経営組織論:公式組織論

福井県立大学・経済学部 田中求之

はじめに

このページは、田中求之が福井県立大学で担当している経営組織論の講義のうち、2007年度に公式組織について論じた部分を記録したものである。(田中の組織論については、「経営組織論」等を参照のこと)。 過去の講義ノートもすでに公開しているが(2006年度「経営組織論」の記録)、2007度の講義では、従来よりも整理できたもの講義することができたので、講義ノートの捕捉分として、このような形で公開することにした。

講義のベースになっているのは、ルーマンの『公式組織の機能とその派生的問題』と『社会システム理論』で展開されている内容である。

**2010年度からゼミで組織論のテキストを検討する(ゼミ生の皆が読んで分かるテキストを一緒に作っていく)作業を行うことにした。この講義ノートはゼミの検討会のたたき台もかねており、今後、随時、修正を加えていくことになる。

公式組織論

組織とは

協働システムと組織の差異=人の取替え可能性

通常、私たちが組織という場合、人が集まって一緒に何かしているということを言いますから、その点では、協働システムはすでに組織であるといってもかまわないようにも感じます。具体的実際的に、複数の人々が協働を行っているという点で違いはない。しかし、この講義では、あえて協働システムと組織を分けて考えます。そして、組織と協働システムの違いとして、組織は人の出入りがあっても同一のシステムであり続ける、として押さえることにします。

これまでの議論で、二人以上の人々の間で継続的なコミュニケーション(相互行為)が成り立ち、それが一つのモノとして名をもつとき、協働システムが成立するということまで確認しました。協働システムにおいては、誰がいっしょであるかという人格的な側面の予期と記憶が、その存続において重要なものとしてあります。システム的な記憶と予期だけでなく、参加者相互の人格的な記憶と予期が、その場での互いの行動を支えるものとして重要なわけです。

それに対して、同じ協働のシステムである組織の場合には、少なくとも中心的な行動においては、互いの人格的な予期や記憶をあてにする(参照する)必要がない、ということです。同じシステムに関わっている人間であるということを基本的な判断の基準として自分の行動(を支える予期)を確保できるもの、それが組織だということです。

世の中にある多くの組織、たとえば会社にせよ学校にせよ、それらは年々入る人も辞める人もいますが、同じ「組織」として存続しています。県立大学も、年々、新入生を受入れ卒業生を送り出しながら、同じ組織です。あるいは、この経営組織論という授業は、田中がいなくなったとしても他の教員が担当するかぎり、教育機関として問題なく存続していきます。このように、組織とは、誰がかかわっているのかという関与者の個々人の人格的なものをあてにする事なく存続していけるようになっているシステムです。

組織の特徴:人の出入りがあっても同じであり続ける社会的システム

組織の定義

この人の出入りがあっても同じシステムであるという点を端的に押さえる定義として、この講義では、組織の定義を「二人以上の人々の意識的に調整された行為のシステム」とすることにします。行為のシステムであって、人間のシステムではないということをはっきりさせておくわけです。人間は、組織からみれば、行為の素材となる行動を提供する外部のもの、端的に言うと組織の外部環境ということになります。

これまではコミュニケーションのシステムという捉え方で協働や協働システムを論じてきましたが、ここからは行為のシステムという論じ方に切り替えます。もちろん、行為というのは、観察されたコミュニケーションのことですから、コミュニケーションのシステムという考え方としては同じです。ただ、組織の場合には仕事などの行為が焦点になりますので、ここからは行為のシステムとして論じていくことにします。

もちろん、協働システムも、行為のシステムであることには違いはありません。しかし、そこで関わりをもつ個々人の人格的な予期や記憶がシステムの同一性を保証するものとしてある。組織は、そうした個人的な予期や記憶をあてにしないで同一性を確保するということになります。そのメカニズムは後ほど展開します。とりあえず、実態というか現実に行なわれていることの次元(現象)においては協働も協働システムも組織も同じコミュニケーションの継続(「つながり」と「まとまり」=システム)ですが、継続を成り立たせる編成原理(同一性の確保)が異なるのだと理解しておいてください。

