ルーマンの『公式組織』を読む

福井県立大学・経済学部 田中求之

二クラス・ルーマンの『公式組織の機能とその派生的問題』(序章〜7章まで)を読んでいきながら、自分なりに勝手なまとめをしてしまうという、読書ノートである。(田中の組織論については、「経営組織論」等を参照のこと)。

*できれば『公式組織』のすべてを読んでいきたいと思っているが、時間の都合などもあって、現在のところ、7章までになっている。いずれ、バージョンアップしたいと考えている。(最終更新:2010年02月23日)

序章 方法と意図

「方法と意図」と題された序章において、ルーマンは自分の研究が何を狙いとするものかを述べている。

まず、組織というものが行為の正しさの基準を定めるものであるということが述べられる。

組織というのは必ず、行為の正しさの基準を定めることを自らの課題とするものである。その基準を充足することをその課題に含めることもある。組織がそういう課題を立てているということは、組織自身がそのように理解されることを望んでいるし、また実際、我々は日常生活で組織をそのようなものとして体験している。個人はこの基準に従うこともあれば逆らうこともある。何も考えずにその基準に合った行動をとることもあれば、従わないですむように抜け道を探すこともある。どちらにしても、個人がどうするかということに先行して、まず組織が成立しており、行為の可能性が許容されるものとされないものに分けられているということが前提になっている。

このように組織を捉えた上で、従来の組織研究のあり方が、行為の正しさに関わる規範についての科学を目指していたと総括される。そのうえで、そうした研究の体系的な完結性が「より重要でより学問的関心に適う主題を放棄するという犠牲によって成り立つ」ものであるとされる。規範に対する違背や逸脱が説明されていない、あるいは、原初的な生活における規範観念の変容がとらえられていない、とルーマンは述べる。また組織を理想的な類型として考えるが故に、「時間的な安定性、社会的な合意、内容的な無矛盾性は公準として前提されて」しまい、現実にどのように成立するかを見ていないとする。そうしたルーマンの批判の焦点を端的に示したのが次の言葉である。

要するに、組織における現実の行動が、これら規範科学の主題圏の中に捉えられていないのである。

つまり、ルーマンは組織に関わる人々の現実の行動を解き明かすことができる組織の理論を提示したいと考えているわけである。この点は、本書を読んでいくにあたって十分に心得ておくべきことだと思う。というのも、前半部分で展開されている公式組織の社会システム論は、抽象的な議論になっており、それが最終的に組織に関わる人々の諸行動の現実を解き明かすことを目的に磨き上げられていることを、ともすれば忘れがちになるからだ(もちろん、システム論としてだけ読んでも十分に刺激的だが)。

さて、ルーマンは、従来の理論がこうした現実行動の解明には不十分であることの理由を、それらは「日常生活における指向のパースペクティヴを引き継ぎ、それに囚われてしまっている」が、合理性といったそれらのパースペクティブは「あくまでも行為を正当化するためのパースペクティヴなのであって、それが現実の行動様式を理解したり説明したりするのに学問的な価値を有するかどうかについては検討されていない。規範的組織科学は、実践者の世界と科学者の世界が未分化な、社会学以前の統一的世界像に依拠しているのである」とする。日常的なパースペクティブをそのまま引き継ぐ点を批判するわけである。

日常的なパースペクティブとは異なるパースペクティブから社会や人間を捉える試みも従来からある。ルーマンが例としてあげているのは、ニーチェ、フロイド、マルクス、フッサールである。これらの人々は「思念され体験された意味を、その際同時には思念されていないものによって解明し、体験の連関を断絶させるのである」。ルーマンは、なかでもフッサールを高く評価しており、「フッサールによるによる自然的体験の現象学的還元は、この原理の最もラディカルな定式化である」と位置づけている。

そうした試みに習うかたちでルーマンが組織を解明するために用いる方法が機能分析である。

ある社会的システムの中で公式に妥当している行為の正しさの規範という主題に話を戻すと、我々が取り組まなければならないのは、この規範の内在的な意味とかその規範としての正しさではなく、この規範が有している機能だということになる。規範というのは、行為の正しさを定めるものではあるが、それだけにとどまらず、現実の行為から成り立つ社会的システムに対して、その構造を形成するものでもある。人間が複数集まって一つの社会的システムを形成する場合、行動期待の安定化という問題が発生する。規範というのはこの問題を解決する働きをするものなのである。この、構造を与えるという意味において、規範は当該の行為システムに対して一つの機能を有することになる。この機能を問うことによって我々は、旧来の規範を解釈するとか規範に従うといったパースペクティヴを離れて、規範定立について批判的に、つまり別様可能性の観点から評価することができるようになるのである。

機能分析は、行為、行動期待、規範、象徴を、システムを形成する働きを担う作用として理解する。こうすることで、行為者自身は考えてもいなければ考える必要もないような別の、機能的に等価な作用可能性との比較が可能になる。

このように、行為の規範の機能を、それが何と同等の働きをするものか、という観点から考察していくことで、「組織化された社会的システムにおける人間の共同生活」を解き明かすことが、本書でルーマンが試みることなのだ。そこでは、組織に関わる人々の行動が、「人間同士のより原初的な接触」の等価物になっていることが明かされていくことになる。そのために、社会的システムに関する抽象的な議論をきちんと行っておく必要があるわけだ。この迂回の必要性をルーマンは次のようにいう。

具体的な現象に迫る権利は、社会的行為システムの理論という高度に抽象化された理論を一旦経由してはじめて与えられるのである。

現実の組織に関わる行動秩序は複雑になっているがゆえに、現象を表面的に補足しただけでは、全体の連関が見えないということも、抽象的な理論を経由することの必要性として上げられる。こうしたことをふまえて、ルーマンは、本書の試みを次のように述べる。

それゆえ我々にとってまず必要なのは、社会的システムの公式組織についての一般理論である。この理論に依拠することによって、社会的システムの公式化というのは、人間同士の原初的接触から発達してくる過程であり、システム構造にまったく新しい可能性を開くものであること、とはいえそれによって一定の派生問題が引き起こされるため、それを対象とした分析がさらに必要になることが明らかにされる。組織システムの構造的基礎決定は、この派生問題に対処するものとして整えられることになる。この公式的なシステム構造は一定の要件と脆弱性を伴うため、それが公式・非公式を問わず、また許容・不許容を問わず、きわめて多様な戦略が採用される機会ときっかけを提供する。この戦略によって行動負担は克服されるか、あるいは別の形に変形されて別の箇所で新たなディレンマとして登場し、新たな解決を求めることになる。

このように、公式組織を、まず社会的システムとして理論化し、それが人間の行動をどのように関わるかを捉えるとともに、それが現実に人々の営みとして形作られていくなかで、いかなる問題や行動のありかたを誘発することになるのかを見ようとするわけである。本書の前半、翻訳の上巻では、公式組織のシステム論が展開される。後半、翻訳の下巻では、公式組織にかかわる人々の行動が、公式組織の派生的問題という観点から論じられていく。いささか先回りして述べておくと、後半部分の議論を貫いている主題は、第24章でルーマンが述べている次の言葉に表れている。

公式組織はある目的のゆえに構築されるわけであるが、そのためには社会システムをつくって、それを構造化しなければならない。しかし、これによって、公式組織には、目的にたいする手段のすべてを正当化することはできなくなってしまうのである。これは公式組織のパラドクスである。

