ネットワーク会議室のリーダーシップ

福井県立大学・経済学部 田中求之


0.このページについて

ここに掲載されているのは、『福井県立大学論集』18号に掲載予定の論文の原稿である。実際に掲載されたものは、このページのものとは内容が異なることがある。

この論文は筆者のネットワーク会議室に関する論考の第3部にあたる。第1部「ネットワーク会議室における自己表現と自発性」(福井県立大学『経済経営研究』第7号)、第2部「コミュニケーションの外在性と管理」(福井県立大学『福井県立大学論集』17号)はすでに掲載済みである。また、ここに掲載したものに続いて、ソフトウェアの仕様を組織成立の環境と装置という観点から考察した第4部を発表する予定である。

2001年1月19日


1. 抽象化された組織

インターネットの出現に代表される情報通信技術の発展によって、我々は新たなコミュニケーションの手段を得た。そのことによって、これまでには無かったコミュニケーションの機会が生まれてきている。そこでのコミュニケーションは、新たな技術がもたらす媒介機能の特徴によって、これまでにはない、新しい形態のコミュニケーションであり、新しい形態の組織である。そうした新しいコミュニケーションの特徴がもっとも明確に現われているものの一つとして、ネットワーク会議室をあげることができる。一度も会ったことが無く、本名も知らない相手と、言葉を通じて交流を図り、一つのコミュニティの仲間としての連帯意識すらも感じ取れるという体験は、これまでに無かった体験だ(1)。こうした会議室でのコミュニケーションの形態や組織の特徴を一言でいうならば、抽象化された組織であると言うことができる。対面の場合に我々のコミュニケーションを支え、あるいは取り巻いている様々な条件や環境が、捨象されたり限定・変容された中でのコミュニケーションになっていることによって、我々のコミュニケーションの本質的な側面の一つがより明確な形で現われたものであると考えることができるからだ。生身のコミュニケーションの「豊かさ」「具体性」にあっては捉えにくい本質が、より鮮明に浮き彫りになっているという意味で、抽象化されていると言えるのである。

こうしたネットワーク上の組織は、自然発生的に成立するものではない。必ず、何らかの意思を持った個人なり企業の手によって、コミュニケーションの場が構築され、運用される必要がある。インターネット自体は、結局のところ、単に接続されている=コミュニケーションを発生させうるという条件でしかない。そこに実際のコミュニケーションを発生させ、組織としてのつながりを生むためには、積極的な働きかけが必要になるのである。

たとえば、日常の対面の場面においては、エレベータに乗り合わせたりバス停で一緒になったということで自然とコミュニケーションが生まれることから、コミュニケーションは自然と生まれてくるかのような感覚をいだきやすい。しかし、そうした場面においても、どのようなコミュニケーションが交わされるべきか、どんな話をするべきかといったことに、一定の了解のようなものがあることも誰しもが理解している。バス停やエレベーターの中でたまたま会った相手とは、特別な事情でもないかぎり、天気やスポーツの結果のような当たり障りの無い話を笑顔でしておくのが良いのであって、相手がどこにどんな用事で出かけようとしているのかといったことを根掘り葉掘りたずねることは失礼にあたる、といったことは、たいていの日本の生活者であれば了解していることであろう。このことは、コミュニケーションが生まれるには、そのための場が設定されること、その場に応じて相応しい振る舞い方があること、こういった条件が、規範なり慣習として身に付けられていることが必要であるということだ。通常は、そうした規範・慣習は、場(状況)に結びつけて理解されている。そして、その場=状況が、物理的な状況として可視的である分、互いに了解していることを前提して振舞えるということがある。

しかし、ネットワークにおいては、こうした場、状況といったものを人為的に構築する必要があるのだ。先も言ったように、ネットワーク自体は、単に接続を保証するというものでしかなく、言ってしまえば、言葉が喋れるということを保証しているのと同じであり、そのこと自体は、コミュニケーションを生み出しはしない。それゆえに、意図的にコミュニケーションの場を構築し、コミュニケーションを生み出し、組織していくという働きかけをしないかぎりは、ネットワークだからと言って、そこに組織、あるいはコミュニティが生まれるわけではない。我々が日常の対面状況でスムーズに様々なコミュニケーションを行い、組織を作っている、その活動を支えている諸条件(これをとりあえず場と呼んだわけだが)、それを人為的に導入する必要があるということなのである。コミュニケーションを生み組織を誘発する装置を構築しなければならないということである。


2. コミュニケーションの装置:インターフェースとリーダーシップ

この装置の構築は、大きく分けて2つの側面からなされる。ひとつは、コミュニケーションのための仕組みとしてメディア環境を構築するということである。具体的には、メーリングリストを開設する、ホームページに掲示板機能を組み込む、あるいはサーバを運用してチャットができるようにする等、現在では様々な手段を選べるようになっており、個人でもそれほど手間をかけなくとも設置することが可能になっている。手段に用いる技術の特徴や、あるいはそれの運用の様態は、ネットワーク上のコミュニケーションにおいては、風景=場面に相当する可視的な装置として機能するため、どのような技術を用いるかということ、あるいはどのように技術を用いるかということが、コミュニケーションの様態にも大きな影響を与えることになる。つまり、インターフェースの問題である。ファイルをフロッピーディスクにコピーするときに、キーボードから copy... と命令をタイプして行うのと、アイコンをフロッピーに重ねるのとでは、結果としてコンピュータが行う処理には何ら違いはないにせよ、使う側の印象や感覚には大きな違いがあることは誰しもが実感していることであろう。この違いを生むのがインターフェースの違いであり、パソコンの使いやすさ/使いにくさの問題の大半は、このインターフェースの問題であると言ってもよい。インターフェースとは、端的に言うならば、我々ユーザーがコンピュータとどのような様態でコミュニケーションを行うのか/行えるのかを定めるものである。つまり、パソコンの使いやすさとは、パソコンとのコミュニケーションのあり方の問題である。同様に、ネットワークの会議室においても、その技術的な仕様をどのようにするのかという問題は、そのまま、どのようなコミュニケーションを生むのかという問題につながる。人がパソコンのネットワークを通してコミュニケーションを行うと言っても、その際に要求される操作や情報の提示のあり方によって、そこに誘発されてくるコミュニケーションには違いが生じるのである。こうしたインターフェースの様態も含めて、人為的にコミュニケーションの場を構築する必要がある。

