So What?:バーナードの組織論をどう読むか?

福井県立大学・経済学部 田中求之

Version 1.0a2 (Last Modified: August 28, 2008)

はじめに

このページは、経営学(経営組織論、経営管理論)の古典であるチェスター・I・バーナード(Chester I. Barnard)の『経営者の役割』(The Functions of the Executive)を中心にした、バーナードの組織論についての解説である。田中求之が福井県立大学・経済学部で担当している経営組織論の授業の補助教材として作成した。田中の講義はバーナードに沿ったものではないが、組織論、特に経営という観点からの組織論の入門書として、また参考書として、田中は学生に『経営者の役割』を紹介するようにしている(たいていの学生は『経営者の役割』を手に取って読んでみようとして、諦めてしまうわけではあるが)。関心をもった学生に対して、今、田中はバーナードの理論をどう考えているのか(バーナードをどう読んでいるのか)を述べておくのがこのページの目的である。

バーナードのテキストについては、すでに別に参考資料となるページを作成し、公開してある:

また、田中の組織論の講義ノートなどは、「経営組織論」等としてすでに公開してある。

このページでは、バーナードの主要概念を取り上げていくトピック形式でコメントを書いていくことにする。ここに書かれているのは、あくまでも田中の個人的な考えであることには注意して欲しい。バーナードの読者や研究者からみれば、読みや解釈が誤っていると感じられる箇所も多々あるに違いない。あくまでも、各自が自分でバーナードを考えていく際の、ひとつのたたき台(ネタ)として読んでもらいたい。

作業を続けながら、随時更新していくことにした。現時点では、1.0a でまだ未完である。取り上げるべき項目のすべてについて一通りのコメントが書けた段階で、v1.0b 、そして推敲を行ってから 1.0 にする予定である。

作業履歴

2008年04月30日作業開始(1.0a)
2008年06月23日1.0a2
2008年08月21日「チェスター・バーナード『組織と管理』を読む」」へのリンクを追加
2009年02月24日チェスター・バーナードへの散歩道」の公開にあわせてリンクを修正

テキスト

テキストとして使用・引用したのはチェスター・I・バーナード『新訳 経営者の役割』(山本・田杉・飯野訳、ダイヤモンド社、1968)と、Chester I. Barnard "The Function of the Executive" (Harvard University Press, 1938) である。訳文は一部変更を加えてある。

So What?

組織と協働システム

組織を「意識的に調整された人間の活動や諸力のシステム」と定義するバーナードの組織論の一つの特徴は、組織には人間を含めないとしたことにあるのは間違いない。人間やその他の具体的な存在物を含めた、我々が一般に組織という概念でイメージするものはバーナードでは協働システムにあたる。主著の成立過程の影響から、『経営者の役割』の記述では、組織と協働システムの厳密な区別が崩れている箇所もあるのだが、本質的には、組織は人間の活動や諸力のシステムとして押さえられている。つまり、一般に組織と言われるものは多様な形態で存在しているが、そのどれにも共通な本質部分を組織という概念で押さえたわけである。

組織に人間を含めないということから、組織というものが、人間活動(コミュニケーション)の多様な広がりと繋がりの中で成り立つものだという視点が得られる。だからこそ、バーナードはメンバーではなく貢献者という概念で組織の素材となる活動の提供者を押さえることになるわけである。メンバー以外の人間の活動も組織の素材となるわけである。組織はメンバーの活動だけによって成り立つものではない、と言い換えることによって、この組織概念のもつ意義ははっきりするだろう。

ただし、そのことは、逆に、システムの境界というものへの意識を弱くするともいえる。具体的には、メンバー制度の意義と意味が語られることはない。

さらに、組織が活動のシステムであるならば、組織は経営者のマネージメントの直接の対象ではない、ということになる。経営の対象は協働システムである。協働システムをマネージメントすることによって、組織を成立させ維持させるわけである。いささか安易な比喩ではあるが、食事・睡眠など人体の管理とコントロールによって、我々の「生命」が存続しうる(生命そのものは管理できない)のと同じだというわけだ。