田中は、ここにでてくる「公式組織のパラドクス」が、本書を読み解いていくための一つの鍵ではないかと考えている。公式組織の持つパラドクスゆえに、一見すると逸脱や違反、あるいは非公式や非合法な行動が、組織に関わる人間の行動としては当然の行動として表れてくるというのが、本書の後半部分の議論の面白さである。極論すれば、公式組織のパラドクスは、個人の(問題)行動として解決される/それを誘発するということである。

すこし先走ってしまったが、最終的には組織に関わる人々の現実的な行動を解き明かすことを視野に入れながら、まずは公式組織を社会的システムとして定式化する作業が展開されていくのである。

第1章 社会的システム

第1章「社会的システム」は、行為システムについて論じられている。ざっくりと言えば、期待によって行為のシステム的な有意味な連関が形成され、中でも公式化された期待を軸にしたものが公式組織である、という話になる。

まずシステムをどうとらえるかが問題となる。ルーマンは、部分が全体を形成するというシステム論を存在論的システム概念と位置づけ、この概念では、環境のただ中でシステムが存続し続けなければいけないという問題を捉えられないと批判する。そして、彼自身は機能分析によるシステム概念を持ち出す。その概念では、システムとは環境に対して境界を相対的に不変なものとして維持している作用連関として捉える。端的には、環境のなかで内部を確保しているものということになる。「この定義では、内部と外部の区別が適用できるものは何でもシステムと呼ぶことができる。」というわけである。境界があるということは、その境界に囲まれた内部があるということであるし、境界があるということはその境界を維持している(正確には常に区切り続けている働きがある)内部秩序(境界を維持する働き)があるということでもある。そして、環境のなかで境界を維持している以上、その境界や内部はデタラメなものではありえない。環境のなかで一定の境界を維持する(内部と外部の差異化が連続し、同じ内部が維持=指示される)ことが可能な作用(秩序)でないといけないわけだ。その意味では、ただ外部と内部の区別が適用できるだけでなく、「同じ」(何を持って同じというかという問題があるが)内部が存続する必要もあるわけだ(区切るたびに内部として指示されるものが違うことではシステムとは言えないだろう)。

このように、境界があり内部と外部が区別されうることと、内部として指示される一定の秩序が存在することは同じことであり、そのような境界を維持し、そのことによって環境からの相対的な独立性をもって作動するものが、システムと呼びうるわけである。箇条書きしてみる。

区切り、そして自らを内部として支持し、それが環境からの相対的な独立性(反射的な因果関係の連鎖からは外れた作用をなしうる)を保つもの、それがシステムというわけだ。

さて、システムを押さえたところで行為システムに行く。

行為システムとは、境界を有する任意の行為連関のことをいう」。そして、「ある連関が境界を有するとは、この行為間の意味関係が、環境の変動からただちに影響を受けることがなく、そのことによってシステムが一定の持続性を有することをいう。そのためには、行為が類型的に反復可能であることが前提となる。

さて、これを考察していこう。行為システムは、行為の意味の連関としてある。振舞い=行動の次元ではなく、行為という意味の次元でこそ連関は確保される。そして、行為がシステムをなすとは、諸行為の連関が環境から一定の独立性を持って連鎖・連関することであり、その連鎖こそがシステムの持続性となるわけだ。

ここで、行為が環境から相対的に独立するということは、「同じ」行為が、環境の状況に関係なく行われるということであり、類型的な反復が可能であるということである。このことは、具体的に展開される複数の行動が、行為の次元では「同じもの」として同定される(意味付けされる)ということである。そして、諸々の行動を「同じ」行為として意味付け関連付け、更なる特定の行為へ接続する限りにおいて、行為の連関は境界をもち、システムとなっているわけである。行為だからこそ環境からの独立性を保った連関が可能になるし、この点を突き詰めれば、行為自体がシステムの成立と同じことを指すとも言える。振舞いが行為に意味付けられるときには、そこにシステムが作動している。

社会的システムと人間システムは、個々の行為においては重なり合うが、システムとしては互いに対峙しあう関係にある。それぞれが独自の秩序の中心を形成し、独自の存続問題を有し、互いに他に対して相対的な不変性を維持する関係にあるのである。

社会的システムを行為のシステムとして押さえるということは、人間自体はシステムには含まれないことを意味する。人間は社会的システムの環境=外部であり、その人間=環境の様々な行動のうち、特定の意味連関に組み込まれうるものが、システムの要素としての行為であるわけだ。というか、行為として差異化する作動がシステムなわけだ。人間の側から見たとき、行為のシステムは、自分の行動を一定の意味と連関を持った行為として同定してくるものとしてある。行為主体として同定してくるものとしてある。

行動期待はどんなシステムにも含まれる秩序化要素である。どんな行為についても、それに込められた意味というのは一つの過程を未来に向けて投射し、将来の状況を表象するものであり、そういう意味で、行為の意味とは期待である。

システムの内部結合のあり方も、外部に対する存立能力も、システム期待がどのように定義され、それらの期待同士がどういう関係を取り結んでいるかによって決まってくる。どんなシステム問題も、最終的には期待の安定化という問題に還元して考えることができるのである。

ここで期待というキー概念が登場する。期待というのは、基本的には、今ここにあるものから未来を無根拠に想定するものである。根本にあるのは接続・選択の限定(あるいは選択的接続の「自然化」)である。行為の意味が行動期待であるというのは、ある行動が行為として意味付けられるということは、その行動に接続するべき行動も(一定の範囲で)指示されるということだと解することができる。先行する行動が行為として意味付けられることで、接続するべき行動も明らかになってくる。期待は、行動に、接続可能性と、同時に接続範囲の限定を加えることで、行為として輪郭と指向性を与える(あ、でもルーマンは「行為に指向性を与える期待」という言い方をしているしなぁ)。

社会的システムは、行動期待によって成立する。そして、特定の行動期待の不可侵の妥当性を明確に要求するようなものが組織であるとされる。ただし、社会システムを成り立たせるすべての期待が、この妥当性要求を掲げるわけではない。

公式構造、つまり組織は、「自然」な行為システムの一部分にすぎない。

システムに含まれる期待と行為のすべてが公式に組織化されているという意味で完全に公式化されたシステムというのは存在しないのである。

すべての期待が公式化されるわけではない。つまり、組織において公式化される期待は特別な期待である。ルーマンは「特別な仕方でシステム全体を参照するもの」という言い方をしている。そして「きわめて多様な行動期待によって秩序化される具体的な行為システム」と「(行為システムの)期待のうち公式化された期待だけからなる部分構造としての公式組織」とは区別する。このへんは、バーナードの組織と協働システムの区分に重なるかな。

で、ルーマンは本書の対象となる公式組織の定義?を以下のように述べる。

本稿の研究対象は、公式期待という特別な期待からなる構造によって実際の行動を秩序化している社会的行為システムである、といえる。この構造が、変動する環境に対するシステムの境界を定義することになる。

そして、第1章の最後に以下のように述べる。

一方ではシステムと環境の間の緊張関係が、他方では期待と行為の間の緊張関係が、組織の中での行動に伴う特殊性と困難を理解するための参照枠となるのである。

「期待と行為の間の緊張関係」というのは、決定の問題ということでいいのかな?

