協働論
協働の成立
協働とは二人以上の人間が共に働くことです。その本質的なものとは、相互行為であり、相互行為が成り立つということは、コミュニケーションが継続して行われるということがあります。そこで、二人の人間の間で安定的にコミュニケーションが継続するための条件を考えてみます。ただし、コミュニケーションが安定的に継続するということは、二人が「仲良くする」とか「分かりあう」、あるいはコミュニケーションで合意に達することではありません。たとえ喧嘩であっても、それが続いて進行するならコミュニケーションの継続とみなせます。
さて、この講義での人間に関する出発点である、人間の意識(心、精神)は、互いに不透明である、というところから出発しましょう。互いに何を考えているのか分からない2人の人間が出会って、そこで二人の間で安定的なコミュニケーションの継続が成り立つには、何が必要か? ここでは、原理的な点を考察するために、状況や場から得られる情報はないものとします(たとえば、大学という場であれば、たとえ見知らぬはじめての人間でも、最低限、学生であることは手掛かりになるわけですが、そういう場や状況からの手掛かりはないものとするわけです)。
堂々巡り(ダブル・コンティンジェンシー)
このとき、二人の人間は、互いに、相手がどうするかを予想した上で自分の行動を決めようとする。しかし、互いに確定的な手掛かりは得られないわけですから、堂々巡りの状況に陥ります。AとBという二人の人間が出会ったとき、
- Aは、Bがどうするだろうかということを予想して、自分の行動を決めようとする
- Bは、Aがどうするだろうかということを予想して、自分の行動を決めようとする
互いに、自分の行動の決定が相手に依存するため、何かはっきりとした行動の指針を得てから行動しようとすると、堂々巡りになって決着はつかない。
で、この堂々巡りはどう決着するか? それは、とありあえずどちらかが何かをすれば、それを手掛かりとして関係を築くことができるということにあります。不透明な他者との間に何かしっかりとした共通の基盤となるものを確保してから行動しようとする(つまり、堂々巡りを解消する)というのではなく、堂々巡りの中から関係をつくっていくことことです。
たとえば、AがBに対して何かしたとする(少なくともBは、Aが自分に対して何かをしたと感じたとする)。このとき、Aの行動は、Bにとって、Aの選択として現れます。つまり、Bは「他にも色々なことができたであろうにAはあえて自分に対して○○を行った」として、そこから、Aに関して、「おそらく〜ということではないか」という読み(予期、思い込み)を立てることができる。それを手掛かりに、BはAに対して何かを行うことができるということになります。そして、実際にBがAに対して何かの振る舞いを行い、それがAにとってBの自分への反応だと受けとれたとき、コミュニケーションの連鎖が開始されていくことになります。
ここでは何が起きているのでしょうか? それは、なんであれ人の振舞は選択として了解できるということによって、選択の連鎖としてのコミュニケーションが立ち上がるということです。
コミュニケーション論の中で、伝達行為は、たとえ何か具体的な意図を伝えなくとも、何かを意図したこと、そしてそれを自分へのメッセージとして送ったということ、なにかを選択したという選択の気配だけは受けとれるという話をしましたが、まさに、そのことが、堂々巡りの状況の中で、関係をつくっていく手掛かりを産むのです。
何であれ、何かが行われると、それを選択として解釈できる。そして、少なくとも「自分に対して何かをしようとしている」という仮定に基づいてその選択を受けとめ、自分がどう反応するべきかを決めることが可能になるわけです。相手の行動がコミュニケーションとして受けとめられるとき、その行動は、次なる行動の選択を可能にするという意味で、行為になるのです。
そして、相手に関する何らかの予期(読み)をもつことができれば、それ以降の出来事は、「その場にふさわしいこと=これまでの展開をふまえた上で何かをしようとしていること」という予期を軸に、予期通りであった/予期が外れた、という観点から意味付けていくことができるようになるわけです。予期にかんする議論のところで触れたように、予期をもつことによって、対象のわけのわからなさ(複雑性)は、自分の予期の確かさの問題へ転換できるわけです。
共在
このように、いったん何らかのコミュニケーションが両者の間に発生すると、それを手掛かりに、行動の応酬が可能になると考えることができます。
この場面で起きていることを、もうすこし詳しく見ていくことにします。
どちらかの最初の振舞によって堂々巡りが破れて事態は動き始める。このように書くと、何か決意をもって最初の一歩をどちらかが踏み出す必要があるかのように感じられますが、実際は、本人にそのつもりはなくても、最初の一歩を示してしまうことがおきます。それは身体的な振舞です。
お互いに相手によって見られていることが分かっている状況では、どのような身体的な振舞も、一つの選択として相手に受けとられる可能性が生じます。何もしないことも含めて、互いに知覚している状況では、いやおうなく振舞は選択になる可能性をはらみます。私たちが身体をもつ存在であるというそのことによって、私たちは他者の面前にいる際には、自分に関する情報を表示してしまっているのです。
