コミュニケーションの外在性と管理

福井県立大学・経済学部 田中求之


0.このページについて

ここに掲載されているのは、『福井県立大学論集』17号に掲載予定の論文の原稿である。実際に掲載されたものは、このページのものとは内容が異なることがある。

2001年2月19日(タグの修正を行った)


1.抽象化された組織

はじめに

 インターネットの掲示板などのオンライン会議室は、コンピュータのネットワークによってはじめて可能になった新たなコミュニケーションの場であり、我々にとって新しい社会的活動の空間である。オンライン会議室のようなネットワークのコミュニティは、従来は、市場社会や既成の社会に対する一つの抵抗拠点としてが位置づけられることが多かったのであるが、最近では、インターネットのビジネスにおいても、ホームページ上に掲示板を設けて顧客の意見交換の場を作り、そこで交わされるコミュニケーションの中から新しいビジネスのチャンスを見出そうとする動きも見られるようになってきている。ネットワークビジネスの進展に伴って、今ではビジネスのための一つの手段としてオンラインのコミュニティの形成が行われ、その活用の重要性が説かれるようにもなってきている。

 こうしたオンライン会議室は「抽象化された組織」として捉えることができる(1)。一口にオンライン会議室といっても、実際の運用形態は様々に分かれるのであるが、原則として自由に参加でき、かつ匿名での発言(ニックネームやハンドルによる発言)が認められている会議室は、コミュニケーション行為のみによって成り立つという観点から、抽象的な組織と捉えられると考えるのである。ここでいう抽象的というのは、組織の本質があからさまになっているということをさす。我々の日常的な組織においては容易に感得することができない人間の組織の本質的なもの、つまり日常の体験を抽象化することによって捉えられるものが、オンライン会議室においては、目に見える形で作動している。それゆえに、抽象的な組織であるということができるのである。

 本稿では、この抽象的な組織であるオンライン会議室を、管理(マネージメント)の対象という観点から論じることにする。オンライン会議室の経営組織論というわけである。また、オンライン会議室が組織の本質を顕にしたものであるわけだから、組織の管理の本質的な側面まで踏み込んだ議論を行うことになるだろう。抽象的な組織の管理について考察することによって、組織の管理の本質を考えることができるに違いない。

バーチャルと仮想

 コンピュータやそのネットワーク上の活動を、最近ではひと括りにして、バーチャルという言葉で形容するのが流行っている。カタカタ言葉として日本語に受け入れられた感もあるが、漢語に翻訳する場合には、仮想という言葉があてられる。コンピュータのモニター上に表示された風景や、そこで行う活動のことをバーチャル・リアリティ=仮想現実と呼ぶわけである。オンラインの会議室であれば、それはバーチャルな会議室ということになり、仮想コミュニケーションというわけである。筆者のいう抽象的な組織も、バーチャル組織と言ってしまった方が受け入れられやすいのかも知れない。

 この、バーチャル(virtual)を仮想という言葉に置き換えて受容するということに、筆者は、コンピュータに対するある種の先入観が明確に現われているように思われるし、また、その先入観が、ネットワークのコミュニケーションの本質を見えにくくしているように思われる。一言で言うならば、ネットワーク上の活動を一つの現実と見るか否かという認識の問題がそこには潜んでいる。筆者はネットワーク上の活動をあくまでも一つの現実と捉えるのであるが、そうした活動に仮想という言葉を当てることに強い違和感を覚えるのである。

 仮想という日本語の言葉は「事実でないことを仮にそう考えること。仮定しての想像」(岩波国語辞典第5版)という意味の言葉あり、あくまでも現実ではないという意味をもつ言葉である。だからこそ「テレビゲームに夢中になるがゆえに生身の人間のコミュニケーションを欠き、現実と空想の区別が曖昧なままに、暴力に走る少年」といった、ステレオ・タイプのテレビゲーム批判の言説とすんなり結びついて、広く受け入れられたと考えることができる。この仮想という言葉に示されているのは、しょせんコンピュータ(あるいは他の装置)を介した体験というのは非現実的なものであり、生身の人間が顔や(身体)を直接に向かい合わせて交わすコミュニケーションから見れば嘘(あるいはせいぜいが代替)でしかないということである。つまり、無媒介のコミュニケーションこそが「正しく」「本当のもの」なのだという観点が、仮想という言葉には宿っている。

 一方、バーチャル(virtual)という言葉は「見掛け上/名目上は違うが、実質的/実際的には」という形容詞である。つまり、バーチャル・リアリティとは、(コンピュータのディスプレイに表示された画像のように)見掛け上は現実とは違うものではあるが、実質的には現実であるもののことなのである。それは一つの現実なのである。湾岸戦争の際に、ディスプレーに映る攻撃目標に焦点を合わせてミサイルの発射ボタンを押すようなハイテク軍事技術が用いられ、それを指してバーチャルという言葉が使われた。また、日本で、少し前に、バーチャファイターという格闘技ゲームが流行ったことがある。これは、コントローラーを操作してディスプレー上の人間を操作することで格闘技を行い相手を打ち負かすことを目的としたゲームなのであるが、このゲームが流行ったのは、実際の自分の肉体では到底実行できないような動きや技を自在に操れるという側面もあるにせよ、他人と端末(コンソール)を介して対決できるという対戦型のゲームだったことの意義が大きい。このように、ボタンを押してミサイルを発射するにせよ、コントローラーを使って跳び蹴りを繰り出すにせよ、その操作に対して影響を被り反応する他者が存在するということ、それがバーチャルという言葉には含意されている。

 仮想という言葉が「見かけは現実っぽくても嘘」というフィクションを志向した言葉であるのに対して、バーチャルは「見かけは嘘っぽくても現実」というリアリティを志向した言葉である。この志向の差異は、ネットワークの受容に際して根本的な違いを示しているように思われる。この論考は、どんなに媒介による限定を受け抽象化されたものであったとしても、ネットワークでのコミュニケーションは紛れもない一つの現実であり、それは我々の重層的な現実の一つであるという立場をとるものである。仮想ではなくバーチャルなものとして論じる。

