もしデジタル計算機が模倣ゲームで良い成績を収められない(=人間を騙せない)ことが明らかになった場合にのみ、不適切であることになるだろう。そういうことはないと私は信じているのだが。

この文章の中に、デジタル計算機であれば模倣ゲームをうまくこなすことができるはずだというチューリングの信念が、さりげなく述べられている点は注意。言うなれば、彼は、最初から、デジタル計算機であれば模倣ゲームをうまくこなせるということを述べる魂胆だということが示されているともいえる。やや分かりにくい表現だが(訳がうまくないということもあるんだけど)、考えるということの定義(=模倣ゲームをうまくこなす)も、その機械がデジタル計算機(デジタル・コンピュータ)であることも、いずれもうまく行くはずだという表明が、反語(「うまくいかなかったときには間違っていたということなんだろう」)によって述べられているのである。

ただし、チューリングは、彼の同時代のデジタル計算機が、模倣ゲームをうまくこなすとは考えていない。あくまでも、理論的にはデジタル計算機であれば模倣ゲームをうまくこなせると考えている。そのことは、続く、以下の文章で、ある種の保留として述べられている。

(なぜ実際の計算機でさっさと実験しないかというツッコミに対して)これに対する簡単な返答はこうだ。我々はすべてのデジタル計算機が模倣ゲームをうまくこなせるかどうかを問題にしているわけではない。また、現時点で利用できる計算機が模倣ゲームをうまくこなせるかどうかを問題にしているのでもない。我々が問題にしたいのは、模倣ゲームをうまくこなせるような計算機が想像上であれ存在しうるかどうかということなのである。しかし、これは簡単な返答でしかない。このツッコミに関しては、後で、別の角度から検討することにしょう。

この文章で明らかなように、チューリングは、彼の同時代の計算機が模倣ゲームをこなせるかどうかを問題にしているのではい。デジタル計算機が、理論的には(=いつの日か)、模倣ゲームをうまくこなせるはずだということを論じようとしているわけである。極論すれば、模倣ゲームを実際にうまくこなす計算機(コンピュータ)が登場するかどうかということよりも、理論的/論理的にはデジタル計算機であれば模倣ゲームぐらいはうまくこなすのだということ(実装のコストや制限は無視すれば)を論じたいようである。

では、彼の言うデジタル計算機とは何なのか? デジタル計算機が模倣ゲームをうまくこなせると彼が考えるのはなぜなのか? 論文は、続いて4節 Digital Computer へと進み、デジタル計算機の考察が行われる。

Digital Computer

4節 Digital Computer で、チューリングはデジタル計算機について解説している。

デジタル計算機の背後にある考え(idea)については、次のように言うことで説明ができるだろう。つまり、これらの機械は、人間計算機(計算を行うオペレーターの人たち→かつては機械式計算機を回しながら計算を行うオペレーターの人たちがいて、そういう人たちが Computer つまり文字通り計算を行う人と呼ばれていたのだった)によって実行可能などんな操作であっても実行できるようになっているのである。人間計算機は固定されたルールに従うものとされている。どんな些細なことでも、決められたルールから逸脱することは認められていない。

デジタル計算機は人間計算機と同じ振る舞いをするという説明だけでは定義としては不十分(循環論法に陥る)として、チューリングはデジタル計算機の仕組み(アーキテクチャー)の解説へと進む。

デジタル計算機は、1:記憶装置(store)、2:実行ユニット(Executive unit)、3:制御装置(Control)の3つの部分から成り立ち、これによって、記憶装置に与えられた命令表(table of instructions)に従って処理を行っていく。処理内容は、演算、入出力、分岐、条件判断などである。

デジタル計算機は、これまで述べてきた原理によって作ることが可能であり、また実際にそのように作られてきたのだということ、そして、デジタル計算機は実際に人間計算機の動作をとても上手に真似(mimic)できるのだということ、これらのことを読者は事実として受け入れなければならない(The Reader must accept it as a fact)。

ここでは、デジタル計算機は人間計算機を真似(mimic)できることが強調されているのだが、mimic であってimitate ではないこと(「模倣ゲーム」は imitation game だったことを忘れないように)、このことには、何らかの意味を読み取るべきなんだろうか? それとも、単に別の単語を用いたというだけなのだろうか? この点についてもさらに考察が必要かもしれない。

チューリングの論文に戻ろう。デジタル計算機に命令表を与える作業、つまりプログラミングについては、次のように述べている。

機械に複雑な操作を行う人間計算機の行動を真似させたいときには、計算機である人にどのように行っているのかを尋ねたうえで、その回答を命令表の形に翻訳しなければならない。命令表を組み立てることは通常は「プログラミング」と呼ばれている。「機械が操作Aを実行するようにプログラムする」というのは、機械が操作Aを行うように適切な命令表を機械に入力するということである。

チューリングは、ランダム素子(random element)を持ったデジタル計算機、つまり乱数発生(装置)を持った機械に注意を向けている。

このような機械(乱数発生装置を持った機械)は、時に、自由意志を持っているように言われる。もっとも、私は自分ではこのような言い方はしないのだが。

乱数発生機構をもっているだけで、あたかも自由意志を持っているかのように見られることがあること、つまり、自由意志と言われているものは、その程度で真似できるものだということ、そういうことだろうか。

記憶容量についても触れている。現実の計算機は有限の記憶容量しか持ちえないが、無限の記憶容量をもつ計算機、それを特に無限容量の計算機(infinitive capacity computers)と呼んでいるのだが、それを理論的に想定することは難しくないとする。彼自身の関心が、あくまでも、模倣ゲームをこなす機械は理論的に存在しうるかどうかにあることを示していると読めるだろう。

この節の最後の2つのパラグラフでは、デジタル計算機の歴史ということで、チャールズ・バベッジの解析機関(Analytical Engine)を取り上げている。バベッジの解析機関に触れることで、機械の現実の実装の形態の問題ではないということを強調している。

バベッジの分析機関がすべてメカニカルなものだった(つまり電気的/電子的ではなかった)という事実は、我々の中にある思い込み(=電気的でなければならないということ)を取り除くのに役立つだろう。現代のデジタル計算機は電気的なものであること、そして我々の神経システムもまた電気的なものであること、このこと(=ともに電気的であるということ)が重要であるかのようにしばしば言われる。バベッジの機械は電気的なものではなかったし、すべてのデジタル計算機はある意味で等価である以上、我々は、電気を使用するということは理論的には全く重要なことではないということが分かる。…。電気を用いるという特徴は、(デジタル計算機と神経系との)極めて表面的な類似でしかない。もしデジタル計算機と神経系との間の類似性を見いだしたいのであれば、我々は、(両者の)機能の数学的なアナロジー(類似性)を検討するべきである。

このように、チューリングは、デジタル計算機の実装形態にとらわれることを拒否する。電気だろうが歯車と蒸気だろうが、デジタル計算機であればよい、というわけだ。では、デジタル計算機が数学的(理論的)にもっている性質とはどんなものなのか。それが、続く5節 Universarity of Digital Computer で考察の対象になる。

Universarity of Digital Computer

5節 Universarity of Digital Computer (デジタル計算機の万能性)を見ていく。この節で、チューリングはデジタル計算機の特質を、離散状態機械(discrete-state machine)として、そしてあらゆる離散状態機械をまねることができる機械として論じている。この節は、彼のデジタル計算機というものの考え方など、面白い見解が述べられている部分であるので、なるべく原文を訳しながら見ていくことにしよう。

まず、デジタル計算機を離散状態機械として位置づける。

前節で考察したデジタル計算機は、「離散状態機械」に分類されるだろう。離散状態機械というのは、あるきちんと定まった(範囲が限定された)状態から別の状態へと、カチコチと飛び移っていく、そういう機械である。機械のそれぞれの状態は十分に異なっており、状態を混同する可能性は無視できる。厳密に言うならば、そのような機械は存在していない。すべての物事は実際には連続的に動く。しかし、離散状態機械であると考えたほうが有益な種類の機械も多く存在している。たとえば、電灯システムのスイッチを考察する場合には、それぞれのスイッチは完全にオンの状態と完全にオフの状態の間のどちらかしかあり得ないという仮構で考えるのが都合がよい。

ここでいう離散状態機械というのは、個々が明確に識別できる不連続な状態(discrete-state)の間を推移していく機械だ。たとえば、オンとオフのように、はっきりと異なった状態のどちらかにしかならないようなものである。ようするに、我々が、普段、デジタルと呼んでいるもの(アナログに対比して)のことなのだが、デジタル(Digital)という言葉自体は「数字の、数値の」ということであって、必ずしも不連続状態をとることを意味しない。もっとも、アナログなもの(連続量)を数値化するということは、ある一定の誤差を切り捨てて数値にしてしまうわけで、その時点で、不連続化されているわけではあるけど。

このような離散状態機械は、入力によって内部状態が推移していき、それが出力される。それゆえに、初期状態と、その後の入力信号のリストがあれば、機械の状態(と出力)はすべて予測可能ということになる。この点をチューリングは離散状態機械の特質として取り上げる。

初期状態と入力信号が与えられるならば、すべての未来の状態を予測することが常に可能であるように思える。このことは、ラプラスの見解を思わせる。ラプラスの見解というのは、ある瞬間の宇宙の完全な状態(それはすべての粒子の位置と速度によって記述される)がわかれば、すべての未来の状態を予測できるはずだ、というものである。しかし、我々が今考察している予測(=離散状態機械の未来の予測)は、ラプラスが考えたものよりは、実際に行えるものに近い(nearer to practicability)ものである。「宇宙全体」のシステムは、初期条件の極めて小さな誤りでも後になって絶大な効果をもたらしうる、そういうものである。ある瞬間にたった一つの電子の位置を何十億分の1センチずらしただけで、1年後にある人が雪崩で死んでしまうか生き延びるかという違いを生み出してしまうだろう。我々が離散状態機械と呼ぶ機械システムの本質的な特質(essential property)は、このようなこと(初期条件の違いが大きな結果の違いを引き起こす)が起きないということである。理想化された機械ではなく現実に物理的に存在している機械を考察する場合であっても、ある瞬間の状態に関して十分に正確な知識があれば、それ以降の何段階後の状態であれ正確な知識を得ることができるのだ。

離散状態機械に関するチューリングの考え方、また、宇宙の複雑性に関する見解が述べられているので思わず長く引用してしまったが(チューリングは創発性に関する論文も書いている、複雑性の先駆者としても扱われているのだ)、離散状態機械の予測可能性を重要視しているのがよくわかる。

続いて、離散状態機械としてのデジタル計算機の考察へと進む。そこでチューリングは、デジタル計算機は、とりうる内部状態の数が極めて大きいことを指摘する。そして、そのようなデジタル計算機は、離散状態機械をまねることができる離散状態機械であるとする。

ある離散状態機械に対応した表(=入出力と内部状態の推移の対応関係を記述した表)が与えられるならば、その機械が将来何をするのかは予測できる。この計算(表をもとに予測を行うこと)をデジタル計算機で行ってはいけないという理由はまったくない。もしデジタル計算機が十分な早さでこの計算を実行することができるとしたら、デジタル計算機は、どんな離散状態機械であっても、その真似をすることができるだろう。この場合、模倣ゲームは、対象となる機械(B)と、それを真似しようとするデジタル計算機(A)とによって行われ、質問者は両者を区別することはできないだろう。もちろん、デジタル計算機は、十分な記憶容量と高速の処理能力を備えていなければならない。さらに、真似しようとする機械が変わるたびに、新しい機械に合わせてプログラムし直さなくてはならない。

ここにも模倣ゲームが出てくるのだが、ここでは、離散状態機械と、それを真似ているデジタル計算機との間の区別がつくかどうかというゲームになっている。この点からすると、チューリングの模倣ゲームとは、あるプレイヤーと、それを真似ているプレイヤーと、この両者の区別ができるかどうかというゲームだということになる。

上記のパラグラフに続いて、デジタル計算機の模倣能力についての考察が続く。

デジタル計算機のこの特殊な性質、つまりデジタル計算機はどんな離散状態機械であっても真似ることができるという性質、これは、デジタル計算機は万能の機械(universal machines)であるということで表現される。このような性質を持った機械が存在しているということは、次のような重要な帰結をもたらす。それは、処理速度の考慮は別にして、さまざまな計算処理を行うために、それに合わせた新しい機械を設計する必要はないということである。それぞれの処理に合わせて適切にプログラムされれば、一台のデジタル計算機にすべての計算処理を行わせることができるのだ。このことをふまえるなら、すべてのデジタル計算機は、ある意味で等価だということがわかるだろう。

このように、デジタル計算機が万能の離散状態機械であること(あらゆる離散状態機械を真似る能力をもっているということ)を確認した上で、チューリングはもともとの問題、つまり「機械は考えることができるか」という問いを再び取り上げる。

さて、ここで3節の終わりで提示した論点を再び考察することにしよう。「機械は考えることができるか」という質問は「模倣ゲームをうまくこなせる想像上のデジタル計算機は存在するのか」という問いに置き代えられるべきだということを、仮のものとして提示しておいた。この表面的な言い方を、もっと一般的なものにしたいならば、「模倣ゲームをうまくやる離散状態機械は存在するのか」と問うのがよいだろう。しかし、デジタル計算機の万能性という観点から見るならば、これらの問いのいずれもが、次のような問いと等価であることがわかる。「ある特定のデジタル計算機 C について考えることにしよう。次のことは正しいだろうか?:この計算機に、十分な記憶装置を備えさせ、実行速度も十分に速くなるようにし、そして適切なプログラムを与えるという改良を加えたならば、C は、人間の演じる B といっしょにやって、模倣ゲームの A の役割を満足にこなすことが可能である」

これが、「機械は考えることができるか」という問題に関するチューリングの最終的な定式化である。最後の問いがやや回りくどい言い方になっている(つまり「模倣ゲームを満足にこなすことができるか?」ではなく、「模倣ゲームを満足にこなすことができるというのは正しいか?」になっている)のは、デジタル計算機が模倣できるかどうかということよりも、そのように考えることは理論的に正しいかどうかを問題にしているためだろう。先にも述べていたように、チューリングの関心は、あくまで現実に存在するかどうかではなく、理論上(「想像上」)存在しうるかどうかという点にあるからだ。具体的な機械の実装上の制約などによって、理論的には存在しうるものでも現実には存在しえないこともあるわけだから(たとえば無限の記憶容量と高速/光速の処理速度のデジタル計算機)。

この最終的な定式化を行っておいてから、彼は、自分の意見に対して予想される反論を検討し、自説をのべていく。それが、続く6節 Contrary Views on the Main Question である。この節が、CMI の中でもっとも分量のある節である。

Contray Views on the Main Question

6節Contray Views on the Main Question を見ていく。この節は分量が多いので、なるべくポイントを整理し絞り込みながら見ていきたいと思うが、冒頭部分で彼自身の考えがストレートに表明されているので、まずはそこは丹念に見ておくことにしたい。

さて、これで議論の土台は明確にすることができたと考えてもよいだろう。そして、我々の質問「機械は考えることができるか?」と、先程の節の最後で述べたその変形(variant)とについての論争へと話を進める準備が整った。この問題のもともとの形をきっぱり捨て去ることはできない。というのも、いろいろな意見は、(我々の提案した)代替案がどれくらい適切なものかによって異なってしまうであろうし、この(もともとの形と代替案との関連という意味での?)つながりについて何が言われるべきかということには、少なくとも耳を傾けなくてはならない。

最後の部分は we must at least listen to what has to be said in this connexion なのだが、この connexionをどう解釈するべきなのか、ちょっと迷うところである。オリジナルの質問である「機械は考えることができるか?」と、チューリングによる定式化である「デジタル計算機が模倣ゲームのAの役割をうまくこなすということは正しいか?」という二つの形の間(つながり)を指していると取るならば、この定式化そのものに関する意見(つまり質問の内容そのものへの意見ではなく、チューリングの定式化のやり方への意見ということ)にも耳を傾けなくてはいけないという意味になるだろう。たぶん、そういう解釈でいいんだとは思うが。

いずれにせよ、チューリングは、ここで、「機械は考えることができるのか」というもともとの問いと、自分の定式化した問いの両方に対する反対意見の検討を行うことを述べているわけである。

続いて、チューリングは自分自身の考えを述べている。この論文の中で、彼自身の知性とデジタル計算機に関する考えがもっともストレートに表明されている部分である。

最初に、この問題についての私自身の信念を説明しておけば、読者はここでの話が簡単になる(見通しがよくなるということ?)だろう。最初に、質問のより正確な形(つまり、チューリングが定式化した形)について考えよう。私の信じていることはこうだ:あと50年ほどの間には、だいたいの質問者が5分間の質問を行っても 70% 以上の確率で正しい判定ができない(どちらがどちらかを正しく同定できない)、その程度には模倣ゲームをうまくこなすようにコンピュータをプログラムすることが可能になるだろう。そのコンピュータは 10^9(=1G)ほどの記憶容量を備えたコンピュータだろう。「機械は考えることはできるか?」というもともとの質問は、議論するまでもないほど意味がないものになっていると信じている。今世紀の終わりには言葉の用法や教育を受けた人たちの意見というものが大きく変化してしまい、反対されるかもしれないなどとは思うことなく機械が思考しているということを口にすることができるだろうと信じてはいる。こうしたことを信じているということを隠したところで、なんらかの役に立つような目的が達成されるわけではないということも私は信じている。科学者は動かしがたい事実から別の動かしがたい事実へと頑なに(研究を)進めるもので、どんなに練り上げられたものであっても推測には影響など受けない、そんなふうに普通は思われている。でも、これは間違いだ。なにが事実であり、なにが推測であるか、このことが明確に区別されているならば、どんな害も生じない。推測は非常に重要なものである。なぜなら、推測によって有用な研究の道筋が示されるからだ。

ここでチューリングが述べていることは、50年も経てば模倣ゲームをうまくこなせるデジタル計算機が登場するだろうということと、同時に人々の考え方や言葉の使い方が変わって「機械が考える」という表現(この場合は、たんに比喩的な意味で「考える」というのではなく、知的な営みとしての思考を行っているという意味での「考える」ということだ)が何の違和感もなく人々に受け入れられるだろうということである。と同時に、このようなことを自分が述べることの意味(弁護?)も行っており、このようになると推測することによって、考える機械の研究が進むことを期待してもいるようである。

チューリングが行っている50年後、あるいは世紀の終わりは、すでに過ぎてしまった。しかし、残念ながらチューリングが予想したようにはいかなかったようだ。もっとも、彼のこの論文がチューリング・テストという人工知能に関する一つの大きなトピックを作り出し、人工知能のあり方に光を投げ掛け、人々の研究意欲をかき立てたという意味では、チューリング自身の予測は、まさに彼が述べた役割を果たしたといえるだろう。