しかし、技術的にコミュニケーションが行えるようにするだけでは十分ではない。技術的な条件を整えるというのは、言うならば、会議のための部屋を整えるようなものである。部屋を作ってそこに人を入れさえすれば会議は行われるであろうか? そんなことはありえない。会議であれば、それを進行し話のまとまりを作っていく人間がいてこそ、会議が成立する。同様に、ネットワーク上においても、継続的なコミュニケーションの場が成立するためには、何らかの働きかけを行う発言主体が必要になるのである。ホスト、議長、進行役、管理者、モデレーター等、呼び方には色々な違いがあるが、何らかのリーダーシップを発揮して、まさに場を場としてまとめていく存在が必要とされるのである。

そこで、本論では、このネットワーク会議室をまとめていく役(本論ではホストと呼ぶことにする)のリーダーシップについて考察を行い、そこに現われてくるリーダーシップの本質的な機能を分析することにする。ネットワークという特殊な場でのリーダーシップを考察することによって、そこに抽象化されて現われてきているリーダーシップの本質の一つの側面を捉えることができるであろう。なお、ここで取り上げるネットワークの会議室とは、インターネットなどで誰もが自由に参加できるように開かれた形で運用されているコミュニケーションの場、そしてそこに生成している組織を対象とする。公共圏、あるいはバーチャル・コミュニティとして議論されるような組織を中心に考察を蝕め、企業の内部で仕事の遂行のため手棚として運用されているものは考察の対象には含めない。これは、極端な形態の中にこそある種の本質が抽象化されて現われてくると考えられるからである。その意味で、従来の社内コミュニケーションの代替手段として用いられているものよりも、インターネットの普及によって初めて可能になった形態に注目するのである。


3. ホストは何をするのか

まずホストが具体的にはどのような活動を行うのかを確認しておこう。会議室の目的などによって個々の活動の内容は異なってくるが、基本的には、その場に参加している人々の間で、コミュニケーションが生まれるような条件を整えるということになる。ネットワークの会議室に参加するということは、その会議室で得られる情報を目的とすることもあるが、同時に、自らの言葉が他者によって受け止められ応答されるという体験を味わいたいという欲望を充足することも大きな目的である。もちろん、こうしたコミュニケーション体験は、日常の生活の中でも、さまざまな場面において、満たすことができる。しかし、ネットワークの会議室という場においては、自分の属性や立場が消去され、一人の発言主体として発言を行い、それが応答されていくという体験になるという特異性がある。言葉だけが私であるという特異な体験の場なのだ。その「私は私の言葉であるという状況でのコミュニケーション」を、円滑に行うようにしていくのが、ホストの役目である。もちろん、ホスト自身も、言葉によって活動を行う。言葉によって言葉を誘発し継続させていく活動を行うのだ。ただし、たいていの場合、その場を管理する人間として、参加の制限や、発言の強制削除といった、言葉以外に行使できる権限を持っているのが普通である。意図的にコミュニケーションを破壊することに喜びを覚える人間や、所構わず広告を打とうとする企業などがネット上には存在しているがゆえに、そうした撹乱要因から場を守るために、一定の権限が与えられる。

実際にホストとしてどのように振舞うべきか、ホストとして行うべきことは何なのか、こうしたことについては、コンピュータネットワークによって人々がコミュニケーションを行うようになって以来、さまざまな場所で議論され、経験や体験をまとめたものが発表されている。さらに、最近では、電子商取引のホームページを使ったマーケティングの手法の一つとして「オンライン・コミュニティ」の構築の有効性が謳われるようになってきたことがあり、いわゆるハウツー本の類いも多く出版されている。そうした中から、ここでは、一つの例として、ハワード・ラインゴールドの手による The Art of Hosting Good Conversations Online(2) を取り上げて見ておこう。ラインゴールドは、今となっては伝説的とも言ってよいWELL というアメリカのパソコン通信時代からのオンライン会議室を運用し、ネット上での人々の交流のあり方を「バーチャル・コミュニティ」として位置づけた人物である。

The Art of Hosting Good Conversations Onlineは以下の5つのセクションに分けられて、それぞれの内容が箇条書きの形で書き連ねられたものになっている。

What an online host wants achieve(オンライン会議室のホストが達成すべき理想)
Good online discussions(オンライン会議室における「良き」話し合いとはどんなものをいうのか)
A host is...(ホストとなどんな役なのか)
What a host does, What a host tries to grow(ホストのすること、育てようとすること)
Host behavior(具体的なホストとしての振る舞い方について)

多くの人々が、市民という対等な立場で、飾ることなく本心から互いに語り合う中で、知識や経験が共有され、贈与の経済が動き始め、人々の間に集団としての一体感や創造性が生まれてくること。端的にいうならばこれがラインゴールドの理想とするオンラインのコミュニケーションの姿である。彼自身が『バーチャル・コミュニティ』の中で言及しているのだが、ハーバーマスの公共圏の一つの実現形態としてオンラインの会議室を捉えており、新たな連帯=コミュニティを形成する道具として、インターネットを位置づけているのである(3)。

