コミュニケーション論
「わかる」こと:意味
この講義のコミュニケーション論の基本的な考え方は、人間のコミュニケーションは単純な情報の伝送ではない、ということにあります。
話し手の人が、思いや意見を言葉という箱に入れて、送り出す。受け手の人は、言葉という箱の中から、送り手の人が入れたものを取り出す。コミュニケーションとはこういう「思い」を送り届けることだと考えるのが普通かもしれません。また、そうした理解で日常生活で困ることはあまりないかもしれません。
しかし、実際に私たちがコミュニケーションを行っている最中のことを考えてみると、私たちは、自分が話したことがうまく伝わったかどうかを、話して聴いてもらったその時点で確認することはできません。他人の意志や精神、心は不透明で、直接に知ることはできないからです。私たちは、自分の発言の後の相手の表情や発言あるいは行動から、伝わったかどうかを推定しています。そして、相手の反応があった時点で、ようやく自分が話した結果が分かる(といっても、あくまで自分が推測するしかないわけですが)わけですから、自分が話すという行動は、その次の相手の行動にまで重なっているとも言える。つまり、実際のコミュニケーションは、一回ずつの行動が繋がっていくというよりは、前後の行動の繋がりの中で、話す−伝わった?がズレるようにかぶさっているとも言えます。このように、具体的な状況を考えてみても、単純に何かを手渡すかのように進行しているわけではない。そこで、私たちのコミュニケーションの具体的な状況や仕組みを、改めてみていくことにします。
コミュニケーションで何かが伝わり分かる。このことを否定する人はいないでしょう。そのとき、何が「伝わって」、何が「分かる」のか、それが議論の焦点になります。そこで、まず、私たちが「分かる」というのはどういうことか、その点を考えてみたいと思います。
意味が分かる
ひとまず「コミュニケーションとはメッセージを伝えることだ」ということで話を始めます。コミュニケーションのメッセージは、伝える内容、伝え方の2つが組合わさったものです。内容の方を情報、伝え方を伝達行為と呼ぶことにします。何らかの情報を何らかの伝達行為によって表現したものがメッセージとして届く。そして、相手の伝えたいことが分かるとは、情報と伝達行為のそれぞれの意味が分かるということになります。
メッセージ:情報+伝達行為
最初に情報が分かる、つまり相手の言うことが分かるということを考えてみます。しばらくは言葉によるコミュニケーションを中心に考えていきましょう。このとき、相手の言葉の意味が分かることが、伝わる、分かる、通じるということです。
たとえば、「友だち」と言われてなんのことか分からない人はいないと思います。あるいは「自転車」といわれてどんなものか知らないという人もいないでしょう。このように、単語であれば、たいていは、それが何を指しているかということが分かることが分かることです。では、「友だちって自転車みたいだね」というのはどうでしょうか? 「友だち」も「自転車」も分かっていても、この文章がどういう意味なのか、すぐに分かるでしょうか? 仲のいい友だちと食事をしているときに、その友人が「友だちって自転車みたいだね」と突然言ったら、あなたはすぐに「そうだよねぇ」と言うでしょうか? たぶん、「どういうこと?」と聞き返して、友人が何を言いたいのか分かろうとするはずです。
このとき、何が分かればいいのでしょうか? 大雑把に言えば、1:なぜ自転車なのか? 2:自転車のどの側面を取り上げているのか? 3;友人のどの側面を言っているのか? の3点ぐらいが鍵になります。そして、このいずれにおいても、「なぜ他のものではなくて、あえて自転車なのか」、「なぜ他の側面ではなくてその点なのか」ということが納得できなければ分かったことにはなりません。つまり、私たちが何かを「分かる」時には、それが何なのか? だけではなく、なぜ他の〜ではなくてそれなのか? という側面も了解できる必要があります。このように、意味が分かるということには、その言葉や文が選ばれたことで何が選ばれなかったのか(言われなかったのか)ということの理解も伴います。つまり、意味というものは、何が示されているかということと、それ以外の他の側面がある(それが何かははっきりしなくても)ということを同時にもったものだということができます。私たちはこのような意味として身の回りのものごとを理解しているのです。
意味が分かる=他でもなく、なぜ〇〇なのか、が分かる。
言葉の重み
そこに現れていないものが示されたものの意味を支えている。このように言うと何かしらややこしい感じがします。そこで分かりやすい(?)例をもう一つあげてみます。