第2章 公式組織

第2章の最初は、まず「公式(的)」の意味の批判的検討が行われる。ルーマンは、期待が公式的であるということは「システムの同一性を保つという意味で形式的な一定のシステム構造に、その期待が所属している」と述べる。その後、公式組織と非公式組織の議論、目的合理性と命令による組織理解といったものを批判する。このへんは、他の著作や論文でも見られた古典的組織論の批判である。それらを経て、ルーマンの議論は、「人間の共同生活の原初的な秩序形式」の考察へと進む。そして、相互的行動期待の形成がキーとして取り出される:

共同生活が存続するためには、相対的に堅固な相互的行動期待の形成が可能であり、かつそれがある程度の高確率で充足される必要がある。

つまり人間は、自分に対する相手からの期待を認めることができ、また相手の方でも自分に向けられた期待に従ってくれる場合に、そうした人同士で集団を形成するのである。

相互的行動期待というのは、期待が一致することではなく、互いの自己と相手に関する期待が齟齬が起きない状態であるはずだ。AとBがいるとき、Aの自己に対する期待が、BがAに向けている期待と同じである必要はない。Aは自分が期待されている通りに行動する時、Bから見ればAがBの期待通りに行動していると解することができればよい。言うなれば、各自の期待という思い込みが、行為の連鎖の破綻をもたらさないということが、相互的行動期待が「成立している」ことのはずである。もちろん、その先には「一致」が、より強いものとしてあるわけではあるが。

ルーマンの議論では、相互的行動期待によって原初的な共同生活が成り立つとき、こうした集団は、規範の承認を軸に行動期待の共有、そして関係者の選別が働きはじめる、という道筋が描かれる。そして、成員資格が意識的になる状況になって、集団の軸となる期待の承認とリンクされるようになる。そして、成員であることが特別な地位の問題として、つまりは、外部と内部の選別の問題として、意識的に処理可能なものとして出てくる。成員資格は持つ/持たないの二値のものとなり、人は成員か非成員のどちらかになる。つまり、明確な差異化=境界形成が行われることになる。その時、集団は、成員が所属するものとして一つのまとまりを持ったシステムとして体験されるものである必要がある。同時に、成員資格の有無を判定する機能を担える必要がある。つまり、成員/非成員という境界によって外部と内部が区別される時、内部は内部として指示されうるだけの「内実」を必要とし、同時に、境界維持(差異化)を行う能力が必要である、ということだ。この部分は、第1章の冒頭のシステムの定義の際の議論に重なる。で、この部分でルーマンは次のように述べる:

システムの内部に最低限の組織が存在する必要がある。つまり少なくとも、集団が成員資格を決定することが可能である程度の指揮構造が必要である。

最低限の組織とは、成員資格の有無の判定機能を担うものである。組織は、成員/非成員の区別によって励起する。レトリカルな表現をすれば、「みんな」が「われわれ」と「やつら」に分かれるとき、そこに「われわれ」の根拠(参照先)としての組織が作動し始める、ということになるかな。組織を生み出す最初の一撃、区別し指示する最初の一撃が成員/非成員の区別ということ。もちろん、行為システムではなく組織の話である。

さて、続いて、成員資格が特殊な役割として意識されると、それが二次的な指標による決定に移行することが述べられる。本来的には規範・行動期待の共有の可能性がが成員資格の有無の判定の基準なのだが、内面に踏み込むのを回避し、「いくつかの外面的で用意に判別できる特徴を指標として」判定が行われるようになる。ただし、この二次的な指標による判定が可能なのは「決定が誤っていた場合にはそれを修正すること、つまりその人が期待に背いた場合には追放することが可能であることを前提とする。つまり、成員の流動性を前提とする」。成員に相応しくなければ成員資格をいつでも剥奪できるからこそ、二次的指標で済ませられるわけだ。

さて、このように成員資格が意識化されることによって、協働にどのような変化をもたらすことになるのか? この点について、ルーマンは、まず「社会的指向がある程度外部化され抽象化されることになる」という言い方をする。具体的な個人ではなく、一般的な指標や期待というものを配慮するようになるということだと解して良いだろう。目の前で協働しているのがどんな個人かということではなく、自分たちはどんな組織(公式的な行動期待)のもとで行動している(と了解されている)のか、が重要になってくるということだ。こうしたシステム(組織)への意識(志向)を、以下のように「間接的配慮」という言い方をする;

間接的な配慮が共同生活の基礎となるのである。つまり、他の成員の要求に直接従ったり逆らったりするのではなく、ともに関心の対象としているシステムに媒介されて生じる結果を考慮して従うか逆らうかを決めるようになる。

さらに、成員資格の意識化によって、行為システムでの行動期待が、成員資格という特別な役割からもたらされる期待(成員資格にリンクした期待)とそうでない期待に分化する。そして、言うまでもなく、成員資格にリンクした期待とは公式化された期待であり、こうした公式化された期待が明確に存在することによって、公式組織が成立することになる。

成員が一定の明示された期待に対する承認を拒否することができず、拒否しようとすると自分の成員資格が脅かされてしまうということが、すべての公式組織システムに共通する特徴である。

こうした「一定の期待」としては、組織目的がまず挙げられるが、それ以外にも、上司の命令には従うといった指揮系統の受入れなども含まれる。

公式組織では、このように、成員であり続けようとするならば特定の行動期待を承認しなければならないし、逸脱したものは成員資格を剥奪されることになるわけだが、逸脱者が脱退せざるをえないのは、組織の社会的圧力だけではないとルーマンは論じる。自己表現の一貫性を保たなければならないという自己拘束(コミットメント)も大きな要因であるという。組織への参加に当たって、自己が成員に相応しいものとして自己表現(自己呈示)を行うことが必要であるわけだが、こうした「成員に相応しい自己」は、逸脱を起こした場合には、もはや保てない。自己表現のコンフリクトが生じることになる:

自分の考え方と成員資格のうちいずれかを放棄しないかぎり、自分の面目を失い、個性を失い、社会的評判を失うことになる。他の成員もそうだが、何よりもまず理性と一貫性を伴う自己呈示という問題こそが、彼に結論を強いるのである。

さらに、中心的な行動期待や規範に異論を持った人間が成員であることが、他人の計算可能性をゆるがすがゆえに、そうした異分子は排除される圧力がかかることになる。

中心的な論点について、他人と違う意見を持っている人は、そのことによって他人から見ると計算不可能な人間ということになってしまう。しかも不確実化するのは彼の個人的な行動にとどまらない。それまで全成員が一致していたところに突然選択肢が突きつけられるわけだから、システムの運命までもが不確実なものとなってしまう。他人がどう出るかを誰も確言できなくなるのである。何が可能で何が不可能かを知らしめるというシステムの意味が、危険に晒されることになる。逸脱者が出た場合に、新たに意見の統一を見るための唯一の可能性が、彼がシステムから退出することである。もし彼が敵にまわったとしても、成員であり続けられるよりはその方が危険は少ないのである。

組織の同調圧力というやつである。互いに、同じ行動期待なり規範に従っているとみなせることで、成員は、相互に、互いの人格に踏み込むことなく、相手との協働のし方を計算できる。これが「計算可能性」であり、関係の明確化ということである。相手の人格ではなく、成員であることだけを参照・確認することだけで済むことの前提は、あくまでも成員であるかぎり、一定の期待を承認しているということであるから、この前提が崩れてしまうと、一気に不透明さが増すことになる。それゆえに、不透明さを持ち込む異分子は排除しなくては危険だというわけだ。