また、自分の振舞が選択として受けとられることを自覚することによって、互いに自分の振舞が、何らかの選択として解釈されるであろうという圧迫感を感じることになり、そのことが選択的に(意識的に)振舞うことを強制することにもなります。このように、私たちは、互いに見られているという対面的状況においては、自らの振舞が選択として受けとられること、それゆえに、選択的に振舞うことへの圧迫感のもとにおかれることになります。
ともに知覚している対面的状況のことを、ここでは共在と呼ぶことにします。共在の状況においては、我々はいやおうなく選択的に振舞うことを強制されるわけです。共在という状況がコミュニケーションを強制するといってもよいでしょう。
このことは、何もここで述べているような特別な状況だけで起きるものではありません。日常的に、私たちは、誰かに見られているという状況では、自分の振舞が他人にどう思われるかということを多かれ少なかれ意識せざるを得ません。また、どのように思われるかということは、自分ではコントロールできません。だからこそ、人前で何かすることは緊張するわけです。
共在において振舞は、まずはその動作を行った人間に関する情報として受けとられます。つまり、振舞は何らかの自己呈示として受けとられる。互いに自己というものを呈示している(何らかの自己表現を行っている)ものとして了解されていくことになります。もちろん、最初の段階で受けとられていくのは、印象といったものにすぎません。そこでは、受けとった側の主観的な思い込みであるかも知れないという保留がどこかに潜んだものでしょう。しかし、それは相手の振舞によって生じたものであり、それによって相手に対する予期を作り出していくものになります。
さらに、振舞は、自己に関する情報であると同時に、その場をどのように捉えているかを示した情報としても受けとられます。つまり、「その場にふさわしいことをしようとしている」という規準をもとに解釈されるわけです。お互いの振舞が、その動作を行った者の情報と、その動作を可能にした条件として予想される状況の情報として呈示される。私たちは、他人の振舞をもとに、互いに状況について認識し、その認識を手掛かりに自己の振舞を調整していくことになります。
もちろん、日常的な場面においては、状況の手掛かりが相手の振舞しかないということは、まずありません。具体的な場所というもの、時間、相手の外見等、相手が何をするかに関係なく、状況を示すものとして手掛かりにできるものはあります。ただし、そうした手掛かりというものも、必ず状況をきちんと定めるものではなく、そうした手掛かりをどのように「利用しているか」は、振舞いを通しての互いの選択の突き合わせの中でしか確定できません。周囲の環境のなかから、何が関連し、何が関連しないのかという区別を行って状況という枠組を組み立てることになりますが(状況とは、ある意味で、利用できる様々なリソースに対して関連/非関連の区別を付けることでできあがっているものです)、その組み立ても、最終的には互いの振舞いを通じて確証することになります。
このように、共在の場面において、私たちは、互いの振舞いを通して、相手と状況に対する予期を築いていきながら、それを手掛かりとして自らの振舞を調整していくことで、コミュニケーションを継続することができるわけです。自分が何をしているのか他人にわかるようなかたちで自分の振舞いを調整すると同時に、相手に分かる振舞いを呈示することを通してその場の状況を定義づけまた変更していく、そういう作業を互いに強いられているわけです。それを通して予期を互いに形成し確証しているわけです。
もちろん、予期が一致するとか同じものであることは確認できませんし、また確認が必要ではありません。互いが、自分の予期にしたがって選択し、それが連鎖していく限りにおいて、それでよいということ、それで十分なわけです。暫定的で作業的なものであっても、今自分がおかれている状況と、相手というものに関して、どうすればいいのかが「分かれば」よいのです。
言語
上記の共在の議論は、身体的振舞いが選択として作用する場面を捉えていますが、言葉を話すという状況においても、それが選択として了解されていくということには違いはありません。身体的振舞に関しては、自らの意識的なコントロールが不可能であったり困難であることから、言語による相互行為が行われることによって、共在の状況はより振舞いやすい場になると言えます。
言語による相互行為においては、身体的な振舞には無い、形式的な秩序付けが作用します。言語による会話の場合には、複数の人間が同時に話すことは出来ない、という根源的な拘束条件が働くことによって、順番に話し手と聞き手が交替するという整列化がなされるということ、さらには言葉の使い方(相手の話にかぶせる、続きを受ける等)によって秩序化が生じるという違いがあります。会話においては、言葉が共在への参加を組織化する道具(構造)としても働くといううことがあるのです。だからこそ、言葉による相互行為は、身体的なリアルタイムでの重層的・相互的な調整に比べて、負荷が少ないし、調整がしやすいということが言えるでしょう。