貢献、貢献者

バーナードは組織を構成する活動を「貢献」として押さえ、その提供者を「貢献者」とする。普通に考えれば、貢献者が貢献することで組織が成立する、ということになるだろうが、組織は諸活動の連鎖として成立するものであるということを厳密に踏まえるならば、組織という活動の連鎖が成立しているとき、その連鎖に組み込まれた活動が貢献になり、その活動主が貢献者として認定され、貢献の主体として帰属される、ということになるはずだ。諸活動の集合が組織なのではなく、あくまでも一つのシステムとして諸活動の連関が成り立たなければならない。他者とのあいだの行動の連関、つまり組織的な行為としての捕捉がなされた活動が、貢献というわけである。

つまり、なにが貢献であるのかは、システム側で決定される。システムが自身の構成要素(構成素材)として取り込んだ活動が貢献であり、それがどのような貢献であるのかは、システムの側が規定するわけである。このように、社会的・組織的な意味付けがなされた活動が貢献であると考えるべきであろう。端的に言うならば、組織とは貢献のシステムである。

組織を貢献のシステムとしてとらえるということは、上記の組織の定義のところでも触れたように、メンバー以外の活動も組織の構成素材としてとらえるということである。このことから、組織は、メンバー以外の多くの関与者、つまりステークホルダーとの関係のなかで存立しうるシステムであるという観点に立つことになる。また、組織の定義の中に現れていた「諸力」という概念を踏まえるならば、ステークホルダーさらには社会全体を成り立たせている環境全体も、組織の存立にとって重要であるという見方になる。つまり、貢献者のシステムという概念を中心に据えることによって、いわゆる企業の社会的責任の問題や、ガバナンスの問題、さらには環境問題へと繋がる視野を得ることができる。このように、バーナードの組織概念は、エコシステム、エコロジーシステムの中ではじめて存立し得るシステムとして組織を考えることを可能にする(バーナードのシステム観が存在論的なシステム階層モデルになっていることも関連するだろう)。

ただし、どんな概念にも、その概念に固有の盲点(あるいは相対的に陰になる部分)が存在し、バーナードの組織概念の場合は、先にも述べたように、メンバー、帰属、境界といった問題が視野からは隠れてしまう。

組織の3要素

「組織の要素は、(1)コミュニケーション、(2)貢献意欲、(3)共通目的である。」とバーナードは述べる。これが組織の3要素と呼ばれるものだが、要素というタームが不用意な混乱をもたらす。日本語の要素には、物事を成り立たせているもの(構成素材)という意味と、物事の成り立ちに関与するもの(成立条件)の二つの意味があるからである。ここでバーナードがいう要素とは、組織を構成しているもの(構成素材)のことではない。組織の構成素材は貢献である。組織の3要素とは、組織を成立させるための社会的・人間的条件の方の要素である。よって、組織の存立条件と呼ぶのが良いと田中は考える。単なる言葉の問題ではあるが、不用意な混乱を避けるためである。

さて、この3つの成立条件は、何もないところに人為的に組織(協働システム)を作り出すときの条件として読む限り、違和感はない。何か目的を掲げ、それに協力する意欲のある人を集め、互いにコミュニケーションを行って協働を遂行していく、するとそこに生まれてくるのは組織である。しかしながら、貢献のシステムとしての組織を成立させる条件としては、限定されすぎている。

組織というものが貢献のシステム、諸活動のシステム的連携の成立であるならば、それは相互行為の継続的連携によって可能であり、相互行為の継続に必要なのは、個々の関与者の自己了解が互いに齟齬を来さないことが最低限の条件になる。つまり、互いの活動の意味や意義などに関する理解の共有がなくとも、活動の連鎖は成り立ちうると考えることができる。とすれば、共通目的よりも一般的な条件設定が可能だと言えるわけだ。互いに関係の継続の意欲があり、互いの思惑が齟齬を来さない限り、組織は成立するのではないだろうか。つまり、何かを共有しなくとも、互いの思い(了解、期待)の整合性がなりたてば、そこに組織は成立しうる。その意味で、共通目的(の受容と共有)よりも、もう少し広く弱い条件を設定しうると考えられる。