自分の信じる内容をストレートに述べた後、反対意見の検討にはいる。検討される反対意見は、彼自身によっていくつかの類型に分類されており、それぞれのパターンの典型的なものに答えていくというスタイルになっている。彼が取り上げる反対意見は以下のものである。

  1. The Theological Objection (神学的異論)
  2. The "Head in the Sand" Objection (聞かなかったことにする立場の異論)
  3. The Mathematical Objection (数学的異論)
  4. The Argument from Consciousness (意識に関する立場からの議論)
  5. The Argument from Various Disabilities (様々な能力の欠如を指摘する立場からの議論)
  6. Lady Lovelace's Objection (ラブレス伯爵夫人の異論)
  7. Argument from Continuity in the Nervous System (神経システムの連続性を重視する立場からの議論)
  8. The Argument from Informality of Behavior (行動は形式化しつくせないという立場からの議論)
  9. The Argument from Extrasensory Perception (超感覚的知覚 ESP を信じる立場からの議論)

以上の9つのパターンの反論や意見について、検討を加えていっているのである。

The Theological Objection

では、さっそく、最初の神学的な異論(The Theological Objection)のパートから見ていくことにしよう。ここでいう神学的な異論というのは、ようするに、「思考とは人間の永遠の魂の機能である。神は動物や機械には魂を与えていない。だから機械は考えることなどできない」というものである。これに対して、チューリングは、この意見のどんな部分も受け入れることなどできないと述べた上で、まずは神学の土俵にたって反論を論じて見せている。

動物と機械を一緒に扱うよりは、動物は人間と同じグループに入れておいて、命を持つもの(the animate)と命を持たないもの(the inanimate)の違いとして話をしたほうが説得力が増すんじゃないのか、まぁ、それをいうなら、正統派(orthodox)の見解なんてのは恣意的なもんじゃないか(宗教上のいろいろな区分けというかカテゴライズは恣意的なもんじゃんか)、というツッコミを最初にしておいてから、チューリングが指摘するのは、この神学的な異論は、全能者である神の能力を制限するという大きな問題を孕んでいるという点だ。全能者である神には動物には魂を与える自由があるんじゃないのか、つまり、神は動物や機械に魂を与えることができないわけじゃない、という指摘である。もし象が魂をもつのがふさわしい存在なら神は魂を与えることができるだろう。

神が魂をお贈りになるというこのご自身の能力を(象に対して)お使いになる場合には、お贈りになる魂に仕えるのにふさわしいよう適切に改良された脳もいっしょに象にお与えになるという突然変異を伴う場合に限るだろうと、我々は予想することができる。まったく同じ主張を、機械の場合にもとなえることができる。機械の場合には「飲み込む(swallow)」のが難しいために、議論が違うように見えるかもしれない。しかし、実際には、次のようなことを意味しているに過ぎない:「神が、(問題となっているものの)環境(状態)が魂を贈るのにはふさわしいとお考えになることは、それほどありそうもないと我々が考えている」。問題となっている環境については、この論文の残りの部分で議論する。(神が魂を贈るのがふさわしいとお考えになるような?)そのような機械を我々が作ろうと試みることは、神の魂をお作りになる能力を、我々が不遜にも奪おうとしているわけではけっしてない。生殖で子供を作ることが神のその能力を奪う行為ではないのと同じである。神の能力を奪おうというのではなく、(思考する機械を作ることも、子供を作ることも)いずれの場合も、ご自分がお作りになる魂が住まう館、それを提供なさろうとする神の意志の道具なのが我々なのである。

やや分かりにくい文章(訳がうまくないのもあるんだが)が並んでいるが、ようするに、魂を持つ(=つまりは思考という能力をもつ)のに相応しい存在であれば、神は魂をお与えになるだろう(神は魂を与える自由を持っているんだから、魂を持ってもおかしくないものに魂を絶対に与えないと考える方が不敬である)。そして、考える機械を作るということは、子供を作るのと同じように、魂が住まう場所に相応しいものを提供しようとしているだけであって、魂を与えるという神の能力を奪い取ろう(わが物にしよう)というのではないんだ。そういうことである。このように、神には自由に魂を与える自由があるということ、思考する機械を作ることは(魂を作ることではなく)魂が住まうのにふさわしい入れ物をつくるだけだということ、そして、魂が住まうに相応しいものを作ることは神に挑戦することなどではないこと、という論点で、神学的な反論を組み立てているのである。

で、やや込み入った神学的な議論を展開した後で、あっさりと、チューリングは「こんなものは、ただの空論(mere speculation)でしかない」と切り捨て、神学的な議論なんてのは相手にするほどのものではないとするのである。

個人的には、ここでのチューリングの神学的な議論(っていうか屁理屈)は、けっこう笑えるもんだと思う。ただ、その感じを、うまく日本語に訳すのは難しい個所ではある。

The "Heads in the sand" Objection

続いて The "Heads in the sand" Objection を見ていこう。まず、heads in the sand というのは、hide one's head in the sand というイディオム(見なかったふりをして、直面している物事から逃避する)をひいたものだろうが、ようするに、機械が思考するなんてことはあり得ないとして相手にしないような立場である。これに対してチューリングは、人間が他の存在よりも優位にたちたがるもんであり、その優位性の支えが思考能力であるといったことを指摘した上で、この手の意見には、真剣に反論する必要はないと斬って捨てる。このパートは短い。

The Mathematical Objection

(3) The Mathematical Objection は、ゲーデルの不完全性定理によって離散状態機械には限界があるという意見を取り上げる。ゲーデルと同様のことをチューリング自身がチューリングマシン(無限の記憶容量をもつデジタル計算機)に関して明らかにしており、それによれば、無限容量のデジタル計算機には実行できないような事柄が存在しているということが明らかになっている。模倣ゲームの場合に当てはめるならば、計算機に無限の時間が与えられたとしても、計算機は答えを間違うか全く答えられないかどちらかになってしまう、そういう質問が存在しているということを意味する。チューリングが具体的な例として示すのは、以下のような質問である。

「"ある条件"に従って組み立てられた機械を考えよう。この機械は、はたしてどんな質問にも『Yes』と答えるだろうか。」"ある条件"(原文では ... と書かれている)には、機械についての標準的な形式での記述、ちょうど5節で我々が用いたようなものが入るとする。(質問の中で)述べられている機械が、質問を受けている機械と、比較的単純な関係をもっている場合(bears a certain comparatively simple relation to)、回答が間違っているかあるいはいつまでも回答が返ってこないか、そのどちらかになることを示すことができる。

実行不可能性に関するチューリングの論文を読んでいないので、いまひとつ論点がクリアに把握できないのだが、単純に自己言及が生じる(あるいはメタレベルの記述とオブジェクトレベルの記述の分離が不可能になる)ということでよいのだろうか? いずれにせよ、機械にはきちんと答えることができない質問が存在することは数学的証明されている点をチューリングは指摘する。このような数学的な観点からの反論に対する彼の答えには彼の人間観というものがよく出ているように思われるので、丹念に読んでおくことにする。

この議論に対する短い回答は次のようなものだ:どんな特定の機械であれ能力に限界があるということは確証されているが、しかし、人間の知性にそのような限界は課せられていないということは、どんな証明もなされたことがないまま、ただ言われ続けられてきたことに過ぎない(=機械の限界は確証されているが、人間知性の限界については単にそんなものは無いと言われてきたにすぎない)。とはいえ、私は、(人間の知性には限界がないという)この見解をそう簡単に退けることができるとは考えていない。ここで言っている機械の一つが、まさにクリティカルな質問(=機械が間違うか答えられないことが明らかな質問)を訪ねられ、それにはっきりとした答えを返した時にはいつでも、我々はその答えが間違っているに違いないことが分かるし、このこと(=機械が間違ったということ)が、我々にちょっとした優越感を与えてくれる。この優越感は錯覚に過ぎないものだろうか? その優越感は疑いようも無く純粋な心からのもの(quite genuine)だ。とはいえ、私としては、そのことにあまり重きをおくべきではないと考える。我々人間は、自分たちだって質問に対して誤った答えをすることがかなり頻繁にある。そうである以上、機械の側が誤るという証拠にとても喜ぶということを正当化することはできない。さらに、我々が優越感を感じることができるときというのは、我々が些細な勝利を収めることができた一つの機械にかかわる場合でしかない。すべての機械に同時に勝利を収めることができるような質問は存在しないだろう。端的に言えば、人間(men)は自分が相手をするどんな個々の機械(any given machine)よりは賢いかもしれないが、その機械のほかにもっと賢い機械があって、じゃあと次のその機械と相手をすると人間の方が賢いが、それよりも賢い機械があって…と、そういうことだ。

機械に限界があることは数学的に証明されているが、人間の知性に限界が無いことは証明されてない(単にそう言ってきただけじゃん)。また、ある機械に対して、その機械が間違うような(ちゃんと答えられないような)質問をして勝てるからといって、すべての機械を相手に同時に勝てるわけじゃないやろ、と、そういうことである。ある特定の機械に解答不能な問いが存在していることと、すべての機械が解答不能な問いが存在することとは違うという指摘も含まれていると思うが、このへんの指摘は、けっこう鋭い。とはいえ、やや持って回ったような議論になっているようにも思える。いずれにせよ、チューリングは、以上のようなことを述べた上で、数学者は、模倣ゲームを議論の土台にすることは了承してくれるだろうと、このパートを括っている(つまり、チューリングによる問題の定式化=変形自体には同意してくれるだろう→数学的に正しい変形だと認めてくれるだろう、ということ)。

The Argument from Consciousness

続いて The Argument from Consciousness の検討に入る。この反論というのは、端的に言うと、自己意識を機械は持っていない(自分が「思考」しているという意識を持っていない)というのがポイントである。チューリングが、この立場の代表としてあげているのは Professor Jefferson の Lister Oration for 1949 (リスター記念講演として、BBC で放送されたもののようだ)である。その Jefferson 教授の言葉のポイントとなる部分をまず見ておく。

機械が、偶然によってシンボルを並べるのではなく、(なにかの)思考や感情を感じたことがきっかけでソネット(14行詩)を書いたりコンチェルトを作曲することができる、そうなるまでは、機械が脳と同等だという意見に同意することはできない。脳というものは、ソネットやコンチェルトを書いたりすることができるだけではなく、それを自分が書いたということを知っているものなのである。

ようするに、機械は自意識(反省的意識)を持っていないという点を問題にしているわけである。この論点は、チューリング・テストでは知性を検証できないとする立場、とくに哲学者の立場からの反論として、ある種の典型的なものだと言えよう。いくら模倣ゲームを機械がうまくこなしたところで、その機械が、思考しているということ自体を理解できていないのであれば(=つまりは、我々と同じ思考を体験しているのでなければ)、それは思考していない、というわけである。これに対して、チューリングは、この教授の考え方がチューリング・テストの正当性を否定するものであることを確認したうえで、この教授の考えを突き詰めると唯我論になるという点を突く。

この議論は我々のテストの正当性を否定するもののように見える。この見解の極端なものに従うなら、機械が思考しているということを確信できる唯一の方法は、機械になって、自ら考えているということを感じることである。そうすれば、その人は自分の感情を世界に向かって述べることができるだろう。しかし、当然のことながら、どのような表示を行っても正当化されないだろう(原文は no one would be justified in taking any notice なのだが、これを普通に訳すと意味が不明になってしまう?)。同様に、この見解に従うならば、ある人間が思考しているということを知る唯一の方法は、その人そのものになるということである。実際、これは唯我論の見解である。この立場は、考え方としては最も論理的ではあるが、この立場は、アイデアの伝達を困難なものにしてしまう。…。この点について延々と議論を続けるよりは、誰もが思考しているとする真当で世間的な慣習(polite convention)に従うほうが有益である。

チューリングの反論は、唯我論の立場にたつならば、機械だけでなく、他者が思考しているということすらも確証できなくなるのだから、そういう不毛な議論に踏み込まないでおこうよということになるだろう。

端的に言うなら、意識の立場からの反論を支持するほとんどの人たちに対しては、(厳密な議論によって)唯我論の立場を無理やり引き受けさせるよりは、意識の立場の意見をすてるように納得させる方が可能性が高いと私は考えている。そうすれば(=意識の立場を捨てるなら)、おそらく、我々のテストを喜んで受け入れるだろう。

意識には不可思議なところなど全くないと考えている人間だと私のことを受け取って欲しくはない。現に、意識のありかを突き止めようとするどんな試みも引っ掛かるパラドックスめいたものがある。しかし、我々がこの論文で扱っている問いに答えるためには意識の謎を解決する必要がある、とは私は考えない。

端的に言うなら(暴力的にまとめるなら)、思考してる意識を持ってないとだめだなんてことを言い出すと、他人が思考してることすら認められなくなるけど、それでもいいわけ? ってな感じのツッコミをチューリングはしてるということだろう。日々の交わりの中で我々は他人が思考しているということを当然のこととして受け入れて振る舞っているわけだから、同じように、機械との交わりの中で思考するということを受け入れてもいいんじゃなか、ということだ。対象が思考するということは、コミュニケーションを通じて得られる認識であるということの主張と読める。

Arguments from Various Disabilities

Arguments from Various Disabilities では、「機械には〜ができない」という議論の検討が行われる。この議論にはさまざまなものがありうるため、Arguments と複数になっているのだろう。

これらの(機械の欠点を論う)議論は、次のような形をとる:「君が述べたことをすべてこなす機械を作ることができるという点は認めるとしよう。でも、その機械が、Xをこなせるようには作れっこないよ。」このXに当てはまるものとして様々な特徴(features)が挙げられている。

ここでチューリングはいくつかの人間的と言われるような特徴の羅列を行っている。そして、この手の意見に対して、それがこれまで存在していた機械との経験からの帰納的な意見(induction)であることを指摘する。

…。私は、これらの主張は、そのほとんどは、科学的な帰納法の原理に基づくものだと信じている。人間というものはその人生において何千という機械を目にすることになる。無数の機械を見てきた経験から、人はあれやこれやの一般的な結論を引き出すものだ。機械というのは醜いものだ、個々の機械というのは非常に限られた目的のために設計されている、ちょっと目的が違ってしまうだけで役に立たない、機械のどれをとってみても振る舞いの幅は非常に貧しい等。人が、これらの特徴が機械というもの一般の必須の属性だと結論づけるのももっともではある。

こうした、人が機械の経験一般から引き出した結論(経験の一般化)を、同じ機械からといってデジタル計算機にそのまま当てはめることはできないのだということをチューリングは言おうとする。

数年前であれば、デジタル計算機についてほとんど耳に入ることなどなかったわけで、デジタル計算機について、それがどのように作られるものかを述べずにおいてデジタル計算機の属性(性質)について話そうとするなら、それまでの機械の経験から帰納的に考えを引き出すこともありがちなことであった。そうしてしまうことは、私が思うに、ほかの事例と同じように当然のように科学的な帰納法を用いて見解をまとめたということだろう。帰納法をもってする(=過去の経験を一般化する)というのは、もちろん、多くの場合、無意識的に行われることである。…。人間の作ったものや習慣というものは、科学的な帰納法を適用する対象としては、それほど適切なものとは思えない。もし(人間の作ったものや習慣について)信頼にたる結論を得なければならないのなら、広大な時間と空間を調査しなければならない。そうしなければ、多くの英国の子供たちが実際にやっているみたいに、みんなが英語を話すものだと、そしてフランス語を学ぶのは愚かなことだと、そう決めつけてしまうかもしれない。

チューリングがここでのべているのは、人が「機械というものは何かしら欠点があったり融通が利かないものだから、(なんだかよくわからない)デジタル計算機だってきっとそうだろう」と考えてしまうのは、帰納法(経験の一般論化)の間違った働きによるものだ、ということである。機械のような人が作ったものとか人間の習慣とかについては、普段の体験に帰納法を適用しても、正しい認識には至らない(本当にやろうとすれば、すべての地域と時代について調べる必要があるだろう)、ということを論点にしている。英国の子供が周りの人たちがみんな英語をしゃべっているからといって、人は英語をしゃべるもんだと考えてしまうのは、認識としては正しくない。ようするに一般化の元になっている経験が限られていることに、その誤りの原因はある。地球上のすべての土地、そしてすべての時代を調べて(チューリングの言い方を使うなら「広大な時間と空間を調査」して)、初めて、人は英語をしゃべるものかどうかを認識できる。まぁ、そういう感じで、偏った経験論を批判するわけである。そのうえで、そうした経験に頼った議論ではなく、デジタル計算機はどんなものかという原理によった議論が重要だと主張している。なんてったって、英国はベイコン〜ロック〜ヒュームの流れの経験論(帰納法)の本場だから、よけいに経験論に難癖付けているって感じがするなぁ。

なお、あれやこれやと機械にできないことがあるじゃないかという議論に対して、チューリングは興味深い指摘を行っているので、それを見ておく。

しかしながら、先程触れたような機械の不能性(能力が欠けていること)の多くについて、述べておくべき特別な意見がある。(先に挙げてあった)機械はクリームのかかったイチゴに舌鼓を打つことができないという指摘は、それがあまりにばかげているのに読者の皆さんはあぜんとしたことだろう。おそらく、(イチゴのクリームかけという)このおいしい料理を味わって楽しむように機械を作ることはできるだろうが、しかし、機械にそんなことをさせようとするどんな試みもばかばかしいことだ。この不能性(=イチゴクリームが味わえないこと)に関して重要なことは、それが、別の不能性のいくつかを強めてしまう(原文は contributes to some of the other disabilities)ということである。別の不能性というのは、たとえば、機械と人間の間である種の友情を打ち立てるのが難しくて、白人と白人の間の友情や黒人と黒人の友情のようには簡単にはいかない、というのがあげられる。

この部分は、思考との関連で言うなら、ようするに、機械が思考するということと、機械が人間と同じである(人間同様に付き合える相手である)ということは別だと言ってると読める。思考するからといって人間のように付き合えるものになるわけじゃないってことか。

これまで論じてきた「機械は〜ができないじゃないか」という意見への反論に区切りをつけたところで、、チューリングは「機械は間違うことができない」という主張を取り上げて、それに対する反論を述べる。確かに、機械が算数の計算を間違うことはないから、模倣ゲームでこの点に注目すればすぐに機械かどうかわかるだろう。でも、機械を人間らしく間違うようにプログラムすることだってできる、と指摘しておいた上で、「機械は間違うことができない」という意見は、2つの誤り方を混同していると指摘する。その2つの誤りというのは、"実行上のエラー"(errors of functioning、直訳するなら"機能する際のエラー"ぐらいか)と、"帰結のエラー"(errors of conclusion)である。

実行上のエラーというのは、計算を行う際の機械的あるいは電気的な欠陥によって発生するエラーのことである。実在の計算機であれば、このエラーが生じる可能性はある。しかし、この論文でチューリングが想定している数学的な仮構としての抽象機械であれば、確かに、そういう機械は決して誤りを犯すことができないと言える。