以上の議論を踏まえて、2章の最後に、公式化に関してまとめがなされる。公式化とはあくまでも行動期待を成員資格とリンクするということであるが確認される。

……公式化それ自体が示す固有の特性とは、期待の中から特定のものを選び出し、それを成員資格の条件とすることにほかならない。

公式化された期待とはその期待が「成員資格を定める規則によって保証されている」ことを意味する。そして、そのような公式化された期待によって形成される社会的システムが公式組織である。それゆえに、公式組織の「公式」性は、その組織の期待の性質であって、組織=システムの性質ではないことが確認される:

システムにとって公式性の概念は単純な性質を示すものではない。つまりシステムは公式的であるかないかの二者択一にはならない。システムにとっては、公式的というのは段階的な形容詞、つまりシステムの期待が公式化されている程度を表す概念なのである。

程度というのが、何の程度なのかというのはよくわからない点である。ただ、現実においては、どこまで公式的なものなのかは、それほど明確にはならないことが多いというか、まさに公式なのかどうかをめぐって駆け引きが為されたりするということを踏まえているのだろうと思われる。

第3章 役割としての成員

3章では、成員役割について論じられる。まず成員役割とは、包括的なものではなく、あくまでも成員/非成員の区別に関係するものであること(公式化はあくまでもこの区別にかかわる問題でしかないこと)が述べられる。ここで組織の問題について、以下のようなことを言っている。:

組織システムの問題とは、異なる複数の行動期待や役割の間の緊張として捉え、展開し、解決すべきもの

それゆえに、成員役割とそれ以外の役割との関係を明らかにしておくことになる。

成員役割はシステム内の他のすべての役割に接触するための条件を定義するような役割である。つまり他の役割を引き受けることが可能であるためには、成員役割と組み合わせて引き受ける必要があるということである。

まず、参入と退出についての考察から始められる。「成員役割とは、参入や退出の決定という高度に意識的な一回限りの行為を、その後の日常状態を解釈するための基礎とするような役割」であるわけだが、「参入や退出の可能性と、その決定前提が、システム内の日常行動に対して構造付与的な意味をなぜ持つようになるのか」を確認しておくというわけである。

参入/退出を意識することのポイントとしてまず取り出されるのが、参入/退出という限界状況が包括的な意識をもたらすという点である;

参入とか退出を意識するような状況に置かれると、それが、成員資格に伴う関係をその境界に立って全体として眺めるきっかけとなる。限界状況は特別な包括的意識を必要とするのである。そして、これによってシステムに所属することの利益と不利益を比較考量することが可能になる。

この包括的意識によって、自分が日常的に埋没している状況を反省的に俯瞰的に考えるようになるわけだ。外部の視点から内部を見ることで、境界と、内部というものがシステムとして意識されることになる。このことから、成員役割とは、このような外部からの反省の意識を可能にするものでもあるということになる。

成員役割は、社会的な行為連関をシステムとして眺めることを可能にするような立場を提供してくれるからである。

ここで、外部からの俯瞰というのは、それが真の外部からのものでなくても構わない。想像的に外部が措定されることで、内部が選択的なものとして、他でもありえたものとして見えてくることがポイントなのである。諸可能性のもとで現実を捉え直すということが重要というわけだ。

成員役割によって、所属も選択的なものであることが意識されるようになる。そして、参入/退出の動機というものが、成員役割と結びつけられて「抽象化」される。個々人の具体的・個別的な側面を捨象し、成員であることを望んだ(成員役割を引き受けることを了承した)ということで処理できることになる。このことから、個人的なことと、職務的なこととが、区別される。

成員は、成員同士の関係、つまり個人としての成員間関係と、システムの内部で各成員が行う行動間の関係を、区別するようになる

成員であることによって、個人的・個別的な事情は捨象した上で、成員として公式的な行動期待を充足するものとみせるし、みなされる。

各人がどういう理由から役割を引き受けているのかをいちいち確認しないでも、各人はシステムが求める行為に対して準備ができていると想定でき、あとはただ技術的な観点からシステム内部の行為連関を設計すればよいということを意味する

他方で、職務上の問題が起きたときには、成員資格が問われ、個人的な問題の次元が出てくる。「公式期待に対する違背は、職務上の意味と個人的な意味の二つを同時に持つのである」。このように、二つの次元を分離しながらも媒介するものとして成員役割は位置づけられる。

成員役割は、日常業務においては社会的行為システムと人間的行為システムの分離を保障する働きをする一方で、危機的な状況に陥った際には、一方の領域での出来事が他方の領域に因果的に作用することを、つまり成員資格の解消あるいは修正という結果を引き起こすことを、可能にする働きも示す。

こうした機能を果たすためには、「いかなる期待が公式化され成員役割に含まれているかが確定しており、行為が個人的なものから職務上のものへ、また職務上のものから個人的なものへと反転する境界がはっきりしていること、言い換えるとどんな行為をすると成員資格が問われるに至るかが明確であることが必要なのである」。それゆえに、公式組織においては、期待が明確に述べられる必要がある。言語化され定式化される必要があり、そのように明確にされたものが正統なものなのである。

以上の議論を踏まえる形で、「社会的システムの公式化の基礎となるのは、参入と退出の可能性、つまり決定による成員の入替可能性である」ことが改めて確認される。どのような形で入替がなされるかは、基本的には問題ではないが、「退出方法が簡便な社会的システムほど期待の公式化が進む」という推論が示される。これは、先に成員資格の判定で流動性があれば二次的な指標での判定が容易になるという議論と重なるものと考えることができるだろう。

公式構造の安定性は成員による承認とか明確な賞罰規程に基づくというよりは、個々の成員についてその取替えがつねに可能であるということ、つまりは労働市場が組織化されているという状況に基づくものというべきである。

これが近代の社会の特異な状況であるということはいうまでもない。近代は「公式組織への所属が生活上必需化したことで、公式化された条件下での共同生活という基本形式を受け入れることが避けられなくなったのである」。

以上の参入と退出をめぐる議論に続いて、成員役割とその他の役割との関係の考察へと話が進む。

成員役割は、「システム内の(公式、非公式を問わず)他のすべての役割への通路を開く役割」という特異なものであることによって、そこには、定数的な成分と変数的な成分が含まれることになる。

定数的な成分は、「公式期待の全体を担いこれを支持し、その制度化を可能にするような一定の発話行動が、全成員に対して期待されること」であり、つまりは「公式期待の承認を内容とするようなコミュニケイション的表現行動」である。

変数的な成分は、個々の成員の特殊役割に対する枠組となるものである。

成員は、全成員が組織指導部の指揮下にあること、各自の課題を充足しなければならないこと、その際に使用できるコミュニケイションの経路や類型はあらかじめ決まっていること、これらのことをすでに承認している。それによって成員は、自分の職務や職場に課せられるシステム条件、つまり自分の特殊役割に対する一定の枠組規定をも同時に受け容れていることになるのである。

これによって「個々の成員の特殊役割を成員役割によって規制しつつ、行動や役割配置における変更可能性を保持する、ということが可能になる。システムは制御可能性と弾力性を統合するのである」。

