権威とフィクション
−バーナードの権威理論におけるフィクションの機能−

福井県立大学・経済学部 田中求之


0 このページについて

ここに掲載されているのは、『福井県立大学論集』2号に掲載された論文の原稿である。実際に掲載されたものは、このページのものとは内容が異なる。

*この論文で取り上げているバーナードの組織論そのものについて関心がある場合には、田中によるバーナードのコメンタールなどの一覧をまとめてある以下のページを参照のこと:


1 はじめに

現代の組織理論の成立において、バーナードの『経営者の役割』が多くの貢献をなしたことに異議を唱える人はいないであろう。組織を「仕事のシステム」としてだけではなく、それが「人間行動のシステム」であること、人間の行動が協働システムとして営まれてはじめて仕事のシステム足りうることを明確に示し、人間と組織の問題についての考察の礎を築いたのが『経営者の役割』である。我々の毎日がますます多くの組織との関わりで営まれるようになった今日、我々自身の在り方を問うことが組織の中での我々の在り方を問うことに等しいかに思える今日、様々な問い掛けを繰り返し投げかけるべき古典として『経営者の役割』はある。

この書においてバーナードが唱え、その後の組織理論に大きな影響を与え、今なお議論の対象となっている概念や説は少なくないが、その中の一つとして権威受容説をあげることができるだろう。「一つの命令が権威をもつかどうかの意思決定は受令者の側にあり、『権威者』すなわち発令者の側にあるのではない」(1)として、権威は命令が受け入れられない限り成立しないとし、通常の上位権威説をフィクションであるとして批判したのである。つねに組織における個人というものを考える必要性を説き、組織が存続するには、単に目的の達成度としての有効性が満たされるだけはだめなのであって、協働に加わっている個人一人一人が満足を得ること(バーナードのいう能率)も必要であると説いた彼にしてみれば、協働の場面での命令伝達とその受理という相互行為においてすらも、個人の行為となって実現しないかぎり意味がないとしたのは、当然のことであろう。この権威受容説は、バーナードの理論の特徴を強く表したものであるとして、バーナード組織論の基本テーゼの一つに位置づけられる。

権威が問題となる場面、つまり命令の伝達とその受容の場面は、組織的行為が個人の行為として実現されていく基本的場面であると捉えることができる。それゆえ、権威の問題は、必然的に組織の実現を巡る問題でもある。バーナードが権威を受容に根拠付け上位権威説を批判したのも、権威を行為の実現の問題という観点から捉えていたためだと考えられるが、この権威受容説において我々が注目したいのは、上位権威という「フィクション」についてのバーナードの記述・見解である。彼は、権威に関する理論としては上位権威というものをフィクションだとするのであるが、その一方で、上位権威というフィクションは、協働を行なっている人々の動機に働き掛けるための用具であるとし、組織の管理にとって必要なものであると述べているのである。上位権威がフィクションであるとは、それが全くの意味のない戯言であることを意味しているのではないのだ。管理のためには、フィクションが積極的に用いられるのである。端的に言うならば、現実(権威受容説)を管理するためにフィクション(上位権威)が用いられる。フィクションはコミュニケーションを通じて作用するしかないわけであるから、ここにはコミュニケーションを通じた管理作用の問題が説かれていると考えられる。そこで、我々はバーナードの権威に関する理論、『経営者の役割』第12章「権威の理論」において、彼が上位権威説をフィクションであると批判する議論を再検討することで、命令伝達という組織におけるもっとも日常的な相互行為の場面において、いかに組織の管理機能が個人に作用しているかについて確認したうえで、そこにおいて上位権威というフィクションがいかなる管理機能を果たしうるのかを検討する。そのことを通じて、組織の管理における言葉をめぐる管理作用の一環が明らかになるであろう。


2 相互行為と権威

バーナードの理論の検討にはいる前に、まず我々が権威の問題を論じるにあたっての、枠組みを設定しておこう。我々は、相互行為において権威が成立する条件、つまり命令/服従という相互行為がなされるために個人に対して行使される管理作用に焦点を絞る。相互行為という場面において、現実において協働が成立する契機、組織が実現する条件が、端的に示されると考えるからである。権威の成立は組織の実現なのである。