「言葉の重み」というのがあります。おなじ言葉であっても、20歳の人間が言うのと、60歳の人間が言うのとでは、言葉の感触が違う、と私たちは感じる。その違いを「重み」ということで表現しています。この重みとは何か? たとえば、今食べたいものを聞かれたときに、3歳の子供が「母親のハンバーグ」というのと、50歳のオヤジが「母親のハンバーグ」というのは、明らかに、何かが「違う」。この違い、重みの違いとは、結局のところ、先ほど述べた「それを選んだことによって、何が選ばれなかったのか」という部分の大きさ/深さにあります。つまり、否定されたであろう候補が多いほど、重みのある言葉になる。3歳の人間が思いつく食事の種類と、50歳の人間が思いつく食事の種類とでは、50歳の人のほうが多いのが当たり前だと私たちは思います。だからこそ、50歳の人間がハンバーグというと、なにかしら「あえてそれを選ぶだけの理由」みたいなものがあるにちがいないと思ってしまう。ハンバーグとそれ以外の候補との違い=区別が強いもののように感じる。それが言葉の重みの正体ではないでしょうか。私たちは、相手の年齢、性別、外見、役割、あるいは場とか空気とか、色々なものを手掛かりにして、相手の中に想定される選択の幅みたいなものを想定し、それを踏まえて、言葉を受けとっているわけです。
別の例をもうひとつ。『奥の細道』で有名な松尾芭蕉が、宮城県の松島を訪れた際、松島のあまりの美しさを前にして「松島や ああ松島や 松島や」という俳句を詠んだという話があります。これは史実ではなく、実際には芭蕉はそのような句は詠んでいないのですが(江戸時代の狂歌師が作ったものらしい)、そのことはともかくとして、この俳句を芭蕉の句であるとして読んでみる。すると、この「松島や……」は、あの俳句の天才である芭蕉ですらただ名前を呼ぶしかなかったほどの感動を込めた歌として読めないでしょうか? この俳句が、俳句とは5・7・5の音からなる詩であると学校で習ったばかりの小学生が詠んだものであるなら、季語も入っていない、ただ名前の繰り返しの面白さだけの句であると思うでしょう(厳密には季語が欠けているので俳句とすら言えません)。しかし、この句が芭蕉の句だとして読むとき、他にいくらでも素晴らしい表現で詠むことができたはずの芭蕉なのに、ただ名前を呼ぶしかなかったのだ、という句として「現れ」、そこになにがしかの感動(感慨)を呼び起こされるのではないでしょうか? つまり、この「松島や……」という句に現れた言葉自体ではなく、その言葉が形になること/することで「言われなかったこと」「言えなかったこと」の重みを感じないでしょうか? 言葉の意味とは、このように、それが何を言っているのかだけではなく、それを言うことで何を言わなかったのか(否定したのか)ということも含めて、私たちは受けとめているものなのです。
*なお、芭蕉は松島を訪れた際に、その景色のすばらしさゆえに、あえて句を詠まなかった(『おくのほそ道』には記さなかった)と言われています。つまり、俳句を詠めたであろうに、あえて俳句を作らなかったことが、『おくのほそ道』に松島の句のないことの意味であるというわけです。
分かること=選択
さて、このように考えてくると、私たちにとって、意味が分かるということは、単純に受けとった言葉の中に入っていたものを意味として取り出すといったことではないことがわかります。その言葉が選ばれたことによって何が選ばれなかったのか、ということは、当然ながら届いた言葉には現れていません。あくまでも、受けとった側が勝手に想像し思い込むしかないものを含んでいるのです。話している本人であっても、自分がどれだけの選択肢を排除して選んだかを正確につかむことはできないでしょう。
つまり、私たちが意味を「分かる」ときには、一つの選択(=これであって、あれではないもの)として分かる必要がある(本人がどこまで意図的であったかは無関係です)。選択されたものとして、選択されなかったものとの「違い」が分かる必要がある。しかし、そのためには、分かる側が能動的・積極的に思い込みをしなければならないということが含まれる。分かるというのは、一方的な受け身のものではない。何かが分かることとは、「違いが分かる」ことで、その違いを受け手が読み込むものだと言うこともできるでしょう。
とすれば、送り手である他人の言葉の意味を100%正確に分かることは、原理的にありえないことになります。なぜなら、分かることには受け手の積極的な思い込み(極端に言えば妄想です)が必然的に含まれますから。意味は読み解かないと現れないのです。
人間は意味として「分かる」ようになっている。コミュニケーションを通じて送られてくるもの(言ったこと、情報)の意味を分かるためには、受け手が違いの重みを読み込まないといけない。ですから、言われたこと、伝えられたことの中身を100%正確に伝えることはできないのです(そもそも意味が、そのようにして「伝えられる」ものではないのですから)。このことを極端に言うと、人間が100%完全に分かりあうことなど不可能だと言ってもよいわけです。
この講義の基本的な視点として、世界や人間は複雑なものであり、だからこそ、私たちが経験するものは「選択」(他でもありえたなかでの、これ)として現れるということを述べました。意味とは、私たちが経験を選択として了解する仕方なのです。