抽象化の意義

 コンピュータのネットワークに限らず、何らかの装置を媒介にして行うコミュニケーションは、直接の顔と顔を突き合わせて話し合うコミュニケーションの代替的なものとして扱われることが多い。確かに、装置を媒介することによって、我々がコミュニケーションの際に活用できる情報量や情報のチャンネルは限定される。しかし、一方で、装置によって媒介されることによって、生身の我々のコミュニケーションを構成している物理的、生物的、社会的、あるいは時間的な様々な制約が取り払われ、コミュニケーションの可能性が広がり、その結果、コミュニケーションのある側面がより明確に現われるのも事実である。この、本質的なものがより明確に現われるという点を筆者は抽象化と呼び、オンラインの会議室を抽象化された組織として位置づけたのである。つまり、個別の事例の持つ豊かさを捨象して得られる一般的概念、抽象的概念が、物事のある本質をより明確に指し示すという、我々の思考における抽象の処理と同じことが、装置によって媒介されたコミュニケーションにおいても現われる。それは抽象化された一つの現実なのであり、現実の何らかの代替や補償あるいは仮構なのではない。そして、この抽象化された組織を基点として我々の組織の営みを反省するとき、直接性(無媒介性)によって覆い隠されているものを見出すことが可能になるはずである。


2.コミュニケーションの外在性

組織=コミュニケーションは外在的である

 我々は、オンライン会議室におけるコミュニケーションが、情報のチャンネルが限られており、非同期的であるという点では特別なコミュニケーションであると考えるが、人間のコミュニケーションとして、本質的な点においては、顔を突き合わせて行う日常のコミュニケーションと違いはないと考える。ネットワーク会議室でのコミュニケーションは、日常のコミュニケーションからみれば限定された形態のコミュニケーションであることによって、そこでは、コミュニケーションのいくつかの側面と可能性を鮮明に問題として捉えることができるのである。この意味で、筆者は、ネットワークの会議室を抽象的な組織であるとした。

 この「抽象的な組織」という場合の組織の規定は、バーナードの『経営者の役割』の公式組織の定義、「二人以上の人々の意識的に調整された行為や諸力のシステム」(2)という定義に拠っている。この組織の定義を用いるのは、それが組織が人間に対して外在的であるということを明示しているからである(3)。組織は、活動や諸力から成り立つのであって、人間から成り立つのではない。もちろん、その活動や諸力は、人間が提供するものである。この意味において、組織は人間が存在しなければ存立しえない。しかし、組織は人間の活動や諸力を調整することで成り立っているということは、組織の本質的なあり方は、存立基盤である人間の存在とは切り離された、独自のリアリティを形成しているということである。組織においては、個々の人間の意識や意思には還元できない作用が働いている。組織は人々の上に創発していると言ってよい。

 組織が人間に対して外在的であるということは、オンライン会議室に限った特徴ではなく、人間のコミュニケーション一般にあてはまることである。この点で、我々は、社会システムのコミュニケーションを要素とするシステムととらえ、それが人間の意識や心理にとっては外在的なシステムであるとした、ルーマンの社会システム論(4)を導きの糸として、考察を進めていく。

 考察を進める前に、ネットワークのコミュニケーションについて、それがむしろコミュニケーションや社会の外在性を乗り越え、より内面に入り込んでくるメディアとする意見がある。これについて、確認しておくことにする。

大澤真幸は「電子メディアの共同体」をめぐって

 大澤真幸は「電子メディアの共同体」のなかで、電子メディアによるコミュニケーションは、極限的な直接性を目指したメディアであり、精神の内面性と表面上の仮面である外面性との区別がなくなってくることが非常に大きな特徴であるとらえている(5)。そして、次のようにいう。

 「もともとのコミュニケーションでは、内と外という構造を持っていて、内のものを外化して、そしてそれをまた再び吸収するという構造がつくられていました。それが電子メディアによって『極限的な直接性』という形でのコミュニケーションになったときに、内と外の区別が無意味なものになってしまう。」(6)

 大澤が実例としてあげているのは、個室で利用できるようになった電話や、私的な事柄が書き連ねられたホームページである。自分の部屋というもっともプライベートな部分に他者が声として直接入ってくること、あるいは従来は人目に触れることがなかったような内容の文書が大量に閲覧可能な形で公開されていることなどをとらえて、「電子メディアは、不確定性をもった遠くの他者を、自分に近い親密な領域につれてきます」(7)というわけである。

 確かに、電子メディアは、我々の通常のコミュニケーションにおいて想定される物理的な距離感に基づいた関係の把握、端的言うならば距離感に変容をもたらす。対面のコミュニケーションであれば、自分の部屋で声をかわすという行為は、極めて親密な人間どうしの行為であろう。また、自分だけのコンピュータであるパーソナル・コンピュータのモニタに、他者の言葉が表示されるという体験、さらにはそこに全く見知らぬ他者の私生活が綴られているのを読むことができるという体験は、日常生活において自明のものとなっている他者=遠くにいる存在(三人称によって指示される存在)という把握を崩すものではある。

 しかし、それは、単にプライベートな領域の境界の変容でしかないのであって、精神の内面/外面の境界が揺らぐこと、つまりコミュニケーションの外在性が解消されることとは、まったく別のことである。かつてはプライベートな領域と公的に振る舞う領域の境界が物理的な距離感や場所というものによって規定され表象されてきたが、コミュニケーションの物的・生物的な制約を取り払うメディアの介入によって、領域の境界が曖昧になったという事態なのである。個と私の境界が変容する体験、そしてそのことに違和感を覚える体験ではあるが、それは言うなればのぞき見の快感につながる距離感の変容の体験でしかない。自分の言葉や行為の意味や意図が、自分の意思では確定できないというコミュニケーションの外在性そのものが解消される体験ではない。

 距離感の変容あるいは個と私の境界の変容を大澤が「究極的な直接性」という方向で解釈するのは、おそらく、彼がコミュニケーションを、情報の伝達という工学的なモデルで捉えていることにある。先の引用の中に書かれていた「もともとのコミュニケーション」についての記述を見れば明らかであろう。内面的なものが伝達用の信号に変換され、伝送され、受信先で信号が解読され、内容が取り出され受容されるという、まさに電子メディアがデータを転送する構造と同じ図式で、人間のコミュニケーションを考えている。このモデルで人間のコミュニケーションを考えるかぎり、距離があることは、信号が衰弱したりノイズが混入する可能性が高まることなのであり、距離がコミュニケーションの障害となって現われる。そして、他者とは、衰弱しノイズの混入した信号を送ってくる存在であり、もっとも近いもの=プライベートな私とは、何の衰弱もノイズの混入もない信号の発信者(外部の伝達経路を経由しないのだから当然ではあるが)ということになる。こう考えるかぎり、電子メディアによって他者からの信号が衰弱やノイズの混入もなしに届くという体験は、他者と自分との差異を揺るがす体験として位置づけることが可能になるだろう。しかしながら、この図式はコミュニケーションの外在性を消去しているという点で、決定的に誤りである。たとえパーフェクトな伝送が行われたとしても、そのメッセージの意味と、そのメッセージを発した意図とは、発信者側ではコントロールできず、受信者側で確定されること、さらには、受信者側の理解そのものも、やはりコミュニケーションを通じたフィードバックを通してしか推定できない。大澤の図式では、送信の際の伝達用の信号への変換(外化)と受信の際の解読(吸収)の際には、同じプロトコルで信号が処理されていることが自明の前提とされている。しかしながら、このことを保証するものは何もないのであり、だからこそ、コミュニケーションは、人間にとって、どこまで行っても外在的なものにとどまるのである。