私たちの会話の場面において、言葉を交わすという行為のなかにどのような秩序付けが作用しているかということ(何が話されるかではなく、どのように話すかという次元で、私たちは互いの関係を調整することになっていること)は、会話分析と呼ばれる社会学の研究によって明らかになっています。言語が備えている形式的構造が、それに従わないと発話にならないがゆえに相互行為をひとつのまとまりとして秩序づけること、あるいはどのように発言するか(タイミング、相手の言葉を繰り返す、相手の話の続きをひきうける、言い換えて繰り返す等)によって自らの振舞を選択的に位置づけることがなされていること、などが明らかになっています。伝達行為の次元での選択性の重要性が捉えられているわけです。
日常的場面
こうした、その場にふさわしいことを行うという課題は、一見すると、状況や役割がはっきりしていると生じない問題のようにも思えます。田中が教師であり、ここは教室であり、授業をすることになっているのであれば、田中は迷うことなく授業をすれば良い、というわけです。確かに、行動するにあたって考えなくてもよいことは明確になりますので、選択は楽になるのは事実です。しかしながら、そのような場合においても、「どのように振舞えば今この場で教師として授業をしていることとして受けとめてもらえるのか」という問題は、その場において田中自らが解決しなければならない問題として残っています。つまり、私たちが日常的に行動している場面場面において、上で述べてきたような、振舞いの交換を通して自己と状況の確認を行っていくという作業は、たとえ意識に上らなくとも、行っているわけです。コミュニケーションが行われているとき、常に、作動しているものなのだと言えるでしょう。
自己規制力
これまで述べてきた相互行為(コミュニケーション)の成立場面の議論において、一つの鍵になる想定が持ち込まれています。それは、各人は、何かをするとき、「その状況にふさわしいことをしようとしている」という想定です。この想定を土台とすることで、相手の選択を、自己の呈示と状況の解釈の呈示として読み解くことを行い、それによって相手の選択に応じることが可能になるわけです。
別の観点から言えば、私たちが何かを他人に対して振舞うときには、「その状況にふさわしいようにしなければならない」という圧迫のもとで振舞っているわけです。もちろん、「その状況」がどのような場であるかは、人によって異なり食い違うこともある。しかし、すくなくとも、それぞれの人間が、「ふさわしく」振舞おうとしているし、振舞うことができるという想定が、コミュニケーションの成立の根底にはあることになります。
「その状況に相応しい」というと堅苦しいですが、言い方を変えると、「普通、ノーマル」にしなければならない(普通にできる)ということです。何が普通かは状況が規定するわけですから、その状況にあって普通にすること、というのが、その状況に相応しいこと、というのと同じです。すくなくとも、周囲から普通だと受けとられるように自己の振舞い(と、それを通して与える印象)をコントロールできなければならない、ということです。
このように、私たちは、互いが、ノーマルで無ければならないという指示に従うことをギリギリの足場として関係を築いているわけです。そうした自己規制力があることが、最低限の人間の要件として要求されているといっても良いかもしれません。その意味では、いわゆる道徳というものの最低限の規範をここに求めることができるかも知れません。つまり、「人前ではちゃんとしていないといけない」し、「人はちゃんとしているものである」ということ。これがあるからこそ、互いに選択をすり合わせていくのが容易になるとも言えます。
関係の透明化
コミュニケーションが成立し、応酬が続くようになると、その応酬の積み重ねの経験、つまり過去(履歴)が生まれますので、少しずつ、過去=履歴を手掛かりにもできることになります。過去は、確実に起こったことであり変わりませんから、それを確実な判断基準として用いることができる。もちろん、その過去をどのように解釈し意味付け予期へと繰り込むかは、個人ごとに異なる。しかし、時間の進行の中で互いに応酬を重ねていくことで、互いに相手への予期を絞り込むことになる。行動の応酬、つまりコミュニケーションの連鎖が継続進行していく中で、その履歴(過去)によって、ありうることの可能性が互いに限定されていくことになります。関係というものに対する(関係に基づいた)予期が形成できるということです。
このように、時間が進行して行く中で、非可逆的に出来事が積み重ねられ、その積み重ねが「共有」されるとき、コミュニケーションの安定的な継続が生まれてきます。互いの抱く相手に対する予期が、コミュニケーションを切断してしまうような齟齬をきたさない限りにおいて、コミュニケーションを続けることができるわけです。履歴=記憶の蓄積によって、関係の次元において、互いは透明さを増してくる、と言うことが出来るでしょう。
誰かと親密になるということは、この記憶の共有ということによります。記憶の共有だけが関係を支えるというのは、ある意味であやうい。何か、それまでの経験がもたらした予期を覆すようなことが起きたとき、一気に過去は疑わしいものへと転ずる可能性があります(ずっとだまされていた、ずっと勘違いしていた……)。ですから、関係の安定化のためには、記憶の共有だけではない、なにか制度的な支えがたいていの場合には必要になります。
*なお、恋愛関係のようなものの場合には、記憶の共有以外に、秘密の共有(一定のテリトリーの内側にある限られた情報の開示と受容)が鍵になると考えられます。