いかなる組織と言えども、そこで行なわれ組織の構成要素をなす行為は、協働に集っている人々それぞれが行なう個人の行為である。バーナードが繰り返し協調しているように、組織の構成要素は行為であって、個人そのものではない。個人は組織にとっては外的なシステムとして存在する (2) 。この外的なシステムに働き掛けて行為連鎖を形成することによって組織が現実のものになるのである。組織の目的の達成は、個々人の行為を通じて実現されるほかない。それゆえ、人々の相互行為を目的達成に向けて繋げること、目的−手段という合目的的な行為の連鎖を形成することが組織形成・維持の要であり、管理の問題は最終的にはすべてこの行為連鎖の形成に行き着くはずである。

権威が問題となる命令の伝達とそれの受理という場面は、まさにこの合目的的な行為連鎖が実際に形成される場面なのである。関係をもたない独立した個人の間で命令/服従というコミュニケーションが成立する可能性は極めて低い。極端な情況においては、そもそもコミュニケーションが成立すること自体がかなり不確実であるとすら言えるだろう。初対面の人にいきなり「…をやれ」と言われて素直に従う人間はいないであろう。対照的に、組織の中で人に言われたことに従うというのは極めて日常的な場面である。つまり、人間の相互行為が孕んでいる、最悪の場合はディスコミュニケーションに行き着く複雑性・不確定性は、ここでは消去されている。上司の命令に部下が素直に従うことがいつでも確実ならば、このとき部下は、単に組織目的の達成に必要な機能を具体的行為に変換するだけの機械と見なせるのであり、命令伝達は文字通り、言葉として指示を伝えるだけの問題となる。しかし、上司−部下という役職の関係にたって行なわれるコミュニケーションも、それが二人の人間が行なうコミュニケーション、相互行為であることには間違いないのであり、個人対個人の相互行為が原理的に孕んでいる複雑性、不確定性が何らかのメカニズムで処理されて、自然な伝達行為として進行しているように見えるのだと考えられるのである。そのメカニズムこそが管理のメカニズムであり、組織を成立させているものだ(3)。言い換えれば、命令/服従という相互行為が「自然なもの」として行なわれていく、そのことが組織が成立しているということであり、我々が組織に管理されているということなのである。個人の相互行為という不確実性のはらまれた場面と、命令/服従が自然に行なわれる場面との差異こそが、組織の存在すること、管理作用が働いていることの証である。端的には、組織はこの差異として存在していると言ってもよい。

この差異=組織は、個人によって命令が受けとめられて服従的行為がなされることによってしか成立できない。バーナードの権限受容説が意味していることの本質はここにある。極論すれば、命令が発せられる場面において、その都度、組織が成立するかどうかが賭られているのである。行為を直接に合目的的連鎖に組み上げることは不可能であり、組織成立には、個人という外部システムを媒介とせざるを得ない以上、この不確定性は、組織が本質に孕んでいる問題である。この人間の相互行為の持っている不確定性を縮減し、命令を受けた個人が自然に行為するように仕掛けることが管理の問題である。バーナードが上位権威をフィクションだとしながらも、それが用具として必要であると述べたのは、上位権威という概念が、管理のための一つの概念装置の役割を担うからであると考えられる。それゆえ、我々にとって、命令/服従という場面において、この組織成立のための管理作用がいかに作動しているか、いかなる装置を用いているかを確認することが課題となる。

ここで、命令/服従行為の根底にある、人間の相互行為について確認しておく必要があるだろう。我々の作業は、人間の相互行為が機械的な反応の如くに営まれるための管理作用を明らかにすることにある。そのために、独立した個人同士の行なう相互作用を、権威の問題を捉えるための規準点として設定することにしよう。

『経営者の役割』のなかでバーナードは、人間の行なう相互行為について、人間有機体の「社会的関係」として次のように述べている。

「人間有機体間の相互作用は、たんなる物体の相互作用、または物体と有機体との間の相互作用とは、経験や適応性を相互に持ち合わせている点で異なるものである。必要な適応と経験は、各有機体それぞれに固有の諸要因によって決められる物や機能に関連するだけではなくて、反応や適応それ自体が相互に作用することにも関連する。換言すれば、二つの有機体間の相互反応は、適応的行動の意図と意味に対する一連の応答である。」4)