森岡正博『意識通信』をめぐって

 人間のコミュニケーションは、いわゆる情報伝達だけではなく、その他の側面も持っているという点をふまえ、大澤が想定していたよう工学的なコミュニケーションのモデルでは人間のコミュニケーションを捉えきれないとする批判は少なからずある。我々も、コミュニケーションを、情報、伝達(伝達行為)、理解の3つの軸からなるプロセスだと考えるからこそ、工学的モデルだけでは人間のコミュニケーション、そしてそこに形成される組織を捉えることはできないと考える。森岡正博も、『意識通信』において、コミュニケーションは情報伝達だけではないとして、工学モデルを批判し、そのモデルでは捉えきれない側面を、意識通信としてとらえている(8)。「コミュニケーションには、<情報のキャッチボール図式>によって把握されるべき『情報通信』の側面と、<場の形成と変容>図式によって把握されるべき『意識通信』の側面があるのだ」(9)。彼が言う<場>というのは、意識通信によってコミュニケーションを行う当事者の間に生まれる人間関係の場であり、そこには参加者の内面的なものが出てくるとされる。森岡は、この意識通信によってコミュニケートする人格は、コミュニケーションを通じて推定される断片的な人格であるとするのであるが、しかし、そうした断片的な人格としての自己表現を通じて、自己表現を生み出す元になる内面的なエネルギーの流れ(それを森岡は意識であるとする)が、会話の中に流れ出していくという。「意識通信とは、参加者たちがお互いの意識を交流させることを目的として行うコミュニケーションのことである」(10)。このように、森岡は、最終的に、意識=エネルギーが交感しあうものとして意識通信を提示するのである。

 この意識通信は、情報伝達では捉えきれないコミュニケーションを把握するための概念的なモデルであり、意識エネルギーのようなものが実体として存在するという主張ではないことは森岡も明確に述べている。彼自身はユングのような社会的無意識の存在や形成にまで展開した議論を行ってはいるが、エネルギーとしての意識というのも、あくまでも、コミュニケーションの体験を概念化するために規定されたものだと考えられ、実際に我々の意識を支えている身体活動のエネルギーが身体外部へ放射されるということではないだろう。

 確かに、彼の言うように、我々は、コミュニケーションすることを楽しみ、そのことに喜びを覚えるのは事実である。筆者と同じように、森岡も、そこに自己表現や人格的な側面のある種の交流を見ている。そうした交流が意識に影響を与えるのは事実である。しかし、たとえエネルギー的なものにせよ、直接的な交流が可能であると考える点で、我々のコミュニケーションの把握とは決定的に異なる。森岡のいうような直接的な=無媒介的な交感は、主観的な体験の記述としては認められるが、それはコミュニケーションの特性によって生み出された主観的な印象であると考えられる。

 我々は、コミュニケーションは、情報、伝達行為、理解の3つのエレメントから成るプロセスとして把握する。誰かの発言を聞くという場合、ある発言で伝えられようとしている情報を理解することと、その発言が特定の様態で行われたという伝達行為を理解することとが、聞くということには含まれている。この場合の理解するということは、「他のようにもありえたのに、なぜAなのか」を了解するということ、つまり差異として処理できるということだ。さて、森岡の言う意識通信とは、この図式においては、伝達行為の差異の了解の側面をいうものである。誤解を生みやすい言い方になるが、伝達されるものは差異である。そして、その差異の処理を行う中で、相手の意識や人格に関する想定=期待が形成され、相手に対して帰属させるという処理が行われるのである。

 森岡の意識通信という概念が、ある種のリアリティをもって受け取れるのは、対人的なコミュニケーションは、伝達行動の差異の了解を自己を参照しながらの選択として処理しなければならないことにあると考えられる。つまり、印刷出版や放送のような、いわゆるマス・メディアによる不特定多数に向けられたコミュニケーションの場合は、伝達行為の理解にあたって、受け手が自己を参照する必要はない。これに対して、対人的なコミュニケーションの場合には、伝達行為の理解は、常に「他のようにもありえたのに、なぜAが、他の人ではなく、この私に向けられているのか」という、自己を参照しながら差異を判断することになる。それゆえ、この差異を処理することによって、他者の意識と、それが向けられた対象としての自己が、同時に想定されることになるのだ。この、理解=差異の処理の過程における自己参照が、結果的に、意識の交流という体験を生み出していると考えることができる。

 コミュニケーションが我々に外在的であるということは、コミュニケーションに巻き込まれている人間も互いに外在的であるということである。だからこそ、差異しか伝達されないし、その差異の処理としてコミュニケーションは進行するのである。


3.何を管理するのか?

行為

 コミュニケーション=組織は人間に対して外在的なものであるが、しかし、人の存在なくしては成り立たない。外在的であるということは、無関係や無関連ということではない。存在基盤として行為しコミュニケーションを行う人間が存在することは前提となるが、組織の次元において進行している事態、組織というプロセスにおいて進行している事態やそのメカニズムは、個々の人間には還元しえないものであるということを、組織は人間に対して外在的と位置づけたのである。ちょうど、我々の意識が身体の生存を前提として存立しているものでありながら、意識において進行している思考や概念は、身体の活動に還元できないのと同じである。端的に言うならば、組織=コミュニケーションと人間とは、全体と部分(あるいは要素)の関係ではなく、システムとシステムの関係である。組織の要素をなすのは、人間ではなく、コミュニケーション行為である。