組織:二人以上の人々の意識的に調整された行為のシステム

システムとは

システムについては協働論のなかで論じましたが、あらためて、ここで組織の定義の中の「行為のシステム」ということをじっくり見ておきます。先ほども述べたように、行為であって人間ではないというのが一つのポイントなのですが、それ以外にも押さえておくべきことがあります。

さて、行為のシステムというと、行為が要素としてあって、それを集めてきてシステムが作られるかのように感じるかもしれませんが、そうではないのです。組織は、行為を生み出している。つまり、何らかの動作や行動が行為というコミュニケーション的な接続価値をもったもの(行為として理解するということは、それにどう反応するかを導き選択を迫るものだということ)として規定するものとして組織はあります。黒板の前で大声を張り上げ字を書きなぐるのが「授業」になり、机に座ってぼ〜っと見ているのが「受講」になる、それによって県立大学という教育のシステムが成り立っていることであると同時に、その組織が「授業」−「受講」という行為として意味付けを行っているわけです。

このように、行為のシステムとしての組織は、要素である行為を、諸行動を意味付けることで、「自ら」産み出しているということができます。そしてある行為として意味付けることで、その他の意味付けや連関を捨象している。皆さんが自動車で大学に来るとき、二酸化炭素を排出し化石燃料を消費している。けれども教育の組織としては、「授業を受けに来た」という行為としてそれを意味付け、授業を行うことで応じるわけです。化石燃料を消費したからといって組織論を不可にするなんてことは、通常はありえない。

システムとは、特定の区別を維持しながら継続するコミュニケーションのつながりとまとまりです。組織は、自分に関係する(=組織の要素になる)コミュニケーション=行為と、それ以外のものとを区別しながら、行為の連鎖を生み出しているものなのです。諸行動(振舞い)を特定の行為として「すくい上げ」、それに更なる行為を接続させていくという形で組織は動いているものです。何がその組織の要素であり、要素でないかを選別しながら、組織という一つのまとまりを維持するプロセスが進行しているわけです。これが組織は行為のシステムであるということです。何かの振舞を「行為」としてすくい上げて、次なる振舞に繋げていく、この瞬間に組織の現実性があります。システムの本質は、この振舞=出来事の連鎖の産出です。

行為のシステム化

では、行為のシステムを「作る」にはどうすればいいのでしょうか?

個々の行為(振舞)は直接にコントロールできるものではありません。先ほども延べたように、行為というモノをかき集めてきてシステムを作るといったことはできません。ですから、行為のシステム(社会的システム)の編成は、行為の次元では行われません。

協働論において、協働(コミュニケーションの継続)のために必要なのは、互いの予期の整合化であるという話をしました。つまり、人間関係とは、予期の次元で調整されるものであるということです。ですから、行為のシステムも、予期の次元で形成されます。特定の予期によって、振舞の選別や接続が可能になり、それによって行為の連関が可能になること、それが行為システムです。何かが起きたとき、それを関連する/関連しないという区別をつけて処理していけるには、予期が必要になります。

協働が生まれて継続して行く中で、一定の枠組(関連すること/関連しないことを区別する規準)が生まれていき、互いの予期が整合的になっていく。そして協働に名前がつけられることで、その協働の関係そのものに予期が関連付けられる。つまり、同じ名前によって「共通の」予期を共有しているとみなせるようになる。このとき、その協働は行為のシステムになっているということができます。

このように、社会的なシステムは、予期の次元で作られる(編成される)ものだということです。

予期と構造

私たちが具体的に何かをするとき(振舞うとき)、必ずしも意識的でないものも含めて一定の予期(複数)をふまえて振舞います。このとき、私たちは予期によって選択の範囲(可能性)が限定された状況の中で、個々の具体的な行動をどうするのかという選択を行います。たとえば、田中は、今ここで、授業をするべきであるという予期を踏まえて(授業にならない行動はするべきではないという限定を踏まえて)、どのように話す/書くかという行動を選択しているわけです。このように、私たちの行動は、二段構えの選択になっています。予期による可能性(選択肢)の選択と、具体的な振舞の選択。予期は、具体的な選択を可能にするものです。このようなものを構造と呼ぶことができます。構造としての予期によって、その都度の具体的な振舞は「生み出されている」わけです。