さらに、非公式的役割も、成員役割を引き受けた上ではじめて引き受けられるものであることが確認される。

さて、参入/退出、役割結合に続いて、最後に体験作用が考察される。これは、簡単に言うと、経験の解釈において成員であることが作用するということである。細かいことを抜きにしてざっくりとポイントを述べたところを引いておく。

選択的な知覚や帰属によって、つまり見えないものの解釈と潜在的関係の隠蔽によって、成員資格のための諸条件が互いに結びついて一貫性を持った公式役割ができ、この公式役割は注目すべき表面的顕著さを持つ。期待者と行為者いずれの立場においても、多くの状況が、この役割だけで対処できる。この役割は公式化されたシステムのすべての領域に浸透しているからである。公式役割にだけ従っていても誰にも文句はいわれない一方で、この役割を無視することは許されない。しかし本稿の分析が明らかにしてきたように、それが現実のすべてではない。具体的な行為の現実でもないし、公式化されたシステムが存立するのに必要な現実の行動作用のすべてでもない。

第1章〜第3章のまとめ

ざっくりとまとめておこう。まずポイントの箇条書きから:

第1章

第2章

第3章

さて、と。

第4章 行動期待の一般化

4章は第2部の冒頭の短い章で、一般化に焦点が当てられる。

まず、システムの存立とは、環境との境界が相対的に不変に保たれることであるが、これは行動期待の次元では「状況が大きく変わった場合でも、システムに関する一定の期待を保持することができる」ということである。これが可能になるのは、行動期待が一般化されることである。この一般化というのは、「ある指向が、個別事象から独立に成立しており、個別の逸脱や攪乱や矛盾からの影響を受けず、周囲の状況が変動してもそれが一定範囲内であれば自らは不変に保たれる」ことを言うが、これは3つの方向性をもつ。

まず時間的な一般化だが、これは行動期待を規範的なものとすることによって可能になる。規範的なものというのは、「その期待を抗違背的に安定化するという意味」である。つまり、期待はずれが起きても期待の方は変更しないで済む(出来事の方がイレギュラーあるいは異常として処理できる)ということである。そして、期待を抱いていた人間は、期待から逸脱した側を攻撃しても良いと感じることである(自分の期待が「正当である」と信じられる)。これによって、個別的に逸脱することが起きようとも、期待自体は影響を被らないのであり、その点で、安定することになるわけだ。

規範化を補完するのが内容的な一般化と社会的な一般化である。内容的な一般化は、役割によって可能になる。役割とは「一般的に期待され、その都度の状況や周りにいる人間に応じて異なった仕方で実行される行動様式連関の類型のこと」である。個別具体的な実行の仕方は異なっても、それをまとめあげる漠然とした一般的なイメージが与えられているもの、ぐらいの意味である。このような役割が確立することによって、「異なる複数の実行可能性があるといってもそれは矛盾を含んだもの、あるいは相互に無関係なものとしては現れない」ことになり、安定化がはかられることになる。

社会的な一般化は制度化によって可能になる。ここでいう制度化は、役割期待に関する合意があるということである。「ある集団の中でこの役割像についての合意が成立している場合、この規範的役割期待は制度化されている」。

以上の、規範化、役割化、制度化によって行動期待は一般化されることになるが、「社会的システムが形成されるためには、この三つの方向のすべてにおいて行動期待の一般化が進む必要があるが、この一般化をすべての方向において同時に最大化することは不可能である」。しかし、公式化によって、公式的な期待に関しては3つの方向での最大化が可能になるとルーマンは言う:

公式化によって、一般化を三つの方向すべてにおいて同時に最大化することが、社会的システムの一部(つまり公式化された期待)にとって可能になるのである。これによって、分化の進んだ関係においては公式化なしには不可能なほどの、システムの秩序化が達成されることになる。しかしこの達成の代償として、この種の完成した部分秩序を現実の行動からなる生活世界に組み込んだときに発生する困難、つまり周知の、公式に組織化したシステムの中で生じる人間関係上の二次問題が引き起こされることになる。

公式化によって公式的な行動期待の一般化が可能になるが、それが一般化されるがゆえに、現実の個々の行動の次元では派生的な問題を引き起こすのである。このように公式化と一般化の基本的な関連を確認して4章は終わる。

第5章 期待構造の公式化と境界定義

5章では、期待構造の公式化(一般化)が論じられる。

まず、システムは、行為の水準ではなく、行動期待の水準で形成されることが確認される。

「行為システムは、期待観念が指向する関連性/無関連性の規則によって成立するのである。そしてこの関連性と無関連性の区別がシステム境界を定義することになる。……。行為システムは通過不可能な物体ではなく、様々な期待構造によって意味と境界を維持する事象複合体であり、その境界は行為の期待可能性の境界なのである。以上の考察から、システムの形成、境界の定義、期待の安定化は、いずれも同一の秩序化過程の異なる側面である、というテーゼが導かれる。

そして、期待構造の一般化がシステム形成の要とされ、そのためには公式化が有効なやり方である。これは4章の議論の再確認。この部分で、期待の公式化は、何が期待できる/されるかだけではなく、何が期待できないかも明らかになる点を取り上げている。成員資格の維持のための「最小基準と満足化条件」が明らかになり、これによって個人では担いきれないリスクを伴う行動が可能になるわけだ。「このように成員役割は、独力では成功することのまず不可能な社会的行為の領域において、個人では担いきれないリスク負担を軽減するという機能をも果たしている」。こうした点を確認した上で、行動期待を一般化する三つの方向(時間的→規範化、内容的→役割形成、社会的→制度化)についての検討が始まる。

時間的な一般化つまり規範化は、4章で確認したように、期待が「違背的な事実が生じたとしても妥当し続ける」ようにするものである。しかし、このことは、永遠に不変的であることではない。決定によって、決定によってのみ、規範の妥当性、成員資格と期待の結びつきを変更できる。この決定による変更可能性によって、公式期待は環境変化に適応することが可能になるのだが、決定を経なければならないため、安定期と危機(変更)期のリズムを刻むものになり、また、環境変化からのタイムラグは避けられないことになる。このことが、環境適応への派生的問題をもたらす。

内容的一般化つまり役割においては、成員役割に関連するすべての期待を満たさなければならないということが生じる。成員役割にリンクする期待の一つに背くことは、すべての期待に背くことと同じことになる。つまり、公式期待は一括して受容するか拒否するかしかないものとされる。この場合、公式期待に含まれる期待間の連関の内実は問題ではなく、まさに公式化によって、一括して扱えるようなるものなのである。公式化によって「連関しているがゆえに一括して受容/拒否」という「擬制」がなりたつ。もちろん、在る程度、無矛盾的なものであることは前提とはなるが、「公式システムにおいては、受け入れ可能な期待というのは、少なくとも相互に対立しない期待、つまり他の公式期待に公然と違反することなく充足可能な期待だけなのである」。公式期待に沿った行為が公式期待に違背することがなければよいわけだ。

「成員資格を定める規則によって公式期待の複合体が一貫性を持った役割となる」わけだが、これによって、二つの分離が行われることになる。

こうした役割分化によって「公式化したシステムはありうる不当要求から距離をとる自由を得、自らに課せられた機能に集中することができるようになる」わけだが、それを支えるのが非人格性の制度化である:

非人格的な指向が制度的に保障されているというのは、一人の人間が複数の役割を担う場合でも役割間の分離は保持されるということ、もっと精確にいうと、同じ人間が複数の役割を担っているからといって、それらの役割圏の間で何らかの要求のやり取りが発生するわけではない、ということにすぎない。……それゆえ行動の非人格性とは、役割義務間の距離化と特殊化の一つの可能性であり、システムの側から見ると、境界を定義し、この境界を不変に保つ一つの可能性にほかならない。

このような役割分離では、役割結合の問題が生じることになる:

役割分離とはすなわち、ある個人がどういう役割連関を引き受けるかが制度化されていないことをいうのであり、その働きは、異なる生活圏を異なるシステムとして互いに分離し、互いに中立化することである。他方で、この種の秩序には固有の派生問題が発生する。つまり、ある人がどのような役割の組み合わせを担っているのかがあらかじめ決まっておらず、それゆえ予見不可能であるという問題である。

これに関連して、役割交替の問題にも触れている。「新しくその役割を担った人に役割相手が慣れなければならないだけでなく、人が変わるのに付随して社会的連関も変化するのである」。そして、「非公式役割についても、役割交替によってそれまでの秩序は崩壊することになる。なぜなら、非公式役割の連続性を公式役割との結合によって保障することはできず、新しく役割についた個人が他にどんな役割を担っているかによって変わってくるからである」。このあたりは、役割というものが個人性から切り離されているがゆえに、現場では問題が生じるということではある。

以上の議論をふまえて、内容的な一般化については「内容的なシステム境界は、非人格性と役割分離の制度化によって不変に保たれる。それによってこの境界上に、つまり役割間対立という形で、あるいは役割交替に際して、行動上の困難が発生するが、これは公式構造によっては解決できず、個人や非公式な行動秩序の負担となるのである」と総括される。

社会的一般化つまり制度化は、公式的期待への合意の想定としてなされる。

社会的システムが公式化するにあたっては、公式期待の制度化が前提になる。つまり、状況定義が参加者の間で共有され、何が正しい行為であるかについて全員の考えが一致している必要がある。決定的に重要なのは、成員であることの条件として一定の期待を承認しなくてはいけないということについて合意ができていることである。この合意は、成員なら誰でもシステムに公式に参入する際に表明し、これを他の成員の側でも認識しているはずの合意である。同意するという行動自体が期待の対象となっていて、その認識が確実に可能であるため、この社会的合意は心理的な負担要因を伴わない。

「承認しなくてはいけないということについての合意」という点がポイントで、ようするに、合意しなくてはいけないもんなんだから合意しているとしちゃっていいんだよね、ということである。それで「システムの成員であるなら公式期待に同意しているはずだということをかなりの程度まで前提にすることができるようになる」わけだ。そして、そうした合意を成員皆が支持しているものだとみなせるし、そうした圧力がかかることになる。

さらに、一定の手続を踏んだものは成員が合意したものとみなされる(合意しなければならないものになる)ということが起きる。代表者の会議で正式に決まったことは、自分も合意したものとみなされるってわけだね。このようにして合意産出過程を組織化できるようになる。手続による決定が合意義務を発生させ、成員を拘束するわけ。公式システムでの公式的な会話とはそういうものだということをルーマンは言う。

公式化したシステムでの会話では、どんな場合でも、最終的には全員に対して拘束力を持つ結論(これは否定的であってもよい)が出て、それが合意済みの一般的見解として扱われ、その後の行動の基礎となることが期待されるような構造になっているのである。統一的な結論の可能性は、場合によっては同意を他の手段で代替してもよいとすることによって保障される。それゆえ全参加者が、拘束力を持つ結論が定式化される合意点に対して、自分の影響を及ぼそうとしなければならない。

だから「社会的な成功や自己確認に至るには、自分の意見をどれだけ立派に呈示しても駄目なのであって、むしろ決定過程に影響を与えることをこそ目指さなければならないのである」。このへんは会議論だな。

こうした合意(合意産出手続)は擬制によって支えられる。「合意することが義務となっている見解に対して(心の中で逸脱的な態度をとるだけでなく)不同意を表明すると自分の成員資格が剥奪されてしまうがゆえに誰一人として不同意を表明することができない、というだけで十分なのである」。

以上、公式期待の3つの方向の一般化の検討を受けて、システムの境界について、次のようにまとめている。

公式化によって、時間的、内容的、社会的にそれぞれ定義された境界を持つ期待システムというものが可能になり、これが行為システムを構造化することになる。そして境界が定義される際には、決定による境界変更の可能性もまた同時に定められるのであり、その結果システムは、抽象化しているにもかかわらず弾力性と適応能力を保持することが可能になるのである。

そして、公式組織の擬制について、以下のように述べている:

期待が高度の確実性と信頼性を備えるようになると、態度の持続性や内容上の意味連関や合意といった、本来行為の基礎となるはずのものを、一定の決定を下すという目標に関する限りで、擬制によって代替することが可能になる。これはシステム内のやり取りに関して、意識の負担を軽減し、状況を単純化するメカニズムである。しかしこの期待の保障が果たす最も重要な貢献は、社会的システムを一定の境界内で環境に抗して維持することにほかならない。

この章の最後には、信頼についての考察が置かれている。人格的信頼(知り合いの人間としての同一性を信頼の基礎とする信頼)からシステム信頼(行動期待の公式化によって一定の境界内で保証される社会的システムの同一性を基礎とする信頼)へと移行することで、「合理的選択が可能であるような生活状況が、システム信頼が存在しない場合に較べて増大する」。このシステム信頼の基礎であり対象であるのが「期待の公式化、一般化、抽象化、分離という社会的過程」である。

第5章のまとめ

ざっくりとまとめると、5章では、期待の一般化の3つの方向(時間的、内容的、社会的)のいずれにおいても、抽象化(擬制の成立)と境界定義(確定)が結びつくということが示されるわけである。

 公式化抽象化(擬制化)境界定義
時間的一般化規範化、持続的妥当性個人の受容の検証不要妥当する時点の確定と決定による変更可能性
内容的一般化成員役割期待間の関連の検証不要役割分離、非人格性の制度化
社会的一般化合意の想定合意の擬制、合意産出過程の組織化合意産出手続の統制範囲

組織において様々な擬制が成立することは、ルーマンが注で触れているバーナードの権限受容説の話をはじめとして、色々と言われてきてるわけだが、それを期待の公式化・一般化としてぎっちり押さえたというのが、この章の醍醐味かなとも思う。「期待が高度の確実性と信頼性を備えるようになると、態度の持続性や内容上の意味連関や合意といった、本来行為の基礎となるはずのものを、一定の決定を下すという目標に関する限りで、擬制によって代替することが可能になる」。

で、なんでこういう擬制化=抽象化が生じるかといえば、成員資格とリンクされた期待というのは、その期待の内実(内容)とは一切関係なく、まさに成員資格にリンクされているからということだけで一般化されるから、ということ。<皆に共有され不変的に妥当すべき内容の期待だから公式化する>という起源(の神話)は、いったん公式化されたら忘却され、<それが公式化=成員資格とのリンクされているから>ということだけを基盤に作動する(ただし、その理由付けで起源は持ち出されるだろうが)。これが抽象化のメカニズムということだろう。