 ここで注意しなければならないのは、組織というシステムの要素である行為は、それが行為であるという規定をシステムによって受けるものであるということである。人間の提供した行為が集まってシステムを形成するのではない。人間が提供するものは、何らかの身体的な動作、あるいはその痕跡である。その動作を行為として規定し、その行為の主体としてある人格に意図ともに帰属させるのは、システムなのである。たとえば、O-Ha-Yo-Uという音が発せられ、手が振られるという動作は、相手にそれが「挨拶」という行為であり、自分に向けた仲間意識の表明の儀式として受け止められて、はじめて「挨拶」という行為として確定する。そして、それが挨拶という行為であると了解されることで、挨拶が返されるなどの後続の行為を引きだす契機となる。このことは、たとえば、日本とは全く異なる風習の場所に行けば、同じ振る舞いが全く別様に受け取られる、あるいは無視される可能性があることから了解できるであろう。このように、組織をシステムとして捉えるということは、システムの作動の次元(行為の連鎖)において、その要素が要素であることはシステムによって規定されているということである。そして、ある動作Aが行為Bとして了解される場合、AとBの間の連関には必然性や因果関係は存在しない。AがシステムにおいてBとして処理されるというシステムの処理が、AがBであることの根拠となるのである。だからこそ、もはや誰も「おはよう」という言葉自体の意味を知ることもなく、また意識されることなくとも、それが挨拶という行為として通用するのである。

 このように、組織の要素たる行為と、動作との関係は恣意性があるのだが、そのことが、ある行為として同定されるような動作は自由に取り換えがきくということを意味しているのではないことは確認しておく必要がある。一定の文化的慣習のもとで、挨拶という行為として受け取られる動作には、ある程度の幅があるが、一定の範囲に限定されている。それが一種の規範的な意味合いを帯び、行為者を誘導する役割を果たす。もちろん、最終的には、相手に挨拶として理解されること、行為者の立場から言うならば挨拶として理解されたと思われる反応が自分に返ってくること、が挨拶という行為を確定するのであるから、いくら規範的であっても、それは最終的には期待でしかない。観点を変えて言うならば、動作と行為の間に恣意性があり、それが期待という様態で定式化されるからこそ、一方では有無を言わせず従わされる規範として現われると同時に、他方では、動作の選択の自由度が高いのであり、また、新たな動作が受け入れられていく余地もあるのだ。

行為主体

 組織は、動作を行為として個別の行為主体に帰属させていくことで進行するプロセスである。このとき、組織にとっては、人間は、行為の帰属先として識別可能なものであるであればよいことになる。この点が明確に現われるのが、まさにオンライン会議室なのである。

 オンライン会議室においては、匿名や偽名による発言が可能である。この際の名前は、他との識別記号、つまり差異として働くことにポイントがある。日常の社会における名前が出自や性別などの発言者に関する情報をもたらすものであるのに対し、オンラインの名前は、原理的には、そうしや意味を伝えるものではなくなる。この組織においては、人は行為の帰属点として名指されるのみの存在となる。つまり、名前によって他と識別できるという点、端的に言えば差異性のみが明確になっており、それを帰属点として発言が行為として確定し、それを参照することが可能になっていればよい。誰であるかということは意味を持たない。ほかの人々から区別でき同定できるということと、その名前に発言を帰属させうるということだけが意味をなすのである。他の人ではなくその人に呼びかけうること/呼びかけられうること、という個人が「個」人であることの本質を支える差異として名前がある。そして、その名前に対して、発言が行為として帰属する。そして、行為主体は、その名前の所有者として規定されるのである(11)。

 それゆえ、行為主体の人格というものは、あくまでも、発言という行為の帰属先として措定され、そして、発言という行為から遡及して想定される選択主体の傾向である。行為という表現が確定した時点で、そこに表現されているものとして、行為主体の人格が認められるのである。それは、発言を読む/受け止めている他者が、発言において表現されているものから遡及して想定するある種の期待であり、それが生身の本人の見た目や実生活において発揮されている行動傾向と一致する/しないは全く無関係なものなのである(12)。極論すれば、行為が自己表現として受け止められるがゆえに、その行為に表現されたものとして「自己」(人格)が見いだされるのだ。ちょうど、商品が売買されることで交換価値が確定することによって、そこから遡及して交換価値に表現されたものとして価値実体が想定されるのと同じように考えることができるであろう。

 なお、この人格が行為から遡及的に規定されるものであるということは、匿名による発言が可能であり、書かれた文字だけが行為として認知できるというオンライン会議室において明確に見て取れることであるが、しかし、オンライン会議室に限らず、人間のコミュニケーション一般に当てはまることである。書かれた文字だけによるコミュニケーションであるという、情報形態が限られたものであるがゆえに、オンライン会議室での人格は、日常の顔を突き合わせたコミュニケーションから生まれてくる人格に較べると、限定されたものとならざるをえない。しかし、それは非現実的なものでもなければ、仮構された人格なのではない。もしオンライン会議室の人格を仮想だというのであれば、日常生活の人格も仮想である。コミュニケーションが我々にとって外在的なものである以上、人格は常に仮想的なものなのである。人格が自意識をも含んだ広い意味での身体的なものと無関係であると主張するつもりはないが、身体に根拠付けられるものでもなければ、還元できるものではないということだ。商品の比喩を再び持ち出すならば、使用価値の差異が交換価値の差異に影響を与えるのは事実であり、他者に欲望される使用価値があることが商品であることの存在基盤とはなっているが、しかし、ある商品がどんな価格を付されるかはあくまでも市場での売買の中で確定される、このことと同じメカニズムである。

管理対象

 これまで確認してきたように、組織(コミュニケーション)は人間に対して外在的であり、通常は人間の内面的なものの表出として理解されている行為や人格も、この外在的な組織というプロセスの中で規定されているものである。このように組織を捉えるとき、組織を管理するということの難しさが、改めて突きつけられるのである。組織を管理するといっても、行為(コミュニケーション)を直接操作することはできない。あくまでも、コミュニケーション行為に参加し、コミュニケーション行為を通じて、働き掛けていくしかない。また、働きかけの対象は、行為が帰属されていく行為主体に対する働きかけにならざるを得ない。そして、そもそも組織を管理するとはどういうことなのか?という本質的な問題に直面することになる。

 では何を目的として管理するのか? それは発言の連鎖の成立である。会議室の存在/存続は、そこでコミュニケーションが成立しているというそのことだけである。様々な発言が投稿され、その諸発言行為がコミュニケーションとして成立するということ、その行為の連鎖を生み出すようにするのが、管理の目標となる。そして、行為そのものに対して働き掛けることはできない以上、行為主体(になる個人)に働き掛けて、行為の連鎖を生み出すような動作を誘導するという方法で管理を行うしかない。