もちろん、バーナード自身、共通目的でがちがちに縛る必要がないことは理解しており、最終的には共通目的が存在していることだけの理解で組織を存立させうると述べている。

また、目的というものが、互いの思いの整合性を測るのには強力なものであることは間違いない。目的−手段という図式による理解は、人間が複雑な状況下で行動していくための強力な手段である。我々が他人の行動を理解したいときに何を目的としているのか(=動機)を理解しようとするのは、それが一番手っ取り早く対応しやすい理解方法だからである。しかしながら、だからといって、組織には目的が不可欠であるとか、目的が組織の本質的な存立条件であるというのは、すこし限定しすぎではないか。

有効性と能率

有効性は目的の達成度、能率は貢献者の満足度である。協働システムのレベルでみる場合は、能率は各貢献者の満足を満たすことができたか(貢献の継続意欲を保てたか)ということになるのだが、いずれにせよ、活動を評価するにあたっては、単に目的がどれだけ達成できたかだけではなく、その活動によって各個人は満足を得たのかということも重要だとする。言い換えるならば、人間の活動は合理性と人間性の両面で評価する必要がある、というわけである。

能率という概念によって合理性だけではなく人間性という視点も不可欠であるとしたことに意味があるわけだが、観点を変えてみるならば、能率とは、組織の存続問題の解決度を測定するものであると言える。

人間の単独行為の能率を論じた箇所でバーナードが言うように、行為は必ず求めざる結果をもたらすゆえに、行為の結果を目的合理性だけでは評価できない。これは、目的達成行為だけでは組織は存続し得ないと読み替えることが可能である。求めざる結果とは、目的の観点から環境のすべての影響を処理することはできないことを意味しているからだ。つまり、組織なり協働システムなりは、存続のために環境に対処するという問題を抱えており(変動する複雑な環境のなかで活動を行う以上、当然のことである)、その問題をすべて目的達成のための貢献によって解決できないということである。目的が環境の複雑性を限定し抽象化することによって活動は可能になるわけだが(これはバーナードの戦略的要因の議論でもある)、限定し抽象化した環境はあくまで活動主体の「主観的な」像でしかなく、現実の活動においては、往々にして思いがけなかったことが起き、それに対処しながら活動を行わざるを得ない。つまり、なんらかの目的達成を試みる限り、かならず思ってもみなかったことや求めていなかったことが起こり、組織は存続のためにそれに対処せざるをえない。この存続問題への対処が、能率によって測られるわけである。

このように、組織や協働システムは、存続問題に対処しなければならないということ、そしてその問題は個々の貢献者が具体的な活動を行う場面で解決しなければならない問題として現れる(事前に予測可能であったり想定可能な事態であれば、協働システムとしてあらかじめ対処を計画できるが、そうではないことが多々ある)からこそ、個人の満足として測る(それも、最終的には貢献が存続するか否かという形でしか測れない)のだと言える。

組織人格と個人人格

バーナードの組織論には二重性や二元性(二項対立)がよく現れるのだが、この組織人格と個人人格もそうした二重=二項概念のセットである。簡単に言えば、組織の役割に規定された、役割を担っているもの=組織に関与するものとしての人格が組織人格、組織に関わらない個人的な全人的存在としての人格が個人人格である。組織に貢献する活動を担う場合、その担い手はまずは組織人格として認知されるが、その組織人格は、その人が組織に関わる限りにおいて(特定の役割を担う限りにおいて)「現れる」ものであって、その人本来の人格は個人人格として現れる。

通常の行動においては、どんなに役割的な行動に徹していようとも、その担い手の個人に関する表現を逃れることはできない。その意味で、組織に関与する行動においては、各人は組織人格と個人人格の二重の人格表現を行っている(二重の人格的存在である)わけである。