さて、そのような会議室のホストとはどのようなもので、どのように振舞うものなのか。まずホストの役割については、次のような記述が並んでいる。「ホストとはパーティのホストのようなものである」。「ホストは権力者でもある」。「ホストは手本となる人でもある」。「ホストはネット上の司書でもある」。「ホストは、観客もステージに上がった集団即興劇の中の、登場人物となりうるものである」。言い換えるならば、ホストとは、人々をもてなし、ルールを運用し、率先して振る舞い、情報の導き手となり、そして一体となった創造性の場を共に作っていく、そうした存在だということになろう。そうした存在であることによって、最終的には何を目指すのか、それが述べられているのが What a host does, what a host tries to grow の部分である。この部分には14の項目が並んでいるのだが、その中でホストのリーダーシップという我々の関心から注目するべきものとして、以下のような記述がある。

「コミュニティを作り上げることなどできない。しかし、コミュニティが生まれ出てくるのに相応しい条件をデザインすることはできるし、ひとたびコミュニティが現われたなら、その成長を励ますことはできる。」

「コミュニケーションの道具さえ調えれば自動的にコミュニティが成立するわけではない。しかるべき条件が揃った時にコミュニティは育つものなのであり、コミュニティは手入れによって成り立つものなのだ(They are gardened)」。

「すべてのオンラインのシステムは、配慮を伴った介入が行わなければ、一貫性を保つことに失敗する傾向がある。しかし、介入は、上からのトップダウンではなく、下からのボトムアップによってなされるものでなければならない。」

「自立的なグループが生まれるような条件を整え、その成長の世話をする(garden)ためには、積極的な努力が要求される」。

我々は、個人の帰属意識を組織の要件とはみないし、そうした帰属意識を重視しないという点で、オンライン会議室に成立するものは組織であると捉え、ラインゴールドのようにコミュニティという捉え方はしないのであるが、その違いにもかかわらず、ここで述べられていることは、オンラインでの組織に関する重要なポイントが含まれている。それは、ホストのリーダーシップとヘゲモニーとの差異の問題である。


4. リーダーシップとヘゲモニー

ラインゴールドの文章の中に garden (庭いじり、園芸)という動詞が使われていることに象徴的に表れているのであるが、ホストは、組織を作るのではなく、育てる存在なのである。生まれるかどうかはホストによってコントロールできることではない。言うなれば、組織とは、風に乗ってやって来た草木のようなものだということである。飛んできた種が芽を出したならば、それを注意深く手入れし育ててやるのがホストの役割というわけである。

つまり、ホストのリーダーシップとは、ヘゲモニー(支配力)とは異なるものであるということだ。確かにホストは管理する存在であるが、その場を支配したり自分の思いのままにする存在ではないし、またたとえそれを望んだとしてもできないということである。組織自体は、極論すれば、一定の条件が満たされているときに、なんらかの偶然によって、自ら立ち上がってくるものでしかない。

もちろん、たいていの場合、ホストは、参加者の制限や、場合によってはアクセス禁止などの処置をとりうるような権限をもっており、その権限によってホストという地位にある。ネットワーク上においては、場への参加の制限(発言の機会を奪うこと)が最終的な排除であるがゆえに、ホストが持っている権力は絶大である。庭に芽を出した草木を抜いてしまうことができる。それゆえ、権力者として振舞うこと、たとえば自分が気に入らない者は排除するといった行動が行える。そして、一定の範囲や傾向の意見を持ったものだけの集団を形成することによって、会議室を活性化することも可能である。しかし、そうした権力の行使、先ほどのラインゴールドの言葉を借りるならばトップダウンの介入、それは最終的には場を破壊することにつながる。コミュニケーションの場は、いくらでも他にあるからだ。

ホストが権力者であるということを考慮するならば、むしろ、ホストはヘゲモニーとリーダーシップのバランスを要求される役割であるというのが正確な表現であるということになるだろう。具体的な行動の次元では、ヘゲモニーの行使とリーダーシップの発揮とを明確に区別するのは難しいのは事実である。ホストがリーダーシップを発揮する手段は、コミュニケーションしかない。つまり、人々のコミュニケーションの中に自らも入っていき、そのコミュニケーションを通じて、場を、組織を、リードしていくしかない。その場合、説得的な言葉を使えるとか、相手の発言の真意を的確に理解しうるといった、言語を操る能力が要求される。とはいえ、この言説の能力の優劣がホストと他を区別するのではなく、最終的には、排除の権限を持つという権力に裏打ちされていることによってホストという地位が受容される。つまり、コミュニケーションの進行の中で内在的に形成されてくる役割ではない。やや暴力的な分類ではあるが、リーダーシップをコミュニケーションのプロセスを内在的に誘導していく作用、ヘゲモニーをプロセスの外部の権力(権威)に支えられた支配力とするならば、ホストはこの両方を持つ存在だということである。

端的に言えば、ホストはガーデニングにいそしむ人であり、ネット上に構築された会議室という仕掛け(技術)は庭である。そして、芽を吹いた草木を慈しみ手入れをし、育てていく、そのことがホストのリーダーシップというわけである。このようなリーダーシップは、確かに企業などで目的達成のための課業を率いて行く際のリーダーシップとは異質なもののように思える。ネットの会議室においては、たとえば最新のパソコンの情報交換を行うといったような、その会議室のコミュニケーションのテーマが設定されることが多いが、テーマは、皆が果たすべき目的ではない。この点で、ホストは、目的達成のために人々の動機づけに働きかけて効率化を図るグループのリーダーとは、全く異なると言えるだろう。しかし、どんな企業組織であっても、人々が組織としてまとまり、協働してこそ、はじめて成果を生み出せるものであることは違いがない。この点で、ここで我々が論じているようなホストのリーダーシップと同じ問題、つまり組織作りのリーダーシップの問題は、いかなる組織においても存在する問題であり、それゆえに、これまでも色々な形で論じられてきている。そこで、組織作りのリーダーシップに関する議論の中から、バーナードの『経営者の役割』、セルズニックの『組織とリーダーシップ』そしてシャインの『組織文化とリーダーシップ』の議論を検討することにしよう。