我々の議論にとって注意すべきポイントが提示されている。

まず、人間の相互行為は「経験や適応性を相互に持ち合わせている」こと、さらに「反応や適応それ自体が相互に作用する」、このことによって、両者の間の関係そのものが行為の意思決定の際の主題となるということがある。相手の行為とそれに対する自分の行為とがどのような関係として位置づけられるのか、どのような関係を形成することになるのかといった、行為のコンテクストでの位置づけが「意味」として問われることになる。また、受手である自分のこれから行なう行為に関する相手の予期、私が彼の行為をどのように受けとめどのように引く継ぐかといった私の意思決定に関する相手の推測と期待が、すでに相手の行為の際の意思決定には含まれているのであり、相手の行為はそれらに関する彼の判断=選択の提示でもある。意図に応答するということは、そこで考慮されたであろう条件を含めて、彼が選択し/選択しなかったものを推定したうえで、自分の選択を行ない行為するということである。これらの意図と意味は、当然のことながら、客観的に一意的に決定できるようなものではない。言語を媒介とする主観的・意識的な了解・理解とならざるを得ない。行為は言語による分節によって行為として確定され、受け継がれる。言語が介在するのである。

この言語の介在ということに関連して、先のバーナードの言葉では述べられていない、相互行為に関する重要な問題がある。それは、選択(意思決定)に関して、常に問い掛けがなされる可能性があり、それに応える覚悟が必要だということである。行為の選択に当たっては、暗黙のうちに、「おまえは何をやっているのか?」という問い掛けの可能性を考慮にいれ、それに応えるための説明(それは言語として表明できるものでなくてはならない)を確認することになる。自己の行為が「正当な」行為として受容されるためには、行為に関する言説のなかに自分の行為をうまく収められなければならない。自分の行為に関して、説得的な説明が行なえなくてはならないのである。つまり、自己の行為に関しても、意図と意味を予め想定しうるとき、はじめて個人としての主体的選択が可能になる。自己と異なる主体に向かって行為する際は、他者からの問い掛けを先取りした、言語的(概念的)な自己了解を強いられるのである。

人間が営む社会的な相互行為は、原理的には、以上述べてきたような複雑なものなのである。極端に言えば、このような複雑性を抱えているが為に、すべての条件を考慮にいれて意思決定を行なわないとすれば、そもそも相互行為は営めないと言えるだろう。我々が日常生活において相互行為を営んでいられるのは、日常行為が既に何らかの組織のもとで営まれているからなのである。そして、相互行為の複雑性からもっとも遠い場面こそが、権威が問題となる命令の伝達とそれの受理という場面なのである。


3 権威の定義と受容条件

それではバーナードの権威の理論の分析に取り掛かろう。

バーナードは権威について次のように定義している。

「ここで権威とは、公式組織における伝達(命令)の性格であって、それによって、組織の貢献者ないし『構成員』が、伝達を、自己の貢献する行為を支配するものとして、すなわち組織に関してその人がなすこと、あるいはなすべからざることを支配し、あるいは決定するものとして受容するのである」(5)

この定義において、権威が伝達の性格であるといっているのは、権威があらかじめ伝達に備わっている強制力だと言っているのではない。権威は、命令が受容されてはじめて事後的に確定される性格だと言っているのである。端的に言うなら、権威は備わっているものではなく、確認されるものなのである。この点をバーナードも協調している。

「もし命令的な伝達がその受令者に受け入れられるならば、その人に対する伝達の権威が確認あるいは確定される。それは行為の基礎と認められる。…。それゆえこの定義では、一つの命令が権威を持つかどうかの意思決定は受令者の側にあり、『権威者』すなわち発令者の側にあるのではない」(6)

権威は、あくまで命令/服従という行為が完了した時点で、両者の行為の接続のパターンを示すものとして確定・記述されるものなのであって、特定の職位や階層、あるいは個人や行為が持っている力ではない。権威が"在る"のではなく、命令/受容という権威的な相互行為がなされうるだけである。行為がなされたときに、それを媒介した要因として、そのような行為の接続が可能になったコンテキストとして、権威が語られうるのである。それゆえ、バーナードの権威に関する理論は、命令/受容という相互行為がなされるための理論として展開されることになるのである。

バーナードは権威を考察するに当たって、定義に基づいて権威を2つの側面に分ける。(1) 主観的側面:「伝達を権威あるものとして受容すること」。(2) 客観的側面:「それによって受容される伝達そのものの性格」。そして、この二つの側面のそれぞれにおいて命令が"権威を持つ"ための条件を明らかにするのである。われわれは、このうち、権威の主観的側面に絞って考察を進める。