 オンライン会議室であれば、そこでの組織=発言行為の連鎖の存続(再生産)を確実なものにすることが、管理するということになる。具体的には、その場に次々と新たな発言が行われるようにするという発言の生成の促進と、諸発言がプロセスとして接続するよう接続可能性の確保、ということになるであろう。

 では、この管理はどのようにして行われるものなのか? 組織(コミュニケーション)に対して外在的である個人に対して、組織を通じて働き掛けていくには、どのような行為が行われることになるのか? この点を明らかにするためには、行為主体の側の視点から、発言という行為がいかになされるかを確認しておく必要がある。そこで、ルーマンの『社会システム理論』の議論を整理しながら、組織の成立の根本にある困難と成立の契機を確認するとともに、いったん成立したコミュニケーションのはらむ傾向について確認しておこう。


4.管理の本質

コンティンジェンシーとコミュニケーションの成立

 全くの他者を前にして、何らかの行為を行おうとするとき我々が直面する状況をダブル・コンティンジェンシーとして定式化したのはパーソンズである。「パーソンズの出発点は、どのように自分自身が行為するのか、およびどのように自分自身がその行為を相手に接続しようとしているのかに、相手の人がその行為を依存させており、その立場を変えて相手から見ても同様であるのなら、相手の人の行為も自分自身の行為もおこりえないということである」(13)。簡単に言ってしまえば、互いに相手の思惑と出方次第で行為しようとするなら、相互依存の堂々めぐりによって身動きが取れなくなるということである。行為が行われるためには、このダブル・コンティンジェンシーの問題が解決されなければならない。言い方を変えるならば、実際に我々が行為を行い、組織が形成されているということは、この問題が解決されているということなのである。

 この問題の解決方法として、まず考えられるのは、規範、慣習あるいは価値が互いに共有されるということである。どんなに見知らぬ相手であっても、同じルールの下で同じ目的のために行為することがわかっているのであれば、相手の個人的な情報などが一切なくとも、相手に対して行為を起こすことが可能である。このことはスポーツを観れば明らかであろう。また、バーナードが組織の要素として挙げた共通目的も、こうしたコンティンジェンシーの問題を解決する手段として捉えることが可能である。互いに同じ共通目的を受容していることを足がかりにすることで、自己の行為が相手にどのように評価されうるかを予め予想することが可能になり、また、相手の行為を評価することができるのである。つまり、ダブル・コンティンジェンシーの根底にあるのが、行為とその受容がいかようにもありうるということ、可能性が限定されていないことであるのだから、何らかの限定を加える価値体系を与えればよい。

 しかしながら、この解決方法には、大きな問題点が潜んでいる。それは、その価値体系はいかにして共有されるのか? という問題である。すでにコミュニケーションが開始されている状況の中で、新たな組織やコミュニケーション・システムを形成するという場合であれば、進行中のコミュニケーションを通じて価値規範を共有することは可能である。先に述べた公式組織の創出の場合などは、この共有の問題にぶつかることはない。しかし、そもそもそうした社会システムが存在していない状況では、コミュニケーションや行為によって共有することはできない。一つの解決策としては、人間の動物としての共通性、種としての同一性によって、非言語的な次元で何らかの共有が可能になるのだとすることはできる。それを生命的な身体知として語ることも可能かもしれない。だが、そうした身体知のようなものの存在を認めるにせよ、その身体知が互いに共有されてあること自体はコミュニケーションによってしか確かめられないのである。

 このように、価値規範の共有によるダブル・コンティンジェンシーの解決は、最終的に不可能である。それに対して、時間の進行を考慮することによって、別の解決法を示して見せたのが、ルーマンの社会システム論である。

 ルーマンが示して見せたのは、ダブル・コンティンジェンシーの状況自体が、その解決手段を見出すということである。それは、偶然(ノイズ)をきっかけにして秩序が生成するというものである。どちらかが何かを行えば、それを基点にして、相手は、その最初の行為(コミュニケーション)を手がかりにして何らかの対応を行うことが可能になる。つまり、堂々めぐりの状況の中で、何らかの偶然の出来事さえ起これば、それを基点にして、コミュニケーションの接続が生成できる。ダブル・コンティンジェンシーの状況だからこそ偶然に対する感受性が高まっており、それゆえにこそ、偶然が、突破口としての役割を果たしうるのである。「…、社会システムは、相互作用の当事者の双方がそれぞれダブル・コンティンジェンシーを経験することによって、ならびに、こうしたダブル・コンティンジェンシーの状況が当事者双方にとって規定的できないがゆえに、その状況に見いだされるどんな活動でも双方の当事者からすれば、そのシステムの構造を形成する意義を有しているということによって、成立するのである(またそうすることによってしか成立しないのである)」(14)。つまり、ダブル・コンティンジェンシーの状況は、なんらかの偶然によってそれが破られたなら、後は、その最初の一撃を手がかりにしてコミュニケーションが進行しはじめる。一点突破、全面展開というわけだ。「神が何も与えないとしても、システムは生じるのである」(15)。ここで言われているのは、次のようなことだ。何もない空間に一つの円を描くことによって、その空間を円の内部と外部に分割することができる。いったん分割が行われたら、外部/内部を軸として、空間内の位置を確認できるようになるし、分割の是非そのものの議論を行うことによって線を引き直すことも可能になるだろう。このように、最初の線引きさえ行われれば、それを手がかりにして、後続の様々な判断や選択が可能になる。このことをルーマンは指摘したわけである。

 我々の日常生活の中の慣習、たとえば挨拶は、こうしたコミュニケーションの接続を立ち上げる最初の一撃をスムーズに生起させることを手続き化したものと考えることができるだろう。言葉としては無意味なものであれ、それを相手に投げ掛けることで、それを手がかりとして、相互行為が立ち上がっていくようになっているわけである。コンティンジェントな状況の対称性を破る仕掛けである。

 ここで注意すべきことは、コミュニケーションの成立は、互いの当事者の間に同じ規範や価値観が共有されることではないということだ。相手の意識や思考は互いに不透明なままにとどまる。つまり、相手はブラックボックスであることには違いはないのであり、2つのブラックボックスが、それぞれに、観察を基にした自己の想定によって作動しているのである。たとえ相手がブラックボックスであったとしても、相手が何らかの決定を行っていることさえ確認できれば、「相手についての純然たる想定をとおして相手に関するリアリティの確かさを互いに生み出す」(16)ことができ、そのことによって、互いに対する関係においてうまくやっていける(17)。