5. 道徳創造としてのリーダーシップ

バーナードは主著『経営者の役割』(4)のなかで、管理者の管理責任の問題としてリーダーシップを論じている。そこでは彼は、組織の道徳的側面(個人の人格的な問題や、価値、動機、理想などの側面)をまとめあげるものとして、リーダーシップを位置づけている。リーダーシップとは「信念を作りだすことによって協働的な個人的意思決定を鼓舞するような力」とされる。この信念によって、人は組織へ自らの活動を提供し、組織の下で働くことになる。個々の活動を担うのは個人である。個人の働きがあってこそ、組織は成立しうる。しかし、それが組織の活動として一つのまとまりを持ちうるようにするのがリーダーシップなのである。バーナードは次のように言っている。

「協働の成果はリーダーシップの成果ではなくて、全体としての組織の成果である。しかし信念を作りだすことがなければ、すなわち人間努力の生きた体系がエネルギーおよび満足をたえず相互に交換し続けうる触媒がなければ、これらの構造は存続することができない、否、一般に成立すらしない。生命力が欠乏し、協働が永続できないのである。リーダーシップではなくて協働こそが創造的過程である。リーダーシップは協働諸力に不可欠な起爆剤である」(5)。

バーナード自身は、リーダーシップを、組織の長期的な存続のために重要で不可欠なものであると位置づけている。組織に活動を提供する様々な人々の行動規範や価値規範(バーナードのいう道徳)、そこには組織が活動する中で生じてくるものも含まれるのだが、そうした多様な道徳を統合していくのが管理責任であり、そこには新たな道徳を創造し、それを受容させていくという、創造的な働きが不可欠である。そして、高い道徳性を持つことができた組織が、存続していくというわけだ。それゆえ、バーナードは「全体としての創造職能がリーダーシップの本質である」とし、そのリーダーシップ、つまり組織道徳の創造こそが、「個人的な関心あるいは動機の持つ離反力を克服する精神」であり、「必要欠くべからざる社会的な本質的存在であって、共通目的に意味を与え、他の諸誘因を効果的ならしめる誘因を創造し、変化する環境のなかで、無数の意思決定の主観的側面に一貫性を与え、協働に必要な強い凝集力を生み出す個人的確信を吹き込むものである」(6)とするのである。

人々の諸力を結合し組織=行為のシステムを形成する触媒としてのリーダーシップというこのバーナードの記述は、人々の繋がりを生み出しまとまりを生み出し、育てていくもの、という点では、先ほどのラインゴールドのリーダーシップ=ガーデニングという理解と、表現こそ違え、本質的な同じことを言っている。ただし、働き掛ける対象が組織に行為を提供している各個人として明確にされていること、そして、働きかけの方法、つまりリーダーシップの行使の様態よりも、リーダーシップの果たすべき機能に明確に焦点が絞られている点が異なる。人々の間に信念あるいは確信を生み出すことというその機能は、対象はあくまでも組織に行為を提供する人々であって、組織そのものではない。ここに組織の人間に対する外在性という問題があるのだが、この点については、後ほど、あらためて検討することにしよう。


6. 制度化としてのリーダーシップ

セルズニックは『組織とリーダーシップ』(7)において、リーダーシップを組織の制度化の問題として論じた。彼は、活動の体系であり合理的な器械である組織が、社会の中で存続して行く中で生きた社会的結合としての制度になるとし、組織の存続の問題を制度化の問題としたうえで、この制度を扱うのがリーダーシップであるとした。端的に言うならば、組織が社会的な掛け替えの無さを獲得したものが制度であり、この掛け替えの無さを生み出すために働き変えるのがリーダーシップの機能であるとしたのである。我々の組織の定義(行為のシステム)と彼の使い捨ての道具である組織とは異なる点に注意が必要だが、彼が制度の問題として論じようとしたことは、行為のシステムの安定性と永続性の確保の問題である。先のバーナードの枠組みで言えば道徳の創造の問題に相当する。

セルズニックは、目的達成のための器械である組織に「価値が注入」された時に、それは制度になるという。そのことによって、組織には「変化に対する抵抗」がおき、自己保存への関心が高まる。組織は、掛け替えの無さを獲得していくことになる。

「『価値の注入』と『自己保存』との間には、密接な関係がある。組織が自己、すなわち識別できる独自性を獲得するとき、それは制度となる。このことは価値、すなわちそれ自体として重要視される行為と信念の様式の取得を伴う。それからのち、自己保存とは組織の単純な存続以上のことを意味するようになる。すなわちそれは、新しく起こってくる問題や変化する情勢に対処しながら集団の持つユニークさを保存していく一種の努力を意味するようになる」(8)。

価値を注入するとは、日常的な活動を営んでいる人々の間に、長期的な意味と目的を受容させることであり、組織を社会的な使命や目的を表現するような存在へ作り替えていくことである。それがリーダーシップであり、それを発揮するべき指導者の役割である。

「創造的指導者に要求される手腕とは、制度づくりの手腕にほかならない。すなわちそれは、人間的素材と技術的素材を用いて一つの有機体を作りだし、それに新しい持続的な価値を体現させることである」(9)。

そのために用いられる技法の中で、彼が一番重要なものの一つとして挙げているのが、神話の完成である。「神話が目ざすのは、士気を高め、理想を鼓舞するような言葉を用いて、その企業体に特有の目標や様式を述べることである」(10)。そうした神話は諸活動の中での様々な意思決定を統合する手段として役立つものであり、外部に対する組織の表現になり、使命感の統一により全体の調和を高めるものなのである。このように、「神話は究極的に制度をつくり上げる役目を果たす」(11)のである。そして、この神話の完成においては、リーダーシップのにおいて重要な点について、彼は次のように述べている。

「創造性の発揮はむしろ、神話の必要性を見抜き、効果的な表現方法を発見し、なかでもそこに表現されている理想をささえるのに必要な組織条件を創造するだけの、意思と洞察力をもちあわせているかどうかにかかっている」(12)。