意味が分かる=選択として了解する
意味は受け手が積極的に読み解かなければ現れてこない
100%正確な理解はありえない(そもそも、そのような規準では捉えられない)
伝達行為
意図
私たちのコミュニケーションでは、何が伝えられたか(情報)も重要ですが、同じぐらいに、どうやって伝えられたかという側面、つまり伝達行為の方も重要です。場合によっては、こちらのほうが大きなこともあります。
たとえば、メールの返事が来ない、というのは何も来ていないのですから情報はゼロですが、来ないということに私たちは反応します。来るべきものが来ないことにメッセージ性を受けとるわけです。先ほどの松尾芭蕉が松島の句を『おくのほそ道』に残さなかったことも、意味をもちます。あるいは、コワイお兄さんに「夜道はきぃつけや」といわれたら、それは夜道の安全を気遣ってくれているという言葉の意味通りに受けとるのではなく、いうことをきかないと痛い目にあわせるぞという脅しとして受けとるべきものです。挨拶なんてものは、言葉の意味ではなく、決められた言葉を言うことが重要です。「おはよう」の意味なんて誰も考えていないでしょう。このように、コミュニケーションについて考えるときには、伝えるという動作の側面も考えなくてはなりません。
通常、私たちは、この動作の側面、伝達行為の意味を、意図として了解しています。なぜ、今、このわたしに、そんなことを、そんなふうにいうのか? それを説明するものが意図とされます。情報の意味が分かっても、意図が分からないと、「通じた」「わかった」とはいいません。
伝達行為の意味=意図
この意図を了解するということには、情報と同じように、完全には理解できないということがあります。つまり、他のやり方があったのに、なぜ、あえて、そうしたのか? ということが「分かる」ためには、何をしなかったのか、誰に伝えなかったのか等々、情報の場合と同様に、否定されたもの・排除されたものとの対比が必要になります。つまり、選択として分かる必要がある。そうである以上は、受け手が読み込む(思い込む)しかないものを伴っているからです。
意図が分かる=選択として分かる=受け手が読み解く必要がある
受け手の側で「これが送り手の意図だろう」と推測するしかないわけで、客観的な意図など知りえないわけです。意図の理解においても、受け手の側の「思いなし」「思い込み」という側面を拭い去ることなどできない。受け手が能動的に読み取ったものとしてしかありえないのです。このように、意図というのは伝達行為の意味を受け手が読み解いた時に「分かる」ものなのです。ですから、意図においても、情報同様に、100%分かることはありえないことになります。
情報同様、意図の100%正確な理解はありえない
ねじれ、言葉のあや
コミュニケーションが情報の意味と伝達行為の意味=意図(情報と伝達行為)の2極からなることが、時として、ややこしい問題を引き起こすことがあります。先ほどの「夜道はきぃつけや」の例に現れるように、情報が意味することと、伝達行為が意図することが、関わり方について相反する方向性を示すとき、どちらに従うのが「正しい」のかという問題です。通常は、意図(伝達行為)の示すものに従うものです。「おまえ、何してるんや!」と怒鳴られたら、それは行為について問われているのではなく、今自分がしていることに対する叱責であると受けとめるのが「正しい」ことは、たいていの人は理解できるでしょう。言い方を変えれば、こうした情報と伝達行為の乖離やねじれを「言葉の綾」としてうまく処理できるようになることが「大人になる」ということかもしれません。また、あえてねじれた表現をすることで伝えられることもあるでしょう。後で述べますが、コミュニケーションに巻き込まれる時とは、それにどのように応えるかを強制されることでもあります。このとき、情報ではなく意図の方が自分の次のアクションの手がかりとして重要だということです。
また、情報の意味と伝達行為の意味は、それぞれが独立したものではなく、交差しあうものです。ある情報を伝達してきたことが、それを伝達することの意味(=意図)を明らかにすることもあります。たとえば恋愛の告白ですね。あるいは伝達行為のあり方や伝達者がその情報の意味を明らかにすることもあります。「夜道はきぃつけや」の例などが該当するといえるでしょう。簡単に言うならば、誰が何を言ったか、という二つの点で受け止める必要があるという、当たり前のことではあります。
情報と伝達行為の意味は交差する
選択の伝達