一方の帰結のエラーは、機械の出力信号に何らかの意味を持たせた時に発生するエラーである。チューリングが言おうとしているのは、信号の処理としては正しく機能しているが、そもそも処理の仕方(それはプログラムによって与えられる)が間違っているがゆえに、出てきたデータの意味が間違ってしまうというものだ。つまりはプログラムしたアルゴリズムのミス(というか、選択したアルゴリズムが不適切ということ)である。

間違った命題が機械によって印字された時には、われわれは、機械は帰結のエラーを犯したと言う。機械というものはそのようなエラーを犯すことができないと言う明らかな根拠などまったく存在していない。機械が 0=1 を延々と印字するだけということもあるだろう(=それにしたって、機械の中の処理は正しく行われているが、処理の指示が間違っているわけだ)。そんなにひねくれてない例を挙げるなら、機械が、科学的な帰納法を使って結論を導くようななんらかの方法を持っているというものだ。我々は、そんな方法は、時々間違った結果を導くということを、当然のこととする。

機械に実装されている方法(プログラムされたアルゴリズム)がおかしかったら、機械は、当然、間違った結果を出してくる。人はそれをみて、機械が間違ったと言う。でも、実際は、機械は、指示された通りに正しく機能したわけで、機械が間違えたわけではない。機械への指示が間違っていたのだ。その点をはっきりさせておこう、ということだろう。ここでも帰納法をやり玉にあげているところみると、やっぱチューリングは経験論が嫌いだったんだろうな。まぁ、数学者だしね。

で、このパートはまだ終わらない。「〜はできない」という主張のいろいろなパターンの議論に反論していっているわけだが、次にチューリングが俎上に載せるのは「機械は、自分の思考の主題になることができない」というものである。これは、先の自意識の議論とも重なる部分がある。

機械というものはそれ自身の思考の対象(主題、Subject)になることができない(=自分を主題とした思考はできない)という主張に応えることができるのは、当然のことながら、機械がある主題について何らかの思考を抱いていることを示すことができる場合だけである。それでも、「機械の演算処理(operation)の主題」というのは、少なくとも機械を扱っている人には、ちゃんと意味がとおる表現に思える。たとえば、機械が x^2-40x-11=0 という方程式の解を見つけようとしている場合なら、この方程式を、それを解こうとしている瞬間の機械の主題の一部だと言いたくなるだろう(=機械が自分が何をしているのか分かっていると言いたくなるだろう)。この意味で、機械というものは、確かに、それ自身の対象になることができるのである(=機械は、自分がなんのために処理を行っているのかを把握することができる)。このことは、機械が自分自身のプログラムを作り上げる手助けをしたり、自分の構造を変化させるとどういうことになるのかを予測したりする、そういうことに利用できるだろう。機械が、自分の出した処理の結果を観察し、目的をより効率的に達成するように自分のプログラムを変更することができるわけだ。これは夢物語などではなく、近い将来にそうなる可能性はある。

まず問題になっている Subject というのが、なかなかクリアには把握しにくい概念ではある。主題、対象、そして主体といった意味をもった言葉だからだ。「自分の subject である」という言い方は、自分自身を対象にする(=反省的に自己を観察する)、自分のやっていることがわかる、あるいはやや強引ではあるが、自分が主体性を持つ(主体であることの中に、自己観察だとか、反省だとか、あるいは自己関係だとかいったものが包摂されているわけだが)ともとれる。ここでは、あげられている例を見る限りでは、機械が自分が何の処理をやっているのか分かっているということのようだが。ここで語られている、自己構築あるいは自己修正する機械というのは、大ざっぱに言えば、チューリングの同時代と言ってもよいサイバネティクスの考え方(フィードバックによる制御)につながるものであると思う。サイバネティクスそのものが、情報(信号)という観点で、人間と機械の差異をとっぱらうような視点を持っていた(だからサイバーパンクへとつながる)ものだからだ。マウスの発明で有名なエンゲルバートが、人間とコンピュータの coevolution を考えていた文脈にもつながるかな。

続いて、このパートで取り上げる最後の議論として、「機械というものは行動の多様性を持つことができない」という批判を取りあげ、それは、記憶容量が足りないという問題にすぎないと反論している。そして、最後に、このパートで取り上げて論じた批判全体へのコメントが入る。

ここで我々が検討している緒批判は、しばしば、意識からの議論(=機械には自己意識がないじゃないかという批判)の形を装ったものになっている。機械がこうしたこと(=機械にはできないと言われたあれやこれやのこと)のうちのあることがちゃんとできるんだと主張し、そのために機械が用いる方法のようなものを述べる、そういうことをしてみても、普通は、他人にはたいして感心されないだろう。(機械が用いる)方法は、それがどんなものであれ、機械的なものであるには違いないわけで、実際のところ、卑しいもの(=人間の優雅さに欠けたもの)と考えられている。先に引用したJefferson の発言の中のカッコの中の文章と比べてほしい。

「Jefferson の発言の中のカッコの中の文章」というのは、意識の立場からの議論の冒頭部分の Jefferson 教授の言葉の中の "No mechanism could feel (and not merely artificially signal, an easy contrivance) pleasure atits successes, ..." のカッコの部分を指している。「簡単にそれらしいものに作られた、そういう人工の信号なんかではなく」という言い方に、機械に何らかの動作をさせる(=人間のように自己意識をもって振舞っているかのように機械を動かす)ことは簡単だが、そういう「見せかけ」ではなくて、ということが述べられており、チューリングはその言い方にこもっている、動作そのものへの軽視(蔑視)を問題にしているわけである。つまり、「機械は〜ができない」という批判に対して、いや、それはXXのように機械を組み立てれば(プログラムすれば)できるよ、と反論したところで、その反論で相手は納得しないだろうということを、この最後の部分でチューリングは言っているわけである。いくら機械だって〜はできる(できるように作れる)と言ってみても、「そんなの、振りをしてるだけじゃん」というツッコミを受けておしまいになってしまう(これが Jefferson のカッコの中の表現のポイント)。だからこそ、ここで展開したような、回りくどいと言うか哲学的と言うか、そういう議論をするしかないんだと、チューリングは述べているわけである。

というわけで、ようやく、このパート、「機械なんて〜ができないじゃないか」という批判への反論のパートが終わる。

Lady Lovelace's Objection

Lady Lovelace's Objection の検討に入ろう。ここで議論の対象になっているのは、ラブレス侯爵夫人、つまり、史上初のプログラマーとかハッカーと褒め称えられ、プログラミング言語の名前にもなった、Augusta Ada Byron King, Lady Lovelace のことである。彼女は、バベッジの解析機関(Analytical Engine)の理解者として有名であり、チューリングがここで取り上げるのも、彼女の解析機関に関する発言(と、それに対するハートリーのコメント)である。

バベッジの解析機関に関するもっとも詳細な情報は、ラブレス侯爵夫人の memoir によるものである。その中で、彼女は次のように述べている。「解析機関は、なにかを創作すると気取ったりはしない。解析機関は、実行させるにはどうやって命令したらよいか我々が分かっていることなら何だってできる」(斜体はラブレス侯爵夫人)。この表明はハートリーによって引用されていて、以下のようなコメントが付け加えられている:「彼女のこの発言は、『自分自身について考える』ような電子装置、生物学的に言うなら条件反射=反省(それは『学習』の基礎となるだろう)を行うように組み立てられた装置、そのような装置を作ることは不可能だろうと言っているのではない。このようなこと(自己反省する機械を作ること)が原理的に可能かどうかということは、刺激的でワクワクさせられる問題であるが、この問いは最近の進歩によって提出されたものだ。しかし、(バベッジが解析機関を作ろうとした)当時に制作されたり計画された機械には、このような性質(自己反省=反射の能力)があるとは思えなかったのだ。」

以下、チューリングによる議論が展開されるのだが、ここで、若干(?)の寄り道をしておく。

まず、ハートリー(Hartree)というのは、マサチューセッツ大学とケンブリッジ大学の理論物理学者であった Douglas Rayner Hartree (1897-1958)のことである。彼は、物理学の分野で数値解析の研究者として有名らしいが(Hartree-Fock theory という分子軌道の計算方法?かなんかの計算式を定式化したらしい)、その業績については、私はコメントできない。他方で、初期のコンピュータ開発者(関係者)としても知られている。アメリカにあのバネーバー・ブッシュ(Vannevar Bush)が開発を行っていた微分解析機(a differential analyzer)を見に行って、ケンブリッジに戻ってきて自分でも組み立てたりしている。後にエニアック(ENIAC)が作られたときには、アメリカに招かれて、ENIAC を何に使うべきかアドバイスを行ったりもした。雑誌 Nature にENIAC の紹介記事も書いている(HARTREE, D. R. "The ENIAC, an Electronic Calculating Machine," p.527 in Nature, Vol. 157, No. 3990, April 20, 1946)。イギリスでプログラム記憶式(ノイマン型)のコンピュータの作成を熱心に支援した。そういう人物である(Hartreeなどを参照のこと)。チューリングによって引用されている論文の原文にあたることはできなかった(ネットでは読めないみたいだ)。

微分解析機についてはこの後にもチューリングは言及しているので、ここで少しだけ補足をしておくと、これはバネーバー・ブッシュ達が開発してしたアナログ式の計算機械である。微分解析機については、MIT のページ(MIT Differential Analyzer)など、多くの解説ページが存在している。ハートリーとの関連も含めた微分解析機に関する情報をTHE DIFFERENTIAL ANALYSER EXPLAINEDで読むことができる。また、映画の中で使われた differential analyser が動いている様子のムービーを、このページで見ることができる。まさに計算機械という感じで動いていたということがよくわかる。

そして、ここからが寄り道の本題(?)なのだが、上の文章の中で触れられている「ラブレス侯爵夫人の memoir」について、解説しておこう。

この memoir というのはエイダの書いた論文である(回想録ではない)。"Scientic Memoirs, Selections from Societies and from Foreign Journals" という紀要誌の、1843年に発行された Vol.III に掲載された論文(正確には論文の翻訳+解題)である。そこから Ada の memoir といえば、この論文のことを指すようになった。この雑誌に掲載されたのは、イタリアの Luigi Menabrea がスイスの雑誌にフランス語で投稿し、その記事をエイダが解題付で英語に翻訳したというものである。ScienticMemoirs に掲載された際の論文のタイトルは、"Sketch of the Analytical Engine invented by Charles Babbage Esq. By L.F. Menabrea, of Turin, Officer of Military Engineers [From the Bibliotheque Universellede Geneva, No.82 October 1842] With notes upon the Memoir by the Translator" となっている(翻訳者の名前として ADA AUGUSTA, COUNTESS OF LOVELACE がクレジットされている)。この論文の原文は "Sketch of the Analytical Engine" で読むことができる。

この memoir の出版の経緯や、エイダとバベッジの関係なんかを "Charles Babbage And the Engines of Perfection" (Bruce Collier,James MacLachlan) からひろっておく(この本はバベッジの伝記と、差分機関、解析機関に関する解説書として、読みやすくてよい本だと思う)。なお訳文は私訳である。

エイダ・ラブレスは、オーガスタ・エイダとして生まれた。詩人のバイロン卿のたったひとりの子供であった。彼女が生まれて一月後の1815年の12月に、両親は離婚した。エイダは1842年に死亡した父には生涯会おうとはしなかった。バイロン夫人は数学の心得があったので、娘のエイダにも数学を学ぶことを勧めた。1832年にエイダは Mary Somerville と出会う。Mary はエイダの数学の学習を手助けしてくれた。Mary はまた、エイダに William King を紹介した。彼はその後すぐにラブレス伯爵(the Earl of Lovelace)になった。彼とエイダは1834年に結婚し、3人の子供をもうけた。恵まれた環境の中で、エイダは、子育てよりは、数学や社交界の活動に時間を費やした。彼女の母親や使用人達が子供の面倒をみた。

エイダ・ラブレスは1833年にチャールズ・バベッジと出会った。出会ってすぐに、エイダはバベッジの計算機械に深く心を奪われてしまう。二人は生涯にわたる友人となった。エイダは、バベッジの娘である Georgiana よりも2つか3つ年上なだけである。バベッジの娘が亡くなると、エイダとチャールズは、互いに欠けてしまっていた娘−父親関係を結ぶ。二人は互いの家を頻繁に訪ねあっていた。1840年代の初め、エイダは、バベッジの解析機関を広く知らしめるための、ある重要な貢献を行うことになる。

1840年、バベッジは再び大陸(ヨーロッパ諸国)への旅にでかけた。フランスのリヨンでは、ジャカード織機を使っていた絹の織物工場を訪ねている。バベッジは、24000枚のパンチカードが自動的に極めて精巧な肖像画、発明者である Joseph Jacquard の肖像画を織り上げていく織機を、魅入られたように観察した。バベッジは、織られた肖像画を2枚購入した。後に、その内の1枚を、自宅の製図室の壁にかけ、訪れた友人達を驚かせた。彼は次のように記している:この「織られた絹の布は、縁取りと艶出しがなされていて、完ぺきに描かれており、そのため、[画家と彫刻家の]ロイヤル・アカデミーの二人のメンバーの作品と間違えられたこともあったほどだ。」このことは、パンチカードによるコントロールシステムの精巧さによるもので、そのシステムをバベッジは解析機関に用いた。

バベッジは旅を続けてトリノを訪れ、イタリアの科学者の第2回学術大会に出席した。バベッジは、数年前から、その会議の開催を科学者達に強く働き掛けていたのだ。会議では、バベッジは、何時間にもわたって、イタリアの数学者達に自分の解析機関について語った。イタリアの数学者達からの質問に答える際、他人を満足させるような説明をしようと苦闘させられたことで、バベッジは自分の考えを明確にすることができた。このセッションの間、一人の若い数学者である Luigi Menabreaが、詳細なノートを取っていた。その後のバベッジによる手助けをへて、Menabrea は、1842年にスイスの雑誌に、フランス語で書いた24ページからなる解析機関に関する記事を発表した。後に、Menabrea はイタリア統一のための闘争に積極的に身を投じ、1860年代には2年間にわたって、新生イタリア政府の総理大臣を務めた。

イギリスに話を戻すと、Charles Wheatstone が、エイダ・ラブレスに、Menabrea の記事を彼女が英語に翻訳したらどうかと提案した。彼女は同意し、バベッジは(エイダ自身による)追加の解題(note)を加えるべきだと言い張った。その解題は、翻訳された記事の2倍の長さにまで膨れ上がった。エイダによる解題を付された翻訳は、1843年に、ロンドンで出ていた Scientic Memoirs という雑誌に掲載された。自身の解題の中で、エイダは、バベッジの指導のもと、解析機関の能力を示すために翻訳よりも多くの説明とより詳細な実例を提供した。

(From Chapter 4 (pp.68-70) of "Charles Babbage and the Engines of Perfection")

思わず長文を引用してしてしまったが、エイダがバベッジの解析機関に関する memoir を書くに至った経緯は、これでクリアになったと思う。

で、この論文は、Menabrea がバベッジの解析機関について解説したもともとの論文に、翻訳者による解題(Notes by The Translator)として、AからGまでの膨大な(翻訳された論文よりも分量が多い)解説がエイダによって書かれている。チューリングが引用しているエイダの発言は、その解題の中の Note G の冒頭部分に書かれているものである。

参考までに、チューリングが引用している部分が含まれる、Note G でエイダが解析機関について述べている部分を見ておこう。Note G の冒頭で、解析機関の能力に関する誇張に用心する必要があること、新しい主題に対しては、人はとかく過大評価か過少評価に陥るものだ、といったことを指摘しておいてから、解析機関の解説がなされる。やや長文になるが、まず原文を引用する。なお、文中のイタリックはすべてエイダ自身によるものである。

The Analytical Engine has no pretensions whatever to originate anything. It can do whatever we know how to order it to perform. It can follow analysis; but it has no power of anticipating any analytical relationsor truths. Its province is to assist us in making available what we are already acquainted with. This itis calculated to effect primarily and chiefly of course, through its executive faculties; but it is likelyto exert an indirect and reciprocal influence on science itself in another manner. For, in so distributingand combining the truths and the formula of analysis, that they may become most easily and rapidly amenableto the mechanical combinations of the engine, the relations and the nature of many subjects in that scienceare necessarily thrown into new lights, and more profoundly investigated. This is a decidedly indirect, anda somewhat speculative, consequence of such an invention. It is however pretty evident, on general principles,that in devising for mathematical truths a new form in which to record and throw themselves out for actual use,views are likely to be induced, which should again react on the more theoretical phase of the subject. Thereare in all extensions of human power, or additions to human knowledge, various collateral influences, besidesthe main and primary object attained.