神話というといささか大げさであるが、これはバーナードの言う道徳と同じような、価値と意味の体系と捉えることができるであろう。そして、人類学の知見を引きあいに出すまでもなく、多くの社会において、価値、慣習、規範は物語の形式で伝承されているように、物語という形式は、我々がある価値観を受容する際に強力なツールとなりうるのは事実である。そういう意味では、組織というものも一つの物語として人々に受容されること時、その存在を確固たるものとすると言っても良いであろう。


7. 組織文化とリーダーシップ

『組織文化とリーダシップ』(13)において、シャインは、セルズニック同様に、リーダーシップを通常の経営(目的達成のための管理)とは切り離し、その本質を組織文化の創造と破壊であると捉えた。彼は、文化を「組織のメンバーによって共有され、無意識のうちに機能し、しかも組織が自分自身とその環境をどうみるかを、基本的で『当然のこととみなされた』方法で定義するような『基本的仮定』や『信念』という、より深いレベルのもの」(14)と捉える。この文化は、組織が変動する環境の中で生き残っていくうちに学習したことから形成されてくる一つのパターンなのである。どのような組織であっても、その指揮の活動の背後には、その活動を支えている組織文化が存在し、その組織文化が組織の行動のあり方に大きな影響を与える。そして、シャインは、「組織文化は、リーダーによって創造され、そしてリーダーシップの最も決定的な機能の一つが文化の創造であり、文化の管理であり、文化の破壊なのである」(15)とする。

「事実、リーダーシップとは何であるか、何ではないかに関する終わりのない議論は恐らく、もしリーダーシップの唯一の、そして本質的機能が文化を操作することであることを認めたならば、問題を単純化できよう」(16)。

このように、組織文化を作り変革していくことこそがリーダーシップなのであるが、組織の形成の段階によって、どのような操作を行うべきは異なってくる。組織の創造期には文化の創造が必要になるし、一方で成熟した組織では文化の変革こそが重要になるというように、組織の段階ごとに必要とされるリーダーシップは異なるのである。我々の議論の焦点である組織の形成期におけるリーダーシップに関しては、シャインは次のように言う。

「組織文化は無から発するものでも、偶然に生まれるものでもない。組織は人々によって創られ、組織の創造者は同時に自分自身の仮定を明確に表明することにより文化を創造する。ある組織の文化の最終形態は、創業者から与えられた推進力と集団成員の反応と彼らの共有の歴史的経験との複雑な相互作用を反映するが、最初の形成力がその創業者の個性と理念体系であることはほぼ疑問の余地がない」(17)。

文化というのは非常に幅の広い概念であり、それだけに何でもかんでも文化というものの中に入れてしまえば概念付けがなされたように見えてしまう危険がある。しかし、ここでシャインが問題にしている文化とは、人々の活動や意思決定を支えるような一つの価値体系のことであると解することができる。ただ、それが明確に規定できるようなものではなく、組織が活動を続けて行く中で、経験の蓄積の中で、生みだされていく、ちょうど慣習法のようなものだということ、その意味において、リーダーシップによって完全なコントロールが可能なものではないということ、この点を押さえて言える点は重要なポイントである。まさに、リーダーシップとは、そこに育つ文化を育てる(garden)するものだということだ。この点で、ホストについて述べたラインゴールドの先ほどの言葉と相通じるものがあると言える。ただし、シャインの場合には、最終的な文化の核は、創業者の個性や理念に求められておき、個人がイニシアティブをとって形成していけるという側面を協調している。この点では、管理者による道徳の創造(バーナード)や価値の注入(セルズニック)といった、リーダーのイニシアティブに最終的なリーダーシップの効力の根拠を求める発想と同じであると言えるのである。


8. 認知的関係としての組織

道徳創造(バーナード)、価値の注入そして神話の形成(セルズニック)、文化の創造と破壊(シャイン)と、表現は多少の違いはあるにせよ、これらのリーダーシップ論は、根本的には、一つのことを問題としている。それは、組織の存続にあたっては、行為のシステムという実体的な組織そのものではなく、その組織に行為を提供する人々の価値規範(価値観)にこそ働き掛けることが重要であるということである。信念、確信、道徳、神話、文化、これらは確かに内容や様態には違いがあるが、その機能は同じであると考えることができる。つまり、各人の行動を支える認知的な枠組み(フレーム)を設定するものであるということである。振舞いを行為として意味付け、コミュニケーションの意味を理解し、現象を一定の状況として了解する、そうした意味付けを支えるフレームの次元に働きかけ、特定の組織のフレームを確立することがリーダーシップの果たすべき機能だということだ。この認知フレームが確立し共有される時、行為の諸連鎖は一つのシステムとしての組織になるのである。ここに、組織の様態の重要なポイントがある。つまり、実体的な関係だけではなく、つねに認知的な関係(参加者によって想定され理解された関係)を伴うものであるということである。この二重性を理解することが組織の存立とリーダーシップを理解する鍵になる。そこで、さらに詳しく見ていくことにしよう。

組織とは諸行為(コミュニケーション)のシステムであって、人間のシステムではない。参加者各人は、組織にとっては外在的なものである。また、別の所で確認したように(18)、各人にとってコミュニケーションのシステムは外在的な存在である。端的に言うならば、人がコミュニケーションとなりうるような振舞いを続けているかぎりにおいて、その振舞いを行為として分節しかつ行為の連鎖として接合していくものとして、組織というシステムが創発しているのである。しかし、創発しているといっても、組織そのものが可視的な様態で存在したり、物理的な物体のように存在することは決してない。組織は、各人にとっては、自分の振る舞いが、ある行為として他者に受け取られ、他者の行為を生み出していくという体験として感じ取られるものなのである。自分の振舞いが、ある行為として意味付けられたということがあるとき、自分にとって外在的で、意味付け作用を及ぼすものとして、組織が想定されるのだと言っても良いだろう。経験を振舞いが行為として確定していくこととするならば、経験を可能にするものとして、組織がある。そして、各人の振舞いが行為として分節される一方で、そうした意味が確定した行為の連鎖によって、一定の協働が成立していくことになるのである。