意図(伝達行為の意味)の場合は、情報の意味とは違って、全く何も分からないということはないところに特徴があります。たとえば、身も知らない人が自分に向って何か分からないことを言ってくる(あるいは意味不明の叫び声を浴びせる)という場合、確かに、なんで自分にそんなことをするのか、はっきりとした意図は分からない。しかし、少なくとも、他ならぬ自分に向って何かを送り付けているということだけは分かる。意図として言葉にできるようなものはつかめなくても、何らかの理由で自分が受け手に選ばれたことだけは、分かる。自分に何かが送られ/贈られたことは分かる。何かはっきりとしたものではないけれども、意図から内容を削り落としてギリギリに残るものだけは受けとることができます。何か分からないモノがプレゼントされたようなものです。そして、私たちはそれに応えることができる。そういう意味では、意図が0%分からないということは無いと言えます。コミュニケーションが伝達行為を含むものである以上、0%分からないということはないのです。
伝達行為の意味(意図)が0%わからないということはない
受け手に選ばれた(何かが送られた)という選択は了解できる
見知らぬ人の話は極端にせよ、犬や猫のようなペットとのコミュニケーション、あるいはまだ言葉を完全にはマスターしていない赤ん坊とのコミュニケーションのことを考えてみれば、情報の意味や意図がこれだとはっきりしない場合でも、コミュニケーションが成り立つ(少なくとも成り立っているという感触がある)のは、このギリギリの送る−応じるという応答が成立することにあるのだと言えるかもしれません。心(意識、精神)があるかどうかも分からないモノ相手であっても、相手が「自分を受け手に選んだ」という選択の痕跡のようなもの(これがギリギリの意図といったもの)が感じられれば、そこにコミュニケーションの回路を設けることができるのです。コミュニケーションの根底には、この贈る/送る−応えるという繋がりがあると言えるでしょう。
送る−応えるという応答がコミュニケーションの回路を開く
受け手になる:メッセージを見出す
コミュニケーションに巻き込まれる
ペットや赤ん坊とのコミュニケーションは、もしかしたら、こちらが勝手にコミュニケーションをしているつもりなのかもしれない。この点に、人間のコミュニケーションの重要な側面が現れています。つまり、送り手に意思や意図がなくても、あるいはそもそも送り手がいなくとも、受け手が勝手に「受けとって」、コミュニケーションが起動することがある、というものです。
言語を介さないコミュニケーションにおいては、このようなことがよく起こります。相手の何気ないしぐさが自分への好意の徴に思えて、その時から相手が気になって仕方がない、というのは勘違いの王道みたいなもんです。あるいは、自分には全くその気がなかったのに誤解されてしまったという経験は誰にもあるのではないでしょうか。
つまり、私たちは、何かがメッセージだと「感じてしまった」瞬間に、受け手になって、受け手としてコミュニケーションに巻き込まれてしまう。身体的なしぐさに限りません。たとえば、机の上に置かれていたエンピツでも、道端に落ちていた石でも、それが「何かを自分に伝えているモノ」=メッセージだという感触が得られた瞬間、私たちは勝手に受け手になるわけです。
メッセージを見出した瞬間、受け手としてコミュニケーションに巻き込まれる
コミュニケーションは二人の間で起こるできごとです。ですから、送り手が何か言った/何かしただけでは、それはコミュニケーションとは言えません。受け手がいて、送り手と受け手との間で何かが「伝わる」のがコミュニケーションです。コミュニケーションには受け手が必要です。そして何かをメッセージだと感じた瞬間、私たちは受け手として巻き込まれる。つまり、その瞬間に初めて、送り手と受け手のつながりとしてのコミュニケーションが成り立つと言えます。何かをメッセージだと感じて、そこに情報の意味や意図(伝達行為の意味)を読み解き始めるとき、受け手が生まれる。人間のコミュニケーションは、このように、受け手が「生まれること」も重要な側面としてあります。
メッセージとは
では、受け手を生み出す(引き起こす)メッセージとはどんなものでしょうか。
コミュニケーション論の最初に確認したように、メッセージとは、情報と伝達行為が一体になったものです。それによって、そこに示されているものが、そこに現れていないものを同時に表すという、二層になったものとして考えることができます。
ですから、何かがただそこにあるとき、それはメッセージではない。そこにあるものが、あえて/わざわざ/よりによって、そこに・そのようにある(そのようにした者がいる)と感じられたとき、私たちはそれをメッセージとして受け止めます。
机の上にただ転がっているチョークは、それだけではただのチョークというモノでしかない。でも、それがわざわざ置かれていると感じられたとき、あるいはその置き方に何か意図的なものが感じられたとき、チョークはただのモノではなく、チョークという情報に何らかの伝達の意図がかぶせられたメッセージとして向かってくることになります。何かに、情報(伝えられているもの)と伝達行為(伝えること)の二側面がある(そこにあるものに、情報と伝達の違いが込められている)ことを感じる、それがメッセージです。