他者の不透明性と関係の透明性
たとえ互いに全く不透明な二人の人間が堂々巡りの状況で出会ったとしても、そこに偶然であれコミュニケーションが始まれば、互いに予期を抱き、それを履歴で検証していくことで、予期が整合的なものとなって、コミュニケーションの安定的な継続が生じる可能性があるということです。このとき、互いに相手に対して抱く予期は、相手の真実だとか本当の姿に迫るものかどうかということは関係ありません。とりあえず、相手はこんな人間だ(こんなことを考えている、こんなことをする)と思うことでうまくいくということだけです。つまり、いったん始まったコミュニケーションは、コミュニケーションがそれでうまく行くということだけを最終的な基盤として、そのコミュニケーションを成り立たせる予期を生み出すことになるわけです。
ここまでの話は、言ってしまえば、二人の人間の協働=コミュニケーションの継続は、互いの予期が整合的であることによって成り立つ、という話です。それを最初にいえばいいのに、ここまで回り道をしたのは、予期が整合的になる(一致するということではない)には、何らかの確固たる共通の基盤のようなものがなくてもよいということを確認しておくためです。コミュニケーションが進行を始めると、それが進行して行くことが、コミュニケーションを安定的にする(可能性がある)ということ。二人の人間が互いに不透明であるとき、この不透明さを解消しなくとも、不透明なままで関係を築くことができること、このことがポイントです。
互いに相手に対する妄想を抱いているだけであっても、その妄想が、これまでの両者の間の出来事の履歴と、その都度の相手の行動とによって、「間違っていない」と「確認」でき、自分の行動の手掛かりにできるとき、妄想を抱いたもの同士がコミュニケーションを継続することは不可能ではないわけです。
人格
協働(コミュニケーションの継続)が成り立つには、互いの予期の整合性が成り立てばよい、ということが確認されました。コミュニケーションの継続によって、コミュニケーションに関わる人間に関する予期、その場の状況にたいする予期、さらには関係に関する予期が形成されてくることになるのですが、ここで個人に対する予期というものについて、まず考えておきます。
個人に対する予期というものは、通常、私たちにとっては、「その人らしさ」、人物像として捉えるものです。やや堅い形でいえば、その人の人格(パーソナリティとかキャラクター)として、相手に対する予期を形成していきます。つまり、私たちが他人を「分かる」というときは、その人に対する一定の予期をもつことができるということなわけです。人格というのは、その人に着せられた予期(の束)だと言っても良いでしょう。コミュニケーションの中で、私たちが理解する「他人」とはそういうものです。
通常、私たちは、人格なりパーソナリティといったものは、その人の内面にある何かが(本当の自分)が表面(行動)に現れたもの、として理解しています。不透明さの膜から透けて見える相手の真実、みたいなものとして。しかし、上の議論は、外部からその人に帰せられた予期が人格であるという構図になっています。この違いに注意してください。極端に言えば、自分がどんな人間かということは、周りの人間が自分をどんな人間だと思っているかということである、ということです。これが、コミュニケーションにおける私たちの人格の把握の仕方であるということです。もちろん、コミュニケーションを通じて自己表現を重ねることで、自分のセルフイメージと、相手が抱いている人物像をする合わせていくことは可能です。しかし、コミュニケーションの中で自分の内面にある「本当の自分」が正しいという図式は、通用しない。ちょうど、コミュニケーションにおいて発話者の意思が、受け手の理解の「正しさ」を根拠づけないのと同じことです。コミュニケーションの継続にとっては、相手の人物像(予期)が真実かどうかは問題ではなく、その予期によってコミュニケーションを継続できることが重要なのです。もちろん、自分の理解のされ方が自分のセルフイメージとは異なること(それが異常でも何でもないこと)が、本当の自分探しという泥沼へ自分を追いやってしまうきっかけにはなるかもしれませんが、本当の自分(そんなものがあるとして)を見つけてそれを十全に表現したところで、そのように自分が理解されるかどうかは別の問題であるということは変わりません。本当の自分なんて探している暇があったら、コミュニケーションの中で自己をどう表現するかというセルフ・プロデュースの戦略を考えた方が実りがあるということになるのかもしれません。ともあれ、この講義では、個人の人格とは、コミュニケーションの中で帰属された予期の束であるということを基礎とします。
予期の予期