このことを理解するには、ある振舞いがどのような行為なのかは、一定の意味付けの視点がないかぎり確定できないということを確認しておく必要がある。たとえば、20歳の人間が福井市から吉田郡松岡町まで自動車でやってくるという振舞いがあったとき、これを「学生が授業に出に来た」という行為として確定するのは大学という組織があってこそなのであって、同じ振舞いは、「ガソリンと車という商品を消費した」、「化石燃料を浪費し地球環境に悪影響を及ぼした」、「自家用車に乗って公共交通機関の衰退に拍車をかけた」等、さまざまな行為として意味付けることができる。そして、大学という組織が存在するということは、その振舞いが「授業に出席」という行為として意味付けられるということであり、その振舞いに対しては、ある人間が講義室で大声を張り上げて組織について語り黒板に汚い文字で概念を書きなぐるという振る舞いが応答としてなされ、それが「講義が行われる」という応答の行為として連接するということである。最初の振る舞いの意味付けの可能性のうちの、消費者としての経済活動、地球環境問題、地域公共交通問題などは不問(正確にはその側面には無関心)にされた行為の応接がなされるということなのである。

もちろん、この例の場合、行為者自身の意図としては「大学へ授業を受けに行く」というものであり、それが行為の意味であるとすることはできるし、日常的には、我々はこうした行為者の意図によって行為を意味付けることを普通に行っている。しかし、その行為者の意図そのものが、大学という組織においては自分の行為がどう受け止められるかという理解に基づいており、自分の振舞いの意味を、大学という組織の意味付けの体系(の自分なりの理解)に基づいて、予想したものとなっている。つまり、ある組織においてはAという振舞いがBという行為として受け取られるのが普通である、という規範的な価値判断(予想)をもとに振舞っている。たとえ環境問題を論じる授業を受講するためであったとしても、自動車でなければとても通学できないような立地にある広大な駐車場を持った大学では、彼/彼女は自分の振舞いが環境破壊として詰問されることはないと安心して振舞っている。そして、その彼/彼女たちの行為を受けて、講義という行為が行われることで、大学という組織が成立しており、同時に、彼/彼女たちの予期の前提にあった組織的なものを確証するのである。

つまり、組織が成立しているということは、その組織にかかわっている各個人にとっては、自分の振舞いをある行為として他者が応じるような場が存在しているという認識がなされるということである。もちろん、原理的には、この認識は、過去においてそうであったということであって、これからもそうであるということを保証するものではない。その意味では、個人的な願望、あるいは「そうであるべきだ」という予想(信念)でしかないのであって、この認識を基礎にして行為することは、一つの賭けのようなものである。そして、複雑な世界にあっては、ある商品が昨日まで売れたからといって今日も売れるとは限らないように、過去の経験を一般化し外挿することが必ずしも正しいわけではない。過去の経験を一般化するということには、常に飛躍が潜んでいるのであり、その飛躍が時として全くの的外れなものになる。しかし、現在あるいは未来を完全に予想することなどできない以上、我々は、予期に基づいて行為するしかないのである。予期に基づいて行為することに飛躍があるのだとすれば、その飛躍は、所与を超えて行為する我々の主体性なのだと言っても良いだろう(19)。

このように、組織というシステムは、個々の人間にとって外在的なものであるがゆえに、各人は組織を、行為の際の基盤となるような予期という概念的なもの、理念的なものとして受容し想定するしかない。組織づくりのリーダーシップが働き掛けるフレームとは、この各人が受容している理念的な組織、実体的関係ではなく認知的関係としての組織なのである。


9. 目的とリーダーシップ

我々は、リーダーシップは組織の存立と存続を支えていくような認知的フレームの確立を目指す働きであることを確認した。では、このリーダシップは具体的にはどのような行為としてなされるものなのか。一つの典型的な行動が、組織の目的の制定である。目的(目標)の意味を組織の参加者に理解させ受容させるようにすることが、一般に理解されているリーダーシップの行う仕事であろう。目的を設定し受容させるということ、目的設定が組織で果たす機能に、リーダーシップの狙いとするフレーム設定が密接に結びついていると考えることが出来る。そこで、目的の機能を確認しておくことにしよう。ここでは、「社会システムにおける目的の機能について」という副題を持つニクラス・ルーマンの『目的概念とシステム合理性』(20)の議論にそって目的設定の機能を整理しておく。

ルーマンは、「あらゆるシステム問題は、…、結局のところ複雑性と変動性の縮減というこの根本問題に関連する。きわめて一般的に言えば、目的設定の機能もやはり複雑性と変動性の吸収にあると考えられる」(21)として、システムが成立・存続するために必要な複雑性の縮減の機能という観点から目的設定を考察している。そして、目的は、以下に挙げる複雑性縮減のためのシステムの戦略をすべて同時に可能にする点が重要なものだとするのである。

主観的な観念による単純化:目的は主観的な観念である。この観念によって環境の状態を単純化することが出来る。「システムは、現実によって直接行為を規定するのではなくて、現実についての観念にしたがって行為を整えるのである」(22)。

観念の制度化:目的は行為の基礎あるいは結果として制度化されうる。これによって、主観的な観念のコンセンサスを確立し、当事者以外にも表現することが可能になる

環境分化:目的を環境分化に適合するように特殊化することも可能。つまり、環境の特定の部分と目的とを関連づけることによって、環境を分析=分割して処理することを可能にする

内的分化:目的は内的分化の原理として働く。組織を目的−手段図式を用いて複合化することを可能にする

可変的な規定性:目的がもつ規定性の程度は可変的である。つまり、目的を理念的なものとしておくことも、具体的な達成結果とすることも可能なのであり、この規定の具体化の程度に応じて行為の拘束力や創造力を調整できる。