友人が目の前を無言で小走りに通り過ぎていく。それがただ「あいつは急いでいる」と思ったのなら、それだけのことですが、もし「自分と話すのを避けている(逃げている)」と思えると、その瞬間に、「なんでだ?」と頭の中に色々な思いがわき起こってくる。このとき、友人の行動はメッセージとして届き、私に読み解きを押し付ける。受け手になってしまう。こういうことは珍しくありません。友人が「よりによって、わざわざ」(=そうしなくても良いはずなのに)小走りで去っていく。その「よりによって」、つまりわざわざ性の原因=送り手の意図を想定しようというパターンにハマります。このわざわざ性の感覚が、私たちを受け手として巻き込むといってもよいでしょう。
このように、メッセージとは、モノの性質ではなく、モノや言葉に感じられる「わざわざ性」によって見出されるものであると言えるでしょう。このわざわざ性が、私たちに、そのモノや言葉に託された(隠された)意図や、そうした意図を抱いた存在としての送り手を想定させ、その送り手からのメッセージとして受け取り、読み解くことへと巻き込まれる、つまり受け手になるわけです。そのとき、本当に誰かが意図的に行ったかどうかということは関係ない。ただ、受け手に一方的に巻き込まれるということが起きるのです。
メッセージ=わざわざ性をはらんだもの
わざわざ性が受け手へと駆り立てる
わざわざ性=痕跡
このわざわざ性とは、痕跡という言葉でおさえることができます。誰かが、何かをした、その跡、気配、それが私たちをメッセージとしての受け取りへと巻き込む。先ほどの伝達行為のところでの言い方をすれば、何かの伝達行為が行われたという感触です。目の前にあるもの、目に入った動作が、ただそれだけのもの/ことではなく、何か余分なもの、ただのもの/動作との違い(差異)が宿っている感触、ベールの向こうに何かが透けて見えるような感じ、あるいは謎として感じられること。そうしたモノや動作のあり方を痕跡という言葉でまとめておきます。
メッセージとは、根本的には、痕跡である、と言うことができます。そして、私たちは、痕跡に出会った時、それをメッセージとみなし、そこに情報と伝達行為の意味を読み解こうとして、受け手になってしまい、コミュニケーションを起動することになるわけです。
メッセージ=痕跡として読み解かれる(読み解かれた)もの
ですから、メッセージは情報と伝達行為の一体となったもの、という押さえ方は、やや不正確なのであって、メッセージとは、それがメッセージとして受けとられることで、情報と伝達行為の合体として読み解かれることを引き起こすもの、とでも言わなければなりません。つまり、受け手がメッセージとして受けとったものがメッセージあるということです。
送り手からすれば、メッセージは、何かの意図を込めて、一定の意味あるもの(言葉)で送り出すわけですから、情報の意味と意図をくっつけるものという理解でも良いのですが、受け手の立場からすると、すこし事情が異なります。何かをメッセージであると感得することが、意図と情報の意味の一体になったものであると読み解くことと同じことであり、それが本当に誰かが意識的な送り出したものなのかどうかは問題にならない。気付いたときにはメッセージを受けとってしまって、コミュニケーションに巻き込まれてしまって、受け手になっているのです。受け手とメッセージが同時に成立するのです。
送り手として何かをメッセージとして発信・表現したとしても、それが受け手を喚び起こされなければ、発信・表現されたものはメッセージではないし、コミュニケーションも起こりません。いつもと違った種類の服をわざわざ着て会いにいっても、その違いに気付いてもらえなかったら、違った服を着たことは、メッセージにならないのです。
コミュニケーションが成立するためには、受け手がメッセージを見出す(あるものに情報と伝達行為を見出す)ということも重要な条件ということになります。
メッセージが見出される=受け手が生まれることもコミュニケーション成立の重要な条件
言葉の特異性
この点を考えると、人間の言葉というのが、コミュニケーションの手段として特異なものであることが分かります。なぜなら、言葉は、かならず意思をもって用いないと現れてこないものだからです。前に、人間は狂ったサルだから言葉は学習するしかないという話をしましたが、学習するしかないものというのは、別の点から言えば、自然にはありえないもの、意識的に用いなければ出てこないもの、ということでもあります。だから、私たちは、言葉であれば、送り手(話し手、書き手)が、意図的にメッセージを発したことを確実な前提として、受け手になれる。もちろん、例外的な事例はあります。しかし、言葉に「出会った」時には、ほぼ確実に、そこに意図と意味が込められていることを前提にできる。単なる生理的な反応ではないことを確実に前提にできる。言葉とは、こういう点で、特権的なコミュニケーションの手段であるわけです。