 コミュニケーション・プロセスは、進行し始めると、履歴が定着することによって、一定の期待を形成し、その期待が、プロセスの安定的進行を補償するという展開をとる。期待によって、起こりうることの可能性の範囲を限定することが可能になる。そして、そうした期待の帰属点として人格が想定されることになるのである。

 この人格というのは、先ほども述べたように、相手の内面(意識や心理)と同一のものでもなければ、表象でもない。コミュニケーションの中で観察された諸行動期待の束に過ぎない。しかし、それが特定の存在に帰属させて了解しうるようになることによって、コミュニケーションは可能になるのである。相手の内面性は不透明なままで、つまりブラック・ボックスのままで構わないのである。また、この諸行動期待が、特定のヒトではなく、機能と結びつけられて了解されるとき、役割という把握が可能になるのである。

コミュニケーションの爆発

 ダブル・コンティンジェンシーの状況においても、偶然をきっかけとして、コミュニケーションのプロセスは進行し始める。このことを行為者の行動戦略という観点で考えると、なんらかの決定や選択が不可能な状況に直面したときには、自分から発言を投げ掛けることが、自己が接続しうるコミュニケーション・プロセスを開始するのに有効な戦略となりうるということを意味する。

 オンラインの会議室においては、全くの他者と直面し、純粋なダブル・コンティンジェンシーの状況に直面するという事態はまずない。しかしながら、その場で提供されている情報が増加してきて、簡単にはすべてを把握できない状況になってくると、情報過多ゆえに選択判断が難しいという状況に陥ることがある。何千という発言が登録されている会議室において、すべての発言に目を通して会議室の方向性を把握すると言ったことは、まず不可能になる。つまり、情報量が個人によって処理できる一定の閾を越えると、もはや情報が情報として活用できない(情報=差異に反応できない)という事態が起きる。この状態は、選択が可能な状況にありながら選択を行う限定が働かないという点で、コンティンジェンシーに直面した状況と同じであると考えることができる。こうした情報過多の状況において、自分から発言を行っていくことが、情報処理のための有効な戦略になるのである。

 実際に、このことを示すデータが柴内康文「ネットワークは爆発する」において示されている(18)。柴内の調査の目的は、ボランティアベースで情報共有が行われるオンライン会議室において情報発信が盛んに行われるのはなぜかを、1995年ニフティサーブ調査の分析を通じて明らかにしようとするものである。その調査の中で、情報が多すぎることからくるストレス(情報オーバーロード・ストレス)とオンライン会議室の参加のあり方の関係を調べているのであるが、積極的に情報発信をして会議室に参加することがストレスを低めるということを示している。また、会議室の規模とストレスとの関係について次のような興味深い結果を得ている。「ROM型(引用者注:ただ情報を読むだけで発言しない行動の型)の参加者は、フォーラムの規模が大きいほうがオーバーロード・ストレスが高まっている。これは当然の結果であるが、一方で質問型や積極型のような情報発信を行っている人間のストレスは、高まるどころかむしろ低まる結果を示している」(19)。柴内は、この結果をもとに、情報発信というものを対人環境の利用とそれを通じた効率的な情報処理の契機として捉えている。「積極的に情報を発信する人間は、それを通じて、自分の関心に即した、自分に必要な情報を集めるきっかけを自ら作りだしている」(20)というわけである。

 柴内は、情報処理の負荷と戦略という観点から考察しているが、我々の観点からこの調査結果を見るならば、選択可能性の低下が新たなコミュニケーション行為を誘発することを示していると考えることができるだろう。

原初的管理機能

 以上のことから、コミュニケーションを成立させ、存続するということの根本には、何らかの振る舞いによって差異が作りだされること、そして、その差異が差異として受容されるということがあるということを確認できた。そして、管理という観点から見るならば、コミュニケーションの成立の問題とは、コミュニケーション自体が生成しないことよりも、むしろ、ダブル・コンティンジェンシーのように選択不可能性が高まる状況ではどのようなコミュニケーションが生成するのかが偶然に委ねられることにあることがわかる。コミュニケーションは、どんなきっかけでも起こりうるものである。二人以上の人々が何らかのコンタクトを持つ状況になれば、そこに何らかの組織は成立するのだ。ただ、それがどんな組織(コミュニケーション)になるのかは偶然に対して開かれている。

 このことは、もし、具体的な内容はどんなものであれコミュニケーション=組織を成立させることだけが目的なのであれば、管理という作用は不要だということである。ダブル・コンティンジェンシーの状況下、あるいは選択可能性が低下した状況で、複数の人間がコンタクトする機会があれば、何らかの差異を契機として(差異が穿たれたならば)組織は立ち上がってくるのである。比喩的な言い方をするならば、組織は自らを組織すると言っても良いだろう。

 このプロセスに内在している組織を作っていく働きを、原初的な管理作用としてあえて定式化するならば、それは、動作を行為として確定すること、言い換えれば、動作を行為として観察するということだと考えられる。それは、コミュニケーションというプロセスを、行為の連鎖という事象に還元していく作用であり、そのことを通じて、まさに行為というものとして、コミュニケーションシステムの要素を確定していく。要素が確定されることによって、その要素を参照点とすることによって、後続のプロセスの方向性=期待が生み出されていくのである。この観察という原初的な管理機能は、特定の誰かによって意図的に担われるものではなく、コミュニケーションのプロセスが内在的に持っている、自己触媒機能だと言える。この点で、まさにバーナードがいうように、プロセスは自らを管理するものなのである。

 この点からすれば、オンライン会議室というコミュニケーションの形態は、原初的な管理作用が機能しやすい場であるといえる。そこでは、観察という処理が、目に見える形で、はっきりと示される。つまり、そこでの動作とは、一つの名のもとに発言という行為が行われたことなのであり、それが一人の個人によってなされた行為として、他の人間に対して、客観的に確認できる形で提示されるからである。対面的な行為の場合には、観察と、相手に対する反応処理とが同時に進行するがゆえに、観察という管理作用が内在していることは認知されにくいと考えられる。しかし、非同期であり、書かれた文字を通してのコミュニケーションになるオンライン会議室では、観察と反応とを切り離して行うことが可能になるわけだ。

 社会システムは、コミュニケーションからなるシステムでありながら、帰属に基づく行為を通して観察される。コミュニケーションそのものは、直接には観察されえないのであり、コミュニケーションは推定されることによってしか確認されえない。それゆえ、通常のコミュニケーションにおいては、そのプロセスを行為として観察し記述するということが重要になる。ところが、オンライン会議室においては、コミュニケーションは、発言行為として、記述された形で進行する。文字によるコミュニケーションということには、この観察機能が明確に繰り込まれて作動するコミュニケーションになるということが言えるであろう。