ルーマンは、目的が、これらの多くの戦略を媒介し、統一的に機能させる役割を担うもの、「調整する一般化」と位置づける。複雑な環境の中でシステムが存続していくために、目的というものを通して、システムが複雑性を様々な形で処理できるようになるわけである。

つまり、目的を設定するということは、単に何をするのかを決めるという事だけではないということである。「何をするのか」を決めることによって、その組織の中ではどのような行為が普通になされ、どのような行為がなされないのか、といった一般的な予想を持つことが可能になる。つまり、行為のグループ分けを可能にする。また、同時に、目的−手段図式によって、どのような行為の連鎖関係が形成されるのかを予想することが可能になる。このように、諸行為を組織への関連という観点から意味付け体系化することが可能になる。また、同時に、組織を取り巻く環境も、目的との連関で区分することが可能になる。目的達成のために関連する要因と、達成には無関連な要因、あるいは、目的を設定することを可能にするような要因、こうした諸要因に環境を分化して捉えることが可能になる。このような行為と環境の分節化を行う図式を規定することが目的設定の機能であり効果なのである。

このような目的設定の機能は、我々が先にリーダーシップの本質として捉えた認知フレーム設定に他ならない。リーダーシップとは、目的設定の機能を担うことなのだと言っても良い。目的を設定することは、人々が行為の意味付け(振舞いを行為として分節し受容すること)する際に拠り所となる差異の図式を与え、環境を端的に把握する図式を与ええ、それを通じて、人々の間に認知的な関係、観念的なものとして組織を受容させるからなのだ。そして、もしこの目的設定の機能を果たしうるものであれば、そこで設定されるものは、具体的な目的でなくてもよいはずだ。つまり、明確な達成目標や成果といったものでなくとも、諸行為と環境との差異化を可能にする図式を設定できるものであれば、目的設定の機能を担いうる。だからこそ、敵を想定するといった方法が、組織の士気を高めるための有効な方法として使われてきたのだと考えることができる。極端に言うならば、差異を穿つことが可能であれば、そこに組織を生み出すことが可能なのだ。そして、この差異を穿つことこそリーダーシップに他ならない。


10. ホストのリーダーシップ

我々はリーダーシップについての検討を行ってきて、その根本的な意義を差異を穿つことにあることを確認できた。これを踏まえて、ネットワーク会議室のホストのリーダーシップの特異性を改めて考察することにしよう。

まず、ネットワーク会議室の場合には、企業などと異なって、組織の目的というものを明確に掲げることができない場合が多いという点を考慮する必要がある。このため、目的設定の機能を単純には利用することができないのである。もちろん、ネットワークの会議室においても、その会議室で話し合う話題やテーマなどが設定されるのが普通であり、あらゆるコミュニケーションを無条件に受け入れるというものはほとんどない。たとえばパソコン通信の場合、商用のパソコン通信の会議室は、フォーラムや分科会という名で、扱う話題を細く分割し、それぞれの会議室でコミュニケーションを行うようになっている。インターネットの会議室においても、そこで話し合うテーマを明確に掲げているものが多い。しかし、テーマは目的に較べて、規定の程度がゆるい。つまり、そのテーマについてどのような形でコミュニケーションを行うのが「正しい」のか、あるいはある話題がテーマにどの程度関連しているのかといったことを、明確に線引きするのが難しいのである。「適切さ」という曖昧な判定基準によって判断せざるを得ないため、目的−手段関係(因果関係)で関連を判定できる目的よりも、各人を拘束する度合いが低い。このことは、場の不安定性のもとになる。各人が明確な認知フレーム(観念)を抱けないが故に、各人の理解の差異が、場の混乱を引き起こしやすいのである。実際、パソコン通信などで、会議室そのもののあり方、場の定義、あるいは参加者のあるべき姿などを巡って、延々と論争がなされるということがよく見られた。インターネットでも、メーリングリストなどでは、場を巡る言い争い(フレームと呼ばれるケンカ)は決して珍しいものではない。テーマは、目的同様に差異を穿ち認知フレームを設定するとはいえ、各人の確信の度合いが低いのである。言い方をかえるならば、目的とは、きわめて明快でかつ受容しやすい、強力なものだということでもある。複雑な事象を理解するための図式として、我々は合目的性になじみきっていると言ってもよいだろう。ランダムな諸要因の蓄積である生物の進化でさえも、そこに目的を読み込まずにはいられないほど(キリンの首はなぜ長いのか?という問に、高い所にある葉を食べるためと答えてしまうなど)、我々は合目的な図式に頼っている。

しかし、規定の程度が緩いということは、一方では、多様なコミュニケーションを許容し、より発見的な交流を可能にするという、社交の場としての活気を生み出す。いうなれば、他者の他者性を許容する余地を広げるということである。ネットワークの会議室が新しい公共圏として論じられるのも、通常の組織にはない、この緩やかさも持つからこそだと言えよう。

それゆえ、ホストは、認知フレームの確立と、多様性の許容のバランスを常にとり続けることが要求されるのである。先のラインゴールドの言葉に「ホストは、観客もステージに上がった集団即興劇の中の、登場人物となりうるものである」というのがあったが、まさに、集団が即興を行いつつ、一つの劇としてもまとまるように、常に振る舞い続ける必要がある。目的という手段が使えないことは、舞台はあるが台本はないということなのだ。