そして、組織人格と個人人格の二重性にまず対応するのが、組織目的と個人目的の二重の目的である。つまり、組織に関与する行動は、組織目的の実現のために行動するのであるが(行動の目的→組織目的)、なぜその行動を行うかと言われたら、最終的な報酬などを得る等の参加の動機は別にある(行動の動機→個人目的)。行動の目的と参加の目的が分離し、二重化しているわけである。これはどのような協働においても生じることであり、組織目的と個人目的が一致するのは特異な状況(協働)である。また、組織目的=個人目的となるのが理想的な状況なのではない(むしろ動機の一般化がもたらすメリットである柔軟性を活用できなくなる)。このように、組織に関与する行動は、組織目的と個人目的の二重の目的のもとでの行動になっているのである。組織人格が組織目的、個人人格が個人目的に対応することは言うまでもない。

さらに、この二重性の系列は、公式組織と非公式組織につながることになる。バーナードは、公式的な目的=組織目的を実現するために、各人が貢献(組織的活動)を行う時に成立するのが公式組織であり、そうした組織人格以外の側面で他人と関わることで生まれてくるのが非公式組織だとする。つまり、組織人格は公式組織での活動、個人人格は非公式組織での活動、から捕らえられ観察されるものになる。

さらには、バーナードのリーダーシップの技術的リーダーシップと道徳的リーダーシップの区別も、組織人格、個人人格の二元論に連なると考えることができる。

このように、バーナードの『経営者の役割』の中には、以下のような二つの系列があって、そのバランス&統合が組織管理だとされるわけである。

権威受容説(権限受容説)

バーナードの組織論の中で、人間を含まない組織の定義とならんで、有名な議論の一つであると言える。

簡単に言えば、組織において上司の命令によって部下が動くのは、あくまでも命令を聞き入れて行動してくれる部下がいる(命令を受容する存在がいる)からこそである。その意味で、上司の権威とは、あくまでもその権威が成り立っているかのようにコミュニケーションが成立するからこそ(上司の命令を命令として人々が受容する)であるからである。このように、権威は命令伝達というコミュニケーションが成立することによって成り立つものであり、権威があるから命令が受容されるのではない。これを権威受容説(権限受容説)という。端的に言えば、命令は聞いてもらってはじめて命令なのだ、ということ、一般化すれば、コミュニケーションは受け手がいてこそである(聞いてくれるひとがいてこそ)。

このように、権威は受容にもとづくということになれば、組織において命令や伝達がスムーズに遂行されていく状況は特殊な状況ということになってしまう。命令や伝達の度に、受け手は受容するべきかどうかを判断することになり、そこにおいてタイムラグや受容拒否が生じてしまう可能性があるからだ。それに対して、バーナードは、通常の組織では、人々は、権威があるから命令を受容するという権威上位の考え方(これは事実に反するという意味でバーナードはフィクションだとする)を受入れて、それにしたがっているからだとする。その理由として、一定の範囲の命令は判断することなく受入れられるという無関心圏が成立するということや、責任転嫁などをバーナードは挙げる。

この権威受容説は、ビジネス書的な言い方にあえてパラフレーズすれば、<人の上に立つとは、人を動かすのではない、人に動いてもらうのだ>という人の上の立場に立つ(部下を持つ)人間への戒めの議論になる。実際、人間は機械や部品ではないのであって、どんなに決まり切ったことであっても、最終的な行動の次元として実現されるには、その担い手個人の判断や裁量が関与するのが人間である以上、命令や伝達は、聞き入れられ行動の次元で実現されなければ(実現されるようなものでなければ)意味がないわけである。

命令が聞き入れられなかった時、部下が命令に従わなかったのか(意図的逸脱)、部下は命令に従えなかったのか(命令内容の理解不能、指示が不明瞭、非現実的、独断的。あるいは部下の能力を超えたことを指示した……)の違いすら気にしないような人間は、人の上に立つべきではないだろう。こうした、多くの教訓的なアドバイスを引き出せる議論になっている。

しかしながら、公式組織に関する議論としては、バーナードの組織論の歪みが最大限現れたものだと考えることができる。歪みというのが言いすぎだとしたら、盲点といえばいいだろう。

それは、公式組織の関与者としてのメンバーという概念(メンバー制という装置)の意義を軽視したことである(そのことが、貢献者という別のパースペクティブを可能にしているのだが)。