協働に集っている人々は、すでに共通目的を承認しており、その目的のために自分が貢献することによって最終的には自分の得になると判断している。この点において、たとえば全くの初対面の人間が相互行為する場合とは決定的に情況が異なっているのは確かである。基本的に協働することは了承されている。しかしながら、そのことが、ただちにすべての組織のための行為を担うことを意味するものでは決してない。具体的に行為がなされるためには、その時点において行為することが主観的に選択されなければならない。現実に組織が実現するかどうかは、個々人の主観的な選択に決定権がある。それゆえ、組織を実現するためには、命令が受け入れられるようにしなければならない。この命令の受容の条件と、命令/受容が滞りなく繰り返されるための条件を論じたのが、権威の主観的側面の問題である。「個人に対する権威を確立するためには、どうしてもその個人の同意が必要である。」そこで、個人が命令を受容する条件として次の4つがあげられる。

(a) 伝達の理解可能性:「伝達を理解でき、また実際に理解すること」
(b) 目的との整合性:「意思決定に当たり、伝達が組織目的と矛盾しないと信ずること」
(c) 個人的利害との整合性:「意思決定に当たり、伝達が自己の個人的利害全体と両立しうると信じること」
(d) 伝達の実行可能性:「その人は精神的にも肉体的にも伝達に従いうること」

受令者が、命令を理解でき、それが組織全体の目的達成のために役立つものだと理解され、命令の指示する行為を行なうことが自分の利害に反しないと考えられ、その行為を行なう能力が受令者に備わっているならば、命令は行為として遂行されるというわけである。(b)、(c) の条件の示すように、受令者の意思決定に、最終的に権威の成立は依存する。ここでバーナードが「信じること」という表現を用いていることに注意しよう。これは意思決定の拠り所となる目的との整合性や利害との整合性についての判断が客観的なものではありえないということを意味している。つまり、命令=行為自体に対して判断が下されるのではなく、行為の意味に対して判断が下されるのである。それはコミュニケーションを通じて行なわれる言説的な意味づけ、目的や利害に関する説話に依存する。端的に、組織の"物語"に依存するといってもよい。ここに受令者に対して、外部から働き掛ける余地が生じる。

判断そのものはあくまでも個人が主観的に行なうのであり、判断そのものを直接に管理によって変えることはできない。個人が組織に対して持つ外部性は、この受容条件からも明らかなように、意思決定・判断を行なう個人の主観性におかれている。個人は、判断する主観、意思決定の主体として、組織の外部に立っている。しかし、個人の主観性、あるいは意思決定は、言語的コミュニケーションという媒介によってのみ成立しうるものである。言語的コミュニケーションの網の中の結び目のようなものである。それゆえに、組織にとっては、判断の基礎となる意味を操作することで、間接的に主観に対して働き掛ける余地があるのだ。いわゆる説得である。説得によって、命令の指示している行為を、受令者が納得する文脈に位置づけることができれば、納得の行く物語を紡ぐことができれば、命令は遂行される可能性が高くなるわけである。


4 無関心圏

目的の達成のためには、様々な行為が行なわれる必要がある。原理的には、これまで見てきたように、行為の一つ一つに個人の意思決定が介入するわけであり、それゆえ諸行為が連鎖することは危ういとすら言える。しかしながら、現実には多くの組織的協働が滞りなく行なわれている。この情況は何によってもたらされるのか?何が持続的な協働(命令/服従の連鎖)を可能にしているのか?この問に対してバーナードは次のように答えている。

「そこで当然読者は尋ねるであろう。もし原則的にも実際的にも権威の決定が下位の個人にあるならば、われわれの見るような重要かつ永続的な協働の確保がいかにして可能なのかと。それは個人の意思決定がつぎの条件でおこなわれるから可能である。(a) 永続的な組織において慎重に発令される命令は、通常前述の四条件と一致している。(b) おのおのの個人には「無関心圏」が存在し、その圏内では、命令はその権威の有無を意識的に反問することなく受容しうる。(c) 集団として組織に貢献している人々の利害は、個人の主観あるいは態度に、この無関心圏の安定性をある程度まで維持するような影響を与えることとなる。」 (7)

(a) については論じる必要はないだろう。命令が先ほどの条件を満たしていれば、意思決定による選択を経て命令が受容され、権威が確立し、行為が遂行されることになる。慎重さを欠いた命令は拒否され、組織は失敗する。いわゆる権威の乱用といわれる事態がこうした失敗に当たる。