言葉はメッセージであることが確実な特権的な手段
間で起きる出来事
このように考えてくると、コミュニケーションというものは、二人の人間の間で起こってしまう出来事である、と捉えることができます。どちらの意思によっても完全にコントロールすることができないもの、ということです。誤解が起きたとき、私たちは、どちらかが「正しく」、どちらかが「間違っている」という図式で捉えますが、現実のコミュニケーションのただ中においては、どちらも「正しい/間違っている」わけではなく、ただ何かが起きているとしか言えない。あくまでも、後から、それが誤解だったり早とちりだったと位置づけることができるだけです。
このように、間で何かが起きてしまうのがコミュニケーションですから、コミュニケーションとは社会的なものである、と言うこともできます。他者がいることによって、自分の意志だけではどうしようもないことに切実に巻き込まれてしまう、それが「社会的なもの」です。私たちの社会の体験とは、コミュニケーションの体験であると言ってもよい。
コミュニケーション=社会的体験
コミュニケーションって?
ここまでコミュニケーションについてあれこれ考察してきて、コミュニケーションが単純な意思の伝達ではないことは了解してもらえたのではないかと思います。では、コミュニケーションとは一体何なのか?
これまでの話をまとめると、コミュニケーションは、情報(意味)と伝達行為(意味=意図)とメッセージの見出し(メッセージとして理解し、メッセージを理解すること)の3つの要素が一体になった出来事である、ということになります。
情報として何が伝えられているか、伝達はどのように伝えているか、そして何かをメッセージとして見出し(=それをメッセージであると選択し)意味を読み解くか、それが合わさったものがコミュニケーションという二人の間の繋がりを作り出します。二人の人間の間でこの3つの要素が一体となるようなことが起きることがコミュニケーションである、というわけです。
この3つの要素は、いずれも、違い(差異)と選択が関係しています。何を伝えて/何を伝えなかったのか、どのように伝えたのか/伝えなかったのか、メッセージ=痕跡を見出した/見出さなかった(さらにそこにどのような情報と伝達行為の重なりを読み取ったのか)。この点で、突き詰めて言うと、コミュニケーションとは3つの選択の統合であるといっても良いでしょう。
コミュニケーション:二人の間で起こる、情報・伝達行為・メッセージの見出しの3つの選択の統合
ただし、メッセージは、あくまでも受け手が情報と伝達行為の2層の統一を見出すものであって、見出されない限りは、メッセージではありません。先ほど痕跡という言葉を使ったのは、メッセージには意味そのものが宿っているわけではなく(意味というものからしてそのようなものではないわけですが)、あくまでも意味を読み解かれるべきものしかないということです。
ですから、コミュニケーションは必然的に誤解の可能性をはらんでいます。メッセージが見出され、コミュニケーションが起こり、応答として次のコミュニケーションが起こる、このようなコミュニケーションの連鎖が成り立って、とりあえず問題なく進行している時に、読み解きが「正しかった」とされているのです。
これで、とりあえずコミュニケーションとは何かということまで辿りついたのですが、コミュニケーションに関して、さらに考察しておくべきことがあります。
行為として観察される
まず、コミュニケーションは、行為として観察される(コミュニケーションの中で取り上げられる)ということです。コミュニケーションが先行する(過去の)コミュニケーションを取り上げるとき、本質的には間で起きた出来事であるコミュニケーションを、送り手が情報を伝達した行為として整理し、言及することになります。私たちは、この「誰かが何かを何らかの方法で伝えた」という形でしか、コミュニケーションについてコミュニケーションできません。だからこそ、私たちは、通常、コミュニケーションとは、送り手から受け手への情報伝達行為であると考えているわけです。そして、この図式の中で誤解なり食い違いなりといった形で問題が整理されたりするわけです。
原理的に考えれば、コミュニケーションは、送り手と受け手のどちらにも属していない出来事です。しかし、時間軸上で確定できる行動を中心にすることで、送り手の行為としてつかむのです。行動に「付着させる」ことによって、過去の時点として参照(言及)可能になります。このように、コミュニケーションを、伝達行為(行動)を軸として整理し補足していくようになっています。間で起きる出来事が、送り手に帰属させられた行為になります。