先ほど、行為のシステムは予期の次元で構成されるといいましたが、それを言い換えると、特定の予期がシステムの構造になるということができます。ただし、構造はシステムではありません。システムは、あくまでも個々の行為の水準で存在します。システムが成り立つような行為連関が生まれたとき、そこにシステムを可能にする構造が作用していたと言える(みなせる)ということです。

また、構造=予期は、あくまでも、具体的な行為を生み出す限りにおいて存在していると言えるものです。構造というと、なにか家の骨組みのような、がっしりした変わらないモノであるかのように思えますが、行為のシステムの構造は、個々の行為との繋がりにおいて見いだせるものでしかありません。もちろん、あるシステムが存在するためには、それを可能にする構造が安定的である必要はあります。前に述べたように、協働が安定化するためには予期が一般化する必要があります。ですから、少なくとも何らかのシステムを支えるようなものとしての予期は、個々具体的な状況や人や時間の経過に左右されないようなものとして「安定化」されたものである必要があります。構造としての予期は一般化されたものであるということです。この意味において、構造は、個々の出来事の生起に対して相対的ですが不変的であるとは言える。しかしながら、予期=構造は変更可能なものであり、時として変更が必要なものでありますから、あくまでも相対的な不変性であることには注意が必要でしょう。

さらに、具体的な振舞を可能にする予期は複数あります。つまり、ある振舞がなされたとき、それをどのような行為であるかとみなすかによって複数のシステムが関与しており、複数の構造が作用しているということです。

履歴から明文化された予期へ

協働システムにおいては、互いの関係の積み重ねの中で、人格的予期、役割的予期、関係的予期、それにその他の状況の予期という4つの予期が、行動する際には関わっているわけです。では、これを「人の出入りがあっても同一な行為のシステム」にするには、予期がどのようになれば良いのでしょうか?

人の出入りがあるということは、当然のことながら、協働の相手が変わるということですから、すぐに思いつくように、人格的予期に依存しないようになることが必要ということになります。ただし、これは人格的な予期を廃棄するとか消去することではありません。人間が具体的に協働する際には、どんなに方が的なものであれ人格的な予期は発生しますし、それを手掛かりに目の前の具体的な個人との行動の調整を行う必要があります。ですから、お互いに人格的に行動するということは必要条件となります。人格的な予期への依存を下げるというのは、協働の中心的な予期において人格的な予期は不要、ということです。その代わりに、役割的な予期が重要になるということはすぐに判ると思います。相手がどんな人間かではなく、相手がどんな役割を担っているのかということの方を軸にして、相手との最低限の協働が可能になるようになれば、システムに関わる人の出入りも可能になります。

それでは、役割的予期と関係的予期を中心的な予期とすればよいのかというと、そう簡単ではありません。というのも、協働や協働システムの予期は、基本的に、過去(履歴)の共有によって生まれてきたものであり、履歴が保証するものになっているからです。つまり、「同じ体験をしてきている」(受けとり方や解釈は個別に異なるにせよ)ということが、協働(システム)を支えているわけです。この根本的な構造が変わらないと、新たな人は関わりを持てないということになります。新しい人というのは、当然のことながら、過去を共有していない人だからです。その人に過去を共有せよとか学べというのは、絶対に不可能ではないにせよ、かなり無理なことであるのは間違いない。もちろん、神話とか歴史の物語のような形に凝縮された履歴を学ぶことで、新参者が過去(履歴)を学ぶことはできるわけですが、それはあくまでも語られた過去であり、過去の体験そのものではない。

しかしながら、今述べた、「神話や歴史の物語を学ぶ」ということに、履歴の共有の代替策が示されています。つまり、予期の基盤となるもののを明文化・定式化し、それを軸に互いに予期と行動を調整していくということです。体験するのではなく、学ぶものにしておく、と言ってもいいかもしれません。実際には、神話のような物語ではなく、会則、規則、ルールといったものを明確に定めておくということになります。特定の予期を明確化し、それを受入れるようにするということです。