(a) としてあげられた条件が、意思決定を経て行為がなされるための条件であるのに対し、(b), (c) としてあげられている条件は、受令者による選択を回避することで行為が遂行されるという条件である。繰り返しになるが、命令が受容されなければ、権威も確立しなければ、行為も遂行されないというのが、権威受容説の基本命題である。命令が受容されるための最大の課題は、受容者の意思決定によって選択されなければならないということである。しかし、もしこの選択そのものを回避しうるなら、命令の受容は、文字通り、命令を受け取るだけのことになり、行為は予想どおりに連鎖することになる。組織にとって個人のはらむ外部性とは、個人の意識であり、個人の意思決定=選択である。それゆえ、意思決定を回避できるならば、個人の外部性=主観は実質的には存在しないことになり、組織にとって個人はもはや対処するべき問題ではなくなる。このような事態が起こる理由として無関心圏というものが示されるのである。

無関心圏(zone of indifference)については、バーナードは次のように述べている。

「受令者はこの圏内にある命令はこれを受け入れるのであって、権威の問題に関するかぎり、命令がなんであるかについて比較的に無関心である。このような命令は組織と関係を持ったとき、すでに当初から一般に予期された範囲内にある。」 (8)

バーナードは、個人には無関心圏があるということは言っているのだが、なぜそれが個人の中にできるのかという点については、明確には述べていない。この無関心圏は協働に参加する際の共通目的の承認によって個人の意識にもたらされる効果であると考えるべきであろう。ある目的があるとき、それを達成するにはどのような手段が選択され、どのようなことがなされなければならないか、ということに関して、過去の体験や社会的な説話、あるいは教育によって、諸個人の間には一定の共通理解のようなものが存在する。少なくとも、目的が示されることで、それに対して合理的・合目的的な手段と、そうではない手段とを分けることが可能になる。つまり、目的は行為に関する判断の規準となるのであり、行為の意味づけを行なう規準となるのである。

我々が最初に想定したような独立した個人同士の相互行為の場面において、行為の接続を危ういものとし、情況を複雑なものにしているのは、各々が行なう主観的な選択における判断規準、いわゆる行為の意味付けの規準が、各人によって異なるということである。他者とは、己と異なる価値観を持った主体的存在である。しかし、共通目的の承認によって、ある種の客観的な意味が成立することになるのだ。目的、そしてそれを基点として展開される機能のシステムは、合目的であるかどうかという規準で、どの参加者個人の価値体系にも依存しない形で、そこで行なわれる行為を、意味づけることを可能にする。個人が行なうべき選択を、目的−機能図式が予め行なうのである。このことによって、目的を承認した個人は、自分の責任において意味判断を下さなくても、目的−機能図式によってあらかじめ分節化されている意味を確認すればよいことになる。かくして、目的−機能図式に明確に合致するか、合致すると説かれている行為については、選択せずにただ受容する。これが無関心圏の成立である。

組織の行為が実現するか否かが賭られた命令/受容の場面で、共通目的の承認が無関心圏という効果を個人にもたらすことによって、組織の成立の可能が飛躍的に高まることになる。しかし、無関心圏を成立させるためには、ただ共通目的が存在しているだけでは不十分である。それが目的として各個人によって主観的に承認・認知されなければならない。ポイントはむしろ、この個人による目的の受容にある。ある概念が、参加者の間で組織の共通目的として受容されれば、この受容によって無関心圏が成立する。ここでも重要なのは目的そのものよりも、その受容なのである。共通目的に関しても受容が重要であることを、バーナードは次のように述べている。

「協働の基礎として役立ちうる客観的目的は、それが組織のきめられた目的であると貢献者(もしくは潜在的貢献者)によって信じ込まれている目的である。共通の目的が本当に存在しているという信念をうえつけることが基本的な管理機能である。」(強調はバーナード) (9)

ここで、目的そのものの内容より、目的の存在することの承認を取付けることの重要性をバーナードが説いていることに注意しよう。目的の機能が問題になっているのだ。目的が受容されるとは、合目的な図式、目的を頂点とし目的−手段連鎖からなる行為の方向づけの体系が受容されることなのである。行為の方向づけとは、還元すれば行為の意味の体系である。かくして、個人の主観は、一定の方向づけを持った主観性へと縮減される。その結果、行為の意味は個人の判断以前に確定したものとして受けとめられ、ポジティブな意味を負ったものは遂行されていくことになる。このように、共通目的の受容は、無関心圏の成立という形で、個々の命令の受容を先取りすることになる。目的の受容によって、本来ならその場毎に行なわれる命令/受容の選択行為を、一括して先取りし、あらかじめ一定範囲のものを承認させることが可能になっているのである(10) 。