次に、他人に対する予期というものは、厳密に考えると、予期の予期という形になります。つまり、「その人がどのような予期に基づいて行動するか」ということにたいする予期、相手がもっている予期に対する予期、これが人格的な存在としての人間に対する予期ということです。なぜ予期の予期になるかといえば、人間に自由がある(自由を認める)からです。原則的には自由勝手に行動できるはずの人間が、一定の傾向性を見せるとき、その傾向性(パターン)を予期として捕まえ、人物像を形成するわけですが、その傾向性とは、あくまでも自由であるにも関わらずそうするだろうというというものであり、つまりは行動の基盤となる予期がそういうものだからという理解になるということです。相手の行動を評価する場合、相手が自由意志があるに関わらずそうせざるをえない法則とか限定があるというのであれば、それは人格的なものへの予期ではなく、身体的・物理的な法則(あるいは社会的な制約)への予期、つまり状況への予期になります。私たちが人格(人物像)として押さえるものは、自由意思を持った人間が自発的に行動する場合の傾向性であり、言ってしまえば自由にするときに現れるパターンなわけです。このパターンは、その行動を支える予期によって生み出されると考えるしかない。ですから、人格的な人間の把握は、予期への予期になります。簡単に言ってしまえば、私たちが相手を判ろうとしているときは、相手がどんな予期をもっている人間かということを分かろうとしているということです。
信頼
この相手のもっている予期にたいする確かさの感覚が、信頼というものの基盤となります。信頼とは、その人の行動とその背景に想定される人格(人物像)がブレないという感覚、つまり、その人が、常にその人らしい行動をするだろうという感覚を基盤として抱くものだと言えるでしょう。ここにあるのは、相手は、相手のもっている人格的な予期に従うことへの予期です(話がややこしくなってきてますが)。状況の変化にも関わらず、その人がその人らしく行動するだろうという予期が得られるとき、私たちはその人を「信頼する」わけです。その信頼とは、相手が自分の予期に従うように/外れないように、ある種のセルフ・コントロールを行うだろうという予想とも言えるでしょう。いかなるときもその人らしい人を私たちは信頼する。個人的・人格的信頼とは、相手の中の予期と相手の行動との関連性の強さに向けられています。
先ほど、相互行為の成立の場面において、自己規制力というものに触れましたが、信頼が向けられるのは、この自己規制力であると言えるでしょう。さらに、時間の経過の中での安定性、つまり一貫性が問われるということになります。
信頼とは、その関連性の強さを感じた人が一方的に抱くものです。信頼は、するものであり、されるものであって、してもらうものではない。予期と行動の関連性が信頼というものになるのは、そこに自由が絡むからです。つまり、原則的にはどのようにも行動できるにも関わらず、その人らしくあり続けているということ、自由をコントロールしていることへの予期、それが信頼です。ですから、計算と違って、信頼には、もしかしたら裏切られる(予期が外れる)かもしれないという保留がかならず着いています。そして、信頼し続けていいものかどうか、つねにチェックが働き続けるものです。なお、信頼の反対は不信(信頼できない)ですが、たとえ相手を信じられなくとも、私たちは信じられない人間として扱うことでコミュニケーションの継続が可能です。その意味では、コミュニケーションの継続という観点からすれば、信頼の反対(否定)は、「わけがわからない」(信頼していいのかどうか分からない)ということだと言えるでしょう。
自己表現と役割表現の二重性
私たちが具体的な相互行為を行う場合には、つねに何らかの状況、場の中で行うわけです。ですから、私たちが抱く予期についても、そうした場・状況に関連するものが含まれることになります。共在における議論の中で触れたように、私たちは相手の選択を受けとめる際に、相手がその状況にふさわしいことをしようとしている、という観点から押さえます。ですから、そこから相手に対する印象=予期と、状況の定義=予期とが生じてきます。
そして、状況の予期は、その状況へのふさわしさ、言ってしまえばその状況で担うべき「役割」という形でおさえられます。つまり、相手に対する予期が、一方はその相手の個人的な特質からくると思われるもの(これを人格として押さえておきます)と、他方はその場の状況から来ると思われるもの(これを広義の役割として押さえておきます)との二本立てになるわけです。後者の役割は、その人でなくても同じような状況ならばたいていの人はそうするであろうという予期、つまり匿名的な予期になります。ただし、役割の場合は、焦点はあくまでのその人の置かれた立場というものの想定、つまりこの場のその状況だからにおけるその人の立場というものの想定に結びついたものです。ですから、それ以外の状況に関する予期というものが分かれることになります。たとえば日本人のようだから日本語で会話できるだろうといった一般的な予期は、役割とは別の形で把握されることになります(自分と相手との共通の条件に焦点が向けられるものと言っても良いでしょう)。その場でなくても成り立つような予期、役割が匿名的なものだとすれば、その他の状況というのは匿「場」的なものといってもいいかもしれません。
このように、具体的な状況における相互行為・コミュニケーションの継続においては、相手に対する人格的な予期、相手に対する役割的な予期、そしてその他の状況に関する予期、とおおまかわけて3種類の予期が生まれてくることになり、私たちはこの3種類の予期の形成と確認を経ながらコミュニケーションを積み重ねていくことになります。