このように、組織という「人の出入りがあっても同一な行為のシステム」を成立させるためには、協働や協働システムの存立を支えている履歴(歴史、記憶)を、明文化し学びえるものした予期に取り替える必要がある。こうすることによって、過去の体験を共有していないものが新たに加わることが可能になるわけです。

公式組織

予期の公式化とメンバーシップ

人の出入りがあっても同じものであり続けるという組織が成り立つためには、共有された記憶(歴史、履歴)への依存部分を、明文化された規則(規範)に置きかえることが必要であることが確認されました。組織とは、知らない人との間で即座に協働が可能になるものです。互いに承認し調整の軸となる予期が、過去の体験の共有からではなく、新参者にでも理解し受容できるものになっていることで、人が入れ替わっても、互いに協働が可能になるわけです。

通常は、組織のメンバーであることを希望するということでもって、この明文化された予期を受入れたものとみなします。組織は人の出入りがあるということは、緩やかなものであるにせよ、その組織に関わる人とそうでない人の区別を付けることが必要ですから、メンバーというものがはっきりとしてくるわけです。そしてメンバーであることは、メンバーであることを望んでいる人であるということですから、その人は、通常は、組織の中心的な予期(たとえば目的)を了解し受容しているとみなしうるわけです。

しかしながら、本当に中心的な予期を受入れているのかどうか?という問いを立てると、ここでも内面に踏み込まないかぎり本当のことは分からないという問題にぶつかります。この点を解決するのが公式組織というものです。

公式組織とは、その組織の中心的な予期を明文化し、それの承認をメンバーに加わるための条件とする、という組織です。予期をメンバーであるための条件とする(予期の承認と受容をメンバーの資格とする)ことを予期の公式化と呼びます。公式化された予期によってメンバーを定めている組織のことを公式組織と呼びます。

この仕組みのポイントは、メンバーであるということは、当然のことながら、中心的な予期やルールを受入れているとみなせるということ、つまりそのようなものとして扱って良い、ということにあります。本人がどのように考えていようと、メンバーである以上は、一定の予期にしたがって行動するはずとして扱える。

このように、互いの内面に立ち入ることなく、メンバーであるという点だけを基準にして最低限の行動の調整が可能になるということです。そして、もし中心的な予期に反する行動をとったり、ルールに従わないということがあった場合には、成員資格に背いたとしてメンバーから排除されることになります。それによって、メンバーということと、中心的な予期に従うということの繋がりがかならず保たれるようにするわけです。

このように、特定の予期を公式のものとして、その公式的な予期(と諸規則)の承認・受容をメンバーであるための条件とするという仕組みをもっている組織のことを公式組織といいます。私たちの周りにあるほとんどの組織は、公式組織になっています。

メンバーという役割(成員役割)

メンバーというものについて、少し考えてみたいと思います。

まず当たり前のことですが、メンバーであるということ事態は、何らの具体的な役割の担い手であることを意味しません。メンバーであることは、組織において具体的な役割を引き受ける前提です。そのことは、言い方を変えると、メンバーであることによって要求されることを引き受けることが、どんな具体的な役割を担う場合でも前提となるということです。このように、何かのメンバーであるということは、メンバーという一種の役割のレベルにおいて、皆が同質のものとして扱われるということになります。

同質として扱われるということは、個人的なものを消去する(無いことにする)ということではありません。メンバーとして関わりを持つべき組織上の役割(公式的な事柄)と、個人的な事柄が区別されるということです。個人的な人間関係と、仕事上の関係が明確に区別されるということです。そして、たとえば規則に違反するなど、メンバーとしての資格が問題になったときには、その違反を行った個人の人間的な側面が問題として取り上げられます。つまり、普段は社会的な行為と、個人的な行為は分離されるのですが、限界的な状況においては、この区別は取り払われるわけです。

いかなる理由であれメンバーになることを希望し、公式的な予期などを承認した時点で、メンバーであることの背後にある個人的な事情は「背景にしまい込まれ」、互いにメンバーであるということを手掛かりとして相互作用を行えるわけです。