5 上位権威というフィクション

目的の受容によって成立している無関心圏を、さらに安定的・持続的に保つ要因が組織においては作用している。それについて述べたのが、先ほどの(c)である。

無関心圏の確立においては共通目的が重要な意義を持っていたが、その維持・強化に作用するのは、個人の利害関係とそれに基づく集団意識である。個人は、組織の目的の達成が自分にとって得であるからこそ、目的を承認し、協働に参加する。協働の持続と達成の成果として個人へと分配されるものを得ることが、個人が協働に参加する動機である。この組織からの見返りは、個々の行為に対して直接支払われるものではない。誘因と貢献は直接に交換されるものでないのである。それゆえに、自分の貢献に対して見返りを得るためには、協働全体が遂行される必要があるのだ。「したがって、いつでも大部分の貢献者間には、自分らにとって無関心圏にある命令は、すべてその権威を維持しようとする積極的な個人的関心がある。」 (11)  この組織の利益を積極的に守ろうとする関心は、協働に参加している皆に共有されることで、規範として作用することになるのだ (12) 。そして、この共通利害感を形式化したものが、上位権威というフィクションであるとバーナードは述べるのである。

フィクションという言葉に込められたい意味については、バーナードは次のように述べている。

「『フィクション』という言葉を使ったのは、論理的構成の見地からすれば、しれが外面的な行為を説明するにすぎないからである。しかしながら、上級役員としても部下としても、私は「権威」ほど「リアル」なものは実際にないと思っている。」 (13)

上位権威説は、「原則的にも実際的にも権威の決定が下位の個人にある」という事実に反するものである。実際のコミュニケーションの場面においては、受容される命令が一定の条件を満たし、共通目的の承認によって個人に無意識圈が確立し、共通利害感の成立によって命令を積極的に受容しようとする個人の態度が生まれている時、はじめて命令はあたかも上位に権威があるかのようにスムーズに受容されるにすぎない。上位権威説は、この場面に働く様々な要因を消去した、外面的な描写にしかすぎないと言う意味で、フィクションだと言われる。

しかし、上位権威という概念はフィクションであるけれども、そのフィクションは現実の行為に対して影響を及ぼす。さらには、管理のために必要なフィクションなのである。この点が、バーナードのフィクションの解釈、組織におけるフィクションの機能を考えるうえで、重要な点である。バーナードは上位権威はフィクションであると述べたうえで、次のように述べている。

「このフィクションは、ただ、上位者からの命令を受け入れやすくするような予想を個人間に確立し、人格的屈従感をいだくこともなく、また同僚との人格的、個人的地位を失うこともなく、こういう命令に黙従することを可能にするにすぎないものである。」(14)

上位権威説は確かにフィクションである、がしかし、このフィクションは「命令に黙従することを可能にする」ものである。このように、バーナードは一方において上位権威説は説明的概念でありフィクションであることを説くのだが、他方、それが現実において行為を組織するために機能することを認め、このフィクションの必要性を説くのである。

上位権威というフィクションが必要とされる理由、つまりこのフィクションが組織において果たす機能として、次の2点を彼は指摘する。

(1) 上位権威を認めることで、決定の責任を上位へ委譲しうる。それゆえ、行為した自分の責任は上位に帰せられ、自分が引受なくとても良い。
(2) 上位権威によって、重要なのは組織の利益だという利害感が、客観化される。この客観化された(規範化された)利害感は、協働の参加者の動機に働き掛けて、個人的利害より組織の利害を一層優先する傾向をもたらす。

上位権威という概念によって、個人が選択の際に負うべき責任を、目的へと転嫁することが正当化され、このことによって、行為に従うという選択に関しては、個人で責任を負わなくて良くなる。権威の源泉が目的であることによって、命令の目的との整合性については判断する必要がなくなるのである。つまり、上からの"権威ある"命令は、「伝達が組織目的と矛盾しないと信ずること」ができる。一方で、行為の動機となっている利害そのものが、組織を維持する方向へといっそう拘束されることになる。組織の利益が自分の利益であると信じるならば、「伝達が自己の個人的利害全体と両立しうると信じること」が可能になる。かくして、上位権威説によって命令の受容の条件が満たされる方向へ個人の方が誘導され、組織の命令が一般的に無関心圏に入ることになる。この結果、伝達された命令について個人の主体性で選択を行なう情況、つまり権威そのものの正当性が問い直されるような情況が、積極的に回避されることになるのだ。