個人の行動が、人格的な予期と役割的な予期にわけて処理されていくということは、観点を変えるならば、人のどんな行動であれ、その行動は、人格の表現と役割の表現という二面の表現によって受けとられていくものであるということです。単純に言うなら、どんな行動も自己表現になるし、役割遂行にもなるということです。自己表現は止められない、といってもよいかもしれません。このように二重の表現として私たちは他人の行動を評価し予期を形成するわけです。
ただし、ある行動の、どの部分が人格的表現で、どれが役割的表現なのか、ということは受け手の状況理解次第です。客観的・絶対的な区切りがあるわけでもなく、そうした区切りをつけることが可能でもありません。人格と役割の二面の区別が行われるということは確実ですが、特定の振舞いがどちらで評価されるのかは、コミュニケーションの当事者次第です。
たとえば、100%の自己表現だけといったものはありえません。パフォーマンスのように自己表現だけを目的として行われるものであっても、それが自己表現として読み解かれ受けとられるためには、何らかの枠組みにしたがっている、極端に言えば「自己表現を行っている」という枠組みにしたがっていることが了解されなければなりません。そうでなければ、ただのデタラメになってしまうでしょう。行動が行為として受容されるということは、そこに行為としての連関を成り立たせる「役割」がかならず意味付けられるということです。一方で純粋な役割遂行もありえません。どんなにあらかじめ決められた指示通りの動作を行っている場合でも、「指示通りにまじめに役割を遂行する人間である」という自己表現として受けとれるからです。どのような役割であれ、それが一人の人間によって担われるしかない以上、かならずその担い手の自己表現(自己呈示)になります。このように、具体的な行動は人格と役割という二面で理解され、予期を生み出すことになります。
行動が役割と人格という二面で受けとられるということは、体験・経験の履歴(歴史)が二面的に記憶されていくということでもあります。過去というものを参照することで私たちは関係を安定的なものへと仕向けていくことができるわけですが、その過去が二つに分けられ参照されるということになります。そして役割的な過去というものは、共有された過去として受けとられていくわけです。その場で起こったこと、その場だから起こったことの積み重ねのうちの、場の特有性は、ここでいう広義の役割的記憶として積み重ねられるからです。
予期の安定化=一般化
これまでの講義で確認したように、協働は、関与する人間の互いの予期が整合的であることによって成立します。そして協働が安定化するには、この予期が安定的になることが重要だということになります。
予期が安定的になる、といいましたが、予期がどのようになれば「安定的」だと言えるのでしょうか? 記憶=歴史の共有を経ていくことで、予期はどのようになれば「安定的」になるのでしょうか?
それは、予期が個々具体的な出来事に左右されなくなる(左右されにくくなる)ということです。つまり、色々と細かい例外はあるにせよ、たいていは通用するような予期というのが、安定的な予期ということになります。言い方を変えれば、予期が単純化、無差別化するということです。
個人の人格に即していうならば、「Aのようなことする人」「Bのようなことする人」…… という個別実例の列挙による把握から、「基本的にはやさしい人だ」「面白い人だ」云々という、いわゆる性格の次元で捕まえることができるということに相当します。そうすることによって、多少のブレはあっても、だいたい「その人らしさ」のようなものは分かるし、また、時として予期に反するような行動に遭遇しても、異常な(例外的な)行動として位置づけて流すことができるようになります。このように、なにが「普通」「ノーマル」であって、何が例外/異常なのかという区別ができるとき、それを支える予期は安定的なものになるということができるでしょう。予期が、個別の出来事の記録から、もう一段上の(抽象的な)レベルで形成されるということです。このような予期のレベルアップのことを、予期の一般化といいます。
予期の一般化の3方向
予期の一般化は3つの方向で展開される必要があります。その3つとは
- 時間的一般化
- 内容的一般化
- 社会的一般化
です。それぞれについて見ていくことにします。
時間的一般化
まず時間的一般化ですが、これは時間が変化しても予期を変えなくて済むということです。時間の変化とは何か? それは状況の変化です。状況が変化していくということは、予想しなかったことが起きるということです。つまり、予期に反する、期待外れの出来事が起きていく、それが時間が経つということの本質です。ですから、予期に外れる出来事が起きても、予期を変える必要がない、そういう予期であれば、時間が経つ中で安定的であるということになります。
予期に外れる出来事があっても予期が揺るがないようにするには何が必要か? 予期に反することが起きたときにどのように対処するのかがあらかじめ決まっていればいいわけです。端的に言えば、これは、先ほどの人格の例で話したように、予期に反することを異常/例外として位置づける、ということになります。つまり、たいていは「正しい」が、時として外れるようなことも起こりうる、という形で予期を形成できるとき、その予期が時間的に安定することになります。外れることがあるかもしれない予想というのが、いちばん強い予想なわけです。