パラグラフの冒頭部分に、チューリングが引用した文章がある。ざっと訳しておくことにしよう。よく分からないところがあるので、日本語として読める文章にはなっていないが。

解析機関は、なにかを創作すると気取ったりはしない。解析機関は、実行させるにはどうやって命令したらよいか我々が分かっていることなら何だってできる。解析機関は、解析の道筋をたどることはできるが、しかし、分析的な関係や真実に関して何らかの予想を行う能力はまったくない。解析機関の領分は、我々がすでに理解していること(=解析の手法)を、我々が実際に利用できるものにするのを助けることである。解析結果は、解析機関の実行能力によって、なによりもまず答えを出すべく計算されるものである。しかし、別のやりかたで、科学自体に、間接的で互恵的な影響をふるうということはありそうだ。真実と分析の公式とを配置し結びつけることによって、両者は、解析機関の機械的な組み合わせを、もっとも簡単にかつ迅速に適用できるものになり、そのことで、その科学(解析学?)の多くの主題の関係や本質に、必ずや新しい光が投げ掛けられ、さらに深い探求がなされるだろう。このことは、(解析機関の)発明というものの、あきらかに間接的であり、いくぶん理論的でしかない、結果である。しかしながら、一般的な原理に従って、数学的な真理のために新しい形式(それは実際の使用のために記録され投げ出される)を考案することによって、緒見解が導き出され、その見解が、再び主題のより理論的な局面に反応するはずだということ、そういうことはかなり明らかである。主要な基本的な目的を遂行すること以外に、人間の能力の拡張、あるいは人間の知識増大への貢献という点において、様々な付帯的な影響がある。

**訳文をもっと推敲する必要が大いにあり!!**

ようするに、エイダがここで述べていることは、解析機関は単に計算を行うだけであって、何か新しいものを考案する能力は無いが、解析機関によって様々な計算を実際に行えるようになることは、間接的にではあれ、科学の進歩には役に立つ、といったことである。

さて、CMI へ話を戻そう。

チューリングは、エイダの発言に対するハートリーのコメントに全面的に同意する。エイダやバベッジは、当時の技術的な制約などもあって、解析機関に自己反省=反射を行うような特性があるとは思えなかったのだろう、ということだ。

問題になっている機械が、ある意味では自己反省=反射を行うという性質を手に入れていたということは、かなりの率でありそうだ。ある離散状態機械が、この性質を持っているとしてみよう。解析機関は万能デジタル計算機なのだから、記憶容量と処理速度が十分にあれば、うまくプログラミングすることによって、解析機関に問題の機械(=自己反省する機械)の真似をさせることができる。おそらく、このような議論は、バベッジもエイダも思いつかなかったのだろう。いずれにせよ、彼らには、解析機関に関して言い得ることをすべて述べなければならない義務などなかったのだ。

最後の文章が、エイダあるいはバベッジの解析機関に関する意見に対するチューリングの立場がよく出ている。つまり彼ら2人は、解析機関であるデジタル計算機について、そのすべての特性を語った(明らかにした)わけではなくて、当時の技術的な制約によって、彼らにも思いつかなかったようなことがあったのだ、というわけである。この意見には、チューリングのエイダやバベッジに対する敬意(引用されていたハートリーも同じだと思う)が現れているように感じる。しかし、見方を変えれば、バベッジやエイダは、デジタル計算機の理論的な可能性について十分には把握していなかったと言っているのに等しいわけだが、その点は、チューリング自身が自ら考え抜いて見せたという自負があるのかもしれない。

エイダの反論に関連する問題は、学習する機械というテーマで再び取り上げることをチューリングは言っておいて、エイダの反論の変形として「機械というものは、本当に新しいことなど、決してできない」という意見についての考察へと進む。

エイダの反論の変形として、機械は本当に新しいことなど決してできない、という意見を取り上げる。これに対しては、人間だってそうじゃないのか?という反論、つまり、オリジナルなことをしたつもりでも、教育や一般的な原理などによって、そのきっかけとなることは与えられているのではないか?という反論をぶつけている。続けて、やはり変形された反論として、機械は決して人を驚かすことはできない(a machine can never 'take us by surprise')という意見をチューリングは取り上げる。これに対しては、機械はしばしば自分を驚かしていると反論する。この「機械が自分を驚かす」理由として、チューリングは、どのような結果になるか十分に計算できていなかったこと、あるいは、事前に誤った仮定をしたうえで結果を予測してしまうことをあげている。これはチューリング自身の体験であり、ある意味で、チューリングがうっかりしているから機械に驚かされるようなことになるということを言っていることになる。チューリングもその点は認めており、以下のようないいわけをしている。

このような告白は、私の実験のやり方に欠点があるという点に関してお説教されることになるかもしれないが、しかし、私が経験した驚きの証言をする時、それが当てにならないという疑問を投げ掛けるものではない。

とはいえ、やはり、反論としては弱いものであることはチューリングも認め、続けて次のように言っている。

この返答が私への批判を黙らせるとは思っていない。私が経験したような驚きというのは、私の側の創造的な精神の活動によるものであって、機械が人を驚かす性質を持っていないということの反映だ、こう言う人もおそらくいるだろう。この指摘は、先程の自己意識に関する議論へと我々を連れ戻すものであって、機械が人を驚かすという考えからは遠ざかるものだ。詳細に検討しなければならない議論のつながりではあるが、おそらく、次のように言っておくのがよいと思う:何かを驚きとして受け止めるということは、その驚きの出来事を引き起こしたのが、人だろうが、本だろうが、機械だろうが、あるいは他の何かだろうが、とにかく「創造的な精神の活動」が必要になるものだ。

機械は驚きを呼び起こすことはできないという見解は、私が信ずるに、哲学者や数学者が特に陥りがちな誤謬によるものである。この誤謬というのは、事実が精神に提示されればすぐ同時に、その事実のすべての帰結が精神へと沸き起こってくると仮定するものである。多くの状況において、このような仮定はきわめて有用である、がしかし、人は、その仮定は誤っているということをいとも簡単に忘れてしまう。忘れてしまう結果として、データや一般的原理からの帰結から取り出された成果なんかに何の価値もないと考えてしまうのは当然である。

つまり、驚くということは、いうなれば人間の計算能力(知性)の限界の方に関係する問題であって、原因となったできごとを生み出した側の問題ではない、というような指摘である。ある事実がどんな帰結を生じるかをすべて把握しておくことなど、人間にはできない、というわけだ。この議論は、直接は、機械は人を驚かすことはできないという意見に対する反論ではあるが(=機械を動かす前に、その機械がどのような結果を出してくるか、完全な予想などできない)、先程のエイダへの反論と同じ論点である。つまり、人間知性には制約がある、ということだ。AI という言葉の生みの親といわれるサイモンの、限られた合理性(満足人仮説)にもつながるし、見方を変えれば、どんな結果が出るかコンピュータを動かしてみて実験しようというコンピュータによる物理学や数学の実験にもつながる考え方であるとも言える(そういうコンピュータの利用が、複雑系の科学を可能にしたわけだ)。

やや寄り道が入ってしまったが、このパートは、これで終わり、次に、神経システムとの比較の問題へチューリングは議論を進める。

Argument from Continuity in the Nervous System

Argument from Continuity in the Nervous System では、連続機械(continuou machine)と離散状態機械の差異について語られる。デジタル機械はアナログ機械を模倣できるか、という問題が考察されているわけである。

まず、人間の神経システムは、離散状態機械ではないという点が確認される。しかし、チューリングは、離散状態機械は、神経システムのようなもの(彼は、離散状態機械でないものを連続機械と呼ぶ)であっても模倣できるとする。

離散状態機械が連続機械と異なるはずだであるというのは真実である。しかし、模倣ゲームの条件にこだわるならば、質問者は、この違いをうまく利用することはできないだろう。神経システムとは違うもっと簡単な連続機械を考察してみれば、このこと(=離散状態機械と連続機械との差異は模倣ゲームにおいて質問者に何の利点ももたらさないこと)は、もっとはっきりさせることができる。微分解析機(A difference analyser)は、模倣ゲームをうまくこなすだろう(微分解析機というのは、ある種の計算に用いられる、離散状態機械ではないような、機械である)。この機械のあるものは、答えを印字して出力するので、模倣ゲームに参加するのに相応しいものだ。微分解析機がある問題に対してどのような答えを返すかを、デジタル計算機で完全に予想することはできないだろうが、しかし、デジタル計算機は、だいたい正しい答えを出すことはちゃんとできるだろう。たとえば、πの値(だいたい 3.1416 が実際の値である)を求めるように命令すると、デジタル計算機は、3.12, 3.13, 3.14, 3.15, 3.16 の中から、それぞれ(例えば) 5%, 15%, 55%, 19%, 6% の確率で、ランダムに数字を選びだすと考えるのが筋が通っているだろう。このような状態では、(模倣ゲームの)質問者が、デジタル計算機と微分解析機とを区別するのはきわめて難しいだろう。

ここでチューリングが言っているのは、デジタル計算機がアナログのシステムを完ぺきに模倣する(今ならシミュレートするというところだろう)ことはできないかもしれないが、そこそこ正しい(実用上差し支えない)程度には真似ることができるということである。確かに、音楽 CD にみられるように、アナログのデータであっても、サンプリング周波数を高くすることで、ほとんど違いが分からないほどにデジタルのデータによって「模倣」できている。デジタル計算機の万能性(他の離散状態機械を完全に真似ることができる)は、やや劣るとは言え、アナログ(continuous)なものにも適応できるというわけだ。

このパートは、これで終わる。

The Argument from Informality of Behaviour

続いて "The Argument from Informality of Behaviour" に進もう。

このパートで問題になっているのは、人間の振る舞いや行いの規則(ルール)を定式化することはできない(だから、デジタル計算機に模倣させることもできない)という論点である。様々な出来事に対して人間がどのように振舞うかをすべて規則化することなどできないという点に関して、チューリングは同意する。しかし、そのことから、我々は機械ではあり得ないという論点を導くことには異議を唱える。そして、そのような考えを導き出す論理に潜む誤りを指摘する。

このこと(=人間の振る舞いのすべてを規則化することはできない)から、我々は機械ではあり得ないという主張がなされる。私は、このような主張がどのように導かれたのか、その過程を再現して見せようと思うが、うまくやれないんじゃないかと不安ではある。だいたい以下のような展開になるだろう。「すべての人間が、自分の生活を律しているような限定された(有限の)行いの規則を持っているならば、人間は機械と同じようなものだろう。しかし、そのような規則は存在しない。だから、人間は機械などではありえない」。誤った三段論法(the undistributed middle)が目に付く。(人間は機械ではあり得ないという)議論がこの通りに展開されているとは考えてはいないが、しかし、それでも、これが見解を導いている論拠になっていると私は信じている。しかし、この論理の展開には、「行いの規則」と「振る舞いの法則」との混同がある。「行いの規則」というのは、「赤信号を見たら止まる」という教訓のようなもののことである。我々は、その教訓にしたがって行動するし、その教訓を(教訓として)意識することができる。「振る舞いの法則」というのは、「人をつねれば、その人は悲鳴を上げる」というような、人間の身体に適用される自然法則のことである。さきほどの(人間は機械ではないという)主張の中の「人の生活(生命)を律している行いの規則」の部分を「人の生活(生命)を律している振る舞いの法則」に取り換えたならば、あの誤った三段論法はもはやくずれさる。なぜなら、振る舞いの法則によって律せられているということはある種の機械であるということだ(その機械は離散状態機械である必要はないが)ということ、さらにそれだけでなく、逆に言えば、何かが機械であるということはそれが法則によって律せられている存在だということ、この2つのことはいずれも真実であると我々は信じるからだ。しかしながら、「完全な振る舞いの法則は存在しない、それはちょうど完全な行いの規則が存在しないのとおなじことだ」、この主張にはとうてい納得できない。そのような法則を見つけ出すために我々が知っている唯一の方法は、科学的な観察である。そして、「十分に調査を行ったけど、そんな法則なんて無かったよ」と言い得る状況などないということが分かっている。

上の引用文のうちの「振る舞いの法則」は laws of behaviour、「行いの規則」は rules of conduct である。behaviour の方は、言うならば動物的な次元での動作であり、一方の conduct というのは社会的な意味を孕んだ行為のことである。チューリングは、この両者の混同があることを指摘した上で、振る舞いの法則という観点からすれば(つまり我々は本能という自然法則に従っている存在であるということ)、人間だって機械(有限の法則に律せられるもの)ではないか、という反論を行っているわけである。引用文の最後の部分は、ややわかりにくいが、次のような主張だと読める:人間が機械でないと言い得るためには、人間を律しているような有限の振る舞いの法則などないことを明らかにしなければならないが、振る舞いの法則など存在しないという科学的な結論は出てこない。だから、(振る舞いの法則によって律せられている限りは)人間は機械なのだ。さすがに回りくどいとチューリングも思ったのか、続けて次のように言う。

(人間は機械ではないという)そのような主張が根拠のないということを、もっと力ずくのやりかたで証明することは可能である。もし振る舞いの法則が存在しているなら我々は確実にそれを発見することができる、こう仮定してみよう。そうすると、離散状態機械が1台あれば、十分な観察で法則を発見し将来の振る舞いを予想することができ、それもほどほどの時間、千年ぐらいの間にはそうなる、ということは確かだということになる。しかし、この場合は、そういうことではないようだ(そんな大げさな話ではない?)。私が、記憶容量のうちの1000ユニットしか使わないような小さなプログラムをマンチェスター計算機上にのせて、そのプログラムによって機械は16桁の数値を与えられると2秒以内に別の16桁の数値を返すようにしたとする。そのプログラムが返してくる値をもとに、プログラムについてしっかりと理解して、まだ試したことがない数値を入力したらどんな値を返すか予想できるようになるか? 私は、だれに対しても、やれるもんならやってみろ、挑戦するだろう(=誰だってできやしない)。

たかだか1000ユニット(ステップ)のプログラムを動かしても、その処理の法則性を理解することなどできないだろう。まして人間の振る舞いとなればなおさらだ、という主張だろう。やれるもんならやってみろと啖呵を切ったところで、このパートは終了する。

The Argument from Extrasensory Perception

続いて、批判の検討の最後に、超能力による議論をチューリングはとりあげる。

簡単に言うならば、人間には超能力があるが、機械には超能力など無い、だから、超能力の有無で機械と人間の判定は可能になる、そういう立場の意見に対して、チューリングは反論を試みる。

興味深い記述として、「少なくともテレパシーについては、(その存在を示す)統計的な証拠が、否定できないほどある」とチューリングが述べている点である。当時、そのような超能力に関する研究がいろいろと行われていたのだろう(今でも、否定されていないと考えている人はけっこういるのかもしれないが)。チューリング自身も超能力の存在を信じていないようだが、何せ統計的な証拠が見つかっているだけに、笑い飛ばしてしまうわけにもいかないようだ。そこで、以下のような、やや回りくどい議論を行うことになる。

この(ESPの)議論というのは、私の考えにとって、きわめて手ごわいものである。多くの科学的理論は 、ESP とはぶつかるかもしれないが、依然として現実に用いる点ではちゃんと使い物になるようだ、と答えておくことはできる。実際、ESP のことなど忘れていても、研究はきわめてうまくやることができる。とはいえ、これでは慰めにもならないし、思考というものはまさに中でも ESP が関係している現象ではないかという恐れがある。

そこで、チューリングは、ESP を前提とした模倣ゲームの変形版を提示する。つまり、質問者が対する相手として、一方にはテレパシーを感じることができる人間、もう一方にはデジタル計算機をおき、質問者が手にしているカードは何かを当てさせるテストを行うというものだ。人間の方はテレパシーやら透視やらで400回のうち130回ぐらい正答し、機械の方は当てずっぽで答えるから104回ぐらいだろう、だから質問者はどちらが人間かを判定できるというわけである。これに対するチューリングの解答は、結局は ESP なんてものを認めたらどんなことだって起こりうる(With E.S.P,anything may happen)という主張に行き着く。機械が念力の影響で純粋なランダムな回答を行わないかもしれないじゃないか、など、けっこうおかしいことを言ってたりするのだが(機械も超能力の影響を受けるのなら、ランダムよりも正答率が上がって人間との区別がつかなくなる)、確かに超能力がどんな能力なのかはっきりしない以上は、あらゆる可能性を考慮しなくてはならなくなり、結果として、わけわかんなくなるということだ。

で、結局、チューリングは、もしテレパシーの存在を認めるのであれば、「防テレパシー室」(telepathy-proof room)に質問を受ける方を入れるようにすれば、模倣ゲームの条件を満たすことができるだろう、と述べて終わっている。

これで、ようやく、長かった6節は終了である。この後、7節として学習する機械に関する考察が展開される。

Learning machines

最後の節である Learning machines では、学習する機械の構想が語られることになるのだが、その話に入る前にチューリングは、原子炉の臨界と、タマネギの皮という2つの精神のアナロジーについて触れている。

まず原子炉の臨界の方であるが、これは、原子炉(atomic pile)のサイズによって、臨界未満(sub-critical)と臨界超過(super-critical)とに別れることを精神あるいは機械の比喩として用いようとするものである。臨界未満の原子炉は中性子を注入されても連鎖反応が起きずに臨界には達しない。臨界超過の場合には、注入された中性子によって連鎖反応が次々に起きて、炉が臨界に達することになる。これと同じように、あるアイデア(考え)が注入された時、普通の精神は別のアイデアを一つ返すか返さないかという程度でのものであるが(これが臨界未満に相当)、少数の精神は、アイデアの注入をきっかけとして次々と新しい考え(アイデア)が沸き起こり、一つの理論を作り上げるまでになる(これが臨界超過にあたる)。そして、動物の精神というのは臨界未満の精神で、臨界超過の精神は人間のものであるとチューリングは位置づける。つまり、思考というのは、精神が注入されたアイデアによって臨界に達するということだというわけである。そのうえで、チューリングは「機械は思考できるか」という問いを「機械を臨界超過なものに作ることはできるか?」と問い直している。ただし、新しい問いの形式を提示して見せるだけで、チューリング自身、それ以上の考察や展開は行っていない。

この議論で面白いのは、精神(mind)を動物一般が持っているものとし、そのうちのわずか(smallish proportion)のみが臨界超過であり(=これが人間の精神)、他は臨界未満(=人間以外の動物)であると述べていることだ。動物が精神を持つのか、ということ事態、論争を呼びそうなテーマであるが、チューリングはそれについては、何の説明や補足などなく、「Animals minds は確かに臨界未満だと思える」と述べている。このあたりにも、チューリングの精神や思考に関する考え方が現れていて面白い。

続く「タマネギの皮」に関する議論では、機械と精神の差異が問題になる。つまり、端的に言えば、機械化できないものこそが精神だ(機械化できない部分にこそ重要なものがある)ということになってしまうと、どこまでも本質を追いかけていく(=タマネギの皮を剥いで「実」を取り出そうとする)ことが続き、最後には何も見つからないということになるのではないか(言い換えると、結局、皮こそが精神だったということになる)、とチューリングは述べている。

精神(mind)や脳の機能(functions)について考察すると、ある種の動作は純粋に機械的な枠組みで説明できることが分かる。この機械的に説明できるようなものは、真実の精神をとらえたものではなく、真実の精神を見いだすためには剥ぎ取らなければならない皮のようなものである、と言う。しかし、残っているものの皮をむいていっても、さらに剥かなければならない皮が見つかるということが繰り返される。(皮を剥くという)この方法を続けていけば、いつかは「真実の」精神にたどり着くのだろうか? それとも、何も残らなくなるまで延々と皮にぶつかるだけなのだろうか? 後者の場合は、精神全体は機械的なものということだ(とはいえ、すでに議論したように、離散状態機械ではないだろう)。

こちらの場合も、チューリング自身は、はっきりとは結論を述べていない。その点に関して、この2つのアナロジーを述べたことは、自分が正しいことを説得するための議論ではなく、正しいと信じてもらうために唱えてみた文章だと述べている。

いよいよ本題にはいる。6節の始めに自分が述べたこと、つまり50年も経てば模倣ゲームをうまくこなすデジタル計算機が存在しているはずだという予想、それを実現するためにはどんなことが必要になるのかという点を考察しようとする。

6節の始めに述べた見解にたいして提出できる、唯一の皆を実際に満足させられる支持となるものは、今世紀の終わりまで待って、先の述べたような実験を実際にやってみる、そのことによって手にすることができるものだろう。しかし、それまでの合間、我々は何を言うことができるのか? 実験は成功するものだとして、今、我々が行っておくべきことは何なのか?