伝達行為として理解されるということは、コミュニケーションが続いていく時に、時間の流れの中でコミュニケーションが起きた時点が定められ、そしてつながりとして並べられていくということでもあります。こうして、送り手から受け手へ何かが「伝わる」ことが並んでいくことが、私たちにとってのコミュニケーションというものの理解になります。「伝わる」とは、実際は、これまで見てきたように、送り手の選択と受け手の選択が一体になるということなのですが、あえていうならば、選択が伝えられ、それが次の選択を引き起こしていくということです。伝わるものは選択であって思いではない。しかし、選択を受け止めることで受け手は意味を読み取って受けとるわけですから、そこでは意味が伝えられていると見ることもできます。そうすると、冒頭で否定した、送り手から受け手に伝えること、としてコミュニケーションが捉えられ語られることになります。つまり、伝送モデルとは、起こってしまったコミュニケーションを後から整理した図式であり、あとからコミュニケーションで取り上げることのできるための図式といってもよいでしょう。
コミュニケーションは送り手の行為として記憶・記録され、言及される
コミュニケーションが送り手の行為として理解される、このことは、当たり前のようで重要なポイントを示しています。つまり、私たちは、コミュニケーションについてコミュニケーションできる。過去のコミュニケーションをとりあげて今の話題にすることができる。過去のコミュニケーションについて「なぜ?」と問い直すことができる。そのことによって、意味や意図について語り直すことができるようになっているわけです。その都度のコミュニケーションで起こってしまったこと(誤解した/された、傷ついた/傷つけられた等)を無かったことにはできませんが、それについてのコミュニケーションを行うことで意味付けを書き換えていくことはできる。
二人の間で起きる出来事が、送り手の行為として記録・記憶されることで、あとからその出来事=コミュニケーションについてコミュニケーションできるようになっています。
行為として記憶・記録されることで、コミュニケーションについてコミュニケーションできる
大げさに言えば、人間のコミュニケーションは、いつも問い返されることに対して開かれた、未完了のまま進行していくものなのです。コミュニケーションによるトラブルはコミュニケーションの継続によって書き換えることができる可能性がある。ここに人間のコミュニケーションの特徴があります。
ですから、コミュニケーションを行うということ、コミュニケーションを続けていこうとすることには、常に「なぜ?」と問い返される可能性があることを覚悟し引き受ける必要があります。いつか分からないが、自分の行為として記憶されるコミュニケーションに対して「なぜ?」という問い返しがなされる。それに応えることが、応えることができること、これがコミュニケーションの中で関係を作っていく人間として負うべき責任(responsibility=応答可能性)であると言うことができるでしょう。
コミュニケーションを行う者の責任=応答可能性(responsibility)
コミュニケーション自体に目的はない
私たちはコミュニケーションによって分かり合ったり合意をとりつけたりします。しかしながら、こうしたことはあくまでもコミュニケーションに関与する人間が、コミュニケーションを手段として、あるいはコミュニケーションの結果として、得られることであって、コミュニケーションそのものには、理解や合意といった目的はありません。けんかの継続であっても、非難の応酬であっても、誤解の積み重ねであっても、コミュニケーションです。コミュニケーションは、続くか途切れるか、それだけです。あえてコミュニケーション自体に宿っているものを挙げるならば、それはコミュニケーションが継続するとき、そこに関係が、つまりは社会的システムが生まれてくるようになっている、ということでしょう。
コミュニケーションそのものには目的はない。続いているか否かだけである。
+1の選択:さらなるコミュニケーションの起動
もう一つ、コミュニケーションでの意味の了解と、受容とは違うということも押さえておく必要があります。ようは、言われたことや意図が分かることと、それを受入れること(それを受けて何をするのか)は違うという、まぁ、当たり前のことです。つまり、コミュニケーションにおいては、受け手の選択(聞き入れるのか、従うのか、信じるのか等々の選択)が関与して、そして次のコミュニケーションへと接続していくことになるということです。
このことは当たり前のことののようですが、コミュニケーションの進行を考えるときに重要なポイントになります。つまり、コミュニケーションとは受け手に、さらなるコミュニケーションの選択を迫るものであるということだからです。先ほど、コミュニケーションは3つの選択の統合であるとしましたが、そのコミュニケーションはさらなる選択を迫るという点を考慮すると、コミュニケーションとは3+1の選択の統合ということができます。