もちろん、自分が抱いている予期が間違っていることを認めざるをえないようなことが起きる可能性はあります。予期というのは、根本的には勝手な思い込みですから、思い込みが間違っていることは当然ありうる。ですから、場合によっては予期を変更しなければならないかもしれないが、通常は、たいてい通用するもの、という形を取るのがよいということになります。私たちが互いに体験を積み重ねていく中で、私たちは、このような形で、帰納的に予期を一般化していくわけです。変化しないパターンを抽出しているということですね。以前に話した予期の種類でいえば、予期が規範的なものになることが時間的一般化ということになります。ただし、しつこいようですが、絶対的に通用するものになることではありません。あくまでも、それまでの過去の履歴から推定したものであり、これまではとりあえず通用していたというものでしかないという点は消えません。端的に言うと、どう転んだって予期は予期でしかありえないということです。
だからこそ、各人には自己規制力と一貫性が求められるという圧力がかかっているわけです。
内容的一般化
次に内容的一般化ですが、これは、個々のその都度の出来事の内容に予期が振り回されなくなることです。状況から独立した予期になることです。先ほどの人格の話でいえば、まさに個人を人格としてつかむことです。ある種の役割を想定すること、さらには関係の予期(共有された体験に基づく予期)が作られること、こうしたことによって、予期の内容的一般化が実現します。根本にあるには、何らかの変化しないモノを想定し、それに予期を結びつけるという図式の働きです。
私たちが誰かの人格(その人らしさとか性格とか)を把握するとき、個々の行動は、行動した人間の中にある「その人らしさ」の「現れ」として解釈することで、その人らしさ=本質を想定するという図式で観察を行っています。外側には直接現れていない何らかの本質のようなものが人間の中にはあって、それが性格だとかその人らしさという形で捕まえることができると思っているわけです。この図式を支えているのは、本当に個人の内部に何らかの本質のようなものがあるかどうかではありません。個人の行動がある種の一貫性、傾向性を示すということ、その個人が記憶を備えた「同一性」を担っていること(過去に関するコミュニケーションに応答すること)、これによって、その背後に「変わらない何か」が想定されるわけです。このように、予期を何かのモノ(必ずしも物理的に存在する物ではない)に結びつけることで、予期は、個々の出来事に振り回されにくくなります。
社会的一般化
最後の社会的一般化というのは、相手の内面を考慮せずに予期が妥当すると思えること、です。今、目の前の人間が何を考えているのかを気にしなくても、たとえば友人だからとか、別の指標によって予期の妥当性を前提できることです。協働だと、この部分は、あまり強くはないのですが、組織ではこの方向が強力に働くことになります。
一般に、制度というのは、この社会的一般化のためのものとしてあります。たとえば、車に乗っている人は、皆、免許をもっているはずだし、免許をもっているということは最低限の道路交通法などは理解している。この免許という制度のおかげで、車を運転しているとき、前から走ってきた車を運転しているのがどんな人間かを気にすることなく、曲がり角ではどちらが優先されるかとか、そういうことを予期通りに運転できるようになっているわけです。
もちろん、こうした制度が機能するためには、他者の予期を可視化する何らかの装置が必要になります。自分の勝手な思い込みではないことが保証されなくてはなりません。
また、このような制度的なものの場合、予期に反する出来事が起きたときには、予期に外れた行動の方を悪いと確定できるし、周りもそういう自分の立場を認めてくれるということがあてにできるという、第三者の予期も関係します。他の人が予期している内容を予期する/予期していることを予期する、というわけです。
協働システム
さて、いったん成立した協働が、中断を経て継続する必要が生じた場合、あるいはその協働が一つのまとまりとして他の人々などと社会的な接触活動を行う必要が出てきた場合、協働は協働システムへと転じます。このとき、協働は、名前をもつことで、協働システムへと転化します。名前をもつことによって、中断の後も「同じ」協働として再開することが可能になり、全体として外部との交渉も可能になります。中断の後、ふたたび同じ協働を続けるための条件とは何か? まず同じ人間があつまるということは必要ですが、それだけではなく、協働として「同じ」ものであることを可能にし、確認できることが必要です。それは、協働に名を付け、コミュニケーションにおいて名指せることによって可能になります。コミュニケーションによって名指せることで、過去の協働の記憶を、今の体験につなげることが可能になるからです。つまり、「同じ」協働であることの保証は、履歴(記憶)の連続性によって確保するわけです。履歴の連続性を確保するには、再開の時点で、コミュニケーション(行動)において過去の履歴を互いに参照する必要があるわけですが、当然のことながら履歴のすべて(過去において起こったことすべて)を語り直すことは不可能ではないにせよ、負荷が大きすぎです。そこで関係に名前を付けることで、名指しすることで、参照するわけです。同じ名前の集まりであること、つまり同一性は名前が保証し履歴が裏付け支えるのです(同一性とは、時間の中で、不連続に起きることを「同じ」と認められるということです)。このように、協働が他とは区別できる名をもつことによって、コミュニケーションの中で言及することが可能になり、それによって同一性が確保できることになります。