結局、チューリングは、自分の正しさは、実際に実験(模倣ゲーム)を行ってデジタル計算機が模倣ゲームをうまくこなすという事実によってしか、最終的には示せない(皆を納得させられない)と考えている。そこで、デジタル計算機が今世紀の終わりに模倣ゲームをうまくこなせるようになるために、今から何をしておくべきか(考えておくべきか)という議論へと話題を移すのである。そして、そのための鍵を握るのがプログラミングだという。必要になる記憶容量を 10^9 すくなくとも 10^7 と見積もった上で、その膨大な容量をプログラミングして行く作業というのは、まともに人海戦術でやったりすると手間がかかりすぎる。チューリングの試算では、1日に1000ステップ(彼の表現では digit)のプログラミングが行える人間60人が50日間働き続けて完成することになる。もっと迅速にこなす方法が必要だとしてチューリングが提示するのが、子供の脳をシミュレートしたデジタル計算機に学習を施して大人をシミュレートできるものにする、という方法である。これが、この節のタイトルでもある学習する機械だ。

まずチューリングは、成人の精神の成り立ちを考えることから始める。

我々は、成人の精神を模倣しようとする過程で、成人の精神を今ある状態にまでもってきた過程について十分に考えなければならない。3つの構成部分を取り出せるだろう。

(a) 精神の最初の状態、つまり生まれたときの状態
(b) (大人になるまでに)受けてきた教育
(c) 教育以外で、(大人になるまでに)影響を被ってきたもの

成人の精神をシミュレートするようなプログラムを作ろうとするかわりに、子供の精神をシミュレートするものを作ればいいのではないか。子供の精神をシミュレートするプログラム(が載ったマシン)が、しかるべき教育の課程を受けるならば、大人の頭脳を手に入れることができるだろう。子供の頭脳というのは、文房具屋で買ってくるノートブックのようなものだと思う。メカニズムはほとんど無くて、空白のページがたくさんあるわけだ(メカニズムと書きとめられたものは、我々の観点からすれば、ほとんど同じことを意味している)。子供の頭脳にはほんの少ししかメカニズムがなくて、簡単にプログラムできるようなものであることを期待している。教育の手間の総量は、最初の概算としては、子供の教育にかかる手間と同じだと見積もることができる。

このように、チューリングは、大人の精神を、初期状態+教育+その他影響、としたうえで、そうならば、初期状態=子供の状態の機械を作って、それに教育を施せば、大人の頭脳を持った機械を手にすることができると言うわけである。そこで、この子供の頭脳を持った機械に教育を施すという方法を2つにわけて考察する。

我々は問題を2つの部分に分けたわけだ。子供似プログラムと教育課程である。これらの2つの部分は、きわめて密接につながっている。最初の試みで良い子供機械が見つかるとは思えない。我々は、子供機械(=子供似プログラムを搭載した機械)の一つに教育を行ってみて、その機械がどれほどうまく学んだことを身に付けるかを調べる、そういう実験をしなければならない。そして、次に別のプログラムの機械で試してみて、結果が最初の機械よりも良いか悪いかを調べる。この子供似プログラムを搭載した機械の比較選抜の過程は、以下のように同じと思えるものを結びつけてみれば、進化というものと明らかな関連がある。

子供機械の構造=遺伝因子(hereditary material)
子供機械の変化=変異(mutations)
自然選択=実験者の判断

しかしながら、(自然界での)進化よりも、この機械の比較選抜の過程の方が、迅速に進行すると期待できる。(自然界で見られる)適者生存は、優位性を計るのには、時間がかかる方法である。実験者は、知性を働かせることで、この選択の処理をスピードアップさせることができるはずだ。同じく重要なこととして、実験者は、変異をランダムなものに限る必要はないということがある。ある弱点の原因を突き止めることができたなら、その点を改良するような変異を考えることができるだろう。

ここでチューリングが述べていることは、発想としては進化プログラミングと同じことだと思われる。いろいろなバリエーション(異体)を習得能力という点でふるいにかけて、良いものを探し出すというものである。変異を起こさせるのは実験者の役割のように読めるが、先に自分自身の効率化を図るような計算機械だってありうるとチューリングが述べていたことを考えるならば、自分自身で変異を起こしていく機械で実験してもよいだろう。

この後、チューリングは、教育課程について論を進めていく。

子供機械に施す教育のあり方に関する考察へと進む。まず、最初に、チューリングは、身体的な動作を伴うような教育は子供機械には向いていないことを述べる。そして、ヘレン・ケラーを引き合いに出しながら、教育というものは、コミュニケーションによって行われるものであって、身体を必ずしも必要としないことを確認する。

ヘレン・ケラー女史の例は、教師と生徒との間に双方向のコミュニケーションが何らかの方法で成り立つならば、教育を行うことができるということを示している。

続いて、教育の際の罰とほうび(いわゆるアメとムチ)の用い方についての考察へと進む。子供機械を、アメとムチに反応して学習を行うように作ることは可能である。罰を受けたようなことは繰り返さないようにし、褒美をもらったことは繰り返す度合いを高めるようにすればいいわけだ。つまり、行動パターンの選択の際の重みづけとして罰とほうびを用いるわけである。チューリングは、ここで、アメとムチの教育方法に伴う感情の問題に言及する。

アメとムチの方法の使用は、せいぜい教育の過程の一部でしかあり得ない。大ざっぱに言って、教師から生徒へのコミュニケーションの手段が他にない場合には、生徒が受け取ることができる情報の総量は、アメとムチによる訓練が行われた回数を越えることはできない。一人の子供が詩の "Casabianca" を暗唱させられるとき、もしこの詩の文章が、'20の質問'式、つまり間違うごとに殴られるという方法で教えられたとしたら、その子供は。詩を暗唱できるようになるまでに、とてもしゃくにさわることだろう。それゆえ、(教師と生徒の間の)コミュニケーションに、他のなんらかの'感情的ではない'チャンネルが必要になる。そのようなチャンネルが使えるのであれば、何らかの言語、たとえば記号言語(symboliclanguage)によって与えられた命令に機械が従うように、アメとムチの方法で教育を行うことが可能になる。機械が従うべき命令は、'感情的ではない'チャンネルを通じて伝送されるべきものだ。('感情的ではない'チャンネルを通じた)記号言語の使用は、アメとムチの方法を必要とする回数を劇的に減らすことだろう。

ここでチューリングが述べていることは、実際に行われている教育に対する批判として読めるだろう。つまり、教師が間違った生徒を叱りつけるといったことは、余分な感情的振る舞いが含まれているということだ。何かを学んでいるときに間違ってしまった場合、情報として必要なのは「間違った」という事実だけであり、間違ったという振る舞いに対する教師の怒りといった感情的なことは余分だというわけである。やや強引な解釈になるとは思うが、「間違う」ことが惨めな体験(ムカツク体験)を生徒に強いることは、学習して身に付けるということに対してマイナスであると言っていると読める。情報の伝達にまとわりつく感情的なものを排除することで、より効率的な学習が、少なくとも子供機械の学習の場合には、可能になるというわけである。

なお、上のチューリングの文中に出てきた Casabianca というのは、Felicia Hemans (1793-1835) という女性の詩人によって書かれた詩である。全文は以下のページなどで読むことができる。こののページではチューリングのこの論文に言及しているコメントがついている。

http://www.cs.rice.edu/~ssiyer/minstrels/poems/1000.html

また、Elizabeth Bishops によっても 1946 年に発表されている作品らしい(Hemons の詩へ言及した詩?のようだ)

http://www.cs.rice.edu/~ssiyer/minstrels/poems/999.html

この詩の内容と、チューリングが述べていることの間の連関については、自分としては、なにかを読み取ることはしたくない(というか、詩なので、深読みすれば、なんとでもつながりを読み解くことができてしまうような気がする)。上記のページでチューリングのこの論文に言及しているコメントも、「そうかなぁ?考えすぎでは?」という気がする。とはいえ、チューリングが、アメとムチの教育方法について論じる場面で、あえて(他でもない)この詩のタイトルを持ち出してきているのは事実で、そのことは、もちろん、チューリング自身の何らかの選択・判断を示している。しかし、そこに孕まれている差異(可能性)を読み解いていくだけの知識が自分にはない(当時の英国の小学校ではこの詩を暗唱するのが普通だったのか?なんてことは、考えていても分からないことだし)。

アメとムチの教育方法について述べた後、チューリングは子供機械(子供似プログラム)がどの程度の複雑さを備えているべきかという議論を行う。なるべく単純に作っておいて学習で様々なことを身に付けさせるべきなのか、それともあらかじめ一定の命題などは組み込んでおくべきなのか、という議論である。これは AI をどのように作るべきかという議論と重なっているように思う。いわゆるエキスパートシステムというのが後者の場合にあたるだろう。

子供機械がどの程度複雑なものであるべきかということに関しては意見が分かれるだろう。一般原理だけに則した形でなるべく単純なものとして作ろうとする人もいるだろう。別の立場の人は、完全な論理的推論のシステムを「組み込む」ようにするだろう。後者の場合、記憶領域のかなりの部分が定義と命題によって占められることになる。命題は、様々な種類の状態のものが含まれるものになるだろう。つまり、十分に確定した事実、推測、数学的に証明された定理、権威に裏打ちされた声明、論理的命題の形をしてはいるが真偽は定かでない表現(式)などである。いくつかの命題は命令の形で書かれたものだろう。与えられた命令が確定した事実に分類されるものであった時には、すぐさましかるべき行動が自動的になされる、そんなふうに機械が組み立てられるべきである。…。機械が用いる推論の過程は最も厳密な論理学者をも満足させるようなものである必要はない。たとえば、論理の型などないものでもいいだろう。しかし、だからといって、論理の型の誤りが頻繁に起きるということではなく、我々が柵のない崖から落ちてしまうようなことが起きるのと同じ程度にしか起きないだろう。適切な命令(諸システムの内部で表現されたものであって、システム構成している規則ではないもの)、たとえば「クラスは、それが教師によって言及されたことがあるのサブクラスではない限り、使ってはならない」というものは、「崖の方に近づきすぎてはいけない」という命令と同様の効果をもたらすことができる。

最後の部分が分かりにくいのだが、めったにそんな命令が意味を持つような事態にはならない、ということだと思われる。命令(imperative)についての考察が続く。

手足を持っていない機械が従うことができる命令は、先の例(「宿題をしろ」)のように、知的な性格のものに限られることになる。そのような命令の中でも特に重要なものは、論理システムのルールを適用する場合の順序を規制するものである。論理システムを用いる場合、各ステップにおいて、選択可能な次のステップはきわめて膨大な数にのぼり、論理システムの規則に従っている限り、その選択可能なステップのどれもが適用可能なのである。そういうときにどのような選択を行うかということが、才気走った優れた論者とばかげた論者の違いを生み出す(しっかり根拠を持った論者と、推論を誤った論者の違いではない)。このような種類の命令(=適用するべき論理を指示する命令?)を与える命題としては、「ソクラテスについて触れられた時には、Barbara の三段論法を用いよ」とか、「ある方法が別のものより早いことが証明されていたなら、遅い方の方法は用いるな」といったものになるだろう。こうした命題のいくつかは「権威によって与えられたもの」になるだろうが、別のものは機械自身が作り出したもの、つまり科学的帰納法によって得たもの、になるだろう。

文中に出てくる「Barbara の三段論法」というのは、アリストテレスの三段論法として有名なものをさす。次のようなものだ:

すべての人間は死ぬべき運命にある
すべてのギリシャ人は人間である
それゆえ、すべてのギリシャ人は死ぬべき運命にある

これを一般化したもの(それが Barbara の三段論法と呼ばれるものなのだが)は:

もしAがすべてのBの属性でありIfAis predicated ofall B
BはすべてのCの属性であるならば、andBis predicated ofall C
AはすべてのCの属性であるthenAis predicated ofall C

となる。三段論法のうち正しいものは、中世においては名前で呼ばれており、そのうちのひとつが、Barbara なのである。他に Celarent, Darii, Ferio がある。これらの名前は、三段論法の中で用いられる命題を表す母音を折り込んだものになっている。寄り道ついでに整理しておくと、

AUniversal affiramtive全称肯定すべてのAはBである
IParticular affirmative特称肯定あるAはBである
EUniversal negative全称否定すべてのAはBではない(BであるようなAは存在しない)
OParticular negative特称否定あるAはBではない(BではないAが存在する)

それぞれの命題に付されている母音は、いずれもラテン語からきているものである。で、4つの名前は、以下のように、含まれる母音が、三段論法を構成する命題の種類を示す。

Barbara

A:All A are B
A:All C are A
A:All C are B

Celarent

E:No A are B
A:All C are A
E:No C are B

Darii

A:All A are B
I:Some C are A
I:Some C are B

Ferio

E:No A are B
I:Some C are A
O:Some C are NOT B

なお、チューリングは「ソクラテスの名前が出てきたときには Barbara」と言っているが、たぶん、これは、以下のような三段論法の実例を想定していると思われる(誰もがどこかで一度は見たことがあるやつだと思うのだけど)…

すべての人間は死ぬべき運命にある
ソクラテスは人間である
それゆえソクラテスは死ぬべき運命にある

「ソクラテス」を「すべてのソクラテス」に置き換えれば、この三段論法が Barbara であることが明解になる。

寄り道が長くなったが、本題に戻ろう。チューリングは、推論の仕方を指示すること(プログラムであればアルゴリズムの選択にあたるだろう)の重要性を述べている。そして、論理的に思考している場合でも brilliant と footling の差が生じるのは、数多くの選択肢の中から何を選ぶかの違いだという。このへんは、数学とか論理学での才能の差はどこで生じるのかという議論として読めるだろう。

続いて、学習するということ(=行動様式を変えていく)と、規則に従う(=行動様式は固定)との関係について論じている。

読者のうちには、学習する機械という考えがパラドックスのように思える人もいるだろう。その機械の操作の規則は、どのようにして変えることができるのか? 操作の規則は、その機械の経歴がどんなものであれ、あるいはその機械がどんな変化を被っていようとも、その機械がどのように反応するかを完全に記述するべきものである。このように、規則というものは、まさに時間による変化がないもの(time-invariant)である。これは紛れもない真実だ。パラドックスの説明は次のようになる:学習の過程で変化を被る規則というのは、さほど物々しいものではなく、とりあえずの正しさを主張するようなものでしかない。読者は、アメリカ合衆国憲法との類似点に気がつくだろう。

最後の部分で合衆国憲法を引き合いに出しているのは、合衆国憲法が、憲法の条文は変えず、修正条項を追加することで、その時々の状況に対応してきているということを指していると思われる。たとえば、修正第18条で禁酒法(ちなみに、これは飲酒そのものを禁止したものではなく、酒の販売や運搬などを禁止したものである)を定め、第21条でそれを廃止している。このように、修正条項を次々と適用するようになっている(アプリケーションに次々とパッチをあてて不具合に対応し最新の状態に保つようなもの)。このように、コアとなる規則は学習の過程で変わることはないが、そのコアに付されるような規則(運用規則)は変化していくということだろう。

続いて、学習する機械のブラックボックス性(っていうのも変な表現だが)などについて論を進めている。ここにも、チューリングの知性というものへの考え方が現れていて、興味深い部分である。

学習する機械の重要な特徴の一つは、教える側の人間は、機械の内部で何が起こっているのかということに関しては、たいていの場合、ほとんどわからないままだろうということだ。とはいえ、内部で起こっていることが分からなくても、教える側の教師は、生徒の行動をある程度は予測できるだろう。このこと(=内部が分からないこと)は、試行錯誤を重ねて設計された(つまりプログラムされた)子供機械から成長してきた機械の、ある程度進んだ段階の教育(later education)の場面で、最もはっきりと言えることである。このこと(学習する機械の内部状態が見通せないこと)は、機械を計算処理に用いる通常の手続き(procedure)とは好対照である:通常の手続きの場合は、やるべきことは、計算の各段階(瞬間)における機械の状態を、明確なイメージとして精神に描くことである。(学習する機械の場合は)これ(内部状態を思い描く)は、かなりの苦労をへてやっとできることである。「機械は、我々がどうやってやり方を命令したら良いか分かっていることしかできない」という見解は、この事実を前にすると、奇妙なものに思える。学習する機械に入力できるプログラムの大半は、それが実行されると、我々にとって全く意味不明のことを機械が行うとか、まったくでたらめ(ランダムな)行動を行っているとしか思えないことを機械がするという結果になるだろう。知的な行動というのは、おそらく、計算処理に含まれている完全に規定された行動からの離脱、でたらめな行動や無意味な無限ループには陥ったりしない程度のちょっとした離脱、それによって成り立っているのではないか。機械に、模倣ゲームに参加できるように教育と習得の過程を施すこと、そのことが持っているもう一つの重要な結果は、「誤りを犯すという人間の性質(human fallibility)」は、自然な成り行きで(たとえば、特別な「指導」がなくとも)取り除かれていくものだということである(読者は24-5ページの見解と、ここで述べたことの折り合いをつけなくてはならない)。習得される過程は、100%確実な結果を生むものではない。もし過程が100%確実な結果を生むのであれば、その過程は生得のもの(習わないで得たもの)のはずがない。

最後のセンテンスの解釈が迷うところである。原文は if they did they could not be unlearnt. である。このパラグラフの後半でチューリングが述べていることが、人間の過ちを犯す性質というのは、体験を重ねることで、だんだんと直っていく(誤りを犯さなくなる)ということであるならば、100% 正しいものというのは、経験の積み重ねで得られる行動であって、生得的なものではない、そういうことを言っていると読める。また、習得の時点では決して完全なものではなく、習得したことをもとに経験していくしかないとすれば、全体としては、意味が一貫していると思うのだが、さてどうなのか?