もちろん、具体的な行為の場面においては、目の前にいる個人との関わりが生じ、人間関係が生まれてくるわけですが、それにしたって、あくまでも互いにメンバーであることを背景として成り立ってくるものになります。このように、公式組織においては、あらゆる社会的な関係が、メンバーであるということを土台として築かれるものになるわけです。

加入と脱退

当たり前のことですが、人は、ある組織のメンバーであるかメンバーでないかのどちらかになります。また、少なくとも公式組織においては、自然とメンバーになってしまうということはありません。何らかの決意でもって自らメンバーであることを希望し、メンバーのなり、そして事情によってメンバーでなくなる。このように、メンバーというものは、内側と外側の区別がはっきりしているものです。人の次元で境界が作られる。

このことは、個人にとっては、メンバーという役割が、組織への加入と脱退を意識させるものだということになります。

加入と脱退については、それを意識することで、組織を対象化し、さらには外部を意識するという作用があります。人間は日常的な連続性が途切れることになると、それまで自明のものとして何も意識していなかったものについての意識が高まります。卒業式前に友だちや学校生活が妙に愛おしくなってきたりするわけです。難病で恋人が死ぬ恋愛が燃え上がるというドラマでよくあるパターンも、そこには「終わりへの意識」からくる意識の濃密化があると言えるでしょう。このように、組織というものをあらためて意識し考える契機として、加入・脱退というものが関わってくるようにもなります。

成員資格と報酬

公式組織では、メンバーとして関与する個人にとっても加入と脱退は大きな意味をもつのは当然です。公式組織においては、メンバーは、その組織に関わることの利益を、基本的には成員であることから得ることになります。

これは君たちがアルバイトをしたときのバイト代が、たとえば1時間に800円という時間給で払われることで考えてもらえば分かりやすいでしょう。何をどれだけしたかではなく、アルバイト人員として1時間働いたということにお金が支払われる。このことは、アルバイト人員というメンバーであることがベースになって支払いを受けているわけです。

言い方を変えると、メンバーであることの見返りを得るためには、メンバーであり続けるしかないわけで、成員資格に反しないように行動するしかないわけです。メンバーというものは、その報酬(利益)がメンバーであることにリンクされることによって、自ずと成員資格に反しないように行動するようになっているわけです。また、何か問題が起きたときには、その出来事そのものだけでなく、常に、そのような問題を起こした人の成員資格の問題へとリンクされるようになっているわけです。つまり、常に脱退の可能性がある(辞めさせられる可能性がある)ことが、メンバーにとってある種の圧力として存在し続けている状況ということになります。

公式組織と労働市場

もちろん、こうしたメンバーの取り替えが可能であるためには、労働市場から必要な人間をいつでも調達可能であるという経済体制が必要になります。多くの人間が労働者として雇用されて働くという社会になってこそ公式組織はまともに機能しうるわけです。その意味で、近代の資本制(商品経済、貨幣経済)の成立によって公式組織が社会の主要な協働形態になったとも言えるわけです。

メンバー選考と取替え可能性

このように、公式組織ではメンバーの決定が重要な決定になるのですが、加入と脱退の決定でメンバーを調整できるということが、加入の決定を変化させるということがおきます。加入希望者がメンバーとして相応しいかどうか、成員資格を満たしうるかどうか、これを判定するわけですが、厳密に考えるならば、この時点で加入希望者の人格的な側面にまで踏み込む査定を行い判定を適確に行うのが当然とも言えます。しかし、公式組織においては、この判定が一定の二次的な指標による判定に置きかえることが可能になるのです。たとえば、試験の点数だとかそういうもので判定する。もちろん、まったくのデタラメで判定するのではなく、それなりに関連はあるだろうと考えられる指標によって判定を行うわけです。

なぜこのような二次的な指標による選別が使えるかというと、メンバーに加えてみて不都合があればいつでも排除できる(辞めさせられる)ということがあるからです。メンバーが取り替え可能だからこそ、そこそこ相応しそうな人間であればとりあえずメンバーにしてみるという手段が使えるわけです。もちろん、メンバーの交替にはコストがかかりますから、選別にかけるコストとの比較で、じっくり選別する方がいいのか、緩く選別してどんどん入れ替えていくのがいいのかはケースバイケースですが。

