福井県立大学・経済学部 田中求之 (Motoyuki Tanaka)
このページは、「チューリング・テスト再考」および異本「計算する機械と知性について」の作業に続く、チューリングとチューリング・テストに関する研究ノートである。メールによって投稿したノートが時系列で記録されている。このページは、現段階では。田中の個人的なノートである。いずれ、きちんとしたページにまとめ直す予定である。
Chrsitos H. Papadimitrou "Turing (A Novel about Computation)" よりチューリング・テストに関係する部分を粗訳しておく。
チューリングテストの紹介部分 (p.229)
アレクサンドロス、いいかい、こんなふうに考えてみてくれたまえ。毎朝、君がコンピュータにログインすると、すぐに、スクリーンに一つの URL が表示される。この URL は、コンピュータプログラムか人間のどちらかに繋がるようになっている。ある日はプログラムの方に、別の日は人間の方に、という具合にね。だけど、URL からは、その日、君がどちらに繋がることになるのかは分からないようになってるわけだ。プログラムも人間もどちらも、自分が人間であると君が考えるようにしようとする。で、君は繋がった相手に対して、質問をすることができる。ちゃんとした会話、ネット越しのメッセージの交換ができるわけだ。そうだな、30分間の時間が与えられるとしようか。会話の最後には、君は、君が話しかけていたのがプログラムなのか人間なのかを決めなくちゃいけない。もしプログラムがだいたい30%ぐらいの回数で君をだますことができるなら、つまり関心を持った有能な質問者をけっこうだますことができるのなら、そのときは、そのプログラムは知的なものだと言うのは真当なことだってのは、君も賛成するよね?
Turing の意図 (p.230-231)
我師は、「機械は考えることができるか?」というこの質問は、問いの立て方が間違っている、意味のないものだと信じていたのさ。この質問は、知性の性質や機械の限界に関する深い射程をもった質問ではなくて、単に「考える」という言葉の意味の周りをめぐるくだらない言葉遊びだと信じていたんだ。飛行機は飛ぶかい? もちろん飛ぶ。じゃぁ、船は泳ぐかい? いいや、船は泳がない。なぜなら、たいていの言語で「泳ぐ」という動詞は、船にはできないような特殊な動きを意味するものだからだ。船にはできないっていっても、船を作る人が関心をもたない動きいってことだけね。もし「考える」という言葉が、「有機的なニューロンがからむメンタルな活動を行うこと」ということだとするなら、当然、機械は考えることなんかできない。でも、だからといって、そのことは何も意味しない。意識の経験とか、経験というものが機械に引き起こせる感覚とか、そういうことに関する質問のように、無限に実りの無い論争へとハマってしまうものもある。我師の考える真の質問とは、そこそこ知的な態度で人と関わり振舞うことが機械というものはできるのか?というものだ。
君が会って関わりを持った人について、その人が考えることができるということ、知的であることを、君はどうやって知るかい? 何を証拠として手にする? その人たちとのやりとりが君に残した印象が、知的でものを考えていると認めた考えた他の人たちとの過去のやり取りと同じような印象だということ、このことだけが、君が相手に対して分かることだよね。プログラムだからって別扱いするのは、差別みないなものだし、フェアプレーに違反している、そうだろ?
チューリング・テストと AI (p.231)
しかし、AI の連中は、チューリング・テストを真剣に考えることはなかったんだ。彼らは、チューリング・テストを、何度も何度も繰り返し用いたよ、でも、単に表面的な薄っぺらな扱いだった。チューリング・テストは、AI の連中のゴールを普通の人々に広く知らしめるためのうってつけの教育的道具だったのさ。チューリング・テストは、怖いくらいに大きくて、やる気を無くしてしまいそうになる、それぐらい困難なものに見えたはずだ、少なくとも最初はね。それに、チューリング・テストは、AI の領域のどんどんと移って行く優先課題に合わないものだった。今では、すっかり忘れられているようだ。
人工知能(AI)の研究者たちは、チューリング・テストを宣伝道具に使っただけで、その本質(チューリングが述べようとしていたこと)を真剣に考えていない、っていうのは、チューリング・テストへ言及している文献などを見ても感じることではある。
上の"Turing"で、チューリングの真の問いだと言われたもの、「そこそこ知的な態度で人と関わり振舞うことが機械というものはできるのか?」は、思考なり知性なりを、それが何か?という問いを立てるのではなく、我々のコミュニケーションにおいてどのように「機能」しているのか?という問いとして考える、観察の問題として考えるということである。これは、ルーマンが『社会システム理論』の中で次のように述べたことと、そのまま繋がるといってもよいだろう。