あと、5章では、公式化がシステム信頼の基礎であること、あるいは決定だけが公式構造の変更を可能にするといった決定の重要性なども、ポイントかな。

第6章 公式化とシステム分化

6章は「公式化とシステム分化」と題され、システム分化(下位システムへの分化)が論じられる。

従来の分業論の問題点として指摘されるのは、まず存在論的なシステム表象でシステムを捉えているがゆえに目的の充足だけではシステムは存続できないことが見落とされていること、そして具体的な行為は排他的に一つの機能を担うようなものではない、というこの2点である。この章を通じて、ルーマンは、システムの存続問題(複雑な環境のなかでのシステムの存立=維持)という観点から、目的=手段的な分業論を批判し、システム分化を論じていくことになる。

まずシステム分化の必要性(必然性)として2つを指摘する。1:システムは目的以外に別の自己維持戦略が必要、2:行為は目的とだけ関係するものではない、この2点である。これを踏まえて、「ある程度以上の大きさを持ったシステムは、一定の範囲内で自己を安定化し、それによってそれ自体がシステムとしての性格を有するような、複数の作用単位を形成しなければならない。」として、それがシステムの内部に新たなシステム(下位システム)が形成されるシステム分化なのだと言う。

下位システムは、独自の存立要件をもつシステムである。システムの内部分化は、純粋な目的合理的な手段への分割としてはあるえず、常に、相対的な独立性(独自性)を持った下位システムへの分化になるのだ、というのがポイントである。つまり、全体システムと下位システムの関係は、単純な目的=手段関係ではない。下位システムは、システムと他の下位システムを環境にして成り立つシステムなのである。

下位システムが「下位」であるのは、全体システムの中で一つの機能を果たすことにあるが、この時、下位システムにとって全体システムは「構造化された環境」として現れる。そのため、下位システムは、自己存続問題を単純化することができる。

下位システムの自律性は、全体システムの環境条件に依る。環境が不透明であるほど、内的弾力性として下位システムに自律性を付与することになる。逆に環境が構造化されているならば、自律性の程度を低める。その意味で、完全な目的手段的分業は、全体システムの環境が高度に構造化(秩序化)されている状況(完全競争市場という条件)でのみ可能なものである。

下位システムへの内部分化の過程は、全体システムが自らの環境問題を内部化する過程である。

システム分化が進んでも、公式構造がされば、全体システムの境界を維持することが可能になる。公式化によって最小限の共通指向が定義されるからだ。

公式化によって、成員役割として一括して受容されるべき精密度の高い観念世界(調整的観念の体系)をつくることが可能になるのである。

職場、職務、権限、権威、責任といった観念、および指示、企画立案、共同署名、決定、その実行といったコミュニケイション類型、さらには個々の管轄規程、決定規則、満足化基準といったものは、制度化した状況単純化であり、これは一般的指向のために、行為可能性、自由、無差別の範囲を確定し、それを正統化するという機能を持っているのである。

システムの一般化過程は、システムの分化過程と互いに条件となる関係にある。

公式組織においても、成員は、自分の周囲の親密圏に境界を引くようになる。

他人との関係がこのように多層的になっているため、個人は自分に安心と承認を与えてくれる直近の環境にまず愛着を持ち、「我々」と「他人」の間に境界を引くことになる。この境界は、その親密世界を認知的にも感情的にも外部から遮断する。この防壁の内部で、仲間たち、通常の労働手段、日常的なルーティンへの限定的で濃密な忠誠が結晶化してくるのである。このように、専門化の進んだ大規模システムでは、すべての分業は内部解体への傾向を示す。つまりシステムがばらばらに細分化し、それによって全体システムが解体の危機に陥るのである。

この分裂の傾向に対して、公式組織では、たとえば上司という象徴を介することで、日常の経験において遠隔関係に間接的な関連性をもたせることが可能になっている。

システム分化の際、「あるシステムが充足すべき機能というのも、それ自体が明確な課題として与えられているわけではない」。それゆえ、どの機能を選択して割り当てるのかということが問題になる。困難は2点。1:「システムにとって必要な作用をすべて公式化し、それをシステム分化の基礎に据えるということは不可能」2:「具体的な行為を一つの機能に専門特化することは不可能」。それゆえ「まさにシステムにとって必要な複数の作用を互いに無矛盾な形で秩序化することが不可能であり、それゆえどんな分化形態をとったとしても必ず一定の欠点が伴う」。

公式の課題配分では、システム要件の一部しか充足できないという問題はあるが、しかし、配分された課題は、下位システムの機能として結晶点となり、この機能を軸に下位システムは環境との適応をはかることになる。ただし、「下位システムに割り振られた特殊機能の充足は、当の下位システムが全体システムの中で存立するための最も重要な条件であることは確かだが、それが唯一の存立条件だとまではとてもいえない」。

機能的分化とは、下位システムに特定の機能の充足に関する優先性が与えられるということである。

ある機能をある下位システムが管轄するということは、その下位システムがその機能に関わる情報や行為の重心となるということであり、つまりその機能に関わるすべての現象に対して、ある種の統制的優越性を有するということにほかならないのである。

機能の充足のための行為を排他的に行うということではなく、権限が与えられて「特定の範囲の事柄について公式的な妥当性を付与したり決定を下したりする能力を与えられるということである」。あくまでも「排他的なのは権限だけであって、行為まで排他的になるということはありえない」。

分化に際しては、システム目的だけではなく、システムの維持要件も配慮する必要がある。分化の観点の策定の際には、二つの点に注意する必要がある。「一つは、下位システム形成の優先的基準として選ばれる機能の重要性であり、もう一つは、特定の分化図式を選択することによって必要になる下位システム間関係の問題である。」

分化は、環境適応の問題を内部対立へと変換するということである。「分化が過度に進むと、分化それ自体から対立から、全体システムにとって不可欠な決定機能を充足しえないほどの対立が生じ、全体システムの崩壊を招くことになる」。だから「制御不可能な環境の中で自らの不変性を維持するためにシステムが解決しなければならないすべての問題を考慮することこそが、内部分化の種類と程度について合理的に決定するための前提なのである」。

第6章のまとめ

この章は、組織の分化はシステム分化としてあるということ、そして、従来の分業論は環境が完全に秩序化されているというありえない状況化でしかなりたたないものだとして批判することにある。

システムは、一定の規模を越えると、制御不可能な環境のなかで存続していくために、作業単位として下位システムへの分化が起きる。下位システムは、全体システム(の目的)に対する手段ではない。この下位システムは、それ自身がシステムとして存続問題を持ち、一定の不変性・自律性を持ったものとなる。また、全体システムや他の下位システムは構造化された環境として現れる。

システム分化は、環境問題をシステム内部の問題へと変換するものである。それゆえ、システム間の調整問題が現れる(環境の問題が内部の調整問題へと変換される)。その意味で、内部対立は不可避である。

システム分化をなしたシステム全体を、まさに一つのシステムとしてまとめるのは、公式化である。公式化によって成員資格とリンクされた一定の行動期待、そして調整的観念(制度)が、システムの境界を維持する働きをなす。具体的行為の場面では、原初的な協働同様の感情的な親密化が生じるが、公式化によってもたらされる観念やその象徴としての立場が、一般的な関連を維持するために働く。また、そうした分化が公式的期待の一般化を支えることにもなる。