メンバーと役割

公式組織では、メンバーであることを前提に、個々具体的な役割を引き受けていくことになります。メンバーという役割(成員役割)の上に個別の役割が乗せられるわけです。このことは、どのような役割を担うにせよ、メンバーとして必ず担うべきことがある(それが前提になっている)ということです。メンバーである以上は、組織の目的を承認し、決定された事項は承認し、上下関係を受け入れ、公式的な規則などを尊重することが求められるし、そのように行動することが求められることになります。そのことは、いかなる個別の役割を担うことになっても、かならず守るべき義務のようなものとして課せられることになります。つまり、メンバーという役割による枠組みの中で、個別の役割を引き受けて担うことになっているわけです。

見かたをかえるならば、成員資格によって全体的な規制を行いつつ、個別の具体的な状況には個別の役割を割り当てて対応するわけですから、二層の役割になっていることが、コントロールと柔軟性を併せ持ったものを可能にしているともいえます。

公式組織では成員役割の上に個別の役割が載る二層構造

非公式的役割、非公式的状況

組織に関わって人々と協働する際には、そこに具体的な個人と個人の交流があるわけですから、メンバーであること(成員役割)や組織によって割り当てられた個別の役割の他に、人間関係の中で生まれてくる役割も生じてきます。こうした対人関係の中で個人が担う役割は、公式的な予期・役割とは無関係ですから、非公式的役割と呼びます。たとえば、話合いの時に調停役を買って出るとか、話をまとめるのがうまいとか、そういうものです。こうした非公式的な役割は、公式的な役割による協働をしていくうえ重要な補完的機能を果たします。後に見るように、非公式的な役割があることで、公式的な役割をうまくこなせるということや、公式的には割り当てられないことを非公式に担っていくといったことが、組織で協働が行われていくためには必要になります。

このように、メンバーは非公式的な役割を担うことにもなるのですが、それは公式的に規定されたものではありません(だから「非」公式的なのです)。どのような非公式的な役割を担うことになるのかは、個々人の対人行動の技能(社交性)や特性などによる部分が多いでしょう。人格的なものと言ってもよいかもしれません。しかし、非公式的役割は、あくまでもメンバーとしての接触・協働の中で生まれてくるものです。メンバーであるからこそ、他のメンバーとの間に、自分の非公式的な役割が生まれてくるのですし、そうした非公式的な役割を引き受けるのもメンバーだからこそ、ということです。その意味で、成員役割と無関係なものではありません。

非公式的役割が生まれるのは、どのように行動しようとメンバーであることに反しない(つまり公式的な予期の違反問題が生じない)ような状況が、組織にかかわる活動の際には生じるからです。つまり、非公式的な状況というものが生じる。会議での発言とエレベーターに乗り合わせた際の会話は違う。こうした状況の違いに合わせて行動できることが公式組織に関わる際には求められることになります。

公式組織には、非公式的役割、非公式的状況が生まれる

公式組織おける予期の一般化

協働を論じた際に、協働の安定化のためには予期の一般化が必要であり、その一般化は時間的・内容的・社会的の3つの方向でなされるということを確認しました。公式組織においても、当然のことながら予期の一般化が必要になるわけですが、公式組織というシステムの形態が可能にする一般化について確認しておきます。

●時間的一般化

まず時間的一般化ですが、行動期待は成員役割によってシステムの存続に結びつけられ、それによって公式的な持続的妥当を得ることになります。つまり予期が外れるような事実が生じたとしても、システムが存続する限り妥当し続けるようになるわけです。メンバーになるためには承認しなければならないということによって、メンバーを決定したシステムが存続していることが、その妥当性を保証するわけです。関与している人々の合意や意識には無関係になるわけです。予期が規範化されるわけです。このように、公式化によって、時間の経過のなかで予期が安定化します。

ただし、このことは、予期が変わらないということ(永遠に妥当し続ける)ということではありません。時間の経過に伴って状況が変化したからといってそれだけで妥当性が揺らぐわけではないという意味にすぎません。状況が変化し、予期があまりにも状況との間に不都合を生じるようになったときには、予期の方を変更しなければシステムは存続できません。