コミュニケーションの受け手になったとき、そしてどうするのか、なんらかの選択をせざるをえない。否定するにしても肯定するにしても、いったん聞いてしまったら、聞かなかったことにはできない。受け手は選択するものだとみなされる。もちろん、聞かなかったことにするということも選択としてとらえられます。無視することもコミュニケーションになる。いずれにせよ、何らかの情報が何らかの行為によって自分に指し向けられた時には、何かは行うことになります。誰かに贈り物をもらったら、誰からのものであれ、何であったにせよ、お返しをしなければ気持ちが悪い。それと同じで、送られたら/贈られたら、応えざるをえなくなる。先ほど、伝達行為の話の中で、コミュニケーションの根底に送る−応えるがあると言いましたが、応えるとは次のコミュニケーションの送り手になることです。
ただし、どのように反応するかはコミュニケーションが強制することではない。否定するにせよ肯定するにせよ、あるいは無視するにせよ、コミュニケーションを行う(送り手としてのアクションを起こす)ことを強いられる。受動的・応答的に主体化されてしまう。
このように、コミュニケーションとは、送り手から受け手への選択の強制として捉えることができる。この典型的なものが、恋愛の告白というやつです。「自分の気持ちを伝える」というのは、自分の気持ちを情報として提供するということではなくて、その情報を受けとって自分との関係に選択(恋人として付き合うのか否か)を迫るものです。この選択を迫られることによって、受け手は、なんらかの次のコミュニケーション(反応)をせざるをえないわけです。そのことが、コミュニケーションの継続・進行を生み出します。コミュニケーションには、さらなるコミュニケーションを産み出す働きがあるといってもよいかもしれません。この点も、私たちの人間のコミュニケーションを考えるときには重要なポイントになります。
コミュニケーションは受け手に選択を迫り、さらなるコミュニケーションを起動する
コミュニケーションは繋がりを孕んでいる
メッセージに応じてコミュニケーションの送り手になる、その時には、自分がメッセージで読み解いた意味を踏まえつつ、自分の発するメッセージが相手に理解され、望むような反応(その次のコミュニケーション)が生まれるように言葉なり行動なりを選ぶことになります。送り手としてコミュニケーションに関わる場面を考えると、あるコミュニケーションは、その前のコミュニケーションを踏まえつつ、その次のコミュニケーションを予想しつつ行うものとしてある。
送り手として何かを言おうとする時、自分の言葉が痕跡として読み解かれるしかないものだからこそ、真剣に伝えようとすればすれば、逆に言葉がスムーズに出なくなるといったことが起きます。思ったままをそのまま言葉にすることは、もし目の前にいる相手に聞いて欲しいならば、できないのだといっても良いでしょう。相手に分かるように話したいということが、目の前にいるこの相手に分かってもらうためには、今、この状況の中で、どのように言葉を選ぶかという圧力になる。そのとき、受けとったメッセージ、あるいは聴き手がどのように受けとるかという予想、どんな反応が起きるか、あるいは起きて欲しいかという予想、そうした様々な要因が重なり合う中で、言葉が口に上ってくる。それは頭の中で思っていたとことをそのまま放り出した言葉ではないはずです。思いをそのまま手渡すことなんかできないからこそ、言葉を選ばないといけない。
そして、聞き手(受け手)も、送り手が自分を前に言葉を選んでいることが感知できるとき、そこに強く巻き込まれる。あらかじめ用意された原稿を目の前でただ読みあげられる時のライブ感の無さとは、そこにあります。ライブ感とは、自分(自分たち)がそこにいることが相手のコミュニケーションになんらかの影響を与えていることをリアルタイムで感じられる、他ならぬ自分が聴いていることを確認できるということ、そういうことですから。
このことは、私たちがコミュニケーションを行っているとき、メッセージの意味と意図の中には、そのコミュニケーションが行われている状況や人や経緯といったものが織り込まれ、確認されているということでもあります。極端に言うならば、あなたがそこにいて・わたしがここにいること、を互いに確認しあい、認めあうことが、メッセージを通して行われているわけです。テーマや記憶によって、その都度、コミュニケーション、メッセージ、あるいは予期の妥当性を確認することが行われている。この点でも、コミュニケーションが単なる情報の伝達ではないことが分かると思います。
このように、コミュニケーション自体に、繋がりの連続を生み出していく動きが孕まれていると言えるでしょう。コミュニケーションはコミュニケーションのネットワークを生み出そうとする。何かの受け手になってコミュニケーションに加わる、そのことで次のコミュニケーションが生まれる…… そこから人はお互いに分かり合い、関係が生まれていくことになる。コミュニケーションの連鎖が起きていくことで、そこから社会的システムが生まれてきます。このことは恊働論で考えることにします。
コミュニケーションは社会的システムを生み出す