 このように、コミュニケーション=組織自体に、自らを立ち上げていく原初的な管理作用が内在しており、オンライン会議室という場は、その作用をより明確に機能させうるような場であるのだ。それゆえ、組織に対する意図的な働きかけとしての管理とは、行為の接続の可能性を限定することによって、行為の選択可能性の低下を回避し、組織の存続を図っていくということにある。

管理=メタ・コミュニケーション

 では、そうした組織の存続=プロセスの安定的進行を可能にする働きかけとは、どんなものなのか? 組織が我々に対して外在的であるということは、根本的には、組織を直接的に管理することはできないということを意味している。組織を管理すること自体が、組織によって行為=要素として規定され、組織というプロセスに組み込まれていくことを通じてしか可能ではないということだ。組織に対して超越的な立場から力を行使することはできない。

 しかしながら、このことは、管理が不可能であることを意味するのではない。実際に我々は日々様々な組織の中にあって、その組織の管理を通して、社会的な生活を営んでいる。組織の要素を通じて組織というプロセスに対して働きかけが行えるのは、人間のコミュニケーション行為においては、そこで行われているコミュニケーション自体をテーマとしたコミュニケーション、メタ・コミュニケーションが可能になっているからである。ルーマンの言い方をするならば、コミュニケーションに再帰性があるということである。

 このメタ・コミュニケーションは、日常のコミュニケーションにおいても頻繁に見られる。相手の言葉の意味が確定できない時に「それはどういう意味ですか?」と問い返すこと、あるいは相手の発話の意図が了解できないときに「なぜそんなことをするのか?」と問い返すこと、あるいは「いったい何の話をしているのか?」と話題を問うこと、これらは、コミュニケーション自体をコミュニケーションによって問題にするということである。そして、このメタ・コミュニケーションによって、いったん確定していたかにみえる行為を遡って確定し直すことや、何らかの動作を行為として確定すること自体を、コミュニケーションによって可能にするのである。

 ひとたび行われた動作は取り消すことはできないが、それがどのような行為であったのかは、常にコミュニケーションの進行の中で、問題として取り上げ、規定し直すことができる。行為は常に未完のまま未来に向かって開かれているという言い方もできるだろう。行為がコミュニケーションによって規定されるものであり、それは、特定の個人の意志を根拠とするのではなく、受容者の理解による限定と接続された行為に拠るものであるということ、つまり我々がコミュニケーションの外在性として論じてきたこと、そのことが、メタ・コミュニケーションによる問い直しを可能にしているのである。そして、コミュニケーションが特定の行為主体の行為として帰属され観察されるということ、このことによって、行為とその意図の問題として、コミュニケーションを取り上げることが可能になっているのだ。

メタ・コミュニケーションの効果

 コミュニケーションには再帰性があり、メタ・コミュニケーションが可能であるということが、組織にたいして管理という働きかけが可能になることを根拠付けている。では、このメタ・コミュニケーションによって何が可能になるのか? それは、組織の境界の確認と、それによる行動の接続可能性の限定である。つまり、「なぜ」という問い掛けと、それに対する応答というメタ・コミュニケーションによって、この組織においてどのような行為が行為として受容されるのか(どのような行為は受容されないのか)を確認していくことになる。そのことは、組織に行為として取り込まれるもの/取り込まれないものの境界を確認すること、つまりはこの組織がどんな組織なのかということを確認するということである。同時にそれは、組織にかかわっている人間が、この場ではどのような動作が行為として受容されるのかという期待を形成することを可能にする。そして、行為者の期待によって、実際に起こりうる行動の幅が限定され、行為としての接続がスムーズに行くようになるのである。

 このことは、日常的な言い方をすれば、コミュニケーションの文脈(コンテキスト)を明確にするということと同じ作用であると言えるだろう。しかし、この発言−コンテキストという図式では、コンテキストが発言とは独立して存在しうるかのように理解されてしまうという欠点がある。確かに、我々が何かを発言しようとする場合、その場に相応しい発言を行おうとし、その際にコンテキスト−文脈に注意するというのは事実である。しかし、そのコンテキストの理解は、発言がコミュニケーションとして他者の行為/発言に接続されて、はじめてその理解の正しさが確認されるというものである。つまり、自分の発言がコミュニケーションとして通じた後に、事後的に、その接続を可能にしたものとしてコンテキストが見出せる。事前のコンテキストの理解とは、あくまでも、期待でしかないということである。

 言い方を変えるならば、メタ・コミュニケーションは、組織の外部の人間の期待形成のプロセスに作用することによって、コミュニケーションを誘導していく作用を持つのである。組織=コミュニケーションが人間に対して外在的であることによって、動作と行為との間に恣意性が存在するのだが、その恣意性が問題になることを回避しているのが、各個人の期待なのである。それゆえ、最終的に、組織の安定には、その場のテーマを明確にし、発言者が期待をもつことが可能にするということが有効な管理の戦略となる。

 なお、この期待の安定化、明確化は、他方で、その場の活気を枯渇させる危険性をはらんでもいる(ある意味で、安定的な存続の代償ともいえるのかもしれない)。それは、期待が他者の特異性を打ち消してしまうということにある。その場での発言に何が期待され、どのように振る舞うのが受け入れられやすいかといったことが期待なり規範・ルールとして詳細に明確化されればされるほど、個々人がその場に参入し振る舞う際の負荷は少なくなり、安定的に開かれたものになるといえる。しかし、期待が明確になることは、他者の他者性を消去してしまうことになる。他者を受け入れるということは、他者が「なにものであるか」を予め決めてかかることなく、期待を裏切るものとして現われることを受け入れるということである。つまり、期待しないことによって他者と出会える。このことは、当然のことながら、コミュニケーションの安定化の志向とはぶつかる。このジレンマが、ネットワーク組織には、あるいは公共的な空間には常に存在しているのである(22)。