しかし、公式組織においては、予期の変更は、決定によって行われるものとなります。つまり、誰かが勝手に変更してしまうとか、自然と変えられていくというものではあり得ません。そのようなものになったら、人の取替え可能性を保証することができなくなります。ですから、成員資格と特定の期待との結びつきを変更することを可能にするのは決定(だけ)ということになります。

決定というのも色々な意味をもつ概念ですが、ここでは特定の選択が明示的に特定の時点でなされ、その選択結果をメンバーは承認し合意し、以後の行動の前提とすること、としておきます。いつ、どのように決まったか誰にでも分かるものでなければならないわけです。通常は意思決定という言葉を用いることが多いのですが、この講義では、選択した本人の意識を根拠としない場合も含めるために、決定という言葉を用いることにします。すべての公式的な予期に関連すること(規則等)は、すべて決定によってのみ変更されます。決定されたことで成り立っているわけです。

予期の公式化も決定によるわけですし、メンバーも決定によって決められるわけですから、公式組織とは、決定によって成り立っているシステムであると言うことができます。

また、各人は、公式的な予期を受け容れるという決定によってメンバーになっており、さらに組織において行うすべての公式的な活動は、予期に従うか否かという観点で捉えることができますから、予期に従うという決定をしたか否かという選択=決定であることになります。つまり、個々の行動は、何をするのかという選択であると同時に、公式的な規則に従うのか否かという選択であるともみなせるようになるわけです。だからこそ、もし行為が公式的な予期に反するとみなされると、すぐさま、成員資格の問題にリンクされる可能性があるわけです。このように、公式組織では、すべてが決定という選択の連鎖で成り立っていると言うことができるのです。

このように、公式組織における公式的な予期は決定によってのみ変更できるものとして安定化するわけですが、このことは、見方を変えると、公式的な予期は環境の変化に対して遅れを伴うということでもあります。状況がどのように変化しようとも、変更の決定がなされない限りは、予期は変わらない。また、環境のもたらす問題が、なんらかの決定によって対処できるものでない限りは対処できない。この意味において、公式組織の安定性とは、変わりにくさという硬直性でもあるということです(ただし、この硬直性は、あくまでも公式的な予期の次元での話であって、個々具体的な行動に関わるすべての予期のことではない)。

公式的予期は規範的予期として時間的安定性を得る
公式的予期は決定によって変更される
公式組織は決定によって成り立つシステムである
公式的予期は環境の変化に遅れをとる

●内容的一般化

予期が状況から独立したものになることが内容的一般化でしたが、これについては、先ほど論じた、メンバーであるということが予期の内容的一般化を担うことになります。メンバーであるという次元において、個人的な側面は分離され、関与する人々の同質性と透明性が確保されるからです。メンバーが行うことという次元では、それがどのような状況で行われることであっても、メンバーの行為として予期できるわけです。

先ほどの言い方をすれば、メンバーというものがある種の役割として認められ、受け入れられているということです。

このようにメンバーであることと結びつけられた公式的な予期は、その予期によって指示される行動が矛盾を孕んだものであってはなりません。ある公式的な予期に従うことが、別の公式的な予期に反したり、勝手に個人的な問題とされてしまうのであれば、システムは存続できません。ですから、公式的に保証される予期(規則など)は、整合性をもった一貫性をもったものでなくてはなりません。

このことは、組織において具体的な行為を行う際にかかわる予期がすべて無矛盾でなければならないということではありません。後ほど論じますが、変化する状況においてシステムが存続していくためには、システムは矛盾する行為や非合法的な行為を時として必要とします。無矛盾であることが必要なのは、あくまでも公式的な予期です。

公式組織では成員役割の上に個別の役割が載せられていくのですが、個々の具体的役割は、それを担っている個人とは切り離して、独立したものとして扱われるます。一人の同じ人が複数の役割を担っている場合でも、それぞれの役割は結びつけられない。ある役割を担う時には、同じ人が担っている別の役割は無関連なものとなっていることがあります。