「知能」は、それがいかにして成立するかは観察されえないが、自己準拠的システムが、そのシステムそれ自体と接触してこれであって他ではない問題解決を選んでいるということを言い表している。「記憶」は、あるシステムのその時点で顕在化している複合的な状態が次なる事態へどのように移行するのかを観察できないので、そのかわりにインディケーターとして過去に選び出されたインプットを用いなければならないということを言い表している。「学習」は、それによってどのようにして情報が広範囲におよぶ諸帰結を引き起こすのかは観察されえないが、情報があるシステムにおいて部分的な構造変動を惹起して、しかもそのことにより、そのシステムの自己同一化が壊されない場合のことを言い表している。こうした例は枚挙にいとまがない。これらの例が明らかにしているとおり、パースン、知能、記憶、学習といったことがらに関して、心理的な基層とか、さらに有機体的基層を探し求めたとしても、その企ては無駄であるにちがいない。重要なのは、観察不可能なものに一定の意味を付与し、それをシステム間接触の創発的水準に移し替える、観察者の方策である。
(二クラス・ルーマン『社会システム理論』上 p.171)
また、チューリングのスタンスは、おそらく、当時同じマンチェスター大学にいたマイケル・ポランニーのスタンスと対立し、批判するものだろう。このへんのポランニーとチューリングの絡みの経緯は、The Enigma に書かれていることであるので、再読・精読が必要だな。
ニール・スティーブンス作『クリプトノミコン』という SF 小説がある("Cryptonomicon" Neal Stephenson)。中原尚哉氏による翻訳は早川文庫から出ている。SF といっても未来が舞台ではなく、第2次世界大戦と現代とが舞台の暗号解読を中心とした情報戦を描いたものだ。この小説にチューリングが登場する。文庫本4冊からなる作品の第1冊目は副題もチューリングである。現在、Google で「チューリング」で検索すると、少なからず、この作品に関連したページがヒットする。
この作品の中心人物の一人であるチューリングは、the enigma 等で描かれている実際のチューリングのキャラクターを、比較的忠実に再現していると感じられる。また、作中で登場人物であるチューリングが自分の考えを語る場面などがあるのだが、そこで語られることは、実在のチューリングの業績を忠実に踏まえたものになっている(と思う)。
たとえば、以下のような文章(アランがチューリング、ローレンスは小説の主人公であるアメリカ海軍の暗号解読者、ルディはドイツの数学者、という設定になっていて、ここではローレンスにアランが話しかけて会話が始まっている):
「問題は解けたかい?」アランが訊いた。
「うん。君の普遍チューリング機械は、プリセットを変更すればどんな機械にも―」
「プリセットって?」
「ああ、ごめん。君のいう機械はパイプオルガンに似ている気がするんだ」
「へえ」
「その機械ができたら、テープさえ長ければどんな計算でもできるんだ。ただし、アラン、それだけの長さがあって、記号を書いたり消したりできるテープを作るのは、かなりむずかしいぞ。アタナソフの回転ドラムだってあまり大きくはできなかったんだから。それには―」
「話がそれていってるよ」アランは穏やかにいった。
「ああ、そうだね。よするに……きみのいうような機械が完成したら、どんなプリセットも数字で―つまり一連の記号で表現できる。そして計算を開始させるために送り込むテープもまた、別の一連の記号で書かれている。つまり、ゲーデルの証明の話に戻るんだよ。機械の状態とデータの可能な組み合わせがすべて一連の数字であらわされるのなら、その可能な一連の数字を大きな表として書くことができる。つまりカントルの対角線論法だ。そして、その数字の一部はかならず計算不可能であるという答えが導かれるんだ」
「例の判定問題(エントシャイドウングスプロブレーム)は?」ルディがいった。
「数式が真であると証明するにせよ偽であると証明するにせよ―式を符号化して数字に変えたあと、ということでは―ただその数字を計算するしかない。つまり、その答えは、ノーなんだ! 一部の数式はどんな機械的手順をもってしても、真であるとも偽であるとも証明できないんだ! だからこそ人間の存在価値があるんじゃないかな」
アランはずっと笑顔で聞いていたが、ローレンスの最後の言葉で表情を曇らせた。「その部分は根拠のない推測に踏み込んでいるな」
「いいか、ローレンス、アランはぼくらの脳みそがチューリング機械だといいだすんだゾ」ルディが口をはさんだ。
「わざわざありがとう、ルディ」アランは冷静に応じた。「でもたしかに、ぼくらの脳はチューリング機械だと思うんだ」
「でも、チューリング機械が処理できない数式がたくさんあることを君は証明したじゃないか!」
「きみもそれを証明したね、ローレンス」
「でもぼくらは、チューリング機械にできないことをできるだろう?」
「ゲーデルはきみと同意見だヨ、ローレンス」ルディが口を出した。「ハーディもネ」
「たとえばどんなものがある?」アランはいった。
「人間にはできてチューリング機械にはできない、計算不可能な関数というのはどうだい?」
「そうだ。そこで創造性がどうのと、くだらない話にはいかないでくれよ。普遍チューリング機械はぼくらが創造性と解釈するような行動をしめすはずだと、ぼくは信じてるんだから」
「だとすると、わからないな……。これからはそういう例に気をつけるよ」
(『クリプトノミコン 1 チューリング』p.50-52)
ここでは、チューリングの普遍チューリング機械に関する態度・信条が端的に描かれている。もっとも「脳は普遍チューリング機械」と言っているが、この点は「チューリング機械は脳のように振舞える」というのが、チューリング自身の考えには正確に沿ったものだと思うが(というか、この二つの言明の差異がチューリング・テストに関する議論でクリティカルなのだ)。