5.最後に

 要約しよう。我々は、オンライン会議室を、コミュニケーションというプロセスが進行している組織として把握した。それは、人間に対する組織の外在性が明確に現われている点において、抽象化された組織と呼べるものなのである。人間のコミュニケーションが、情報、伝達行為、理解という3つのエレメントから成り立つプロセスであるかぎり、コミュニケーションそして組織は、人間にとって外在的なものなのである。我々は、ルーマンの社会システム論を導きの糸として、この組織というものの管理を可能にしている根拠と、管理するということの根本的な意味を考察した。その結果、組織というプロセスには、偶然を契機にしてプロセスの進行が開始されうるという意味で、原初的な管理機能が内在されており、その自らを立ち上げていく機能は、コミュニケーションを行為として規定し行為主体に帰属させることを通じて作動することがまず確認された。そして、意図的な介入としての管理が可能なのは、コミュニケーション自体をコミュニケーションによって検証できるというコミュニケーションの再帰性に根拠があることが明らかになった。そして、管理とは、メタ・コミュニケーションを通じて組織の持つ動作の接続可能性の範囲(=組織の境界)の確認および画定を行うものであり、そのことを通じて、組織の外部の人間の期待形成に働き掛けることであるのが確認されたのである。

 こうして、我々は、抽象的な組織における管理の本質を確認することができたわけであるが、しかし、現実において、オンラインの会議室を管理するに当たっては、メタ・コミュニケーションは、言葉だけを通じて行われるものではない。このことは、日常の組織においても、たとえば職場の環境から会社の建物の存在にいたるまで、様々な装置を通じて管理が行われていることを考えればわかる。バーナードに即して言うならば、組織は協働システムの中において存在しうるものなのである。本稿では、我々は、組織と人間の行為に焦点を絞ってきたが、実際の管理の問題を考えるにあたっては、人間以外の様々なファクターを考慮しなければならない。特に、行為の場を作りだしている装置についての考察が重要になるであろう。オンライン会議室であれば、発言の記入方法、表示のレイアウト、あるいはボタンの配置などのソフトウェアの仕様、あるいはインターフェースと呼ばれるものを、コミュニケーション=組織生成のための装置として分析する必要がある。ミシェル・フーコーは、装置が人間の主体性に大きな影響を与えるということを『監獄の誕生』で鮮やかに描き出してみせた。オンライン会議室の管理作用の本質を考察した我々の次なる課題は、オンライン会議室を形成しているテクノロジーのデザインを、装置として分析することにある。


(1) 拙論、「ネットワーク会議室における自己表現と自発性」、『経済経営研究』、福井県立大学、第7号、2000年

(2) Barnard, C. I., The Function of the Exectutive, Harvard University Press, 1938, p.73 (山本・田杉・飯野訳,『経営者の役割』,ダイヤモンド社,1968)

(3) このバーナードの組織の定義は、公式組織の定義である。それゆえ、オンライン会議室が公式組織なのかどうかという点を検証せずにこの定義を用いることには問題がある。実際、オンライン会議室は、バーナードの枠組みから言えば、非公式組織ととらえるべきものである。しかし、筆者は、この組織の定義自体は、バーナードの公式性の定義からは独立した、組織そのもの定義であると考えている。組織の公式性の問題については、改めて論じることにしたいと思う。

(4) 本稿ではニクラス・ルーマンの社会システム論に基づいて考察を行っている。ルーマンの社会システム論については Luman, Niklas, Sozial System, (邦訳『社会システム論』(上)(下)、恒星社厚生閣)によっている。また、ルーマンの理論を理解するにあたって、村中知子著『ルーマン理論の可能性』(恒星社厚生閣、1996年)、ゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ著、舘野・池田・野崎訳『ルーマン 社会システム理論』の2冊に拠る部分が大きい。

(5) 大澤真幸、「電子メディアの共同体」、吉見・大澤他『メディア空間の変容と多文化社会』(青弓社、1999年)、第2章

(6) ibid, p.66

(7) ibid, p.69

(8) 森岡正博、『意識通信 ドリーム・ナヴィゲイターの誕生』、筑摩書房、1993年

(9) ibid, p.99

(10) ibid, p.111

(11) 匿名での参加が可能であるということは、社会的なステータスや身体的な特徴と行ったものからは自由になった発言が可能であるということである。このことは、その人が肩書きやステータスといった他人と交換可能なモノとしてではなく、一つの名前を持ったヒトとして発言する自由を得られるということを意味する。しかしながら、この自由は、平等な発言を意味するものではない。名を持った言説のみの存在であるがゆえに、その言説を生み出す能力によって、格差が生じるのである。極論すれば、言説を巧みに操れる人間がその場を制することが可能であるということだ。この言説の能力というものには、いくつかの要因が含まれる。この要因も、伝達と情報の2つに分けることが可能だろう。まず情報の側面であるが、ボキャブラリや文章表現の技巧といった、いわゆる表現能力である。これは訓練によって磨ける部分もあるが、その訓練の機会や時間といったものは、誰にでも公平に与えられているものではない。また、当然のことながら、持って生まれたセンス(才能)といったものも影響する。言説の能力の伝達の方の側面というのは、適切なテーマの選択と、語り口である。その場に相応しく、誰にでもある程度了解可能な方法で伝達が行えることといっても良い。こうした言説の影響力は、先にも述べたように、訓練や経験によって一定の程度は獲得できるものである。その意味では、機会としては平等であると言ってもよいかもしれない。しかしながら、その機会を活かすだけの時間や財といった資源の違いなどによって、実質的には格差が生まれている。このことによって、オンラインのコミュニケーション組織は、自由と平等のユートピアなどでは決してないのである。この点を公共性という問題意識から指摘したのが斎藤純一『公共性』(岩波書店、2000年)である。

(12) パソコン通信における人格の問題をめぐっては、ニフティ訴訟を考える会編『反論 ネットワークにおける言論の自由と責任』(光芒社、2000年)を参照のこと。

(13) ニクラス・ルーマン、佐藤勉監訳、『社会システム理論』(上)、恒星社厚生閣、1993年、p.158

(14) ibid, p.166

(15) ibid, p.161

(16) ibid, p.168

(17) 目的を共有しないブラックボックス同士でも組織を形成しうることを、バーナードの側生組織の概念の検討を通じて論じたものが拙論「合意と目的」(『経済論叢』、京都大学経済学部、第152巻、第3号)である。

(18) 柴内康文、「ネットワークは爆発する」、池田謙一編『ネットワーキング・コミュニティ』、東京大学出版会、1997年、第5章

(19) ibid, p.98

(20) ibid, p.97

(21) 拙論「権威とフィクション」(福井県立大学論集 第2号)において、バーナードの権限受容説と上位権威のフィクションの問題を、言語化によるプロセスの管理として論じた。

(22) 公共性における他者受容の問題を、ハンナ・アーレントの公共性の議論に基づいて整理したものとして、(11)でも触れた斎藤純一『公共性』の第2章をあげておく。