いずれにせよ、このパラグラフの前半でチューリングが述べていることは、学習という要素を機械に持ち込むと、その機械の振る舞いは、ある種のブラックボックスのようになっていくということである。それは、入力に対して思いもかけなかったような結果を返してくるという振る舞いである。そうした振る舞いの中で、あるもの、つまり無茶苦茶ではないが、決まり切ってもいない、そういうものが「知的」なものだとされるのだ、という意見は、創造性に関する議論として面白い指摘である。

続くパラグラフで、チューリングはランダム素子(乱数発生装置)を組み込むことのメリットを述べている。端から順番に解決方法を探していくという方法よりも、ランダムにピックアップしたものを調べていくほうが、選択肢(探査領域)が幅広い場合には有効ではないか、という意見である。ランダムにそのつど選んでいく方法ならば、前回どこまで調べたかを記憶しておく必要もないからいいんじゃないかといったことまで述べている。「ランダムに行うという方法は進化の過程でも同じように用いられているということに注意するべきだ」と述べていたり、先の自由意志の議論とあわせて、チューリングはランダムな振る舞いというものに魅せられていたのかもしれないと思わせる記述である。このあたりは、やはり、進化的プログラミングの発想につながっていると思われる。

ようやくこの節の、そしてこの論文の最後の部分にたどり着いた。論文を締めくくる言葉としてチューリングが語っていることに耳を傾けてみよう。

いつの日か、すべての純粋に知的な領域で、機械が人間と競い合うことを、我々は望んでいる。しかし、何から始めるのがいちばん良いのだろうか? これは難しい判断である。多くの人は、チェスをするといった非常に抽象的な活動に取り組むことから始めるのが最良だと考えている。機械に、お金で手に入れることができる最良の感覚機器を取り付けて、英語を理解し話すことができるように教育する、それがいちばん良いと主張することもできる。この英語の教育であれば、その過程は、子供に英語を教える普通の過程に従うことができるだろう。何かを指し示して、名前を教える、といったことなどである。繰り返すが、私は何が正しい答えなのかは分からない。しかし、両方のアプローチは試されるべきだと考える。

われわれは、ほんの少し先のことしか見通せない。しかし、やらなければならないことは沢山あること、そのことはわかるのである。

これをもって、"Computing Machinery and Intelligence"は終わる。最後は、人工知能の開発の方向性にかんする議論である。人間らしいことを追及するのか、知的であるということを極めるのか、どちらのアプローチもチューリングは否定しない。チューリングが、模倣ゲームで人間同様に機械がうまくやれるようになっていると予想した21世紀になったが、チェスは IBM の Deep Blue が世界チャンピオンのカスパロフを破るまでになった(でもチューリングからすれば、エレガントな解法とは言えないような気もするが)。また、音声認識もけっこうなレベルにまで来ている。そういう意味では、チューリングの未来に、我々は立っているのかもしれない。

ということで、ようやく、チューリングの CMI を読み通す作業は終了である。我々の当初の問い、チューリング・テストの奇妙な設定(模倣ゲームの回りくどい定式化)の意味はなんなのか、について考察する前に、チューリングの手稿を読んで、彼の機械と知性に関する考え方を確認する作業を行うことにする。

Reading "Intelligent Machinery, A Heretical Theory"

チューリングが残した手稿を Turing degital Archive で読むことができる。ここには、講演やラジオ放送の原稿として書かれたものが残っている。スピーチの原稿ということもあって、比較的ストレートにチューリングの考えが述べられている。そこで、Archive で読むことができるものの中から、デジタル計算機と知性の問題について述べたものを2篇読んで、チューリングの考え方を確認しておくことにしよう。

とはいえ、すでに CMI を読むことで確認できたように、チューリング自身のこの問題に対する考え方は

といったことにまとめられるであろう。そして、我々がこだわっている、模倣ゲームの形式であるが、CMI を読む限りでは、チューリング自身は、最初の定式化(女性の真似をする男性の役割を機械に担わせる)にはこだわっておらず、一般に流布しているチューリング・テスト、つまり、「人間と機械が相手をしている状況で、どちらが機械かを判別できるか」という形でよいと考えていたようである。この違いについては、後ほど、きちんと考えてみたいと思う(チューリングの意志/考えに逆らっても、その差異についてこだわってみたい)。

以下で検討するチューリングの手稿についても、あらかじめ述べておくなら、上記のチューリングの立場(考え)を裏書する(新規な視点や矛盾する論点は現れない)ものではある。しかし、CMI のやや回りくどい表現に比べると、明解にチューリングの考えが述べられており、そのあたりを、確認ということで、見ていくことにしたい。いずれも、CMI よりは後のものである。そういう点では、CMI で述べたことをを、言い直している(言い換えている)ものとして読むことができるだろう。

まず "Intelligent Machinery, A Heretical Theory" (「知性を持った機械、ひとつの異端の理論」)をみていくことにする(アーカイブ番号 AMT/B/4)。先に書いたように、このペーパーは講演(講義)の原稿である。

「あなたのかわりに思考するような機械を作ることはできない」(You cannot make a machine to think for you.)、この主張に反論し、思考する機械について述べるのが、このペーパーのチューリングの目的である。

数理論理学者には、この主張は通用しない。というのも、思考することに極めて近いようなことをする機械は理論上は存在しうることが証明されているからだ(it has been shown that there are machines theoretically possible which will do something very close to thinking)。

このように、論理式の真偽を判定することができるような機械(つまりチューリングマシン)はすでに理論上は存在することを述べておいてから、

私が主張したいことは、人間の精神の振る舞いをほぼそっくりシミュレートするような機械を組み立てることが可能である、ということである。その機械は、時には間違いをやらかしたり、新しい興味深いことを述べたりもするだろう。そして全般的には、その機械が出力することは、人間の精神が生み出すものと同じ程度には、注目するに値するものとなるだろう。

と、自分の主張を定式化する。そして、この主張については、

機械が状況に対して実際に行う反応によって(=相応しい反応を実際に示すということによって)、私の主張が正しいことは証明されるだろう(もし実際に証明できるというのであれば)。

とする。このペーパーでは CMI のような理論的な考察(離散状態機械の万能性など)には踏み込まず、あっさりと、実際に、機械がそういうふうに動くところを見せるしかないだろうと言っている(CMI でも、最終的には、同じ主張になっていたわけだが)。そこから、チューリングは、では、実際にどのような反応を機械が示せば、自分の主張が正しいことが「証明」されるだろうか、という点へ考察を進める。いうなれば、機械がどのような振る舞いを示せば、それが「人間の精神をほぼシミュレートしている」と認められるのか、という問題を考察しようというわけである。このように、知性をもつ(思考する)ということを、内部動作の問題ではなく、人間の受容の問題として(広く言えばコミュニケーションにおける属性帰属の問題として)論じるという点は、CMI と同じである。

さて、自分の主張が正しいと証明されるような機械の振る舞いの考察では、すぐに「学習する機械」を論じている。

もし機械が、何らかの方法で、経験から学ぶことができたならば、そのことは、きわめて強い印象を(=チューリングの言っていることが正しいという印象を)与えるだろう。

そして、機械が「経験によって学ぶことができる」という場合、簡単な機械を作って、それに教育を施せばよいという、CMI での「学習する機械」と同じことが述べられる。ここで、教育(機械に経験させること)のあり方について、面白い言い方をしているので拾っておく。

(あらかじめ一定の選択を行った経験を機械に与えること)これは「教育」と呼べるだろう。しかし、注意しなければならないことがある。機械に施す経験を、それらを機械が経験することによって、機械の内部の構造があらかじめ決められていた形へと自動的に組み上がってことが起きる、そういうものにしておくことは極めて簡単なことである。でも、そんなことをするのは、明らかに、まったくのいかさまであって、機械の中に人間を入れておくのと同じようなインチキだ。

ここでチューリングが述べているのは、学習というのは、「何を」経験したか、その内容から学ぶことであって、「経験した」という出来事があらかじめコースの決まった内部変化のトリガーにしかならないものはだめだ、ということである。つまり、内部状態とは無関係に、ちゃんと入力されたものから学んでいくことが求められる、というCMI での主張と同じことなのではある。

これに続けて、チューリングは実際の例として、機械にチェスや碁あるいはブリッジをやらせながら教育することをあげている。会話はテレタイプのようなインターフェースで行い、機械の内部状態を知らない教育者と、機械が壊れたときだけ修理する機械工とによって行われるのがよいと述べている。そして、

先ほど見たように、この教育の過程は、そこそこ短い時間の間に、それなりに知的な機械を製作するためには、事実上、欠くことのできないものだろう。

と述べて、CMI 同様に、教育というプロセスが、知的な機械の作成には欠かせないことを述べている。

続いて、機械の動作(such a machine might be expected to function)へと話を進めている。具体的には記憶のあり方についての話が展開される。

知的な機械は、さまざまな情報(それは記述 statement の形になる)を蓄える記憶をもつことになるが、その記憶は、"index of experience" (経験の索引)をも蓄えたものになるだろう、ということである。つまり、記憶されている事柄に、シーケシャルではない方法でアクセスする方法が必要になるということである(全文検索なんかやってたらとてもじゃないけどやってられない、だから index が必要だってこと)。

次に何をするべきかという選択を為さなければならなくなったときには、現在の状況の様々な特徴が、利用可能な index を使って照らし合わされ、過去の同様の状況での選択も index を通じて探され、そして、良いか悪いかは別にして、結果が発見される。新しい選択はこのように為される。

だが、この索引によって素早く過去の経験を参照することで、新しい判断を行うという方法にも欠点がある。それは、価値判断の問題である。ひとつは、参照するべき(模範とするべき)過去の事例が複数あった場合に、そのうちのどれを選択するか、という問題である。もう一つは、機械自身の行為の結果の評価の問題である。前者の場合(記憶されている事例の価値づけと、指針の導出)については、チューリングは、最初は望ましさの度合いがもっとも高いものを選択するという単純な方針から出発し、やがて機械自身が洗練された選択を行うようになると言っている(経験則のような、原理的な裏付けが無いものの重要性も認めている)。また結果の価値判断については、教師役の人間が、快と苦痛の信号の形で機械にフィードバックすることを提案する。そのフィードバックによって、機械が自分の行動の結果について予想できるようになる(「快」を得られるような行動を望ましいと判断するようになる)というわけである。これは CMI の中で教育の際のアメとムチの用い方について論じた部分と同じ趣旨である(教師の「怒り」の不要を説くことも忘れていない)。

教育の話の後に、チューリングは、ランダム素子(乱数発生機構)を機械が備えるべきだと言う。これも CMI での議論と同じである。ただし、ここでは、テープ上に同じ数だけの 1 と 0 をバラバラに並べておいたものを、機械が選択の際に用いるという具体例が述べられている。乱数が入り込むことで、経験によってすべてが決定されてしまうことから逃れることができるというわけである。また、CMI では述べられていなかったこととして、ランダム素子によって機械の発達の進み具合(degree of development)をある程度コントロールできるようになるという。この部分は、やや読み取りにくいのだが、ようするに、実際に選択を行うかわりに乱数に基づいて行動させて経験を積ませることによって、機械の学習を進展させうるということのようである。CMI での議論を引っ張ってきて、乱数によって行動させることを繰り返して、その中からうまく行ったものを選んでいけば、手っ取り早く上手に振舞うものを選抜できる、という読みをすれば理解できるのだが、原稿からはそこまでは確信が持てない。

このような議論を経て、ペーパーは最後のパラグラフになる。若干意訳ぎみになるが、ざっと訳しておこう(意訳が混じることを示すために「です・ます」調で書いておく。超訳ってやつかな。CMI を超訳するってのも面白いかもしれないな)。

これまでの議論によって、皆さんが、思考する機械というものが本当に存在しうると認めて、実際にそのような機械を作ってどうなるかを見てみようなじゃないか、と思ったとしましょう。思考する機械を作った結果を見るまでには、もちろん、強力な反発にぶつかることになります。私たちの宗教的寛容が、ガリレオの時代にくらべて十分に広いものへとなっているなら話は別なんですけどね(まぁ、まだそんな状態ではないでしょう)。自分の仕事を奪われるかもしれないと恐れる知識人の人々からの強い反発にもぶつかるでしょう。でも、そういう知識人は、たぶん、思考する機械の影響について、勘違いしてるんだと思われます。機械が何を言おうとしていたのかを理解しようと、するべきことはいっぱいあるはずなんですよ。つまり、機械によって生み出される規範とかに自分の知性が置いていかれないようにするのが大変になるってことです。というのも、ひとたび機械が思考し始めたら、われわれ人間の乏しい能力を追い越すのに、そんなに時間はかからないと思うんですよ。機械は死なないというのは疑問の余地はないでしょう。そして、機械たちは、自分たちの知力に磨きをかけるために、互いに話し合うことができるようになるでしょうね。ですから、ある段階にまで達すると、サミュエル・バトラーが『エレホン』の中で述べたみたいに、機械が支配力を握るってことを予想しなくちゃいけないでしょうね。

最後のバトラーの『エレホン』というのは、いわゆるユートピア小説の系譜に位置づけられる小説(エレホン= Erewhon はnowhere を後ろから綴ったものになっている)。機械の支配を恐れた人々が機械をすべて壊してしまうという話(らしい)。サミュエル・バトラーの『エレホン』の原文は、ネットの色々なところで読むことができるようになっている。全文をまとめて読める(1ページになっている)ものとしては、グーテンベルクプロジェクトのものなどがあるが、以下のページが個人的には便利だと思う。

The Naked Word electronic edition of Erewhon by Samuel Butler, 1901

『エレホン』の中に「機械の書」と題された章があり、そこで機械と生命体との比較考察が行われているのだが、ざっと読み流してみたが、なかなか面白い内容であった。一度、しっかりと読んでみたいとは思う。機械論あるいはダーウィニズムといったものが俎上にあげられた小説のようだ。そういう意味で、チューリングが気にしているのも分かる。

チューリングの講演原稿に話を戻すと、けっこうブラックな終わり方ではある。機械が思考し始めたら人間なんて置いてかれるよって平気で言ってしまうのは、よっぽど機械の可能性を信じていたんだろうな。あるいは、人間に愛想を尽かしていたのか。CMI を読んできた我々には、このチューリングの発言が、彼にしてみれば、決して誇張やこけおどしではなく、むしろ思ったままを素直に述べた文章だと思える。チューリングのアンチ・ヒューマニズムの爽快さみたいなもんを感じる。まぁ、タイトルで異端を名乗るだけのことはあるというところか。

ということで「知性を持った機械、ひとつの異端の理論」の内容を駆け足で確認してみた。チューリング・テストという我々の中心的な問題に対して、直接につながるような記述(発言)は見られないのだが、チューリングの機械と知性に関する考え方を再確認できた。また、記憶の index (索引)のような、具体的なあり方への記述などは CMI の内容を広げたものとして、面白いところである。

なお、この "Intelligent Machinery, A Heretical Theory" の Digital Arcive の手稿(AMT/B/4)には、2つの版が収録されているが、ここでは、その2つの異同の検討などは省いた。ほとんど同じ内容になっているからである。

Reading "Can Digital Computer Think?"

さて、手稿読解の2つめ、BBC の放送原稿とされる "Can Digital Computer Think?" に取り掛かろう。この手稿では、デジタル計算機は脳とみなせるかという問題が論じられている。この手稿は短いものなので、すべてを訳してある。ただし、手稿の訂正の書き込みで読み取れない部分もあったりすることから、厳密な訳ではなく意訳になっている部分もある。また、原文には無い文章を補った部分は[]で囲ってある。解釈が微妙な部分は原文を併記する。

デジタル・コンピュータは機械的な脳だ、これまで、しばしば、そんなふうに言われてきました。とはいえ、ほとんどの科学者は、おそらく、この表現は新聞が人目を引くためにつかった表現でしかないと見なしているでしょう。しかし、そうでもないと考える科学者もいます。そんな立場のある数学者は、次のような表現で力を込めて私に言ったことがあります「これらの機械は脳じゃないって普通は言われてるけど、君と僕は、こいつが脳だってことが分かってるよな」。デジタル・コンピュータは脳とみなせるかという問題に対して色々な立場から意見することが可能なわけですが、そうした色々な立場の人がどのような考えを基にしているのかを、この講演で、私は説明しようと思います。もっとも、それぞれの立場をまったく公平に扱うことにはならないのですが。そして、私自身の見解、それはデジタル・コンピュータを脳と見なすのはそれほど間違ったことではないというものなのですが、この見解をじっくりと展開することに時間をかけたいと思います。異なった立場からの見解は、すでにハートリー教授によって述べられています。

このように、デジタル計算機を脳と見なすことは妥当かどうかという問題に対する、いくつかの立場の意見をとりあげて、それを検討していきながら、チューリング自身の立場の説明を行おうというわけである。CMI での反論の検討部分(それが CMI では一番分量が多かった節なのだが)と重なるものである。実際、取り上げられる意見や人は、CMI と同じものが使われたりしている。

最初に、街を行き交っているようなごく普通の人たちの素朴な見解について考察してみましょう。そういう人たちは、デジタル・コンピュータという機械がどんなことができるのかについて、びっくりするような話を耳にすることでしょう。そうした話の大半は、コンピュータは彼には絶対に出来ないようなことを軽々とやってしまうという知的芸当についての話になりますよね。そうすると、彼としては、話に聞いたことを納得するには、コンピュータというのは脳みたいなものなんだという説明を付けるしかできないわけです。もっとも、彼としては、自分が耳にしたことなんか信じない方を選ぶかもしれませんが。

まず普通の人の意見というものが取り上げられるのだが、この場合は、自分ができないような計算の早業などを計算機が行うといったことを伝え聞けば、まぁ、脳みたいなもんかもしれないとは言うだろうが、それを信じるわけではないだろうとする。

2番目の意見としてチューリングが取り上げるのが、CMI での触れていたエイダの「機械は命じたことをするだけであって、新しいものを生み出すわけではない」という意見であり、大半の科学者がこの立場だとする。

科学者達の大半は、デジタル・コンピュータが脳であると考えるのは、迷信を信じるのと同じようなものだと、軽べつしています。科学者達は、コンピュータがどんな原理に基づいて作られており、どんなふうに使われているかといったことについては少なからず分かっています。そういう科学者達の見解というのは、[バイロン卿の娘で史上初のプログラマーとかハッカーと称されるエイダこと]ラブレス伯爵夫人が、100年ほど前に、バベッジの解析機関について述べた意見に集約されるでしょう。ハートリー氏がすでに引用されていますが、ラブレス伯爵夫人は、次のように言ったわけです。「解析機関は、何か新しいものを生み出すことができるかのように振舞ったりすることは決してない。解析機関は、我々が実行の仕方を命令できることを、なんでもやるだけだ。」この発言には、現在、あるいはこれから先の何年間にもわたって、デジタル・コンピュータがどのように使われるのかが非常によく表現されています。どのような計算業務であっても、コンピュータがやりとげるべきすべての処理手続きは、数学者によってあらかじめ計画されたものなわけです。予想してないようなことが起こる恐れが少ないほど、数学者は喜ぶわけです。軍事作戦の計画と同じですね。このような状況では、機械は何も新しいものは生み出さないと主張するのも、まぁ、至極当然なことです。

しかしながら、3番目の立場の意見というものがあります。これが私の意見です。私は、ラブレス伯爵夫人の断定にある程度は同意します。しかし、彼女の意見が正しいのは、どのように使われているかという点(現実)で考える限りのことだであって、デジタル・コンピュータがどのように使われうるかという点(可能性)を考えたものではない、そう私は信じています。デジタル・コンピュータが脳であると表現することを何の違和感も感じさせないような振る舞いをみせる、そういう仕方でデジタル・コンピュータをで使うことができるはずだと、私は実際に信じています。また、次のようにも言っておきたい。「何かの機械を脳であると言うのが適切なのであれば、どんなデジタル・コンピュータも、同じように脳だと言うことができる」(If any machine can appropriately be descruibed as a brain, then any digital computer can be so described.)。