コミュニケーションにおける名の意義
関係に名前を付ける、それだけのことをなんで大げさに取り上げるのかと思われるかもしれません。しかし、コミュニケーションにおいて、名をもつと言うこと(名指しできるということ)は重要なことなのです。他と識別できる名前をもったものは、その名前をシンボルとして、コミュニケーションすることが可能になるのです。これは何も協働に限りません。私たちがひとりの人間としてコミュニケーションに参加するための条件も、名前をもつこととその名前の記憶を保持することに帰着します。たとえばネットの掲示板では匿名や偽名での参加が可能になっているものがありますが、そこで対話がなりたつ条件は、参加者が他と識別できる何らかの記号と発言を結びつけることと、その記号で名指された時に応えるということです。匿名の掲示板では、発言番号が名前の代わりに機能しているのを見ることができます。以前に話題になった『電車男』でも、最初は 731 という発言番号を名前として使うことで他の人たちからのコメントに答えるということからスタートしています。このように、コミュニケーションの継続において、私たちは、それが本名だろうが偽名だろうが番号だろうがとにかく他と識別できる記号と結びつけることができる形で発言し、その記号への問い掛けを引き受けるということが、ポイントになります。端的に言うと、他の人たちから名指すことができるようになること、です。もちろん、同じ記号=名前としての履歴の連続性(一貫性)が求められます。その連続性が最終的に同一性を支えるのです。名前と履歴(記憶)、これがコミュニケーションの参加者である最低限の条件なのです。
すこし話がそれましたが、協働は名前をもつことによって、一つの他とは区別されたモノとして、協働システムになるのです。そして、名前があることによって、たとえば飲み屋の宴会の予約をしたりできるわけです。名前によって、つながり・まとまりが「一つのモノ」になるわけです。
なお、システムという言葉をここでは何の説明もなく導入しましたが、とりあえず、時間の進行の中で他と区別される一つのモノとしてあり続けるというあり方を指している言葉だと理解しておいてください。協働システムにおいては、参加者とその間での体験の共有が名前をもつことで一つのシステムになっているわけです。
協働が名をもつことによって、役割的予期、役割的記憶が、システムの名前をシンボルとした予期、記憶として整理され参照されることになります。厳密に言うと、この段階で、はじめて役割は役割として、場そのものとは切り離すことができると言えるでしょう。その場がどういう場でありどういう状況を共有してきたかということと(これをシステム的記憶、システム的予期と呼ぶことにしておきます)、その状況の中での位置とその位置で匿名的に「ふさわしい」行動とを、分けることが可能になるからです。こうして、協働システムにおいては、予期そして記憶が、人格的、役割的、システム的、その他の状況、と分化することになります。
協働システムの影響
協働と個人的行動の比較という観点から、二つほど取り上げておくべきことがあります。
まず、協働システムが成立して、それが一つの集まり=まとまりとして意識されるようになると、それに関わる人間にとって、関わり方が二重化します。簡単にいうと、「みなで何をするのか」ということと、「それになぜ自分が参加するのか」ということが分かれます。これは何か共通の目的を達成するために集まっている協働を考えてもらえば分かりやすいのですが、全体でするべきこと(全体目的)と、それに参加することで自分が望んでいること(個人目的)とが分離するということです。この分離は不可避のものですし、基本的には解消不可能なものとしてあります。場なり全体なりが一つのモノになったとき、そのモノと自分との関わりという観点は不可避的に生じるものだからです。目的という言葉がしっくりこなければ、動機と言い換えてもかまわないでしょう。いずれにせよ、参加というあらたな視点が持ち込まれるということです。なお、個人目的と全体目的との分離が悪いことのように言う意見がありますが(たとえば全体のために己を捨てて尽くすのがスバラシイといった話)、あれは間違っています。分離が必然である以上、分離を消去することはできない。個人的行動の場合にはありえない、目的=動機の二重化が協働では生じるのです。
もうひとつ、協働と個人的行動を比較したとき、原初的な管理行動の発生するということがあります。これは、共に協働をする相手への気配りとか気遣いのようなもの、つまり、関係の維持・継続・促進のための行動です。直接に何か「結果」を生むのではなく、間接的に産み出すための行動、と言っても良いかもしれません。相手に声をかける、感謝の気持ちを表す等々、色々な相手への配慮といったものが協働では生じるわけですが、それは根本において、関係(システム)の維持へと向っている。その意味で、こうした行動は、管理行動(経営)であると言うことができます。言ってしまえば、組織の管理の素朴な形がここにあります。こうした原初的な管理行動が生まれるのも、個人が単独で何かを行うのとは異なっている点だと言えるでしょう。