先に個人が主観として主体的に選択を行なう場合は、つねに選択の正当性の了解が要求されるというということを指摘しておいた。上位権威説を受け入れた個人は、上位権威という理由付けを利用して、この主観性の負荷から主体的に逃れることが可能になるのである。それゆえ、予め承認した目的のもたらす合目的図式に収まるような意味づけが可能な命令・行為であれば、個人は積極的に権威上位説に従って行為するだろう。さらに、上位権威説が行為の理由付けとして受け入れられているならば、命令の意味判断すら積極的に回避することが可能になる。このようにして、上位権威という概念は、それが実際の行為の場で用いられることによって、上位権威がリアルに感じられるような情況を作りだすことになる。


6 フィクションの機能

そもそも上位権威がフィクションであると言われたのは、現実においては、権威は個人の主観に関わる人格的な問題であって上位権威説が想定するような非人格的な体系の問題ではないからであった。上位権威説が生まれてくるのは、我々が追ってきたバーナードの議論から明らかなように、さまざまな条件が満たされ、目的や利害関係、あるは非公式組織の共同体としての作用、といったいくつかの要因が個人の主観に作用するからであった。

しかし、個人が外部の主観であるとはいえ、その主観性を支えているのは言語的コミュニケーションを媒介とした様々な意味体系であり、個人はこの意味体系に拠ってしか主体的足りえない。ここに管理が介入する余地がある。諸個人間の関係、情況、コンテクストといった"全体"を記述する抽象概念を言葉として個人へ送り返していくことで、関係を誘導・安定化させられるのである。抽象的概念は、実在の対応物を持たず、観察者の視点にのみ依存するという点でフィクションである。しかし、この抽象的概念がコミュニケーションの場にもたらされ、その概念を媒介にして現実の営みの了解がなされていくとき、この抽象概念はフィクションだが現実的なものになるのである。上位権威というフィクションは、まさにこのような抽象的だが現実的な概念なのである。権威が問題となるような相互行為が上位権威によって処理され、そのことで組織が維持されるならば、上位権威説は理論的にはあくまでフィクションでありながらも、きわめてリアルなものになるのである。概念によって、現実が産み出され、結果として現実が概念を事後的に正当化するという循環がなりたつのだ。この循環は、循環することじたいによって自己を正当化している。組織が遂行されるかぎりにおいて、いっそう組織を維持する作用が強力に働くようになる。これこそ、組織の制度化メカニズムに他ならない。我々はバーナードの権威の理論に、組織を維持するために作用するコミュニケーションの制度化作用を見出だすことができるのである。

この管理作用を端的にまとめると次のように定式化しうるだろう。

いかなる組織であれ、その具体的な行為は、協働に集った人々の個人的な行為として営まれる。個人が行なう行為とは、他者との意図と意味に対する応答としてなされていく。命令を受けた個人は、主観的な条件をもとに意思決定を行ない、命令に応答する。命令に従うことが選択されたとき、そこに権威という関係のパターンが成立する。この権威という関係のパターンについての情報を、共通目的と利害関係に関連づけた上位権威概念として言語化し、それを相互行為の場面へと埋め込むことによって、結果であるもの(上位権威)がコンテキストとして続く行為の基礎(意味判断の規準)に繰り込まれ、結果的に初期状態の不安定性(相互行為の複雑性)から相対的に独立して、関係のパターンが再生産されていくことになるのだ。権威という関係のパターンが、それを記述した概念によって維持されるという、循環的定常状態が成立するのである。