最後の言葉には、ちょっと説明が必要ですね。なにやらびっくりさせるようなものになっていますが、どうしても避けて通れない事実について述べたものなんです(It may appear rather startling, but with some reservations it appears to be an inescapable fact)。デジタル・コンピュータのもっている特性の一つ、私はそれを万能性(universality)と呼んでいるんですが、その特性によって、先程の私の発言が正しいということをお分かりいただけるんです。デジタル・コンピュータというものは、あるけっこう広い範囲に分類されるような機械にとって変わるように作ることができるという意味で、万能機械(a universal machine)なんです。[だからといって]ブルドーザーや蒸気機関あるいは望遠鏡に取って代わることはありません。でも、計算を行う他の似たような機械、つまりデータを入力すると何かの処理を行ってその結果が後ほど出力される、そういう機械であれば、デジタル・コンピュータはそれにとって代われるものなのです。目の前に1台の機械があるときに、その機械が与えられた状況でどのように振る舞い、どのような結果を出力するか、そのことを計算するようにデジタル・コンピュータをプログラムするだけで、デジタル・コンピュータは、その機械の真似をするんです。機械と同じ答えを出力するようにコンピュータを仕立てることができるというわけです。

ある機械が脳と呼ぶに相応しいものであったならば、その機械の真似をするようにデジタル・コンピュータをプログラムしさえすれば、デジタル・コンピュータも脳と呼ぶのに相応しいものになるわけですね。もし、実際の脳、つまり動物や、なによりも我々人間の頭の中にある脳、その脳がある種の機械のようなものだということを認めるならば、我々のデジタル・コンピュータは、ちゃんとプログラムすれば、脳と同じように振舞うということになります。

チューリングがこの講演で述べようとしていることのポイントはクリアーである。デジタル計算機のもっている可能性を、デジタル計算機の万能性(メタ−マシンになりうるという性質)から述べていこうというわけだ。そして、脳というものも、ある種の計算機械みたいなものだという点が、その論点のコアにあるというわけである。もちろん、この考え方は、いくつかの問題になる仮定をふまえたものでしかない。その点をチューリングは考察していく。

デジタル計算機によって脳をシミュレートできるという主張を成立させるための条件の考察が続く。その中で、十分な記憶容量と実行速度が必要といった、CMI を読んできた我々にはお馴染の話題が語られている。

この主張は、異論を唱えられて当然ないくつかの仮定をふまえたものになっています。すでに説明したように、デジタル・コンピュータが模倣する対象の機械は、ブルドーザーのようなものではなく、計算機のようなものに限らなければなりません。このことは、我々が問題にしているのは脳に機械的に似ているもののことであって、足や顎などが問題なのではないということをふまえたまでのことです。さらに、模倣の対象に機械は、その振るまいが原理的には計算によって予測できるものである、そういう機械でなければなりません。とはいえ、機械の行動を予測する計算というものをどうやって行ったらいいのか分かっていないのは確かです。また、アーサー・エディントン卿が論じられた量子力学の不確定性原理を考慮すると、そのような振る舞いの予測というのは、理論的にも不可能なのかもしれません。

私の先ほどの主張のもう一つの仮定というのは、使用するコンピュータの記憶容量は、模倣するべき機械の振る舞いの予測を行うのに十分な容量でなければならないということです。また、計算速度も十分に速い必要があります。我々が現在手にしているコンピュータは、おそらく、処理速度は十分でしょうが、必要な記憶容量を備えてはいないでしょう。ですから、人間の脳のような複雑なものを模倣したいと思うならば、我々が現在利用できるどんなコンピュータよりも、はるかに大きなコンピュータを実際は必要とするということなのです。おそらく、少なくともマンチェスター・コンピュータの100倍の規模のコンピュータが必要でしょう。もっとも、情報を記録しておく技法に十分な進歩がみられたならば、マンチェスター・コンピュータと同じかそれよりも小さな規模のコンピュータでもうまくやれるかもしれません。

続いて、計算機の複雑性について興味深い発言を行っている。

使用するコンピュータの(機械としての)複雑性を増す必要などないということは、ぜひとも言っておかなければなりません。(It should be noticed that there is no need for there to be any increase in the complexity of the somputers used.)複雑な機械、あるいは脳、そういうものを模倣しようとするなら、そのためにはより大きな(larger)コンピュータを使用する必要があります。しかし、だからといって、より複雑なもの(complicated ones)を使う必要はないのです。こういうと、なにやらパラドックスのように聞こえるかと思いますが、それがパラドックスではないことを説明するのは、そんなに難しいことではありません。コンピュータに何かの機械を模倣させるためには、コンピュータを作成しなければならないのはもちろんですが、そのコンピュータをちゃんとプログラムするということも必要になります。模倣しようとする機械が複雑になるほど、それに応じて複雑にならないといけないのはプログラムなのです。[つまり、コンピュータそのものではなく、プログラムの複雑性が増すことになるのです。]

ここでチューリングが述べていることは、模倣対象の複雑さには、計算機という機械の複雑さではなく、プログラムの複雑さで対応する(できる)のだということである。プログラミングで様々な複雑さに対処できるということにこそ、万能機械としてのデジタル計算機の特質があるわけだ。

続けて、チューリングは、アナロジー(譬え)で、プログラムの複雑さに関する説明を行っている。

このこと(プログラムが複雑になるということ)は、たとえ話によってはっきりと分かってもらえるのではないかと思います。二人の男がいて、それぞれが自伝を書きたいと思っているとしてください。片方の男の方は、波乱に満ちた人生を過ごしてきており、もう片方は波風の無い人生を過ごしてきたとします。波乱に満ちた人生を過ごしてきた男の方は、もう一人の方に比べて、2つの大きな困難に悩まされることになります。つまり、書くことが沢山あるために紙が沢山いるということと、自分の体験をどのように言葉にすれば良いかということに悩まなければならないというわけです。紙が沢山いるという問題は、彼が砂漠の孤島に居るのでもなければ、それほど深刻な困難ではないでしょうし、いずれにせよ、技術的あるいは資金的な問題ではあります。もう一つの困難、つまりどう表現するべきかということは、より根本的な問題ですし、深刻なものです。まして、彼が自分の人生についてではなく、彼が何も知らないこと、たとえば火星における家族生活なんてものについて書かなければならないのだとしたら、どう言い表すべきかという問題はいっそう大きなものとなるでしょうね。コンピュータに脳のような振る舞いをさせるようプログラミングするという我々の問題は、ちょうど、砂漠の孤島で火星の家族生活についての論考を書こうとするようなもんなんです。必要となる記憶容量も手に入らない、つまり論考を書くための十分な紙もない、そればかりか、たとえ紙を手にしたとしても、何を書いたらいいのか分からない。これはもう散々な状況ですね。とはいえ、先程の比喩を続けるなら、書き記す方法を見つけたいこと、書きたいことはある。また、大半の知識は本の中に表現できるという事実は分かっている。[表現するべき対象ははっきりと分かっているし、それが表現できるだろうということも分かっているわけです。ただ、じゃぁ、具体的にどうするんだということがよくわからないというのが問題なわけですね]

このように、実現の問題(実装の問題)が大きなことをチューリングは認める。特に、2つの困難のうちの後者の方、つまり具体的にどのようなプログラムを書けば良いのかという点が分からないという点は、大きな問題であることを認める。そのことを認めながら、自分の信念を語る発言が続くのだが、その中で、模倣ゲームへ言及している。

こうした点からすれば、デジタル・コンピュータを「機械的な脳」とか「電子的な脳」と呼ぶことを批判するための最もするどい理由は、「たとえコンピュータを脳と同じように振舞うようプログラムできるのかもしれないが、現時点で、そのためにはどうするべきなのか分かってないじゃないか」、そういうのだと思われます。この見解に対しては、私は完全に同意します。[確かに、我々は、どうしたらいいのか分かっていません。]しかし、脳のようにコンピュータを振舞わせることができるプログラムをやがては見いだせるのか、それとも見いだせないのか、ということ[つまり、この先、ずっと無理なのか、それとも実現の可能性はあるのかということ]、その問いは、決着がつかないままに残ります。私は、個人的には、そのようなプログラム、デジタル・コンピュータを脳のように振舞わせられるプログラムが見つかると信じたいのです。たとえば、今世紀(20世紀)の終わりまでには、質問に答えるようにコンピュータをプログラムすると、その答えは、人間が答えたものかコンピュータが答えたものかを判別するのが極めて難しいものになる、そういうことができるだろうと考えています。機械に対して口頭試問のようなものを受けさせることを考えての話なのですが、それを行う場合には、人間らしい声が正確に真似できるかといった本質とは無関係の点を気にしなくて済むように、質問と答えはすべてタイプライタ−で印字したものになるでしょう。これは私の意見を表したものでしかありません。他の人は、別の考えがあるでしょう(there is plenty of room for others)。

このパラグラフの中で、チューリングは20世紀末までには模倣ゲームにパスするようなプログラムを作成することができるだろうと述べており、それは CMI で述べられていたことの繰り返しではあるが、この文章では、「質疑応答を行った際に、その回答の主が人間か計算機(機械)か分からない」というのが、模倣ゲームの問題となっている。つまり、一般に流布しているチューリング・テストの形式そのもので書かれているわけだ。そういう点で、チューリングは、 CMI で回りくどい定式化を行っているが、結局のところ、「人間と区別できないような振る舞い(出力)ができるかどうか」で判定する(できる)というものだということになるだろう。

続いて、自由意志の問題へとチューリングは論を進める。脳と同じように振舞うのであれば自由意志を持っているべきではないかという問題である。プログラミングによって振る舞いを規定される計算機は、自由意志とは対局の決定論のものだということになる。ここには「自由意志と決定論」という古くから議論されてきた問題があるわけだ。それに対するチューリングの解答を見てみると:

その他にもまだ難しい問題がいくつかあります。脳のように振舞うということには、自由意志を思っているということも含まれると思われています。しかし、デジタル・コンピュータの振る舞いは、プログラムされたものなのですから、それは完全に決定されたものということになります。[つまり、デジタル・コンピュータには自由意志が入る余地など無いように思えます]。この二つの事実[脳の自由意志による振る舞いと、プログラムによって決定されたコンピュータの振る舞い]を、なんとか辻褄合わせしなければならないのですが、そうすることは、長年にわたって議論されてきた「自由意志と決定論」というあの論争の泥沼に足を踏み入れるように思われます。この泥沼から抜け出る解決案は2つあります。一つは、我々だれもが感じている自由意志をもっているという感覚は錯覚であるとするものでしょう。あるいは、我々が実際に自由意志を持っているのだとしても、我々の行動から我々が自由意志を持っていることを明らかにする方法はない、というものです。後者の考えにたつなら、機械が人間の行動をどれほど上手に真似したところで、それはただの見せかけにしかすぎないと考えることになります。[我々の自由意志というものは行動からは計り知れないものだというのですから、いくら行動が似ていても、自由意志そのものを持っていないとだめなわけです]この解決案のどちらを選択できるのか、私には分かりません。しかし、人間の自由意志の考え方としてどちらが正しいものであろうとも、確実に言えることは、脳を真似するように作られた機械は自由意志を持っているかのように振舞う必要がありますし、どうすればそのような振る舞いができるのかはじっくりと検討されるだろうということです。一つ考えられる方法としては、コンピュータを、ルーレットを回して出た目とか、乱数を与えて、それに基づいて行動するようにするというものですね。こうした場合、[起こりうる事象の数はそれでも有限ですから]確かにコンピュータの振る舞いは原理的には予想可能なわけですが、それでも、我々は予測する方法は分からないわけです。

お馴染の乱数の話が登場するわけである。CMI や前の手稿でも出てきた話題である。ただ、自由意志の問題に対するチューリングの考えかは、一番クリアーに述べられているように思える。つまり、計算機が人間と同じ自由意志を持つかどうかということ自体は、自由意志とは何かという哲学的な問題に解答することになるので踏み込まないが、乱数を持ち込んで、実際の人間にとっては予測不可能な振る舞いをするような計算機を作れば、振る舞いという点では自由意志を持っているかのように見える/思えるだろうというわけである。このように、自由意志も関係性においてとらえること、つまりコミュニケーションにおいて相手に認知させる属性という次元で考えること、そういう立場をとるという点で、チューリングは一貫している。

ただ、乱数を組み込むことが本質的なことではないことをチューリングは釘を刺している。

とはいえ、実際にそのようなことをする必要はないでしょう。機械の仕組みを詳しくは知らない人から見ればきわめてランダムに振舞っているように見える、そういうふうに機械を設計するのは、難しいことではありません。もちろん乱数装置を組み込むというので十分なのですが、それでも、[自由意志を持つかのように振舞わせるのに]たとえどんな技術を使おうとも、我々の本来の問題、つまり機械を脳を真似するようにプログラムする、あるいはもっと端的に言うと、やや正確さには欠ける言い方ですが、機械が思考するようにプログラムする、それにはどうしたらよいのかという問題が解決されるわけではありません。とはいえ、コンピュータの中のプロセスがどのようなものになるかという点について、なにがしかの見通しを与えてくるものではあります。我々は、コンピュータが何をするか分かると、いつも期待してはいけないんです。機械が我々を驚かすようなときには喜ぶべきなんですよ。それはちょうど、生徒が教えてもないようなことをやり遂げたときには喜ぶ、それと同じことなんです。

「驚かす」という話が出たところで、チューリングは、再びラブレス伯爵夫人(エイダ)の意見をとりあげて論じる。

ラブレス伯爵夫人の意見、「機械は、我々が実行の仕方を命令できることを、なんでもやるだけだ。」という意見をふたたび考察することにしましょう。この意見の後半部分の意味していることは、機械は我々がやり方を命令する方法を知っていることだけしか実行できない、そういうことであると言いたくなります。しかし、私は、それは正しくないと考えます。確かに、機械は、我々が実行するように命令したことだけしかできません。それ以外のことを機械が行ったとしたら、それは機械的な誤りでしょう。しかし、我々が機械に何をするのかはっきりしている命令を与えたからといって、その命令を実行した結果がどういうことになるのかまでも分かっていると考える必要はありません。命令が機械にどのような具体的な振る舞いを起こさせることになるのかまでも理解する必要がないということは、ちょうど、種を地面に蒔くときに、その種の発芽のメカニズムを理解している必要がないのと同じことです。種を蒔いた人が発芽のことを理解していようがいまいが、そんなことには関係なく種は成長します。機械にプログラムをあたえて、そのプログラムの実行結果が我々の予想もしてなかった面白いことになったとします。その時、そうした予期しないような機械の行動は、プログラムの中に暗黙に含まれていたもので、創造性はすべて我々人間の側のものだという主張することもできるでしょう。しかし、私は、そのように主張するよりも、機械がなにか新しいことを創造したと言うほうがよいのではないかと思うのです。

ここで述べられていることは、プログラムが計算機のすべての実際の振る舞いを規定するのではないということである。この議論は、最近の複雑性(複雑系)の議論のエッセンスと同じだ。生物の形態発生(morphogenesis)に関する論考も発表しているチューリングとしては、決定された系からの創発現象が生じうるという点は、譲れない論点だろう。

以上のような議論を展開したところで、チューリングは、このペーパーの総括に入るのである。

最後の部分で、チューリングは、機械が考えるということに対する人々の反発、それも非合理な(理屈では割り切れない)反発について述べて、このペーパーを終わっている。

「機械を思考するようにプログラムする」にはどのようなプロセスを踏めばいいのかということについて、ここで多くを語るつもりはありません。その方法について我々が分かっていることはとても少ないし、研究もまだほとんど為されていない、それが実情です。色々な考え方がありますが、そのうちのどれが重要なのかも分かっていない。探偵小説のことを思い浮かべてくもらうとよく分かると思うのですが、調査を開始した時点では、どんな些細なことでも謎解きをする人間には重要に思えるわけです。探偵小説の場合、いったん問題が解決されてしまうと、本質的な事実だけを陪審員に告げれば良いことになります。しかし、現時点での我々の状況は、陪審員に語るようなことは何も無いという状況なわけです[調査を始めたばかりで、何が本質なのか皆目検討がつかないという段階でしかないわけですね]。私が、今言えることは、コンピュータを脳と同じように振舞わせるプロセスは、教育というものに密接に関係があると私は信じているということだけです。

機械を思考するように作ることはできる、この主張に対する、理論的・理性的な賛成あるいは反対の理論について説明しようとしてきました。しかし、非理性的な、理屈では割り切れないような意見についても、触れておかなければなりません。多くの人たちは、思考する機械という考えに激しく反発します。でも、私は、そうした反発は、私が説明してきたような理由だとか、その他の理論的な理由によるものではなくて、単に、思考する機械という考え方自体が嫌いだという、それが理由だと信じています。不快感を感じるような多くの特徴を機械に見いだせるわけです。もし機械が思考できるのであれば、機械は我々よりもずっと知性的に思考するでしょうし、そうなれば我々には立つ瀬がないじゃないか。たとえ、我々が機械を、いざという時には電源を切っちゃえるというように、我々の言いなりになる立場に留めておくことができたとしても、人間という種としての誇りは痛く傷つくことになります。同じようなことになる恐れ、矜恃を傷つけられる恐れというものは、豚やネズミが我々よりも優れた存在へと進化する可能性によってももたらされるものではあります。豚やネズミが我々よりも優れたものに進化しうる可能性は、理論的にはありうることで、そのことへの反論の余地はほとんどないことです。しかし、私たちは、豚やネズミ達が我々よりも知的になるという恐れなど抱くことなく、長年にわたって、共に生きてきていて、そんなことが起こる心配などして無いわけです。もし豚やネズミが我々よりも知的に進化するようなことが万が一あったとしても、それはこの先の何千年という時間を経たその先のことことだろうと感じています。しかし、機械が我々の知的存在の座を脅かす危険は、もっと差し迫ったものなのです。もし本当に機械が人間の知性を追い越すようなことが起きるとしたら、それは次の千年紀のうちには起こるのは確実でしょう。次の千年紀というと今からずいぶんと離れてはいますが、天文学的に離れているわけではありません。また、機械が我々の知性を上回るかもしれないということは、確かに我々を不安に陥れることができる予想ではあります。