分化の基準(観点)となるのは機能であるが、システムが自己の存続に必要な機能をすべて無矛盾的に分化させることはできない。特定の機能が選択されることになり、それが派生問題を生じさせる。また、機能を割り当てられるといっても、排他的に行為を行うことではなく、あくまでもその機能に関する公式的な優先権(決定権)が与えられるにすぎない。あくまでも課題と権限の次元であって、行為の次元ではない。システムは、自己の存続問題を考慮して分化を行うことになる。

第7章 成員の動機

「成員の動機」と題されたこの章では、公式組織における成員の動機(動機づけ)の問題が論じられる。論じられていることのポイントは「公式化の機能というのは、成員への動機喚起という問題をそれ以外のシステム問題から切り離し、成員役割と結びついた特殊な作用をその解決のために特別に投入することにある」である。そして、以下の4つの結論へと導くものになっている。論点はクリアに語られているので、抜き書き中心でまとめていくことにする。

  1. コミュニケーションは情報を伝達すればよく、動機喚起まで担う必要はない
  2. システム内での権威の受容は、一般的、不確定的、個人不特定的になされるものであり、それゆえ派生的権威というものが可能である
  3. システム目的は動機を付与するようなものでなくてもよい
  4. 参加への動機と仕事への動機は異なる

1はコミュニケーションにおける動機づけ(受容させること)と情報伝達が分離され、純粋な情報伝達が可能になるということ、2は権威が個人にくっついたものからシステムの構造的なものへと一般化されるということ、3は目的と動機の分離、4は動機が参加への動機と仕事への動機の二つに分離すること。

まず原初的社会秩序における動機の問題について、感情そして感謝として論じられる。そして、分化したシステムでは感謝による動機づけは採用できず、一般化した成員動機という動機の一般化、成員資格と動機の結びつけが用いられることになる。成員になる(あり続ける)ことへの動機、参加決定への動機によって、その都度の個々の動機づけ(動機喚起)が不要になる。

「参加決定というのはとりあえず、権威への服従の程度や賃金額など、実行上の様々な決定の限界を定めるだけの枠組契約にすぎない」ので、参加によって、「一定の動機「資本」が確保される」ことになる。公式組織では、この動機資本が個々の行為において具体的に規定され充足されていくことになる。ルーマンはこの点を自由と呼んでいる:

自由というのは要するに、一般的な観念に基づいて、どんな時でも要件を特定化し、期待を具体化してその充足を要求することができるということである。組織指導者にとっては、変化を正確に予見できない環境の中で組織目的の充足を要求できること、個人の場合はそのつど発生する消費需要の充足を要求できること、これが自由である。この種の裁量の自由があって初めて、分化したシステムが問題的な環境の中でその存立を確保するということが可能になる。

動機の一般化(それは貨幣報酬が可能にする)と権威の一般化は互いに他の条件となる。権威の一般化が可能になるのは、貨幣報酬による動機の一般化が必要であり、「そのつど突発的に様々な形をとる自然的需要を、貨幣需要へと変形してやる必要があるのである」。貨幣経済こそが動機の一般化ひいては公式組織を成り立たせるものであることが確認される。

「動機が成員資格と結び付けられることで、具体的な行為をシステムが指導する場合にいちいち動機を喚起してやる必要がなくなる」。その結果、「一定範囲内であるとはいえ、決定の伝達が確実になされるような領域が存在しうる」ことになる。そのため、「上司が、内容的に柔軟な決定を自由に下せるようにな」り、「上司は自分の決定プログラムを、純粋な「内容」指向にすることができるようになる」。このように「公式化したシステムにおいて動機が成員資格への動機として一般化されていることの意味は、システムの指導者から動機喚起課題を免除し、それによって環境との間の内容的作用関係に関して、システムの適応能力を高めることにこそあるのである」。

このように、動機喚起が特定の立場や個人から分離されることによって「ハイアラーキから外れる派生的権威を形成することが可能になる」。「上下関係として構造化されていないような関係についても権威関係を形成することができるようになる」わけである。これは、具体的には、上司以外の第3者からもたらされた情報が、受け手の側である作業なり決定なりの指示として受容されるということである。上司は、「自分の部下に対する第三者の影響力を、自分を介したコミュニケイションが存在しない場合でも根拠あるもの、正統なものとすることができる」。「つまり、どういう情報入力があればどういう決定を下すかということがあらかじめプログラムされていて、この第三者のもたらす情報はこのプログラムの起動情報に当たるわけである」。

このような派生的権威が実効性をもつには、部下の側に条件プログラムが設定されていることが必要である。そして、上司は、この条件プログラムの起動信号となる情報を定めておく。これによって、上司以外からもたらされた情報が、一定の処理を起動しうるようになる。「このやり方をとると、どんな情報にも権威としての力を持たせることができるようになる。システムをどこまで自由にプログラムすることができるかという限界は、単に成員の側でどこまでなら服従する覚悟ができているかで決まる」のである。こうした条件プログラムによる処理が可能になるのは、「情報を決定前提として受け入れることに対する動機が、一般的に、ということはそのつどのコミュニケイション過程から独立に、保証」されているからこそである。この条件プログラムによって、システムの情報処理能力は高度化する。

目的と動機喚起が分離されることで、「一定の限界内で組織目的の変更はつねに可能」になり、「弾力性と合理化可能性の増大をもたらす」。「成員役割を用いて動機構造と目的構造を分離することで内部分化の進んだシステムというのは、弾力性に優れ、適応能力が高い」。もちろん「目的を変更するといっても、部分構造の独立性が保証できなくなるほど大きな変更は許されない」。「どこまでが限界かということは組織ごとに異なるものであり、本質的には動機構造に依存して決まる」。

「動機をそうやって一般化してしまった結果、参加への動機と仕事への動機の分離が生じてしまう」。「これはすべての公式組織に特徴的な現象である」。その結果、仕事への動機づけという問題が浮上することになる。「参加動機が一般化するということは、その反面として、期待される仕事と成員役割の関係がある程度不確定になることを意味する」。そうして「動機の一般化は、その対価として、労働に対する日常的な態度の中に一定の無関心を生じさせてしまうのである」。それにより、個々の成員は、自己の成員資格が保証される最低条件のやる気しか出さないという行動をとる。それ以上の動機を喚起しようとする努力は、「やりすぎると、指導、コミュニケイション、目的構造といった他の組織構造に無理をかけてしまい、結局は組織が果たすべきその他の機能を犠牲にしてしまう」といった問題をはらむ。また、職場の小集団や非公式組織に追加的な動機喚起を求めるという議論があるが、確かに、「非公式な役割期待は、動機の欠如をある程度補完してくれる。これは事実であるが、それが公式の役割規定にかなり抵触するものだということも事実である」。それゆえ、そう単純な話にはならない。

仕事への動機の問題は「公式組織に不可避的に伴う派生問題」であり、「公式化した労働システムで仕事への動機が確保できないという事情は、構造的な条件によるものである」。それゆえに、「組織それ自体によってこの問題を完全に解決してしまうことは不可能であって、せいぜいその深刻さを軽減することしかできないということであり、また、仕事への動機を改善しようとする試みは、システムの構造的基礎決定と抵触する危険を必ず伴うということでもある」。仕事への追加的動機喚起の努力は、「二次的構造、特に日常的な事実的行動のうち、まだ社会的な構造化の進んでいない領域」の問題である。

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