この作用は、我々の行為が「意図と意味に対する一連の応答」として言語的な意味を媒介とて営まれるゆえに作用しうる。フィクションの概念であれ、抽象的な概念であれ、その概念を媒介にして我々の具体的行為が了解され、受容されていくならば、その概念は現実的なものとなる。コミュニケーションが組織において果たす機能は、単に命令を伝えるというだけではない。進行する組織そのものに関する情報が概念としてフィードバックされることで、組織を維持する「事実」を産み出す作用も担っているのである。フィクションを語るメタ・レベルの観察者の言語が、そのまま具体的行為の現場=オブジェクトレベルに繰り込まれるという循環を通じて、フィクションが現実的であるような定常状態が産み出される。複雑性をはらんだ個々の行為の場面に、了解の媒介として、抽象的な概念、フィクションを送り込むことによって、フィクションとして記述された組織が、自らを実現していく。フィクションの創出によって積極的に現実を組織していくこの作用も、組織のリーダーシップが担う重要な創出機能として検討されなくてはならないだろう。

言語が持っているこの「事実」を産み出す作用、コミュニケーションの中で主観に作用し現実を産み出していく作用について、バーナードは管理の問題としては明確には述べていない (15) 。コミュニケーションを言語による管理作用として読み解くことが我々の次のステップであるという確認をもって、本稿を結ぶことにしたい。


1) Barnard, C. I., The Functions of the Executive, Harvard University Press, 1938. 山本安次郎・田杉競・飯野春樹訳『経営者の役割』ダイヤモンド社、昭和43年。(以下 Functions と略す。また、引用は訳書のページで記す。)p.171.

2) 組織の構成要素は個人ではない。それゆえ、組織と個人の関係の問題は、「全体と個」という問題ではない。このことは強調しておかねばならない。

3) 世界の複雑性をもとに、その縮減として社会システムの理論を展開した論者としてN・ルーマンがいる。本稿は、ルーマンの説に直接依拠するものではないが、彼の次の著作から多くの示唆を得ている。Luhmann, Niklas, Vertrauen, ein Mechanismus der Reduktion sozialer Komplexitat, 2. erweiterte Auflage, 1973. 大庭健・正村俊之訳『信頼』勁草書房、1990.
また、この書の訳者でもある大庭健の次の2冊の著作からも多くを得ている。
大庭健『他者とは誰のことか』勁草書房、1989。『権力とはどんな力か』、1991。

4) Functions, p.12

5) Ibid., p.170

6) Ibid., p.171

7) Ibid., p.175

8) Ibid., p.177

9) Ibid., p.91

10) バーナードは別のところで権威と目的に関して次のように言っている。
「その最も目につきやすい形では、権威は目的の別名である。二人の人間が協働し、そしてどちらも他を監督しないとき、彼らの自由を制限し、イニシアティブを制約するものは目的である―それはまさに、協働をしていない個人的行為をも支配するものである。しかし、多くの人びとを支配するもの、というより広い意味では、目的は権威と呼んだほうがいいだろう。」(Barnard, C.I., 「社会進歩における不変のジレンマ」、W.B. ウォルフ・飯野春樹編/飯野春樹監訳・日本バーナード協会訳『経営者の哲学』文真堂、1987。p.49.)

11) Function, p.177

12) バーナードはこの部分で「(集団を維持しようとする)この関心の維持は主として非公式組織の機能である」( Functions, p.178)と述べている。集団であることから生じてくる作用、相互行為の時間的反復の作用については、彼の非公式組織の議論を検討しなければならないが、ここでは省略する。ただ、非公式組織が、特に組織の持続、制度化の問題を考えるうえで重要な機能を担っていることを指摘しておく。

13) Ibid., p.178. 注(5)

14) Ibid., p.178

15) 理論構築の際の認識論的問題として展開したものはある。例えば、『管理と組織』第V章「組織の概念」において、次のような記述がある。
「…、観測された証拠と理論から直接推論することができるという意味での事実ではないが、一般的知識、理論、経験、物事のセンス、想像力などの産物としての観念ないし概念がある。そういう概念は、説明を与えるための一環として、すなわち理論を作るための一環として、恣意的ではないにしても経験とは無関係に、いわばまったくの仮構から作りだされている。…。それらが果たす役割は観念と事実を組織することである。」
(Barnard, C.I., Organization and Management : Selected Papers, Harvard University Press, 1948. 飯野春樹監訳・日本バーナード協会訳『組織と管理』文真堂、1990. p.132.
さらに、そもそも組織というバーナードの中心的な概念が、論理的には、観察者の立場からする記述的な概念(仮説)であるということを忘れてはならない。抽象的な概念、端的にいうと全体を記述した概念を、ミクロな行為の場面に送り返すことによって、現実そのものを組織していくという管理作用は、バーナードの『経営者の役割』自体が目的としている作用であるとも言えるのである。