このような話題を取り上げた講演や記事というものは、最後には人間にとってちょっとは慰めになるようなことを述べるのが普通でしょう。[たとえば、いくら機械が発達したからといって]人間には決して機械なんかに模倣されることなんかあり得ない特性があるんだと、そういった意見を述べるなんてことをするのが普通なわけです。それに倣うなら、例えば、機械は上手に英語を書くとか、性的魅力で人を虜にするとか、パイプで煙草を吸うとか、そういうことはできない、こう言っておくのがよいのかもしれません。でも、私は、そんな慰めは、いっさい述べることはできません。というのも、機械に、何かはできないというような限界を課すことはできないと信じているからです(I believe that no such bounds can be set)。人間ならではの特徴、それも知性とは無関係な特徴を、機械に備えさせようとする、たとえば姿を人体に似せるとか、そういうことに力を注ぐことは無いと私は願っていますし、そんなことはあり得ないと信じています。機械を人間に似せるなんてことをしてみても、それはあまりにもむなしいことですし、造花のようなどこかしら違和感にみちたものになってしまうのは目に見えている。私にはそう思えます(*手稿のこの文章の部分にはチューリングの手書きによる修正がかなり書き込んであるのだが、残念ながら、正確には判読できなかったので、判読できた部分から想像した文章にしてある)。思考する機械を作る試みは、人間に似た機械を作ることとは、違った次元の話だと私には思えます。思考のプロセス全体は、いまだ、我々にとって神秘のベールに隠されたものです。しかし、思考する機械を作るという試みは、我々自身がどのように思考しているのかということを明らかにするのに非常に役に立つものであると、私は信じています。

このように、現状ではすぐに実現することは無理だとしながらも、チューリングは、機械(計算機)によって脳をシミュレートする(思考する)ことは可能になることを確信しているということが述べられて、この講演は終わる。

CMI と2つの手稿を読んでくることによって、チューリング自身の計算機と知性に関する考え方は、ほぼ明らかになったといえる。それをふまえて、我々の本来の問題、チューリング・テストの形態の問題を考えることにしよう。

Commentary on Turing Test

01

さて、チューリングの論文を一通り読み終わったところで、改めて、チューリング・テストそのものに立ち戻って、考えてみることにしよう。なお、ここからは、computer は、これまでの計算機ではなく、コンピュータという訳語でいく。

まず、基本的なことではあるが、チューリング・テストとは、「コンピュータが、人間と同じ程度には模倣ゲームをうまくこなすならば、そのコンピュータは『思考している』と言ってよい」と定式化できる。もちろん、チューリング自身が「チューリング・テスト」という名のもとで定式化したものではない。CMI の中では、「機械は考えることができるか」という問いを、いかに判定可能な形(日常言語の曖昧さに振り回されない形)のものに定式化し直すか(置き換えるか)が焦点になっている。つまり、「思考している」かどうかの判定方法が問題になっている。

そこでチューリングが提案したのが、まず人間によって行われる「模倣ゲーム」という形式のゲームを考え、それをコンピュータが人間同様に行えるか、ということで判定できるだろうというものであった。まず最初のポイントとして、模倣ゲーム自体は、人間が行うものになっているわけだ。

別室に男性と女性の2人がいて、彼らがターミナルを通じて文字だけによって質問者と通信を行う。そして、質問者は、文字による通信から、どちらが男性でどちらが女性かを判別することを要求される。さらに、男性は、質問者を間違わせることを目的として振舞う。一方の女性は、質問者が正答を得るのを助けることを目的として振舞う。これが模倣ゲームの枠組みである。

チューリングによって「模倣ゲーム the imitation game 」という名前が付けられていることから、上記の枠組みでは男性は質問者を惑わすために女性であることを装うのだとすぐに思ってしまうのだが、厳密に考えれば、男性がとりうる戦略は、それに限らないはずだ。過剰に男性らしく振舞うことによって、質問者に、「男性の振りを一生懸命している」と受け取られるように振舞うという方法だって可能だろう。あるいは、女性の側(基本的には真実を伝達しようとするはず)の態度や情報に不信感を抱かせるように仕向けることができればいいはずだ。それはなにも女性の振りをしなくとも可能である。中性的なスタンスをとることで、相手の「女性である」という情報が、「女性であると過剰に主張している」かのように質問者に受け取られるように仕向けるという戦略だってある。もちろん、質問者は、直接性別を尋ねるとか、身体的な特徴について尋ねるとか、そういうストレートな問いを発することが可能である以上、男性にとっては、女性であることを装うのが「自然な」戦略であると言えなくはない。ただ、けっこう微妙な部分があり、チューリングはCMI では髪の長さを尋ねるという質問の例を出しているのだが、たとえば、これが、スリーサイズを尋ねるとか、身長と体重を尋ねるといった質問だった場合だとどうだろう。実際の数値を返すのと、「その問いは失礼では?」という返答と、どちらが女性らしいのか? あるいは女性のふりをしているのはどちらなのか? このように考えると、模倣ゲームだからといって、単純に、男性(騙し役)が女性のふりをするとは言えないように思われる。

このような男性と女性と質問者の3者からなる模倣ゲームというものと、男性の役をコンピュータが行う模倣ゲームの2つの模倣ゲームの結果を比較して、質問者の正答率に有意な差がなければ、その時は、コンピュータは人間同様に思考していると言ってよい、これがチューリングの考えである。つまり、コンピュータが思考できるかどうかの判定方法として、2つの模倣ゲーム(男&女の場合とコンピュータ&女の場合)を比較するという方法を提案しているわけである。CMI の中のその部分をもう一度引いておく(文中のAとは男性の側をさす)。

ここで我々は次のように問いを立ててみよう。「このゲームにおいて、機械が A の役割を受け持ったら、何が起こるだろうか?」 A を機械に演じさせるというこの形で行ったとき、質問者は、人間の男性と女性とによってゲームを行うときと同じ程度には判断を間違うだろうか? これらの問いが、我々のもともとの問い「機械は考えることができるか?」に取って代わるものとなる。

このように、2つの模倣ゲームの対照実験によって検証するというのがチューリングの提案である。厳密な意味でのチューリング・テストとは、模倣ゲームのことではなく、2つの模倣ゲームの対照実験のことなのだ。

さて、ここで考察するべきことは、なぜ男性(騙し役)の方をコンピュータにするのか、ということである。女性(補助)の側をコンピュータにしないのはなぜなのか? チューリングは、この点に関しては何も語っていない。さて、どう考えるべきなのか?

02

CMI の読解の中でも触れておいたように、チューリング自身は、模倣ゲームにおける性差の問題には、こだわっていないように思われる。また手稿の Can Digital Computer Think? の中での模倣ゲームへの言及では、現在、一般に言われているようなチューリング・テスト、つまり、人間とコンピュータの2人を相手にしたとき判別がつくかどうかというもの、になっていた。

「機械は思考できるか」という問いの、CMI における、チューリング自身による最終的な定式化は、以下のようになっていた。その部分を再度引用するが、今回は a man を人間ではなく男性と訳す。また原文もつけておく。

「ある特定のデジタル計算機 C について考えることにしよう。次のことは正しいだろうか?:この計算機に、十分な記憶装置を備えさせ、実行速度も十分に速くなるようにし、そして適切なプログラムを与えるという改良を加えたならば、C は、男性(a man)の演じる B といっしょにやって、模倣ゲームの A の役割を満足にこなすことが可能である」

'Let us fix our attention on one particular digital computer C. Is it true that by modifying this computer to have an adequate storage, suitably increasing its speed of action, and providing it with an appropriate programme, C can be made to play satisfactorily the part of A in the imitation game, the part of B being taken by a man?'

チューリングは、デジタルコンピュータの万能性を考えるならば、この問いが、「機械は思考できるか?」あるいは「模倣ゲームをうまくこなせる想像上のデジタルコンピュータは存在するか?」という問い(これが先程の、模倣ゲームのチューリング自身による要約にあたる)と等価だと考えている。

だが、上の定式化では、模倣ゲーム自体の設定が変わってしまっている。つまり、Bのポジション(質問者を助ける役)にも男性が置かれている。ということは、模倣ゲームは、もはや性別を同定するものではないわけだ。どちらが人間か、少なくとも本当の男性かを、判定させる、そういうゲームになっている。とすれば、このコンピュータが参加したほうの模倣ゲームと、人間だけによって行われる模倣ゲームとを対照することで判定することも不可能になる。2つは異なった設定のゲームだからだ。この時点で、最初にチューリングが模倣ゲームを持ち出してきた際の厳密性は崩れてしまっているのではないか。

もちろん、あくまでも性別判定を目的としたゲームであるとするならば、コンピュータと男性のどちらもが女性の振りをする役を演じ、どっちが上手に質問者を騙せるかを争う(当然、質問者には両方が女性でないことは伏せておく)、そういうゲームであるとも取れる。2つの模倣ゲームを対照させるのではなく、一回にやってしまって、騙しあいをやらせて判定させる、というわけだ。しかし、これはAは騙し役、Bは補助役というチューリングが定めた役割規則には反する。

いずれにせよ、模倣ゲームのBのポジションを男性にすることによって、では模倣ゲームとは何をするものなのかという点が曖昧になっている。模倣ゲームという名称によって、我々は、コンピュータが人間の模倣を行うものだと、暗黙のうちに、読み込んでしまう(もちろん、ここに至るまでの議論や、もともとのテーマが思考という人間の活動をコンピュータが行えるかという、人間とコンピュータとの問題であることもふまえて)。だが、模倣ゲームの議論としては、論理的な整合性を欠いてしまっていると言わざるを得ない。

この a man は、もしかしたら、a woman と書くべきところをタイプミスしたとも考えられる。だが、CMI のその後の議論や、手稿を読む限りでは、チューリングは、人間とコンピュータとの同定ができるかというのが模倣ゲームと考えていたとするのが正しいだろう。

それをふまえて模倣ゲームを再定式化するならば、模倣ゲームとは、

こういうものであるということになるだろう。

模倣ゲームの「変更」によって、コンピュータ自身のやるべきことも変わってしまっている。最初の模倣ゲームにおいては「女性だと騙そうとしている男性の振りをする」ということであったものが、最終的には、ストレートに(?)「人間であると騙そうとする」というものへとなっている。この2つの振る舞いは、果たして「等価」なのか?

03

模倣ゲームという枠組みにこだわって考えるならば、チューリングの変更は、ゲームをプレイするコンピュータの戦略に大きな変更をもたらすことになる。最初の定式化、つまり、二つの模倣ゲームの対照によって判定するという場合であれば、Critique of the New Problem でチューリングが述べているように、コンピュータの取るべき行動は、人間の振る舞いを真似ることだといってもよいだろう(もちろん、チューリングが述べていたように、そうでない戦略だってありうるわけだが)。模倣ゲームをプレイしている騙し役の男性と、同じ程度には、質問者を騙せないといけないということは、うまく騙しすぎてもいけないわけである。ちょうど人間と同じ程度に騙すことが必要なのだ。とすれば、やはり、最良の戦略は騙し役の男性を真似ることになるだろう。

しかし、最終的にチューリングが定式化した模倣ゲーム(コンピュータと男性が被験者となる方)では、コンピュータにとっての最適な戦略は、必ずしも人間を真似ることではない。先に述べたように、男性と女性がゲームをプレイする場合でも、男性の最適の戦略は、必ずしも女性を真似ることではないように。ゲームの目的は、質問者がどちらが人間と思うかを被験者が競う、というものになっている。それゆえ、コンピュータにとって、プレイの目的(やるべきこと)は、自分を人間と思わせることであって、人間を模倣することではない。二人の被験者のうちのどちらが人間らしいかを競うゲームになってしまった以上、コンピュータは、もう一方の被験者が人間とは思われないようにするという手も打てるわけである。つまり、コンピュータがやるべきことが、完全にもう一方の被験者との駆け引きになっているわけである。その意味で、もはや模倣ゲームにはなっていないと言ってもよいだろう。

このように、チューリングの最終的な定式化においては、模倣ゲームと呼ぶには相応しくないものになってしまていると言ってもよい。

もちろん、チューリングの CMI のそもそもの目的は、コンピュータが思考できるということを述べることにあり、それを厳密に検証する方法を提示しているわけではない、という読みも可能である。チューリング・テストを述べた論文として読もうとするということは、そこにチューリング・テストの厳密な提示を求めてしまうことになるが、そもそも、チューリングは、CMI で、コンピュータが思考できるかどうかを検証する厳密な方法を述べるのを目的とはしていないとも考えられるわけだ。その意味では、チューリングの模倣ゲームのポイントは、コンピュータが思考するかという問題を、思考能力という属性を内在させることができるかではなく、思考しているように振舞うことができるか(思考をシミュレートできるか)という点へとずらしてみせたこと(そしてその上で、コンピュータの持つ万能性(万能チューリングマシン)で思考がシミュレートできるということ)にあるわけで、その点を了解すればよいということになる。

04

CMI の中で、チューリングが模倣ゲームの図式を微妙に(だが決定的に?)ずらしてしまった個所というのは、最終定式化を行った Universality of Digital Computer なのだが、デジタルコンピュータの万能性を論じる場面で模倣ゲームを使い、それが、そのまま模倣ゲームとして彼の中では定着したと考えられる。再度、その個所を抜き出しておく。

もしデジタル計算機が十分な早さでこの計算(ある離散状態機械の入出力の対応表をもとにその動作を予測する計算)を実行することができるとしたら、デジタル計算機は、どんな離散状態機械であっても、その真似をすることができるだろう。この場合、模倣ゲームは、対象となる機械(B)と、それを真似しようとするデジタル計算機(A)とによって行われ、質問者は両者を区別することはできないだろう。

この時点で、すでに、チューリングにとっては、模倣ゲームとは、先程確認したような、二人(2つ)のプレイヤーがある属性を巡って駆け引きを行うゲーム、となっている。この時点でのチューリングの議論は、デジタル計算機はどんな離散状態機械であっても原理上は模倣可能であるということを述べることにある。そして、上記の発言で述べられた対象となる機械(B)の位置に、人間(男性)を持ってきても、デジタルコンピュータは模倣できるだろうということを、最終的には述べたいわけである。つまり、チューリングは、少なくとも思考(知性)という人間の営みは離散状態機械とみなせる、ということを主張したい(というか、彼自身は確信していた)のである。

その意味で、上記の文章こそが、いわゆるチューリング・テストの原点となるべきものだといえるだろう。CMI を読む限りでは、人間が行う模倣ゲームをコンピュータがうまくこなせる、というストーリーの展開をみせているわけだが、チューリング自身にとって、模倣とは、何にもまして、デジタルコンピュータ(チューリングマシン)の万能性=模倣能力であったわけだ。デジタルコンピュータは、離散状態機械(デジタル機械)であれば、どんなものでもシミュレートできる。であれば、人間の思考(少なくとも論理的なものであれば、真/偽の2値を取る離散的な命題によって組み立てられる)もシミュレートできる、このことこそが、チューリングの主張の根幹にあるものだと言えよう。

そういう点からすれば、CMI での模倣ゲームの大げさな舞台設定は、結局のところ、"Can Degital Computer Think?" の中でチューリングが述べていた次の言葉に集約されてしまうと言っても良い。

私は、個人的には、そのようなプログラム、デジタル計算機を脳のように振舞わせられるプログラムが見つかると信じたいのです。たとえば、今世紀(20世紀)の終わりまでには、質問に答えるように計算機をプログラムすると、その答えは、人間が答えたものか計算機が答えたものかを判別するのが極めて難しいものになる、そういうことができるだろうと考えています。

05

チューリングの論文に関する考察(というより、思いついたことを脈絡無く書き連ねているだけであるが)は、これでいったん区切りを付ける。そして、チューリングの論文の意訳(超訳?)という作業に取り掛かり、再度、論文自体を読みながら考えていきたいと思う。

その前に、自分が今抱いている2つの疑問点を記しておく。

まず、タイトルの Computing Machinery and Intelligence の Machinery という言葉が、最初からずっと引っ掛かっている。もちろん、普通に訳するなら、「機械」でよい。しかし、論文や他の手稿などでも、具体的な機械を指すときには machine という言葉を使っているのに、なぜ論文のタイトルが machinery になっているのか? 細かいことを気にしすぎなのかもしれないが、machinery と machine という言葉の差異、これを考えると、前者には、からくりとか機関といった、システムを指す(物体ではなく)意味がある。この点を考えると、このタイトルの Computing Machinery とは、単にコンピュータのことを指すのではなく、人間の計算能力をも指していると考えられるのではないか。つまり、このタイトルは、人間の持っている(行っている?) Computing Machinery =計算機関を機械でも実装できること、あるいは、知性の根幹には、実装の物理的形態には関係ない、計算システムがある、そういうことを述べているのではないかということだ。machinery という言葉で、人間と機械とに共通している(少なくとも理論上は)ものを指しているように思われるのである。もちろん、これは、チューリングが論文の中で主張していることを無理やりタイトルにも読み込もうとした解釈ではあるが。

もう一点は、チューリングは「機械は考えることができるか?」という問いに、そのまま答えるというよりも、問いを変形していって、最終的に、「機械は考えることは出来るか」という問いを発する視点(状況、根拠)自体をずらそうとしていたのではないか、ということだ。思考を人間の精神の属性として考える限り「機械は考えることができるか?」という問いは、いつまでも、ナンセンスとして却下されるものになる。そこで、「考える」ということ、思考ということ、それを精神から切り離して用いるのが自然に感じられる状況とはどんなものか、それを述べようとしていたと考えられないだろうか? 手稿では脳を万能チューリングマシンでシミュレートできることを述べていたりするので、チューリングは精神もシミュレート可能(行動主義的な観点からは)と考えていたようではあるが、CMI の中での議論は、最終的には、「考える/思考」というもののあり方(捉え方)を拡張するべきだという議論として読める。人間とは別の形の思考する存在があり得ることを示したということではないのだろうか?

『ケンブリッジ・クインテット』について

ここで一つの小説(フィクション)を取り上げておく。ジョン・L・キャスティ『ケンブリッジ・クインテット』("The Cambridge Quintet" John L. Casti)である。原著は1998年に出版され、同年に翻訳も新潮社から出ている(藤原正彦・美子訳)。

この本は、物理学者の C. P. スノウがケンブリッジにチューリング、ヴィトゲンシュタイン、ホールディング(遺伝学者)、シュレーディンガーをディナーに招き、そこで人工知能の可能性について議論を戦わせるという架空の状況を描いた小説になっている。この小説のチューリングの発言は、基本的には CMI で彼が述べていることを、そのまま発言したようになっている部分も多く、また、前半部分(第一章〜第三章)では、反論自体も CMI で検討されている議論をなぞっている。つまり、この小説は、CMI を小説仕立てにしたものとして読める(そういうつもりで書いたのかも)のである。また、第四章でヴィトゲンシュタインがヒエログリフ(エジプトの絵文字)の操作という例で反論を述べているのだが、これはサールの中国語の部屋の議論そのままである。そういう意味で、チューリング・テストへの関心をもつものにとって、楽しめる小説となっている。もちろん、CMI の中では述べられていないこと、たとえば、チューリングマシンについての解説なども折り込まれている。

なお、この小説のなかでのチューリング・テスト(模倣ゲーム)は、人間とコンピュータを相手に質問者が同定を行うという、チューリングの最終的な定式化のもの、つまり、普通に知られているチューリング・テストになっている。