通常の組織的活動において、上司や同僚からの伝達や指示、あるいは命令は、確かに無反省的に受入れる。何が伝えられたかよりも、誰が(どのポジションの人が)伝えたのかの方に関心は行く。この状況は、バーナードの言う権威上位説(というフィクション)が機能している状況であるといえる。この状況を権威の観点からみると、内容や発話者個人に無関係に伝達・指示がコミュニケーションされるという権威の一般化が成り立っているということである(一般化した権威を彼は客観的権威としておさえる)。また、受容者の観点からすれば、公式的な伝達は発話者個人や発話内容に無関係に受入れる態勢にあるという動機づけの一般化が成り立っているということである。つまり、バーナードが権威ア上位説と無関心圏によって記述した状況とは、権威と動機の一般化が成り立っている状況である。

そして、このことは、組織のメンバーは、メンバーとして組織に加入する際に、そのような動機づけの一般化と権威の一般化の状況を引き受けるからだ、というのが、通常の組織において起こっていることである。ある会社の新入社員になるということは、相手がどんな人間か知らなくても、自分の上司の位置にいる人間の指示には従うのが「当たり前」である。そのような一般的な権威を受入れ、どんなことであれ公的な指示であれば従うつもりであるという動機づけの一般化が成立するのは、各メンバーは、そのことを受入れメンバーになることによって自分の報酬が約束される、それも貨幣という一般的なものによって報酬が与えられるからである。

つまり、メンバー資格に一般的権威の受容が含まれ、メンバー資格が貨幣報酬を保証する、というメンバー制度によってなりたっている状況なのである。

しかしながら、メンバーというものに重きを置かないバーナードには、メンバーというカテゴリーが果たす機能が見えない。それゆえ、「権威上位説というフィクションが現実になる」というかたちで組織における権威の状況を押さえることになっているわけである。

ただし、バーナードも、協働における権威の問題の関与者は、組織のメンバーであって、広い意味での貢献者ではないことは認めている。

このような事情(権威はあくまでも明確に組織されたシステムの内部にある何ものかと関連していること)は、組織コミュニケーションにおける権威の性格はコミュニケーションを受ける人々の同意の可能性にあるという事実から生ずる。だからただコミュニケーションはただ組織の貢献者、すなわち「メンバー」に送られるのみである。すべての権威あるコミュニケーションは公的であり、組織行為のみに関係するから、その行動が協働システムの中に含まれない人々にとっては意味をもたない。

ここで言う同意がどのように形成されるのか、その点でバーナードはメンバー制度の意義を軽視しているということができるだろう。

さて、このように、バーナードの権威受容説は、組織におけるメンバー制(メンバー資格)と貨幣という報酬手段の意義を軽視したことから、いささか混乱したものにはなっているのだが、コミュニケーションにおいて受容者が受容することの重要性を指摘した議論としては、その意義は大きいと考えることができる。人間のコミュニケーションは、受容されて初めて現実のコミュニケーションになる。発話と受容が連結して起こることがコミュニケーションなのであって、発話だけで済むように思えるのは、そのようにしている制度的なメカニズムが作動しているからだ、という議論として一般化できるだろう。

さらに、先ほども少し述べたように、指示・命令に「従う」とは、そこで伝えられたことを、受容者が行動の次元で現実化しなければならず、その現実化においては、受容者個人がおかれている様々な状況(多層的な秩序)に個人的裁量によって対処するしかない部分がある。つまり、言われたことを「きちんとやる」ということの「きちんとやる」部分は、各人の裁量なり判断なりが必要不可欠であり、その部分を無視することは組織を考えるさいには不可能である。役割分担とは、各人が一つの役割を担った下位システムとして行動するということであり、システムとしての自律性や裁量がいやおうなく入り込み、不可欠である。そして、各人が下位システムとして行動するからこそ、環境や状況の変化や多様性を吸収しうるのであって、そのことが役割行動の連鎖としての組織の環境適応の基盤となる。その点で、命令・指示とは、リモコンのスイッチを押すのとは全く違うという、このように言えば当たり前のことではあるが、そのことを論じた議論として、バーナードの権威受容説の意義がある。

(以下、未完)

公式組織と非公式組織

道徳と責任

関連ページ