言い方を変えると、役割(役割に基づく行動)が非人格化されると言うこともできます。あるいは、行為が役割的側面と自己表現の二面のものとして捉えられ、役割的行為は非人格的なものとして了解されることになるわけです。バーナードは、この二重性を組織人格と個人人格としました(人格という言葉の使い方がこの講義とは異なります)。

また、その人が公式組織とは無関係なところで担っている役割も、公式組織の中ではまったく配慮されないことになります。このように、公式組織では、個人と役割、あるいは個人が担っている複数の役割が、それぞれ分離されて扱われることになります。役割分離がしっかりなされていることで、それぞれの状況においてメンバーとしてある特定の役割を担っていることだけを手がかりにできる。これが内容的一般化です。ただし、このことは、一人の個人が矛盾したり対立する複数の役割を担ってしまうという問題を起こす可能性があります。

内容的一般化は成員役割が認められること
役割の分離・非人格化がなされること

●社会的一般化

相手の内面に踏み込まずに予期が妥当することが社会的一般化でしたが、それもまた、メンバーというものが可能にします。メンバーになっているということは、公式的な予期を承認し合意したということですから、どんな相手であっても、メンバーであるということによって公式的な予期が通用することを当然のことにできるわけです。

このことが成り立つためには、メンバーであることが「可視化」される必要があります。つまり、互いにメンバーとして公式的な予期に従っていることが「分かる」必要があります。そのために、様々な装置が用いられます(制服やカード、あるいは場所)。

また、メンバーは互いに公式的なものに合意しているものとして行動することが求められます。たとえ自分が関与しないところで定められたものであっても(上層部)、そこで下された決定には、自分も合意しているものとして受け容れ行動する必要があるわけです。メンバーであるとは、そのように行動することを了承したものとして扱われるということです。ですから、公式的な決定は、組織全体が合意したものとみなせるということになるのです(もちろん、決定が公式的になされたものであることを確実にする手続が必要になりますが)。本来は、合意というのは、個々人の判断の問題です。しかし、公式組織においては、個々人の考えなどに一切踏み込むことなく、全員が合意しているものとみなすという擬制が通用することになります。

メンバーの可視化による一般化
公式的決定への合意

公式化による一般化の意義

このように、公式化によって、予期というものを時間的、内容的、社会的の三つの方向で一般化することが可能になります。それによって予期は高度の確実性と信頼性を備えることになるわけです

予期が高度の確実性と信頼性を備えるようになると、態度の持続性や内容上の意味連関や合意といった、本来行為の基礎となるはずのものを、一定の決定を下されたものによって、代替することが可能になるわけです。これはシステム内のやり取りに関して、意識の負担を軽減し、状況を単純化するメカニズムです。しかしこの予期の保障一般化がもたらす最大のものは、社会的システムを一定の境界内で環境に抗して維持するということなのです。

公式組織と行為システム(秩序の多重性)

公式組織の様々な面については、これからの講義の中で論じていくことにしますが、最後に重要な点を確認しておきます。それは、公式組織のメンバーとして行動する場合に関係するすべての予期が公式的な予期なのではない、ということです。つまり、公式的な予期というのは、あくまでもその場での協働を調整する主要な予期だけであって、具体的な行動=協働の場面では、公式化されてない様々な予期が関わってくるということです。具体的な協働を可能にする秩序化作用は様々なものが担っているのであって、公式組織だけが担っているわけではない。多重的な秩序化の作用が交錯する中に、公式組織が成り立っているわけです。

必要な予期をすべて公式化して成員資格で縛る組織など存在しえません。メンバーとして特定の役割を引き受けて協働する場合でも、実際の協働においては、具体的な個人の人格的な側面などは当然のことながら関わります。先の講義で述べたように、どのような場面だっても、行為とはかならず自己表現を含むものですから、当然のことながらメンバーとして振舞いながら自己をどう表現し他者とすり合わせていくかといった問題は生じるわけです。公式組織とは、すべての予期や行動を規則で縛りつけて人間を機械の部品のように扱う組織などではない、ということは確認しておくことにします。現場で起こっているのは、常に、対人行為(相互行為)です。

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