そして、即興劇であるがゆえに、そのような劇が生成してくるのかは、まさに進行していく中でしか分らない。自分自身も劇に参加しながら、同時に、劇をまとめていくという作業を要求されるのである。この点で、活動と管理を分離することが容易な通常の組織とは異なる。ホストの活動は、それが具体的な活動でありながら、同時にリーダーシップを発揮するという二重性を要求されるのである。そうした二重の作業を常に行い続けなければならない。テーマという緩やかな規範だからこそ、そこに生成してくる組織は、どのようなものが生まれてくるのか分らないという面白さがあり、それこそが、他者との交流の場としての会議室の醍醐味であり、掛け替えのなさである。だからこそ、ホストは、ガーデニングなのである。そこに生まれてくるものを注意深く見守りつつ、手間ひまをかけて育てていくという姿勢が要求されるのある。即興演奏を行いながら一つの音楽を作り上げていくジャズの演奏家のように、他人のプレイに耳を傾けながら、適宜、自らもプレイで応答していく、そうした、共に活動する中で作り上げていくのがホストのリーダーシップなのだと言えよう。企業のリーダーシップを例えるのに、オーケストラの指揮者が引き合いに出されることが多い。特に最近のネットワーク組織論においては、それぞれのスキルを持ったプロフェッショナルの集合としての組織を、なるべくフラットな形でリードするという点で、そして、各演奏者の良さを十分に活かしながら全体として一つの作品を仕上げていくという点で、オーケストラが組織のモデルとして語られる。しかし、オンライン会議室の場合は、オーケストラではなくジャズのセッションなのである(23)。楽譜に書かれたものを表現するということが重要なのではなく、各自が即興で新しいものを生みだしつつまとまっていく活動なのだといえる。そこにあるのは、他人の発するメッセージに応答していくという意味で、責任(responsibility=応答可能性)というもののの原初的な形態の活動であり、差異を穿ち区切りを付けて行くというリーダーシップの原初的な形態の活動でもあるのだ。

最後に、ホストのリーダーシップの特徴として、それが基本的には言語によるコミュニケーションのみによって行使されるという点をあげておく。我々が確認したように、リーダーシップが働き掛ける次元というのは、きわめて理念的・観念的な次元である。それゆえに、言語というのは強力な媒体になりうる。多くの組織において、組織の目標や理念と言ったものが文章化され明示されるということは、言語というものが、関係する人々の了解を共通化し共有する手段として的確な媒体だからである。認知フレーム(差異の図式)は、言語によって書き留められることによって可視化するのだと言っても良い。主観的観念は共有できないが文章は共有できるのである。この点で、ホストのリーダーシップは、そのもっとも効果的な方法で発揮されるものだということができる。

しかしながら、言語化、文章化という媒体は、たとえばその理解や受容に個人差が大きいというように、決して完全なものではない。だからこそ、多くの組織は建物やマークあるいは旗や歌のようなシンボルによる装置を用いるのである。組織はモノではない。しかし、モノによって可視化されることが組織の維持に大きな影響を与える。モノによって可視化されることにより、理念的なものが、あたかもモノのごとく確固たる存在として経験されるからである。こうした組織を支える諸装置を、ネットワーク会議室では用いることができない。あくまでも言葉によるコミュニケーションがすべてなのである。もちろん、言葉がそのまま流れるのではなく、あくまでもコンピュータを通じて行われるコミュニケーションであるから、インターフェースのように装置として用いることができる資源がないわけではないのであり、その装置の様態が与える影響は大きいのであるが、しかし、利用できる資源は極めて限られているのである。その意味で、ホストの人間の言語的な能力という資源がより重要になってくることは間違いない。先に触れたセルズニックは、「最高経営者は管理を扱う経営から制度を扱うリーダーシップへ移行するとき、政治家になる」と述べたが、まさに言語による政治を行える能力が、ホストには重要なのである。言語のプレイヤーとしてセッションをまとめていく能力が要求されるのだ。オンライン会議室のホストとは、言語によるジャズプレイヤーたることを求められるものなのである。


(1) 以下の拙論を参照のこと
「ネットワーク会議室における自己表現と自発性」、『福井県立大学 経済経営研究』、第7号、2000
「コミュニケーションの外在性と管理」、『福井県立大学論集』、第17号、2000

(2) Howard Rheingold, The Art of Hosting Good Conversations Online, 1998
http://www.rheingold.com/texts/artonlinehost.html

(3) Howard Rheingold, The Virtual Community, Onlne (http://www.rheingold.com/vc/book/), 1998

(4) Chester I. Barnard, The Function of the Exectutive, Harvard University Press, 1938
(山本・田杉・飯野訳,『経営者の役割』,ダイヤモンド社,1968)引用は翻訳による

(5) ibid., p.270

(6) ibid., p.296

(7) Philip Selznick, Leadership in Administration, Harper and Row, 1957
(北野利信訳、『組織とリーダーシップ』、ダイヤモンド社、1963) 引用は翻訳による

(8) ibid., p.31

(9) ibid., p.212

(10) ibid., p.209

(11) ibid., p.211

(12) ibid., p.210

(13) Edgar H. Schein, Organizational Culture and Leadership, Jossey-Bass Inc., 1985
(清水・浜田訳『組織文化とリーダーシップ』、ダイヤモンド社、1989)引用は翻訳による

(14) ibid., pp.9-10

(15) ibid., p.4

(16) ibid., p.404

(17) ibid., p. 407

(18) 拙稿、「コミュニケーションの外在性と管理」

(19) たとえば G. ドゥルーズの『経験論と主体性』は、D. ヒュームの因果性の議論に所与を超出していく精神の態度に主体性を読み取る。ヒュームの経験論と主体性については、ドゥルーズの議論をふまえて『人性論』第1巻の検討を行った拙稿「D・ヒュームの経験の構造」(『社会思想史研究』、No.12、1988)も参照のこと。

(20) Niklas Luhmann, Zweckbegriff und Systemrationaritat, 1968
(馬場・上村訳『目的概念とシステム合理性』、勁草書房、1990) 引用は翻訳による

(21) ibid., p.126

(22) ibid., p. 128

(23) Jazz の即興演奏のあり方を組織論的に検討したものとして、Organization Science, Vol. 9 No. 5 (1998) がある。